二人のルール
翌日の夜。
定時で仕事を終えた僕はスーパーでたくさんの食材を買って、今日から僕の住まいともなる杏さんの部屋に帰った。
食材を冷蔵庫や床下収納庫にしまい、キッチンで夕飯の支度をした。
キッチンは好きに使っていいと杏さんから許可を得ている。
それにしてもすごいシステムキッチンだ。
これを使っていなかったなんてもったいないとしか言いようがない。
僕がここにいる間は目一杯使ってやろう。
まぁ、どれだけ立派なキッチンを使っても、僕が作れるのは庶民の料理なんだけど。
いつの間にやら僕の荷物は杏さんの部屋に運び込まれ、綺麗に整理されていた。
冷蔵庫にあった食材は冷蔵庫に、たくさんの調理器具や調味料もキッチンに綺麗に収められている。
杏さん一人で暮らすには広すぎる部屋には空き部屋がいくつもあって、杏さんはそのうちの一番広い部屋を僕の部屋にしてくれた。
それにしても無駄に広い。
庶民の僕は、掃除が大変そうだというデメリットしか思い浮かばない。
昨日、無理して定時で仕事を切り上げた杏さんは、今日は残業で帰りが遅くなるらしい。
それでも、遅くなっても必ず帰ると杏さんは言っていた。
ホントかな?
いつもみたいに、オフィスの床で寝転がって社泊…なんて事にならなきゃいいけど。
もうすぐ10時になろうかという頃、杏さんが帰宅した。
「おかえりなさい。」
「ああ…ただいま。」
杏さんはほんの少し驚いた顔をした。
一人暮らしが長くなると、帰宅を出迎えられる事さえ新鮮なんだろう。
「お腹すいたでしょう。すぐ晩御飯にしましょうね。」
「まだ食べていなかったのか?無理して待っていなくてもいいんだぞ。」
なんだ、この新婚夫婦みたいな会話は?
さしずめ僕は、新妻ってとこか。
杏さんは鞄を置き、ソファーに寝転がって大きく伸びをした。
「せっかくだから一緒に食べた方が美味しいかなと思って。」
テーブルの上に料理を並べると、杏さんは洗面所に向かった。
どうやら手を洗っているらしい。
手を洗い終わると、杏さんはテーブルの上の料理を珍しそうに眺めながら席に着いた。
「これ、なんだ?」
皿の上の料理を指差して尋ねる杏さんは、子供みたいでちょっとかわいい。
「蓮根のはさみ揚げです。」
「これは?」
「筑前煮ですね。どうぞ、召し上がってください。」
「ふーん…。いただきます。」
よほど気になるのか、杏さんは蓮根のはさみ揚げを箸でつまんでじっくり眺めた後、静かに口に運んだ。
杏さんは蓮根の歯応えが気に入ったのか、サクサクといい音をさせながら、あっという間に一切れ食べ終わった。
「どうですか?」
「美味しい!!」
杏さんはまた蓮根のはさみ揚げに箸を伸ばして口に運んだ。
おっ、今までで一番の反応だ。
こんなに興味を持って食べてもらえると、作り甲斐がある。
少し前までは食べるのが面倒だと言っていた杏さんが、最近では僕の作った料理を食べて美味しいと言ってくれる。
なんとなくだけど、料理を作る僕を杏さんが必要としてくれているような気がしてくるから不思議だ。
以前に比べて、食事をしている時の杏さんの表情が柔らかくなってきたようにも感じる。
せめて僕が一緒に暮らしている間は、毎日ちゃんとした食生活を送ってもらおう。
食事を終えると、杏さんはお風呂に向かった。
その間に僕は洗い物を済ませた。
杏さんが入浴を済ませてリビングに戻って来たので、僕もお風呂に入ろうと浴室に向かった。
もちろんなんだけど、浴室も無駄に広い。
お風呂掃除も大変そうだ。
ここにいる間、家事全般は僕がやる事になっている。
このゴージャスなマンションは、杏さんの所有物なんだそうだ。
僕が家事をする分、食費や光熱費は杏さんが払ってくれるらしい。
昨日、二人で簡単に決めたルールだ。
杏さんは普段、下着以外の洗濯物をすべてクリーニング業者に頼んでいると言っていた。
だから昨日までこの部屋には、洗濯機というものがなかった。
洗濯機だけでなく、料理をしないからか冷蔵庫もなかった。
飲み物とかどうするんだろうと思ったら、ウォーターサーバーは完備だし、ドリンク用の小さな冷蔵庫がリビングやベッドルームなど各部屋に備え付けてあるらしい。
さすが、超高級マンション。
庶民の僕には理解できない、無駄な便利さ。
浴室についてるミストサウナとかジャグジーとか、こんなの必要か?
とりあえず今日からこの部屋には、僕の部屋から運び込んだ冷蔵庫と洗濯機がある。
庶民の僕が家事をするには必要なものだ。
この広さが無駄だと思ったけど、広い浴槽で思いっきり足を伸ばしてお湯に浸かれるってとこだけは、悪くないな。
僕がお風呂から上がると、杏さんはソファーに座ってビールを飲みながら、ノートパソコンとにらめっこしていた。
仕事を持ち帰っているんだろうか?
僕の姿に気付くと、杏さんはリビングの隅の小さな冷蔵庫を指差した。
「ビールなら冷えてる。飲んでいいぞ。」
「いただきます。」
僕が冷蔵庫からビールを取り出すと、杏さんは向かいのソファーに座れと目で僕を促した。
それにしてもでかいソファーだな。
こんなの僕の住んでた部屋に二つも置いたら、一部屋塞がっちゃうよ。
「さて…早速、昨日の話の続きだ。一緒に住むと言っても、基本的に部屋は別々。お互いの部屋には勝手に入らないこと。」
「掃除はどうします?」
「留守中はしないで欲しい。掃除して欲しい時には頼むから。」
「わかりました。」
広い床の上をお掃除ロボットが勝手に走り回って綺麗にしてくれるので、フローリングの掃除は少しラクできそうだ。
「洗濯はどうします?杏さんがいやじゃなければ僕がまとめてやりますけど。」
「うーん…そうだな…。」
「洗って欲しい物があったら、洗濯機の上のかごの中に入れておいてください。」
「わかった、そうする。」
なんだか生活感の漂う細かいことばかりだ。
むしろ杏さんは今まで、この部屋で暮らしている生活感が無さすぎたんだと思う。
昨日初めてここに来た時には、生活臭みたいなものが一切しなかった。
冷たくて無機質で、だだっ広い箱の中みたいだと思ったんだ。
「食事については鴫野に任せる。私が遅くなる日は先に食べてくれればいいし、風呂も私が帰る前に済ませてくれて構わない。」
「わかりました。遅くなる日は連絡いただけると助かります。」
「わかった、そうしよう。」
二人で一緒に生活をする上でのルールはこんなものか。
杏さんはビールを少し飲んで、小さくため息をついた。
「それと…この事は他言無用だ。わかるな?」
「もちろんです。」
直属の上司の杏さんと暮らしているなんて、会社では絶対に知られたくない。
「社外の友人に引っ越し先を聞かれたら、どうすればいいですか?」
「そうだな…。親戚の家に居候しているとでも言っておけ。でもここに呼ぶのはダメだ。」
「呼びませんよ。」
杏さんは缶に残っていたビールを飲み干し、ガツンと音をたててテーブルの上に缶を置いた。
「それから、念のために言っておく。婚約者と言っても、あくまでふりだからな。この間みたいな事は…!」
そこまで言って、杏さんは口をつぐんだ。
あ…そういう事か。
酔った勢いでとか、なんとなくその場の雰囲気でとか、とにかくこの間の夜みたいな、やらしい事はするなって言いたいんだ。
ばあやみたいだなんて言ってたけど、一応僕も男として見られているらしい。
嬉しいような、哀しいような。
思わず苦笑いがこぼれる。
「もうしませんよ。」
「本当だろうな…?」
杏さんは疑わしげに僕を見た。
「ホントにしませんって…。いやがってる相手を無理やりどうにかしようなんて、本来の僕は思ってません。」
僕の言葉を聞いて何を思ったのか、杏さんは顔を真っ赤にしてうつむいた。
…この間の事、思い出したのかな?
真っ赤になってる杏さん、ちょっとかわいい。
もうちょっとそういう顔、見てたいな。
「杏さんがいやならもちろんしませんけど、合意の上ならいいですか?」
あれっ?
口が勝手に…。
杏さんは更に顔を赤らめ、僕に思いきりクッションを投げ付けた。
「うわっ!」
「ばっ…バカ言うな!!合意なんかするわけないだろう!!」
「ですよね…。すみません、調子に乗り過ぎました。」
そっと様子を窺うと、杏さんはまだ赤い顔をして、そっぽを向いている。
なんかかわいいな。
「それから…昨日も言ったように、どこで誰に見られているかわからないからな。他の女と外で会うのはしばらく我慢してくれ。」
「…外でダメなら、どこで会えばいいですか?ここにも呼べないし、会社でってわけにもいかないし…。どこでも会えませんよね?」
杏さんは少し首をかしげて考えるそぶりを見せた。
「…それもそうだな…。だったら我慢しろ。」
「……できるかな…。杏さんも合意してくれそうにないし…。」
あ、また余計な事を…!
杏さんはまた顔を赤くして、さっきより更に強い力で、僕にクッションを投げ付けた。
「何がなんでも我慢しろ!!」
「が…頑張ります…。」
杏さんって意外とからかい甲斐があるなぁ。
普段ポーカーフェイスで強気な分、こういう顔を見ると堪らない。
恥じらってうつむく顔を、両手で押さえ込んで逃げ場を失わせて、穴が空くほど眺めてやりたいとか。
じわじわと追い詰めて怯えさせて、すましている綺麗な顔を脅威に歪めてやりたいとか。
普段泣かない強い女が屈辱に涙している顔なんて、考えただけでゾクッとする。
ここにいる間に合意させたいな。
って言うか、杏さんからお願いさせて泣かせたいんだけど。
……って…。
僕はまた何を考えてるんだ?!
なんだか最近おかしいぞ?
何があっても、杏さんには触れないようにしないと!
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