使徒との邂逅


 きっかけとなったのは、逍遙する第一使徒──ツァーリオから面会を乞う書簡が届いたことだ。

 滑らかな獣皮に焼き付けたように刻まれた内容は、場所と時が示されていた。


 ──東の山巓にこれより三昼夜の滞在をする。

 スコルの子と面会したい故に、寄越すように──と。


 特段に事情の説明など無い推参な文面だったが、酋長は畏まって使者となった猛禽を厚遇した。このとき飛膜ではない羽ある翼を持つ鳥を初めて目にしたが、眦の厳しさが印象に残っている。


 こういう経緯で、僕は目的の頂を目指し歩き続けている。目を細めれば、白く煙る景色の向こうに、うっすらと稜線が見える。しかしそれもすぐに掻き消えた。山の民を自認する者にとっても、ここはとっくに未踏領域と呼んで差し支えない場所になる。


 父に付けられた二名の伴連れとは、随分と前、雪が溶け残る中腹付近で別れた。集落の若衆の中でも酋長への忠誠厚いこの者らは、三昼夜、仮の洞を掘って番をすることとなる。僕の帰還を待つために。あるいは帰りの刻限を過ごした場合には、その報を父に持ち帰るためにだ。


 山脈を遠目に眺めれば、なだらかな山容と言えなくもない。だが山裾から中腹に至るまでは、猛獣が跋扈する危険な地域であり、そこからは急激に気候が変化する。

 褐色の巨人の肩に巻かれた純白の帯。生ある者を遠ざける拒絶の境界線を、僕は踏み越えていく。


 僕は自らの出自について、父から詳しく聞かされていない。ただ呪師から教わった拙い占術で、自分自身を鑑定したところ、自らの現在の年齢が三歳であるということが分かった。

 僕と同年代の者を集落で探そうとすれば、皆稚児と呼ぶしかない者ばかりである。

 外見上に同じく見える者らは、十は歳が離れている。にも関わらず彼らは僕に対して、深く畏れるように振る舞うのだ。年長の者を敬うスコルの族掟ぞくじょうからすれば、滑稽と感じたが、近頃は酋長の息子に対する態度なのだと思うようにしている。


 そういうわけでか、同年代の友人と呼べる存在を僕は持っていない。いつの間にか講義の時間を過ぎても、最長老の呪師と苔茶を手に語らう時間が延び、半日を越えるようになった。それを憂えた父が連れてきたのは、生後間もない狼であった。

 山脈に生息する猛獣らの中には、神剣の異様に平伏して、進んで馴致されるものがあった。熊、鷹、狼などがそれである。恐らくは繁殖させた狼を預かってきたのだろう。


 つるりとした無毛の表皮に、部族階級における従属を示す文様墨を入れられた狼を僕はリーコスと名付けた。以来、リーコスは寝食をともにし影のように付き従う相棒となった。今ではその体躯は僕の背丈を超えた。熊と取っ組み合いをして勝つ狼など、他にはいまい。

 ただ本来であれば群れで過ごす生物であろうに、スコルの子の孤独を癒すがためだけに引き離された点については思うところがあった。


 クリソピアトから略奪した貴重な毛織物を外套のように纏っても、末端部の防寒具を突き抜けて寒さが凍みてくる。この未踏領域には無毛生物は生息しない。酷寒と吹き荒ぶ風に、体温を維持できないからだ。


 だから、それは当然の帰結と呼んで良い出来事だったのだろう。

 初めて主から留守を命じられた一匹狼が、後を追って集落を出たことも。

 追いつく頃には四肢は凍傷にかかり、それでも走り続けた結果として酷く裂け、衰弱しきったことも。


 覚えのある吠え声に振り返れば、雪原の風紋を赤く汚しながら走ってくる相棒の姿があった。一目見て、僕は後悔した。彼を置いてきたことを。あるいは、彼から野生を奪い、僕の無聊を慰める道具に貶めたことを。


 折り悪く風は強まり、激しい吹雪が吹き始めた。リーコスの目は炯々としていたが、その体は冷え切り、四肢は黒ずんでしまっている。

 少しばかり早い時間ではあるが、これ以上進むこともできないと判断し、野営の準備を始めた。地の元素術で雪洞を掘り、手作業で周囲の雪を固めて風を凌ぐ。これもまた元素術を行使して種火を樹脂に移し、炭火を着火する。未だ戦に使えるようなものではないが、呪師に手ほどきを受けていて良かったと思う。


 相棒の四肢に軟膏を塗り薬草を巻く。少しでも温かくなるようにと患部を握りしめたが、巨体にそぐわぬ力無い反応しか返ってこない。持ち込んだ真水を沸かし、塩を溶かしたものを口移しに含ませる。嬉しげにこちらの口元を舐める様子に、少しばかり安堵した。


 夜が明ければ、背負っても下山しようと心に決めた。使徒が示した場所と時を違えても、いずれまた機会はあるだろう。今はこの相棒を回復させることを優先したい。



 ──気づくと、雪洞の入り口から白々と明かりが差し込んでいる。絶えず鳴っていた風切り音も聞こえなくなっていた。いつの間にか眠っていたらしい。

 そして、僕は深く息を吐いた。膝に抱いたリーコスの腹がぴくりとも動かない。呼吸音もない。残された温もりは、ゆっくりと失われていくだろうと悟る。


 吐き出した空気の吸い方を忘れ、荒く喘ぐ。震える嗚咽が、雪洞に反響する。昨夜の内にした後悔が重ねて身に圧し掛かる。それは生まれて初めて感じる負の感情だった。鍛えたことのない胸の内には余りに重い痛みが、繰り返し押し寄せる。


 どれほど時が経ったのだろう。差し込んでいた光は赤く染まり、風の勢いはまた強まり始めていた。リーコスの強張った体は、とっくに冷え切っていた。こと切れた身骨が、僕の脚に食い込んでいる。魂の抜けたはずの彼の体を、なぜ以前よりも重く感じるのだろう。

 リーコスの皮膚に滴り落ちた涙の跡を撫でていると、涸れたように思えたものが再びこみ上げてくる。



「随分と大雑把な手当をしたものよ──」


 草の触れ合う音にも似た、涼やかながら湿った──女の声。

 顔を上げれば、そこには濡れたように艶めく黒い滝が流れ、その間に紫紅しこうの唇が付きだしている。長く垂れた黒髪は、雪洞の闇に溶け、油断すればこちらを飲み込むのではないかと錯覚させられる。初めて見るスコルではない雌に、あるいは女の湛える不気味さに、怯えの感情が浮かんでくる。


 躊躇いなく歩みを進める女の狂気に、僕は金縛りにあったように動けずにいた。いや、実際何らかの不可思議な力に搦めとられているのかもしれない。しかし呪師から授けられた術の知識は魔道の初歩に過ぎず、己で判断する材料を僕は持っていない。


「初めまして、。」


 この女は僕の名を知っていた。いや、知られた、と言うべきか。占術に通じる術者の鑑定を防ぐ手立てなど、僕は持たない。


「君を害そうということは無い。安心しなさい。むしろ──」


 吐かれる言葉、吐息が増すたびに、雪洞の中を満たす空気が淀んでいく。熱く、とろけるように、甘い狂気。山脈を支配する押し潰すような圧力とも違う、それでいて触れる者の正気を奪う香りが頭をくすぐる。


「その子を蘇らせてあげようというのだから。」


 腐り落ちる花の──饐えた匂い。落果を踏みしだく背徳が、頬を撫でる。身体の自由はおろか、意志までも、是非もなく搦めとられる。


「ただ、私にも少しばかり、この子を分けて頂戴。」


 非常な提案が、麻痺した脳裏を流れていく。曰く、呼び戻した魂を分け合おうという提案らしい。そんなことができるのか。そもそも、死者を呼び戻すなど。

 疑うように眼差しを向ければ、女は微笑で以て応えた。


「容易いこと。我が母なるアクリダと、それを統べる大いなる太母に願いさえすれば。」


 ──望むものは与えられる。


 いつの間にか、僕は頷いていた。リーコスが蘇るというのであれば、それは喜ぶべきことで、この胸の痛みを帳消しにすることのできる最良の手段が、眼前に舞い降りているのだ。

 女は笑みを深くして、屍に紅の印を刻んでいく。死霊術の秘奥に近い術の行使を補助する、簡易の陣を敷くのだという。冥府への道行きにある魂を呼び戻す術。そこから先は神の御業に任せればよい、という。


 僕の手首ほどの、細く白い喉が震え、詠唱が始まる。


「其の主の請願を聞き届けたり──万色の大海への道程、踵を返し戻り給え──」


 膨らみあがる魔力が、黒髪を浮き上がらせ、女の端正な相貌を露にする。慈しむように無毛の屍を撫で上げる指先は、白蝋のように生気が無い。

 続いて、女は宙空に視線をやると、恭しく双手をかざす。手の狭間に在る「魂」を抱き上げるように。贄となるそれを、自らの神の御座に饗するように。


「これにある魂を半らなからに分かち、更なる半らなからを大いなる創造の太母の贄として捧げる。慈悲深き太母よ、我が母なる池沼の神アクリダよ、眷属に新たなる器を顕したまえ。」


 雪洞の内は、今や煮えたぎる狂気に満たされた。

 ともに祈るように促され、僕はその聖句を口にする。


「捧げよ──然らば、与えられん。」



 そこには、瓜二つの二頭の狼がいた。無毛の胴体に、凍傷で壊死したはずの腿から下には、黒々とした艶の良い体毛を備えた脚があった。そしてもう一頭は逆に、無毛の脚を伸ばした黒狼である。双子と言うには歪な、それでいて相似の二頭の狼を前にして、呆然とする。


「おそらくは、知っている子に近しいのは、こちらであろう。」


 そう言って、女は無毛の胴を持つ一方を押し出す。馴れた目の色は確かにリーコスのものだ。


「しかし、君に思うところがあるのであれば、を渡してもよい。」


 女の影に隠れるようにして、外を眺める黒狼に、僕は魂を裂くことの本義を感じた。彼の視線が見ているものは、あるいは嗅覚が捉えているものは、集落で生まれ、僕と暮らす内に抑圧され、失われたかに見えた野生を司る片割れなのであろう。


 いつの間にか金縛りは解かれており、僕は初めて言葉で答える。


「いえ。僕の知るリーコスは、確かにこの子です。」


 どこか見落としを残しているのではないか、と疑うような声音になってしまっていたのだろう。女はこちらを諭すように言い含める。


「安心しなさい。猟犬として扱われる分には、今の方が幸いだ。」



 ──彼女は名も告げぬまま、黒狼を伴い雪洞を出ていった。


 リーコスに以前と変わった様子はない。むしろ以前のように寒さに震えることもなく、僕の言葉に従順に従う理想的な狩猟のパートナーとなっただろう。

 しかし、この一事は後から考えて僕にとっての短い幼年期の終わりであったのだ。対等にじゃれ合う相棒としてのリーコスはもういない。それを悲しむのは、あまりに身勝手だ。



 夜が明けきらない内に、僕らは雪洞を出た。

 リーコスは伏せた姿勢を取ると、背に乗れというように訴えかけてきた。以前には騎乗だけは許さなかった彼には考えられないことだ。

 薄明を走るリーコスの背にしがみつき、勾配を駆け上がる。女の施した術が何であれ、今のところは健康そのもの、いや、以前よりも力強く感じられる。


 日が昇り、靄は晴れ、快晴の空が現れる。

 約束の山巓に辿り着いた僕らが眼下に見たものは、山岳を揺るがして飛沫をあげる雪崩だった。

 陽光を照り返す煌きの塊が、山嶺そのものが、中腹に布陣する軍勢を飲み込んでいく。自然の暴威が容赦なく、一切を打ちすえる。その先端に立ち上がり、流れに呑まれることなく、否、乗りこなす者がいた。


 遠目にも膨れ上がった巨躯は、双手に長柄戦斧を握りしめ、呵々大笑とともに下っていく。身に纏うのは擦り切れた外套一枚、それが翻るたびに黒光る肉体が躍動し、長柄を振りかざしては対峙する者を屠り去っていく。額に閃く鉄冠が、その者の正体を語っていた。


 地に付くほどに伸びた白髪と髭を振り乱す、裸身の暴威。

 彼こそ僕を呼びつけた神スコーリアの第一使徒。

 ツァーリオとの邂逅は、昨夜の出来事を吹き飛ばすだけの衝撃を持っていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る