[4]
悪魔が眼の前にいた。ギデオンは思わず後ろに退こうとした。途端に身体が岩壁にひっかかる。悪魔の爪がギデオンの顔を引き裂いた。焼けつくような痛みが肌に走り、生温かい液体が頬に伝わる。悪魔が歓喜の叫びを上げ、何度も爪を立ててくる。必死にポケットに収まった聖水に手を伸ばす。
「聖なる主よ、全能の父よ、永遠の神にして我が主の父よ。かつての暴君を天より追い落とし、永劫の業火に引き渡したもうた主よ・・・!」
聖水の瓶が掌に収まった。ギデオンはすかさず蓋を開け、聖水を悪魔に振りかけた。たちまちジュッと肉が焼けるような音を立てて、悪魔の顔が溶け始める。眼から真っ黒な液体を流しながら、悪魔は金切り声を上げる。怯えたように洞窟の奥に身体を引っこめた。
「・・・主よ、主の葡萄畑を荒らす獣を恐れさせ給え!」
ギデオンはさらに聖水を振りかけようとしたが、今度は悪魔がギデオンの手首を掴んで力任せにひきずり出した。刹那、ギデオンの身体が宙を舞った。途端に背中が岩壁に衝突して堅い岩の床に投げ出された。息が詰まる。体勢を立て直す間もなく、背後から凄まじい力で持ち上げられ、横の岩壁に投げ飛ばされた。全身に激しい痛みが貫いた。力を失くしたギデオンはそのまま床に倒れた。聖水の瓶はどこかに飛んでしまった。
「あたしの方がずっと近くにいるのに、なんであいつの名前なんか呼ぶのさ?」
悪魔は囁いた。ギデオンはなんとか立ち上がろうとした。悪魔はギデオンの首を掴み、怪力でギリギリと締めつける。悪魔はギデオンの上体を持ち上げた。悪魔の手首を掴んだギデオンは睨み返した。両脚が地面から浮き始める。
「あらゆる悪から・・・おお、主よ・・・我らを救い給え」
声をなんとか絞り出す。
「主の怒りから・・・我らを救い給え。すべての罪から・・・我らを救い給え。悪魔の誘惑から・・・」
「誘惑だって?」
悪魔が顔をギデオンの眼の前に突き出してきた。眼から黒い膿が溢れ出している。
「あたしは誘惑なんかしてないよ、ギデオン。あんたが自分から近づいてきたんじゃないか。万死に値するね」
「救い給え・・・怒りと憎しみ・・・すべての邪なる意思から、我らを救い給え。あらゆる色欲から、我らを・・・救い給え」
「戻りたくないの?」
突然、首の圧迫が緩められた。悪魔はギデオンの耳に囁いた。
「戻る・・・?」
「そうさ。戻るんだ、ギデオン。あの日からもう一度、やり直したらいい。自分の罪も帳消しにできる」
「・・・嘘だ」
「戻りたいくせに」
「神の御力によって・・・我らを・・・」
口がもつれた。ふいにギデオンはヘンケの傍らに立って拳銃を奪い取り、ヘンケの顔を吹き飛ばす幻覚を見た。いけない。復讐は神が行うもの。しかし、幻覚はなかなか去ってはくれない。
《戻り・・・たい・・・》
気が付いた瞬間、ギデオンは灰色のこぬか雨の中に立っていた。足元は石畳。空気は冷たく湿っている。村人たちが身を寄せ合い、兵士たちに囲まれて震えている。広場に兵士の死体が眼を開けたまま横たわっている。雨に濡れた黒い制服に身を包んだヘンケが顔を歪めて笑った。
「おい、神父。名は何という?」
「ローレンス神父だ」
「こいつらは・・・貴様の信徒か?」
ギデオンはうなづいた。
「それなら、告白を聞いたはずだ。さぁ、犯人の名を言え」
「この中にはいません。誰にも、こんなことは出来ない」
「私の言ったことを聞いてないのか?」
「今日、神はここにいないと?ええ、分かってます」
ギデオンは平静に答えた。ヘンケは困惑した表情を浮かべた後、沈黙した。瞬時にギデオンは次に何が起こるのかを把握した。ヘンケは怯えている村民たちに向き直った。
「お前らの中から10人を銃殺刑に処する。犯人に犯した罪の重さを思い知らせるためだ」
ヘンケは50代の男に近づいた。エリク・リヒター。拳銃を抜き、リヒターを引きずり出し、石畳にひざまずかせた。兵士たちはサブマシンガンを群衆に向けている。
「でかい手をしてるな」
ヘンケは銃口をリヒターのこめかみに当てる。リヒターの喉がごくりと鳴った。
「農家か。子どもはいるのか?」
「はい、娘が2人」
「よし、まずはお前からだ」
「待て!」
ギデオンは叫んだ。ヘンケは振り向いた。
「何か異論があるのかね、神父?」
「あんたの部下を殺したのはぼくだ。ぼくを撃て」
「そうか」
ヘンケは不敵な笑みを浮かべた。
「気持ちは分かる。羊たちを救うために、我が身を投げ出す羊飼いってとこか。だが、そうはいかん。あんたに選んでもらおう。さぁ、5秒やる」
「ぼくには・・・出来ない」
ギデオンは絞り出すように言った。全て同じことの繰り返しだった。もう何千回、この場面を脳裏で再現したことだろう。ヘンケは一番近くにいた娘を引きずり出した。ゾフィ・モーデル。ヘンケは拳銃を持ち上げる。
ギデオンはヘンケに飛びかかった。驚いた兵士たちが茫然と見守る中、ヘンケの手を捻じり上げた。ヘンケが悲鳴を上げる。ギデオンは拳銃を手にしていた。勝ち誇った笑みを浮かべ、ヘンケに銃口を突きつけた。村民たちは不安そうに顔を見合わせている。
「部下に武器を置いて立ち去れと言え!さもないと、貴様を撃つ!」
ギデオンは声を荒げた。ヘンケはまず銃口、それからギデオンを一瞥した。
「好きにするがいい、神父。ただし、私の部下は武器を置かないよ」
兵士たちはサブマシンガンの狙いを群衆に定めた。ギデオンはすかさずトリガーをひいた。ヘンケの頭が吹き飛び、血と脳漿が飛び散った。ヘンケは壊れた人形のように、しぶきを上げて水溜まりの中に倒れた。
「撃て!」
兵士の1人が叫んだ。
「皆殺しにしろ!」
「やめろ!」
ギデオンが振り向いた瞬間、サブマシンガンが一斉に火を噴いた。
ゾフィが苦痛を顔に浮かべて倒れた。リヒターも撃たれた。兵士の1人がギデオンに銃口を向ける。逃げる間もなく、トリガーを引かれる。ギデオンは衝撃で吹き飛ばされた。身体が地面に叩きつけられる。不思議と痛みは感じない。機銃掃討を食らった村民たちが倒される様子が見える。やがてギデオンの眼は重くなり、瞼を閉じた。
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