恋の修羅場は突然に
会社を出て、杏さんと僕は矢野さんの案内でこぢんまりとした小料理屋に足を運んだ。
テーブル席に着くと、矢野さんがおすすめの料理と日本酒を注文した。
「ここ、珍しい日本酒置いてるんだよ。この辺じゃあんまり置いてない地酒があるんだ。」
「へぇ…。それは是非飲んでみないと。」
僕と矢野さんがそんな話をしている間、杏さんはお品書きをじっと眺めていた。
「杏さん、何か欲しいものでもありますか?」
「うーん…よくわからんが枝豆。」
よくわからんって、何がわからないんだろう?
と言うか当たり前だけど、杏さんもやっぱりカロリーバー以外の物を食べるんだな。
矢野さんは女将さんに枝豆を追加注文した。
「枝豆が好きなんですか?」
「好きと言うか…。自分のペースでチビチビ食べられるのがいい。」
「はぁ…そうなんですか。」
いまいちよくわからない杏さんの見解に、僕は思わず首をかしげた。
それから3人で、美味しい料理を食べながら日本酒を飲んだ。
杏さんは最初に言っていた通り、枝豆を食べながらお酒を飲んでいる。
他にも美味しい料理がたくさんあるのに。
「杏さん、これ食べますか?すごく美味しいですよ。」
僕が根菜の煮物を差し出すと、杏さんは少し首をかしげた。
「うーん…じゃあ少しだけ。」
取り皿にほんの少しの煮物を取って、杏さんはそれをチビチビと口に運ぶ。
…杏さんって偏食家なのか、それとも少食なのかな?
何を食べてもあまり美味しくなさそうに見えるのはどうしてだろう?
「そう言えば鴫野、最近彼女とはどうだ?」
矢野さんが突然そんな話を振ってきた事に驚いて、僕は思わず里芋の煮っころがしを落としそうになった。
「最近あまり会ってないですね。仕事が忙しいみたいで、今日も残業で会えないってドタキャンされちゃって。」
「会ってないって、どれくらい?」
「1ヶ月くらいですかね。」
「1ヶ月も?!大丈夫なのか、おまえら。」
痛いところを突いてくるな。
矢野さんは美玖と面識があるので気になるのだろう。
入社してまだ半年も経たない頃、矢野さんに誘われた合コンで僕と美玖は出会った。
美玖は他の女の子たちより控えめな感じで、派手な女の子が苦手な僕は、美玖と話しているとホッとした。
料理が好きだと言うと、美玖が僕の作った料理を食べてみたいと言ったので、二人で会う約束をした。
初めてのデートには弁当を作って水族館に行った。
あの時美玖は、僕の作った弁当を美味しそうに食べてくれたっけ。
それから次のデートの時に、付き合あおうと言ったのは僕だった。
「付き合ってどれくらいになる?」
「2年です。」
「早いな、もうそんなになるのか。」
杏さんは日本酒を飲みながら、僕と矢野さんの会話を聞いている。
上司の杏さんの前だというのに、なんで僕の話ばっかり?
「矢野さんはどうですか?」
「今は誰とも付き合ってない。」
「そうなんですか?この間も経理の子に付き合ってくれって言われてませんでした?」
「あー、断ったよ。なんか最近そういうの面倒で。」
モテる人の言う事はやっぱり違う。
女の子と付き合うのが面倒になるほど、いろんな付き合いをしてきたんだな。
付き合うのは面倒だけど適当に遊ぶ女の子には不自由していないってのが本当のとこだろう。
「杏さんはいい人いないんですか?」
矢野さんが尋ねると杏さんは怪訝な顔をした。
「なんだ、いい人って。」
「お付き合いしてる人とか…。」
「そんなものおらんわ。だいたい、付き合うって事の意味がわからん。」
「意味がわからんって…。」
やっぱり杏さんの言う事は、僕には理解できない。
誰かを好きになったり、その人と会いたいとか一緒にいたいとか思った事はないんだろうか?
「杏さんは好きな人と一緒にいたいとか思ったりしないんですか?」
矢野さんが直球過ぎる質問をすると、杏さんはまた顔をしかめた。
「何を基準に人を好きになる?そもそも一緒にいてどうするんだ?」
僕と矢野さんは思わず顔を見合わせた。
もしかして杏さんって…恋愛した事がないのか?
それで誰とも付き合った経験がないとか?!
「一人で寂しくなったりしませんか?」
「しないが?」
「……ですよね…。」
なんでも持っている杏さんには、僕みたいな凡人の気持ちはわからないのかも知れない。
これまで何人かの女の子と付き合ってきて、相手が僕を好きになって必要としてくれたら嬉しかったし、大事にしたいとも思った。
そういう感情は当たり前じゃないのか?
人を想う気持ちとか、相手に愛されたいとかいう感情が、杏さんにはないのかな?
っていうか、杏さんには恋愛自体が必要ないのかも。
やっぱり杏さんは変わった人だ。
2時間半ほど経った頃、矢野さんが2軒目に行こうと言い出した。
「落ち着いて飲める雰囲気のいいバー見つけたんだ。行くだろ?」
「明日は休みだし、まぁいいですけど…。」
「杏さんも、まだ飲めるでしょ?」
「そうだな、もう少し飲みたい。」
「ですよね!行きましょう!」
1軒目をちゃっかり杏さんにご馳走になって店を出た。
変わった人だけど、こういうところは上司らしい。
もしかして矢野さんは最初から杏さんの財布をあてにしていたのか?
「ご馳走さまです!」
「たまにはな。」
矢野さんおすすめのバーを目指して歩いていると、何軒かのラブホテルが建ち並ぶ場所に差し掛かった。
女性の上司と歩くには抵抗のある場所だ。
杏さんは珍しそうにラブホテルを眺めている。
「杏さん、こういう所はそんなにガン見しちゃダメですって。」
矢野さんがそう言うと、杏さんはまた首をかしげた。
「そうなのか?」
これ絶対入ったことないよ…。
って言うか、ここが何をする場所かも知らないのか?
世間知らずにもほどがある。
相当の箱入り娘なのかも。
そんな事を思いながらその場所を通り過ぎようとした時。
少し先のラブホテルから、一組のカップルが出てきた。
僕の視界に映ったのは、見慣れたはずの後ろ姿。
髪の長さや背格好、服装。
そのカップルの女性は、まぎれもなく美玖だった。
その隣には見知らぬ男がいて、美玖はその男の腕に嬉しそうに腕を絡めて笑っている。
「えっ…?」
どういう事だ?
今日は残業で会えないんじゃなかったのか?
美玖は僕の姿に気付く様子もなく、男と腕を組んで歩いていく。
「オイ、鴫野…あれって…。」
「……。」
現場を目の当たりにしてしまったんだから、追い掛けて問い詰める気にもなれない。
ただ情けなくて、拳を握りしめた。
「忙しいのは、仕事じゃなかったみたいですね…。」
「このまま黙って見過ごしていいのか?!」
「現場を見ちゃったんですよ。僕に嘘ついてまで他の男と会ってたんでしょ。これ以上何聞けって言うんですか?」
僕と矢野さんの会話を黙って聞いていた杏さんが、不思議そうな顔をした。
「どうした?」
杏さんにはこの状況も察する事ができないのか?
彼女に浮気されたと上司に説明するなんて、惨めすぎる。
「なんでもないです。」
「あれ、鴫野の知り合いか?」
僕の口から言わせる気なんだ。
無知なのは仕方ないとは言え、無性に苛立つ。
「そうですよ。僕の彼女だと思ってたんですけどね。そう思ってたのは僕だけみたいです。」
杏さんは少し首をかしげた後、何を思ったか走って美玖の後を追い掛けた。
「ちょっと…!!何やってるんですか、杏さん!!」
僕は慌てて杏さんの後を追う。
杏さんは踵の高いハイヒールを履いているとは思えないほどの速さで駆けて行き、あっという間に美玖に追い付いてその肩を叩いた。
……間に合わなかった。
美玖が驚いた様子で振り返る。
「詳しい事は知らないが、君は鴫野と付き合ってるんじゃないの?」
「えっ?!」
杏さん、なんてストレートな…。
振り返った美玖が、僕の姿に気付いて、大きく目を見開いた。
「で、ここでその人と何してたの?鴫野との約束を蹴ってまでその人と会わなきゃいけないような大事な用でも?」
杏さんに悪気はないのかも知れないけれど、これ以上何も言わないで欲しい。
これは僕と美玖の、二人だけの問題だ。
「杏さん、もういいです。行きましょう。」
僕は必死で平静を装って杏さんの腕を掴んだ。
「どうしてだ?人違いじゃないんだろう?」
「だからっ…!!」
苛立って思わず大きな声をあげると、矢野さんが慌てて駆け寄ってきて、杏さんを少し離れた場所に連れて行った。
美玖は隣にいた男に、少し先にあるカフェで待つように言った。
二人きりになり向かい合う形になると、美玖はじっと僕を見た。
「章悟…嘘ついてごめん。でももう、別れて欲しいの。」
…やっぱりな。
なんでこんな場所で別れ話切り出されてんだよ、カッコ悪い。
「…一応さ、理由くらいは言って。納得いくようにさ。」
大声で罵倒したいのを堪えて、できるだけ冷静なふりをした。
「章悟といると落ち着くけど…ドキドキした事とか一度もなかった。章悟とはトキメキも刺激もない。これ以上一緒にいても、それは変わらないと思う。」
えっ?なんだそれ?
2年も付き合っておいてそれを言う?
「あっそう…。だったらもっと早くそう言えば良かったんじゃん。」
「私だけが悪いって言いたいの?章悟は私が望むような事してくれた?料理もデートも記念日もセックスも、何もかもがいつも地味だった。もっとドキドキする恋したいって思っちゃいけない?」
美玖は自分の事は棚に上げて開き直った。
僕との事をうやむやにして他の男とやってたくせに、なんでそんな事が言えるんだ?
なんかもうどうでもいいや。
好きだと思ってたのは僕だけだったって事か。
「ハイハイ、悪かったな、地味でつまらない男に2年も付き合わせて。これ以上話すのもバカらしいわ。今すぐ別れてやるよ。」
僕を好きでない相手に、みっともなくすがったりなんかしない。
お望み通り別れてやる。
ここまで言われて未練なんてあるわけがない。
ただほんの少し、美玖を本気で好きだった気持ちを押し込めた胸が痛む。
そう、それだけだ。
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