やけ酒の果てのあやまち

それから僕は矢野さんと杏さんと一緒に足を運んだバーで酒を飲んだ。


矢野さんは気の毒そうな目で僕を見ながら肩を叩いて、何度となく慰めたり励ましたりしてくれた。


杏さんは何も言わず、黙って酒を飲んでいた。


そのうち完全に酔いが回った僕は、ウイスキーの水割りを煽りながら矢野さんに愚痴をこぼした。


「聞いてくださいよ矢野さん、僕は地味でつまらないんですって。」


「地味?」


「料理もデートも記念日もセックスも、何もかもが地味でつまらないんだって。僕と一緒にいてドキドキした事なんて、一度もなかったって言われましたよ。」


「なんだそれ…。」


「この先一緒にいても、刺激もトキメキもないから別れてくれって。2年も付き合っておいて今更でしょ?」


「そうだな…。」


矢野さんは心底困っているんだろうなと思ったけど、僕はどうしようもない悔しさを吐き出し続けた。


「なんのために2年も付き合ってたんだろ…。好きじゃないならもっと早く言えっての…。」


くだを巻く僕を、杏さんは不思議そうに見ている。


「じゃあ鴫野は、なんのために彼女と付き合ってたんだ?」


「なんのために、って…。好きだったからですよ、悪いですか?」


「悪いとは言ってないぞ?だったら彼女はなんで鴫野と付き合ってたんだ?好きじゃなかったんだろう?」


「知りませんよ…。そんなの僕にわかるわけがないでしょう…。」


デリカシーの欠片もないな…。


そんなの僕の方が知りたいくらいだ。


美玖が僕を好きじゃないってわかってたら、2年も付き合ったりしなかった。


あの笑顔の裏で僕の事を、地味でつまらない男だと思ってると知ってたら、こんな別れ方をしなくても済んだかも知れないのに。


「派手で面白い男ってどんなだよ…。」


少なくとも美玖が好きなのは、彼女にフラれてやけ酒をして、上司や先輩相手にくだを巻くような男ではないんだろう。


僕とはあまり積極的にセックスをしたがらなかったくせに、あの男とはあんなに楽しそうに笑ってラブホテルから出てくるんだもんな。


そんなにあの男とのセックスが良かったのか?


それともやっぱり僕のすべてがつまらなかっただけ?


もしかしたらもっとずっと前から、僕以外にも男がいたのかも知れない。


誕生日プレゼントにブランドバッグもらったら用済みになって、僕とは会う必要もなくなったってか?



何もかもが虚しくなって、グラスの水割りを一気に飲み干した。


矢野さんは小さくため息をついて、グダグダになっている僕の肩を叩いた。


「鴫野、おまえの腹立つ気持ちはわかるけどな。今日はもうその辺でやめとけ。またいつでも付き合ってやるから。」


「何言ってるんですか…。まだ飲みますよ、僕は…。」


「ダメだ、今日はもうおしまい。帰るぞ。」



半ば引きずられるようにしてバーを出た僕の足元は、フラフラとおぼつかない。


「あーもう…しょうがねーなぁ…。」


まともに歩けない僕を送るために、矢野さんはタクシーを拾おうとした。


「矢野の家は確か、この近所なんだろう?」


「そうなんですけど…。鴫野、こんな状態じゃ一人で帰れないでしょう。」


「鴫野の家はどこだ?」


矢野さんはスマホで地図のアプリを開いて、僕の家の詳しい場所を杏さんに教え始めた。


「ここならうちと同じ方向だ。私が送って行くから矢野はタクシー拾ったら帰っていいぞ。」


「えっ…でも杏さん一人で大丈夫ですか?」


「大丈夫だ。こう見えて力はある。」


「僕は一人で帰れますよー…。」


めちゃくちゃ酔っているなと自分で思いながら、なんとか自力で歩こうとしてみたりする。


「あ、タクシー来ました。」


酔っ払いの戯言なんかに耳も貸さないとでも言うかのように、矢野さんは僕の言葉を無視してタクシーに向かって手を挙げた。


矢野さんはタクシーの後部座席に僕を押し込んで、運転手に行き先を細かく説明した。


「それじゃあ杏さん…すみませんけど、鴫野の事お願いします。」


「ああ、任せとけ。ご苦労さん。」



タクシーの中で僕は、酔って自分の思い通りにならない体の重みを、杏さんの肩に預けた。


なんだかやけに杏さんの体温が心地いい。


重みに耐えられなくなったまぶたを閉じると、さっき見た美玖とあの男が腕を組んで歩いていく後ろ姿が浮かんできた。


…好きだったんだけどな。


情けなくて、悔しくて、胸が痛い。


不意に肌触りの良い柔らかい布のような物が頬に当たる感触がした。


カッコ悪い。


いつの間にか、無意識のうちに涙が溢れていたようだ。


杏さんがハンカチで僕の涙を拭いてくれていた。


「すみません…みっともない部下で。」


「部下だからいいんだ。気にするな。」



なんだ、優しいとこもあるんだな。


見た目も頭も良くて仕事ができて。


若くして出世した超エリートで。


仕事にはストイックだけど、自分の事には無関心っていうギャップがあって。


無愛想だけど部下思いで。


杏さんが男なら、きっと女の子にモテるんだろう。



男の僕なんかより、ずっと男前だ。




タクシーを降りて、杏さんの肩を借りながら部屋に帰った。


杏さんは僕をベッドまで連れて行ってから、冷蔵庫を勝手に開けた。


僕はベッドに体を投げ出して、杏さんって女の人なのに力があるんだなぁ、なんて事を思いながら、ネクタイをゆるめた。


「ほら、水でも飲め。」


杏さんは冷たいミネラルウォーターの並々と注がれたグラスを差し出したけれど、僕は自力で起き上がる事もできない。


「仕方ないな。」


グラスをテーブルの上に置いて、杏さんは両手を僕の首の後ろに回し、ゆっくりと起こしてくれた。


「ほら。これで飲めるだろう。」


差し出されたグラスを受け取って、一気に水を飲み干した。


「もっと飲むか?」


「杏さんって案外優しいんですね。」


「ん?案外は余計だな。」


「美人でスタイルが良くて頭も良くて、仕事ができて…おまけに優しいのに、なんで彼氏がいないんですか。」


本音なのか酔っているからなのか、僕の口は勝手に動く。


「何バカな事を言ってるんだ。」


杏さんは呆れた様子で、僕の手からグラスを取り上げた。


「とりあえずもう一杯だな。」


空いたグラスに水を注ぎに行く杏さんの後ろ姿が、やけに色っぽく見える。


後ろからいきなり抱きしめたら、杏さんはどんな顔するだろう?


やっぱり驚いたりするのかな?


思いきり抱きしめて唇を塞いで、自由を奪ってやりたい。


……って…。


なにバカな事を考えてるんだろう。


あー、杏さんが色っぽく見えるなんて、相当酔ってるな。



「ほら、もう一杯水飲んで、さっさと寝ろ。」


僕は差し出されたグラスを受け取り、また一気に水を飲み干した。


杏さんは髪をかき上げながら、心配そうに僕の顔を覗き込んだ。


「大丈夫か?」


やっぱり色っぽい。


なぜだか無性に杏さんを抱きしめたくて、僕は杏さんの腕を掴んだ。


さっきの僕からは考えられないような、強い力で。


「大丈夫…じゃ、ないです…。」


杏さんは訝しげに眉を寄せた。


「もう少しだけ、ここにいてください。」


「…どうした?」


「杏さんにはわかりませんよね…僕の気持ちなんて…。」


僕は何を言ってるんだ?


こんな事、上司の杏さんに言ってどうするつもりなんだ?!


「…わからんな。泣くほど傷付くくらいなら、最初から恋愛なんてしなければいい。」


「それは杏さんが恋愛した事がないから言えるんです。」


失礼な事を言っているという自覚はあるのに、自分の意志とは裏腹に、勝手にこぼれ落ちる言葉を止められない。


「杏さんだってね…誰かを本気で好きになったらわかるはずです。」


「わかりたいとも思わんが?」


…なんだかな。


この強気な上司のすました顔、涙でグシャグシャにしてやりたい。


「杏さんって、誰とも付き合った事ないんですか?」


「それがどうした?」


「若くで出世して大勢の人の上に立ってるのに、恋愛経験は小学生以下だ。こんな事もした事ないんでしょう?」


手を伸ばして、杏さんの頭を引き寄せた。


驚いて何かを言おうとした杏さんの唇を、僕の唇で無理やり塞ぐ。


どんなに必死で抵抗したって、杏さんは女だ。


男の僕に力では敵わない。


僕は思いきり杏さんを抱きしめて、貪るように舌を絡めた。


柔らかく湿った舌は、少しだけウイスキーの味がした。


杏さんは息の仕方もわからなくなったのか、苦しそうにもがいて僕の背中を拳で叩く。


唇を離すと、杏さんは必死で呼吸をした。


「なっ…なんでこんな事…!」


杏さんは今まで見たこともないような慌てた顔をして、僕を睨み付けた。


その目付きになんだか身体中がゾクゾクする。


「…したかったからですよ。」


僕は杏さんの腕を掴んで、体を引き寄せた。


「杏さん、なんで彼女と付き合ってたんだって僕に聞きましたよね?」


ベッドの上に押し倒すと、杏さんは顔を強ばらせた。


なんだ、かわいいじゃないか。


もっといじめてやりたい。


もう一度唇を塞いで、さっきよりも激しいキスをした。


キスをしながら、杏さんの高そうなスーツのボタンを外す。


「こういうこと、したかったんですよ。いくら杏さんでも、わかるでしょ?」


スーツの下のブラウスのボタンを外すと、杏さんは怯えた顔をした。


首筋に舌を這わせて、形のいい胸に触れると、杏さんはビクリと体を震わせる。


「わ…から…ない…。」


「だったら…僕が教えてあげます。」






目が覚めると、外はもう随分日が高く昇っていた。


ぼんやりと目を開いて部屋を見回すと、テーブルの上にはグラスが置かれていて、部屋にいるのは僕一人。



変な夢見た…。


夢の中で、僕は杏さんを押し倒していた。


無理やりキスをして、抵抗する杏さんを押さえ付けて、身体中を弄んで。


あれって、一歩間違えば犯罪だろ?


夢で良かった…。



夕べの深酒のせいで、頭がガンガンして、胃の辺りがムカムカする。


寝返りを打つのも億劫で、仰向けのまま手足を投げ出し、ぼんやりと天井を眺めた。


杏さんとの事は夢だったけど、美玖との事は夢じゃなかった。


…あー、美玖とは終わったんだな。


昨日の今日だから、やっぱりまだ簡単に吹っ切る事はできない。


一人になって酔いが覚めると、思ったより参っている事に改めて気付く。


地味でつまらない僕なんか誰にも必要とされないとか、誰にも愛してもらえないとか、僕という人間を全否定された気分。


美玖の浮気現場を目撃した上にこっぴどくフラれただけでもかなり痛いのに。


その腹いせに、夢の中とは言え上司の杏さんを襲うなんて。


人間として最低だ。


本当に人間のクズだ。


なんかもう立ち直れそうもない。


だから今日はこのまま重力にも無気力にも逆らわず、二日酔いの重い体を横たえて大人しくしていよう。





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