[2]

 背中で扉を閉じた瞬間、嵐が不意に遮断される。ギデオンはよろめいた。入口で髪や服から砂を払い落とした。丸天井から差し込む薄暗い光に眼を慣らしながら、天使像の立つ祭壇に向かって通路をゆっくりと進む。何か様子がおかしい。辺りには血腥い臭いが深々とたちこめている。

「アン?ジョセフ?」

 丸天井の下に来る。石像と周りの床にカラスの死体が散らばっていた。一目では数えきれない程ある。口がやけに乾いている。勇気をふりしぼって前に進む。

 巨大な十字架の位置が変わっていた。相変わらず逆さ吊りだが、今は祭壇の真上にぶら下がっている。

「ヘレーネ?」

 ギデオンは天使像の周りを回る。祭壇は開いている。石段が地下に続いていた。床の上で光っていたカンテラを手に取り、翼廊を照らしてみる。明かりに洗礼盤が浮かび上がった。血がべったりと付着している。

 近寄ってみる。鎖の付いた小さな十字架が床に落ちていた。アンの物だ。その傍に悪魔祓いの儀典書と聖水の瓶が置かれている。傾いた瓶から聖水が少しこぼれている。ギデオンはこぼれた聖水に指先をひたし、震える手で額に十字を描いた。それから瓶を拾い、蓋をしてポケットにしまった。

 床に膝をついた。ギデオンは久方ぶりに祈りの姿勢を取る。両手を組み、頭を垂れる。何と言うべきか。背を向け続けた相手にどう語りかければいいのか。言葉はなかなか出てこなかったが、やがて使徒伝の一節が脳裏に浮かんだ。

「主よ、どうかこの不信心者を赦し給え。どうか主よ、御力を与え給え」

 言葉は正確でなかったかもしれない。大切なのは、気持ちだ。

「我が祈りを聞き給え。主の御力が必要です。この大地には、主の御力が必要です。我が叫びを聞き給え。どうか、我々をお見捨てになりませんよう。この務めのため、我が罪を赦し、浄め給え。主よ、どうかこの不信心者を赦し給え」

 ギデオンは三度、同じ祈りを唱えた。

「主よ、この不信心者を赦し給え!」

 最後の祈りを唱え終わり、ギデオンはしばらくそのままの姿勢でいた。何も起こらない。アンの十字架に口づけしてから首にかける。儀典書を手に取って立ち上がった。

 ギデオンは眼をみはった。カラスの死体がひとつ残らず消えている。羽根1枚、落ちていない。これは祈りが届いたというお告げなのか。ギデオンは心の中で感謝を捧げた。

 眼に血の跡が飛び込んできた。祭壇に続いている。傍らに小さな足跡がついている。子どもの足跡のようだ。思わず背筋に戦慄が走る。

 血の跡をたどって天使像に戻る。喉の詰まるようなすすり泣きが聞こえてきた。祭壇に眼を向ける。その端に、ジョセフが恐怖に眼を見開いて座っていた。

 ギデオンはジョセフに歩み寄った。

「ジョセフ・・・」

 ジョセフの身体に赤い水滴が雨のように降り注いでいる。ギデオンはゆっくりとカンテラを頭上にかかげた。水滴は十字架の主の顔を横切って流れてくるようだ。

 さらにカンテラを高く掲げる。はたしてヘレーネがいた。まるでソファにでも座るかのように、十字架の横木に快適そうにもたれている。皮膚はまだらで灰色になり、口は鰐のように大きく裂けている。

「ここへ来て、ギデオン。噛みつきやしないから」

 ヘレーネの声はすでに濁っていた。悪魔の声だ。ギデオンは思わず歯を食いしばった。恐怖が口から唸りとなって漏れ出す。

「ジョセフ、逃げろ!」

 ジョセフはビクリとしてギデオンの言葉に従おうとした。悪魔はくるりと身を回転させ、蝙蝠のように逆さにぶら下がり、ジョセフと面で向かい合った。そして、警告するように指を振る。ジョセフはその場に凍りついた。

「その子は放っておけ・・・」

 悪魔は骨をきしませ、上体を持ち上げた。頭が脚をかけた十字架の横木に触れそうだ。

「いやだね」

 ギデオンはカンテラを床に置き、両手を組んだ。

「主よ、憐れみを。主よ、我らの祈りを聞き給え。神よ、天にめします父よ、我らにご慈悲を。神よ、神の御子よ、救世主よ、我らに御恵を」

「無駄だ!」

 悪魔が吠える。

「神よ、聖霊よ、我らに憐れみを。三位一体なる唯一の神よ、我らにご慈悲を。聖母よ、我らのために祈り給え」

 悪魔は軽い身のこなしで、十字架から飛び降りた。なまめかしい身振りで、ギデオンに近づいてくる。ギデオンは背筋を伸ばした。自分は神とともにある。

 悪魔は灰色の舌を出して唇をなめた。眼がぎらりと黒光りしている。

「どうしたの、ギデオン?あたしとヤリたくないの?」

 悪魔が手を伸ばし、ギデオンの顔に触れようとする。ギデオンはさっとその手首をつかんだ。悪魔の口からハイエナと同じ高笑いが洩れ、冷たい息が吐き出される。腐った肉の臭いが鼻を突いた。

 ヘレーネの腕にあった入れ墨が露わになった。数字が毛虫のようにのたうつ。途端にある文字に変化した。《助けて》。

「族長たち、預言者たちよ!我らのために祈り給え!聖ゲオルギーよ、我らのために祈り給え!聖ゾフィよ、我らのために祈り給え!聖ヨセフよ、我らのために祈り給え!」

「あんたは弱き器だ、ギデオン。神があんたのような男に力を与えると思う?この呪われた地を浄める力を?あんたはあの連中を見殺しにした。あんたは神に背を向けた。どうして、神があんたの言葉に耳を貸すと思う?何も信じないあんたに」

 悪魔の言葉はギデオンを打ちのめした。ヘルンデールにおける暗い記憶が恥辱と罪の黒い海となってギデオンをのみこむ。これほど弱く汚れた人間に神が御力を託すわけがない。そのとき、ジョセフの姿が眼に入った。眼を見開き、血にまみれ、震えながら祭壇に座っている。過ちは繰り返さない。ヘレーネとジョセフを見捨てはしない。

「神がぼくに力を貸さぬというのなら、悪魔よ、なぜぼくを恐れる?」

 ギデオンはすばやく両手で悪魔の頭を掴んだ。自分の額を悪魔に押し当てる。額に描いた聖水の十字架が悪魔の額を焦がした。悪魔が悲鳴を上げる。

「全能の主よ!神にして、万物の造り主よ!」

 ギデオンは声を張り上げた。

「我に力を与え給え。我がすべての罪を赦し、この忌まわしき悪霊と闘う力を授け給え」

 悪魔が嘔吐し、ギデオンの顔に緑色のヘドをぶちまけた。

「生ける者と死せる者の名において、この神の僕から追放することを命じる!主の御力が汝を追放する!」

 すると、眼の前につかんでいる悪魔の頭がヘンケに変わった。ヘンケはニヤりと笑い、腐った黒い歯があらわになった。

「今日、ここに神はいないよ。神父」

 思わずひるんだ隙に、悪魔は身を振りほどき、ギデオンを突き飛ばした。ギデオンは石像に頭を打ち付けた。後頭部に激痛が走り、網膜に星が飛び散る。ようやく意識が戻り、身を起こすと、悪魔は消えていた。打ちつけたところが心臓の鼓動に合わせ、ズキズキと疼く。

 ギデオンはカンテラを拾い上げる。辺りを照らした。悪魔はいない。ジョセフはまだ祭壇に座っていた。ギデオンは手を伸ばした。

「ジョセフ、こっちへおいで」

 ジョセフは首を振った。十字架から滴る血が涙に混じって頬を伝わる。ギデオンは傍に寄った。

「ここを出よう。帰りたくないのかい?」

 ジョセフは怯えたように周囲を見回し、ようやくうなづいた。祭壇から滑り降りようとした瞬間、背後から伸びる灰色の手がジョセフを捕らえる。ジョセフが悲鳴を上げる間もなく、石段の奥に引きずり込んだ。

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