どうにもならない片想い

杏さん、ちゃんと食べてくれたかな…。


昼休みが済んで、試作室で昆布から出汁を取りながらぼんやりしていると、矢野さんが慌てた様子で僕の肩を叩いた。


「おい、沸騰してるぞ!!」


「あっ…。」


しまった、やり直しだ。


火を止めて、沸騰したお湯の中でベロベロになった昆布を箸でつまみ上げた。


あーあ、何やってんだか。


「どうしたんだよ、鴫野らしくないな。」


「すみません…ちょっと考え事を…。」


「ボーッとして怪我するなよ。」


「気を付けます。」


仕事中なんだからちゃんとしないと…とは思うものの、何を見ても何をしていても、杏さんの事ばかり思い出してしまう。


矢野さんは調味料を計りながら大きなため息をついた。


「杏さん、結局会社辞めたんだな。」


「…そうですね…。」


「おまえのメニューのデータ盗んだのは杏さんじゃないって俺は思ってるけど…やっぱりこの会社には居づらくなったんだろうな。」


「……そうですね…。」


ホントの事なんて僕の口からは何ひとつ言えない。


「それにしても、一体誰の仕業だったんだろうな。」


「盗作ですか?」


「それもだけど…杏さんが有澤家の人間だって言い出した奴とかさ。」


確かにそうだ。


杏さん本人が自ら口外するわけがないし、一体どこからその情報が漏れたんだろう?


「企業スパイとかさ…ドラマみたいな事もあるんだな。普通の社員のふりしてさ、いつも一緒に働いてる奴が実はスパイかも知れないじゃん?疑いだしたら人間不信になりそうだ。」


「それはイヤですね…。」


杏さんは疑われたままで会社を去った。


きっとこの件の真相はうやむやのまま忘れられるんだろう。


「なぁ、仕事の後、時間あるか?」


「ありますけど…。」


「ちょっと気になる噂聞いたんだけど、会社じゃちょっとアレだから…。」


気になる噂ってなんだろう?


どうせ早く帰ったって今日からは一人だ。


杏さんの夕飯の支度をする必要もない。


僕は矢野さんの誘いに乗る事にした。





仕事の後、矢野さんと例の小料理屋に足を運んだ。


初めてここに来た時は、杏さんも一緒だったっけ。


あの日から僕のありふれた一人暮らしの平凡な毎日は変わり始めた。




料理と日本酒を適当に注文した。


日本酒で乾杯して、矢野さんはネクタイをゆるめた。


「よく考えたら鴫野と二人だけでここに来るのは初めてだな。」


「そうですね。」


二度目に来た時は、なぜか渡部さんが先にここに来ていた。


「そういえば…なんでこの間は渡部さんがいたんですか?」


「ああ…あれな。渡部から頼まれたんだ、鴫野に会わせろって。自分からは誘いにくいから、俺に鴫野を誘ってくれってさ。」


やっぱりな。


そんな事だろうとは思ってたけど。


「あいつも会社辞めちゃったけど…渡部となんかあったか?」


「…なんて言うか…付き合ってくれって言われたけど、断ったんです。でもなかなかわかってくれなくて。」


「なんで断った?」


「同僚としては悪い子ではなかったけど、どうしても恋愛の対象としては好きになれなかったんです。」


渡部さんとの間にあった事は詳しくは話さなかったけど、一緒にいるうちに渡部さんがどんどん多くを求めるようになったのが苦痛だったと話した。


「ふーん…。よく一緒にいたみたいだし、渡部からもいい感じだって聞いてたんだけどな。」


好きにはなれなかったし、付き合ってもいなかった。


それなのにあんな事をした。


思い出すとまた後悔と罪悪感で胸がしめつけられた。


「渡部は入社してすぐの頃から鴫野の事が好きだったからな。彼女がいる時もあきらめられないってずっと言ってたし、一緒にいるうちに欲が出たんだろ。」


「僕なんかのどこが良かったんでしょう…。」


「さあな。それは渡部にしかわからんよ。おまえの気持ちがおまえにしかわからないのと同じだろ?」


「…ですね。」



料理を食べながら日本酒を飲んだ。


チビチビと枝豆を食べながら日本酒を飲んでいた杏さんの姿を思い出す。


最初は食べるのが苦手だった杏さんが、僕の作った料理をいつも残さず食べてくれた。


人と食事をするのは苦手だと言っていたのに、僕となら平気だと言ってくれた事や、一緒に食べると更に美味しいと言ってくれた事。


食事をするだけで、僕の心は一緒に過ごした杏さんとの思い出で溢れかえった。


視界がぼんやりとにじんで、僕は慌ててそれを隠すようにうつむいた。


日本酒を飲んでいた矢野さんが怪訝な顔で僕を見た。


「…どうした?」


「ちょっと…。」


ごまかしきれない想いが涙になって、僕の目から溢れた。


「泣きたいほどつらい事でもあったか?」


「つらいって言うか…。」


僕は手の甲で涙を拭って日本酒を一口飲んだ。


「気付いたってどうにもならない事もあるんだなって。」


「…なんだそれ。」


矢野さんはよくわからないと言いたそうな顔をして、揚げ出し豆腐を口に入れた。


「そういえば…気になる噂ってなんですか。」


僕が尋ねると、矢野さんは眉間に少しシワを寄せた。


「昼休みにな…人事部の子と広報部の子が話してるの聞いたんだけど…。」




昼休み、矢野さんが1階のコンビニで買った弁当をランチルームで食べていた時に、すぐそばに座っていた人事部と広報部の女の子が話していたそうだ。



“芦原部長が退職させられたのは他の社員に対する見せしめみたいなものだったらしいよ。”



盗作の犯人を探すにしても、多数の社員を疑わざるを得ない状況で、杏さんが有澤家の人間だという噂が流れた。


その事実を調べあげるのは容易い事だ。


犯人が杏さんでないにしても、杏さんは有澤家の人間として責任を取るという形で退職を余儀なくされた。


もちろん自主退職という名目で。


社内に企業スパイがいるかも知れないという社員の不安を払拭したかったのだろう。


データを盗んだ犯人を探し出すより見せしめとして、若くして役職に就いて目立つ杏さんを退職に追い込む方が簡単だったんだと思う。


結局杏さんは自分の決めた道も本当の恋愛もあきらめて、疑われたままで会社を去った。



昨日の夜、杏さんは本物の恋人にするように優しく抱いて欲しいと僕に言った。


だけど僕はそれを拒んだ。


ホントに好きなのに、偽りの恋人を演じて体を重ねる事はしたくなかったから。


結果的に望みを叶えてあげられなかった僕は、杏さんを悲しませたのかも知れない。


けれど、僕自身が愛のないセックスで傷付くのが耐えられなかった。


好きじゃなかった渡部さんとは、その関係を終わらせるためだけの愛のないセックスをした。


それなのに、好きだから杏さんを抱く事はできなかった。


好きだと伝える事もできないまま、杏さんとの生活は終わった。


どうにもならないのに、杏さんを想うと胸が痛む。



「鴫野…やっぱりなんかあったのか?」


黙りこんでしまった僕を、矢野さんが心配そうに見ている。


「…なんにもなかったんです。」


「ん?どういう意味だ?」


「最初から偽物だってわかってたのに…いつの間にか僕の気持ちだけが本物になって…。」


また僕の目から涙が溢れてこぼれ落ちた。


どんなに拭っても、涙は留まるところを知らない。


傷付いて泣くくらいなら恋愛なんてしなければいいと杏さんは言った。


僕は傷付いて泣いてるわけじゃない。


どんなに好きでも手の届く事のない杏さんを想うと胸が痛くて、自然と涙が溢れる。


美玖にフラれて泣いたのは、泣くほど美玖を好きだったわけじゃなくて、きっと裏切られた事が悲しかったからなんだ。


だけど今はそうじゃない。


泣くほど人を好きになれる僕が羨ましいって、杏さんは言ったっけ。


今その僕を泣かせているのは杏さんだ。



「なぁ鴫野…それってもしかして好きな女がいるって事か?」


「…ハイ。」


「泣くほどつらいなら何もかも話してみろよ。もちろんここだけの話にしておくから。」


いつになく優しい声で矢野さんがそう言った。


他言無用だと言っただろう、って杏さんに怒られるかな。


だけどもう、僕はこの胸の痛みに一人で耐えられそうもない。



「どうにもならない片想いだけど…聞いてくれますか?」





それから僕は、この数ヶ月の間に起こった杏さんとの出来事を矢野さんに話した。


矢野さんはかなり驚いていたようだったけど、黙って最後まで話を聞いてくれた。


僕が話し終えると、矢野さんは大きくため息をついた。


「そうか…。そんな事があったんだな。」


「終わっちゃいましたけどね…。」


矢野さんは女将さんに日本酒のお代わりを注文して、枝豆を口に放り込んだ。


「それさ…俺の勝手な解釈だけどな。杏さんは鴫野の事、好きだったんじゃないか?」


思いもよらぬ一言に、僕はむせそうになった。


「そんなはずないでしょう…。」


杏さんは僕に、禊のつもりでしばらく付き合えと言った。


僕は酔った勢いで杏さんを無理やり襲ってしまったと思い込んでいたから、それを断れなかった。


「杏さんは決められた相手と結婚するのがイヤで、禊だと思って婚約者のふりをしろって僕に言ったんですよ?」


「そうかも知れないけどさ…杏さんだって女だぞ?好きでもない男と暮らすとか有り得ないだろ?しかも一度襲われかけてんだぞ?」


「そう…ですかね?」


「ホントは鴫野が好きだから、好きでもない相手と結婚する前に一度くらい鴫野に抱いて欲しくて、そう言ったんじゃないのか?」


「まさか…。」


そんなはずはないと思っているのに、微かな希望の光にすがろうとする自分がいる。


バカだな。


杏さんとは住む世界が違う。


僕みたいな庶民のしがないサラリーマンが、ただ好きだというだけでどうにかできる相手じゃない。


「せめてさ…鴫野の気持ちくらいは伝えたらどうだ?そうすればダメならダメで、吹っ切れるだろ?」


「…決定的に失恋する事が前提の告白ですね。立ち直れるかなぁ…。」


「大丈夫だよ。この間彼女にフラれたとこなのに、あの杏さんを好きになったんだろ?おまえ結構強いんだって。」


……一言多いんだよ、矢野さんは。



だけど矢野さんが言うように、もし杏さんに僕の気持ちを伝えていたら、ほんの少しでも何かが変わっていただろうか?


せめて一言、好きだと伝えられたら…。



伝えられなかった想いが、胸の中で悲鳴をあげた。



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