夢なのか現実なのか

翌日、日曜の朝。


外は晴れて綺麗な青空が広がっている。


少し持ち直した僕は、窓の外を眺めて大きく伸びをした。


落ち込んでたって仕方ない。


布団を干して、部屋の掃除でもしよう。


そうすればこのモヤモヤした気分も、少しは晴れるかも知れない。


昨日一日中くるまっていた掛け布団を抱えてベランダに出ようと立ち上がった時、掛け布団の中から、何か小さな物がポロリと転げ落ちた。


「…ん?」


拾い上げてみると、それは光沢のある綺麗なボタン。


なんだこれ?


こんなボタンのついた服、持ってたかな?


首をかしげながらベッドの上に何気なく視線を移すと、シーツに赤っぽいシミのような物がついている事に気付く。


いつの間にこんなシミがついたんだ?


よく見たら血のようにも見えるけど。


どこかケガでもしてたっけ?


腕や足を調べてみたけれど、血が出るような傷はどこにもついていない。


一体なんの汚れだろう?


掛け布団をベランダの柵に干して、ベッドのシーツをはがした。


シーツを洗濯機に放り込んで、スタートボタンを押す。


流れ出す水の音を聞きながら、洗濯機に洗剤を投入した。



そう言えば、金曜の夜はどうやって家に帰ったんだっけ?


タクシーを待っていたところまでは覚えているんだけど、その後の記憶がない。


おそらく矢野さんがタクシーで送ってくれたんだとは思う。


だって杏さんは僕の家なんか知らないし、女性の杏さんが酔った男の僕をいくらなんでも一人で送ったりはしないだろう。


夢の中では杏さんがそばにいたんだけど。



それにしても変な夢だったな。


夢とは言え上司の杏さんにあんな事をするなんて、僕はよほど参ってたんだと思う。


そうじゃなければ、よほどの欲求不満だ。


よく考えたら、美玖とは誕生日以来会っていなかったし、もちろん他の女の子としたりはしないから、1ヶ月ほどご無沙汰だ。


僕は杏さんを女性として意識した事なんて一度もないし、嫌がる杏さんをどうにかしてやろうなんて思った事も、もちろんない。



それにしてもリアルな夢だったな。


今まで見たこともないような杏さんの表情とか、思ったより柔らかい感触が鮮明に蘇る。


あー、こりゃ重症だ。


早いとこ美玖の事は忘れて、新しい恋を見つけよう。





翌日。


もしかしたら矢野さんの物かも知れないと思った僕は、部屋に落ちていたボタンをポケットに入れて出社した。


なんとなく食欲がないので、今日の弁当は、梅と大葉を刻んだ物とちりめんじゃこを混ぜ合わせた御飯で作ったおにぎり。


そしていつものように具だくさんの味噌汁。


こんな時でも朝早くから弁当を作ってる辺りが地味なのか。


それでもこれが僕なんだから仕方ない。



料理も地味だと言われたのは、かなりショックだった。


美玖はいつも僕の作った料理を美味しいと言って食べながら、心の中では、また性格と同じで地味な料理だなー、なんて思ってたわけだ。


一度手伝おうとしてくれた事があったけど、美玖は包丁もまともに持てなかったから、僕がやるからゆっくりしてていいよと言って、傷付けないようにやんわりと断った。


あんなんでこの先大丈夫なのか?


付き合ってる時は僕が作るからそれでもいいと思ってたけど、もし僕が料理のできない男だったら、美玖は僕のために料理を作ってくれたりしただろうか?


もしかして料理ができようができまいが、僕以外の男になら、相手を喜ばせるために苦手な料理にも挑戦したりするのかも知れない。



…今更考えたって仕方ないな。


結局僕は、美玖に愛されていなかったって、そういう事だ。




会社に着くと、いつものようにコーヒーを淹れた。


月曜の今日はさすがに、杏さんが床に寝ているという事もない。


金曜日にご馳走になったお礼と、酔って迷惑かけたお詫びだけはしておかないと。


そんな事を考えながらコーヒーを飲んでいると、杏さんが出社してきて部長席に着いた。


僕は席を立ち、コーヒーを淹れたカップを持って部長席に向かった。


「おはようございます。」


僕がコーヒーを差し出して挨拶をすると、杏さんは少し驚いた様子で顔を上げた。


「ああ…鴫野か。おはよう。」


「金曜はご馳走さまでした。あと、ご迷惑おかけしてすみませんでした。」


「もう大丈夫なのか?」


「おかげさまで。」


「そうか。」


杏さんはそれだけ言うと、黙ってコーヒーを飲んだ。


杏さん、機嫌悪いのかな。


まさか僕が夢の中で杏さんに襲い掛かった事がバレてるなんて、そんな事あるわけないか。





僕がコーヒーを飲み終わる頃には他の社員も出社して、オフィスは賑やかになった。


「おはよう鴫野。」


矢野さんが僕の肩を叩いた。


「おはようございます。金曜はご迷惑おかけしてすみませんでした。」


「いや、あれはしょうがない。気にすんな。」


しょうがないって何が?


フラれてもしょうがないのか、それともクヨクヨしてもしょうがないのか。


「彼女の浮気現場を見た上に、あんなキツい事言われてフラれたら、俺だってやけ酒のひとつもするよ。」


「はぁ…。」


へべれけになるほどやけ酒しても、しょうがない…ね。


それにしても矢野さんはハッキリ現実を突き付けてくるな。


本人に悪気はないんだろうけど、矢野さんみたいなモテる人に言われると、ちょっとヘコむ。


「昼飯でも奢ってやるから元気出せって言いたいとこだけど…今日も弁当か?」


「ハイ。」


「じゃあ晩飯か?」


「いえいえ、お気遣いなく。」


今日の矢野さんはやけに優しい。


地味な僕が派手に失恋した事を気の毒に思ってくれているようだ。



…同情なんかされても惨めなだけなんだけど。





昼休み。


僕は試作室で一人になるのを見計らって、弁当を広げた。


あまり食欲はないけど、とりあえず食事だけはきちんとしておかないと。



『食べる事は大切だよ。落ち込んで食欲がないときも、体にいい美味しいものを食べると不思議と元気が出るもんだ。』



小さい頃からばあちゃんにそう言われて僕は育った。


両親の代わりに僕を育ててくれたばあちゃんのその言葉は、管理栄養士としての僕の原点と言っても過言じゃない。


離婚した両親からの仕送りがあったとは言え、ばあちゃん一人で僕を育てるのは大変だっただろう。


高校を卒業したら就職してラクさせてあげたいと思っていたけど、ばあちゃんは僕の将来のためにと言って大学進学を勧めてくれた。



僕はおにぎりを口に運びながら考える。


僕が食欲のない時に、ばあちゃんがいつも作ってくれたおにぎり。


確かに僕の作る料理は、地味と言えば地味なのかも知れない。


だって僕の料理のルーツは、ばあちゃんの手料理なんだから。



ばあちゃんの事を考えながらおにぎりを食べていると、後ろでドアが開く音がした。


振り返ると杏さんが書類を手に驚いた顔をしていた。


昼休みに杏さんが試作室に来るのは珍しい。


「なんだ鴫野…いたのか。」


「ハイ、僕はいつもここで食べてます。」


「毎日弁当なのか?」


「そうです。」


書類を試作台の上に置いてドアに向かおうとした杏さんが、突然顔を手で覆って立ち止まったかと思うと、その場にしゃがみこんだ。


「杏さん!どうしたんですか?!」


箸を置いて慌てて駆け寄ると、杏さんは少し蒼白い顔をしている。


「どこか調子が悪いんですか?」


「いや、悪くはないんだがな。ちょっと…。」


立ち上がろうとした杏さんがフラリとよろめいた。


「無理しないでください。とりあえず、椅子に座りましょう。」


僕は杏さんの体を支えて椅子に座らせた。


「貧血ですか?」


「いや、多分あれだな。」


「あれ?」


「軽い低血糖だろう。」


低血糖って…血糖値が下がりすぎて起こるっていう、あれ?


「もちろん慢性的な低血糖症ではないぞ?一時的なごく軽いものだから大丈夫だ。」


いやいや、大丈夫じゃないだろ?


低血糖起こすって…もしかして杏さん…。


「杏さん、食事してないんですか?」


「ああ…買い置きのカロリーバーを切らしてしまってな。注文はしたんだが、配送に時間がかかるらしくて、今日は何も食べてない。」


「いやいや、カロリーバー以外の物を食べましょうよ!1階に行けばコンビニあるじゃないですか!」


「そうなんだけど面倒でな。そういえば、昨日も一昨日も面倒でほとんど食べてない。」


「昨日も一昨日も?!」


そりゃ低血糖も起こすよ!!


それに面倒でってなんだ?!


1階のコンビニに行くのが?


それとも食べること自体が面倒なのか?!


理解できない事は多すぎるが、とりあえず杏さんに食べさせるのが先だ。


「杏さん、これ食べてください。」


ラップで包んだおにぎりを差し出すと、杏さんは眉間にシワを寄せて首を横に振った。


「いや、いい。」


お腹すいて倒れそうになってるのに、なんでそこまで食べようとしないんだ?!


僕はなかば無理やり杏さんの手におにぎりを持たせた。


「食べなきゃダメです!!ワガママ言わずに食べなさい!!」


杏さんは驚いて目を大きく見開いた後、おずおずとおにぎりを口に運んだ。


上司相手に思わず母親みたいな口調になって、一瞬しまったと思ったけど、杏さんは少しずつおにぎりを食べている。


何はともあれ良かった。


「良かったらこれもどうぞ。僕、まだ手をつけてませんから。」


蓋を開けてスープポットを差し出すと、杏さんはまじまじと中を覗き込んだ。


「弁当に味噌汁?」


「汁物はいろんな具材を入れやすいですからね。調理中に食材から出る栄養分も汁と一緒に摂れるし、一度にたくさんの栄養が摂れるんですよ。僕、毎朝作るんです。」


「毎朝自分で作るのか!!」


「そうですよ。一人暮らしで、作ってくれる人もいませんからね。温かいうちにどうぞ。」


箸を渡すと、杏さんは素直に味噌汁を飲み、箸でつまんだ大根を口に入れてモグモグ口を動かしている。


杏さん、ちゃんと人間らしい食事もできるんじゃないか。


「おにぎりも味噌汁も、全部食べていいですよ。」


杏さんは箸を止めて僕の顔を見た。


「私が全部食べると、鴫野の昼食がなくなるだろう。」


「僕は1階で何か買ってきますから大丈夫ですよ。」


「そうか…悪いな。昼食代は後で払うから。」


「いえ、それはいいです。この間ご馳走になったので。ゆっくり召し上がってください。」


杏さんはうなずいてまた味噌汁を飲み始めた。



あまり表情が変わらないけど、この間一緒に食事をした時より、美味しそうに食べているように見えた。


僕の料理が気に入ったのかな?


…いや、単純にものすごくお腹がすいていただけなのかも。


ペースはゆっくりだけど、箸を休める事なく食べている杏さんの様子を見ると、少し嬉しくなった。




弁当を買って試作室に戻ると、杏さんは相変わらずゆっくりとおにぎりを食べていた。


「お口に合いますか?」


「ああ…なんというか、懐かしい味がする。」


「それは…地味って意味ですか?」


「いや、そうじゃない。本当に懐かしい味がするんだ。」


田舎料理的な意味なのか…?


ばあちゃん直伝のおにぎりだから懐かしい味がするのかも。




昼休みが終わる少し前。


最初は食べるのを拒んでいた杏さんがおにぎりを二つ残して僕の弁当を食べ終えた。


少食の杏さんには少し量が多かったらしい。


杏さんは残業前に食べると言って残りのおにぎりを手に試作室を出る前に振り返り、美味しかったと言った。


普段無駄な事を言わない杏さんのその一言は、本当に美味しいと思ってくれたんだと素直に嬉しかった。


美玖に地味だと言われた僕の料理を、味には厳しい杏さんが誉めてくれた。


杏さんはいつもまともな食生活を送っていないようだけど、味の良し悪しを見極める舌は確かだ。


良家のお嬢様って噂だから、幼い頃から上質なものに触れていて、舌が肥えているんだろう。


だけどそのお嬢様がなぜ会社勤めをしていて、異常な食生活を送っているのか。


お嬢様育ちで料理ができなくても、今の時代お金さえ払えばなんでも食べられるのに。


あ、もしかしてあれか。


身の回りの世話をしてくれる人がいないと、一人ではなんにもできないとか?


実家は執事とかメイドとかのいるような豪邸だったりして。


あれ?じゃあなんでまた一人暮らしなんかしてるんだろ?


…一人暮らしだよな?


誰かと暮らしてたら、何かしら食べさせるはずだ。


杏さんは会社では私生活とか交友関係とか、プライベートな事をまったく話さないからわからない。


本当に謎多き人だ。


そういえば、恋愛はしたことがないって言ってたっけ。


あ…変な夢思い出した。


夢の中で僕は杏さんに、信じられないような事をしていたし、僕らしくもない事を言っていた。


杏さんを泣かせたいとか。


怯える杏さんがかわいいとか。


僕が教えてあげるとか。


夢とは言え、思い出すと恥ずかしい。


美玖に言われた言葉に腹が立って、強気な杏さんにイライラをぶつけたかったんだろうか。


それとも僕の中に、僕も知らないあんな願望でもあるのかな?


いやいや…。


僕はサディストでも俺様でもないし、どちらかと言うと世話焼きなフェミニストで、普通に考えて現実では有り得ない。



所詮、夢は夢って事だ。



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