第5章:混沌
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知識には知恵を足さねばならぬ。 モンヴァサの諺
太陽が地平線に沈もうとしている。白い石の十字架が立ち並ぶ墓地で、ギデオンはシャベルを振るっていた。汗が背を、腕を、首筋を伝わっていく。皮膚が焼けるようだ。実は村民に応援を頼もうとしたが、どんなに金を積んでも、墓地に近づきたいという者はいなかった。結局、独りで墓を掘るしかない。
ひと呼吸おいて汗を拭った。赤い夕日を背に、何かの影が動くのが眼にとまった。額に手をかざし、眼を細めて見たが、影は消えてしまった。掘り始めた穴に眼を移す。バカだったかもしれない。疫病の話を勘ぐりすぎているのかもしれない。きっと村は全滅したわけではない。何人か生き残った人間がいたのだ。
ギデオンは水筒から水をひと口飲む。シャツの袖をまくり、作業を続けた。次第にリズムが出てきた。シャベルを土に突き立てる。足をかけて押し込み、土を掘り起こす。墓を掘り起こす許可は得ていない。第一、誰から許可をもらえばいいのか分からない。
太陽が沈んだ後、暗い影が周囲を覆い始めた。ギデオンはカンテラに火を入れる。再び作業に戻る。突き、押し、起こす。闇が迫る中、カンテラの灯を頼りに墓を掘り返す。自分がどれほど気味の悪い行為かは考えまいとする。突き、押し、起こす。
突然、冷たい笑い声が聞こえた。ギデオンは震えあがった。腰までの深さがある穴からパッと背後を振り向いた。3頭のハイエナが立っていた。吐く息が腕にかかり、口臭が鼻に突くほどの近い距離だった。眼はカンテラの光に反射して赤く光り、じっとギデオンを見つめている。
1頭のハイエナが強く息を吐いた。腐った肉の臭いがただよう。ギデオンは勇気をふるって腰にさした拳銃を掴み、顔の前で振って見せた。
次の瞬間、ハイエナはふっと闇に姿を消した。両手が痛みで痺れていることに気づいた。シャベルと拳銃の柄に指の跡が残るほど、強く握りしめていた。なんとか両手の力を抜き、穴の壁に背をもたれた。呼吸は乱れている。周囲はハイエナが残した足跡だらけだった。やはり村に帰るべきだ。
ギデオンは眉をひそめた後で決意を新たにし、作業に戻った。突き、押し、起こす。動作は行進する足音のようにリズミカルになった。突き、押し、起こす。ヘルンデールでギデオンが聞いた、石畳を行く軍靴の響きに似ていた。必死に振り払おうとしても、イメージは強くなるばかりだ。
《おい、神父。名は何という?》
「黙れ」
ギデオンは唸った。
《それなら、告白を聞いたはずだ。さぁ、犯人の名を言え》
「黙れって言ってるんだ!」
ギデオンはシャベルを動き続ける。記憶は頭から去ろうとはしない。
「お前らの中の10人を銃殺刑に処する。犯人におかした罪の重さを思い知らせるためだ」
村民の間に衝撃が走った。互いに顔を見合わせ、恐怖に愕然とした。ギデオンは心臓が止まりそうになった。冷たい雨は降り続け、群衆と兵士の死体を濡らしている。
ヘンケは拳銃を抜き、50代の男―エリク・リヒターに近づいた。リヒターを引きずり出し、石畳にひざまずかせた。他の兵士たちはサブマシンガンを群衆に向けている。
《神よ、お導きを》
ギデオンは聖職服の中で両手を合わせた。どうかこの忠実なる僕をお救い下さい。
「でかい手をしてるな」
ヘンケは銃口をリヒターのこめかみに当てる。リヒターの喉が鳴った。
「農家か。子どもはいるのか?」
「はい、娘が2人」
「よし、まずはお前からだ」
ヘンケは銃の安全装置を外した。
「待て!」
ギデオンは叫んだ。ヘンケは拳銃をリヒターに当てたまま振り向いた。
「何か異論があるのかね、神父?」
「神に代わって頼む。止めてくれ!」
「誰に頼まれようと、私には関係ない。そうだな・・・」
ヘンケは拳銃をホルスターに戻し、リヒターを村民たちの中に蹴り戻した。
「では、あんたに10人、選んでもらうことにしよう」
「何だって?」
「死ぬべき人間を選んでくれ、神父。あんたが神に代わって」
「そんなことは・・・」
ギデオンは唾をのみ込んだ。
「10人選べ。さもなければ、皆殺しだ」
恐怖に慄きつつ、ギデオンは全身全霊で神に祈る。冷たい雨が降りしきる中、覚悟を決めて村民とヘンケの間に進み出た。
「犯人はぼくだ。あの兵士に犯された娘の告白を聞いて、ついカッとなり・・・ナイフを手にしてしまった。村で彼に出くわした時に背後から刺した。ぼくがやったのだ。ぼくを撃ってくれ」
長い沈黙が流れた。ギデオンはじっと立ち尽くした。両手は震えていた。ヘンケの冷酷な視線と眼が合う。臨終の時、誰かぼくに最期の秘跡を行ってくれる者がいるだろうか。
ヘンケはようやく口を開いた。
「ホラ吹きめ。まぁ、気持ちは分かる。羊たちを救うために、我が身を投げ出す羊飼いといったところか。そうはいかん。10人を処刑すると言ったはずだ。さぁ、選べ」
ヘンケはゾフィ・モーデルをひきずり出した。まだ5歳の女の子だ。ギデオンが抗議する間もなく、ヘンケは拳銃を抜いて銃口をゾフィのこめかみに当てた。
「今日、ここに神はいないよ。神父」
轟音が響き渡った。恐怖にひきつった村民たちに血しぶきが飛び散る。ゾフィの小さな身体はどさりと地面に転がった。頭が石畳を打ち、グシャッと嫌な音が響いた。
「さぁ、選べ!あと10人だ!いやなら全員、撃ち殺す!」
ギデオンは声を失っていた。ゾフィの頭から溢れ出した血が石畳を赤く染まる。半狂乱になったゾフィの両親は娘の側に行こうともがき、周りに止められている。村民たちはすがるような眼でギデオンを見つめている。何とかこの場から救ってくれ。
ギデオンの頭は混乱していた。考えはまとまらず、アイデアは何ひとつ浮かんでこない。空っぽだ。最後にできることはたった1つ。ギデオンは深々と頭を垂れ、両手を合わせた。
《主よ、お願いです。ぼくはどうしたらいいのです。この人々を助けてください。あなたの忠実なる僕を、見殺しにしないでください》
「何だ、祈っているのか?」
ヘンケはギデオンににじり寄る。
「祈るがいい、神父。なぜなら、私は知っているんだ」
ヘンケはマルティン・ケストナーをひきずり出した。昨日、9歳になったばかりだ。マルティンのこめかみに銃口を押しつける。ギデオンは眼を見開いた。
「お願いです!神様!」
マルティンの母親は絶叫する。ヘンケは冷然と言い放った。
「今日、ここに神はいないってね」
《お願いです、主よ・・・》
ギデオンは声を失くしていた。突然、ヘンケは眉をひそめた後にマルティンを群衆に押し戻した。母親がすすり泣く息子を腕に抱きかかえる。
「あんたの勝ちだ、神父」
ヘンケは部下に命令を発した。
「全員、撃て!」
兵士たちが一斉にサブマシンガンを上げる。悲鳴を上げた村民たちが壁に向かって後ずさりした。
「待て!」
ギデオンは叫んだ。兵士たちの動きが止まる。ヘンケが眼をギデオンに向ける。静寂が広場を包んだ。
《主よ、この願いをお聞きください・・・》
もう道は残されていなかった。身体を震わせながら、ギデオンはゆっくりと腕を上げて村民の1人を指した。
「ハンス・ユルゲンス」
愕然としたユルゲンスはギデオンを見た。喉が詰まる。兵士の1人が進み出てユルゲンスをひきずり出そうとする。ヘンケは片手を挙げて、それを制した。
「手遅れだよ、神父。皆殺しにしろ!」
ギデオンは胸の裡で何かが切れてしまうのを感じた。雨に濡れた聖職服を翻し、ギデオンはヘンケの前に飛び出した。
「それと、クラウス・ミュラー!エリカ・ショーベルトもだ!」
ヘンケがニヤりと笑った。
「いいぞ、神父。その調子だ」
兵士たちがギデオンの指した村民を次々とひっぱり出し、広場の上に一列にひざまずかせる。3発の銃声が響き渡る。3人は石畳に崩れ落ちた。
「あと7人だ。お次は、どいつかな?」
ギデオンは人さし指を持ち上げた。
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