もうひとつの問題
杏さんと僕が一緒に暮らし始めてから、何事もなく平穏に10日が過ぎた。
杏さんとの暮らしは特に困った事も難しい事もなく、思ったより快適だと思う。
近いうちに様子を見に来ると言っていたお祖父様は、まだ姿を現さない。
これ、一緒に暮らす意味あるのかな?
だけど杏さんが言っていたように、どこからか密偵に見張られているかも知れないので、ここで気を抜くわけにはいかない。
完全にお祖父様を騙しきるまで、きっと僕は杏さんと離れられないんだろう。
杏さんは婚約者のふりをするだけでいいと言ったけど、本当にそれだけで済むのか、正直言うと少し不安だ。
その日僕は矢野さんと二人で、試作室にこもって新商品の試作をしていた。
「なぁ、鴫野。」
「なんですか?」
うーん、全体的に見た目が地味だな。
栄養価的にはバッチリなんだけど。
もう少し彩りが華やかな食材に変えるべきか。
「おまえさぁ、渡部から告白されただろ?」
「えっ?!」
矢野さんの唐突な言葉にビックリして、花形の人参を思わず箸で潰してしまった。
「鴫野から返事がないって、渡部がヘコんでたぞ。」
ああ…いろいろありすぎてすっかり忘れてたけど、渡部さんに付き合ってくれって言われてから、もう2週間ほど経っている。
でも僕は今、禊の真っ只中。
渡部さんと付き合うわけにはいかない。
「返事してやんねぇの?」
「いやぁ…。なんと言ったらいいのか…。」
断る…しかないか。
嫌いではないけど、特別好きってわけでもないし、やっぱり美玖の友達と付き合うのは気が引ける。
「鴫野、今フリーなんだから付き合ってやれば?」
「いや…それはちょっと。」
「なんで?あいつ結構かわいいじゃん?好みじゃないとか?」
まぁ、確かにかわいいっちゃかわいいけど、好みでもない…かな。
「なんと言ったらいいのか…。元カノの友達と付き合うのは気が引けるって言うか。」
「なんで?もう終わったんだから別に気にする事ないじゃん。」
「気になりますよ。」
花形の人参を添えてもいまいちパッとしない。
もう少し彩りが欲しいから、絹さやでも添えてみるか?
「ふーん…。どっちにしても早めに返事してやれよ。あいつ、毎日ドキドキしながら待ってんだからさ。」
「そうですね…。」
断るの、気が重いな。
かと言ってこのまま放っておくわけにもいかないか。
渡部さん、大人しそうに見えて案外押しが強いんだ。
いきなりキスなんかされた時には、かなり驚いた。
ちょっと悪乗りしちゃったから、余計に顔を合わせづらい。
だけどこのまま杏さんの婚約者のふりを続けるとして、一体いつになったら僕は自由になれるのか?
婚約者役から解放されるまで、ちゃんとした恋人も作ってはいけない。
そうなると、こっそり自己処理するしかないわけで。
杏さんとは恋愛とか体の関係とかはないと思うし、僕はいつまで禁欲生活を続ければいいんだろう。
正直、先が見えないのはかなりきつい。
僕だって健全な成人男子だ。
人並みに性欲だってあるし、恋愛もしたい。
せめて婚約者のふりを続けながら誰かと付き合えたらいいんだけどな。
だったら好きだって言ってくれてるし、杏さんに内緒で渡部さんとコッソリ付き合っちゃおうか。
…とは思わない。
付き合えれば誰でもいいってわけでもないし、なぜか渡部さんとは付き合いたいと思えない。
杏さんとの約束をやぶるわけにもいかないし、渡部さんには悪いけど、やっぱりちゃんと断ろう。
そんな事を思っていた矢先。
今一番会いたくない人と顔を合わせる事になってしまった。
午後は広報部が新商品の出来映えを写真におさめに来ることになっていた。
茹でた絹さやを散らした事で、ほんの少しは見映えが良くなった。
けれど、広報部としては物足りないみたいだ。
「煮物メインじゃ、やっぱり地味ですねぇ。もう少しなんとかなりませんかね?」
「メインを変えるとなると、栄養価がまた変わってきますからね。見映えの点では、かなり手は尽くしたんですけど。」
「うーん…。もう一押し欲しいなぁ。」
簡単に言うなよ。
見映えさえ良ければいいってもんじゃないだろう?
味と栄養価は間違いないっつうの。
「シニア向けですからね。派手さより中身が大事なんです。これくらいの落ち着いた見映えの方が、美味しそうだと思うかも。」
ばあちゃんがこの料理を見たら、なんて言うだろう?
シニア向けの商品はシニア世代の人に見てもらうのが一番だと思うけど、広報部はよりによって、なんでこんな若いのを寄越すんだ。
広報部は少し不服そうではあったけど、角度がどうとか光の加減がどうとか、なんだかんだ言いながら写真を撮った。
広報部内の会議でまるごとボツにされる予感。
「改善策も考えてみますよ。」
「お願いします。」
渡部さんはカメラを持ったこの若い男の後ろで何やらメモを取っている。
「それじゃ、次の試作ができ次第連絡お願いします。なる早で!」
「はぁ…わかりました。」
なる早で!って…。
なるべく早くお願いします、とは言えんもんかね?
試作室を出る直前、渡部さんは僕の白衣のポケットに何かをねじ込んだ。
ああ…見たくないよ…。
返事を急かされるのかな?
できれば、この間の話はなかった事に…って言ってくれたらいいんだけど。
僕は矢野さんがパソコンに向かっている隙に、コソッとポケットから渡部さんのねじ込んだメモを取り出した。
“5:30に第2会議室で待ってます”
やっぱりそう来たか…。
返事急かされるパターンだ、これ。
広報部に出す改善策も考えなきゃいけないのに定時で仕事終われるかな?
僕は渡部さんへの断りの文句を考えながら片付けを始めた。
午後5時半。
定時のチャイムが鳴った。
一応、定時で仕事は終わった。
鞄を持って席を立ち、できるだけ自然に部署を出た。
それにしても…第2会議室を指定して来るあたり、渡部さんは本気で僕と決着をつけたいらしい。
第2会議室は少し不便な場所にあるので、あまり使われていないようだ。
それにこの時間は会議なんてしていない。
この間みたいに邪魔が入るのを避けたいんだろう。
それって考えようによっては、僕と成り行きで何があってもいいって事にも思える。
渡部さんって純情そうな見掛けによらず、やっぱり怖い。
第2会議室のドアを静かに開けると、中では渡部さんが落ち着かない様子で待っていた。
めちゃくちゃドキドキしてたりするのかな?
そんな渡部さんへの断りの文句を、僕は心の中で何度も復唱する。
「鴫野くん!良かった、来てくれて。」
「お待たせ…。」
ああもう…そんな嬉しそうに笑わないで。
罪悪感で胃の辺りがキリキリ痛む。
渡部さんは近くにあった椅子を僕にすすめて、自分もすぐそばの椅子に座った。
ガッツリ話し合う体勢を整えられてしまった。
僕は仕方なく椅子に座る。
渡部さんはうつむいて膝の上で手を組み合わせて、しきりに親指の爪を擦っている。
落ち着かないんだな。
落ち着かない様子で告白の返事を待つ姿が、女子高生みたいでなんとなくかわいい。
「あのね…この間の事なんだけど…。」
「ああ、うん…。ごめん、あんな事して。ちょっとどうかしてた。」
先制パンチとまではいかないが、渡部さんの事はなんとも思っていない事を、やんわりと伝えてみる。
「あの…私は、嬉しかったよ。」
え、嬉しかった?!
自分の事をどう思ってるかわからない男に、キスされて胸さわられて嬉しいって?
ちょっとどうかしてる。
「それで…そろそろ、返事…聞かせて欲しいんだけど…。」
渡部さんは相変わらずうつむいて、親指の爪を擦っている。
緊張した時の癖みたいなものかな?
僕は思いきって、何度も心の中で復唱した言葉を声にして吐き出す。
「うん…。ごめん、今はまだ誰とも付き合う気ない。」
「私じゃダメ…?」
渡部さんは顔を上げて、また潤んだ瞳で僕を見た。
あ…やっぱりこの顔、ちょっとかわいい。
「ダメって言うか…。元カノの友達と付き合うのは、やっぱりちょっと気が引けるし。」
復唱した言葉、第2弾。
これで素直にあきらめてくれないかな?
「私、鴫野くんがイヤなら、美玖とは縁切るよ。」
ええっ?
男のために友達と縁を切るなんて、あっさり言っちゃうんだ。
女の友情って、そこまで脆いものなんですか?
「そこまでしろとは言わないよ。ただね、未練があるわけじゃないけど、まだ僕の気持ちの整理がつかなくて。」
思い出の整理はしたけどな。
それでも僕は、美玖との思い出の写真を処分した時、確かに胸が痛んだ。
今でもまだ、ふとした拍子に美玖の事を思い出す。
そのたびに、僕は美玖を好きだったんだって、改めて思い知らされるんだ。
美玖と別れてから、まだ日も浅い。
渡部さん、これくらいで勘弁してくれないだろうか。
「もう少し時間が経てば、私との事、考えてくれる?」
「うん…どうかな。今はまだなんとも言えない。」
曖昧に濁すのは良くないとわかっているけど、僕の事をこんなに想ってくれてるんだと思うと無下に断れない。
「私、ホントに鴫野くんが好きなの。どんな形でもいいから、鴫野くんのそばにいたい。」
えーっと…それ、まずくない?
少なくとも僕には、セフレでもいいからそばにいさせてって聞こえたんだけど。
「あのさ…そういう事、簡単に言わない方がいい。もうちょっと自分を大事にしなよ。」
僕がそう言うと、渡部さんはポロポロ涙をこぼした。
「だって…好きなんだもん…。あきらめられない…。」
渡部さんはあとからあとからこぼれ落ちる涙を両手の指先で拭った。
ヤッバイ…。
すげえかわいいかも。
「そんなに泣かないで。」
僕は心にもないことを言いながら、指先で渡部さんの涙を拭った。
「そんなに優しくされたら…もっとあきらめられなくなっちゃうよ…。」
渡部さんは小さくしゃくりあげながら僕の手を握った。
僕の手の甲が、渡部さんの指についた涙で濡れた。
体の芯がゾクリと疼く。
もっと泣かせたい。
僕を想って泣く姿を、もっと見たい。
僕はそっと渡部さんを抱き寄せた。
「嫌いとか、そういうわけじゃないんだ。ただ気持ちが落ち着くまでもう少し時間が欲しいだけ。わかってくれる?」
よくもまあ、思ってもいない言葉がスラスラと口をついて出てくるもんだ。
付き合いたいなんて、これっぽっちも思ってないくせに。
「それまで私、どうしたらいいの?鴫野くんの気持ちの整理がついた時に、やっぱり私の事は好きじゃないって言われたら…。」
渡部さんは僕の胸にしがみついて、大粒の涙をこぼしている。
いいぞ、もっと泣け。
「今のままでは、僕は君とは付き合えない。渡部さんはどうしたいの?」
ちょっと意地悪な質問を投げ掛けたりして。
渡部さんはきっと、泣きながら僕にすがってくるはずだ。
体を投げ出して、好きにしてくれと言うに違いない。
「鴫野くん、私の気持ちわかってるくせに…意地悪な事言うんだね…。」
「意地悪だった?」
「意地悪だよ…。」
渡部さんは涙で濡れた顔で、上目遣いに僕を見た。
…すっげぇそそる。
このままここで食っちゃおうか。
「待ってるから…私の事、好きになってよ…。それまではどんな関係でもいいから…鴫野くんのそばにいたいの…。」
来た、これ。
今すぐ私をセフレにしてくださいって言ってるようなもんだぞ?
だけどここでがっくつくのは、僕の趣味じゃない。
もうちょっと焦らしてみるか。
「友達…って事で、いいかな?」
「友達じゃイヤ…。もうただの友達のままじゃイヤなの…。」
「友達じゃダメ?じゃあ…どうすればいい?」
僕の一言で、渡部さんは欲望に駆られたただの雌になった。
必死で僕にしがみついて、自分から激しく唇を重ねて。
相変わらず下手くそなキスに応えてやると、渡部さんは更に欲望を剥き出しにした。
「お願い鴫野くん…。キスだけじゃやだ…。もっとして…。」
…うまくいった。
僕は心の中で高笑いしながら、期待に火照る渡部さんの体を慰めてやった。
僕の手が触れるたびに、彼女は切なげに甘い声を漏らす。
喘げ。
もっと乱れろ。
…やらしい女。
こうなる事を期待して、僕をここに呼び出したんだ。
後々厄介な事になるのは避けたいから、さすがにここでは最後まで残さず食ったりはしない。
けれど、僕の指と舌で何度も果てた彼女は、満足げだった。
そこに愛もないのに、女ってわからない。
第2会議室を出た後は、別々に帰路に就いた。
電車に揺られながら、改めてさっきの出来事を振り返る。
場所をわきまえろって、杏さんから叱られたとこなのに。
なんで僕は、あんな所であんな事をしたんだろう?
女ってわからないなんて、わからないのは僕自身も同じじゃないか。
彼女の事は、好きだとか付き合いたいとか、これっぽっちも思っていない。
好きだから付き合って欲しいという告白は断っておいて、どうしてあんなふうに彼女の体を弄んだりするのか。
なんだかものすごい罪悪感で、自分自身のゲスさが気持ち悪くて、吐き気がする。
あんな事、もうこれっきりにしたい。
でももしかしたら、渡部さんは体だけでもいいからと、今後も僕との関係を求めて来るかも知れない。
好き合ってもいない相手とあんな事して、何が楽しいんだ?
頭ではそう思っているはずなのに、あの時僕は確かに、渡部さんをめちゃくちゃに乱してやりたいと思っていた。
やっぱりおかしい。
僕は激しく自己嫌悪に陥る。
そして自分が自分じゃないような、妙な感覚に苛まれながら電車を降りた。
「遅かったな。」
リビングに入った瞬間、杏さんがこちらに目も向けずに言葉を発した。
まさか今日に限って、こんなに早く帰宅しているとは。
「定時で上がったんじゃなかったのか?」
さすがデキる部長…。
部下をよく見ていらっしゃる。
「そうなんですけどね…。途中で知り合いに会って、少し話し込んでしまいました。それから買い物に行ったので…。」
「そうか。あんまり遅いから心配したじゃないか。」
「すみません…。」
この間会議室でのキスシーンを見られた女の子とチチくり合ってたなんて、杏さんには口が裂けても言えないよ…。
ふりとは言え、僕は今、杏さんの婚約者なんだから。
「急いで夕飯作りますね。」
杏さんは気にも留めない様子でノートパソコンに向かっている。
罪悪感と、言い様のない虚無感。
僕が今まで、どこで誰と何をしていたかとか、気にしてくれたりはしないのかな。
いや、思いきり詮索されたら困るのは僕なんだけど。
自分のした事は棚に上げて、僕の事なんてどうでもいいって感じの杏さんの態度に、なぜか軽くショックを受ける。
杏さん、僕はね。
あなたの婚約者のふりをしながら、僕を好きだと言ってくれる女の子と激しいキスをして、その子の身体中をいいように弄んでたんですよ。
好きでもないのに、期待させるような態度を取って。
相手の体だけでなく、気持ちも弄んで。
……なんて。
杏さんに知られたら言い訳もできないくせに、心の中で打ち明けてみる。
いっその事、こんな僕を杏さんが思いきり罵倒してくれたら、少しは僕の罪悪感も薄れるのかも知れない。
翌日からも何度か、仕事の後に渡部さんと二人で会った。
仕事が終わって帰ろうとすると、会社を出たところで待ち伏せされていたから。
渡部さんはしきりに飲みに行こうとか食事をしようと誘うけど、僕は用事があるとそれを断り駅までの道のりを一緒に歩いた。
あまりに熱心に誘うからちょっと申し訳なくなったので、お茶をするくらいの時間ならあると言って、一度だけカフェに行った。
カウンター席に並んで座り、最初はコーヒーを飲みながら普通に話していたのに、気が付けばいつの間にか渡部さんは至近距離にいて、目で僕に何かを訴えかけた。
ちょうどその時、前に美玖が一緒にホテルから出てきたのとは違う男と腕を組んで歩いているのを、カフェの窓から偶然見掛けた。
渡部さんは何も言わずに僕の手を握って、潤んだ目で僕の目をじっと覗き込んだ。
…誘ってるんだ。
女豹みたいな目をして。
美玖に裏切られた事に同情するふりをして、あわよくば僕を手に入れようとしている。
だけど僕はたとえ遊びでも、安易にそれに乗っかるわけにはいかない。
誰に見られても疑われないように、渡部さんの手をそっと離して、ただの同僚という態度を崩さないようにした。
あまり遅くなると食事の支度に差し支えるし、また杏さんに怪しまれるといけないので、適当な時間を見計らってもう帰ろうと言うと、渡部さんは急いで帰ろうとする僕を怪訝な顔で引き留めた。
詮索されると面倒だから、これからはお茶をするのもやめておこう。
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