最後にもう一度だけ

翌日の夜。


夕飯の後、杏さんは黙って僕に何かを差し出した。


手の中のそれを僕の手に握らせて、杏さんは静かに笑った。


「なんですか…これ。」


僕は握りしめた手を開く事もできないまま尋ねた。


「鴫野が前に住んでいた部屋の鍵だ。明日、この部屋に来た時のように鴫野が会社に行っているうちに引っ越しを済ませておく。長いこと世話になったな。」


「……。」


「婚約者のふりももう終わりだ。いろいろ我慢させて悪かった。これで鴫野は自由だ。誰と付き合っても咎められる事はない。」


突然突き付けられた言葉に、僕は茫然と立ちすくんだ。


これで終わりなんだ。


もう偽物の婚約者としても杏さんのそばにはいられない。


「……鴫野との生活は…楽しかった。」


「杏さん…僕は…。」


あなたが好きです、と言いかけて、その言葉を飲み込んだ。


僕の気持ちを知ったところで、杏さんにとっては何ひとついいことなんてない。



「ひとつだけ…鴫野に謝らないといけない事がある。」


「……なんですか?」


杏さんは小さく息をついて、僕から目をそらした。


「本当は…何もなかったんだ。」


「……え?」


一体なんの事だろう?


「私が送っていったあの夜…鴫野は私を襲ったと思っていたようだけど、実際は…鴫野の思うような事はしていない。」


「………えっ?」


杏さんの話によると、僕は杏さんを押し倒して強引にキスをして、ほんの少し肌に触れて眠ってしまったらしい。


つまりは夢だと思っていたのが実際に僕がした事の記憶で、そこから先は僕の憶測だったと言うことだ。


「だったら…シーツに付いてた血の跡は…。」


「ああ…それは多分、鼻血だな。」


「鼻血?!」


「眠ってしまった鴫野の体の下から這い出た時に、寝返りを打とうとしたおまえの肘が私の鼻に激しく命中した。」


僕が杏さんに激しく肘鉄を食らわして、まさかの鼻血…。


「すっ…すみません…。」


「ベッドを汚さないようにすぐにハンカチで押さえたつもりだったんだが…。」


「だったらもうひとつ…ゴミ箱にやけにたくさんのティッシュが捨ててあったのは…。」


「それも覚えていないか。ティッシュで鴫野の涙を拭いていたんだ。」


「涙…ですか?」


「帰ろうとしたら私の手を握ってな…ずっと別れた彼女の名前を呼びながら泣いていた。」


「ええっ…。」


僕が泣いてた?!


杏さんの手を握って、美玖の名前を呼びながら?!


カッコ悪いにも程がある。


よりによって杏さん相手にそんな情けない姿を晒すなんて!!


「さすがに鼻血を拭いたハンカチではかわいそうだと思って、枕元にあったティッシュを使ったんだが。」


「すみません…。みっともないところをお見せしました…。」


「いや…泣くほど傷付くなら恋愛などしなければいいと言ったけどな…。」


杏さんは小さく苦笑いした。


「私は恋愛した事は一度もないし、そこまで人を好きになった事もない。泣くほど人を好きになれる鴫野が、少し羨ましかった…。」


杏さん、ホントはそれが心残りなんじゃないのか?


少なくとも僕にはそう見える。


「恋愛を一度も経験しないままで市来さんと結婚しても、杏さんは後悔しませんか?」


「後悔も何も…。」


「僕にだけは本音を話してください。」


杏さんは困った顔をしてため息をついた。


「そうだな…。一度くらいは本気の恋愛という物も経験してみたかった。鴫野にはムチャを言ったけど、ふりとは言えデートもしたし、ほんの少しでも経験できて楽しかったぞ。」


「杏さん…。」


「できれば本当は…。」


そこまで言いかけて、杏さんは口をつぐんだ。


「本当は…なんですか?」


「いや、もういいんだ。もう婚約者のふりをする必要はないし、鴫野にこれ以上ムチャな要求をするわけにはいかない。」


「…できれば本当は、どうしたいんですか?」


杏さんの目をじっと見つめて、もう一度尋ねてみた。


杏さんは目を見開いてから、下を向いてモゴモゴと口の中で何かを呟いている。


……言うのが恥ずかしいのかな。


かわいいから無理やり白状させちゃおうか。


「それじゃ聞こえませんよ。」


「……やっぱりいい。」


「そんなの僕が気になって眠れません。ちゃんと言ってください。」


「……。」


恥ずかしそうにうつ向いて口ごもる顔があまりにもかわいくて、僕は思わず杏さんを抱き寄せた。


杏さんは驚いて身を固くした。


「最後にもう一度だけ…恋人のふりしましょうか。」


「……うん。」


小さくうなずいた杏さんは、僕の胸に顔をうずめた。


いつになく素直に僕に身を預ける杏さんは、どこか儚げで頼りなくて、僕は杏さんを壊してしまわないように優しく抱きしめた。


「杏は本当はどうしたいの?」


「もう一度、一緒に遊園地に行きたかった。」


「うん…次に行く時には一緒に観覧車に乗ろうって、約束したもんね。」


「乗ってみたかったな…。」


「それから?」


「章悟の作った料理をもっと食べたかった。」


「うん。それから?」


「普通の恋人同士みたいなデートを、もっとしたかった。」


杏さんは核心に触れるのを避けるように、他愛ない小さな望みばかりを口にした。


「本当に、それだけ?」


僕が尋ねると杏さんはまた口ごもった。


そして僕のシャツをギュッと握りしめた。


「……本物の恋人にするみたいに…。」


「…みたいに?」


「優しく…して欲しい…。」


優しく…何をして欲しいのか。


僕は杏さんを抱きしめながら考える。


「優しく…何をして欲しいの?」


「…本物の恋人にするみたいに、優しく……抱いて欲しい…。」


杏さんは僕の胸に顔をうずめたまま、消え入りそうなか細い声でそう言った。


「えっ…。」


何かの間違いじゃないかと僕は耳を疑った。


「好きな人に一度も抱かれた事もないままで、決められた相手と結婚したくない…。」


杏さんの気持ちは痛いほどわかるけど、その相手が偽物の僕なんかでは、きっと杏さんが後悔するだろう。


杏さんは“好きな人に”と言った。


たとえ僕が杏さんを好きでも、杏さんの好きな人は僕じゃない。


どんなに上手に恋人のふりをしても、そこに愛がなければ、きっと虚しさが残るだけだ。


「それは…偽物の僕じゃダメでしょ?僕たちは本当の恋人じゃないから…。」


「……うん…。」


杏さんはゆっくりと僕から離れて顔を上げた。


さっきまでの頼りなげな表情は消え失せて、杏さんはいつものように振る舞った。


「変な事を言って悪かった…。この私が少女じみた事を言うなんておかしな話だな。全部忘れてくれ。」


「杏さん…。」


「明日の夜は間違えないように元の家に帰るんだぞ。」


杏さんはそれだけ言うと、自分の部屋へ戻っていった。



一人きりになると、僕はその場に座り込んで頭を抱えた。


悲しそうな杏さんの顔が、目に焼き付いて離れない。


僕はどうすれば良かったのか?


好きな人に一度も抱かれた事もないままで決められた相手と結婚したくないと、杏さんは言った。


本当は杏さんを思いきり抱きしめて、好きだと言いたかった。


夢じゃなくて本当に、この手で杏さんを抱きたいと思った。


だけど杏さんは本当の恋人にするみたいに優しくして欲しいって言ったんだ。


僕がどんなに本気で杏さんを想っても、これ以上ないくらい優しく抱いても、僕は杏さんの本物の恋人にはなれない。


杏さんとの思い出を増やすほど、明日からの一人の生活はつらくなる。


きっとこれで良かったんだと思う。


たとえ体を重ねても、杏さんが僕を好きだと言ってくれなければ意味がないと気付いたから。





翌朝。


僕はいつも通り朝食と弁当を用意した。


僕と杏さん、二人分の弁当。


杏さんが好きだった蓮根のはさみ揚げやカボチャの煮付け、ほうれん草のごま和え、タコさんウインナーにリンゴのウサギ。


そして刻んだ梅とシソとちりめんじゃこのおにぎり。


それからいつものように具だくさんの味噌汁。


杏さんに僕の料理を食べてもらうのは、きっとこれで最後だ。



僕が会社に行く時間になっても、杏さんは部屋から出てこなかった。


夕べの事が気まずくて、顔を合わせづらいのかも知れない。


最後くらい一緒に朝食を食べたかったのに。


僕は合い鍵をテーブルの上に置き、静かに頭を下げて部屋を出た。



さよなら、杏さん。



恋人のふりはもうできないけど、僕が勝手に杏さんの事を好きでいるくらいは許されるかな。


伝える事さえできなかったこの想いが、いつか自然と思い出に変わるまで。






その日、社内では杏さんの退職が告げられた。


突然現れた新しい部長はちょっと偉そうな50代のメタボなおじさんだった。


メタボ部長はあれこれ偉そうに口出しするばかりで、これと言ってたいした働きはしない。


若くて美人で仕事のデキる部長だった杏さんとの差がありすぎて少し戸惑う。


いつも仏頂面で仕事には厳しかったけど部下の事はよく見ていて、美人なのに自分の細かい事にはあまり関心がなくて、ホントに変わった人だった。


もう杏さんがデスクでカロリーバーをかじっている姿も、朝オフィスの床に寝転がっている姿も、見られない。


僕の作った料理を珍しそうに眺める姿も、料理を口に入れて瞬きする姿も、食べ終わった後に穏やかな顔で手を合わせる姿も、もう見られない。


僕の作った料理はどれも美味しいって言ってくれたっけ。


僕が作ったから美味しいんだよ、って。


僕が作った料理をもっと食べたかった、って。


できればこの先もずっと、杏さんに僕の作った料理を食べて欲しかった。


二人で向かい合って、食卓を囲んで。



もう聞く事のない、杏さんの“美味しかった、ありがとう”って言葉を、最後にもう一度聞きたかった。





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