別れの曲〜L‘Adieu

あずみじゅん

第1話


その道を通ると、たまに聴こえてくるピアノの音色。とても気に入ったが、何という曲か誰が弾いているのかもわからない。ただ物悲しくも美しい音色は、この世を憂い嘆き絶望した俺にとって、唯一の救いだった。どんな美しい人が弾いているのだろう。まだ幼かった俺は、自分の背丈の数倍は有りそうな塀の向こうに思いを馳せたものだ。その思い人とまさか十数年後、こうしてこんな形で会うなんて、その時は思いもしなかった。


俺には、親兄弟がいない。頼れる親類縁者もいない。腹を空かせ道端で泣いていたところ、政府の役人が俺を施設に放り込んだ。そこは施設とは名ばかりの、監獄のような世界。大人の精神的欲求を満たすため集めれた子供達は単なる玩具、甚振りの対象でしかなかった。中でも反抗的だった俺は、施設長の女に良く殴られた。悔しかったが戦後間もない混乱の中、年端もいかない子供が自力で生きていける術などない。自力で食い繋げる年になるまで、じっと耐えるしか道はなかった。義務教育を終える目前、俺は施設を逃げ出した。追手から必死に逃げ惑い思った。ここを出たら、もうあの音色を聴くこともないだろう。荒み切った俺の心を暖めてくれた、あの音色…


あれからどう生きてきたのか、自分でも良く憶えていない。食うためにはなんでもした。略奪、詐欺、恐喝、暴行…そうして行き着いた場所…表に出せないようなことを秘密裏に始末する地下組織。アジトを転々と変え、落ち着ける場所すらない俺の人生。だが人間、一つくらいは取り柄があるようで、俺はその身軽さと度胸を買われ、暗殺部隊に配属された。最初は目の前で死んでいく人間や返り血に気分が悪くなりよく嘔吐したものだが、慣れとは恐ろしい。今では返り血を浴びることすらなくなった。


そんな生活を十数年続けたある日、俺に重大任務が課せられた。


「宰相暗殺…?」

「そうだ。」

「依頼主は?」

「某国の、まぁ、今の政権を転覆させたいと思っている勢力の実力者だ。それ以上は言えない。」

「わかった。」

「官邸の見取図だ。計画実行は四日後。マーレイロ国皇太子来日の夜。」

「何故マーレイロ国皇太子来日の夜なんだ?」

「宰相はあの国の国民から絶大な支持を受けている。」

「なら余計、国際問題に発展するんじゃ…」

「それが狙いだ。政権交代、そして某国に火種が飛ばないようにな。」

「?」

「まだわからないのか?まぁ、いい。国際情勢がどうなろうと、私達には関係ない。金さえ、貰えればそれでいい。」


確かにそうだ。俺達が動くのは金、それだけだ。


四日後。綿密な計画の元、宰相暗殺計画は実行に移された。某国スパイの手引きで部屋に入った時何か不思議な違和感を感じた。それは、目に飛び込んできた小さなアップライトピアノのせいだった。


「へぇ、あの狸、こんな趣味があったのか…ん?」


一瞬、脳裏にあの風景が甦る。


「ま、まさかな…あり得ない。」


疑念を払拭するかのように頭を振り、俺は所定の位置に身を潜めた。


宰相主催マーレイロ国皇太子歓迎祝賀会から官邸に戻った宰相は、えらく上機嫌だった。予め忍んだ俺には気づきもしない。


「今夜は少し飲み過ぎた。どれ、酔を冷まそう。」


そう言うと宰相は、小肥りな身体を揺らしながらピアノの前に行き、椅子に座り蓋を開け弾き始めた。


「ん?この曲…!」


そうだ!俺が施設にいた頃、唯一の拠としていた、あの曲だ!だけど、まさか…


「隠れていないで出て来なさい。」

「俺がここにいたこと、気付いていたのか?」

「ああ。」

「いつからだ?」

「部屋に入る前からだよ。」


何故だ、俺の侵入は完璧だったはず!


「密告書が、届いてね。誰かが私を殺しに来ると。」

「なっ!?」

「何を驚いているのだね。裏切り裏切ることなど珍しくも何ともない。互いが身を置くのはそういう世界、違うかな。」

「確かに、そうかもしれないな。」

「殺る、んだろう?だったら早くしなさい。もうすぐ秘書が薬を持って来る時間だ。」

「ああ、そうさせてもらう。その前に…一つ聞きたいことがある。」

「辞世の句は詠まないし命乞いもしないよ。」

「そうじゃない。その曲…何と言う?」

「…別れの曲だよ。」

「別れの、曲?」

「いい曲だろう?私はこの曲が大好きでね、政治家になってからは余計好むようになったんだ。」

「どうしてだ?」

「いつこの命がなくなるともしれない。毎日が別れ、だからね。」


そう言うと宰相は、更に優しい音色を奏でた。


「あんたもしかして昔…」

「早く、殺りなさい。」


コンコン…


「失礼します。お薬をお持ちいたしました。」

「ああ、ありがとう。」

「珍しいですね、ピアノをお弾きになるなんて。」

「…そうだな。」

「どうかなさいましたか?」

「いや、猫がね…」

「猫、ですか?」

「迷い込んだみたいだから飼ってやろうと思ったんだが、逃げられた。」


ベランダで俺は宰相の弾く「別れの曲」を聴きながら、優雅に人生の幕引きを堪能した。


                 (終)































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別れの曲〜L‘Adieu あずみじゅん @monokaki-ya

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