やっと笑ってくれたのに
その週末。
ばあちゃんの様子を見に行こうとすると、珍しく部屋から出てきた杏さんが、車で送ると言ってくれた。
部屋に籠りきりで、気分転換したいのかな。
そんなふうに思った僕は、杏さんの厚意に甘える事にした。
さすがと言うかなんと言うか、高そうな乗り心地のいいドイツ製の立派な車で、杏さんは僕をばあちゃんの家まで送ってくれた。
お茶くらい飲んで行ってくださいと言うと杏さんは遠慮して断ったけれど、僕は遊園地に行った時みたいに杏さんの手を引いて強引に家の中に連れて入った。
「ただいま!」
杏さんの手を握ったまま、玄関で大きな声を出すと、家の中からばあちゃんがゆっくりと歩いて玄関に出てきた。
「章悟、大きな声を出して…。」
ばあちゃんの顔を見た瞬間、杏さんが僕の手を強く握った。
「…ばあや?」
え?
「……杏お嬢さんですか?!」
ええっ?!
杏さんは僕の手を離して、ばあちゃんに抱きついた。
「ばあや…!会いたかった…!」
「お嬢さん…立派になられて…。」
何これ?
感動の再会シーンを前に、僕は茫然と立ちすくんだ。
「章悟あんた、この方…有澤 杏さんと、お知り合いなの?」
杏さんの苗字は芦原だろ?
「僕の上司の芦原 杏さんだけど…。」
僕が首をかしげると杏さんが僕の方を向いた。
「うちの社長は昔からの知り合いでな…社長の勧めもあって、私は会社では母の旧姓の芦原を名乗っている。本名は有澤 杏だ。」
「そうなんですか?」
そんな事もできちゃうのか。
「杏お嬢さんは、昔私が女中頭を勤めていた有澤家のお嬢さんでね。」
「え?ばあちゃんの勤めてた家って杏さんの実家なの?」
ばあちゃんは杏さんに頭を下げた。
「孫がお世話になって…。」
杏さんはまだ信じられない様子だ。
「ばあやが鴫野のお祖母様だったとは…。」
「それにしても二十何年ぶりかしら。まさか杏お嬢さんにお会いできるなんて…。」
あ、なるほど。
あの写真の女の子は杏さんで、杏さんの言っていたばあやは僕のばあちゃんだったんだ。
だから杏さんは、ばあちゃんに育てられた僕の事を、ばあやに似てるって思ったのかも。
ばあちゃんの作った料理で育った僕の料理は、ばあちゃんの作る料理に似てる。
すべて辻褄が合う。
「とりあえず…中に入ってお茶でも飲もうよ。ばあちゃんの好きな大福買ってきたよ。」
その日の夕方、ずいぶん怪我の具合が良くなったばあちゃんと僕は、一緒に台所に立って夕飯の支度をした。
今日の夕飯は味噌ちゃんこ鍋。
杏さんも一緒に三人で鍋をつついた。
ばあちゃんの作るつみれは相変わらず絶品だ。
少食の杏さんが、いつもよりたくさん食べていた。
大好きなばあやに会えたのがよほど嬉しかったのか、杏さんは楽しそうに笑っていた。
その夜は遅くなったので、杏さんもばあちゃんの家に泊まった。
僕は家を出る前に使っていた自分の部屋で、なかなか寝付けず布団に横になっていた。
まさか僕のばあちゃんが杏さんのばあやだったとは。
世の中広いようで狭いんだな。
杏さんは子供の頃を思い出したのか、ばあちゃんの前では、遊園地に行った時みたいに無邪気に笑っていた。
なんだかちょっと悔しいな。
僕の前では恋人の演技で笑っていた杏さんが、ばあちゃんの前では素直に笑っていた。
だけど杏さんの大好きなばあやが僕の大切なばあちゃんだと思うと、それも悪くないかなって思えた。
杏さんが笑うと僕も嬉しい。
こんなふうに胸が温かくなるのはどうしてだろう?
翌日の夕方、ばあちゃんの家を出て帰宅した。
向かい合って夕飯を食べていると、杏さんは箸を止めて僕を見た。
「世の中にはすごい偶然があるもんだな。」
「そうですね…。」
杏さんは穏やかに笑みを浮かべた。
「もう会えないと思っていたから…会えて嬉しかった。」
「ばあちゃんも杏さんに会えて嬉しかったと思います。」
「うん…。」
うなずいて静かに笑う杏さんを見ていると、僕の胸がキュッと甘い音をたてた。
……なんだこれ。
かわいくて、愛しくて、抱きしめたくなる。
杏さんの笑顔を見たのは久しぶりだからかな。
ねぇ杏さん。
この笑顔をずっと隣で見ていたいと思うのは、身の程知らずだろうか?
偽物の婚約者でもいいから、このままずっと一緒にいたいなんて。
僕はどうしてこんな事を思っているんだろう?
入浴を済ませてリビングに戻ると、ソファーに座っていた杏さんが僕にビールを差し出した。
珍しい事もあるもんだ。
ビールを受け取り、少し間隔をあけて杏さんの隣に座った。
いつもは隣に座ったりはしないけど、今日はなんとなく少しでもそばにいたいと思ったから。
杏さんは何も言わずにビールを飲んでいる。
ローテーブルの上には既にビールの空き缶が3つも並んでいた。
どうしたのかな?
今日は飲みたい気分とか。
「杏さん、もうずいぶん飲んでますね。」
「鴫野も飲め。」
「いただきます…。」
まだ酔ってはいなさそうだけど、かなり速いペースでビールを煽っている。
大丈夫かな?
それからしばらく黙ってビールを飲んだ。
杏さんは4本目のビールを飲み干して、空いた缶をテーブルの上に置いた。
「鴫野がここに来て、どれくらいになる?」
「えーっと…2ヶ月…いや、もうじき3ヶ月かな…。ずいぶん経ちますね。」
「そうだな…。だけど…長いようで、あっという間だった…。」
杏さんは新しい缶ビールを手に取ってタブを開けた。
そしてビールをグイッと煽って、ため息をついた。
「…妙な事に巻き込んで悪かった…。」
「何言ってるんですか…。杏さんらしくないです。」
杏さんの声がいつになく弱々しい。
急にこんな事を言い出すなんて、今回の盗作騒動でよほど参っているのかも。
杏さんは突然ビールをすごい勢いで飲み干して膝の上で空き缶をギュッと握りしめた。
「会社を辞めて有澤の家に戻る事にした。」
「えっ…?」
唐突なその言葉に、僕は耳を疑った。
「今回の盗作騒動は私には身に覚えのない事だが…私が有澤の人間だと社内に知れ渡ってしまったからな。いくら無実を訴えても疑いの目は避けられない。会社から自主退職するよう遠回しにほのめかされた。」
「そんな…。」
杏さんは何も悪くないのに、なぜ会社を辞めなければいけないんだ。
全然納得いかない。
僕は思わず杏さんの手を強く握りしめた。
「杏さんが会社を辞める事なんてない!ここで辞めたら、今回の事が杏さんのせいにされてしまいます!!杏さんは何も悪くない!!」
杏さんは少し驚いた顔をしてから、僕の手をもう片方の手でポンポンと叩き、小さく笑った。
「ありがとう。そうかも知れないけど…もういいんだ。社長の手前もあるし…どちらにしろ、私は会社を辞めなければいけなかったから。」
「えっ…それどういう…。」
「お祖父様が来月いっぱいで会長職を退く事になったんだ。心臓に病を抱えているらしい。」
この間イチキの御曹司がここに来た時に、お祖父様が心臓の病気で、療養のために会長職を退く事を知らされたと杏さんは言った。
お祖父様が会長職を退く事で、現社長である杏さんのお父さんが会長職を引き継ぐらしい。
そんな事はずっと先の事だと思っていた杏さんは、家の事は弟に任せるつもりで家を出た。
けれど歳の離れた弟はまだ大学生で、この大企業を継ぐにはあまりに若すぎると、会長はじめ重役たちが満場一致で杏さんを後継者に推したそうだ。
「育ててもらった恩もある。大学卒業後から今まで、私のやりたいようにさせてもらった事にも感謝しているし…そろそろ現実と向き合う時が来たんだ。」
杏さんは少し寂しそうに笑った。
「だけど…有澤家に帰ると杏さんは、市来さんと…。」
「そうだな。穂高を婿養子として迎える事になるらしい。」
杏さんは突き付けられた現実に抗うのをやめてしまうつもりなんだ。
自分で選んだ好きな仕事も捨てて、本当の恋愛をしたこともないままで、自分の幸せもあきらめて。
「それで…杏さんは幸せですか…?」
「決められた相手と結婚して家を継ぐのは、有澤家の第一子として生まれた時から決まっていた。それに抵抗して今まで自由にさせてもらっただけでも幸せだと思わないとな。」
そんなの嘘だ。
恋をした事もないままで決められた相手と結婚するなんて、いくらなんでも悲しすぎる。
いつもは仏頂面の杏さんが、さっきからずっと笑っている。
その笑顔が痛々しくて、僕は杏さんの手を握りしめた。
「なんで無理して笑ってるんですか…。」
「無理なんてしていない。あれで穂高も悪いやつではないし、それなりにうまくやっていけるだろう。決断してしまえば、たいした悩みでもないな。」
「…嘘つかないでください。」
もうそんな心にもない強がりな言葉は聞きたくない。
杏さんの本当の気持ちを、話して欲しい。
僕は杏さんの頬を両手で包み込んで、その目をじっと見つめた。
「嘘じゃ…ない…。」
杏さんの目から、涙がポロリと一粒こぼれ落ちた。
ホントは泣きたいくせに。
こんな時まで強い自分でいようとする杏さんが愛しくて、堪えきれずにこぼれた涙を受け止めたくて、僕はたまらず杏さんを抱きしめた。
「強がらないで…今だけは…僕にだけは、本音で話して。泣いてもわめいても、全部僕が受け止めるから。僕はまだ…杏の婚約者だよ?」
「……章悟…。」
杏さんは僕の胸に顔をうずめて、小さな嗚咽をもらしながら涙を流した。
僕がどんなに引き留めても、杏さんは自分の決めた道を行くんだろう。
偽物の婚約者としての僕の役目も、まもなく終わりを迎える。
だから今だけ…もう少しだけ、このままで。
僕の腕の中で無防備に涙を流していて欲しい。
杏さんの涙に僕も鼻の奥がツンとなって、視界がぼやけた。
しばらくすると杏さんは、僕の腕の中で泣き疲れて眠ってしまった。
子供みたいにあどけない寝顔には、いくつもの涙の跡。
僕は杏さんの髪を何度も優しく撫でた。
偽物の婚約者じゃなくて、本物の恋人になれたら良かったのに。
杏さんに笑って欲しくて、喜んで欲しくて。
杏さんに言えないような事をしている汚ない自分を知られるのが怖くて。
自分でも気が付かないうちに、僕の心の中には杏さんがいる。
杏さんが笑うと嬉しくて、二人で向かい合って食事をすると、温かく心が満たされた。
僕の手で連れ去ってしまえたら、杏さんはずっと笑っていてくれるだろうか?
……バカだな。
こんないい加減で汚ない僕では、杏さんを幸せになんかしてあげられない。
「ごめんね…何もしてあげられなくて…。」
強く抱きしめた杏さんの髪に、僕の目から涙がこぼれ落ちた。
好きになってもどうにもならない相手なのに。
今更好きだと気付いても遅いのに。
僕の気持ちを杏さんに伝える事はもうできないけれど、恋人ごっこの最後に一度だけ…。
「杏…好きだよ。」
眠っている杏さんの唇に、微かに触れるだけのキスをした。
胸が強くしめつけられるように痛んで、涙があとからあとからこぼれ落ちた。
男のくせにこんなに泣くなんてカッコ悪い。
今まで恋人と別れてもこんなに泣いた事はなかったのに。
カッコ悪いついでに泣くだけ泣いたら、杏さんの事はきれいさっぱりあきらめよう。
いつかは杏さんも、僕と一緒に暮らした日々の事なんて忘れてしまうんだろう。
短い夢を見ていたみたいに。
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