[2]
ヘレーネはベッドから身を起こした。
病室から足音と低い話し声が聞こえてくる。慌てて服を着て廊下を走り、病室の入口で立ち止まった。ランプでぼんやりと浮かび上がった男たちがジョセフのベッドを囲んでいる。そばにオラトゥンジが立っている。
4人のトゥルカナの戦士たちが病室にいた。裸体に腰布をまき、全身に白い土を塗っている。シャーマンらしき5人目の男はやや年配で布をかぶせたバスケットと杖を持っている。杖の端にアンテロープの蹄がいくつか緩く結ばれ、ガラガラと音を立てている。戦士たちはジョセフの手首と足首をベッドに縛りつけていた。シャーマンはジョセフの頭上で杖を振っている。ジョセフはぼんやりと濁った眼で天井を見つめている。
「すまない」
オラトゥンジは泣きながら言った。ヘレーネは大声を出した。
「何をしてるんですか?私の患者に!」
シャーマンは杖を置き、バスケットから禍々しい形をしたナイフを取り出した。
「やめて!」
ヘレーネは駆け出した。途端に2人の男に身体を拘束される。身体を激しくよじって男たちを罵る。ヘレーネの脳裏に収容所の悪夢がまざまざと蘇る。守衛たちに襲われ、壊れた人形のように身体を弄ばれた恐怖が現実に重なる。半狂乱になって抵抗したが、男たちの力には敵わない。シャーマンはナイフをジョセフの胸の上にかざした。ジョセフの身体がガタガタと震え始める。頭上のランプが翳り、ほやがカタカタと鳴った。
「やめて!」
ヘレーネは叫んだ。シャーマンはナイフでジョセフのパジャマを切った。胸に出来た長く浅い切り傷からうっすらと血がにじんでくる。シャーマンはナイフを置き、バスケットから素焼きの壺を取り出した。木製のトングで何やら小さな黒い物体を壺からつまみ出し、ジョセフの胸にそっと並べ始めた。
黒い物体は蛭だった。たちまちショセフの皮膚にしっかりと食いついた蛭が血を吸い始めた。ヘレーネにわずかに残っていた理性が吹き飛んだ。怒りと恐怖に金切り声を上げ、自分を押さえつけている男たちの手を振りほどこうと暴れた。不意に首筋に冷たい金属が触れた。1人の男が喉元にナイフを突きつけていた。殺意のこもった眼を向ける。ヘレーネはぴたりと動きを止めた。シャーマンは再びナイフと杖を手に取った。
突然、オラトゥンジはドアに駆け出した。顔は苦悩に歪んでいる。嗚咽をこらえながら、そのまま夜の通りに飛び出して行った。首にナイフを当てられたまま、ヘレーネにはなす術がない。恐怖におののき見守る中、低い声で呪文を唱え始めたシャーマンがナイフを掲げた。ジョセフの心臓に突き立てようとしている。
ジョセフの身体は激しく痙攣してベッドを揺らしている。ランプの明かりがストロボのように明滅し、影が部屋で躍っている。男の1人がジョセフを抑えようとして腕を掴んだ瞬間、何かが破裂する音が響いた。
ボキッ!
音に当惑した戦士が自分の手許を見下ろした途端、その顔がみるみるショックと激痛に青ざめた。ジョセフを抑えつけたひと差し指が反り返って骨が折れている。呆然と見守るうち、今度は中指が反り返り始めた。戦士は激しくあえぎながら、必死に抵抗しようとする。薬指、小指も反り始めた。ヘレーネが恐怖に魅入られたように見つめる中、指は容赦なく折れ曲がる。ついに戦士は悲鳴を上げた。
ボキッ!ベキッ!ゴキッ!
シャーマンが何ごとか叫び、ナイフを振り下ろした。途端にその手首と腕の骨が砕け、腕がねじ曲がった。ナイフが落ち、床を転がった。別の戦士も左足が恐ろしい破裂音とともに砕けた。
部屋は大混乱に陥った。アンが病室に飛び込んでくる。
ボキッ!バキッ!ベキッ!
もはや誰の骨が折れているか分からなかった。戦士とシャーマンは激痛にのたうちながら、ベッドから転がるように逃げ回って深手を負った仲間を助け起こそうとする。
ヘレーネは床に投げ出された。男たちの手足から血が溢れ出し、皮膚を砕けた骨が突き破っている。ベッドは揺れ続け、床を激しく鳴らしている。ベッドに近づこうとしたアンが眼に見えない力で吹き飛ばされ、壁に激突した。戦士たちとシャーマンは玄関から逃げ出した。
刹那、病室に静寂が戻った。ベッドは動きを止める。ランプの揺れも収まった。しんとして物音ひとつない。ヘレーネはよろよろと立ち上がった。アンも壁から起き上がった。頬に青あざができている。ヘレーネはベッドに駆け寄る。ジョセフを縛りつけていた縄を解いた。顔と首に広がる湿疹からドロドロとした滲出液が出ている。アンはヘレーネの手首をつかんだ。
「離して!」
ヘレーネはアンを押し退けようとした。
「ヘレーネ、いけないわ!その子は危険よ。見たでしょう?」
「何を見たのか分からないわ・・・」
ヘレーネは頑なに言い張った。
「いや、分かってるはずよ。村の連中をこんな目に遭わせたのは、この子よ。子どもに出来ると思う?人間にあんな真似が?あれは悪魔の仕業よ、ヘレーネ。ジョセフに悪魔が取り憑いてるのよ」
ヘレーネは急に笑い出した。妙に甲高い笑い声がヒステリックに響いた。
「悪魔?そんな・・・もっと別の、別の原因が・・・」
「この子には悪魔祓いが必要よ、ヘレーネ。神の力で悪霊を追い出さなくては」
「じゃあ、あなたがやったら?」
言葉にトゲが混じるのを抑えることができない。科学者であるヘレーネは何とかアンの言葉を否定しようとしている。
「独りじゃ出来ないの」
「ギデオンがいるじゃないの」
「ギデオンは神から遠ざかり過ぎているわ。どうせ聞いてくれない」
「誰が聞いてくれないの?ギデオン?それとも、神様?」
アンは口をつぐんだ。
「何なの、シスター・アン?戦時中、ギデオンには一体、何があったの?」
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