本気を見せろと言われても
デートの翌日。
ダイニングでは、なぜかイチキの御曹司が、高そうなコーヒーカップで僕が淹れたコーヒーを飲んでいる。
杏さんはその向かいに座って、口を真一文字に結んでムッとしている。
僕は出来上がった昼食をトレイに乗せてテーブルに運ぼうとした。
とても食事をするような雰囲気じゃない。
どうしたものか。
事の起こりは30分前。
僕が昼食の準備を始めて間もなく、インターホンが鳴った。
手を止めてドアモニターを覗いた僕は驚いて、何かの間違いじゃないかと思わずモニターをオフにするボタンを押した。
「どうした鴫野?誰か来たんじゃないのか?」
ソファーでコーヒーを飲んでいた杏さんが振り返った。
「いや…来たんですけど…。」
「誰だ?」
「…市来さんです。」
杏さんはピクリと眉を動かして、大きなため息をついた。
もう一度インターホンが鳴った。
ドアモニターには再びイチキの御曹司の姿が映し出された。
「来たものはしょうがない…。通してやれ。」
通話ボタンを押して返事をすると、イチキの御曹司はモニター越しに、あからさまにイヤな顔をした。
「杏はいるか?」
偉そうな態度だ。
まずは名を名乗れ。
「どうぞ。」
僕は少しムッとしながら、エントランスのオートロックを解除した。
「鴫野…わかっているな?」
「もちろんです。」
婚約者をうまく演じろって言いたいんでしょ。
わかってますよ。
しばらくすると、ゴージャス感の溢れるチャイムの音が部屋に鳴り響いた。
イチキの御曹司は見下すような目で、玄関に出た僕を睨み付けた。
杏さんと僕がホントに一緒に暮らしている事が悔しいのか?
ちょっといい気分だ。
とりあえずコーヒーを出して、僕と杏さんが一緒に暮らしているという余裕を見せつけた。
「どうぞ。これから僕と杏は昼御飯にしますけど、市来さんはもうお食事は済まされたんですか?良かったら市来さんの分もご用意しますけど。」
「いや、結構だ。」
「そうですか?」
杏さんにもいつも使っているカップに熱いコーヒーを淹れ直して差し出した。
「杏、昼御飯急いで作るから、もう少し待ってね。」
「うん。今日のお昼は何?」
「オムライスと、ウインナーと野菜のスープだよ。杏、オムライス好きだろ?」
僕は精一杯、一緒に暮らしている恋人同士らしく振る舞ってみた。
「うん、好き。でも章悟の作った御飯は美味しいから全部好き。」
「僕はそれを食べてる杏の顔見るのが好き。」
イチキの御曹司の前で、わざとらしくラブラブアピールなんかしてみたりもした。
そんな様子を見たイチキの御曹司は、白々しく大きな咳払いをした。
「じゃあ、もう少し待っててね。」
「うん、待ってる。」
僕がそこを離れてキッチンへ行くと、杏さんは少しムッとした表情でイチキの御曹司に向き直った。
「それで…今日は何の用?お祖父様に私たちの様子を見て来いとでも言われた?」
イチキの御曹司はコーヒーを一口飲んで、カップをソーサーの上に静かに置いた。
「それもある。」
僕はキッチンで耳をそばだてながら昼食の準備をした。
だけど広すぎるこの部屋では、材料を切ったり炒めたりする音が邪魔して、二人の会話はよく聞こえなかった。
一体なんの話をしていたんだろう?
そして今、ダイニングはなんだか険悪なムードだ。
出て行きづらいけどここで躊躇していたら、せっかく作った料理が冷めてしまう。
仕方なく何事もなかったように、出来上がった昼食を運んでテーブルに並べると、イチキの御曹司は物珍しそうに僕の作った料理を眺めた。
杏さんは眉間にシワを寄せて、難しい顔をしている。
「杏、お待たせ。食べようか。」
「ああ…うん、ありがとう。」
席に着いてスプーンを手に取ろうとした時、向かいに座る男の腹の虫が盛大に鳴いた。
…なんだよボンボン。
腹減ってんじゃん。
「市来さんもやっぱり召し上がりますか?」
「…結構だ。俺に構わず食事をしてくれ。」
やせ我慢なのか、それともこんな庶民の僕の作った料理は食べられないのか。
「そうですか?では遠慮なく。杏、市来さんもそう言ってるし、温かいうちに食べよう。」
「うん。いただきます。」
杏さんはいつものように静かに手を合わせてからスプーンを手に取った。
スプーンですくったオムライスを口に入れて、杏さんは何度か瞬きをした。
どうやらチキンライスをふんわり包むトロリとした玉子の柔らかさに驚いているようだ。
「美味しい?」
「すごく美味しい!」
「良かった。」
いつもよりかなりわかりやすいリアクションはイチキの御曹司へのアピールなのか。
それでもホントに美味しいって思ってくれてるのはわかった。
杏さんはきっと気付いてないけど、食べた事のある料理でも僕が作った物を初めて口に入れて何度か瞬きをした時は、今まで食べた物より美味しいって事なんだと思う。
最初の頃に比べると、杏さんの食べられる量が少し増えた。
以前より顔色も良くなったし、もしかしたら少しふっくらしたかも。
まともな食事をしていなかった杏さんは痩せすぎだったから、健康的な食生活でちょっとふっくらしたくらいがちょうどいい。
それにしても、イチキの御曹司に目の前で眺められていると食べにくい。
やっぱり腹減ってんだろう?
僕の作った料理をすすめたって断られるのはわかってるから、もう何も言わないけど。
昼食が済んで、コーヒーを淹れ直した。
なんだかんだ言っても目の前でお腹を空かせているのは気の毒で、イチキの御曹司が手土産に持ってきた老舗の高級そうな洋菓子を一応お茶請けに出してみた。
「それで…穂高の用は済んだ?私たちはこの通り仲良く暮らしてるけど。」
確かに僕と杏さんの暮らしぶりを見に来たのなら、イチキの御曹司の用はもう済んだはずだ。
それなのにこの御曹司はいつまでここに居座るつもりだろう。
これ以上ここに居られたら、どんなに気を付けても思わぬところでボロが出るかも知れない。
そろそろ帰って欲しいんだけどな。
「一緒に暮らしているのはわかった。でも婚約者というより家政婦みたいだな、彼は。」
イチキの御曹司はまたバカにしたようなイヤな笑い方をして僕を見た。
ホントに失礼な奴だ。
家政婦みたいって……あれ?
一緒に暮らしているとは言え寝食を共にしている以上の事は何もないし、僕は家事全般をしているだけだから、確かにそうかも。
「私は何もできないし、章悟が得意だからやってくれているだけ。それのどこがおかしい?」
「いや、おかしいとは言ってないよ。」
明らかに目がそう言ってるよ。
「気が済んだならもう帰って。」
そうだそうだ、早く帰れ!
とっとと屋敷に帰って、元三ツ星レストランのシェフにその腹の虫を黙らせてもらえ!!
「ああそうだ。肝心な事を忘れるところだった。」
まだ何かあるのか?
肝心な事なら先に言え!
「肝心な事って?」
「有澤会長からの伝言。」
お祖父様からの伝言って…なんだ?
むちゃな話でなければいいんだけど。
杏さんは険しい顔をして、コーヒーを一口飲んだ。
「それで、お祖父様は一体なんとおっしゃったの?」
杏さん、お嬢様っぽい…。
「二人の間に子供ができたら結婚を認めるって。」
「えっ?!」
子供ができたら、って…。
どう考えてもできるわけない。
子作りどころか、それらしい事なんかしてないんだから。
「老い先が短いから、もちろんいつまでも待たないって。」
「老い先が短いからなんて失礼な!」
「有澤会長ご本人がそうおっしゃったんだよ。3ヶ月だけ待ってやるから、おまえたちの本気とやらを見せてみろ、だってさ。」
3ヶ月って…。
普通に結婚して子作りしている夫婦でも、3ヶ月では短いんじゃないか?
「3ヶ月経っても杏に妊娠の兆しがないようなら、有澤家に戻って俺と結婚しろって。」
めちゃくちゃだ。
女性としての杏さんの意志とか、社会人としての立場とか、いろんな物を無視しているじゃないか。
なんか猛烈に頭に来た。
このボンボン、泣かせてやる。
僕は立ち上がって、杏さんを抱き寄せた。
「だったら何も遠慮なんかすることないね。」
「えっ?」
杏さんは驚いて僕を見上げた。
「筋を通すために、子供はちゃんと許しを得て結婚してからと思ってたけど、お祖父様がそうおっしゃるのなら何も問題ないよね、杏。」
「えっ…あ…うん。」
「嬉しいな。僕は早く子供が欲しかったんだよ。」
僕は杏さんを抱き上げて、イチキの御曹司の方を見た。
「じゃあ市来さん、そろそろお引き取り願えますか?僕はさっきから早く杏と二人っきりになりたくて、市来さんがお帰りになるの待ってるんです。」
「失礼だな、君は!!」
イチキの御曹司は腹が立ったのか、勢いよく立ち上がった。
悔しそうな顔。
男の泣き顔なんて見たくもないけど、高慢な態度を崩さないこの男の屈辱に歪む顔を見るのは気持ちがいい。
「察してくださいよ。市来さんがここにいると僕ら愛し合えないでしょ?」
杏さんは僕に抱かれたまま、何も言わずに真っ赤な顔をしている。
イチキの御曹司も真っ赤な顔をして怒りに震えている。
「それじゃ僕らはここで。あとは勝手にお帰りください。杏、部屋に行こうか。」
僕は横抱きにした杏さんの額に、ほんの少し触れるか触れないかのキスをした。
「しっ、失礼する!!」
イチキの御曹司は鬼のような形相で叫んだ。
ボンボンめ、いい気味だ。
負け犬は尻尾巻いて帰りやがれ。
笑いながら“ハウス!!”って叫んでやりたいのを堪えて、僕は屈辱に震えるその背中に、当たり前のような顔をしてさらりと言い放つ。
「あ、それと、これからここに来られる時は事前に連絡してくださいね。突然来られて、いいとこで邪魔されるのイヤなんで。」
イチキの御曹司の荒々しい足音が廊下に響き渡り、やがて玄関のドアがバタンと大きな音をたてて閉まった。
勝ったな。
まさか僕がこんな事を言うなんて、思ってもみなかっただろう。
かなり気持ちがいい。
「…おい、いつまでこうしているつもりだ。」
僕の腕の中で、杏さんが低く呟いた。
いつものように強気な態度でそう言ってはいるけど、まだ顔が赤い。
面白いな。
僕は更に強く抱き寄せてみた。
「杏さんがお望みならいつまででも。」
「調子に乗るな、早く降ろせ!」
杏さんは足をバタバタさせて抵抗した。
恥ずかしがってるくせに、いつも通り振る舞おうとする偉そうな態度がかわいい。
もっとからかってみようか。
「なんならベッドに降ろして、子作りの練習でもしてみますか?」
「ばっ…バカッ!!」
杏さんの平手が僕の頬に飛んできた。
「……冗談ですよ。」
僕は杏さんをソファーの上に降ろして、ジンジンと痛む頬をさすった。
やっぱりダメか。
もちろん本気で言ったわけじゃないけど。
「なんだかすごい事言ってましたね。」
「ああ…そうだな。」
杏さんは腕組をしてため息をついた。
「お祖父様はきっと最初から、私が鴫野と付き合っていると言うのは嘘だと見抜いてたんだろうな。」
「そうなんですか?」
「嘘だとわかっているから、本気でなければできないような事を言ってきたんだろう。」
杏さんじゃなくたって、偽物の婚約者との間に子供を作ろうなんて思わない。
子供ができたらほとんどの場合は、その相手と結婚する事になる。
お祖父様は最初から自分が決めた以外の男との結婚なんて、許す気はなかったんだ。
「それで…杏さんはどうするつもりなんですか。」
「そうだな…。さすがに鴫野にこれ以上の物を背負わせるわけにはいかない…。少し考えさせてくれ。」
杏さんはゆっくりと立ち上がって、自分の部屋へ戻った。
考えるって言ったって…。
杏さんが僕とホントに結婚なんてするわけないし、結局はお祖父様が選んだ婚約者のイチキの御曹司と結婚する事になるんだろう。
でもそれで杏さんは幸せになれるのかな?
できれば杏さんが幸せになれる選択肢が見つかればいいんだけど。
もし僕がイチキコーポレーションに負けないくらいの大企業の御曹司なら…。
なんて、有り得ない事を考えても仕方がない。
だけどもし僕が御曹司だったら、料理なんかしてないんだろうな。
料理のできない僕なんか、杏さんに必要とされるところがひとつもないじゃないか。
仕方なく始まったはずの杏さんとの生活に終わりが近付いて来るのを感じて、なぜか僕の胸はギュッと握り潰されるような痛みを感じた。
この胸の痛みはなんだろう?
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