昼休みの憂鬱

火曜日の昼休み。


いつものように杏さんと試作室で弁当を食べようとしていると、なんの前触れもなくドアが開いた。


あ…渡部さんだ。


試作室に来るなんて、何か急ぎの連絡でもあったかな?


そういえば昨日、広報から確認したい事があると言って、杏さんと何やら会議室で話し込んでいたみたいだし。


「失礼します。」


渡部さんは笑みを浮かべて杏さんに軽く会釈した。


杏さんはほんの少し眉をしかめた。


「鴫野くん、ちょっといい?」


あ、僕に個人的な用なのか。


この間、渡部さんとのあんなところを杏さんに見られたので、かなり気まずい。


「えっと…。」


どうしようかな。


僕が少し戸惑っていると、杏さんの携帯電話の着信音が鳴った。


杏さんは電話に出て少し話した後、携帯電話をポケットにしまいながら立ち上がった。


「これから遠山物産に行く事になった。」


「お昼は?」


「すぐに出るから食べている時間がない。悪いな。」


「そうですか…。」


杏さんの弁当、どうしようか。


食べて欲しかったんだけどな…。


ピーマンの肉詰め、朝から張り切って作ったのに。


「私の分を無駄にするのはもったいないから、彼女に食べてもらったらどうだ?」


杏さんは黙って渡部さんの横を通り過ぎ、試作室を出ていった。


渡部さんは杏さんの後ろ姿を不思議そうに見送って、僕の方に歩いてくる。


「鴫野くん、お昼はいつも芦原部長と?」


「ああ…うん、最近ね。」


「芦原部長のお弁当も毎日鴫野くんが作ってるの?」


説明するのめんどくさいな。


変な誤解されても困るんだけど。


「あの人、ほっとくと食事しないんだ。この間それで倒れそうになったから、なんかほっとけなくて。」


渡部さんは近くにあった椅子を寄せて、僕のすぐとなりに座った。


「ふーん…いいなあ、毎日鴫野くんにお弁当作ってもらって一緒に食べられるなんて。」


「そんなたいしたもんじゃないよ。」


近すぎやしないか…?


いつ誰が入って来るとも知れないのに、まさかここで迫ったりしないよな?


「そうだ…これ、良かったら食べる?」


杏さんのために作った弁当を差し出すと、渡部さんは嬉しそうに笑った。


「いいの?すごく嬉しい!!」


渡部さんは弁当箱の蓋を開けて、驚いた顔をした。


「すごい…!!さすが鴫野くんだね!全部美味しそう!!」


…素直だな。


「ねぇ、食べていい?」


「あ、うん。どうぞ。」


「いただきます!」


渡部さんはピーマンの肉詰めを口に運んだ。


「すっごく美味しい!!」


「それなら良かった。」



その後も渡部さんは、どれも美味しいと言いながら、嬉しそうに笑って残さず食べてくれた。


自分の作った料理を美味しいと言って食べてもらえるのは嬉しい事だ。


それなのに僕は、なんとなく物足りなさを感じている。



杏さん、昼食も取らないで大丈夫かな。


杏さんは僕の料理で渡部さんみたいにわかりやすく喜んだり笑ったりはしない。


だけど僕の作った料理を珍しそうに眺めたり匂いを嗅いだりする仕草が、子供みたいでかわいいなと思う。


食べ終わった後、静かに手を合わせる時の杏さんは、いつもより穏やかな顔をしている。


その顔を見ると僕は、満足してくれたんだと嬉しくなる。



…ホントは杏さんに食べてもらいたかった。




「鴫野くん、ご馳走さま。すっごく美味しかった!!ありがとう!」


「ああ…うん。」


渡部さんに声を掛けられハッとして、杏さんの事ばかり考えている自分が不思議になって首をかしげた。


「私、鴫野くんと毎日一緒にお昼御飯食べたいな…。」


「え?」


「少しでも鴫野くんと一緒にいたいから…。あっ、もちろん自分の分は自分で用意するよ!」


どうしたものか。


僕は毎日杏さんと一緒にお昼を食べているわけで。


そこに渡部さんも…とか、気まずすぎる。


なんて言って断ろう?


「できれば、鴫野くんと二人きりがいいんだけど…。」


杏さんになんと言おうか。


「ね、いいでしょ?」


「うん…。」


「嬉しい!!約束ね!」


しまった!!


うっかりうんって言っちゃったよ!!


どうしよう?!


「えーっと…でも…やっぱり…ここではまずいかな…。渡部さんとは部署も違うし…。」


我ながら苦しい言い訳だ。


渡部さんは小さく笑って、意味深な目で僕を見た。


「じゃあ…別の場所で二人きりならいい?」


「えっ?いや…。」


そういう意味ではないんだけどな。


一体何を考えてるんだか。


「鴫野くん…。」


ただでさえ近いのに、渡部さんは更に椅子を近付けて僕に体をすり寄せた。


非常にまずい状況だ。


「今日はキスしてくれないの?」


「え?」


いや、だからここじゃまずいんだって。


っていうか、僕は渡部さんと付き合おうとか思ってないわけで、もうあんなおかしな事はしたくないんだけど。


「…やっぱり会社ではまずいだろ。」


「だったら…会社以外の場所で私と会ってくれる?」


しまった…墓穴掘ったかも。


どこで誰に見張られているかも知れないのに、それは無理だ。


「それもちょっと…。」


他言無用だと杏さんに言われているので、理由も説明できない。


まどろっこしいな。


「ダメ…?そんなに私の事が迷惑…?」


あ、またその顔しちゃうんだ。


渡部さんは目をウルウルさせながら僕を上目遣いに見ている。


なんかもう、下手な言い訳考えるのもめんどくさくなってきた。


渡部さん本人が望んでるんだ。


これ以上無駄な詮索されるのも避けたいし、この辺で黙らせとくか。


僕は渡部さんの唇に軽く口付けた。


「迷惑とは言ってないよ。」


僕は嘘は言ってない。


迷惑なんて一度も言ってないんだから。


ただ、好きでもないのにキスをした。


それだけだ。


「私、鴫野くんともっと一緒にいたいの。」


付き合うとも言ってないのに、渡部さんは僕の彼女にでもなったつもりなのか。


「今、こうして一緒にいるけど?」


「そうなんだけど…もっと…。」


ああもう、めんどくさいな。


僕は渡部さんがこれ以上何も言えないように、頭を引き寄せて唇を塞いだ。


深く口付けて舌を絡めてやると、渡部さんは満足そうにそれに応える。


単純なもんだ。


でもホントは、今はそんな気分じゃない。


誰かに見られるとまずいから、これくらいにしておこう。


ゆっくり唇を離すと、渡部さんは物欲しげに僕を見つめた。


「もうおしまい…?」


「そろそろ誰かが戻って来る頃だからね。」


「…うん。」



バカみたいだ。


こんな事したって僕は渡部さんの物にはならないのに。


いつまでもこんな事してごまかせるわけがないのに、僕自身もバカだと思う。


……これっぽっちも好きじゃないのにキスなんかして。


それが渡部さんに変な期待を持たせているってわからないわけでもないのに。


杏さんに隠れて彼女とキスをするのは、もう何度目だろう?


僕はきっとまた罪悪感に苛まれる。


それは誰に対する罪悪感なのか。


誰に咎められる事もなく、本当に好きな人とキスできるのはいつだろう?


今の僕には、そんな人が現れるかどうかもわからないんだけど。




その夜遅くに帰宅した杏さんは、夕飯を食べ終わるとお茶を一口飲んで静かに口を開いた。


「明日から私の弁当は作らなくていい。」


「えっ…。」


どうして急にそんな事を言うんだろう?


僕の料理に飽きたんだろうか?


「どうしてですか。」


「家に帰ってもずっと一緒なのに、会社でまで私が一緒だと鴫野にとっては何かと都合が悪いだろう。」


どういう意味だ?


杏さんが一緒だと都合が悪いなんて。


「…なんですか、それ。」


「今日みたいに彼女がおまえに会いに来た時、私がいると都合が悪いだろうと言っている。」


あ…渡部さんの事か…。


「鴫野は好き好んで私と一緒にいるわけじゃない。それなのに別の女とも会うなと言うのは酷だからな。」


「でも…。」


「もちろん会社でおかしな事をしていいとは言っていないぞ?」


…杏さんの知らないところで、杏さんには言えないような事をしている僕は、何も言えない。


「あの子はおまえの事が好きなんだろう?良かったじゃないか。」


何も言っていないのに、杏さんは渡部さんの気持ちに気付いているみたいだ。


「おまえたちが堂々と付き合えるように、お祖父様とは早く決着をつけるつもりだ。それまでもう少しだけ、外で会うのは我慢してくれ。」


僕は渡部さんと付き合いたいなんて思ってないのに。


杏さんは、僕が好き好んで杏さんと一緒にいるわけじゃないって言ったけど、それは杏さんだって同じだ。


杏さんだって、好きでもない部下の僕と一緒に暮らすなんて、本当はイヤに決まってる。


お祖父様の目をごまかすためだけに僕と一緒にいるんだって、杏さんはそう言いたいのかな。



最初はとんでもない事になったと思ってた。


だけど最近は、僕の作った料理を杏さんに食べてもらえる事や、会社では見る事のない杏さんの表情を見られる事が嬉しいと思う。


僕なりに杏さんと一緒に暮らす事に意味を感じてたのにな。


なんか、虚しい。


「杏さんがそう言うなら、昼休みは別々に過ごしましょう。でも弁当は杏さんの分も作りますから、ちゃんと食べてください。」


「…わかった。」


杏さんは静かに席を立って、自分の部屋に戻った。



食器を洗いながら、僕はため息をついた。


当たり前か。


最初からそういう話だったじゃないか。


僕だって早く自由になって、新しい恋人が欲しいと思っていた。


杏さんは超エリート上司で、大企業の令嬢で。


どちらにしても僕なんかとは住む世界が違う。


杏さんと僕の距離がこれ以上近付く事なんて、あるわけがない。


深く考えるのは、もうよそう。


その日がくれば何もかもが元通りになるだけ。


きっとお互いに、何事もなかったように離れていくだけなんだから。





翌日から僕は昼休みになると、自分の弁当を持って第2会議室に足を運んだ。


もう1週間になる。


ここでお昼を食べようと言い出したのは渡部さんだ。


渡部さんは朝が苦手らしく、自分で弁当を作る時間がないからと言って、いつも1階のコンビニで弁当やパンを買ってくる。


僕の作った弁当のおかずを物欲しげに見るから食べにくくて、仕方なく取り替えてあげたりもする。


そして食事の後はぴったりと僕に寄り添い、物欲しげに僕を見てキスをねだる。


正直言って食事の後にキスなんてしたくない。


それでも渡部さんはなかば強引に僕の唇に唇を重ねる。


僕は抵抗もせず、渡部さんのされるがままになっている。


渡部さんは体を使って僕を自分のものにしようとしているらしい。


勘違いもいいとこだ。


キスの後、渡部さんは体に触れてくれと目で僕を誘う。


気付かないふりをすると渡部さんは更に貪るようにキスをしながら、執拗に体をすり寄せる。


適当にあしらってあきらめてくれたらいいんだけど、これがなかなかしつこい。


だから僕はできるだけ早く解放されたくて、渡部さんの弱いところばかりを攻めてやる。


最後まではしなくても、とりあえずの欲求が満たされれば、渡部さんは満足そうだ。



僕はなんのためにここに来てるんだっけ?


渡部さんの性欲を満たすため?


僕は渡部さんに何も満たしてもらった事はないし、満たして欲しいとも思わない。


渡部さんは僕とセックスしたいらしいけど、僕はしたくないからしないし、キス以上の事はさせない。


目を潤ませてねだる顔がちょっとかわいいからいじめてやろうなんて思ったりもしたけど、今はそんな顔をしてもなんとも思わない。


いつの間にか渡部さんは、自分が求めると僕が応えるのが当たり前みたいな、飢えた雌の獣のような顔をしている。


正直めんどくさい。


もう一緒に食べるのやめようか。



杏さんと二人で食べてる時は、なんとなく心が満たされた。


ほとんど会話もしないのに、なんでだろう?


杏さんはあれからまた、部署のデスクで一人、カロリーバーを食べている。


昼休みを別々に過ごすと決めた次の日の夜、弁当はおにぎりだけでいいと言われた。


その翌日の夜には、やっぱり弁当は要らないと言われた。


偽物の婚約者の僕とは子供は作れないから、もう用済みなのかな。


僕と一緒にいるのも、僕の作った弁当を食べるのもイヤなのかな。


食べるのが苦手な杏さんが、僕の作った料理を残さず食べてくれるから、少しは必要とされてるのかなって思ってたのに。




「鴫野くん…。」


「なに?」


「大好き…。」


渡部さんが火照る体で僕にしがみついた。


疼きが抑えられないのか。


渡部さんは、もっとしてと僕の耳元で囁いた。


「……そろそろ時間だ。戻ろうか。」


「鴫野くんは、いつも最後まではしてくれないね。」


乱れた服を直しながら、渡部さんは不満そうに呟いた。


「…しないよ。」


「それはここが会社だから?それとも私が彼女じゃないから?」


「両方当たってるけど…両方違う。」


「どういう事?」


ここまでしておいて、好きじゃないから、とハッキリ言うのは勝手すぎるだろうか。


こうして一緒にいる事も、好きでもないのにキスをして体に触る事も苦痛に思えてきた。


僕だってホントは…好きな人とだけしたい。


「……もう一緒に食べるのやめようか。」


「どうして?」


「ごめん。」


それ以上何も言えなくて、僕は渡部さんを残し足早に第2会議室を出た。




その翌日から僕はまた試作室で一人で弁当を食べている。


あれから1週間経つけど、渡部さんはもう仕事以外ではここには来ない。


仕事の後、僕を待ち伏せするような事もなくなった。


変に気を持たせてしまった罪悪感もあるし、やっと解放されたという安心感もある。


最初のうちこそ僕に好かれたくて必死だった渡部さんが、日に日に当たり前のように僕を求めて来るようになり、それに応える苦痛に耐えられなくなった。


僕は毎日昼休みが終わるたびに、渡部さんへのものではない罪悪感と虚無感に苛まれていたから。


あんな事はやっぱり、好きでもない相手とする事じゃない。


求められて応えても、なにひとつ気持ちいい事なんてなかった。


ただ、杏さんに隠しておきたい事が増えるのがつらかった。


杏さんは今日もまた、デスクでカロリーバーをかじっている。


また毎朝二人分の弁当を作って一緒に食べようと言えたらいいんだけど、僕は杏さんに心の汚ない部分も何もかも見透かされてしまうのが怖くて、そんな事をする勇気はなかった。



どんなにうまくできても、ここで一人で食べる弁当は味気ない。


以前はそんなふうに思った事、一度もなかったのに。









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