第92話
自らの祖先が題材となったパレードによって思いもよらない災難に巻き込まれたパトリシアを助けるという口実で、ホーリーを始めとしてフロイス、ロウシュ、コーの四人が束の間の息抜きをしていた頃、先に自宅へ戻って非日常の体験からようやく開放されたイクは、また元通りの生活を穏やかに送り始めていた。
少し前から同居するようになったエリシオーネと共に、仕事に出掛ける父親のダイスと従業員のジスとレソーの三人に向かって、いつものように朝食のまかないを行い、三人を送り出した後は、空いた時間を好き放題に過ごしていた。
久しぶりに一緒に仕事へと出掛けるダイスとジスとレソーの三人は、いずれもある種の充実感みたいなもので満ちあふれていた。
その理由について、ダイスの場合は、これまでの仕事受注の方式を変更したことと仕事が休みの日の過ごし方を少し変えたことに拠っていた。
ダイスは、それまでの民間の業者に情報手数料を支払い仕事の発注者(クライアント)を紹介して貰う方式では上手くいかないとして、政府が民間の派遣を廃止する代わりに国や地方の職業訓練学校を運営元として新しく設立した人材バンクに登録して仕事の紹介を受ける方式に変更していた。
その方式だと、大雑把などんぶり勘定の見積書では受け付けて貰えず。綿密な下調べと見積書作成に時間を取られる上に、どうしても利益率が下がるので、金銭面では決して満足できるものではなかった。だが、週に四日間、安定した仕事がきっちり貰えたので、これで倒産する危機を一先ず乗り越えることができたとして安堵していた。
次に、仕事が休みの日の過ごし方について、朝の食事が終わった後、以前のダイスならば、普通に家でだらだらと過ごしたり、ラフな服装に着替えて外へ買い物や飲みに出かけたりしていたのだが、心機一転、作業着の服装で車を運転してどこかへ出掛けていた。
正直なところ、一緒に仕事をする仲間から勧誘を受けて入ったサークル活動の一貫で、外国から移住してきた人達に建設車両の運転や現場作業のノウハウを無料で教えるボランティアをやっていたのだった。
一方、ジスとレソーの場合は、仕事が休みの朝にダイスの自宅に立ち寄り、いつものようにダイスの家族と一緒に食事をしてから乗って来た通勤用の自転車でどこかへ向かった。そしてその日は決まってスケートボードとスポーツバッグを自転車に積んでいた。
ちなみにバッグの中には、飲み物と一緒にボクシングのグローブと柔道ジャケットが入っているということで。二人が楽しげに話している会話を総合すると、自転車で五十マイル程行った先の人の住んでいない辺ぴな場所で、それまで趣味としていたパルクールに加えて、スケートボードをしたり対戦格闘ゲームをそっくりコピーした模擬バトルを二人でして遊んでいた。
そんな二人はイクにも「お前も一緒に来ないか?」「イク、面白いぜ!」と度々誘ってきた。しかしながらイクは、何が面白いんだか、あたしにはちっとも分かんないわと全然興味が無かったので「あたしはいいわ。また今度ね」と、いつもやんわり断っていた。
ところでイクはというと、三人が家を出た後はエリシオーネと共に奥のリビングダイニングへひきこもり、携帯をいじることにずっと夢中になっていた。それが毎日の日課となっていた。そのこと自体は、別に変なことでも何でもなくて、今風の若い男女が習慣的にやっているトレンドといって良いものであった。
二人は原則的に、日中はペットボトルに入ったソフトドリンクのみで過ごした。そして、気が向いたり小腹が空いたりすると、二人で示し合わせて家の周辺を散歩したり、近所の食べ物屋さんへファストフードを買いに出掛けたり、そのついでに自然公園の外れにあったセキカが作ってくれた秘密の体験型トレーニング施設まで足を延ばして運動をしたりする日々を繰り返していた。
そういうわけで、その日もイクは、耳に付けたワイヤレスイヤホンでFMラジオを聴きながら、携帯で若い女性向け週刊誌『フェイセル』の電子版を見ては、自分の世界に時間を忘れてひたっていた。
そんなとき、『秋の総決算、売上三百億ドル達成記念』『お客様、大感謝セール』『あなたの夢を叶えましょう!』と題した派手な広告が偶然にも目に飛び込んできた。宝飾ジュエリーの総合商社、ウトマコーポレーションの広告であった。
イクはそれを一目見るなり首をひねると思った。またこりもせずにやってるわ。よっぽど儲かってるみたいね。
少し気になって中の内容をのぞくと、賞金の額は昨年と全く一緒で、何も変わっていなかった。
そのときイクの脳裏にほんのちょっとした疑問が何とはなしに浮かんだ。果たして本当に当たっている人っているのかな? この手の当選者の話が不思議と話題に上ったためしがないのよねぇ。まあ、大手だから全く有りもしない誇大広告ではないと思うけれど。
それというのも、特等から十等まで十一段階あって、末等の十等では一万ドルの金券、九等では一万ドルの現金、八等は十万ドルの金券、七等では十万ドルの現金、六等では百万ドルの金券、五等では百万ドルの現金、四等では五百万ドルの金券、三等では五百万ドルの現金、二等では一千万ドルの金券、一等では一千万ドルの現金となっていて、最期の特等は三百キロ分の金塊とダイヤモンドのジュエリー併せて時価三千数百万ドル相当が当たることになっており。それも、延べ五千名にあたる仕組みになっていたからだった。
そこへ加えて、そのあたる仕組みが少々変わっていた。グループ内の店舗の商品を何でも良いから総額二千五百ドル以上購入すると、至宝のクリスタルと称して、シルバーチェーンか細い革ひもに透明なガラス玉が一個ついたアクセサリーが貰え、それを肌身離さずに五日間身に着け続けたとき、透明なガラス玉が色付いたときの色で当たりはずれを判別していた。説明によると、一肌くらいの温度で五日かけてゆっくり変化する染料がガラス玉内部に塗布してあるとのことだった。従って外れた場合は、ガラス玉はずっと無色透明のままであった。
「あゝ、そうそう。思い出したわ」
そう呟いたイクの脳裏に、忘れかけていた記憶が蘇った。
それはちょうど昨年の今頃のこと。少し懐が豊かになったときがあって。そのときアルバイトも父親のダイスからの仕事の手伝いの依頼も無くて暇だったので、その資金を元手にして、もっと増やそうと考えたことがあった。
だからと言って、株や商品取引きやギャンブルの知識は何も持っていなかったし、値上がりを見越して骨とうや絵画を買うほどの資金力もなかった。それで思い付いたのが、ショッピングアプリで色んなショップが出品している商品の写真を何気なく見ていて偶然見つけたウトマコーポレーションの系列の通販会社の広告に出ていた、高額な買い物をすると付いてくる景品に一か八かの勝負をかけることだった。
その景品は、二千五百以上三千ドル以下の商品を購入すると一つ、それ以上で二つ手に入る仕組みになっていた。しかしイクは、そうとは知らずにブランドバッグを二千九百ドルで購入して景品であったガラス玉が付いたネックレスを一つ手に入れていた。
あのときは言われた通りに、ずっと付けていたにもかかわらず、何も変わらなくって。期待度が大きかった分、外れと分かったときの喪失感の大きかったこと。三日四日経っても何もする気が起こらなかったっけ。でも最後は、買ったバッグで元は取ってあるから損したわけじゃないし、それに結局はダメだったけれど大きな夢が見れたことだしと自分自身を慰めて何とか気を取り直したけれど。それにしても、あのとき、あと百ドルで二つ手に入ったのに、惜しいことをしたわ。今度は同じ失敗を繰り返さないで、今度こそ、三千ドル以上の品物を買って、二つネックレスを手に入れて、あの時の借りを返さなくちゃあね。
今はその資金が十分あるからとして、イクは今度こそとその気になって再度の挑戦を誓うと、隣でしとやかに腰掛けて携帯の画面に集中していたエリシオーネの方を向いて、鼻にかかったような甘い声で彼女に呼び掛けた。
「あのうエリさん」
その声に、エリシオーネは落ち着いた物腰で「はい」と返事をすると、携帯から目を離して訊いて来た。
「何か?」
「ちょっと外へ行きませんか?」
「ええ、良いですよ。今日はどこまで?」
「いいや、そうじゃなくって」イクは首を横に振ると言った。「明日の話です。ちょっと遠いんですが付き合ってくれますか?」
「ええ。それで、どこまで行く気なので?」
イクの話に、いつもの息抜きだと思っていたのだろうエリシオーネは一瞬キョトンとした表情をすると尋ねてきた。
「あたしたちが住んでいる地域の中心部へ行こうかなと思ってるんです。実は寄りたいところがありまして」
「ふーん、そうですか」
エリシオーネから物柔らかな笑みが漏れた。そんな彼女にイクは大体のあらましと用件を話すと、エリシオーネは「分かりましたわ」と言って、快く了解してくれていた。
翌日の朝。ダイスとジスとレソーの三人を普段通りに送り出したイクは、くたびれた長袖のシャツにジーンズ、スニーカー、背中にはデイバッグと外出用の格好に着替え、顔が隠れるくらいにキャップを深めに被ると、イク行きつけのリサイクルショップで見つけて購入したカジュアルなツーピースの服装に着替え、外へ出掛けるときにはいつも習慣にしていたフレームの太いダサメガネを掛けたエリシオーネと共に家を出た。
そして、半マイル先にあったバス停まで揃って歩いて行くと、市外へと向かう車体が青いバスに乗り込んだ。それから一時間ほどして終点であったビルドルース地区で下り、歩いて最寄りの地下鉄の駅まで向かった。地下鉄を使って、都心部の一つであったジーロ地区の市街まで足を伸ばすつもりであった。
ビルドルース地区は都心部に隣接する商業地域で、巷の不景気などどこ吹く風と、各種店舗、レジャービル、オフィスビルを始めとして学校や教会や病院やホテルや図書館や劇場といった大型の施設や建物がずらりと建ち並び、通りには大勢の人々が行き交いと、大いに活気に満ちていた。
その中、まるで空気か何かのような存在感で、人混みを避けるように通りの端っこをとぼとぼと歩いてやって来る若い女性が、ふとイクの目に留まった。
チリチリのカーリーヘアに撫で肩、貧相な体つき、生成りのシャツにジャケット、グレーのロングスカートと、ほとんど目立たない格好で背中をやや丸めてと、独特な雰囲気を醸し出していた。
――あっ、あれはきっとカコだわ。いつも同じ服装をしているからすぐ分かるのよねぇ。
一目で分かったわとイクは目を輝かせると、人懐っこい微笑を浮かべながら近付いて行って、
「カコ、元気していた?」と、くだけた言葉で一言声を掛けた。
そんなイクの呼び掛けに、女性はちょっと立ち止まると顔を上げた。そしてイクだと分かると、急に表情を緩めて言ってきた。
「ええ、ひと月ぶりかしらイク。どうしてたの?」
イクは目を細めて笑って応えた。「相変わらずぶらぶらしているわ。アルバイトもろくにないしね。それでカコはどう?」
「あゝ、見てのとおりよ。私も一緒よ。面接なしで直接雇ってくれるところは中々なくってね」
本名がカコリナ・モーリエであることと同じ年齢であること。それ以上のプライベートなことは、イクは何も知らなかった。けれども、お互いに何でもざっくばらんに話せる仲と言っても良かった。
二人は同じ初等学校へ通った同級生であった。
どちらかと言えば外交的で、正義感が強くて、困っている人を見て見ぬ振りができないおせっかいな面があったイク。
対して、どちらかと言えば内向的で、人見知りするタイプで無口で控えめで言いたいことが言えなかったカコリナ。ふたりは性格が真逆であった。
しかしながら、どちらも共通して訳ありの境遇であったことで、初めて出会ったときから妙に気が合って、話し友達となっていた。そのような関係であったから、やがてカコが学校へ来なくなった時期にイクもカコがいないんじゃつまらないとして学校に行かなくなっていた。
ところが縁とは不思議なもので、二人は街中やアルバイトやパートの募集先で良くばったりと出会ったり、一緒に働くことになったりして、再び親交を深めるようになっていたのだった。
「あゝそうそう、紹介するわ」イクは思い出したように傍に立つエリシオーネの方に振り向くと告げた。
「隣にいるのはエリシオーネさんて言うの。ちょっとした訳があって、今あたしの家でいるの。エリシオーネさんはね、あたしより少し年上で、あたしから見てお姉さんみたいなものよ」
イクはカコリナにエリシオーネを紹介すると、エリシオーネの方へ振り返り言った。
「エリシオーネさん、こちらカコって言うの。この世に一人しかいないあたしの友人なんです」
イクから大げさ気味に紹介されて、少し罰が悪そうにカコリナははにかむと、エリシオーネに向かって小さな声で、
「どうも。カコリナと言います」と、あいさつして、エリシオーネの顔をろくに見もせずに目を逸らした。
そんなカコリナにエリシオーネがにっこり笑って応えようとしたときだった。
「ねえカコ。あんた今、空いてる?」とイクが遮るように切り出した。
「まあ、そうね」カコはちょっと肩をすくめると応えた。「空いてるわ」
「それじゃあ、あたし等に付き合わない?」
「ええ、別に構わないけれど。どこへ行くの?」
「そうねえ……」イクは周辺を一べつして、前方に見えた公園付近に視線を向けると、
「あそこが良いわね」
イクがそれとなくさした方向には、ストリートフードを売るおしゃれな移動販売の車が何台も止まり。お昼前であったこともあり、その前では人だかりができていたり、人の列ができていた。
「ねえ、お腹すいてない?」
「まあ……」
「それじゃあ決まりね。あそこで好きな物をおごるわ」
「でも、そんなことして貰って悪いわ」
「良いって」
「本当に良いの?」
「心配はいらないって。今あたし、臨時収入ががっぽり入って懐が温かいんだ。何でもおごってあげるから」
「そう」
「それじゃあ行きましょうか」
三人はその中で一番繁盛していた車両へ連れ立って向かうと、その前に並んでいた人達の真似をして、ポケット状になったパンの内部に卵、肉、野菜、魚介と言った具材を詰め込みソースをかけたピタサンドとソフトドリンクを購入。食べ物を持ったまま公園まで歩いて向かうと、ちょうど空いていたベンチに仲良く腰掛けて食べた。そのとき一緒にいたエリシオーネは、初めて食べたのか、それとも美味しいのか、一言も喋らずに夢中で食べた。他方、イクとカコリナは、そのようなエリシオーネをよそに、イクの「ねえカコ、今日は何してたの?」から始まって、ぺちゃくちゃと世間話に興じながら食べた。
カコリナはイクと出会ったことが余程嬉しかったのか、すっかり心を開くと、
「家にいずらくって、仕事を捜してくると言って出て来たんだけど。まあ、あるわけないしね」
そう沈んだ声で言って、毎日毎日、朝早く家を出て夕方近くまで街をうろついて戻るということをずっと繰り返していると近況の悩みを打ち明け、
「ねえイク。何でも良いからどこか良いところ知らない?」と訊いて来た。
そんなカコリナに、イクはそう言われてもねと苦笑いをすると、
「あたしも良い伝手を持ってなくってさ」と返した。
その途端にカコリナは食べるのを一旦止めると、虚ろな表情で大きなため息をつき、さもがっかりしたという風に表情を雲らせた。そんなカコリナの様子に、これはいけないとイクは精一杯頭を働かせた。そして、「あゝ、そうそう」と突然思い出した振りを装うと言い足した。
「そうねえ、一人だけ心当たりがあるわ。ド田舎の馬鹿でかい大豪邸に一人で住んでいる女の人と知り合いでね。ちょっと前にその人に頼まれて、あたしとあたしの父さんのところの従業員と三人で家の掃除の手伝いに行ったときがあって。仕事が終わって帰り際に、一人で毎日の掃除や買い物が大変だからと手伝ってくれる人がどこかにいないか訊かれたことがあってね。その人に頼んだら、ひょっとして雇ってくれるかもね」
「えっ、ほんと!」カコリナは顔をほころばせると言った。「嬉しいわ」
「でもさ、ここから相当離れているところで住んでいるから、住み込みになるかも知れないわよ」
「今は選んでいられる場合じゃないから、あるなら何でも良いわ」
「ま、そう言うんなら、一応頼んでみるけど。当てにはしないでね。断られるかも知れないから」
「あゝ、何でも良いわ。お願いするわ」
「そう」
イクはカコリナの機嫌が直って再び食べ始めたのを見てほっとした半面、少し胸苦しさを覚えた。この分じゃ、本当にパトリシアさんに頼まないといけなくなったわ。果たして快く受けてくれるかな?
イクは公園と周辺の景色をそれとなく眺めると、ここでカコに会ったのも何かの縁だからとして、「実はあたし達、これからマリッドウエイ街までショッピングに行こうかと思っているんだ。どう、付き合わない? あたしもエリシオーネさんも初めて行くもんで、どうも心細くってね」とカコリナをついでに誘った。
するとカコリナは、うら寂しい笑みを微かに浮かべて「なるほど、そうだったの。それで……」と頷くと言った。
「私も行ったことはないからはっきりとは知らないんだけれど、あそこって高いビルが建ち並んでいるだけで何もないところじゃなかった?」
「ところがそうでもないみたいなのよ」
「へー、ほんと!」
「あたしも調べるまで知らなかったんだけれどね」イクは苦笑いすると言った。
「ま、詳しい事は行ってから話すけれど、一緒に付いて来てくれたら、その分良いことがあるかもよ」
「そう、分かったわ」
「それじゃあ決まりね」
「ええ。こうしていたってどうしようもないし」
カコリナは、ビルドルース地区近郊のノンミョンという地区で母親のミユーと母親の両親の四人で暮らしていた。その辺りは、老朽化した建物が密集して建ち並んでおり、戦争や政変が原因で祖国から脱出してきた避難民や密航者や貧困層の人々や職や財産を失った人々が多く住んでいた。いわゆる巷でいうところのスラム地域と称されていた一帯だった。その一角で、カコリナの家族は築年数不明の古い集合住宅の一室で生活していた。
元々裕福な家庭の育ちであった母親の両親、つまりカコリナから見て祖父母にあたるマーティンとフォレッタが落ちぶれた結果、そこに定住することになっていたのであって、そのこと自体は世間では良くあることでそれほど珍しいことではなかった。
カコリナの祖父母マーティンとフォレッタの実家は共に上流家庭で、何不自由なく育った二人は共に若い頃は、超一流のプロのミュージシャンと社会的に高く評価されることはもとより作品が高く売れる芸術家になる夢を描いていた。そして、それなりに音楽活動のかたわら世界を巡って見聞を広めたり、世間に名が通った芸術学校に通いながら海外留学したりと、一生懸命に努力を重ねた。
しかしながら、多くの人々が月並みに辿るように、二人とも、ほとんど脚光を浴びることがないまま中途で挫折。結局のところ、夢をあきらめて今後の展望についてどうすべきか考えていたそんな折のこと。全く偶然のことであったのだが、共に常連であったカフェで初めて出会い、そのときフィーリングが合ったというか意気投合。遂には結婚に至っていた。
そして二人は、これからどうにかして現実の社会で生計を立てて暮して行かなければならないということで、二人で話し合って他の仕事をあれこれ模索した揚げ句、二人とも共通して旅行とグルメ巡りが趣味で世界各地の料理の味や知識に通じていたこともあり、飲食店を起業しよう、それで安定した生活基盤を築こうと決意。共に両親から相続した豊富な資産を活用して、高級住宅街のそばにあった物件を手に入れ、高級志向のレストランを開業していた。
ところが、世間知らずのボンボンとお嬢様であったことや、元プロのミュージシャン志望と芸術家志望特有のこだわりが何事においても強く出過ぎた結果、入って来るものより出ていくものの方が多過ぎて、ものの三年で経営が上手く行かなくなってレストランは倒産。遂には借金のかたで土地建物が人の手に渡り、全財産を失うはめになっていた。
しかし、そこはそれ、そんな二人を見かねて心配してくれる人々もいた。長年に渡って交流があった、友とか仲間とか呼べる存在の者達であった。その中の一人が「長い人生、誰にだって失敗は付きものだ。ところでなんだが、やり直す気はないかい?」と言って、親切にも耳寄りな情報を持ってきてくれた。それはこういうことだった。
「少し郊外の方なんだけれど、僕の祖父の代からひいきにしている小さな大衆レストランがあるんだ。そこは席数二、三十程度で老夫婦がふたりで切り盛りしていて、今じゃ家族ぐるみで付き合いがあるんだけれど、ここ半月ほど休業状態が続いていてね。心配になって二人の様子を見に行ったんだ。すると何と二人とも病院に入院していることが分かって、先日見舞いがてら様子を見に行くと、何と二人とも頭や手足を包帯でぐるぐる巻きにされていてね。それで事情をきくと、何でも半月前に店が終わって二人で車で帰っていたときに交通事故の巻き添えに遭ったそうで。医師の話では、退院にはあと半月ほどかかり、完全に治って日常のことができるようになるのは、年のことを考えると、そのあと半年から一年はかかると言われているそうなんだ。
その間レストランを閉めておくしかないが、そんなに長く放置していたらネズミとゴキブリとクモの住処となって店の再開は無理となってしまう。といって、今のところは愛着のある店を手放すのは気が進まない。それで信頼のおける人物に経営を任せようと思っているのだが、適任の人物を知らないかと相談されていてね。
確か君のところのレストランは多国籍料理を出していただろう。あそこは無国籍料理でそう内容が変わらないだろうから、たぶん大丈夫だし。それにあそこのレストランは、誰でも気楽に美味しい料理が食べられるからといって常連客を多く抱かえていてね。君達の腕なら大きなミスをしない限り絶対上手くいくはずだ。どうだい、良い機会だ。ひとつやってみる気はないかい?」
もちろん二人は、願ってもないことであったので、その提言を二つ返事で受け入れていた。そして翌日、紹介者の男と一緒にその老夫婦に病院へ会いに出かけて、その日のうちに承諾を貰い、賃料を支払って店舗を借りる契約書にサインしていた。
それからというもの、残っていた負債や友人たちから借りたお金を返すために二人は人が変わったように働いた。上手くいかなかった前の反省から同じ轍は踏まないと二人で相談し合って、独り善がりな行動をできるだけ慎み、問題が起きたときには旧オーナーの夫婦の元へアドバイスを受けに行った。その甲斐あってか、二人が運営するレストランはとても繁盛した。そして五年もすると借金生活から脱出して、六年目には高級公務員や大手企業のエリート社員が多く暮す高級賃貸マンションに住むようになっていた。おまけに娘のミユーも生まれてと、全てが順風満帆と言っても良いものであった。
だがそうそう何から何まで上手くいかないのが世の常で。カコリナは、ミユーが十七歳、ちょうどイクとカコリナと同じ年代になった頃に、彼女が不幸に見舞われて生まれた子であった。平たく言うと、ミユーが学校からの帰りに見知らぬ男達によって拉致されて、人気のない建物に連れ込まれ、情け容赦の無い暴力を振るわれながら何度もレイプされた揚げ句にできた子がカコリナだった。従って父親は誰なのか皆目分からなかった。
妊娠が分かったとき、当然のごとく彼女の両親マーティンとフォレッタは、片親がどこの馬の骨かも分からない子を産むことには絶対反対、降ろすべしと進言した。
けれど、もうそのときには時すでに遅く。暴徒達によって負わされた大怪我も何とか癒え、ようやく人前に出られるようになった矢先のことで。無理に中絶すると母体の方も命の安全が保障できないという医師の提言によって、結局のところ、両親は渋々折れて、ミユーは本来ならこの世に生まれて来ることがなかった不祥な子、カコリナを生んでいた。
そこへ加えて、そのとき両親はオーナー側の老夫婦とトラブルを起こしていた。つまるところ、レストランの様子を見に行くとやる気がないのかいつも休業している、それなら貸さないとしてオーナー側から一方的に契約の解除を通告されていたのだった。
そのことを両親から吐露されたミユーは思い当たる節があった。たぶんあれのことだわ。間違いないわ。
最近になって、両親は揃いも揃ってレストランの仕事をたびたびすっぽかしては店を休業していた。
本当のことを言えば、二人とも、その半分ほどは友人との付き合いを大事にする余りにやったことであったが、そうとは知らなかったミユーは、父親のマーティンは、昔から気が向くと誰にも知らせずに姿をくらませて一週間からひと月の間戻ってこない放浪癖があり。一方母親のフォレッタはかなりな気分屋で、気持ちが乗らないと、何の前触れもなく仮病を使ったり嘘を言って休む癖があったことで、「また気が緩んできているみたいね」と何事にもマイペースな上に気まま過ぎる性格の両親に半ば呆れると、
「この子と一緒に私もついて行っても良い? 親子連れだと向こうも気が変わるかもしれないし」と二人に提案した。
すると両親は、「高齢者は情に訴えると案外脆いというからな」「まあ、良いでしょう。私達が行っても会ってくれなかったら困るもの」と口々に言うと、晴れてシングルマザーとなったミユーの申し入れを受け入れていた。そして、レストランが定休日の午前中に『モーリエです、レストランの契約の件についてお話があります。今日会っていただけたらと存じます』という連絡を入れて、現役を引退してからというもの、自宅で悠々自適の生活を送っている老夫婦の元へ家族総出で向かった。
レストランのオーナーの自宅は、当のレストランから車で四十分ほど行ったところの緑豊かな自然が間近に拡がる閑静な住宅街にあった。年金で生活する人々が多く暮らす一帯で、その中に建つ、外構のフェンス周辺がツタに覆われている古い二階建ての建物がそうだった。
尋ねていくと、ちょうど老夫婦は自宅前のそれほど広くない庭の手入れをしている最中だった。
「プレンダーさん、モーリエです、ご迷惑をお掛けします」
マーティンがかしこまった様子で夫妻にあいさつすると、二人は手を休めて、お内儀が「まあまあ、お入りになって」と応じ、旦那の方が「あそこで話をしよう」と庭の真ん中辺りにあったガーデンテーブルを差して席に就くように勧めて来た。
一家が言われた通りにすると、それを見届けて夫妻もガーデンテーブルのベンチにゆっくり腰を下ろした。そして旦那の方が明らかに立腹した様子で――――こちらに毎月家賃を支払っている以上、好き勝手するのも自由だが、毎日来てくださるお客様に迷惑をかけることは店を運営するものとして断じてしてはいけない。それ自体は幾ら利益が出ていようとおごり以外のなにものでもない。そんなことをしていると、いつかしっぺ返しを食らうことになる。まあ言っては何だが、わし等の考えは古いかも知れない。だが、あんた等の行動はどうしても割り切れない。お金持ちが趣味で店を経営しているのであればそれでも構わない。だが、生計を立てる為に店を経営するのであればそれは違うと思う――――と意見を述べた。
続いてその後に付け加えるようにお内儀が――――いつ値上げしたのか知りませんが、下町のレストランにあのような価格設定はおかしいと思います。あり得ないことと思います。あれでは毎日来て下さるお客様もこれなくなります。そうなってはお店はいつか潰れてしまいますよ。そうなる前に、もう少しお客様のことを考えてメニューの値段を下げて頂けませんか。といって量や質はもちろん下げてはなりません。それと店舗の外観を派手に飾るのは目を引いて良いかもしれませんが、でもあれじゃあ初めて来るお客様は中に入り辛いわ。あと、文字を変形させてお店の名前を標示するのは私達のような年寄りには分かりづらいから避けた方が良いわよ――――と小言を言った。そして最後に旦那の方が締めくくる様に、
「どうかね、わし等を納得させられる言い訳があるなら披露して貰おうじゃないか」と皮肉ると、強く言った。
「このまま態度を改める気がないのなら、これ以上店を任すことができないな。契約を解除させて貰うが、よろしいかな?」
「あ、はい。それはですね……」
マーティンはそこまで言ってうつむいて口ごもった。フォレッタも同様だった。神妙な表情で口を閉ざすと下を向いてテーブルの端をじっと見つめた。二人とも、はっきりと心当たりがあったからだった。
そんなとき、それまで両親の横にちょこんと目立たずに座っていたミユーが不躾に叫んだ。
「これから気を付けますので両親を許してください。定休日以外の休みは、この私ができるだけなくすようにします。価格についてですが、それについては、ここにいる両親と相談して安く改めます。それ以外のことも全部改めます」
マーティンとフォレッタが困っているのを見るに見かねて思わず口をついて出たのだったが、その途端にミユーの両親は娘の言葉に驚いて顔を上げるときょとんとした。老夫婦もまた同様だった。おやっという顔で気丈にまくしたてたミユーの方にさり気なく目をやった。そして彼女に抱かれ、無邪気に笑っている赤ん坊のカコリナを見て取ると、にこやかにこっくりと頷いて、旦那の方がマーティンに向かって確認するように問い掛けた。
「あんたの娘さんとお孫さんかい?」
「あ、はい、そうです」
「ふ~ん」「わあ小っちゃい手……」二人は口々に呟いて感想を漏らした。「若いのにずいぶんとしっかりしたお子さんだね」「生まれたて見たい……」
ほんのしばらく沈黙が流れ、夫妻はやがてため息をつくと、
「わし等には跡継ぎがなくてなぁ……」「ほんと、うらやましいわ」
そう心の内を少し吐露した。それから旦那の方が「まあ、見苦しい言い訳をしないだけよしとしようか」と呟くと、分かったという風に頷くなり言った。
「わし等が言ったことをしっかり肝に銘じてくれるなら、今回だけは目をつぶるが、またおかしいことをすれば次はないものと思って欲しい」
「ありがとうございます」ミユーが先に答え、やや遅れて両親が「どうもご迷惑かけます」「これから気を付けます」と謝罪じみた礼を言うと、
「まあまあ、分かってくれればそれで良い」
老夫婦はミユーの熱意に打たれたのか、それとも一緒に連れて行った生まれたばかりの幼いカコリナに情が移ったのか定かでなかったが、物分かり良く契約解除の件は白紙に戻してくれていた。それどころか夫妻は、揃って物柔らかな眼差しで、「良い子だ。頑張りなさい」「これで安心したわ」とミユーに向かって優しく声をかけてくれたのだった。
程なくして家族は当時住んでいた高級賃貸マンションに戻ると、その夜ミユーは長く休校していた学校を退学する旨を両親に伝えた。それについて両親も本人の希望ならと渋々了承した。一年近く休んで、おまけに子供まで生まれてはそれも仕方がないことかと妥協してのことだった。
それからというもの、ミユーは育児をしながら、自由過ぎる二人の監視役として一緒にレストランで働くことになった。
それでも両親は相も変わらぬマイペースで生活習慣を改める素振りはこれっぽちもなかった。勝手に行方をくらませたり仕事を休んだり早退を繰り返した。ただ二人同時でなかったことが唯一の救いだったが。そんなダメ両親をミユーはもはや二人の性分だからどうにもならないとして諦め黙認していた。そのためミユーは苦労が絶えなかった。昔の癖が抜け切れない父親と気まぐれ過ぎる母親のせいで、まさに自分を犠牲にしてという言葉があてはまるぐらい懸命に奮闘した。その結果、いつのまにか口元にほうれい線が深く刻まれ、実年齢より老けて見えるようになっていた。だがその代わり、そのような苦労はミユーを少々のことでは動じないしっかり者にしていた。
そのことがあって以降、オーナーの老夫婦は何も言ってこなかった。そして何事もなく月日が過ぎていった。
ところがカコリナが六歳になった頃、名も知らぬ不動産会社から一通の書類が送られてくると事態が急転した。そこには、レストランオーナーの老夫婦が二人とも亡くなったことと、老夫婦の遠い親戚である当の不動産会社オーナーがその資産を相続した旨と、レストランの家賃の督促状が入っていた。しかも督促状には、来月から以前の家賃の三倍の額を請求する。もしその額を呑めない場合は速やかにレストランの建物から立ち退いて貰うと記されてあった。
即刻、三人は家族会議を開くと話し合いをした。
その結果、二十年以上慣れ親しんで愛着のあったレストランから出ていくことは残念であったが、お世話になった老夫婦も亡くなってきれいさっぱり縁が切れたことやレストランの建物もかなり古くなっていること。その上、言われた通りの家賃を毎月支払うには一層のコストダウンが必要で、今現在の生活レベルを引き下げるか、或いは場合によっては来客数の減少を想定できても全メニューの価格の改定が避けられない。かくして、多少の預金もできていたので、別の場所でも十分やっていけるだろうと、退去する方法を選択していたのだった。
ところで時代は予想以上に活気に満ちていた。景気がすこぶる良く、土地や建物といった不動産の取り引きに絡んだ投機も盛んで、これはという物件は天井知らずで値上がりを続けていた。
そういうわけで、これはと思った都市へ赴き、そこの仲介業者を尋ねて交渉に当たると、ちょっとした場所の物件(テナント)であっても目が飛び出るくらいの家賃であった。おまけに設備に要する費用、運転資金、その他諸々の手続きにかかる費用までを総合すると、思っていたよりも莫大な出費となることが分かり、とても手が届きそうもなかった。
そのため、踏ん切りがつかぬまま幾つもの業者を巡ったところ、その中の良心的な一業者が「今は時期が悪い。下手に飛びつくと損をしかねませんよ。ここはしばらく様子を見られては」と物件の相場が落ち着くまで待つのが得策ではないかというアドバイスをしてくれた。
それで、見栄を張って住んでいた割高だった高級マンションを引き払い一般的な賃貸マンションに移り、その忠告を守っている内に、いつのまにか三年の歳月が経っていた。
その間、マーティンとフォレッタの二人は何とかなるだろうと呑気に構えて、マーティンは知り合いの仲間と音楽活動。フォレッタは絵やイラストを描いたりと、今となっては趣味みたいなものとなっていた創作活動にお互い没頭していた。
一方ミユーは社会経験を積むためにパートに挑戦していた。
昔、見知らぬ男達からよってたかって乱暴されたことで男性恐怖症を発症していて、良く知らない男性が多くいる職場では働くことができなかった上に、感情の起伏が激しくて突発的に気分が落ち込んではわけもなく声を振るわせて泣きだす性癖があったからだった。
そして三年待った甲斐があって、あれほど過熱していた投機もようやく落ち着いてきて、手が出せそうな物件もちらほや見かけるようになって、もうそろそろ頃合いかと思われた時だった。
降ってわいたように企業の連鎖倒産、株価暴落、失業者の増加が突如として起こり、それらが原因となって景気が右肩下がりになっていったのだった。
本当のところ、突如というのは語弊があって、既に数年前にその兆し――世界各地で勃発した自然災害と地球規模の気候変動と大量の病害虫の発生による世界的な食料不足と資源大国の過剰な保護貿易が契機となって、幾つかの国家と損保企業が破綻。それらが引き金となって世界経済が急減速していたのを、そのことを良しと思わない一握りの識者が単にインフレが進んだように見せかける隠ぺい工作を行っていたのが、とうとう隠しきれなくなったに過ぎなかったのだが。
まあそれはさておき、そのようになっては新しくレストランを開業するなど、資金力に富む大きな事業主でない限り無謀以外の何物でもないと言っても良く。それでなのかマーティンとフォレッタは働く意欲が失せたらしかった。二人は一人娘のミユーの苦言にも耳を貸さないで、来る日も来る日も趣味やギャンブルや飲み代にかなりな出費を繰り返した。まるで人生を諦めたかのように。
それが数年続いて遊ぶ資金が乏しくなると、お決まり通りにそのような境遇の人々が多く暮らす地域に生活の基盤を移して、家で一日中いたり外をぶらぶらしていた。
そうはいっても、家族は仲が悪くなかった。ごく普通だった。先行きが読めない将来への不安で、お互いに無関心になっていたことがそうさせていた。
そしてその時期、カコリナがちょうど十二歳の時。何かの巡り合わせというべきかカコリナは自分自身の出生の秘密を知ることになっていた。
それは、カコリナと祖母のフォレッタが、リビングとダイニングが一つになった部屋の中に二人きりでいたときに起こった。
そのとき祖母は、朝っぱらからお酒の一人飲みをしながら、細長いハイカラな煙草をふかしていた。
煙草は創作活動をする前にインスピレーションを高める前にいつもやっていることであったが、お酒を飲んでいたことが余計だった。
何かの拍子で、二人の間でたまたま軽い言い合いのやり取りがあって、かなり酔っぱらっていた祖母が立腹して、
「あなたが生まれたせいで娘のミユーは人生を棒に振ることになったのよ。そんな疫病神のあなたがこの私に楯突く資格なんてないわよ! あなたはね、望まれて生まれた子じゃないの。娘のミユーが人間のクズ野郎達に乱暴されて望まない妊娠をして、生まれてくる子供には罪が無いからとして仕方なしに生んだ子なの」
などと、カコリナの出生の秘密を、酔った勢いでつい口を滑らせて漏らしたのだった。
他方、そのことを知らされたカコリナは「あゝ、そうなんだ」と淡々と受け入れた。――確かに父さんのことは母さんから一言も聞かされていなかったから、どうせ良くあることで二人は離婚したのかと思っていたのに。
しかし、年齢的に女の子が思春期をむかえていた難しい時期であったこともあり、心に傷を負ったことは確かであった。
その証拠に、そのことがあって以後カコリナは落ち込むことが多くなり、家族によそよそしい態度を取るようになっていた。また、世間の目を気にするようになり臆病な性格となっていた。
やがて上の学校へ進学したときもカコリナは一月も経たないうちに無断で学校へ行かなくなって、アルバイトやパートに励むようになっていた。
そのことについて家族の誰もがとがめずに黙認していた。あの子は大人しくて気が弱いからどうせいじめられたりして学校へ行くのが嫌になったのかもと見なすと、学校に行きたくなかったらそれでも構わないと、本人の好きなようにさせていた。
それというのも、家族の中で祖父母はこれといって収入がなく。唯一仕事を持っていたミユーのパートタイマーの給与では毎月の生活がギリギリか赤字で苦しかったからだった。
ところが、カコリナ本人にもただ一つだけ困ったことがあった。一生懸命に働いているつもりなのに、大人しくて目立たない性格であったために周りから誤解されて、どこの職場においても直ぐに首になっていたのだった。
やがて三人は、半時間ほどかけて食事を終えると、公園を後にした。それから五分ほどかけて地下鉄の駅まで行った。そして、たわいもない話をしながら駅で十分ほど待って、ようやくやってきた急行に乗り、二十分ほどして下りると外へ通じる階段を昇り地上へと出た。そのとき初めて、空が薄っすらと曇っているのに気付いた。
目的地であったマリッドウエイ街は、さしずめ都心というだけあって、銀行、証券会社、保険会社といった金融関係の高層ビルや、放送局、新聞社、出版社といったマスメディアの建物や、役所や公共機関の建築物が競り合うようにして隙間なく建っていた。一見して、カコリナが話した通りの景色が拡がっていた。思いのほか面白味のないところであった。そして周辺を片側六車線の広い道路が走り、頻繁に車が往来していた。しかしながら通りは、人の姿がほとんど見かけなかった。閑散としていた。
だがその中に、イクが目指すところの、主にセレブがご用達の高級デパート『カウフ・ルフタン』があった。
昔役所だった歴史的建造物と、自走式大型立体駐車場の建物と、ちょっとした森と噴水と小さな時計塔がある公園に囲まれるようにして堂々と建っている地上三十五階建ての超高層ビルがそうだった。
建物の下半分が、美術工芸品、絵画、アンテイーク、高級家具、高級楽器、宝飾品、ブランド製品、宝石アクセサリーなどを販売するテナントで占められ、残りの半分に超高級レストランとホテルが入っていて、上級市民や特権階級といった富裕層の人々で賑わっていた。
三人が、がらんとした通りを歩いて凛々しい雰囲気を漂わせていた古代ギリシャの神殿そっくりなビルのエントランスの前までやって来て立ち止まると、イクは初めてカコリナとエリシオーネに向かってここまでやって来たいきさつをざっくばらんに話した。
「そう言うわけでさぁ、昨年は通販で購入して失敗したから、今年こそ当ててやろうと思って、ウトマを代表するお店『ハイノーブル』の本店が入っているデパートまでやってきたわけよ」
そんなイクに、二人はなるほどそうだったのと素直に納得していた。
きれいに磨き上げられて曇り一つないブロンズガラス製の自動扉を二度通過して立派な建物内に入っていくと、高い天井から豪華なシャンデリアの照明が広々とした辺りの空間を眩しいくらいに明るく照らしてエレガントなムードを演出していた。その中、壁際に大理石でできた豪華なフロントがあり。そこにはシックなネイビースーツ姿に身を包んだ四名のうら若い女性が品のある物腰で相席していた。また、そこから少し離れた二つの地点に真っ赤な制服姿の警備員が二人ずつ並んで立っていた。
ちなみに女性達は完璧なメイクをしていて、いずれも見るからにプロのモデルのような超美人で、イクとエリシオーネとカコリナの三人が進んで行くと三人の方をじっくり見るようにしてにっこり微笑みかけてきた。
その際、不用意にもエリシオーネの双眸をまじまじとのぞき込んだことで、皆が皆、頭の中が真っ白状態と化し、一時的に思考が飛んで言うべきことを忘れてしまっていた。
ホーリーから貰った呪いのアイテムでどれだけ漏れ出る魔力を押さえ込んでいても、完全には抑えきれず。微量であったが目元の方から漏れていた魔力の影響をもろに受けてそうなっていたのだった。
彼女達の身に目に見えない異変が起こっていたとは露知らず、三人が微笑み返してすんなりそこを通過すると、中は思った以上に広々としていて、きらびやかな空気に包まれていた。おまけに、ブランド品や宝飾品でお洒落に着飾った身なりの良い老若男女で比較的混雑していた。
ところでイクは、この建物の中に『ハイノーブル』の本店が入っているのは知っていたが、どこにあるのかは皆目知らなかった。
従って、ともかく周りを見て回りながら捜そうと決めると、三人はイクを先頭に、工場の倉庫かと見間違えるくらい広々として奥行きがありそうだった中へと踏み入った。
通路の両側に相並ぶ各ショップのブースは広めにとられ、それぞれ客の目を引くように様々な工夫が施された飾り付けやデイスプレイがなされていた。
物珍しさも手伝って辺りをきょろきょろと見ながら進んでいくと、一階はどうやら美術工芸品を扱っている業者のお店が揃って入っているらしく、絵画やアンテイークや陶器や彫刻作品や織物や書籍などが陳列販売されていた。
しかも、それらの商品にはほとんど値札が付いていなかった。また逆に付いているものは目玉が飛び出るくらい高価であった。
――わあ、車十台分の値段だわ。何てことよ、あれ一つで家が十軒以上買えちゃうわ。一体どうなってるの! あゝ、信じられない!
そんなとき、周りの雰囲気にすっかりのまれてしまっていたカコリナが、青ざめた顔で物怖じするようにイクの耳元で小さくささやいた。
「凄いところね。こういうところは何でも高いのよ。私達が来るところじゃないわ」
「ううん」イクは曖昧に受け答えした。カコリナと同様に頭の中が真っ白になるくらいに舞い上がっていたイクにはカコリナの声など半分も聞こえていなかった。何なのよ、あたし等が住んでいる世界とまるっきり違う世界に来たみたいよ。
そのすぐ後ろのほうでは、エリシオーネがのんびり歩きながら興味深そうに辺りに目を向けていた。
「あゝもう。こんなに広くてはかなわないわ。一体どこに目的のお店の売り場があるんだろう?」
イクは感想を漏らしながらカコリナとエリシオーネと共に広い店内を一周して戻ってくると、二人に向かってひょいと肩をすくめて言った。
「ここではないみたいなので次行きます」
もちろんカコリナとエリシオーネは納得した表情で頷いた。三人は壁際で見つけたガラス張りになったエレベーターの一つに乗って上の階へ足早に向かった。
けれども二階も全く同じ光景が見られた。同じような業態の店舗がずらりと並んでいた。
――宝石であったり黄金なら分かる気もするけれど、あんなものがそんなに高価だなんて、とても信じられないわ。
三人は中の様子を窺うことなしに次の階へ連れ立って移動した。
三階はインテリアと家具と寝具が広い空間に整然と並べて置かれてあった。四階も同様だった。
――いずれも超一流の商品が取り揃えられているみたいね。何もかもが高いわ。どうなってるの? あゝもう、ゼロの数を眺めるだけで嫌になっちゃうわ。
それというのも、一階と二階ほどまではいかなかったが、それでも車十台分ぐらいするものが普通にあったからに他ならなかった。
そうやって下の階から順番に見て行くと、五階と六階はホビー・娯楽のフロアらしかった。スポーツ・アウトドア用品や楽器やおもちゃやフィギュアやぬいぐるみや電子ゲームやアーケードゲーム機を扱うお店がずらりと並んでいた。
ちなみに五階のフロアには、聞いたこともない難しい名前のファストフードのお店が何店舗か入っていて、今流行りのファッションをした若い男女で賑わっていた。また六階には三百人前後のミニコンサートが開けるくらいのイベントスペースがあり。その日はプロのミュージシャンがブランドもので着飾った多くのギャラリーの前でピアノの弾き語りをして魅力的な歌声を披露していた。
――あゝ、残念。今日の用事さえなかったらじっといたい気分なんだけどなぁ。
後ろ髪を引かれる思いでイクはきっぱり諦めると、
「ここでもないみたいなので、上の階へ行きます」
そう言って二人の了承を得てから、七階へ仲良く向かった。
七階はバッグ・靴・ベルトといった革製品や、スーツやジャケットやスカートやドレスや帽子やネクタイといった服装品を品揃えする店舗が営業していた。
――どれもこれも中々の値段ね。でも、まあ見るだけなら問題ないわ。
三人が広々とするフロア内を歩いていくと、ショップ名が入った紙袋を手に若い男女や中年女性のグループが頻繁に行き交いしていた。そのことから言って、もうそろそろといった雰囲気だった。
――たぶん、この辺りかも知れないわね。
そう思いながらイクがカコリナとエリシオーネと共に尚も奥の方へ向かっていたときだった。
前の方から黒いスーツにサングラスと、パッと見た感じ、怖そうな雰囲気をする二人の男が近付いてくると、すれ違いざまに「あのう、失礼」と呼び止め三人の行く手を遮った。そして、その中の神経質そうな顔立ちをした男が、余りにも突然のことに一瞬反射的に体をこわばらせたイクとカコリナを差しおいて、後ろの方にいた一目見た印象が年上に見えたエリシオーネに向かって、事務的な物言いで声をかけて来た。
「お客様、失礼なことと存じますがメンバーズカードを拝見できないでしょうか?」
「はい、何か?」
男の問い掛けにエリシオーネが全く意味が分からないという風にキョトンとした表情で応じると、男は三人を一べつして続けた。
「私共はこのデパート内をパトロールしている係りの者ですが、ここへ入店される折には、デパート側が発行しましたメンバーズカードを掲示していただく決まりになっております。すみませんがカードを拝見できませんでしょうか?」
彼等は定番のその黒いスーツ姿から考えて、私服の保安警備員と思われた。どうやら建物を巡回していて、周りから明らかに浮いていた三人の私服姿が気になって声をかけたらしかったが、確かにそう疑われても仕方がないことだった。
三人の見た目が、どこか気品が感じられる周りの人々に比べて普段着のようなラフな格好、言い方を換えれば、小汚い格好をしていたのだから。
「あのう、すみませんが。メンバーズカードって何でしょう?」
エリシオーネが真面目な顔で訊きただした。
「そう言われても困ります」男は眉間にしわを寄せて、あきれたという風に肩をすくめた。
そのとき二人のちょっとしたやり取りにピンときたイクが、
「ごめんなさい、メンバーズカードがいるなんて知りませんでした」
とっさに口を挟んだ。そうなんだ、ここに入るにはメンバーズカードが必要だったんだ。
イクが正直に発した言葉に大体のいきさつが呑み込めたのか、直ちに男はイクの方へ振り向くと、冷たく言い放った。
「そうですか。メンバーズカードなしに無断で入店されたわけなのですね。分かりました」
その際、もう一人の男は、要領よく携帯でどこかへ連絡をとっていた。それを見たカコリナは動揺を隠せずにおろおろした。その直ぐ隣にいたイクは、これはやばいことになりそうと直ぐに言い訳をした。
「でもあたし達がフロントを通りましたときには何も言われませんでしたが? あれは?」
しかし男はけんもほろろに、
「そのようでしたら、フロントの受付の者が何らかの理由でミスしたようですね。事情は良く分かりました」
などと言って、素っ気なくあしらうと、人々がじろじろと見ながら通り過ぎていく様子をちょっと気にする素振りをして更に続けた。
「とにかくここでは何ですから、詳しいことは別の場所でお聞きします。付いてきてください」
それだけ言うと、無表情で前を向いて歩いて行った。三人は、逃げられなくするためなのか後ろに付いたもう一人の男に追い立てられるようにその後ろへ従うこととなっていた。
それから間もなくして、三人が連れていかれたのは、きらびやかな雰囲気の店内とは対象的に、やや薄暗くて人の出入りが全くない寂しい場所で。何とはなしにデパートの裏側を見るように、閑散とした狭い通路の片側には事務所か何かがあるのだろう鉄製のダサいドアがぽつんぽつんと見え。もう一方にはコンクリ壁と階段が見えていた。
先頭を歩いていた男はその中の一つのドアの前で立ち止まり、ドアノブを捻ってドアをおもむろに開けると、内部は小さな個室となっていて、会議用の簡易テーブルが一つと折り畳みのイスが数脚あるだけで、他には何もなかった。
そしてそこには、口元と額に深いしわが刻まれた一人の白髪頭の中年男がイスの一つに座って待っていた。いきさつから言って、もう一人の男が携帯で連絡をしていた人物らしかった。
そのような中年男に向かって「連れてきましたのでよろしくお願いします」と男は事務的に告げると、中年男が無言で頷いたのを確認して、自分たちの役割が終わったというかのように、もうひとりの男と共に肩で風を切ってそこから去っていった。
そんな男達をやぶにらみの目で見送った中年男は、改めてテーブルの前で立つ若い三人を犯罪者を見るかのような白い目で見ると、
「どうぞ座って下さい。話を聞きましょう」
そう淡々と言って、テーブルに据え付けられたイスに腰掛けるようにと指図した。そしてイクとカコリナがうつむいて、エリシオーネが落ち着き払った表情で、言われるがままに男の相向かいに腰掛けると、男は難しい顔でテーブルの上で腕組みをして切り出した。
「聞いたところでは、メンバーズカードを持っていなかったということですが、どなたかの紹介でここを知って来られたので?」
「いいえ」
中年男の問い掛けに、カトリナとエリシオーネの二人のちょうど間に座ったイクが代表して顔を上げると、かぶりを振って応えた。
「それではどのようにしてこちらを知られたので? うちはいかなる情報誌にもネット情報にも出ていない特殊なデパートなのですが」
「あゝ、そのことですか。実はこの周辺で宝飾ジュエリーの会社ウトマコーポレーションの直営店を捜したところ、ここのデパート内に『ハイノーブル』が入っているのが偶然分かったんです。それでやって来たというわけです」
「そうですか。では、どういう目的があって、そのようなことをしたので?」
「ええと、それは……」
そう口を切ると、イクはおおよそのいきさつを話した。そんなイクに中年男は言った。
「なるほど、大体のところは分かりました。ですがどのような事情があっても、うちにはうちの事情がありますから、うちの規則に従って正規な手続きをして貰わなくては困るのですよ。
あなた方のような何も知らずに入ってくる困った方々は月に一件から二件は必ずあります。そのほとんどはフロントで止められるのですが」
「はい。でも、あたし達が入っていったときには何も言わずに通してくれました」
「今回何かの手違いがあったのでしょうな。ですがそれは問題じゃない」
中年男は、素知らぬ顔でイクの言い訳を突っぱねると、恐縮して目を伏せテーブルをじっと見ているカコリナと、大らかな表情で部屋内を興味ありげに眺めていたエリシオーネを交互に見てからエリシオーネに目を向け、
「見たところ、この子達に付き添ってきた方とお見受けしますが。話を聞かせて貰えないでしょうかな?」とエリシオーネに話しかけた。
イクからの事情聴収が終わり、今度はエリシオーネに聞き取りが移ったと思われ。その途端、イクに動揺が走った。
あたしが知りませんでしたと謝ればそれで済むことだと思っていたのに。これはヤバいわ、ヤバいってもんじゃないわ。エリシオーネさんはあたしと違って糞真面目だから、このままだと訊かれたことに何でも答えちゃうかも。それどころかサービス精神旺盛で訊いてないことまで答えたりして。そうなると、きっと話がややこしくなるわ。
話が飛躍して、エリシオーネさんがこの世界に人間を誕生させた神の子孫で、白魔術師の宗家のネピ家九十八代目の当主でもあるだなんて喋ったところで誰も信じっこないからそれは良いんだけれど、問題はそれを実証すると言い出さないかよ。もしも聖霊や聖獣を呼び出しでもすれば大変なことになること請け合いよ。そうなったら幾らあたしでも目の錯覚と言って誤魔化せるかわかんないわ。
あゝ、やっかいなことになったわ。あゝどうしよう。ここは思い切ってあたしがでしゃばらなければと、焦る気持ちでイクが気を回して、エリシオーネさんは何も知りません、みんなあたしが悪いんですと口を挟もうとしたとき、中年男に呼び掛けられてエリシオーネがキョトンとした表情で前を向いて、男のどろんと濁った目とダサメガネの奥のエリシオーネのきれいに澄んだブルーの目が三フィートにも満たない至近距離で合った。
次の瞬間、中年男に思いもよらないことが起きていた。何と男は、目を見開いたまま呆然とした様子で固まっていた。まるで何らかの強いショックを受けてその場で意識を消失してしまったかのように。
エリシオーネは、自然に目元から漏れ出る多量の魔力をホーリーから提供された指輪とブレスレットとアンクルチェーンリングで封じていたとはいえ、それにも限界があったことで、気を失うところまではいかなかったが、それでも身体が動かない金縛りの状態が一分近く継続するのだった。
――あれれ、この人、石化したように動かなくなってるわ。これはもしかしてエリシオーネさんの目をまともに見たのかも?
目を丸くしてイクはいち早く男の異変に気付くと、心の中で嘲笑ってほくそ笑んだ。
知らないというのは本当に大胆なことをするものね。エリシオーネさんの目を直に見るなんて地獄以外の何物でもないっていうのにねえ。免疫ができているこのあたしだって余り近くで見ないようにしているっていうのに。
エリシオーネと同居するようになってからというもの、同じ光景を何度も見てきて見慣れていたイクは、「しめた、ラッキー! エリさん、さまさまだわ」と心の中で呟くと、直ちにイスから立ち上がり、両隣に腰掛ける二人に向かって声をかけた。
「逃げるのよ、カコ。外に出ちゃえば追いかけてこないわ」「やっかいなことにならないうちに逃げましょう、エリさん」
その言葉にエリシオーネは黙ってにっこりと微笑んだ。男に起こった事態が良く呑み込めていると思われた。だが何も知らないカコリナは、何が起こったのか理解できずにおどおどした物言いで言ってきた。
「でも……。良いの、ここから逃げても?」
ぐずぐずして決断ができずにいる、そんなカコリナにイクは、「大丈夫だから。あたしを信じてよカコ」と言って、他方エリシオーネに向かっては「行きましょう、エリさん」と呼び掛けると、率先してその場から離れた。そのあとへエリシオーネも続くと、一人残された形となったカコリナは、いたたまれなくなったと見えて「待って!」と直ぐに二人を追いかけた。
三人は部屋を出たところで見かけた人気のない階段を何も考えずに一目散に下った。誰もがエレベーターを使うらしく誰とも出会わなかった。そして、どこをどう通ったのか分からぬまま気が付くといつの間にか建物の外に出ていた。
都心らしく、通りに隣接する片側六車線の広い道路は車で混雑していた。その様子を三人は横目で見ながら、それとは反対に人影がない閑散としていた通りを歩いて地下鉄の駅まで向かった。
その道すがら、「ごめんねカコ。えらいところへ付き合わせてしまって」「エリシオーネさん、ご迷惑を掛けました。ほんと、気分の悪い思いをさせてしまってすみません。あたし、あそこが会員制のデパートとは本当に知らなかったんです」とイクは二人に謝った。すると二人は歩きながら代わる代わるに応えた。
「いいえ、あのような場所があることが分かって良い経験ができました」
「あゝ、びっくりしちゃった。会員制のデパートなんて、行ったの生まれて初めてよ。どうなることかと思ったわ」
二人が何とも思っていなかったことに、イクがほっと胸を撫で下ろすと、そこへカコリナが言い添えた。
「それで、これからどうするつもり?」
「任しておいてカコ」イクはにんまり笑うと言った「こんなこともあろうかと思って、予備のお店も見つけておいたわ。そこへ向かうつもりよ」
「ふーん。今度は大丈夫なんでしょうね?」
「そうだと思うけれど。本当のこと言うと、実はあたしも初めてなんだ」
「何よそれ!」
「でも今度は大丈夫だと思うよ。ショッピングモールの中にあるんだもの」
「そう」カコリナはこくりと頷くと呟いた。「それはどこのよ?」
「カコ、あんたに出会ったビルドルースよ」
「ああそう。あそこのショッピングモールなのね。あの巨大な」
「あゝ、そういうこと」
などと他愛もない会話をしながら地下鉄の駅まで辿り着くと、駅構内のアナログ時計が午後の四時を表示していた。
それを目にしてイクは顔をしかめた。あゝ、もうこんな時間! 予定より二時間ほどオーバーよ。急がなくちゃあ、この分だといい加減遅くなっちゃうわ。
それから間もなくして、やってきた列車に乗りビルドルース地区に舞い戻った三人は、目的の建物を目指した。そのときカコリナが、以前にモールの中に入っている店舗に採用面接に来たことがあるからということで「そこまで私が案内して上げるわ」と案内役を買って出てくれた。
彼女の案内で相変わらず人の往来が多かった通りを歩いていくと、しばらくして広大な敷地を持つ巨大な施設が道路の向こう側に現れた。超大型駐車場を持つ巨大ショッピングモール『レストラーズ』であった。
ショッピングモールの建物の周辺には不思議と人影がほとんど見かけなかった。ところが一旦中に入ると、結構込んでいた。家族連れや若い男女が広いフロアや通路を行き交う光景が普通に見られた。
入口フロアが吹き抜けになっていて、高い天井と各階が見渡せるようになっていた。また広いフロアの一端には、子供達が遊べるクッションマットや何種類もの電動遊具や大きな滑り台やブランコが設置されてあった。そして周辺のスペースには、レストランやカフェやアイスクリーム店やファストフードのお店やフルーツパーラーやピザ屋やケーキ屋やパン屋や無国籍料理のお店がずらりと並んでいて、多くの人々で賑わっていた。
「凄い!」イクは思わず感嘆の声を漏らした。「こんなに大きいんだ」
「私も初めて来たときは余りに広過ぎて、もうちょっとで迷子になりそうだったわ」
「ふ~ん」
「で、何というお店なのイク。あなたが行こうとしてるのは?」
「あゝ、そのこと。確かメルカトールって言うんだ」
「あらっ、そうなの」
「カコ。あんた、どこにあるか知ってんの?」
「ここには何百というお店が入っているのよ。知るわけないじゃん」
「それじゃあどうしようか。前みたいに歩いて捜そうか?」
「そんなことをすれば丸一日かかっちゃうわ」
「それじゃあ案内所を捜して教えて貰うとか?」
「そこまでする必要はないわ。フロアガイドで調べれば直ぐに分かることよ」
「あゝ、その手があったわね。それが手っ取り早いかもね」
二人のやや後ろに続くエリシオーネが好奇の眼差しを周辺に送っている中、イクとカコリナがそんな会話をしながら歩いてエスカレーター近くまでやってきたときだった。ちょうど上手い具合にその傍の壁面に各階のフロアマップがイラストで表示されてあるのを発見。二人はこれ幸いとばかりに立ち止まると、それをのぞき込んだ。
フロアマップによると、目指すブランド店『メルカトール』は三階にあった。しかも三階フロアのかなりな大きな面積を占めていた。
「これによると三階みたいねイク」
「そうみたい」
「じゃあ行きましょうか」
「うん」
三人はエスカレーターでその場所へ向かった。
ブランド店『メルカトール』は同じウトマ系列内でも、大衆受けねらいで比較的安価な価格設定で多品種の品揃えをすることで利益をあげていた。
そうは言っても、取り扱う品は比較的裕福な人々向けに名の通った海外メーカーや国内メーカーの一流品ばかりで、価格帯もそれなりにリーズナブルであった。
――あゝ急がないと。これ以上二人に迷惑を掛けられないわ。
イクはアクセサリーや服や靴やお洒落な小物雑貨が各コーナー別に所狭しと並べられていた売り場を巡ると、若い男女から老齢の夫婦で賑わいを見せていた中に混じって、目の色を変えて気に入った品を次から次へと手当たり次第に買い物かごに放り込んでいった。それは付き添っていたカコリナが「よくそんな大金を持っているものね」と、心配するほどであった。
しかしイクは気にも留めずに、
「なーに、大丈夫よ。心配いらないって。あたしだって馬鹿じゃないんだから。ま、言うなれば一年分のアルバイト代がいっぺんに入ったような大金が入ったんだ。それにきっちり値札を見ながら計画的に買ってるし」と適当な言い訳をすると、エリシオーネに向かって「ねえ、これなんかどうです、エリさん? エリさんみたいな全てが完璧な人は、見えないところでオシャレしないと」と言って、彼女のために高級インナーとジャケットと靴を気前よくプレゼントした。
現にエリシオーネは、凄く美人でスタイルが抜群で、肌は美白で、しわもほくろも一切無くてと、誰から見てもため息が出るくらいの欠点のない女性であった。
またカコリナにも「カコ。あたしがおごるから何でも好きな物を選ぶと良いわ」と勧めた。
しかしカコリナはそう言ったイクの提案を「私はいいわ」と頑なに固辞した。そんなカコリナにイクは、
「それじゃあ、ここまで付き合って貰って、あたしの気が済まないわ。カコ、何か欲しいものはないの?」と訊いた。
するとカコリナは小首を傾げて少し考えてから応えた。「そうねー、そんなに言ってくれるなら、物より食べ物が良いわ」
「ふ~ん、なーんだ。そんなんで良いんだ」
「ええ。ただし、せっかくだからちょっと贅沢させて貰っても良いかしら?」
「はいはい良いわよ。お好きなように」
「それじゃーね、一階で見たファストフードをテイクアウトでお願い。それも家族へのお土産用としてファミリーセットをお願いできると嬉しいわ」
「分かったわ。お安い御用よ」
イクは事もなげに承諾すると、一時間もしないうちに目標の総額三千ドル分の買い物をしてクリスタルを二個ゲットした。それからカコリナの希望を叶える形で一階で見かけたテイクアウトの専門店が集まっている場所へ向かうと、その中のどこにするかを相談して、上に載った具が豪華で美味しそうだからという理由でメクス料理のファストフードのお店に決定。当のお店に立ち寄り、タルトピザのファミリーサイズを二セット注文。その一つを、付き添ってもらったお礼としてカコリナにプレゼントしていた。
かくして三人はショッピングモールを出ると来た道を戻った。すると、それほど行かないうちにカコリナが、
「またねイク、楽しかったわ。あと、お土産ありがとう」と別れを切り出した。
そんなカコリナに、お人好しで、頼まれて嫌と言えなかったイクは思い出したように「あ、そうそう」と言い添えた。
「ねえカコ、あんたに頼まれた仕事の件なんだけれど。その人、三十代の独身女性でさ、いつも忙しいみたいなんだ。今も海外へ仕事で出掛けていてさ、不在なのよ。それでなんだけれど、あと十日ほど待ってくれない? そしたらあたしの携帯へ連絡をちょうだい。それまでに何とか頼んでみるから」
その途端、カコリナは目を輝かせ、「ほんと、嬉しいわ。感謝するわイク」と礼を言うと、バイバイと手を振って、この上ない笑顔で帰って行った。
そんな風にしてカコリナと分かれたイクは、おそらく自宅に帰っているだろう父親のダイスあてに、
『今、ビルドルース地区にエリさんと一緒に来ていて、そこのショッピングモールで買い物が終わったところで、これからお土産を持って帰ります。それで、できたら夕食を食べずに待っていて下さい』といった連絡を携帯で行うと、エリシオーネに晴れやかな笑顔を向けて言った。
「エリさん。あたし等も帰りましょうか」
「そうですね」エリシオーネはにっこり笑って頷いた。
ふたりはさっそく帰りを急いだ。その頃には夜の七時をとうに過ぎていた。
――あ、もうこんな時間? 急がないと遅くなっちゃうわ。
二人はやってきたバス停へと向かった。
ところが本道は、繁華街が隣接する関係で大勢の人々でごったかえしていた。イクは携帯の道案内アプリを使ってバス停までの最短ルートをすばやく調べ上げると、それに沿って本道の脇道へとエリシオーネと入った。脇道は建物と建物の狭間を通る路地で、本道よりも明らかに狭くて薄暗い上にほとんど人通りがなかった。それでもバス停まで早く辿り着けるというのなら、まあ良いかというところだった。
ところがその判断はそれほど良くなかったらしく。入り組んだ路地の角から、どこでも走っていそうな宅配業者の小型トラックが一台、いきなり姿を現すと徐行運転をしながら二人の後を付け始めた。
トラックは、完全に人通りが絶えているのを確認すると、急にスピードを上げて二人のちょうど傍に横付けして止まり、後ろの荷台からグレーの作業着姿の若い男が四人降りてきた。
しかも彼等の手には、スタンガンや麻酔スプレー缶や麻袋や手錠やガムテープといった誘拐道具一式が握られていた。
彼等は、常習的に婦女子の誘拐拉致や人身売買や、密輸や薬物売買や売春や武器密売といった犯罪活動の協力者にしたてる組織の人間であった。要するに人気のない夜の物騒な裏通りを歩く二人に狙いを定めたのだ。
だがしかし、魔の悪いことにイクとエリシオーネがターゲットだったことが災いしていた。即ち彼女等にかかっては、飛んで火にいる夏の虫といったところだった。
「こいつ等、何よ。何なのよ」「あなた方、何をするつもりです?」
男達が危害を及ぼす直前に不穏な空気に気付いたイクとエリシオーネは、もう手慣れたもので襲い掛かって来た彼等に向かってコンビネーションよろしく、反射的に蹴りや平手打ちや手首をひねり上げたりして地面に倒していた。
それに驚いて、仲間を救出するために車の運転席からハンドガンを手に持って出てきた二人の男達も同様だった。手を触れることなしに気絶させたり動けなくしていた。まさにあっという間の出来事だった。
その後エリシオーネは、一息ついたイクが「普段のエリさんは虫も殺さないくらいの大人しそうな顔をしているのに、いざとなったら、あたしが舌を巻くくらいに頼もしくって頼りがいがあるのよねぇ」と心の中で思いながら見ている前で、男達が持っていた所持品などから彼等を悪い人間と認識すると、そのあとの始末を、彼女を守護する聖霊に一任していた。
たちまち空中に直径が十フィートぐらいありそうなリング状のものが現れたかと思うと、その内部から数十本の青白く光る細長い手のようなものが伸びてきて、倒れて気を失ったり動けなくなっていた男達をリングの中へ連れ込んで消えていった。
最初見たときは一体何が起こったのかイクには理解が追い付かなかったが、今では見慣れた光景であった。別に命を取るわけでもないし。誰にも迷惑かけないところで、ちょっと隔離するだけだからと何とも思っていなかった。
――痛めつけてそのまま見逃してやっても改心するとは思えないし。とはいって、警察沙汰にすると面倒なことになるからこれが最前よ。
男達はどこか知らない遠方の彼方へ送られていくということであった。そのことについて、イクは同じことを何度か目の当たりにしたあと、エリシオーネに「エリさん、はっきり言って、どこへ送られるんですか?」と聞いた覚えがあった。
すると、返ってきた答えがこうだった。
「全て聖霊さんが行うことなので私は良く知らないのですが、一度だけ頼んでその場所へ連れて行って貰ったことがあります。そこはそれほど劣悪な環境のところではありませんでした。比較的温暖で目の前には雄大な大自然が遥か彼方まで拡がり、川や沢や滝もあって、鳥や獣や魚や虫たちもあまた見られました。彼等はその中で自然と同化した姿で自給自足の生活を集団で送っておりました」
先に向こうに行ってる人達とサバイバル生活でもして仲良くやったら良いわ。多少は不便があっても、食べ物にも飲み水にも困らないらしいし。しょうもない生活を送って無意味な人生を終えるより、見知らぬ土地で誰にも迷惑を掛けずに死んだ気になって人生をやり直しても面白いかもよ。
それにしても、たまに都会に出るとどうしてかわかんないけれど、こんなことがいつも起こるから不思議よね。あたしが住んでいるところでは滅多にないことなんだけれど。でもまあ全然大したことじゃないわ。そんなことをイクは能天気に思いながらエリシオーネとともにバス停に辿り着くと、何事もなかったかのように家路に着いていた。
その頃には、時刻は夜の九時をとうに過ぎて、もう少しで十時になろうとしていた。
道路に面していた自宅の玄関横の外灯に照らされて、白のワンボックスカーが一台止まっているのを確認したイクが、
「父さん、大人しくして待っているかな? お腹が減って先に食べてしまっていたりしてね」
そうエリシオーネにささやき、二人がにこやかに笑いながら、玄関のドアを開けて中に入って行くと、果たして一番奥の部屋だけ灯りがついていた。
二人がその部屋まで進んでいくと、すぐ手前に置かれた三人掛けソファの中央に腰掛けたダイスが背もたれに両腕を広げて載せた状態で、目を閉じてうたた寝をしていた。そして寝息がかすかに聞こえていた。傍のサイドテーブル上には、ダイスの携帯と蓋が空いた缶ビールが無造作に置かれてあった。
それらのことから考えて、仕事から帰って直ぐに、いつもの習慣でビールを一杯やって良い気分で寝入ったらしかった。
「父さんたら、もう……」
これみよがしにイクが、もう一方の空いたソファに荷物を下ろすと、その気配に気づいたのかダイスが目を覚ましたらしく。薄目を開けて体を起こし、呟くように言ってきた。
「戻って来たようだな」
それにイクが「うん」と、さらっと返事を返すと、エリシオーネも続いた。「ただいま戻りました」
そしてイクが、
「父さん、お土産買ってきたから一緒に食べよう。まだ何も食べてないんでしょ」
そう気軽に言うと、にやけた顔でテイクアウトの品が入った包みだけを持って奥のダイニングテーブルへ向かった。エリシオーネもにっこり笑うと追随した。イクの進言にダイスは、
「じゃあ、そうさせて貰うとするかな」
そう呟くと、ソファからゆっくり腰を上げのろのろと最後に続いた。
ダイスがテーブルに着く前に、イクは紙製のケースの蓋をさっさと開けると、大きさはそれほどでもなかったが、かなりなボリューム感があって真っ赤な色味が鮮やかなタルトピザが、付属のポテトフライとともに中から姿を現した。しかもピザは予め八等分にカットされていて手でつまんで食べられるようになっていた。
――さてと、やりますか。
イクは自信たっぷりに、すっかり冷めてしまっていたピザの上に両手をかざした。ホーリーが冷凍ピザを温めた方法を見よう見まねで模倣したまでのことで。たちまちピザと隣のポテトから湯気が仄かに立ち上り、焼けたチーズとサラダオイルとポテトが入り混じった良い香りがほんのりと漂う。
――えへん、どんなものよ。これくらいはできるのよ、あたしだって。
イクはしたり顔をした。
その合い間に、すぐ近くにあった冷蔵庫から缶ビールとビンコーラを取り出して持ってきたエリシオーネがそれを見てにっこり微笑みかけるとささやいた。
「すごーく美味しそうですね」
そして最後に小皿を三枚用意してテーブル上に並べて夕食の準備を整えたところで、イクとエリシオーネが満足そうにテーブル席に揃って着くと、やがて遅れてやって来たダイスが、どっこいしょと相向かいの席に着いた。
「ねえ父さん。おいしそうでしょ」
イクは微笑むとそれとなくダイスに尋ねた。
「あゝ、そうだな」
ダイスは小さく頷くと、先ずは自分の傍に置かれた缶ビールの蓋を開け、一口飲んで舌鼓を打った。そして呟いた。
「それじゃあ頂くとするかな!」
ダイスのその言葉で各々が目の前の小皿の上にピザとフライドポテトを適当に素手で取り、遅めながら和やかな夕食が始まった。
「あのね、父さん」
食事をしながらイクは、今日一日の出来事をあっけらかんとダイスに話した。もちろん、帰りに出くわした男達と男達に対するエリシオーネの行為は絶対の秘密として一言も話さなかったが。それからクリスタルを手に入れたことも内緒にしていた。もしも当たった場合に驚かせてやろうと思って。
一方、ダイスはというと、あゝそうかと淡々と受け止めながら、むしろ、自分の至らなさを痛感していた。
イクめ、外へ出ていくのに安物ばかり着て行くのに気恥ずかしくなったのだろうな。すると娘も、とうとう周りの目を気にする年頃になったということか。ということは、ひょっとして好きな男ができたとか……。
まあ、イクが自分で稼いだ金でやっていることだし、幾ら使おうと、この俺から文句は言えない。
カコリナって子は良い子みたいだし。それから言って、悪い友人と付き合っていないようだな。それにパトリシアさんに妹さんの面倒を見て欲しいと頼まれたのを、イクが十分俺の代わりにやっていてくれているみたいだし。この分だと上手く行けてるようだ。今のところは何も問題はないみたいだな。
それから一時間ほどして夕食と後片付けが終わり、各自が順番にバスルームでシャワーを浴びたり、パジャマに着替えたり、歯を磨いたり、テレビや携帯からその日のニュースや明日の天気をチェックしたりして寝支度を整えると、それぞれが二階にあった自身の寝室へ向かった。
ところでイクの寝室は、比較的狭い空間の中に衣服を掛けるハンガーラックとセミダブルベッドが置いてあるだけで余計な飾りや家具は一切なかった。女の子の部屋にしてはいかにも簡素で、まさに眠るためだけの部屋といって良かった。そのような物がなくてすっきりした部屋に直行すると、普段ならもはや何もすることがないからとしてそのままベッドに入り、あっという間に爆睡していたイクであったが、今夜に限っては少し違っていた。
――さてと準備をしますか。
イクは薄気味悪い笑みを浮かべると、ベッドの上であぐら座りをしてパジャマのポケットから手のひらサイズのペンダントケースを二個取り出し、ケースを開けて中に入っていた、シルバーチェーンに真珠ぐらいの大きさと形状をする透明なクリスタルが一個付いたペンダントを首にかけ、別に神の存在を信じていたわけではなかったが目を閉じ手を合わせて祈った。
「ええと、運命の女神様。もしもいたのなら、どうか当たっていますようにお願いします。これはあたしと父さんが、この先何不自由なく生活していけるかどうかがかかってるんです。どうかお願いします」
その後、一分間ほど、手を合わせたまま何も考えずに集中していた。それが終わると、すっきりしたのかやがて寝に付いていた。これくらいやればたぶん十分よと思って。
結局、その夜は夢一つ見ずにぐっすり眠っていた。そして朝になって目覚めたとき、起き上がって首にかけた二個のクリスタルを直に手に取り確認した。しかしやはりというか、二個とも全く変化はなかった。透明なままであった。
――それもそうよね。取扱説明書によると、五日間かけてじっくり色が変わって行くとかいうもの。やっぱり一日じゃあ無理みたい。
それ以来イクは、毎朝起きたときにクリスタルの色が変わっているかどうか、胸をときめかせながら確かめた。それを秘密の楽しみにしていた。しかしながら全然変化は見られなかった。状況は変わらなかった。既定の五日がきたときも同様であった。
――どうして変わらないんだろう?
イクは首をひねると思った。また運に見放されたのかな。
諦めきれなかったイクは、もうこうなったら最後の手段よとばかりにチェーンに付いた真珠ぐらいの小さなガラス玉をぎゅっと強く握ったり、振ったり、指で摩擦したり、息を吹きかけてみたりもした。もしかして振ったり暖めたり刺激すると変化するかもと思って。
だが現実は無常と言って良かった。今回もハズレを引いたらしく、二個ともやはり全く変わりがなかった。無色透明のままであった。
――当たる確率は倍になったと期待を持っていたのに。損しちゃったわ。
しかし、まだ諦めきれなかったイクは、万が一ということもあるしと、次の日もまた次の日も何かの間違いであって欲しいと祈るような気持ちで確認を続けた。
けれども結果は変わることはなかった。
そうして十日目の朝を迎えても、全然変化がうかがえないことが分かった時、さすがに諦めざるを得ず。イクは依然と変化のないガラス玉を薄笑いを浮かべて眺めながら、やり切れない思いで宙を仰いだ。
――やっぱりダメってこと! もはやこれまでみたいね。あゝがっかり。嫌になっちゃうわ。
そのとき一年前のことが思い出された。
あのときはダメもとでドライヤーで暖めてみたり、お湯が入ったマグカップの中に一日中入れて置いたりもしたっけ。だけど全然何もなかったので、腹が立ったからガラス玉をトンカチで叩いて割ってやったんだっけ。だけど、出て来たのは臭いのない灰色の煙だけで、何も仕掛けが無かったのよね。
「あゝ、もう。しょうがないわねえ」
イクは自嘲めいた笑いを浮かべるとひとり言を呟いた。
「あたしっていつでも運が無いとか何をやっても上手くいかないのよね」
日頃の不満が思わず口をついて出ていた。それからイクは一つ大きく深呼吸をすると、
「でもエリさんもカコも父さんも、みんな喜んでくれたし。まあ良いか。どうせ、これっておまけみたいなものだから」そう言って気を紛らわせた。
だがそうは言っても、それまで頭の中に描いていた希望が虚しく消えたのだから悔しくない筈はなく。その日イクは気持ちがもやもやして、何をするにもおっくうだった。やる気がしなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます