不条理な関係

イチキの御曹司が来た日から既に1ヶ月。


何事もなかったように毎日が過ぎていく。


ただ変わった事と言えば、杏さんが帰って来ない日が増えた。


新作の弁当の発売日が迫ってきて忙しいのかも知れないけれど、僕と暮らし始めてからは遅くなっても毎日帰ってきたのに。


杏さんが帰って来ない日は、だだっ広い静かな部屋で、無駄にでかいテーブルに一人分の料理を並べて、一人で夕飯を食べる。


以前は当たり前だった一人ぼっちの夕飯が、今ではやけに寂しく感じてしまう。


一緒にいたってなんの話をするわけでもないのに、杏さんがいないと寂しいと思うなんて。


もうすぐまた元のように一人になるのに、こんなことでは先が思いやられる。


だから僕は、一人でも欠かすことなく料理をして、無理にでも残さず食べる。


今日のおかずはいつもに増してうまくできた。


…やっぱり、杏さんと一緒に食べたかったな。




翌朝、僕はいつもより少し早く家を出た。


杏さんは最近社泊が続いて、まともな食事をしていないはずだ。


僕が食べさせないと、杏さんはカロリーバー以外の物を自分から食べようとしないんだから。


以前の杏さんにとっては当たり前だったかも知れないけど、今の僕はやっぱり見過ごせない。


また倒れたらどうするんだ。



杏さんはオフィスの床に寝転がって、眉間にシワを寄せて眠っていた。


僕は脇目もふらず杏さんのそばに向かった。


「杏さん、起きてください。」


体を揺すると、杏さんは更に深く眉間にシワを寄せた。


「うーん…それはダメだ…。」


「杏さん、朝ですよ。」


もう一度強めに体を揺すると、杏さんは首を横に振った。


「内密に頼む…。」


なんの夢見てるんだよ。


ちょっとからかってやるか。


「起きないとみんなにバラしますよ。」


僕が耳元で小声でそう言うと、杏さんはカッと目を見開いて飛び起きた。


「それだけは…!!」


自分の声の大きさに驚いたのか、杏さんはキョロキョロしている。


今日の夢はそんなにヤバイのか?


「何もバラしませんよ。」


「あ…鴫野か…。」


杏さんはホッとした様子で息をついた。


「おはようございます。」


「ああ…おはよう。」


よく眠れなかったのか、その顔に疲れがにじんで見える。


ちゃんと食べてないから余計かも知れない。


僕はバッグからおにぎりの入った包みを取り出して差し出した。


「杏さん、朝御飯です。食べてください。」


杏さんは少し困ったように目をそらした。


「余計な気を遣わなくてもいいのに…。」


僕が心配するのは杏さんにとって余計な事なのかな。


軽くショックを受けた。


「余計なお節介ですみません。要らなければ捨ててください。」


僕はおにぎりの包みを杏さんの手に無理やり押し付けて、試作室に向かった。


杏さんが食べ物を粗末にできるわけがない。


一番好きだと言ってくれたおにぎりを、黙って食べてくれるだろう。





新商品の試作もようやく終わった。


結局は僕が作った煮物メインの弁当も、シニア向け商品として店頭に並ぶ事になった。


このメニューの商品化には賛否両論でかなり難航したようだけど、今日の会議で杏さんが他部署のお偉いさんを説き伏せたみたいだ。



定時になる少し前。


矢野さんが僕の肩を叩いた。


「新商品の試作もようやく落ち着いたし、今日は飲みに行くか。」


どうしようかな?


杏さんが帰って来るなら、久しぶりに美味しい物を食べさせてあげたいし。


そんな事を思っていると、杏さんが新商品に関する資料を持って試作室にやって来た。


「杏さん、帰りに一杯どうですか?」


矢野さんは軽い口調で杏さんを誘った。


「いや…私は今日も帰れそうにないので遠慮しておく。」


「そうですか?あんまり無理しちゃダメですよ。」


「ああ…そうだな。」


そうか…杏さん、今日も帰れないんだ。


僕が張り切って夕飯を作っても、また食べてはもらえないんだな。


「矢野さん、僕行きます。」


「おー、じゃあこの前の店にするか。」


「いいですね。そうしましょう。」


だだっ広い部屋で一人で味気ない食事をするより、矢野さんと一緒に酒を飲みながら食事をした方がいい。


どうせ今日も杏さんは帰って来ないんだから。






なんでこんな事になったんだろう?


僕は矢野さんと食事をしようと思って来たはずなのに。


僕の隣では渡部さんが裸で寝息をたてている。


そんなに酔っていたわけでもないのに、どうしてこんな事になってしまったのか。


僕は散らかった頭の中を、必死でフル回転させた。





仕事の後、この前矢野さんと一緒に行った店に行くと、なぜか渡部さんがそこにいた。


矢野さん、謀ったな。


仕方なく黙って席に着いた。


「鴫野くん、久しぶり…かな。」


「ああ…うん、そうだね。」


気まずくて今すぐその場から逃げ出したいのを堪えながら、僕は目一杯平静を装った。



とりあえず三人で日本酒を飲みながら食事をした。


相変わらず女将さんの料理と地酒は美味しかったはずなのに、僕は渡部さんに何を言われるのかとビクビクしていて、前に来た時の半分もその味がわからなかった。


渡部さんは楽しそうに笑って、料理を食べながら日本酒を飲んでいた。



二時間ほど経った頃、矢野さんの携帯電話が鳴った。


これから友達が家に来るから、そろそろお開きにしようと矢野さんは言った。


やっと帰れると思ったら、酔った渡部さんを家まで送ってやれと矢野さんに命じられた。


日本酒をグイグイ飲んでいた渡部さんは、酔って僕にしなだれかかっていた。


かろうじて自宅の場所は言えたのでタクシーで送り届けたものの、酔った渡部さんは自分で鍵を開ける事すらできなかった。


仕方なく僕が鍵を開けて、肩を貸しながら部屋の中まで入った。


さすがに床の上に転がしておくのはかわいそうなので、ベッドまで運んでやった。



思えばそれが間違いだったのかも知れない。



ベッドに寝かせてやると、渡部さんは腕を伸ばして僕の背中にしがみつくようにして抱きついた。


「渡部さん、離して。」


僕はその腕から逃れようとしたんだけど、渡部さんは必死でしがみついた。


「鴫野くん、行かないで。」


「でももう遅いし…。」


体から腕を引き剥がすようにしてなんとか離れると、渡部さんは涙をボロボロこぼして僕に抱きついた。


「いや…帰らないで…ここにいて…。」


帰らないでと言われても。


僕は渡部さんの背中を優しくトントン叩きながら、どうしたものかと考えていた。


だけどずっとこうしているわけにもいかない。


「ごめんね、もう帰るよ。」


手を離すと、渡部さんはすごい勢いで僕に飛びかかってきた。


ベッドに押し倒されて、強引に唇を塞がれた。


渡部さんの涙がポトリと落ちて、僕の頬を濡らした。


「好き…。鴫野くんが好き…。」


うわ言みたいに呟いて、渡部さんは何度も僕にキスをした。


僕のどこがそんなにいいんだろう?


他にもいい男はいっぱいいるのに、渡部さんが僕に執着する意味がよくわからない。


「やっぱり私、鴫野くんが好き…。私から離れていかないで。」


離れるも何も、元から付き合ってるわけでもないのに。


「そばに居させて…お願い…。」


それはまた僕に性欲を満たす手伝いをしてくれって言いたいのか?


僕の気持ちも無視して?


そこに愛なんてないのに。


「あのさ…もう、こういうのやめにしない?」


「こういうのって…?」


僕は自分の体にかかった渡部さんの体の重みを押し退けて起き上がった。


「今更なんだけど、こういう事はさ…好きな人とするもんじゃないかと思うんだ。」


悲愴感の溢れる顔で、渡部さんはじっと僕を見つめた。


「それって…私の事は好きじゃないって言いたいの?」


「渡部さんの事はちょっと仲のいい同僚以上に思った事はない。」


渡部さんは唇を噛んでうつむいた。


また涙が落ちて、膝の上で握りしめた手の甲を濡らす。


「他に好きな人がいるの…?」


なんで彼女でもない渡部さんにそんな事を答えなきゃいけないんだ。


少なくとも君の事は好きじゃないよ、って言ったらあきらめてくれるだろうか。


「僕は渡部さんの彼氏じゃないよ。そんな事を答える必要ある?」


「ひどい…。」


ひどいのはどっちだ。


僕は最初から付き合う気はないって言ってたじゃないか。


それなのに勝手に彼女気取りで僕の体を求めてきたのは渡部さんの方だ。


「そう思うなら、誰か他の人見つけて。渡部さんは僕を買い被りすぎなんだ。僕は渡部さんが思ってるような優しい男じゃない。」


今度こそ帰ろう。


そう思って立ち上がろうとした時、渡部さんが僕の手を掴んだ。



「鴫野くん…これで終わりにするから…。」



渡部さんは大粒の涙をこぼしながら、一度だけでいいから抱いて、と言った。


胸にしがみついて涙を流す渡部さんを、僕は他人事みたいに冷めた気持ちで眺めた。


もうこの涙にも欲情を煽られたりはしない。


涙は男をおとすための切り札か何かだと思ってるんだろうか。


とんだ勘違いだよ、それ。


往生際が悪いって、こういう事を言うんだな。


しつこいのは好きじゃない。


ホントに一度だけでキッパリあきらめるのか?


「お願い…。」


渡部さんがまた呟いた。


「ホントに一度だけ?」


「……うん…。」


「優しくなんかできないけど。それでもいい?」


渡部さんは少し悲しげにうなずいて、目を閉じた。



それから僕は無機的に渡部さんを抱いた。



そこには優しさどころか欠片ほどの同情さえもなかった。


早く終わらせたくて、わざと激しく彼女の奥をかき混ぜて。


泣き顔が見えないように渡部さんを這いつくばらせて、後ろから乱暴に突き上げて。



この曖昧で不条理な関係を終わらせるためだけのセックスは、何も満たしてはくれない。



虚しさと自分の薄汚さで吐き気がした。





それから渡部さんは泣きながら僕の手を握って眠ってしまった。


渡部さんだってきっと、こんな事したってなんの意味もないってわかってる。


結局、胸に残ったのは後悔だけ。


僕はもう何も考えたくなくて、疲労感に抗えない体を横たえ目を閉じた。






渡部さんの寝顔には、無数の涙の跡が残っている。



こんなつもりじゃなかったのに。


こんな事はもうやめようって言って終わるはずだった。


どんなに好きだと言ってくれても、僕は彼女を好きにはなれなかった。


それなのに…。



僕はまた罪悪感と嫌悪感に押し潰されそうになりながら、渡部さんの部屋を静かに後にした。



夜のしじまに身を隠すようにして、ひたすら歩いた。



足も心も何もかもが重くて、このままこの闇に消えてしまえたらと、そう思った。






午前3時過ぎ。


ようやく家に帰り着くとリビングのドアから明かりがもれていた。


杏さんは今夜は帰れそうにないって言っていたし、朝出掛けるときに消し忘れたかな?


そんな事を考えながら廊下を歩き、リビングのドアを開けた。


「遅かったな…。」


杏さんはソファーに座り、僕に背を向けたまま呟いた。


「あ…杏さん…。」


帰れそうにないと言っていた杏さんが家にいる事に驚き、さっきまで自分のしていた事への後ろめたさで、何も言えなかった。


「こんな遅くまで何してたんだ。」


「……矢野さんと一緒にいました。」


本当の事なんて言えない。


杏さんはソファーから立ち上がってため息をついた。


「鴫野も人並みに嘘をつくんだな。」


「えっ…。」


どうして嘘をついているとわかったんだ?


杏さんは僕が矢野さんと飲みに行っていた事を知っているし、そこに渡部さんがいた事は知らないはずなのに。


僕にはわけがわからない。


杏さんはおもむろに振り返り、僕の方を見た。


「帰りに矢野に会った。おまえは酔った彼女を家まで送って行ったんだろう?」


「……すみません…。」


それ以上、何も言えなかった。


杏さんに知られたくなくてついた嘘は、僕が杏さんに言えない事をしていたと言っているようなものだ。


「悪かったな、嘘までつかせて。おまえが彼女と付き合うのを止める権利なんて私にはないのに…。」


「杏さん、僕は…!」


彼女とは付き合っていないし、好きでもない。


僕が一緒にいたいのは…。


「もういい…。」


杏さんは、みっともなく言い訳しようとする僕の言葉を遮った。


「私とのこんな生活、鴫野もそろそろ限界だろう…。」


そう言い残して、杏さんは自分の部屋に入ってしまった。



言い訳をする余地もなかった。


僕は杏さんとの約束をやぶって杏さんに言えないような事をして、それを隠すために嘘をついた。


杏さんはそんな僕を蔑むような目で見て、ひどく悲しそうな顔をしていた。



杏さんの遊園地での無邪気な笑顔や、僕の料理を食べて瞬きをする顔、照れて真っ赤になった顔。


会社では見たことのなかった杏さんの顔を思い出すと、息をするのも苦しくなるほど胸が痛んだ。


杏さんは少なからず僕に心を開いてくれていたと思う。



だけどもう僕はきっと、偽物の婚約者としても杏さんに必要とはしてもらえない。










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