[3]
「待て!」
ギデオンは祭壇に飛びついた。
すでに遅かった。石段から響いてきた悪魔の嘲笑が次第に遠ざかる。ギデオンは儀典書をポケットに入れ、石段を駆け降りる。底の丸い岩戸はすでに開いていた。ギデオンは寺院に踏み入れた。
「たとえ死の影の谷間を歩くとも、悪を恐れまい。主よ、御心とともにある限り」
深い闇の中、何かが駆けていく音が響いた。ギデオンはカンテラを振り回した。カンテラの光に浮かび上がる物は悪魔のレリーフと古い祭壇だけだった。祭壇の表面に掘られた溝に新しい血が滴り落ちている。
何かが床に光った。ジョセフにあげたロックハンマーだった。ちょうど肉食獣の頭を持った彫像の真下に落ちている。ギデオンはようやくこの彫像の名前を思い出した。病と苦悩を司るアッカドの神、シュコドラ。
ギデオンはロックハンマーを拾い上げる。シュコドラを一瞥した。石像の後ろに切り立つ岩壁をカンテラで照らしてみる。岩の間にやっと人が通り抜けられるほどの狭い割れ目がある。ギデオンは大きく息を吸い込んでから、割れ目に踏み込んだ。
左右から岩が迫ってくる。自分の呼吸だけが耳に激しく響いてくる。
「ジョセフ?」
声はしわがれた囁き声になった。心臓の鼓動が雷鳴のように轟き、身体を走る全ての神経がざわめいている。
「ああ、主よ。どうか我が道を守り給え・・・」
背後から息づかいが聞こえた。ほとんど自分の耳元だ。カンテラを背後に回し、危うく岩壁にぶつけそうになる。ほんの一瞬、悪魔の顔が視界に浮かんだ。ギデオンは恐怖のあまり、しばしその場に立ちすくんだ。
「悪魔を仇の許に追い払いたまえ。その信念により、彼らを滅ぼしたまえ。あらゆる苦悩から我を救い給いし主よ、ゆえに我は今、敵を見下す」
ギデオンは歩を進めた。しばらくすると、足元になじみのある感触がよみがえる。床をカンテラで照らしてみる。でこぼこした石畳にうっすらと積もった雪が光っている。
胸が苦しい。前方から歌声が聞こえてきた。少女の軽やかな声。やや赤みがかったブロンドの髪をお下げにして、質素なブルーのワンピースを着ている。
ギデオンは眼を見開いた。ゾフィ・モーデル。ヘンケに射殺された女の子。ゾフィがトンネルの出口らしきところに立っていた。
ギデオンは駆け出した。カンテラが揺れる。追いつけば、今度はゾフィを救うことができるかもしれない。
「ゾフィ!」
ゾフィはニッコリと笑って手を振った。もう少し。あとわずかで手が届く。
突然、大きな塊が身体がぶつかった。ギデオンは地面に叩きつけられた。上体を塊に押さえつけられる。息が苦しい。血の匂いが鼻を突き、顔に濡れた布地が振れる。塊を振り払おうとして身体を必死に身をもがいた。ようやく重い塊を押しのけ、カンテラを当てる。
大きな黒い縁の眼鏡が眼に入った。レンズが割れている。アンだ。すでに息絶えている。左胸に細剣が刺さっている。
「シスター・アン・・・」
打ちのめされたギデオンは懸命に吐き気を抑えながら、後ずさりした。自分を怒らせたこともあったが、アンは善人であり、よきシスターだった。少なくとも、自分よりはマシな人間だった。胸の内に怒りがこみ上げてくる。
「神よ、我らが主の父よ。その聖なる御名に、いやしくもお願い申し上げます。どうか、ご慈悲を。今、あなたの創造物を苦しめているあらゆる不浄の悪霊と闘う力を、どうぞこの僕に、主を通じてお与え下さい」
ギデオンは上体を屈める。祈りを呟いた後、死者の魂のために最期の秘跡を行った。アンの胸から細剣を抜き、首にかかっていた紫色のストーラを手に取る。ストーラには全く血が付いていない。まさに神のしるしだ。ギデオンは恭しくストーラに口づけし、そっと自分の首にかける。細剣は腰に吊るした。
さらにトンネルを進むと、眼の前に広い空間が開けた。天井は高く、カンテラの光は全く届かない。眼の前でトンネルは3つに分かれ、いずれも漆黒の闇につながっている。悪魔とジョセフの姿はどこにも見えない。ギデオンはカンテラをそれぞれのトンネルの入口にかざしてみた。
「ギデオン・・・!」
ジョセフの声が聞こえる。心臓が飛び上がる。声の出所を確かめようとするが、こだまが洞窟じゅうに反響している。
「ギデオン・・・!」
もう一度、声が聞こえた。今度は遠くなっている。
「ジョセフ!今いくぞ!」
ギデオンは3つの入口にカンテラを振り向ける。足跡か。何かヒントになる物はないか。必死に眼をこらす。
中央のトンネルの奥で、ほんの少し何かが動いたように見えた。ギデオンは飛び込んだ。トンネルの天井が急に低くなる。すぐに四つん這いにならなければならなかった。
「ジョセフ!」
「ギデオン、助けて!」
はるか彼方からジョセフの声が聞こえた。
「こわいよ!助けて!」
ギデオンは這いつくばって進む。耳に自分の呼吸が荒々しく響いてくる。
天井はさらに低くなる。もはや匍匐前進するしかない。周囲に堅い岩盤が迫ってくる。立つことはもちろん、振り向くこともできない。ひたすら進んでいくと、背後から呻くような唸り声がした。思わず飛び上がってしまい、頭を天井にぶつけた。身体をひねろうとするが、トンネルが狭すぎる。両脚は完全に無防備だ。兵士の足を引きずっていったハイエナの姿が脳裏をよぎる。
「ああ、神よ。我が祈りを聞き給え。我が前に立ちはだかり、非情の者が我が命を狙う。神を神と思わぬ者どもが」
踵の辺りで唸り声が聞こえた。後ろに向かって懸命に足を蹴ってみる。何にも当たらない。叫び出したかった。いっそ気が狂ってしまえば、恐怖と焦燥から解放されるのではないだろうか。なんとか身をよじりながら先に進む。
「神よ、我らが主の父よ。その聖なる御名に、いやしくもお願い申し上げます。どうか、ご慈悲を。今、あなたの創造物を苦しめているあらゆる不浄の悪霊と闘う力を、どうぞこの僕に、主を通じてお与え下さい」
カンテラの光がかげった。恐怖がパニックに変わる。四方を堅い岩壁に挟まれた闇の中で、悪魔とともに地中に閉じ込められる。なんとか落ち着きを取り戻そうと、カンテラの火にそっと息を吹きかける。
明かりが消えた。呼吸が次第に速くなる。祈るようにカンテラを叩いてみる。。突然、カンテラの火が勢いよく燃え上がった。
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