第二章. リカルド
第1話
咆哮。
獣とも人の物とも思えぬ、腹の奥底から体を震わす咆哮が辺り一帯を支配する。
ビリビリと空気を振動させ、森林の木々を揺らす。断末魔と形容すべきその悲鳴は大きく、聞く者の意思を砕く。
だが、ただ一人その男は爛々と輝く双眸に火を灯し、断末魔の主を沈黙させんと剣を握る手に力を込める、
「―――ッ!」
言葉にならない声で肺の空気を全て使い、叫ぶ。
これで終われ、終わってくれ。と朦朧とする意識の中、両手に握り締めた柄を更に奥深くへと突き刺す。朱い鮮血が彼の顔を、胴を、脚を、全身を濡らす。
あと少し、あと少しこの剣を押し込めばヤツは沈む。そんな根拠のない確信を持って、彼は剣を引き抜く。確実に殺す為に、確実に宿敵の息の根を止める為に。それはこれまでの戦いの中で学んだ事の一つであった。容赦なく慈悲もなく確実に。彼の経験は語る、これは勝利する為に必要な事であると。
しかし、悲鳴の主がその隙を見逃すことは無かった。巨木の様な尾を自らを死へ至らせようとする外敵を排除する為に、振り下ろす。
そうだ、彼の経験はこの“地竜”との戦いで得た物、つまり宿敵である地竜がその思考を理解していない訳がなかった。
彼は気付く。ヤツより先に自分へと死が降り注ぐ事を。そしてそれを避ける術がない事を。
ああ、ここで油断してしまったか。彼の視界は赤く染まり、走馬灯が流れ――
□
「なんで黙ってたのよ!」
私はここが天下の往来のど真ん中だったということを忘れて声を荒げた。
「おい、ここは家じゃあねえんだぞ」
コウは険しい表情で眉を顰めた。私は慌てて周囲の様子を伺う。数人がこちらを不審そうに眺めていた。私は上品にはにかみつつコウの腕を抱きかかえ、人気の少ない路地へと向かう。
「それで、何でマリィとエリカが結婚していた事を黙ってたわけ?」
私が声を荒げた理由、それはコウの何気ない一言が原因だった。
コウが酔いつぶれた次の日、私たちは王都の観光に出かけていた。一応、アールも一緒にどうかと誘ってみたのだけれど、自分が居ると何かと迷惑をかけてしまいそうだから、という理由でやんわりと辞退された。聞いてから気付いたのだが、アールは私やコウと違って王都においてはその名を知らない者はいない、魔王討伐の立役者であったことを完全に失念していた。ちょっと気が回らなかったなと反省しながら二人仲良く腕を組みながら王都の中心地を一通り回っていた。次はダレの所にいこうか、それならリカルドの所にしよう、とそんな他愛もない会話をしていたその時であった。
『リカルドんとこ行くなら、マリィ達に結婚祝いを何か持っていかないとな』
コウは唐突に思い出した様にそう呟いた。半分は独り言だったのだろう、それか私も彼女が結婚していることを知っている前提で、確認の為に言ったのかもしれない。
実際は何も知らなかったのでそこそこ驚いたのだが、マリィという少女の人となりを思い起こすと、何も言わずに結婚するくらい普通だと思えた。
マリア・クランカ、通称マリィ。魔王討伐の際に私たちと共に戦った“勇者”であり親友であるリカルド・クランカ、唯一の肉親であり妹君である。最後に会った時の年齢は確か十五歳。赤毛のショートヘアーで、そばかすとぱっちりとした碧眼がチャーミングな女の子だ。少し天然な所がある、兄のリカルドと違ってとてもしっかりした少女だ。以前も、『兄が安心して暮らせるように、早くいいお家に嫁がないといけないのです』とおおよそ十五歳とは思えない表情で私に相談していたのを思い出す。
そんなマリィの事だ、私たちに気を遣って式は挙げないことにしたのだろう。もし私を初め、リカルドの伝手全員に一報するとなると大変手間であるし、その伝手のおせっかいな人種たち(私を含む)が結集すると国を挙げての大挙式になるだろう。彼女はそういう手間もお金も人も使うような事を進んでやりたがるような子ではないのだ。
だから、あまり波風が立たない立場で、その意を汲んでくれそうな人間には報告という形で報せたのだろう。そう、納得できたはずだった。この際、コウが私に言っていなかったのは不問にして、そのまま結婚祝いを見繕う流れになるはずだった。しかし、次に続いた台詞が私の思考力を根こそぎ奪ったのだ。
『エリカにも喜ばれる物にしねぇとな』
はて、なぜここでエリカ……ハンラルド・クライン・メル・エイリーシャの話が出てくるのだろう。
はて、エリカとマリィに接点なんかあっただろうか。私が至極真面目に考えていると、コウはさも当然のように言い放ったのだ。
『そりゃあ、マリィとエリカの結婚祝いなんだから、二人に喜ばれる物にしねぇといけないだろ』
そして、私は叫んだのだ。
私はコウを建物の壁に追い込み、あくまでにこやかに理由を聞きだそうとする。
「隠してたわけじゃないんだけどな……。先月くらいか、リカルドから手紙が来たんだよ。そこに書いてあったぞ」
「私そんな手紙知らないんですけどぉ」
「ちゃんと俺とお前に一通ずつ来てたぞ? お前の事だから、どうせ書類の山ン中に埋もれさせちまったんだろ」
それは否定できない。自慢ではないが、私の執務机の上は常に書類の山で埋め尽くされている。そこに小さな封筒が紛れ込んでいても気が付かないだろう。
「それで、手紙には何て?」
「マリィとエリカが結婚したという報告と、申しわけ程度のリカルドの現状報告だったかな」
「それだけ?」
「ああ」
「式を挙げるとか、何かお祝い事をするとかはなし?」
「一切なかったな。だからこそ俺たちだけでもいいから祝ってやらねえと」
「私たち“だけ”? アールには言ったの?」
「アイツも手紙は読んだらしいが……建前としては祝福できねえってさ」
私は一歩だけ後ろに下がってコウが動けるだけの空間を造る。
「そっか」
あのアールが彼女らの結婚に対して否定的ではないということに少しだけ口元を緩めた
「やけにあっさり引き下がったな。てっきり『無理やりにでも祝福させてやるー』とか言うのかと」
「私はこれでも修道女してたのよ? フルラ教の教義ぐらい諳んじられるわ。だからこそ強く言えないのよ」
フルラ教にとって教義は絶対であり、それを信仰する人々には最大の敬意を払わなければならい。いくら私が修道女ではなくなったとは言えそう易々と軽んじられるようなものではないのだ。
フルラ教の主神であるフルラの教えには基本的に人間賛美のものが多く、その為か敬虔な信者ほど亜人種や同性愛者に差別的な意識が強い。その両方に当て嵌る、亜人であり同性愛者であるエリカはフルラ教の信徒にとって目の敵であると言っても過言ではないだろう。
「難儀な神さまだこった」
そんな背景を知ってか、コウは皮肉ったらしく肩を竦めた。
「アンタのトコの神様こそ節操ないんじゃないの?」
「かもしれねえな」
彼が神様を信じているかどうかなんて私にはわからないのだけれど、コウが否定しないあたり彼なりの『神様』はそこまで厳しくはないようだった。
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