[6]

 族長のセビトゥアナを弔う歌声は炎の周りを渦巻き、次第に高まる。長老たちが戦いの狂気を駆り立てる。トゥルカナの戦士たちは叫び、踊り、沸き立つような怒りの中で一体化する。炎に半月刃がきらめき、戦士たちは戦意の高揚に声を上げる。族長の死を越え、その息子の呪いを越えて、白人への憎悪をたぎらせる。時をさかのぼり、自分たちの大地を奪われ、抵抗の度に失った命への怒りがわき起こる。

「やつらは我が大地を汚した!」

 長老の1人が叫ぶ。

「大地を汚した!」

「虐殺を思い出せ!」

「虐殺を!」

「いまこそ、復讐の時!」

「復讐の時!」

 荒れ狂った空が黒い靄に渦巻いている。


 砂が噛みつかんばかりに窓に叩きつける。ギデオンは病院のドアを押し開ける。廊下の全身鏡の前を通り過ぎ、奥に走った。ヘレーネの名を呼びながら、ギデオンはキッチンに飛び込んだ。ヘレーネの姿は無かった。氷のような恐怖が胸を貫いた。すでにトゥルカナ族が来てしまったのか。

 いや、そんなはずはない。ヘレーネはきっとどこかにいる。廊下に戻って鏡の前を通り過ぎた瞬間、ふと立ち止まった。誰かが自分を見ている。首の後ろに冷たい視線を感じる。ハッと振り向いた瞬間、鏡が粉々に砕け散った。吹き荒れた暴風が窓を揺らし、ドアをガタガタと鳴らしている。ギデオンは居間と浴室に入った。

「ヘレーネ!」

 姿はない。寝室に走る。ドアの下から、かすかに光がもれている。ドアノブに手を伸ばした瞬間、背筋が凍りついた。光の前を影が過ぎった。ドアの向こうで床板の軋む音がする。影がヘレーネなら、なぜ返事をしないのか。室内で何かが動き回っている気配がある。ギデオンは身構え、勢いよく中に入った。


 風はさらに激しさを増している。たたきつける砂が容赦なくアンを襲った。砂嵐が隠れ蓑となって、アンはトゥルカナとエメリアのどちらの兵士に気づかれなかった。どうにか教会のそばにたどり着いた。そっと感謝の祈りを捧げ、ジープのエンジンを切る。腕に抱えたジョセフの身体は熱い。発疹はかなり悪化していた。

 アンの胸は傍目にもシャツが震え、カラーが浮き上がるほど激しく高鳴っている。だが、自信と信念があった。自分は神とともにある。神がこの仕事を最後まで見届けてくださる。神はこの忠実なる僕を決して見捨てはしない。

 教会に入る。空気はぴたりと静まり、血と腐った内臓の臭いが鼻をついた。カラスの死骸が散乱した床に足の踏み場もない。ブーツの下で死骸がグシャリと音を立てる。アンは思わず息を呑んだ。祭壇の周りは血と汚物で塗れている。

 ジョセフが震え始めた。喉から獣めいた呻き声がもれ、暗がりの中で白い歯がぎらりと光った。ふとジョセフが自分の首に噛みつき、頸動脈を食いちぎるのではないかという不安に駆られる。アンは歩を進めた。

 祭壇に近づいたアンは上の石が傾いていることに気づいた。これでは役に立たない。蠅が頭や首にまとわりついてくる。アンは洗礼盤を探した。一般にニカイア教会の場合、洗礼盤は翼廊に設置されているはずだ。まず北側をチェックする。何もない。南側を見る。目的のものがあった。子ども1人なら楽に入ることができる。ジョセフの痙攣は次第に激しくなっている。

 アンはジョセフを大きな石の洗礼盤に横たえた。途端にジョセフが嘔吐する。緑色の生温かい吐瀉物がべっとりと降りかかった。あっと叫んで飛び退いた。ハンカチで服についた汚れを出来るだけ拭き取る。ジョセフが唸り始め、低いしわがれ声が不気味にこだまする。

 ポケットから紫色のストーラにくるんだ聖水の瓶を取り出した。ストーラに口づけして首にかける。なんとか頭を空っぽにし、祈りに集中しようとする。独りで出来るだろうか。これまで悪魔祓いの儀式は行った経験は無い。ジョセフは単に病気なのかもしれない。ハイエナは常に集団で1人を襲い、他の人間は無視するのかもしれない。

 脳裏に今までの不可解な事件がまざまざと浮かび上がる。やはり、悪魔の手がこの地に、この人々に触れているのは間違いない。自分には闘う義務がある。

 闘えるのか。心の中で声が囁いた。お前はただの修道女。神学校を卒業したばかりだ。司教でも、枢機卿でもない。堕天使ルシフェルが天国から追放され、翼を焼かれて地上に落ちてから数千年もの間、究極の悪がこの地に浸透してきたのだ。お前にいったい何が出来る。

「しりぞけ、サタン」

 アンはつぶやいた。手が震えている。

「お前にあたしを惑わすことはできぬ」

 そいつはどうかな。心の隅で邪悪な声が笑った。

 アンはそれを無視して悪魔祓いの儀典書を開いた。

「大天使聖ミカエルよ。天の軍勢の輝ける指導者よ。高き所における、権天使と能天使、闇と邪なる霊界の支配者との戦いにおいて、我らを守り給え。神が自らの似姿として造りたまい、サタンの支配よりあがないたまいし我ら人間を救い給え」

 その時、アンは背後に冷たい気配を感じた。ハッと振り向いた。何もない。気を取り直して儀典書の続きを読み始める。

「主はあなたに、あがなわれし魂を天の祝福に導くよう託された。平和の神にこいねがい給え、かのサタンが我が足下に追い落とされんことを。我らはその罠から解き放たれ、教会がその毒から守られんことを。我が祈りを神の玉座に運び給え。主のご慈悲がただちにかの獣、かの年を経た蛇、かのサタンと悪霊どもを捕え、鎖によって地獄の闇に追い払い給わんことを」

 アンは聖水の瓶を開けた。ジョセフがうめいた。これから起こる闘争に身構え、聖水をジョセフの顔に振りかける。

 何も起こらない。アンは眉をひそめる。もう一度、ジョセフに聖水をかけた。水滴はジョセフの顔から吐瀉物をわずかに洗い流しただけだ。おかしい。儀典書によれば、悪魔は聖水に触れると激しくのたうちまわるはずだ。

 ふいに衣擦れの音が聞こえた。背後を振り向いたアンの眼は一瞬で漆黒の闇に覆われた。


 ヘレーネの部屋はめちゃめちゃに荒らされていた。衣類、本、タロットカードなどがそこら中に散乱している。割れた窓ガラスから吹き込む強風が破れた蚊帳を巻き上げている。蠅の一群が飛び回り、ベッドのマットレスはズタズタに引き裂かれていた。部屋に下水のような悪臭がたちこめている。

 壁にギデオンが教会の地下で見た彫像が描かれていた。彫像の胸に何かがくっついている。蠅が彫像の周りに群がっている。ギデオンは壁に近づいて息を呑んだ。絵が排泄物と血で描かれていた。

《ヘレーネはどこに?これはヘレーネの血なのか?》

 ギデオンは彫像の胸に手を伸ばした。腕にたかる蠅を無視して、漆喰の壁に埋め込むようにしてねじ込まれていた物を手に取った。それはまさしくピジクスの拓本の彫像だった。偶像はずしりと重い。よく観察するために、偶像を破れたマットレスに置いた。壊れたスプリングがギシギシと鳴る。

 ベッドに写真立てが倒れていた。銀のフレームに入った結婚式の写真だった。半分ひび割れたガラスの奥で、レース模様の白いドレスをまとったヘレーネが笑っている。新郎はガラスの破片に隠れていた。ギデオンはガラスをフレームから取り除いた瞬間、指を切ってしまった。苛立ってフレームをベッドの柱に叩きつける。ガラスが粉々に割れて床に落ちる。ようやく新郎の顔が見えた。

 ギデオンは身体が凍りついた。眩暈に襲われる。心臓が激しく波打っている。

 誰かがギデオンの肩に触れた。あっと叫んで振り向いた。脇にショットガンを抱えたムティカが立っている。

「一体、ここで何があったんです?」ムティカは言った。

「教会が掘り起こされた時、ヘレーネは中に入ったんだな?夫の・・・」

 ギデオンは写真をムティカの前に突き出した。

「アントン・クーベリックと一緒に」

 ムティカはやや意外そうな顔つきをした。

「2人が夫婦だって知らなかったんですか?」

 刹那、稲妻を浴びたようなショックがギデオンの全身を貫いた。写真とフレームが床に落ちる。

「悪魔が取り憑いているのは、ジョセフじゃない!ヘレーネだ!」

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