疑惑

あの日から僕は、杏さんの顔をまともに見る事ができなくなった。


杏さんは相変わらず社泊か夜遅くに帰宅するので、ほとんど会話もない。


夕飯を一緒に食べる事もなくなった。


僕は一人で早めに夕飯と入浴を済ませて部屋に戻る。


杏さんは夜遅く帰って来て、僕が用意した夕飯を一人で食べる。


僕は毎朝早起きして朝と昼の弁当を作り、杏さんの朝食をテーブルに並べて家を出る。


そして会社で朝食用の弁当を食べる。



本当は、僕の作った料理を食べて笑う杏さんの顔が見たい。


だけどもう向かい合って食事をする事さえためらわれる。


一緒に暮らしていたって、以前のように心が温かくなったりはしない。


僕が偽物の婚約者だとお祖父様にバレているのなら、もう一緒に暮らしている意味なんてないんだ。


きっと杏さんもそう思っているんだろう。



朝起きるたび、この部屋を出て行けと言われるのは今日かも知れないと思い、無事に一日が終わると、明日終わるかも知れないと思う。


いつ終わりが来てもおかしくないから、僕はまた毎日を一人で過ごすための心の準備をしている。


一人でいるのが当たり前の毎日が寂しいなんて思わないように。


一人暮らしの部屋で杏さんの姿を探してしまわないように。



そんな日が2週間ほど続いた。






その日、僕は久しぶりにばあちゃんの家に帰っていた。


前日の夜遅く、ばあちゃんが怪我をしたと近所のおばちゃんから連絡をもらったからだ。


とりあえず3日間の有給をもらい、土日の休日と合わせた5日間、僕はばあちゃんの家に泊まり込んで世話をする事にした。



久しぶりに会うばあちゃんは少し老けたというか、小さく見えた。


ばあちゃんは買い物の帰りに道路の段差に足を取られて転び、その拍子についた手首を捻挫してしまったらしい。


骨に異常がなかったのは、不幸中の幸いだ。


膝とてのひらにも大きな擦り傷ができていた。


これくらいの怪我で大袈裟だとばあちゃんは笑う。


でもやっぱり、こんな時くらいは僕を頼ってほしい。


いくら元気と言ってももう高齢だから、小さな怪我や病気も油断はできない。



近所の人たちとの付き合いがあるから一人でも大丈夫だと前から言っていたけど、ばあちゃんはこんなふうに怪我をしても、僕には心配掛けまいと連絡を寄越さなかった。


実の両親なんかより、ばあちゃんの方がずっと僕の親らしいと思う。


僕にとっては大切なたった一人の育ての親だ。


目一杯親孝行しよう。


いつか僕が結婚する時も子供が生まれる時にもいて欲しいから、元気で長生きしてくれないと困るもんな。



ばあちゃんの家にいる間は、僕が食事の用意や洗濯などの家事をして、通院に付き添い、身の回りの世話をした。


就職して家を出てからはなかなか帰る時間がなかったから、僕はばあちゃんと久しぶりにゆっくり話した。



部屋の掃除をしている時に、古い写真を見つけた。


今よりずいぶん若いばあちゃんが、小さな女の子を膝に乗せて笑っている。


この子、誰だろう?


僕の会った事のない親戚の子とか、近所の子なのかな。


「ばあちゃん、この子誰?」


「ああ…昔勤めていた家のお嬢さんだよ。」


「ふーん…。」


ちょっと寂しげな目をしたその女の子は、誰かに似ているような気がした。




ほんの少し怪我の具合も良くなったとは言え、心配ではあったけど日曜の夜遅くに帰宅した。


僕が帰ると珍しく杏さんが部屋から出てきた。


「親御さんの怪我の具合はもういいのか。」


怪我をしたのがばあちゃんとは言わず、親が怪我をしたと僕が言ったから、杏さんはそんな言い方をした。


「おかげさまで…。」


「そうか…。」


会話は続かない。


だけど少しでも心配してくれていたんだと思うと嬉しかった。




翌日。


いつものように出社した僕に、矢野さんは言った。


「渡部、会社辞めたよ。」


僕が休んでいた先週の金曜で、渡部さんは会社を辞めたそうだ。


僕のせいかも知れない。


渡部さん自身が望んだ事とは言え、僕のした事は渡部さんを傷付けたんだと思う。


そう思うとまた、あんな事をするんじゃなかったと後悔の念にとらわれた。


美玖にフラれて傷付いたはずなのに、僕はこの手で、僕を好きだと言ってくれた渡部さんを傷付けた。


だけどどんなにごまかしても、僕はきっとこの先も渡部さんを好きにはなれなかったと思う。


渡部さんを抱きながら、なぜか僕の脳裏には杏さんが浮かんでいた。


だから余計に後ろめたかった。




その日の昼休み。


試作室で弁当を食べていると、何やら社内の様子が騒がしくなった。


何を騒いでいるんだろう?


首をかしげながら鮭の塩焼きを食べていると、試作室に矢野さんが飛び込んできた。


「鴫野、大変だ!!」


「どうかしたんですか?」


矢野さんの慌てぶりが尋常じゃない。


「これ見てみろ!!」


矢野さんが一枚のチラシを取り出した。


「おまえが作った新商品の弁当だよ!まるごと盗作だ!!」


「え…?」


それは高齢者向けの弁当や惣菜の宅配サービスをしている会社の新商品のチラシだった。


発売を今週末に控えたうちの新商品とまったく同じものが発売されているらしい。


新商品どころか、地味すぎて発売にはこぎつけなかった、これまで僕が試作したメニューまで惣菜のラインナップに並んでいた。


「これ…どういう事でしょう?」


「誰かがおまえの作ったメニューのデータをまるごと盗んで売ったんだろ。」


「そんな事ってあるんですかね…?」


「現におまえの作ったメニューがうちより先にこの会社から発売されてるじゃないか!」


その後はもう何がなんだかわからないまま、僕は重役に呼び出され事情聴取を受けた。


この会社に企業スパイみたいな者が潜入していた可能性もあるし、僕自身もそれを疑われているようだ。


盗まれたのが僕の作ったメニューばかりだったから仕方ないけど、僕にはまったく身に覚えがない。


何度も同じような質問を受け、それに答える事の繰り返し。


犯罪者にでもなった気分だ。


課長と杏さんも、別室で取り調べを受けているようだった。


なんでこんな事になってしまったのか。


よりによってこの会社では地味だと言われた、僕の作ったシニア向けのメニューばかりが盗まれた。


その会社のターゲットである高齢者には需要があったんだろう。


ボツになったメニューはともかく、新商品の弁当は発売日を間近に控えているので、日配部門の各部署がてんやわんやになった。


工場のラインを止めたり、材料の仕入れを止めたり。


僕の知らないところで僕の作ったメニューが他社から発売されるなんて。


繰り返される尋問に疲れきってうんざりしている時、重役の一人が隣に座っていた重役に向かって呟いた。


「この会社は有澤グループだな…。こんな大企業が盗作なんて、我が社の買収でも目論んでるのか?」



有澤グループ…?



疑いたくはないけれど、僕の脳裏には杏さんの顔がよぎった。


まさか杏さんがそんな事をするわけがない。


杏さんは自分の意志で有澤の家を出て、この会社に就職したと言っていたんだから。


だけど僕と有澤グループの接点なんて、杏さんしかない。


社内の人間は、杏さんが有澤グループの令嬢だという事実を知らない。


もしその事が公になってしまったら…。


僕の胸が、イヤな音をたててざわついた。





僕が夕飯の支度を終えた頃、杏さんが疲れきった顔をして帰宅した。


「おかえりなさい。」


「ただいま…。」


久しぶりの“おかえりなさい”と“ただいま”に、少し照れ臭くなった。


「鴫野…。」


何かを言いかけた杏さんの言葉を遮って、僕は笑って振り返った。


「杏さん、お腹すいたでしょう。夕飯にしましょうね。」



久しぶりに杏さんと向かい合って、二人一緒に夕飯を食べた。


杏さんは僕の作った料理を黙々と食べ進めた。


「今日の料理はお口に合いますか?」


僕が尋ねると、杏さんは少し手を止めて微かに笑みを浮かべた。


「うん…美味しい…とても。」


杏さんは大根の煮付けを箸で摘まんで、僕の方を見ないで呟く。


「一人で食べるより、一緒に食べると更に美味しいな…。」


「…僕もです。」


箸で摘まんだ大根の煮付けをうつむいて口に運ぶ杏さんの目元が、少し潤んでいるような気がした。




翌日。


どこから噂が広がったのか、企業スパイはこの会社にいると誰もが口にしていた。


盗作騒動で社内の誰もが興奮状態だ。


そんな中、誰かが言い出した。



“芦原部長は有澤グループの人間だ”



どこでそれを知ったのか、誰がその噂を流したのかはわからない。


杏さんは朝からまた重役に呼び出され、定時を過ぎても部署に帰って来なかった。



盗作騒動と杏さんが有澤グループの令嬢だという事実が社内に知れ渡った事で、杏さんは翌日から自宅謹慎を余儀なくされた。


杏さんは部屋から出てこない。


相当参っているのかも知れない。


僕も社内で変な目で見られる事はあるけど、試作室に籠ってやり過ごした。


試作室で一緒に働いている人たちにも、疑われているのかも知れない。


だけど僕にはやましい事なんてない。


堂々と仕事をする以外、身の潔白を証明する方法はなかった。


杏さん、ちゃんと御飯食べたかな。


食欲のない杏さんのために、刻んだ梅とシソとちりめんじゃこのおにぎりを作り、テーブルの上に置いて出社した。



社内の人間に疑いを掛けられている今、僕だけは杏さんの味方でありたいと思った。


みんなの知らない杏さんを、僕は知っているから。






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