初めてのデート

土曜日。


僕と杏さんは家族連れや若いカップルで賑わう遊園地に来ていた。


杏さんは珍しそうにキョロキョロ辺りを見回している。


「あれは?」


「ジェットコースター。乗ってみる?」


杏さんは素直にうなずいた。


「よし、じゃあ行こう。」


僕は杏さんの手を握って、ジェットコースターの乗り場を目指す。


杏さんは僕の手を少し恥ずかしそうに握り返した。




昨日の夜、少し遅めの夕飯が済んで、ゆっくりお茶を飲んでいる時。


「明日は出掛けよう。」


杏さんは突然そう言った。


「出掛けるって…どこにですか?」


「知らん。恋人同士というのは、デートというものをするんだろう?」


……変なの。


明日デートしようって普通に言えばいいのに。


「確かにそうですね。休みの日とか仕事の後とか、二人で出掛けたり食事したりします。」


「どこに行けばいい?」


杏さんは恋愛経験がないから、きっとデートもした事がないんだろう。


慣れない話をしている自覚はあるようで、少しソワソワしている。


どうやら照れているらしい。



一緒に暮らし始めてから、杏さんの表情の微かな変化を感じ取れるようになってきた。


ちょっとわかりにくいけど、美味しいとか嬉しいとか、恥ずかしいとか。


会社では見ることのない杏さんの素顔は、なんだかかわいい。


「杏さんの行きたい所でいいですよ。どこがいいですか?」


「……特にない。」


杏さんって、僕と暮らし始めるまで、どんな休日を過ごしていたんだろう?


彼氏もいないし親しい友人がいる様子もない。


こんな広い部屋にひとりぼっちで何を思っていたんだろう?


「デートの定番と言えば…遊園地とか水族館とか動物園とか…ショッピングとか。」


「人の多い場所は苦手だ。」


オイオイ…だったらどこに行けばいいんだ?


あ、人混みを完璧に避けるデートがひとつだけあった。


「家の中で二人きりで過ごす、おうちデートなんてのもありますけど。僕と杏さんは一緒に住んでますから、それじゃあデートになりませんね。」


「おうちデート…?家の中で二人きりでどうやって過ごすんだ?」


「ごはん食べたり、DVD見たりもしますけどね…。」


これ言っていいのか?


付き合ってる男女が密室で二人きりでする事なんて決まってるだろう?


「けど、なんだ?」


ああもう…ホントに無知だな。


言わなきゃわからないか。


「たいていはイチャイチャしてます。」


「イチャイチャ…?」


「えーっと…つまり、飽きもせずキスしたり、セックスしたり?」


杏さんは真っ赤な顔をして、言葉を失ってしまった。


……こういうところ、面白い。


もっとからかって恥ずかしがらせてやろうか。


「人の多い場所が苦手なら、おうちデートでもしてみます?二人っきりで一日中イチャイチャして過ごしましょうか。」


「し…しない!絶対しない!!」


…だろうな。


一緒に暮らしているとは言え、僕らは恋人同士ではないし。


会社では上司と部下で、同じ家に帰ると偽の婚約者で同居人。


よく覚えてないけど、酒に酔った勢いで1度だけ過ちを犯してしまった事を除いては、僕と杏さんは男女の仲ではないって事だ。


「そもそも、これは私たちが付き合っているというアピールみたいなものだ。家の中では意味がない。」


「アピール…ですか?」


「言っただろう?私たちの粗を探そうと、どこで密偵に見張られているかわからないと。だったらそれを逆手に取るんだ。」


なるほど。


それで突然デートしようなんて、柄にもないこと言い出したのか。


「だったら…思いきり楽しめる場所がいいですね。遊園地にでも行ってみますか?」


「行った事がないんだが。行き先は鴫野に任せる。」


「それじゃあ遊園地にしましょう。お弁当作りますね。」


こうして僕と杏さんの初デートの場所は、遊園地に決まった。


恋人同士のデートなのだから、もちろん敬語は無し。


お互いを名前で呼んで、手を繋いで歩く。


思いきり楽しむ。


これが僕の提示した、デートの条件。


杏さんは戸惑っていたようだけど、自分の言い出した事だから仕方ないと、渋々それを承諾した。




そして恋人ごっこをしている今に至る。





遊園地に着くと、杏さんは初めての遊園地に興味津々で、グルグル回る乗り物とか、凄い速さで走るジェットコースターを、目をキラキラさせて眺めていた。


幼い頃からお祖父様に厳しくしつけられたと言っていたし、普通の家庭の子供のように家族で遊びに行った事がないんだ。



そういう僕も、小さい頃に両親が離婚してばあちゃんに育てられ、家族で遊園地に来た記憶はない。


記憶に残る初めての遊園地は、近所の友達の家族と一緒だった。


大きくなると友達や彼女と一緒に行ったりはしたけれど。


一緒に遊びに行った記憶どころか、僕には写真以外の両親の記憶さえない。


遠い記憶に微かに残っているのは、母親の『いい子にしていてね。』という言葉だけだ。




いくつかの乗り物に乗った後、ベンチに座って売店で買ったジュースを飲んだ。


「杏は高い場所とか速い乗り物とか、平気なんだね。」


「うん。面白い。」


「次は何に乗りたい?」


「あれ。」


杏さんは空中ブランコを指差した。


期待に目を輝かせる姿は幼い子供みたいで、思わず頭を撫でたくなるほどかわいい。


「じゃあ、ひと休みしたら乗ってみようか。」


「うん!」


杏さんが嬉しそうに笑った。


こんな無防備で無邪気な笑顔を見たのは初めてだ。


「杏、遊園地楽しい?」


「…すごく楽しい。」


「良かった。」


僕も楽しい。


本当の恋人ではないけれど、今だけでも杏さんを笑顔にできるなら、偽物の婚約者も悪くないかな、と思えた。




お昼を少し過ぎた頃。


「杏、お腹すかない?」


「そう言えば、少し。」


「そろそろお昼にしようか。」


コインロッカーに預けていた弁当を取り出して木陰に座った。


弁当を広げると、杏さんはまた子供みたいに目を輝かせた。


「これなに?」


「タコさんウインナー。」


タコの形のウインナーが珍しいのか、杏さんは穴が空くほど眺めている。


「これは?」


ウサギの形にしたリンゴを指差して杏さんは尋ねる。


「リンゴのウサギ。かわいいでしょ。」


「うん。」


普通の家庭の子供なら母親に一度は作ってもらったような物が、杏さんにとっては珍しいようだ。


僕も母親には作ってもらった事はないけれど、遠足の時とか運動会の時とか、ばあちゃんが作ってくれた。


僕は杏さんにおしぼりを差し出した。


「ハイ、これで手を拭いて食べて。」


「お箸は?」


「あるけど…お弁当だからね。手で掴んで食べられる物は、手で食べていいんだよ。」


「そう…なの?」


食事に関するしつけが厳しかった杏さんは、きっと食べ物を手で掴んで食べた事なんてないんだろう。


杏さんはおそるおそる玉子焼きに手を伸ばして口に運んだ。


「美味しい?」


「美味しい!」


まったくもう…。


今日の杏さん、ホントにかわいい。


僕は愚かにも勘違いしてしまいそうだ。



杏さんは国内でも指折りの大企業の令嬢で、僕は料理くらいしか取り柄のないしがない庶民のサラリーマンで。


単なる成り行きで婚約者のふりをしているだけなのに。


杏さんだって、お祖父様が決めた好きでもない幼馴染みと結婚するのがイヤで、僕を好きなふりをしているだけなんだ。


そんな事最初からわかっているのに、どういうわけか、なんだか少し胸が痛い。



そう言えば…。


美玖との初めてのデートの時も、早起きして張り切って弁当を作ったっけ。


美玖が海老フライが好きだと言ったから、朝早くから海老の下ごしらえをして、衣を付けて油で揚げて。


喜んでくれるといいなと思いながら、前の晩からタレに漬け込んだ鶏肉を焦げないように丁寧に焼いて。


すごく美味しいって言いながら食べてくれたんだけどな。


…なんで今更、そんな事を思い出すんだろ。


美玖のために初めて作った弁当の中身なんて、もう忘れかけてたのに。


今、僕の目の前にいるのは、僕の料理が地味でつまらないと言った美玖じゃなくて、どんな簡単な料理でも目を輝かせて喜んでくれる杏さんだ。


ああ、そうか。


杏さんは裕福な家庭に育ったから、豪華な料理なんて見飽きるほど食べ慣れている。


だから、僕の作ったなんでもない素朴な料理が珍しいんだ。


そして僕の作った料理が、ばあやの作った料理に似ているから。


ばあちゃんの料理を食べて育った僕は、母親の料理の味を知らない。


母は父と離婚して、幼い僕を捨てて新しい男と出ていったきり、僕の目の前に姿を現した事はない。


僕は自分を産んだ母親にも愛されていなかったんだな。



結局僕は、本当の意味で誰にも必要とされてはいない。



「どうかした?」


杏さんがリンゴのウサギを手にして、僕の顔を覗き込んだ。


…いけない。


僕は今、杏さんとデート中なんだった。


思いきり楽しむって言ったのは僕なのに、感傷に浸ってる場合じゃない。


「どうもしないよ。今日の晩御飯は何にしようかなって考えてた。何がいいかな?」


苦し紛れに、そんな言葉を吐き出した。


「章悟の作る御飯はいつも、なんだって美味しいよ。」


「…そっか。」


杏さんにそう言われると、演技なんだってわかってても嬉しい。


「晩御飯の事は後で考えよう。章悟、お弁当あんまり食べてない。」


「ああ…うん、そうだね。」


食事中に難しい事を考えてはいけない。


杏さんは敏感にそれを感じ取ってしまう。


「ハイ。」


杏さんがおにぎりを手で掴んで差し出した。


「このおにぎり、一番好き。」


刻んだ梅とシソとちりめんじゃこのおにぎり。


僕が初めて杏さんに食べさせたおにぎりだ。


僕は杏さんの手からおにぎりを受け取って口に運ぶ。


「美味しい?」


「うん、美味しい。って…僕が作ったんだけどね。」


「だから、美味しいんだよ。」


杏さんが穏やかに笑った。



杏さん。


今だけはその笑顔、演技とか偽物じゃなくて、僕だけのために向けてくれたんだって、思ってもいいかな?




夕方になり、閉園時間を知らせるアナウンスが園内に鳴り響いた。


杏さんは少し名残惜しそうにしている。


「閉園だって。そろそろ帰ろうか。」


僕がそう言うと、杏さんは観覧車を見上げた。


「あれ、乗れなかった。」


「うん…そうだね。また今度来た時に乗ろう、一緒に。」


「…うん。」


僕は杏さんの手を引いてゲートに向かう。



ごめんね、杏さん。


観覧車には乗りたくなかったんだ。


ゴンドラの中で二人きりになると、きっと杏さんは元の上司の杏さんに戻ってしまうと思ったから。


今日だけは、僕の前で無邪気に笑う恋人の杏でいて欲しかった。


杏さんの部下で偽物の婚約者の僕がそんな事を思うなんて厚かましいけど、なぜだか僕は、そう思った。




手を繋いだ帰り道、杏さんは嬉しそうに笑って楽しかったと小さく呟いた。



僕も楽しかったと言うと、杏さんはまた照れ臭そうに笑った。






家に帰ると、思っていた通り杏さんは言葉少なく、僕の作った夕飯をゆっくりと口に運んだ。


夕飯後、入浴を済ませると、いつものようにソファーに座ってノートパソコンに向かい、キーボードを叩いて何やら文字を打ち込んでいた。


ビックリするほどいつも通りだ。


さっきまで笑っていた杏さんと同一人物とは思えないほどの仏頂面だ。


わかってはいたけど、自分が偽物の婚約者でしかない事を改めて思い知らされる。


それでもほんの少しの時間でも、杏さんが楽しそうに笑ってくれて良かったと思う不可解な自分に苦笑いした。



僕が入浴を済ませてリビングに戻ると、杏さんはソファーの上で寝息をたてていた。


目一杯遊んで疲れたのかな?


初めての遊園地は驚きと初体験の連続で、息をつく暇もなかったんだろう。


それとも、僕との慣れない恋人ごっこに疲れたのかも。


杏さんは社泊の翌朝に見るより、少しあどけない寝顔をしている。



…かわいいな。



動かすと起こしてしまいそうで、僕は自分の部屋から持ってきた布団を、杏さんの体にそっと掛けた。



杏さん、今日の僕は上手にあなたの恋人を演じられたかな?


いつか演技じゃなく本当の笑顔を見せてくれたらいいのにと思っている僕は、どうかしてる。


きっと、今日があまりに楽しかったから、ちょっと勘違いしているだけなんだ。



気が付けば僕は、杏さんに喜んで欲しくて、杏さんのために料理を作っている。


いつの間にか、僕の中で杏さんの存在がどんどん大きくなっている事に気付いた。


いつか終わりが来るとわかっているのに。


杏さんと二人の生活が当たり前になってしまうのが、少し怖い。



時計の針は間もなく12時を指そうとしている。


日付が変わるまでのほんのわずかな時間、もう少しだけ、恋人ごっこの続きをしようか。


杏さん、デートのしめくくりは、おやすみのキスだよ。


「杏、おやすみ。」


僕は杏さんが目を覚まさないように小さく呟いて、その柔らかそうな唇に唇を近付けた。


……やめておこう。


眠っている杏さんにこんな事したって、しょうがない。


僕だけが勝手に杏さんを愛しく想っても、どうにもならないんだから。



時計の針が12時を指した。


「所詮は、偽物だもんな…。」


僕は思わずそう呟いて、そっと杏さんの髪を撫で、自分の部屋へ戻った。



好きでもない渡部さんとはあれだけ何度もキスをしたのに、僕は眠っている杏さんの唇に触れる事もできなかった。







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