嵐の後の胸騒ぎ

元の部屋で一人暮らしに戻って二度目の週末。


僕はばあちゃんの家に足を運んだ。


出迎えたばあちゃんは、杏さんが一緒じゃない事にがっかりしていた。



ばあちゃんが淹れてくれたお茶を飲みながら、僕が途中で買ってきた大福を二人で食べた。


「今日も一緒に来てくれるもんだと思って、夕飯の材料多目に用意しといたんだけど残念だねえ。杏お嬢さんは元気になさってる?」


ばあちゃんが何気なく言った一言に、僕は黙り込んで手元を見つめた。


「もうここには来ないかも…。」


「どうして?」


杏さんが来るのを楽しみにしていたばあちゃんには、話しておいた方がいいかも知れない。


「杏さん、会社辞めて有澤家に戻ったんだ。」



それから僕は、杏さんが有澤家に戻らざるを得なくなった理由をばあちゃんに話した。


お祖父様が心臓の病気で会長職を退く事や、社長の後継者に杏さんが選ばれた事。


そして杏さんが有澤家に戻ってイチキの御曹司と結婚する事。


「イチキの御曹司って…穂高さんの事かい?」


「うん…。杏さんは結婚したくなかったみたいなんだけどね。」


イチキの御曹司との結婚を回避するために、杏さんが僕を婚約者に仕立て上げた事を話すと、ばあちゃんは妙に納得した様子でうなずいた。


「穂高さんと結婚ねぇ…。誰が決めたの?」


「杏さんのお祖父様。」


「お祖父様ね…。」


ばあちゃんは大福を口に入れながら眉間にシワを寄せた。


「私はてっきり、杏お嬢さんと章悟はいい仲なんだと思ってたんだけど。」


「ホントにそうなら良かったんだけど…。」


「章悟は杏お嬢さんが好きだったの?」


「……うん…。でも言えなかった。僕と杏さんとでは住む世界が違うし。」


「家柄とか貧富の差で相手を選ぶなんてイヤな話ね。」


ばあちゃんは空いた湯飲みにお茶を注ぎ、ため息をついた。


「いくらお金持ちでも、やっぱり人柄は大事よ?穂高さんは昔から計算高いというか、ちょっと悪知恵の働く人だったから。あまりおすすめはできないね。」


「そうなんだ…。例えば?」


「あの人は小さい頃から、自分がお金持ちだって自覚があったから。幼稚園の時に、自分以外の子と杏お嬢さんが仲良くしないようにしたりしてね。」


「どうやって?」


「親がイチキの会社に勤めてる子たちを家に呼んで、言う事を聞かないとお父さんに言いつけるとか言ってたみたいよ。その子達が食べた事のないような高いお菓子をちらつかせて、言う事を聞けば食べさせてやるとか。」


幼稚園児が親の地位と財力で友達を買収?!


「その子達の弱みを握って、言う事を聞かないとその子達のしたいたずらを先生に言いつけるとか。」


更に脅迫まで?!


「その子達の親もクビにされるのが怖くて下手に動けなかったんだね。だから杏お嬢さんと仲良くしようとする子は穂高さんしかいなかったみたいだよ。」


なんて奴だ。


ガキのくせに買収や脅迫なんて恐ろしい。


確かにあいつは僕を庶民だとバカにしていた。


子供の頃からその辺はまったく変わってないと言う事だ。


杏さんにそんな奴と一緒になって欲しくない。


「それにしても…どうして杏お嬢さんは急に会社を辞めて家に戻る事にしたの?」


「うん…いろいろあって…。」



会社で起こった盗作騒動や、有澤家の人間として杏さんがその責任を取る形で会社を辞めた事を話すと、ばあちゃんは目頭を押さえながら何度も首を横に振った。


「おかわいそうに…濡れ衣を着せられたままで会社を辞めさせられるなんて…。」


「杏さんは何も悪くないのに見せしめにされてさ。杏さんはどちらにしても有澤家に戻るために会社を辞めるつもりでいたとは言ってたけど…。」


盗作騒動がなければ、杏さんはあんな形で会社を辞める事はなかったはずだ。


今更ながらデータを盗んだ犯人が恨めしい。


「でもおかしな話ね。あの天下の大企業の有澤が、盗作なんてケチな事をするかしら。」


「うーん…有澤グループって言っても会社はたくさんあるからなぁ。それこそお祖父様や社長の目の届かない場所で誰かが…。」



いや、待てよ。


その誰かって、結局誰なんだ?


あの盗作騒動は誰かが杏さんを陥れるために企んだとして、なぜ盗まれたのが僕のデータだけなんだろう?


他にも人気になりそうなメニューがたくさんあったはずなのに、よりによって僕の作った地味なメニューだけ?


「ばあちゃん。商品化が決まってた物だけじゃなくて、商品化にこぎつけなかった物まで僕のメニューだけが盗まれたんだよ。どう思う?」


ばあちゃんはお茶を飲みながら顔をしかめた。


「章悟、誰かに恨まれるような事した?」


「僕が?」


人に恨まれるような事って…なんかしたっけ?


ばあちゃんは腕組みをして、頭を左右に揺らし始めた。


ああ、久々に出た。


ばあちゃんは推理物のドラマが大好きで、ドラマを見ながら犯行手口や真犯人を推理する時のポーズがこれだ。


「章悟に恨みのある人間が、杏お嬢さんを辞めさせるための駒として章悟を狙ったのかも…。こういう場合は大抵、個人的な怨恨の可能性が高くて、実行犯と別に黒幕がいるのよね。」


「…そうなんだ…。」


ばあちゃん探偵・弥栄子(ヤエコ)降臨だ…。


「黒幕も実行犯も、杏お嬢さんと章悟の両方を知ってる人間じゃないの?」


「それって…社内の人間って事?」


「黒幕は二人をよく知ってる社内の人間を使って犯行に及んだと…。黒幕の狙いは杏お嬢さんだとして…どんな甘い話で実行犯をたぶらかしたのかしら。」


なんか、いきいきしてるな。


ばあちゃんが歳の割に元気でしっかりしてるのは、推理ドラマで脳を活性化させてるからなのかも。


ばあちゃんはさっきから一人でブツブツ呟いている。


こうなると長いんだ。


僕は急須にお湯を注ぎ、湯飲みに熱いお茶を淹れた。


それにしても社内の人間って…どれだけいると思ってんだ。


そんなの、まず一番に疑われるのは僕だろう。


試作室に頻繁に出入りする社員も別室に呼ばれて、いろいろ聞かれたと言っていた。


矢野さんは普段から交遊関係が広いから、他の人たちよりあれこれ聞かれたみたいだった。


…そういえば、昨日矢野さんが気になる事を言ってたな。


僕は熱いお茶をすすりながら、昨日矢野さんから聞いた話を思い出した。





昨日の夜、僕と矢野さんはまた例の小料理屋で酒を飲みながら食事をしていた。


ある程度空腹が満たされた頃、矢野さんが、そういえば…と声を潜めた。


「なぁ…渡部の事で変な話聞いちゃったんだけどさ…。」




退職する前、渡部さんはやけに羽振りが良かったらしい。


普段はあまり高価な物を身につけたり派手に遊んだりはしなかったのに、突然高価なブランド物を身につけるようになり、連日のように同僚と飲みに行ったりしていたそうだ。


ボーナス後でもないのに、あまりの羽振りの良さに仲の良い同僚も首をかしげたらしい。


ただそれまで節約して、たくさん貯金していただけなのかも知れないが、急に人が変わったように散財する姿は誰が見ても妙だったと言う。


突然会社を辞めた理由は誰も知らないそうだ。


「鴫野にフラれたショックでやけになったのかもな。」


「そんな事はないと思いますけど…。部署も違うし、会社を辞めるほどでもないでしょう。」


「あー、でもなんかな、渡部が会社辞めて何日か経った頃に、広報部の子が渡部に会ったらしいんだけどさ。もう次の就職先は決まってるって。」


「そうなんですか?」


ずいぶんフットワークが軽いんだな。


「それとな、渡部がすっげぇ車から身なりのいい男と出てくるのを見たって。それおまえ?」


「絶対に違いますね。」


「俺はてっきりおまえと渡部が付き合ってるもんだとばかり思ってたからさ。そういうセレブなデートみたいなサービスでも利用したのかと思ってたんだけど。」


「そんなキザな事はしませんよ。渡部さんとはデートもした事ないし…。」


矢野さんは日本酒を飲みながら首をかしげた。


「渡部ってそんな奴だったかなぁ…。でもおまえじゃないなら、その金持ちの男に貢いでもらってたのかな。」


「きっと地味な僕なんかより、金持ちのいい男がいたんでしょう。」


渡部さんの事は別に好きじゃなかったから男がいようがどうでもいい。


だけど、美玖が他の男とホテルから出てきた現場を目撃した時の事が思い出されて、なんとなく後味が悪い。



なんだ。


あれだけ僕の事が好きだと言っていたくせに、他に男がいたわけだ。


だったらあんなに必死に僕にすがったりする必要なんてなかったんじゃないのか?


僕はあんなにも罪悪感と後ろめたさを感じて、杏さんの顔も見られなくなったというのに。


男ならきっと誰だって、たいして好きでなくてもかわいい女の子とセックスできたらラッキーだと思ったりするのかも知れない。


僕にだってそんな部分はあると思う。


最初のうちは涙を浮かべて僕にすがる顔が少しかわいく思えて、もっと泣かせてやりたくもなったし、ちょっといじめてやりたくもなった。


だけど一緒にいるうちに、僕を求める渡部さんの目が獲物を狙う女豹みたいで、どんどん嫌悪感を抱くようになった。


どこかで見た事のあるような、僕が嫌いなあの目付き。


不意に、遠い記憶に残る声が僕の頭に響いた。



『いい子で待っていてね。』



……思い出した。


写真でしか知らない、僕を捨てて男と消えた母親の目だ。


自分のお腹を痛めて産んだ子をあっさりと捨てて色恋に走った女の、獲物を狙う女豹のような目。



だから僕は、渡部さんに嫌悪感を抱いたんだ。


僕の体を求める渡部さんの目に、遠い記憶に残る母親の面影を無意識に重ねてしまったんだと思う。


もし僕が渡部さんを好きになれたら、彼女は純粋に僕を愛してくれたのかも知れない。


心が手に入らないならせめて体だけでもとか、体を重ねてしまえば心も手に入るとか、そんな歪んだ愛情表現にはならなかっただろう。


そうさせた責任は僕にあるんだと思う。


僕が最初にきっぱり拒めば、渡部さんは愛のない体だけの関係を求めたりはしなかったかも知れない。


渡部さんはどんな想いで、一度だけでいいから抱いてくれと言ったのか。


あの時僕はただそんな関係を終わらせたくて、渡部さんの言う通りにした。


それは渡部さんに対する愛情が僕になかったからできた事だ。


杏さんに同じ事を言われて拒んで初めて、好きな人に求められたいと思う気持ちがわかった気がする。



今更ながら自分のした事を悔やんでいると、矢野さんが言った。


「渡部、会社辞める時には既に次が決まってたんだ。だから誰にも理由話さなかったんだよ。そりゃそっちの方がうちより数段上だもんなあ。」


「そんな大きな会社なんですか?」


「イチキコーポレーションの本社広報部だってよ。なんでも強力なコネがあるんだとさ。どうやってあんな大手にコネなんて作ったんだろうな。」


「イチキコーポレーション…?」


思わぬ社名が出てきて、僕は耳を疑った。







ばあちゃんは相変わらず腕組みをして、頭を左右に揺らしながらブツブツ呟いている。


さっきのばあちゃんの推理と夕べの矢野さんとの会話が合わさって僕の頭の中をグルグルと駆け巡った。


盗作騒動と言い杏さんの退職と言い、渡部さんがイチキコーポレーションに強力なコネがある事にしても、ただの偶然にしては出来すぎている。


あれ…?


これってもしかして…。


なんか…安っぽい推理ドラマの謎解きみたいなパターンが出来上がっちゃったんですけど…。



「ばあちゃん、ちょっと…。」


「これは…痴情のもつれの線も有り得るね!」


す、鋭い…。


「あのさ…ちょっと気になる事が…。」









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