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《エメリア領東アファル モンヴァサ共和国・首都エヴァソ》


 アン・マコーミックがカーテンを開けた瞬間、眼の前にラクダの顔があった。口をもぐもぐ動かしながら室内をのぞき込みむ。口元からは緑がかった褐色の唾液がドロリと垂れている。アンはあっと息をのみ、飛びのいた。ラクダは鼻面を部屋の中にこじ入れた。唾液が床にポタリと落ちる。

 アンの背後では、パーシー・グレインジャー少佐が笑っていた。

「洗礼してくれとさ、シスター・アン」

「どうやら、私を洗礼するつもりらしいわ」

 アンは後ずさりした。どうしたらいいか分からず「シッ!シッ!」と手を振った。

 グレインジャーがまた、笑い声を上げた。

「シスター。甘い、甘い」

 窓の外で叫び声がして太い木の棒がラクダの分厚い毛をバシッと打った。ラクダは窓から顔を引っ込め、悠然と立ち去る。黒い肌と眼をした若者がラクダの後を追い、肩越しに叫んだ。

「すみません、シスター・アン!」

 さすがは暗黒大陸だ。アファルはエメリア語で暗黒を意味する。

 アンは首を振った。ラクダの唾液をよけながら窓に近づき、外を眺めた。道路の反対側から青年がやって来るのが見えた。黒い背広に白いシャツを着ている。胸元は赤いリボンタイ。革製の旅行カバンを持っている。黒い帽子を目深にかぶっているため、表情は読み取れない。長身の体つきは、いくぶん細いように思えた。

「来ましたよ」

 グレインジャーが窓に歩み寄った。

「まだ、若造じゃないか。大丈夫なのか」 

「大丈夫に決まってます」

 アンはむっとして言った。

「教皇からじきじきに表彰されたことある考古学者ですよ。少なくとも、以前はね。戦争前は」

 アンも皆と同じように、あの《戦争》について言及する時はなぜかことさら力んだような言い方になってしまう。独裁者アメンドラ率いるグロースシュタイン帝国とエメリアは6年に渡る大戦を繰り広げた。戦争が終結してからすでに1年半が経過していたが、口にするのもおぞましい悲惨な闘いだった。

「戦時中は、ずいぶん辛い目にあったらしいです」

「あの頃は誰もが辛い目に遭った。みんな傷を治して、先に進むしかない」

「神のご加護のもとに」

 グレインジャーはモンヴァサの地図が掛けられている壁の前にある執務机に戻った。頭上で扇風機が生ぬるい空気をゆっくりとかきまぜている。

 ギデオン・ローレンスは白い石畳を歩き、公邸の正面玄関に続く階段に用心深く腰を降ろした。アンは窓辺からその様子をじっと見ていた。ギデオンは革のケースを開け、何か巻物のような物を取り出して広げる。アンは自分が無意識に、ギデオンに向かって短い祈りの言葉を呟いているのに気づいた。

「伍長!」グレインジャーは声高に命じた。「ギデオン・ローレンスを通せ!」


 ギデオンは公邸の玄関先に坐っていた。あまり長く待たされないように祈り始め、それから祈るのを止めた。前庭には2本の旗竿が立てられている。エメリアの国旗と教皇府の紋章を染め抜いた旗が生ぬるい風にゆったりとはためていた。その向こうにはみすぼらしい灌木が点在する、起伏のゆるやかな平原が連なっている。

 ミスル公国の首都カーヘラから南へ下る1週間の旅をようやく終えたところだった。埃まみれでエヴァソに着いた今、ピジクスから受け取った拓本をじっと見ている。

 肉食獣が悪意に満ちた嘲笑の眼でこちらを見返している。1匹の蠅がその顔を這い始める。突然、ギデオンは拓本から眼をそむけたくなった。ギデオンは拓本を革筒に戻した。

 その時、舗道に軍靴の音が迫ってきた。ギデオンは思わず顔を上げた。エメリア軍の兵士がギデオンの傍らを通り過ぎ、街に向かって進む。規則正しい足音。曹長の号令が飛ぶ。汗が褐色の軍服を黒く染め、焼けつくような太陽の下で兵士の顔がギラギラと光っている。

「しっかり歩け、このウスノロども!」曹長が怒鳴る。「1、2、1、2!」

 熱風が吹き上がる。砂埃がギデオンの顔と首に叩きつけた。なぜか砂埃は冷たい。煙った雨のようだ。


 今日は休みなのかハスト・ドゥ・デン・ウアラウブ

 街へお買い物にでも行くのかゲーエン・ヴィア・イン・ディ・シュタート・フィーライヒト・アインカウフェン


 突然、異国の言葉がギデオンの耳を突いた。兵士たちの黒い軍靴が狭く高い家並みの間を抜け、石畳の上を進軍する。ギデオンは記憶と現実の狭間にとらわれ、身体を前後にぐらぐらと揺すった。

 肩に何者かの手を感じる。ギデオンはハッと我に返って身を翻した。背後にアメンドラ党の兵士が立っている。刹那、視界が崩れる。アメンドラ党の兵士の姿は若いエメリア人伍長に変わった。グレインジャー少佐の部下だろう。

「ローレンスさん。少佐がお待ちです」

 ギデオンはあわてて呼吸を整えた。

「ありがとう」

 伍長の後からグレインジャー少佐の執務室に入った。黒っぽい板張りの部屋で、床に薄い色の織物が敷いてあった。グレインジャーは執務机の前に坐っていた。ギデオンは革筒を脇の下に挟んだ。

 グレインジャーの態度は、まさに《領主》という言葉が似合いそうなくらい、ふてぶてしかった。モンヴァサのこの一帯を領地よろしく支配し、もともと地元住民のものだった土地を勝手に分割し、エメリア人に分け与えているのだ。

 こうした行為は当然、現地民との間に深い恨みを残した。エメリア側の横暴に対抗し、どこかの部族が蜂起しない年はなかった。しかし、圧倒的な武力でエメリア政府は蜂起の萌芽をことごとく摘み取ってきたのである。現地民の間では、もはや部族同士の対立を越え、一致団結して憎きエメリア人を自分たちの大地から追い払おうという機運が高まっているという。ギデオンはそんな話も聞いていた。

 白い肌の憎きエメリア人。その代表がグレインジャー少佐だった。電気のある暮らし。上等の服。贅沢なご馳走。植民地政府の官吏たちは高い税金を徴収し、法外な地代を巻き上げる。税金や地代が払えない者は軍に徴集され、召使や料理人として働かされる。土地を奪われた地主たちは困窮した。救いを求めて直訴すれば、自由のない労働契約を押しつけられる。

 地元民に対する圧政を眼にする度、ギデオンは怒りにふつふつと沸き立った。しかし、このような連中に対抗することは無駄であり、時には危険だということも身に染みて知っている。学問の世界にひっそりと隠れている方がずっと簡単だった。

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