サディスティックなプリテンダー

櫻井 音衣

残念な上司

ピピピピ、ピピピピ…。


「んー…。」


あー、もう朝かぁ…。


カーテンの隙間から射し込む朝日が眩しい。


鳴り響く電子音を止めようと手を伸ばし、手探りでボタンを押さえる。


いつもと同じ時間に目覚まし時計のベルで目を覚まし、顔を洗って朝食の支度をしながら弁当を作る。


いつもと変わりない僕の朝。




鴫野 章悟(シギノ ショウゴ)、入社3年目の25歳。



大学で栄養学を学び、管理栄養士の資格を取った。


卒業後は大手コンビニチェーン店`ジョイフルマート´を経営する会社、裕喜(ユウキ)カンパニーに入社。


現在は本社商品企画開発部日配食品課に勤め、主に試作室で商品の試作を担当している。


僕の仕事は、コンビニに並ぶ弁当や惣菜の新商品を開発する時に、味だけでなく栄養面に優れた商品になるよう栄養価を計算して試作する事。


昔から料理は好きだった。


食べてくれる人の体に少しでも良いものを作りたいと思いながら、この仕事に励んでいる。



一人暮らしの男の朝食なんて、せいぜいパンとコーヒーとかコンビニのおにぎりなんかが当たり前だと思うけど、僕は毎朝欠かさず朝食を作る。


鰹節と昆布から出汁を取って具だくさんの味噌汁を作り、魚を焼いたり野菜のお浸しを作ったり。


それと同時進行で、玉子焼きや鶏の照り焼き、野菜炒めなど、日によっていろいろな弁当のおかずも作る。


炊飯器の蓋を開けるとホカホカ湯気が上がり、炊きたての御飯のいい匂いが部屋中に広がった。


弁当箱に御飯とおかずを詰め、冷ましている間に朝食を取る。


炊きたての御飯、具だくさんの味噌汁、納豆、鮭の塩焼き。


朝でもたくさんの栄養が取れるように、味噌汁にはいろいろな具材を入れる。


今日の味噌汁の具は大根、大根の葉、しいたけ、人参、里芋、油揚げ、豆腐。


味噌汁を昼食用にスープポットに入れて、弁当は完成だ。


社員証を付けて本社ビルの1階にある自社のコンビニに行けば、社員割引きで買い物できるけど、よほどの事がない限りは自分で作った弁当を持って行く。


いくら自分達が開発した弁当とは言え、毎日コンビニ弁当で昼食を済ませるのは気が引けるから。


僕みたいに手作り弁当を持参する社員は珍しい。


ほとんどの社員は1階のコンビニで買った物を、上の階のランチルームで食べる。


そこで手作り弁当を広げるとジロジロ見られるので、僕はいつも試作室で一人のんびり昼食を取る。


今日もうまくできた。


お昼が楽しみだ。




台所の後片付けを済ませた後、身支度を整えて家を出た。


通勤ラッシュの地獄絵図みたいな満員電車が苦手なので、その前に電車に乗れるよう早めに家を出る。


最寄り駅から3つ目の駅で電車を降りて、徒歩5分で会社に到着。


まだ時間が早いので、出社している人の姿もまばらだ。


企画開発部に入るとジャケットを脱いで、ロッカーから取り出した白衣を着る。


備え付けのコーヒーマシンからマグカップに温かいコーヒーを注ぎ、自分の席へ向かおうとした時、視界の隅で何かがうごめいた。


それは床の上に横たわり、モゾモゾと長い手足を動かしている。



やれやれ、またか。


もう見慣れたとは言え、やっぱりその光景は尋常じゃない。


みんなが出社する前に起こすとするか。



「起きて下さい、朝ですよ。」


そっと肩を揺すると、その人は眉間にシワを寄せた。


「うーん…。それじゃ採算が合わない…。」


…寝ぼけてる。


夢の中でまで仕事してるのか?


「採算が合わなくても起きて下さい。」


今度は強めに体を揺すってみた。


「うー…原価が…。」


あ、ようやく目を開いた。


「おはようございます。また社泊ですか?」


「あー、鴫野か…。おはよう。」


「こんなとこで寝ると風邪ひきますよ。」


「いや…体だけは丈夫なんだ。」


その人はゆっくりと起き上がり、大あくびをしながら頭をボリボリ掻いている。


寝起きの姿、いつ見てもひどいな。


「顔でも洗って来て下さい。」


「そうする。」



こんなだけど、この人は僕の上司で、実はすごい人なんだ。


容姿端麗、頭脳明晰。


29歳の若さで、商品企画開発部の部長を務めている。


小耳に挟んだ噂では、グローバルな視野を持つために幼少期から高校時代までを海外で過ごしたそうで、6ヶ国語を巧みに操る。


帰国後は超難関の国立大学の経営学部を首席で卒業したらしい。


そしてどこぞの裕福な家庭の出らしく、所作の美しさから育ちの良さが窺える。



それなのに、だ。


こんな仕事をしているにもかかわらず、食事に時間を費やす意味がわからないと言って、いつもデスクで仕事をしながらカロリーバーをバリバリかじっている。


社泊なんかしょっちゅうで、社泊した翌朝は必ずと言っていいほど、所構わずオフィスの床に寝転がっている。


仮眠室に行けばいいのに、時間になればどうせオフィスに戻るのだから、オフィスで寝る方が効率がいいらしい。


どうやらこの人の頭の中には、効率の良さしかないようだ。


もしかしたら、人間らしさが欠落しているのかも知れない。


僕もこの部署に配属された頃は相当驚いたが、しょっちゅうこんな場面に出くわすせいで、しばらくするとこのおかしな上司の姿にも慣れてきた。


この上司の名前は芦原 杏(アシハラ キョウ)。


かなりの変わり者で、部下たちには自分の事を“芦原部長”ではなく“杏さん”と呼ばせる。



顔を洗って戻ってきた杏さんは、デスクの引き出しからいつものカロリーバーを取り出した。


僕がコーヒーを差し出すと、杏さんは無表情でそれを受け取り、チラッと僕を見た。


「ありがとう。鴫野はいつも気が利くな。いいお嫁さんになれそうだ。」


「それはどうも。でも僕は男ですからね、お嫁さんにはなりません。僕がお嫁さんをもらいます。」


「それもそうか。」


杏さんは今日も、まるでそれ以外は体が受け付けないとでも言わんばかりに、パソコン画面に目を凝らしながらカロリーバーをかじっている。


社泊の日は社内の守衛室に併設されているシャワー室で、かろうじてシャワー程度はしているようだが、仕立ての良い高そうなスーツは、今日で3日目だ。


まだ顔を洗ったばかりでほぼノーメイクなのに、真剣にパソコンに向かう横顔は別世界の人のように美しい。



女優並に美人でモデル張りにスタイルが良くても、中身があれじゃあ嫁の貰い手はないな、などと陰で噂されていても、杏さんはどこまでもマイペース。


仕事の事には細かいのに、それ以外の事はあまり気にしないらしい。



そんな杏さんの事を、社内の人間はこう呼ぶ。



“この上なく残念な美人”と。





昼休み。


熱いお茶を淹れてデスクに戻ると、白衣のポケットの中でスマホが震えた。


椅子に座ってスマホをポケットから取り出し、画面を開く。


付き合って2年になる彼女、美玖(ミク)からのメールだ。



【残業で遅くなるから今日は会えない】



…短いな。


しかもそっけない。


2年も付き合ってるとそんなものか?


確かこの前もその前も、そんな理由で会えなかった。


あれ?


いつから会ってないんだっけ?


しばらく会ってないし、そう言えば最近はメールとか電話も減った。


と言うか…全然ないような…。


なんとなく不安になってきた。



【仕事忙しいの?】



弁当を広げながらメールを送ると、すぐに返信が届いた。



【うん、だからしばらく会う余裕ないかも。】



しばらくってどれくらい?と聞き返そうかと思ったけれど、信用してないのかと言われそうで、やめる。


なんか美玖の気に障るような事したっけ?


そんなはずはないと思うんだけどな。


仕事と言われたら、それを信じるしかない。



【わかった。じゃあ仕事落ち着いたらまた連絡して。】




ひとつため息をついて、ブロッコリーを箸でつまんで口に運ぶ。


ああ、そうだ。


一番最近会ったのは、美玖の誕生日だから…もう1ヶ月も前じゃないか。


どんなに忙しくても、こんなに会わなかった事は今までなかった気がする。


…美玖に避けられてるのかな?


この2年、それなりにうまくやってきたと思うんだけどな。


仕事の後とか休みの日とか、何度も美玖のために料理を作って一緒に食べたし。


たまには二人で遠出したり、記念日なんかも特別派手ではなくても大事にしてきたつもり。


僕は美玖の事が好きだし、美玖も“章悟といると落ち着く”っていつも言ってくれる。


誕生日は僕の部屋で、僕の作った料理を食べながらお酒を飲んで、朝までベッドで抱き合って一緒に過ごした。


美玖が前から欲しがっていたバッグをプレゼントしたら、とても喜んでいたし。


じゃあ…僕の気のせい?


やっぱり仕事で忙しいんだな。




定時が近付いても仕事が終わらず、仕方なく残業する事になった。


どうせ美玖との約束もなくなった事だし、まぁいいか。




定時になり、少し休憩を取る。


コーヒーマシンでカップにカプチーノを淹れていると、後ろから肩を叩かれた。


「鴫野、とっとと仕事終わらせてたまには飲みに行こうぜ。」


「矢野さん…たまにじゃないですよね。」


「俺はな。だけど鴫野は滅多に飲みに行かないだろ?」


矢野さんは同じ課の先輩で僕より3つ歳上、いつも一緒に試作室で仕事をしている。


入社後の研修期間の3ヶ月、矢野さんは僕の教育係だったので、今でも何かと気に掛けてくれる。


「そうですね。じゃあ、早く終わらせましょう。」


「おー、鴫野の好きそうな店見つけたから連れてってやるよ。」


「楽しみです。」


僕の好きそうな、ということは、和食とか京のおばんざい的な店かな?


外で食べるのはあまり好きじゃないんだけど、いい店で美味しいものを食べるのは、料理の勉強になる。


矢野さんは女性にはちょっとだらしないしいい加減なところもあるけど、根はいい人だし、料理の味に関しての舌だけは確かだ。


だけは、と言うと失礼かも知れないけど…。





思ったより仕事が早く終わった。


矢野さんは早く飲みに行きたい一心で頑張っていたみたいだ。


帰り支度をしていると、杏さんが椅子から立ち上がって伸びをした。


「お疲れ様です。杏さんもこれからお帰りですか?」


「あー、うん、お疲れ。さすがに着替えないとまずいだろ?めんどくさいけど、久しぶりに家に帰るか…。」


家に帰るのがめんどくさい?


本当に変わった人だな。


「俺らこれから飲みに行くんですけど、良かったら杏さんも一緒にいかがです?」


矢野さんは事も無げに杏さんを誘った。


チャレンジャーだな…。


杏さんはこんなだけど、一応上司だぞ?


「…そうだな。たまには部下と酒飲むのもいいか。」


あ、行くんだ。


珍しいなぁ。


新商品の試食と接待を除いて、杏さんがカロリーバー以外の物を食べてる姿をほとんど見たことがない。



食生活といい私生活といい、杏さんってホントに謎だらけだ。




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