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「ローレンス神父、アン・マコーミックと言います」
グレインジャーの横から、聖職者の黒いワンピースを着た若い修道女が言った。背がギデオンの肩ぐらいまでしかない。細面の顔に大きな黒い縁の眼鏡を掛けている。見覚えのない顔だった。
「お会いできて本当に光栄です。貴方が書いた論文は全て読みました。シスター・アンと呼んでください」
アンが片手を差し出した。ギデオンはいささかたじろいだが、埃まみれの手で握手を交わした。
「どうも、初めまして。シスター・アン」
「で、こちらはグレインジャー少佐」
「よろしく」
ギデオンは軽くうなづいた。
「またとない時に電報をいただきました。とりあえずお茶を1杯、いかがですか?」
グレインジャーが机の上に置かれた呼び鈴を鳴らした。黒人の召使が紅茶の用意をし始めた。ギデオンは周囲の壁にずらりと並んだガラスケースに眼をやった。ラベルを貼った白い台紙に、ピンで留められた色とりどりの蝶が翅を広げている。
「少佐が鱗翅類学のご専門家とは知りませんでした」ギデオンは言った。
グレインジャーは驚いた顔をし、アンと眼を合わせた。
「ほう・・・よくその言葉をご存知ですな」
ギデオンは標本に近づいた。明るいオレンジの翅に太く黒い縞。ラベルには「CALLIORATIS MILLARI:南アファル」と記されている。ギデオンは息をのんだ。
「これは南アファル・ヒトリガですね。ここ25年は発見されてないという・・・」
「そうです。これが、ほとんど最後の1匹ということになるでしょう」
グレインジャーが紅茶で満たされたカップをギデオンとアンに手渡した。
「子どもの頃からの趣味でしてね。実に心が癒されます。お試しになられては?」
「ぼくにも趣味はありますから」
ギデオンは紅茶をゆっくりとすすった。
「考古学がですか?」アンは言った。「それは、あなたのような方には趣味とは言えないでしょう」
「ぼくのような人間には、趣味でしかないんですよ。ところで、今回の発掘というのは?」
グレインジャーはうなづいた。
「現場はデラチといい、トゥルカナ地方のはずれにあります。数か月前、駐屯兵が遺跡を発見したのです。当局がその価値に気づき、発掘を決定したわけです」
「当局というのは?」
「教皇府です」アンは言った。「遺跡は明らかに教会ですから、処理に間違いがあってはならぬと」
「あるはずのない場所で見つかった教会だとしても?」
「だからこそ、です」
「教会を建てたのは誰かという問題ですが、何か仮説でも?」
グレインジャーが勢い込んで聞いた。どうやらギデオンを信用し始めたらしい。
「実際にこの眼で見るまでは、分かりません。しかし、当然、教皇府にはこの教会の記録が残っているのでしょう?」
アンは首を横に振った。
「それが実はないんです。まったく、何の手がかりも」
「教会だという確証は?たとえば、寺院とか他の建造物かもしれない」
「すでに発掘された部分を見れば、その点ははっきりしています。明らかに、教会です。間違いありませんわ」
「しかし・・・ありえないことです」
ギデオンは思わず呟いた後、考え込んだ。
「教会の宣教師がアファルのこの辺りまでやって来たのは、ほんの最近のことでしょう。教会が進出したのは、たかだかこの十数年。考古学的な記録が残るはずもない」
「あたしたちも全く同意見です。とにかく、発掘を引き継いで下さるという連絡を受けて、ほっとしました。ちょっと、困ってたんです。考古学者を探すと言っても、この辺りじゃ、そう簡単にいかないですし、教皇府が発掘を続けるようにと言うので、ここしばらく監督なしに作業を続けていました」
ギデオンの胃がまたチクチクと疼いた。一刻も早くここから飛び出し、現場へ駆けつけてダメージを最小限に食い止めたい。
「現場にはもういらしたんですか?」
ギデオンはアンに訊いた。
「まだ報告書を読んだだけです」
「では、こちらでのシスターのお立場は?」
アンは紅茶のカップをグレインジャーの机に置き、咳払いをした。
「あたしはトゥルカナ地方で布教活動をする予定なんです、ローレンス神父。これはちょっと申し上げにくいんですが・・・教皇府はこうした発掘を、その・・・休職中の神父に任せるのはちょっと、心配だとおっしゃって。教会の人間が発掘現場にいるように、との指示なのです」
どうやら状況は次第に好ましくない方向に向かっているようだ。
「どういう権限で?」
「教会のオブザーバーということです。宣教活動をしながら、聖なる遺跡がきちんと扱われるよう、確認するという役目です」
「教皇府はその点、ぼくを信用していないんですね。いや、お答は結構。教皇がぼくをどのように評価しているかは知っていますから」
「神学大学校では、最高の考古学者として評価されてますわよ。ローレンス神父」
ギデオンはきっぱりと言った。
「神父は止めてもらえますか。ギデオンと呼んでください」
アンはたじろいだ。ギデオンはアンに尋ねる。
「あなたも考古学者なのですか?」
「一応・・・学位は取りました」
「これまでに発掘のご経験は?」
「二度ほど。イール・シャロームとバイトゥル=マクディスで」
どちらもギデオンが過去、遺跡の発掘作業を行ったことのある聖地だ。
「神学生のときに?」
「・・・ええ」
「発掘を監督したことは?」
アンは口ごもった。
「厳密に言うと、ありません。バイトゥル=マクディスでは、第二助手でしたが」
ギデオンが不審そうに眼を細めた。経験から《オブザーバー》という輩は何でも口を出し、問題を起こす連中のことだ。第一、アンには発掘に使う道具の区別すらつきそうにない。現場では、たったひとつのミスで至宝が永久に失われてしまうこともあり得る。経験を積み、知識を持った専門家でさえ、時には失敗を免れない。こんな大事な現場を未経験の人間に任せるとは、聖杯を幼児に渡すようなものだ。アンは人が好さそうだが、現場に行けば、どうなることやら。
「では、さっそく現場に向かうとしますか。早いに越したことはないですから」
「おっしゃる通り」グレインジャーは言った。「主任のムティカがトラックで現地まで案内します。デラチに着いたら、とりあえずディック・モーガンという人間を探してください。前の考古学者がいた時からずっと働いている唯一の白人でね、後任が見つかるまでしっかり現場を見張っておくよう、言ってあります」
「そのモーガンは今、現場に?」
「聞くところによると、たいてい地元のパブにいるらしい。連絡を待ってますよ」
ギデオンはグレインジャーに礼を言い、アンとともに公邸を後にした。
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