[5]

 でこぼこした道を猛スピードで飛ばして村に戻る。エメリア軍の兵士がライフルや機関銃を持ってトラックに乗り込んで走り去った。遠くでドラムの音が轟いている。その響きがライフルの発砲音と交錯した。

 ギデオンは病院に飛び込む。ジョセフのベッドのそばでアンが床にひざまずき、祈りを上げている。ジョセフの身体は激しく震えていた。喉から獣のような唸り声が聞こえてくる。

「ヘレーネは?」

 アンは祈りの姿勢を崩さずに言った。

「知らないわ」

「逃げろ、今すぐに!」

「どうして?」

 ギデオンは相手の質問を無視した。すばやくジョセフを抱え上げ、病院から飛び出した。ジープの後部座席にジョセフを乗せる。慌てて後を追ってきたアンに早口で言った。

「この子をエヴァソのポリトウスキ神父のところへ連れて行け。あの人なら・・・」

 ギデオンはふいに遠い地平に眼を向けた。

「あの人なら?」

 アンは不可解そうにつぶやいた後、ギデオンの視線を追った。村のはるか彼方で、空が黒い靄に閉ざされている。吹きすさぶ風の音が聞こえてくる。

「砂嵐だ・・・」

「これじゃどこにも行けないわ」

 アンは恐ろしげに言った。ドラムの轟きは次第に激しくなっている。地面から骨まで響いてくるような感覚を受ける。銃声が空を切り裂いた刹那、悲鳴が続いた。

「ジョセフを隠さなくては。トゥルカナの連中がやってくる」

 ジョセフは虚ろな眼でじっと宙を見つめている。

「教会は?」アンは言った。

「だめだ。モーガンがあそこで殺され、切り刻まれた。グレインジャーはトゥルカナ人の仕業だと思って、セビトゥアナを撃ってしまった。あそこはもう戦場だ。危険すぎる」

「現地人は決して教会に入らないわ。ジョセフを隠すなら、あそこしかない」

「どうやって、教会まで行くんだ?道は村の連中が待ち構えてるぞ」

「道は悪いけど、裏道をムティカから聞いたの。あの人たちはまさかあたしたちがそこを通るとは思わないはずよ」

 アンはジープに飛び乗ってエンジンをかけた。ギデオンは止めようとしたが、他に打つ手がない。アンはギアを入れた。その眼に恐怖と決意が宿っている。

「来ないの?」

 ギデオンは首を振った。

「ヘレーネを探さないと。あっちで会おう。これを持ってけ」

 そう言うと、ポケットから悪魔祓いの儀典書を取り出した。エヴァソでポリトウスキ神父に渡されてから、どういうわけかずっと持ち歩いていた。2人は長い間、じっと眼を見合わせた。やがてアンはうなづき、儀典書を受け取った。

「じゃあ、これを」

 アンは聖水の入った小瓶をギデオンの手に押しつけた。

「いつか必要になるかもしれないわ。あたしはスペアを持ってるから」

 ギデオンは小瓶をポケットに押し込む。聖ヨセフのメダルと当たってカチリと鳴った。ギデオンの言葉を待たずにアンはジープを出して走り去った。


 風は次第に強まっている。テントがパタパタとはためいている。闘いを告げるドラムの音が風の動きにつれて近づいたり遠のいたりした。ライフルの掃射音は止んでいる。

 グレインジャーはキャンプの机に向かっていた。ガラス瓶の中でもがく1匹の蝶を見つめる。すでに4人の部下がトゥルカナ族に殺された。敵が何人死んだかはどうでもよかった。事務処理は曹長にまかせてあるから、自分はしばし蝶のコレクションの手入れに没頭できるというわけだ。

 ガラス瓶の蝶が動きを止めた。グレインジャーは瓶の蓋を開ける。瓶の底に入っていたエーテルのコットンを外に出し、蝶を台紙の上につまみだした。ピンの入った箱に手を伸ばそうとして、テントの入口の垂れ幕が開いた。曹長が入ってきて、敬礼する。

「少佐、トゥルカナ側が戦闘準備に入っております」

「下がれ」

 グレインジャーは苛々して言った。

「しかし、少佐・・・」

「下がれ!」

 大声で怒鳴った。息が吹きかかり、蝶の羽根をふるわせる。曹長はテントの外に姿を消した。グレインジャーはピンをしっかりと手に持ち、蝶の胸部の上、中心からほんのわずか右にかざした。耳元でパタパタと何か羽ばたく音がする。首を周囲に振り向いた。何もない。妙だ。もう一度ピンの位置を確かめた後、今度は蝶の体に深々と突き刺し、台紙に固定した。遠くで銃声が響いたが、放っておいた。この標本が完成する頃には、部下たちがあの野蛮人どもを始末していることだろう。

 またパタパタという羽音がした。振り返る。やはり何もない。ストレスだろうか。グレインジャーは額を撫でた後、机の上の蝶を満足そうに眺めた。いい出来だ。ふと指先が濡れていることに気づいた。

 指先に血がべっとりと絡んでいる。ハッと息を飲み、眼を見開いた。血が台紙に点々と滴り落ちた。机の上に蝶の代わりに、翼を広げたカラスが血まみれになってピンで留められている。カラスは苦しげに身をよじり、グレインジャーをじっと見上げている。嘴からかすかな喘ぎ声が漏れている。

 パタパタという羽ばたきが大きくなった。もう一度、振り向いた。ようやく音の出所が分かった。テントの床に並べられたガラスケースの中で、蝶たちが一斉に羽根を震わせていた。かすかに軋むような摩擦音が絶え間なく、さわさわと続いている。その音は次第に強まり、非難がましく響き始めた。

 グレインジャーは幻覚が自らに降りかかってくるのを感じた。今までの出来事が一気に脳裏に甦ってくる。モーガンの凄惨な死体。トゥルカナ族との対立。自分が撃ち殺した戦士の砕け散った頭。

 蝶たちは羽ばたき、もがいた。ガラスケースがぶつかり合う。カラスは硬直し、動かなくなった。排泄物が溢れて机の上に広がった。グレインジャーはホルスターから拳銃を抜いた。ずしりとした重みが心地良い。試しに、こめかみに銃口を当てる。

 蝶たちの羽ばたきが止んだ。息を止めてみる。蝶たちはピクリとも動かない。グレインジャーはゆっくりと拳銃を下ろした。

 口の中で何かが動いている。

 黒い脚が1本、続いてもう1本、唇の間から突き出した。グレインジャーはむせかえった。すると、黄色と黒の縞模様をもった紫色の蝶が舌の上から這い出した。蝶はグレインジャーの頬を這い、濡れた羽根を広げた。肌をくすぐる小さな脚の感触を感じつつ、グレインジャーは暗い闇に落ちていくような気がした。拳銃をすばやく口の中に押し込む。

 グレインジャーはトリガーを引いて、自分の頭を吹き飛ばした。

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