第94話

 殺風景な景色の所々に影が長く伸びていた。辺りはしーんと静まり返り、誰かいそうな気配は見られなかった。


「ここだ。ここがそうだ」

 

 薄紫色をする猫そっくりな生き物の落ち着いた声が、乾いた空気の中に響いた。


「ここなら邪魔者は入らない。心置きなくできる」


 その声に、どの顔も不思議そうな表情を浮かべた。今しがた、生き物の道案内で空路からやってきて降り立ったところで。そこには生き物の他、今は亡き師から譲り受けた白いバトルスーツ姿のホーリーに、一部がプレートアーマー製になっている鋼色をした標準的なバトルスーツを着込んだフロイス。無地の色のニットシャツにチノパンツ姿のジスと、同じくコットンのシャツにカーゴパンツ姿のレソーがいた。前者は、いざという場合に備えて完全武装をしていた。一方後者は、成り行きでやって来ていたために、普段の地味な格好をしていた。

 彼等がいたのは、長さ百五十フィート(約45メートル)、幅六十フィート(約18メートル)ほどの、ちょうど箱のような形状になった場所で。どうやら大昔の住居跡、王宮跡若しくは神殿跡と見られ、一度に数百人が一度に生活できるぐらいの広さがあった。また四隅の空間を囲んでいる高さ三十フィート(約10メートル)近い石積みの壁と、三フィート前後ぐらいの直径がある四本の支柱の他には何一つめぼしいものは見あたらなかった。がらんとしていた。おまけに天井の部分が完全に抜け落ちていて、オレンジ色がかった夕暮れの空がはっきりと見えていた。

 他にも、かなりな年月が経っていると思われるのに、カビが発生している様子も昆虫や小動物がはい回った痕跡もなく、外からの土砂の流入や崩れた天井部の破片も見当たらず、すっきりしていた。何らかの方法を用いて生き物が片付けたか処理したに違いなかった。

 ただそこにはパトリシアの姿はなかった。

 彼女はと言うと、その日、ひとりだけ蚊帳の外だった彼女は一緒に行っても返って足手まといになるからと自分なりに判断。後は任せたわよ、みんなで仲良くやってね、私は私なりに今できることをするだけだからと友人と生き物に全てを委ねて一人だけ別行動をとっていた。一足先にイクとエリシオーネとカコリナの三人を引き連れて車で自宅を出ていた。

 人里から離れたこの場所で生活していくには車の運転ができないと役にたたないからとして、新しく雇い入れたカコリナに車の免許をとらせる必要があったことで、一時間ちょっと走ったところにあった車の運転試験場へ向かったのだった。ちなみにイクとエリシオーネの二人は、雇い入れて間もないカコリナをリラックスさせるための要員というか、そのついでのおまけみたいなものだった。今頃は、女だけで四人集まれば何とかで、わいわいがやがやと仲睦まじく賑やかにやっているはずだろうと思われた。


 辺りはひっそりとして静寂に包まれていた。元は窓や出入口だったと思われる壁に開いた穴から外の様子が見て取れた。放置されてからかなりな年月が経っているせいで自然化がかなり進んでいた。外壁や付近の地面には樹木の根や草木のツルがはびこり一部は一体化していた。更に周りは背の高い樹木とシダ系の植物がこれでもかという風に密集していた。

 

「よくもまあこんなところを良く見つけられたものだな」


 フロイスから感嘆の声が漏れた。そこへ苦笑いを浮かべたホーリーが「ほんとね。かなり昔に造られた建物らしいけれど。さすがにここを捜し当てることは私でもとてもできそうにないわ」


 そう言って続くと、生き物が事もなげな様子で答えた。


「見ての通りの、間に合わせの仮の場所だ。とりあえずここなら人目に触れることもないし誰の迷惑にもならない。問題なくやれると思う」


 すると二人は、「ふーん、なるほど」「ふーん、そう」などと相槌を打ち、そして口々に呟いた。


「随分と慎重じゃないか。ここまでしないといけないのかい?」「正直言ってここまで用心する必要があるのかしら?」


 それもそのはず、パトリシアが暮らす国と海を隔てた大陸の南端部に位置する、ちょうど地平線の彼方まで色鮮やかな緑が人知れず拡がる辺境の地にぽつんと見えた小山の頂上付近にひっそりと佇んでいた廃墟のような構造物の中にいたのだから。


「あゝ、念のためだ。用心にこしたことが良いと思ってな。もし私の想定が間違っていなければ、直ぐに見つかってしまう可能性が高いのだ」


「ふーん、そんなものか」


「あゝ」生き物はゆっくり頷いて応じると、陽が陰りかかっていた空をちょっと気にする素振りで、


「さて、暗くならぬうちにさっさと片付けてしまおう」


 そう言うなり、近くに立つジスとレソーに向かって、


「ジスにレソー。二人とも、あそこに見える幾何学模様円の中心の辺りまで行ってくれるかな」


 生き物が目で指した前方の壁際に、直径四十から五十フィートぐらいありそうな魔法陣そっくりな模様円がコンクリ様の地面にくっきりと描かれてあった。

 彼等は黙って深く頷くと、恐る恐る言われた方向へ歩み始めた。そんなときだった。


「セキカ、それは魔法陣なのかい?」腕組みをしたフロイスがうーんと唸ると質問を投げかけた。


「いいや、単なる模様だろう」


「パッと見た感じ、魔法陣のように見えなくもないが」


「私がこちらに来たときに既にあったもので、便宜上あそこが目印的に良いだろうと思って言ったまでだ」


 そこへ、こういうことには詳しいホーリーがふふんと鼻で笑うと、これ見よがしに口を挟んだ。


「なるほど魔法陣に似ているけれど、図形や文字らしいものが左右対称に描いてあるみたいだし。これじゃあ何の効果も持たないわ。その上で、何らかの儀式を行っていたのは間違いはないらしいけれど」


「まあ、仮にそうであったとしても私は用いないが」


「ふーん」


 生き物と二人が軽いやり取りをしていた最中、不意に呼び掛ける若々しい声が前方から響いた。


「セキカ、これで良いかい?」


 ジスからで、円の中心へ到達したジスとレソーの二人が示し合わせるようにして確認をとってきたのだった。


「あゝ。もう少し離れて立ってくれるかな。余りくっつき過ぎると後が面倒なことになる」


 生き物が指図をすると、仲の良い二人は「うん」「分かった」と息を合わせるように応じて、五フィート(1.5メートル)ほど間隔を空けて立った。


「これで良いかい?」


「あゝ、それで十分だ」


 その光景を、フロイスとホーリーは、それぞれ呑気に眺めていた。

 ――さてと、どのようなものが現れるのだろうな。

 ――やっぱり私達が知っているような悪魔顔をして、規定通りに全身が黒い体毛に覆われていて、先が矢じり型になった長い尻尾がついているのかしら。


 本来ならジスとレソーのほかにイクもその場にいる筈だった。ところがそれは残念ながら叶わないこととなっていた。

 異世界(ありていに言うと魔界)まで行ってくると生き物がパトリシアとフロイスとホーリーに告げてから早くも五日が経過していた。

 生き物は約束通り四日後に三人の前に姿を現すと、向こうの世界でのあらましを語った。

 それによると、こちらの世界へ三名呼ぶつもりで現地へ向かったのは良いが、思ったようにいかず。二人には何とか折り合いがついて引き受けて貰う約束を取り付けることに成功したのだが、残る一人については、何分と会うことができずに終わった。

 どうやら連れ添う男ができて、一緒にどこかへ向かったらしく。よって消息ははっきり言って分からない。今から捜したところで、広い大陸故に長く住んだ地をひとたび離れれば外界はほぼ未知未踏の世界と言って良いものであるからどうなるものでもない。出会うのはもはや困難だろうと判断して、二人だけをこちらの世界へ呼ぶことにしたというのだった。

 また併せて、会えた二人と、会えなかったもう一人の素性を説明した。

 それによると、一人は名をクトゥオルフと言い、身分は自遊族の総称であるランナイト。こちらの世界でいうところの、いわゆる自由人。別な言葉で例えるならば、迎合や協調することを嫌い、誰からの支配も好まない偏屈な人種である。

 お気楽に未だに独り身で、人里から離れた天然の堅固な岩の塔に一人で住み、雇われ仕事を生業としている。

 もう一人はイオミルと言い、向こうでの身分は候族の総称であるイデアル。こちらで言えば、大きな都市の行政司法を取り仕切る指導者とその郎党を指す。

 しばらく見ないうちに、どこでどうなったかのか知らないが、二千人ばかりが集団生活している、その世界では比較的大きな都市を実行支配する首長の一人娘と結ばれて、今では数名いる首長の補佐の一人におさまり、首長の後継者の第一候補となっている。 

 あいにくと会えなかった三人目はナティーハと言い、男勝りの勝気な性格で戦闘狂の素養が幾ばくかあって、今回は二人の男よりも最も頼りになると思っていたのに、それがどういうわけか男になびいてどこかへ行って行方不明となってしまうとは今もって信じ難い、残念だというのであった。


 そのときのジスとレソーは、明らかに緊張していた。

 事前に生き物から、「おまえ達のそれぞれの体に向こう世界からやって来た精神体が宿るわけであるが、ずっと居座るのではなく時間が経てば元の世界へ戻っていくから何も心配することはない。それに少しも苦痛を感じることなく直ぐに終わる」と聞かされて、


「あゝ良いよ。あのイクもやると言ってるし。あいつから弱虫と言われたくないからな」「セキカがそう言うんだったらやるよ。戻って来てからちょうど退屈になってきたところだし。少し刺激が欲しくなったところなんだ」と何の疑いも持たずに気安く引き受けて、呑気な顔をしていた二人だったが、さすがに自らの中に異なる生命体の精神を降ろすのは、生まれて初めての体験であったことや、それほど肝が据わっているたちでもなかった為、いざそのときになったときに異変が起こっていた。

 身長が六フィートを越える見かけ上大柄な体つきの割に神経質なたちだったジスは不安でいっぱいで、無意識に息が荒くなり貧乏ゆすりをしていた。隣ではレソーが、精神的なストレスで呼吸が乱れ、直ぐにでもその場かから逃げ出したい気分から絶えずあちこちに目線が動いて落ち着きがなくなっていた。

 ジスとレソーの二人が、これほどの緊張感を覚えたのは、「工場の建屋の内外で意識を失った男女を何ヶ所かに分けてで良いから集めておくように」と指示して、「私は用事を済ませてくるからな」と言い残し、どこかへと去り再び舞い戻ってきたフロイスに向かって、顔色をうかがうように答弁したとき以来と言っても良かった。

 世間をそれ程知らず、加えて人生経験がまだ浅かったせいで、正義感が強く曲がったことが嫌いという純粋で素朴な心の持ち主であったジスとレソーは、あのときどうしても納得がいかず、フロイスが去った後、お互いに当惑した顔で相談した。

 工場の中や敷地で倒れている人達は全員テロリストの戦闘員やその仲間じゃない。その中には人質にとられて無理やり働かされている人達もいる。フロイスさんは僕らが集めた人達を使って何かをやろうとしている、初めに全員を皆殺しにしてしまおうとして止めていることから直ぐには殺しはしないと思うけれど。

 そうは言っても人殺しを何とも思わず、人を人とも思っていないフロイスさんのことだからタダでは済まないことは確かだろう。ひょっとして、生かしておいて肉食動物の餌にするとか、奴隷として売り飛ばすとか考えているかもしれない。

 今のところ、仔細は分からないけれど、いずれにしたって悲惨な未来しかないのは確かだろう。

 悪人は罰を受けるのは自業自得であるから仕方がない。でも、そうで無い人達まで一緒に罰を受けるのは合点がいかない。

 それを知っていながら、ここで黙って従ったら、後になって後悔することになる。この際、何とかしてテロリストの戦闘員とは無関係な人達を助けることができないものか。

 そのような話し合いをした後、できるだけのことをしようとお互いに申し合わせると、周りの状況を見て、倒れていた男女がいた場所や大体の年齢や性別や服装や武器所持の有無などから、テロリスト達とそうでない人々を分別しながら、あそこなら一度内部を見ているから絶対見つからないだろうと考えた、駐車場に止めてあった複数の大型バスの中へ運び込んだ。

 そのとき力を合わせてやったのと、死に物狂いでやったのが良かったらしく、フロイスが戻って来くる前に何とか終了していた。

 ジスもレソーも、上手くいくかどうかは、はっきり言って分からなかった。しかし、とにかくやることはやったことだしと満足していた。

 そんなとき、いきなり呼び掛けられたものだから、指示にそむいたことがばれやしないかと心配して生きた心地がしなかった。当然のように滝のような冷や汗がドッと噴き出て、それまでかいていた汗と合わさって、水を浴びたように全身がびっしょり濡れていた。だがそのことが返って一生懸命にやったという好印象を与えて全く疑われることもなく事なきを得ていたのだから怪我の功名と言って良かった。

 あのとき、二人はフロイスに指示にそむいたことになったが、自分たちなりに正しい選択をしたと信じて後悔は全然していなかった。


 二人とも、覚悟を決めかねているようだな。このままでは危いな。――そう思ったのか知らないが、ジスとレソーが落ち着きのないのをすぐさま察知した生き物は、彼等が立つ模様円の中心へとゆっくり音もなく歩を進めると、彼等から十フィート内外の地点まできたところで立ち止まり、言い聞かせるように口を開いた。


「ほんの気休めにしかならないと思うが、二人とも、私を見ると良い」


「うーん」「分かったよ」


 ジスとレソーはそう答えると何の疑問も抱かずに受け入れ素直に従った。すると、それが功を奏したらしく見る間に落ち着きを取り戻していた。

 恐らく催眠術のようなものにかかりトランス状態になったと思われ。それを物語るように、二人は揃って魂が抜けたような表情で、ぼんやりと立ち尽くしていた。


 そんなとき生き物は「どうだ、二人とも」そう言うが早いか、彼等にさっそく呼び掛けた。


「楽になったろう?」


「うーん」「まあ……」ジスとレソーは小さく頷いて答えた。生き物はこっくりと頭を上下させると相も変わらぬ年長者の口調で宣言した。


「さてと、それでは始めるとする!」


 もちろんその声は、「中々やるじゃないか!」「的を得た良い対応ね。うふふ、面白くなって来たわ」などと感心しながら、後ろの方で眺めていたフロイスとホーリーの二人にも届いた。

 彼女等は揃って好奇心を躍らせながら、息を呑んで見守った。


「いよいよだな」「いよいよね」


 次の瞬間、ジスとレソーが立っていたやや斜め上空に、空間を操作する魔法ができる者なら珍しくも何ともないと言っても良い、直径十フィートぐらいの黒っぽい斑紋状のものが出現。その付近あたりが心なしか急に明るくなったかと思うと、白い球体のようなものが二個連続して中から出てきて、ジスとレソーの頭上でゆっくり一周回ってから降下。彼等の中に消えていった。それとほぼ同時にジスとレソーの姿に代って七フィート近い身の丈の見知らぬ異邦人が二人立っていた。どうやら召喚に無事成功したらしかった。

 ところがそれを目にしたフロイスとホーリーの二人は、おやっという顔で小首を傾けると、ぼそっとささやいて一蹴していた。


「なーんだ、面白くも何ともない」


「ほんと、どのような魔物が召喚されるのだろうと思っていたのに、案外地味ね。期待して損しちゃったわ」


 そして、どちらからともなく顔を見合わせると、少しがっかりしたという風に苦笑いを浮かべた。

 それもそのはず、そこに現れた異世界の住人の外見は、二人の予想とは裏腹に完全な人間の姿をしていたのだから。しかもどちらも黒い髪に黒い瞳に、武装は見たところしていないようであった。そこへ加えて、その面影が一昔前の能力者の戦闘員と魔法師そっくりな姿格好をしていたのだった。

 もっと詳しく述べるなら、一人は、黒っぽい革製のブルゾンに乗馬ズボン、ブーツといった服装をしていて、ひげ面で目つきが鋭くて髪が荒々しく逆立っておりと、いかにも野性味感にあふれる風貌をしていた。

 あと一人はというと、それとは好対照の洗練された黒いフロックコート姿で、一見して落ち着きのある理知的な面影を宿していた。


 ――嗚呼、異形の顔はしていないし耳も鋭く尖っていない。口元に牙らしきものも頭部に牛や羊の角のようなものも生えていない。おまけに黒くて細長い尻尾も見られないとは。

 二人が半ば白けた感じの表情で傍観していたとき、召喚された男達は生き物との間で、


「約束通りに来てやったぜ、セキカ」「二人とも、よく来てくれた」「別世界の生き物の体に乗り移るなんて初めての体験だったので、びくびくしたが案外簡単なものなんだな」「もう二度と来ないと思うから、この世界のことを良く見させて貰うことにするよ」「後は向こうで話したように頼む」「あゝ、任しておきな」といった軽い会話をにこやかに交わしながら、


「ザコ供が相手ならどのようにやっても良いんだな。そしてもしも本人が直接出てきたときには即効で時間まで逃げ回れば良いんだな。ま、まともに戦ったとしても、お前のいう通りなら俺達には勝ち目があると思えないからな」などと、手短にこれからやるべきことについての打ち合わせをしていたが、やがて話がひと段落したと見えて、生き物が四十フィート(約12メートル)ばかり離れた地点に立っていたフロイスとホーリーの方に振り向くと、何気ない物言いで口を開いた。


「二人とも、こちらまで来て欲しい。顔合わせしようかと思う」


 フロイスとホーリーが生き物の呼び掛けに従い生き物の傍まで行くと、二人の男の内、戦闘員の格好をした肩幅の広いがっしりした体つきをする方に、生き物が鼻の先を先ず向けて差し、


「改めて紹介しよう。これの名はクトゥオルフと言う」


 次いで、隣に立つ魔法師の格好をするすらりとした体つきの男に視点を移すと、


「そしてもう一人の方はイオミルだ。どちらも昔、私が保護した子供達だ。大きくなって向こうの世界で独り立ちして暮している」


「ふーん」「そう」


 男達の顔と名前を、フロイスとホーリーは頭の中で結びつけて理解すると、引き合わせた生き物に倣って、自らの名前だけを続いて名乗った。


「私はフロイス」「私はホーリーよ」


「それでは」生き物がそこへ補足した。


「四人共。良く知らない者同士、即席でペアを組むのは無謀であるかも知れないが、今はそうは言っていられない。この際だ、意思疎通は向こうで願うこととして、どちらからでも良い。誠に悪いが直感で適当に指名してくれたらそれで良い。こうしている間でも、この場所を気付かれる恐れがあるのでな」


 生き物の率直な意見に、「いやに用心深いな、セキカ」フロイスがぎょろりと目を見開くと、生き物をじろりと見て口を挟んだ。

 その途端、「あゝ、そのことか」と生き物は落ち着いて応じると事もなげに応えた。


「せっかく見つけた私の憩いの場所だ。失いたくないのだ。そんなところだ」


 それから一瞬の間をおいて更に続けた。


「ではそういうことで……」


 刹那。「俺は決めたぜ!」


 異世界からやって来た男達のうち、クトゥオルフと生き物によって名指しされた男から威勢の良い声が上がった。


「それじゃあ、そこの気の強そうなお姉さんをゲットだぜ。何かと頼れそうだからな」


 それを見て、もう一人の男がにこやかな笑みを浮かべると続いた。


「それでは私は、その隣にいる銀色の髪の優しそうな雰囲気の貴婦人の方を選ばせてもらうとする」


 二人はたちまち組む相手を生き物に言われるまま決めていた。そんな二人に向かって生き物は、「まあ、良かろう。争わないだけマシだ」と呟くと、直ぐ後ろに立ったフロイスとホーリーの方に振り向いて訊いて来た。


「それで二人はどうだろう? もし異論でもあれば言って欲しい」


「あゝ、私は別に構わない」「右に同じよ。問題ないわ。相性なんて組んで見ないと分からないもの」


 フロイスとホーリーが口を揃えて返すと、「そうか、分かった」と生き物は応じて言った。


「では頼む。半日経過しても何も起こらなければ、後は好きにしても構わない。お前達に任せる。あとはそうだな、相手が手強いと分かったときには無理せぬようにな。そのような場合は速やかにその場から離れてくれて構わない。無理して死なれても困るのでな」


 分かったと異口同音に四人は同意すると、さっそくフロイスはクトゥオルフという名の魔物と、ホーリーはイオミルという名の魔物とペアを組んだ。

 折しも夕闇が迫りつつあった。それを象徴するかのように、目の前の辺り一面に山吹色をした日差しが差し込んできており、もう少しすれば夜の帳が下りる気配があった。

 そのとき、来るか来ないか分からない相手を誘い出す場所は、この世界の住人であるフロイスとホーリーに当然のごとく委ねられていたせいもあって、一刻も早く事を進めなければと二人はリーダーシップを取ると、


「それじゃあ私が世界一神秘的だと思っている場所に案内しようと思うんだがどうだろう?」


「ねえ、どこが良いかしら?」と、男達に向かってそれぞれ尋ねた。


 するとクトゥオルフは陽気に笑いながら、「あゝ、どこにでもやってくれ。お姉さんに任せる」と答えて来た。


「分かったよ。それじゃあ行こうとしようか!」


 了解したとフロイスは、暇そうな仕草をしながら隣で立っていた当の男に向かって不躾にそう呼び掛けると、先頭を切って男を伴い上空へと舞い上がり、真っすぐに北の方角を目指した。


 一方、ホーリーと手を組むことになったイオネルは吊り上がった鋭い眼をホーリーに向けると、魔物らしくない物柔らかな物言いで、「そうですね、人間が多い場所と言いたいところですが、現状はそれは敵わない見たいですので四方を海に囲まれた場所とか歴史的な場所が良いですね」と答えて来た。


「それは簡単そうで難問ね。そのような場所はたくさんあるのだけれど、私はほとんど行ったことがなくってね。いきあたりばったりで悪いんだけど、捜しながら行かないと見つかりそうにないのだけれど。それでもよろしいかしら?」


 あいにくと心当たりがなかったホーリーは訊いた。するとイオネルは不敵な笑みを浮かべて、


「あゝ、構いませんよ。ところでどのような手法で向かうので? 前の方みたいなやり方ですか?」と逆に訊いて来た。


 それに対してホーリーは、「いいえ」と首を横に振ると、丁寧な物言いで続けた。


「悪いのだけれど、私には無理な相談と言って良くってね。なぜなら、あのやり方は、この世に二つとないレアな魔術アイテムを用いていて、誰にも真似ができないの。それで私の場合だけど、空を飛べる子飼いの魔物を召喚して、それに乗って貰おうかと思っているのだけれど。それでも構わないかしら?」


「そうですか、なるほど。分かりました」男は理解したと呟くと、頬に片手を当て少しの間物思いにふけった。そして何かを思い付くことがあったのか切り出した。


「え、何でしたらそれを私に任せて貰えないでしょうか。何しろ生まれて初めてこちらの世界に来たものですから、この目でしっかりと見ておきたいのです。

 それというのも、私達の世界では、昔から圧倒的な実力を有する人物や博識な人物や忠義な者が、近年では努力家とか良識者が尊敬され、高い評価を受けるという風潮がありましてね。

 それで、こちらの世界へ来たことへの貴重な体験と学習が大変役に立ちそうな気がしまして」


「それって、異世界視察とか研修みたいなものかしら?」


「ええまあ、そう受け取って貰っても構いません」


「ええ、分かったわ」取り澄ました顔でホーリーは頷いた。


 ちょっと鎌をかけてみたのだけれど、ズバリとはね。私って、やっぱり天才かもね。

 前振りから考えてこちらの世界で見聞きしたことや学んだことを向こうの世界へ持って帰って何かしら利用するようね。見返りのない依頼なんて誰だって引き受けようとは思わないし。これぐらいは良くあることだから珍しくも無いもの。

 そのようにホーリーは勘ぐると、返って相手の力量を垣間見られるチャンスと考えて、上目遣いでにっこり微笑んであっさり受け入れた。


「それじゃあ、お願いしようかしら」


 すると男は「分かりました。それでは」と応じてにやりと笑うと、身に着けたコートの片方のポケットに手を入れ、直ぐに何かをつかんで、その手に握ったものを空高く投げ上げた。

 次の瞬間、ホーリーが見守る中で投げられた物体は上空五十フィート付近まで達すると、突如巨大化。強大なモンスターの姿と変わって、空中で留まる姿勢を維持しながらあっという間に建物側の空き地に降りていた。

 男は壁の向こう側へ消えていったモンスターを一べつすると、ホーリーの方へ目を向け、


「我々の世界の乗り物です。古代から現在に至るまで我々の世界では遠出をするときはもちろん、普段の生活でも良く使われています」


 そう自慢げに話して、「さぁ、行きましょう!」と一言言うなり、建物の外へ向かって歩いて行った。

 一方、目の前でその一部始終を見せられたホーリーは一瞬立ち尽くすと思った。

 ――この魔物、意外とやるじゃない!

 だが直ぐに涼しい顔に戻っていた。――あゝ、残念。飛行仕様に変身するとか、背中から黒い翼を出して運んでくれるのかしらと妄想を膨らませていたのに。でも何だか面白そう。

 

 「あゝ、そうそう」

 

 ホーリーは思い出したように生き物の方へ振り向くと、鎮座してこちらを見ていた生き物に向かって、「じゃあ行ってくるわね」と言い残し、好奇心で目を輝かせて男の後ろへ続いた。

 そのあとには、いつの間にやら存在感がなくなった生き物がぽつんと取り残されていた。


 地面に着地したモンスターは、全長が七十フィート(約21メートル)ほどで昆虫のような形態をしていた。

 頭部がセミの幼虫みたいに頭でっかちで、前足が小さな鋏になっており、胸部と胴体部と羽根と後ろ脚の部分はハチに似ていた。


 男は手際よくモンスターの脚を伝ってモンスターの大きな頭部の後ろへ上ると、笑みを浮かべながら来るようにと手招きした。

 ホーリーが倣うと、モンスターの頭の背後部分に見られた扉のようなものが開いていて、大男がゆったりと二人座れるシートが二列、備え付けられてあるのが見て取れた。

 ホーリーが見ている前で、男が先に乗り込み操縦席と思われる場所に腰を下ろすと、「どうぞ、私の横にお乗りください」とホーリーを誘った。

 ホーリーがこっくりと頷いて従うと、男は直ぐに出発する雰囲気で、扉を閉じ操縦桿らしきものを両手で握った。

 とは言っても、それは人の世界で見慣れている操縦桿や丸いハンドルやレバー類の形を呈していなかった。どちらかと言えば取っ手のようなものに見えていた。それらが縦横に五つ付いていた。しかも非常にシンプルなことに計器類やランプ類は一切付いていなかった。

 ――変な乗り物ね。昆虫タイプのロボットか何かと思ったのだけど。(操縦席を見る限り)どうやらそうでもないみたいね。

 ホーリーが目を白黒させて隣で見守る中、男は握っていた取っ手に力を込めると、モンスター背部に付いた透明な羽根が拡がり細かく振動。途端にモンスターが急上昇すると、あっという間に遥か上空まで達した。そこで初めて男は口を開いた。


「この乗り物は『ガメル』と呼ばれている生物で、普段は大地の裂け目や砂漠地帯で十頭前後で群れを成して生活しています。夜行性で、鋏状になった小さな前足を使って穴を掘り、昼間は地中や洞窟に潜み、夜になると出てきて、餌を求めて空を飛び回ります。草木の樹液や生き物の体液が主食ですが、いざとなれば口に入る物なら何でも食べます。

 肉は硬くて、その上独特な臭みがあって食用には適しません。その代わりにこのような改造という使い方が昔から行われて利用されています。

 改造方法には二種類あって、全改造したものを『ツゥーガ』、本能の一部を残したまま改造したものを『マトーガ』と呼んでいます。

 ちなみに、この個体は全改造したもので推定年齢十歳の雄の成虫です」


 ここまで想定通りにいって余裕ができたのか、尋ねられもしないのに乗り物の説明をした。


「なるほどね」


 ホーリーは薄笑いを浮かべるとしれっとして応じた。「ふーん、そうですか」

 だが内心は、正直なところ感心していた。

 ほんと、中々のものね。モンスターを手なずけて使役するのは日頃見慣れた光景であるけれど、モンスターを改造して活用するなんて。(男の)姿格好は明らかに時代がずれていて、それは否めないけれど、こんなところは見るべきものがあるということかしら。


「ところで、どこへ向かえば良ろしいでしょうか?」


「あ、そうね。明るいところは好きかしら?」


「まあ、どちらかと言えばそうですね」


「それじゃあね、左の方向でお願い」ホーリーは愛想笑いを浮かべると言い足した。


「直に空が明るくなるはずよ。後は私の指示に従ってくれたら良いわ」


「分かりました。それでは」


 男はホーリーに言われた通りに進路を取っていた。たちまち二人が乗ったモンスターは間近に迫った暗闇に逆らうかのように飛行すると地球の自転と逆方向へ向かっていった。

 途中、男は気を遣うように何度か気安く話し掛けて来た。しかし、なぜかは分からなかったが、ホーリーのことを身元調査をするかのようにあれこれ訊いてくることは一切しなかった。代って自らの世界のことや家族のことを言葉を選ぶようにして広く浅く語った。

 それに対して、ホーリーがその都度興味深そうな反応を示すと、最後に「事が無事に終わればそれ以後時間が許す限りこの世界のことを見聞したい。それについてすまないが道案内をお願いしたいのですが?」と本音とも受け取れる言葉を吐いてきた。

 そのような申し入れに、「ええ、別に構いませんわ」とホーリーは気安く承諾していた。

 ――ま、こちらにわざわざ来たんだし、楽しんで帰ってちょうだい。でも、その目立つ格好で怪しまれないところといったら、そうね、私が暮す地区に隣接しているサンロッズか、首都の副都心であるトロットモンド、ノットランド辺りが最適かもね。大都会のあそこなら時代の最先端をいっているアートとファッションに溢れているから、全然目立つことはないだろうし。まっ、素っ裸でない限りどんな格好で歩こうが、たぶん誰にも怪しまれないわ。

 そのような経緯があった後、やがて目的の地に辿り着いていた。

 上空から比較的目立ち易く、かつ手っ取り早く辿り着ける場所として、そのときホーリーが選んだ先は、砂漠地帯でも南海の孤島でもなかった。かつて国家間で武力紛争が起こった際に戦場となった十二の村の跡地であった。そこへは情報収集名目(と言ってもほとんど観光に近かったが)で既に十回以上やって来ていた。従って、普段から来慣れていると言っても過言でない場所だった。


 戦争が終結してからまだ十年も経っていなかったせいで、戦争が造り出した荒涼とした世界が今なお残っていた。大地のあちこちに砲弾の跡やざんごう跡が見られ、わずかに残っていた建物も形が変わっていたり荒れ放題のまま放置されていた。もちろん人影はなかった。ひっそりとしていた。

 ――ここなら誰の邪魔も入らなくてよ。


 地面に降り立った二人が付近に目を凝らすと、それほど上背がない木々がまばらに見え、立ち枯れした雑草が膝までぐらいまで伸びた状態で辺り一面に生い茂っていた。

 言うなれば、見晴らしの良い広大な原っぱと形容しても良いところだった。また、その中を車がゆったり通れる未舗装の土の道が曲がりくねりながら伸びていてと、それだけを見れば、のどかな風景が拡がっているような感があった。

 だが差し当たって少し視線を移すと、戦争で出たゴミ(例えば古タイヤ、プラスチック類、ガラス類、衣類や靴類、寝具類、ビニール類、木片類、紙屑、動物の死骸、ガレキ類その他ヘドロ産廃物といった)が見え隠れするように点々と散乱していたり、山のようにうず高く積まれて放置され打ち捨てられていた。


「十数年前、この場所で二つの国家の軍が衝突して近代戦が行われたの、もうすっかり自然に戻っているけれどね」


 ホーリーの説明に、ここが目的地なのだろうと気付いたのか、男は分かったと小さく頷くと、さっそく後処理に取り掛かった。

 乗って来たモンスターを再び小さくしてコートのポケットにしまった。

 その間にホーリーは、どこかに休憩できそうな地点がないか尚も見渡した。やって来るかどう分からぬ者をずっと立って待つなんて何と馬鹿馬鹿しいことと思ってのことだった。さてと、どこで待つかだけれど……。

 すると、およそ半マイルほど遠くの方で、白い塊がふと目に留まった。更に良く見ると、ちょうどおあつらえむきにコンクリート廃材が一ヶ所に固めて放置されていた。あそこなら何とかなりそう。それに、いざとなれば身を護る材料としても使えそうだし。

 ホーリーは目を輝かせて、隣で立つ男に「ねえ、ちょっと」と声を掛けて「あのあたりが良いんじゃないかしら」と前方を指差すと、

 

「さあ行きましょうか!」


 そう促して脇目もふらずに肩で風を切って先に歩いて行った。果たして当の男は、さっさと歩いていく彼女の後ろ姿に向かって、


「実に興味深い」


 そのような謎の言葉をにやりと微笑んで呟くと、目に映るもの全てが異質という風に周りの景色を興味深そうにじろじろと見ながらしっかりした足取りで続いた。

 それから数分後。二人はおよそ四フィートの間隔を置いて、コンクリート障壁の破片が二段積みになってイスほどの高さになったものとコンクリートブロックの上にそれぞれ腰掛けて会していた。

 その間も男は全く隙を見せなかった。気味が悪いほど礼儀が正しかった。何を考えているのかさっぱり分からなかった。

 そんな男にホーリーは何となく戸惑いをおぼえていた。こういうのは案外対応に困るのよね。この際だから、ここは私も向こうに合わせて仮面をかぶるべきかしら。


 そのとき空はどこまでも淀んでいた。それから言って、朝方から夕方の間のどれかだろうと推定はできたものの今何時頃なのかさっぱり分からなかった。

 冷たい風が吹いていた。それ自体は、もう間もなくすればこの辺りに冬が訪れるだろうと思わせた。


「あゝ、そうそう」


 思い出したようにホーリーは持ってきた紙袋からアルミパックされた塊を二個取り出して男に見せると、ワザと笑顔を作って鼻にかかった声で呼び掛けた。


「ねえ、一緒に食べませんこと? こちらの世界の食べ物は口に合わないかも知れませんが、もし良かったら食べてみません?」


 そして、「どうぞ一つ」と男に差し出した。どうせ時間を持て余すだろうからと気を回して昨夜手作りして持ってきたもので、男がふーんと低く唸りながら興味深そうに覗き込んでから長い腕を伸ばして受け取ると、穏やかに言い添えた。


「簡単に食べられるものとしてホットドッグを作って来ましたの」


「はあ?」男はきょとんとすると尋ねてきた。「つかぬことをお聞きしますがホットドッグとは、それは一体何でしょう?」


「あゝ、そのこと」あちらでホットドッグという呼び名は知らなくて当然だものね。分かったとホーリーは、訊き返してきた男に造作もなく応えた。


「パンという名の、こちらの世界で主食となっている食べ物の間に同じくこちらの世界で広く食べられている動物の肉をこまぎれにしてロール状に加工したものと人工的に栽培した植物の生の葉っぱを挟んで、その上から甘辛い味の液体をかけた食べ物です。こちらの世界では普通に食べられていますから特別な物じゃなくってよ」


「そうですか」


「このようにして食べて貰ったら良いですわ」ホーリーは茶色をしたホットドッグをアルミホイルから取り出すと、上品に一口食べて手本を見せた。

 

 なるほどと、その様子をじっと眺めていた男は、手に持ったアルミホイルの包みをホーリーのやり方を真似るようにして開け、ホットドッグを取り出すと、ほんの少しの間じっと眺めてから「ではいただくとします」と言って、ゆっくりと口に運んだ。そして生真面目な表情で感想を述べた。


「何だか不思議な味です。でも食べられないことはありません。食べ慣れれば美味しいのでしょうね」


「ふーん、そうですか」


 ホーリーはくすっと笑うと、先の袋からミネラルウォーターが入った小型のペットボトルを取り出し、男に差し出して、先ほどと同様、丁寧な物言いで良く分かるように説明した。


「この容器の中に地下深くから汲み上げた天然の水が入っています。すっきりして飲みやすいですから、食べながら飲んで貰えれば、食べ物がスムーズに喉にいくはずですわ」


 そうホーリーに言われて男は受け取った容器とその中の透明な液体とを「ふーん、なるほど」と、またもや注意深く眺め、そうして無表情な顔で呟いた。


「我々の世界では、原則として地下水は飲まれておりません。あれはマズくて飲めたものじゃありませんから。無理に飲めば毒と一緒で必ず死に至ります。何しろ、ちょっと手を加えて燃料や爆薬や物質を溶かしたり固めたりする材料となっているくらいですから」


「それじゃあ普段は何を飲まれていますの?」


「普段はそうですね、山の湧き水や陸地を流れる河川の水を飲料用として使っています。しかしそれらがない地域では、葉や幹や根に水をたくさん含んだ植物や水を貯える性質がある岩石などから水を取り出して飲料水に当てています」


「なるほど」ホーリーは頷くと言った。「でもまあそんなことをおっしゃらずに是非飲んでみて下さい」


 そう促すと、ペットボトルのキャップを指先で開け、「こう飲みます」と言ってボトルの飲み口に優雅に口を添えて、ぐいと一口飲んで見せた。

 その様子を懐疑の眼差しで眺めていた男は、見よう見まねでボトルのキャップを開けると、ほんのしばらく戸惑うようにボトルの中の液体を眺めた。

 だが腹をくくったのか「ここへきてまさか燃料を飲むはめになるとは……」そうぶつぶつひとり言を吐いて飲み口から恐る恐る水を飲んだ。そしてすぐさま驚いた様子で感想を漏らした。


「これはびっくりしました。確かに美味しいです」


「ねっ、そうでしょ!」それまでしれっとしていたホーリーが笑顔で応じると、それから男は彼女のする通りにホットドッグを食べては水を飲む行為を繰り返した。そのようにして両方が無くなってしまったあと、次に水を飲み終えたペットボトルに興味を持ったらしく、容器を隅々まで見て回った。


「それにしてもこの世界は色々と見るべきものがあります。例えばこの水が入っていた入れ物です」


 やれやれ、今度はペットボトルに興味を持つなんてとホーリーが呆然と見守っている中でそう言うと、空のペットボトルを軽く指先でつまんで何の困難もなくへこませた。そして続けた。


「柔らかくて直ぐにでも壊れそうで壊れません。変わった入れ物ですね。私の世界では見当たらないものです」


「あらっ、そうなの」ホーリーは少し当惑した表情で答えた。「この容器はプラスチックと言いますのよ」


「ふーん、そうですか」男は頷いた。「それでプラスチックとは何ですか?」


 そう訊かれたホーリーは、返答に困って眉をひそめると、視線を宙に泳がせた。

 確かプラスチックは石油からできていて、石油は大昔の動植物の死骸が長い年月の間に地下で化石化して液体状に変化したものと言われていた筈。


「石油から人工的に合成された樹脂のことですわ」ホーリーはポニーテールにまとめたプラチナゴールドの髪に何気なく触れながら答えた。


「それでは石油とは?」


「ええと、大昔の動植物の死骸が長い年月の間に化石化して、それが化学反応を起こして液体状に変化したものという説が有力視されています」


「ふーん、なるほど」


 何か釈然としないという表情で男は頷いた。そのことに敏感に反応したホーリーはこのままでは終わらなそうと先手を打って話題を変えた。


「それじゃあ、あなたの方ではどのような容器を普段使っていますの?」


 住む世界が違うと、その都度説明しなくちゃならないから面倒だけれど、その分、異なる世界の情報を知ることにつながるわけであって。これはこれで良しとしなくちゃあね。何事も妥協が肝心よ。でも私ばっかしが説明する側に回るのはちょっとね。そう思って立場が逆転する方向へ持っていったのだった。

 

「我々のところの容器は天然の素材を加工して作られております。容量はこの大きさで百倍以上は楽に入ります」


 ホーリーは苦笑すると言った。「なるほど」

 

 そこからはホーリーのペースと言っても良いものだった。


「それで、ここまで来るまでに何か気になることがありました?」と再び話題を変えると、「あれば聞きたいわ」と促した。すると男は、軽く腕を組んで少し考えたあと、愛想笑いを浮かべて応えた。


「それはですね、こちらへ来る途中のことなのですが、この世界が丸い形をしていたのに驚かされました」


「へえー、そうですか」変なところで驚くのねと呆れてホーリーは目を見開いた。そんなことで驚かれてもね、当たり前なことだし。まあ厳密にいえば完全な球じゃないのだけれどね。

 そこでちょっと尋ねた。


「そこのどこが驚きですの?」


「ああ。この世界は、はっきりと果てのようなものが分かりましたので」


「そう」ホーリーは理解したと頷くと言った。「それでいうと、あなたの世界はとんでもなく広いということですわね」


「はい」男は事もなげに答えた。「我々の世界はどこまでも大陸が果てしなく続いている地形で、端が見えないためどのような形をしているのかさっぱり分からないのです。それというのも、これまでに最果てまで行って見て来た者は誰一人おりません。そのような理由から今では、大陸が壊れて失われて行く速度よりも大陸が生まれる速度の方が勝っているから果てが見つからないのだという説が定説となっています」


「そうですの」ホーリーは切れ長の目を細めた。だが結局のところ、何を言っているのかさっぱり分からなかった。


「他にはありまして?」


「この世界の陸地の面積が水面の面積に比べて極端に少な過ぎることでしょうか。我々の世界はほとんど陸地で占められていると言っても良いので見られないことです。まるで陸地が水面の中に浮かんでいるように見えました」


「なるほど」ホーリーは合点した。正直、感心するほかなかった。中々的を射てるわね。確かに今は、この世界の四分の三は海で占められているもの。


「他には?」


「ここへきて身体が軽く感じることでしょうか。恐らく環境の違いだと思いますが」


「それ以外には?」


「まだこちらにきて間もないですから、思い浮かぶのはそれぐらい程度ですかね。ああ、そうそう。あなたが魅力的なことでしょうか。我々の世界では、いかにも神秘的だとか、いかにも存在感があるだとか、いかにも煌々しいとか、いかにも行動力があるように見える異性が好まれる傾向にあります。でも私は少し変わっていて、あなたみたいな大人しいそうな方が見方によっては神秘的に見えて好みです。事実、私の妻もあなたのような風貌をしております」


「そうですか」ホーリーはつい笑顔を浮かべた。冷たそうに見える無表情な顔の割に、少しはユーモアのセンスも持ち合わせているようね。


「それじゃあ誠に勝手ながら、私から質問させて貰って良ろしいかしら?」


「応えられることでしたら応えましょう」


「では、あの頼み人の依頼を受けたのは何かありましたの? さしつかえなければ……」


「そのあたりは色々と込み入った事情がありまして」


 男はニヤリと笑って受け流した。


「あゝそうですの」ホーリーはふっと笑った。まあ、随分と口の堅いこと。「そういうことならもう聞きませんわ」


 それではとホーリーは大きく息をすると、声を落とした。


「余りに不躾なことなのだけれど、これは極めて重要で、是非訊いておきたいことがあるのですが宜しいかしら」


「はい、何でしょう?」


「それじゃあ、お聞きします。もしあなたがこちらの世界で重傷を負ったり死んだりした場合はどうなりますの? 実は、あなた方を召喚するために素材となったうちのスタッフが心配でしてね」


「そうですね、私はこの世界へやって来たのは初めてのことですので、はっきりしたことは分かり兼ねますが、伝え聞いている話によれば、たぶん私は元の世界へ戻ることになるでしょうね。そのとき素材となった者は、たぶん私の代わりに大怪我を負ったり死にます。

 一方私は、向こうの世界の肉体の損傷は皆無なので死ぬことはないのですが、でも精神に損傷を負っていることは確かなので、元の元気な状態に戻るまでには、ある程度時間がかかるように思います」


「ふーん、そう」ホーリーはこっくり頷いた。思っていた通りの極めて普通な論理だこと。それでいくと、私が召喚する魔物たちが酷い怪我を負っても、しばらくして再び召喚すると元気な姿で現れるのは、同じ理屈なのかしらね。でもちょっと不思議ね。私は全くの無傷なんだけれど。


「ええと、死の状態について聞きたいのだけど。こちらの世界では、大きく分けて躍動死と静動死の二つの死が知られていましてね。躍動死は身体全体を目一杯活性化させているときに起こる死で、死とともに身体がちりとなって蒸発するように跡形もなく空気中に分散するわ。そして静動死は普通の死で、死んでも肉体はそのまま残るのだけど」


「そのあたりは私達の世界も同じです」


「ところで話は変わりますが、このまま夜まで待って何も起こらなかった場合のことなのですが、少しの間私に付き合いませんこと。実はこの地域で行われている『セリモレーラ』と呼ばれているお祭りを見に行こうかと思っていましてね」


 ホーリーにとってその提案は思い付きでも何でもなかった。既定路線だった。

 なぜならば、前もって生き物から「もし何も起こらなかった場合、お前達に頼みたい。私が呼ぶ者達が元の世界に戻るまでの間、この世界を案内してやって欲しいのだ。それが私からの頼みだ」と依頼されていた上に、こう見えてホーリーは、どこでも構わないから賑やかな場所が大好きだったフロイスと歴史と遠出が好きだったパトリシアと三人でこの地をちょくちょく訪れてはそこで行われるお祭りを鑑賞しに来ていた。そして暇なら今年も来る予定にしていたのだから。

 こんな状況だしパティにはこの際パスして貰うとして、向こう(フロイス)は、忘れていなければ、おそらく私達に合流するはずよ。来るか来ないか分からない者をわざわざ待つなんて時間の無駄なのだから。それを承知でやるからには何かしらの楽しみがなくてはね。こう見えて私は転んでもタダでは起きないのよ。


「このあたりの地域で長く伝承されてきたお祭りで、地元の人達が悪魔や魔女やモンスターに扮して真夜中に練り歩くという風変わりなものでしてね。

 表向きは、本格的な冬が来る前に災難と流行り病の退散を願う目的で行われていて、つい最近までそれほど注目されることなくその界隈のみでほそぼそと続いて来たわけなのですが、近年になって全く偶然にもお祭りに関する極秘資料が発見されて、『生きた人間を呪って地獄へ送る』呪いの儀式と関連があると分かってからというもの、娯楽が多様化していたこともあっていっぺんに火が付いてしまい、一目見ようと内外から大勢の観光客が訪れるようになってから、それはそれは賑やかなのです。

 まあ、実際に行って見た方が分かりやすいかと思いますので、騙されたと思って一緒に見に行きません? こちらの世界の変わった風習が垣間見えて面白いこと間違いなしと思いますが」


 ホーリーはそう続けると、「それは実に興味のある話ですね」と男が応えたタイミングで、お祭りについて知っていることを話していった。


「お祭りは四日間連続で行われておりましてね、五、六千人ぐらいの人々が仮装して参加します。おのおのが手に松明や武器や農具や鳴り物を持って、麦わら人形に疫病神の魂を入れる為に使う施設を出発して歩いていくわけなのですが、二日目と三日目は、時折り止まっての休憩を挟みながら町の通りを巡るだけで終わりますから、少し盛り上がりに欠けます。まあ、鳴り物を鳴らしながら長い距離を移動しますから、見ようによっては仮装行列としては面白いかも知れませんが、それ以外では別に何ともなくて、至って普通です。

 その点、初日と最終日が一番盛り上がり熱気に包まれます。

 初日はもちろん一年ぶりということもありますが、終着地である地獄の出入口に見立てた洞窟まで向かう途中の休憩地である広場に立ち寄って、地元民のみならず一般の見物客も参加して、日頃の恨みや不満を晴らすように、疫病神に見立てた人形をこれでもかというぐらい酷い目に遭わせるのです。まあ、一言でいうと公開処刑みたいなものかしら。

 大人ぐらいの上背がある麦わらでできた人形が棺から引き出されると、十字架にかけて串刺しにしたり、首にロープを巻き付けて引きずり回したり、ムチで打ち据えたり、素手や棍棒で殴ったり、脚で踏みつけたり蹴り飛ばしたり、火をつけて燃やしたりと、ありとあらゆる滅茶苦茶な行為をされるわけですの。

 そして最終日の四日目は夜中でなく日中行われましてね。

 初日に無残な姿になって地獄の入口に見立てた洞窟まで運び込まれた麦わら人形は、いよいよ洞窟内で焼かれます。

 部外者以外は中に立ち入れないので詳細はわかりませんが、話では洞窟の内部に地獄世界の入口に見立てた大きなかまどが作ってあって、そこで全部まとめて焼かれるみたいです。それで疫病神の地獄送りは無事終了です。

 あとは、お祭りの締めくくりとして関係者が用意した飲み物と地元の食べ物を飲み食いしながら宴会が昼間から夜遅くまで開かれる仕組みになっていて。そのとき参加料、参加料と言っても来年のお祭り開催の為の寄付のようなものなのですが。それを支払えば誰でも参加できます。ただ単に、焚かれた焚き火の周りを囲んで、歌ったり踊ったりバカ騒ぎするだけですが、その地の郷土の味を堪能しながらそれを見ているだけでもくせになることは間違いなしですわ。

 いつも私達は、三日目の夜にこの地を訪れて最終日まで滞在します。今日は、その三日目にあたります」


 そこまでホーリーは笑顔で淀みなく喋った。その間、男は目を細めて聞いていた。何の疑問も差し挟まなかった。


「余談としてもう少し詳しい話をしますと、そのお祭りは数百年の歴史がありましてね。今いるこの辺りは、私の記憶に誤りがなければ、その当時ルビズランド王国という国の領地だったところで、その周辺を何とかいう三つの国と陸続きで国境を接していたという話です。

 そのルビズランドという国は、代々の国王が画期的なことに国民目線に立った政治を行い、国民は国民で勤勉で良く働き積極的に税金や収穫物を納めて国家の財政を潤わせる方向へ貢献してと、全てが上手く回っていたらしくて。そのため国は周りの国に比べて、ぶっちぎりで一番豊かで、国内は争いもなく、誰もが読み書きができるくらい教育水準も高くて、自由にものを考え自由に言いたいことが言える環境も整ってと、平和そのものだったらしいです。 

 ところが一国だけそのような国が存在すると、どうしても確執が生まれるもので。当然ながら周辺の国がおもしろいはずはなくて。

 それであるとき、三国の代表が極秘に会って『あの国を手に入れて貯えた富を自分たちのものにして、住民をみんな奴隷にしてしまおう。だが一国だけで攻め入っては攻略するのは中々容易なことではない。時間がかかる。長期戦になるのは目に見えている。場合に拠っては分が悪くなり遂には負け戦となることもありえる。それよりも三国で協力し合って、しかも不意を突いた奇襲を仕掛ければ戦は直ぐに終わる』とか言ったか言わなかったとか、そのあたりははっきりと裏が取れていないので何とも言えませんが、ともかく三国がそんな悪だくみをすると、手を組んで一国に攻め入ったみたいです。

 そしてそのとき行った攻略作戦が、三国の連携が上手く取れて成功したらしく、ルビズランドの王都は三日も持たずに陥落。王と王の親族を始め、主だった重臣は一人残らず殺されて国は滅びたらしいのです。

 そして全てが当然のごとく、三国の企み通りに行ったみたいで、その後領土は三つに分割され、残された臣下と国民は、使い勝手のある者は奴隷として連れていかれ、そうで無い者はそのまま残れる代わりに奴隷以下の扱いで過酷な労働を強いられることになったみたいです。

 その中で奴隷にならずに済んだのは良いが、それまでの自由と豊かさを奪われ過酷な生活を強要された元国民の一部が、この上は仕返ししなければ死んでも怒りが収まらないとの思いから、復讐の機会をうかがったらしいのですが、真正面からいくと力では敵わないことは分かっていましたから、それで思い付いたのが自分達に苦難を強いた国王とそのシンパを標的にして呪うことだったみたいです。

 そうして、その中に呪術の心得があった者がいたのか、それとも誰かに教えを受けた者がいたのか、それは謎ですが、疫病退散の儀式と偽った呪いの儀式を始めたのが事の起こりのようで、時がたつにつれて、今のようなお祭りの形ができたみたいですわ」


 史実は、ホーリーがほぼ話した通りだった。

 数百年前のこと。人々に何が幸せなのか考える余裕がまだ無かった時代。

 ふたりがいた場所リールベルク平原は、人口二十万程度の、その当時としては中規模な国、ルビズランド王国の領地であったところで。そしてその周辺には、人口が五十万を超える大国のドワール帝国、国土はルビズランド王国とほぼ同程度ながら人口十五万程度で荒野が比較的多いリーズナ王国、同じく山岳地域が多いプラチール王国の三国があり、それぞれが陸続きで国境を接していた。

 ルビズランド王国の歴代の王は、国民からの意見や臣下からの忠言を素直に聞き入れ、民に寄り添った政を行ったことで、いずれの王も名君と称えられた。民は民で、家臣と兵士は王に忠誠を誓い従順に使え、農民は作物の生産性を上げるのに尽力して国の食料生産を安定させるのに務め、職人は仕事に実直に取り組み新しい物つくりをして国の発展に貢献し、商人は外国との貿易を積極的に行ったりと経済発展を推し進めて国家の財政を豊かにすることに協力。その結果、国は名実と共にこの世の栄華を極め、民は平和と自由と日常の豊かさを満喫することに至っていた。

 一方、七つの属国を従える大国ドワール帝国とリーズナ王国とプラチール王国の三国は、その当時、各々悩みを抱かえていた。

 先ずドワール帝国は、国中から上がってくる収入よりも出ていく出費の年々の増加に頭を痛めていた。また、臣下に分け与える領地が慢性的に不足していたことも悩みの種だった。

 いずれも、従属する周辺国を良いように操るために代々強化して来た自国の軍隊が益々人員を増加させていった結果だった。

 そこへ加えて、臣下や周辺国から経済発展と生活水準が他国より遅れていると不満が出ていた。自国の富の大半を軍需につぎ込んでいたせいで、そこまで手が回らなかったことに拠っていた。

 そしてそれらを全て解決するには、自国より豊かな国を征服して領地を確保することが、一番手っ取り早い最善な方法と思われた。

 また後の二国は、今はまだ力で押さえ込めていたので安泰であったが、いずれは国内が乱れる兆候があった。

 王族や貴族といった特権階級が贅沢と浪費三昧の生活をしていたことや、度重なる自然災害が起こったせいで国家の財政が緊迫して、いつの日にか国が破産してしまうところまできていたからだった。

 その中でも、このままいけば現王朝が別の有力な勢力に取って代わられるかも知れない段階まで情勢が差し迫って特に切羽詰まっていた帝国は、自然の成り行きでちょうど隣に位置するルビズランド王国に目をつけると、策謀を巡らせた。

 その揚げ句、『一国だけで攻め入ったのでは隣国に支援を求められる恐れがある。よって、そうならないために隣国に根回しする必要がある。そこへ加えて戦が長引いて長期戦になることは、国は全く問題ないがこちら側(現王朝)が持つか分からないので絶対避けなければならない』と結論を出すと、支援をしそうなリーズナ王国とプラチール王国の内情を探らせた。そして弱みらしきものを握ると使者を立て二国に協力を求めた。すると両国とも、国王よりその側近が大乗り気で、『三国が協力し合って自国より豊かな国を統治して、その国の財と富を分配しよう』という話は直ぐにまとまっていた。

 “ないのなら、あるところから盗れば良い"――――古よりそういった考えはごく自然な論理で、何も悪いことも、やましいこともなかったのである。なぜなら、そのようにして歴史が作られてきたのだから。

 そして時を経ずして決起となっていた。最初にリーズナ王国とプラチール王国二国が、申し合わせた通りに、お互いが宣戦布告をすると、ルビズランド王国の国境に向かって両方の軍が移動を開始。やがてルビズランド王国の国境近くまで来ると、そこに両軍が陣地を構えて、いつでも戦える状態でにらみ合ったままじっとしていた。動かなかった。どうやら見えないところで駆け引きが行われており、始めるきっかけを腰を据えて待っているようだった。

 昔の戦争というのは、占いやゲン担ぎや天候や風向きや位置取りで開戦の時期が決まることが多々あったので、それ自体は別に不思議なことでも何でもなかった。見慣れた光景だった。

 無論ルビズランド王国も、そのことを知っていたので当然のごとく動いた。国境沿いに軍を派遣して警戒した。自国の近くが戦場となりそうなことに、戰いによるとばっちりを受けないようにしたまでだった。

 ところが、それからというもの丸二日間、何も起こらなかった。開戦の気配はなかった。

 そんな風にルビズランド王国がリーズナ王国とプラチール王国の戰の方に感心がいっていた頃、その間に乗じてルビズランド王国を挟んで二国の反対側に位置していたドワール帝国の軍が密かに進軍を開始すると、一気にルビズランド王国へ攻め入っていた。それから少し遅れるようにして、それまで動く気配のなかったリーズナ王国とプラチール王国の軍が踵を返すと、ルビズランド王国へ相次いで攻め入ったのだった。

 ただそれだけのこと(陽動作戦)であったが、一挙にルビズランド王国の国内が慌てふためき、騒然となっていた。三国とはごく普通に交流があり関係も良好であったことで、自国がまさか攻められるとは夢にも思っていなかったからであった。

 また当時は、国王を筆頭に国中が、文学や音楽や絵画や演劇や舞踏や美食といった文化芸術や、賭け事や酒色といった遊興や旅行やマネーゲームに熱中していたりと国全体に緊張感が欠けていたせいもあって油断があった。

 更に、戦争のない平和が長く続いたので、軍の司令官や兵士の質が落ちていたり、利益追求のために国の不利益になる情報を売る輩が多くいたり、他国がスパイ活動をし放題の状態であったり多数の工作員が入り込んでいたりで、国のタガが緩んでいた。

 そこへ加えて、ただでさえ兵の数で勝っていた三国が、早く決着をつけるためにと自国民のみならず奴隷や犯罪人や流民や浮浪者からも強制的に徴兵して、味方の犠牲をものともしない人海戦術を三方向から仕掛けてきたものだから、幾ら侵略に備えて軍備を整えていても多勢に無勢でひとたまりもなかった。

 三国連合軍は幾つもの防御線を次々と突破すると、ルビズランド王国の都『ストルツサンデリア』へ到達。丸三日もしないうちに王城を攻め落とした。そしてその間に国王一族及び重臣は殺されたか自死して、悠久の歴史のあった王国はにわかに終わりを迎えていたのだった。

 その後、元ビアズランド王国だった国土は取り決め通りに三つの国が分割して支配することとなるとともに、城内にあった宝物は早い者勝ちの略奪が当然のごとく行われていずこかに持ち去られ、暮していた住民は容赦なく奴隷として連れ去られるか或いは圧政に拠る囚人並みの暮らしが待っていた。

 それから数年が経ち、戦争の傷跡が消えかけていた頃。ルビズランド王国は滅びたものの、残された者の中には、年を重ねるにつれて「昔は良かった」「昔に戻りたい」などと平和だった昔を懐かしむ者がまだ少なからずいた。

 だがそう思う彼等は、過ぎ去った時代は元に戻らないことは十分理解していた。そして必ずといってよいほど国を滅ぼした者達を憎んでいた。

 とは言え、支配者に歯向かっても返り討ちにされておしまいだろう。そういう思いから誰も表立って行動を起こす者はなかった。

 ところがその一方で、一泡吹かせないと死んでも死にきれないという者もいることにはいた。

 そういう者達のほとんどは、かなりの年配者で占められていた。


 それは、あと一月半余りすると本格的な冬が訪れようとしていた、とある日の夕暮れ時のことであった。

 その内の何人かが、たまたま地区の顔役として一ヶ所に集い会合を持ったことがあった。

 その日の主な話題は、おととし昨年と流行の兆しのあった流行り病のことで。例年、冬から春にかけて流行ることから、このままで行くと今年の冬も流行して、場合によっては甚大な被害が出るかも知れない。そのとき今のような病気にかかってから神様に救いを求めるやり方ではどうしても心もとない。それ以外のやり方はないのかと言った打ち合わせをしたのだった

 そのとき特別に招いていた一人の老女に、知恵を貸して貰おうと相談したことが転機となっていた。

 老女は百歳をとうに越えており、まじないを生業としていた。また民間信仰や民間伝承や既に継承者が絶えた古代宗教について詳しい生き字引のような存在で、昔のことも良く知っていた。

 そういうわけで、相談された老女が少し考えて切り出したのが、実際にかなりな効き目が期待できるとして、かつてこの地で広く行われていたのだが、いつの頃か役所から御触れが出て全面禁止となっていた、”疫病の神に見立てた麦わら人形を地獄の入口に見立てた洞窟まで運んで焼却することで一年間の健康を祈る"疫病退散の行事を復活させてはどうだろうかということだった。

 無論、異議を唱える者は誰もいなかった。

 それを老女は黙って見届けると、「知っている者はみんなあの世にいってしまって、このことはわし以外に誰も知らない」


 そう口を開いて、疫病退散の行事についての秘密を吐露した。老女は行事が全面禁止になった理由を知っていたのだ。

 それは呪いに関係していた。話では、疫病退散の行事の中に呪詛の要素が入っており、見識のある者がそれを悪用すれば国が乱れると言い伝えがあったことから、王国が栄えた時代に全面禁止となっていたというのだった。

 だが結局のところ、そう聞かされても反対する者はいなかった。必ずといって良いほど死人が出ることから、流行り病は怖いものだと皆が充分分かっていてワラにもすがる思いでいたからだった。返って、一層のこと、同じように困っている隣村どころか何ならまわりじゅうの村役に呼び掛けて盛大にやろうかとか、お祭りのように掛け声や鳴り物も加えて賑やかにやってみてはどうかという意見も出たりして満場一致で合意に達していた。

 そして次の日、話し合いで決まったこと(もちろん行事にまつわる呪いの件は色んな意味で問題が出るからと隠されていたが)を支配者側に伝えに行くと、当時において流行り病の特効薬は見つかっていなかった関係で、好きにすれば良いと直ぐに許可が下りていた。

 そういうわけで、その年に第一回目が、近隣の村どころか遠く離れた村からも有志が集い総勢百数十人の規模で行われた。だが支配者側は、怪しくも異様な風情をしていた行事に全く感心がなさそうで何の文句も言ってこなかった。疫病退散の行事を口実に日頃の息抜きとして単に戯れているだけだろう、と見ていたらしかった。

 その後、次の年も、またその次の年も、またまたその次の年も行われてと、毎年慣例として行われる行事となっていた。

 その間に、悪魔とモンスターの種類と数が徐々に増えていったり。夜道を照らす灯りが、松明からランタンを経て人工の灯りへと変わって行ったり。仮装する衣装が、狩りで獲った動物の毛皮とか仕事着や有り合わせの古着に少し手を加えたものや中古の武具であったものが、創意工夫を凝らした艶やかなものや派手目なものや金ぴかの豪華なものへと移り変わったり。初期の頃の人形は麦わらだけで作られ赤子ぐらいの大きさであったのが、本格的に柳の枝を芯にして麦わらで体を作り、その周りをミイラのように無地のキレで包んでできていて大きさも大人ぐらいに巨大化していたり。人の背に担がれて運ばれていた人形が、棺の中に収めて運ばれるようになったり。終日無言で厳かに行われていた行事が、奇声や掛け声を発したり普通にお喋りしても良いことになったり。行列が巡る場所が変わったり距離が伸びたりと、変遷をたどりながら今日まで一度の中止もなく続いていた。


 ところで、疫病退散の行事を通じて、何の落ち度もない自分達をこの世の楽園から地獄の底に突き落としたとして三つの国の王とその民を、当時の人々は果たして呪ったのだろうか。

 そのことについて、その答えを知る全員が既に死に絶えたあとの今となっては、みんなヤブの中で神のみぞ知るといったところだった。

 けれど見ての通り、かつてルビズランド王国の領土だった草原には冷たい風が吹くのみで、それらしいものは何も見当たらなかった。

 また、同じくあったとされるドワール帝国もリーズナ王国とプラチール王国も、長い歴史から消え去って影も形もなくなっていた。長い歴史の中で途切れなく続いて来た残酷なまでの自然の摂理と言ってしまえば、それまでのことであったが。

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