第88話

 そのときエルミテレスと称する老人とレクターと称する若者のふたりは、なぜか現れなかった。

 違う車両で帰るのか、それともまだ用事があって帰れないのかそれは定かでなかったが、それはそれで別に構わなかった、別に何とも思っていなかったホーリーとイクは、その分ゆっくりすることができるわと気を緩めていた。

 例のひげ面の男が運転手をするパールホワイト色をした八人乗りの大型バンに、行きのときと全く同じ格好(もちろんホーリーはメガネを掛けていた)になった二人が、何事もなかったかのように乗り込むと、車はその場からUターンして、来た道を戻った。


 これといった目新しいものは何も見当たらない単調な景色が見渡す限り続き、間もなくしてホーリーは静かに切れ長の目を閉じて動かなくなっていた。心地良さそうにゆったりと寝息が聴こえていたことから熟睡しているようだった。

 そういうイクも、昨夜一睡もしていなかった関係で、本部まで到着するまでの間、彼女の隣でぐっすり眠っていた。

 その為、隣から「イクさん、起きて。起きてちょうだい。着いたみたいよ」とホーリーが呼び掛ける声がしたとき、イクは眠ってほんの五分くらいしか経っていないような不思議な感覚にとらわれた。

 ――もう着いたのかな?

 半分眠ったぼんやりした頭でホーリーの方をうかがうと、彼女はイクの反応を見るまでもなく、「ありがとう」と悪党面をする運転手の男に形式的な礼を言い、何食わぬ顔でさっさと車を下りていった。

 いつもながらスタイル抜群でさっそうとしていてほれぼれするくらいの風格を漂わせていた。そんな彼女の後ろ姿に向かって、イクは二つの眼を目一杯見開き、


「あ、はい、行きます」と元気良く返すや、遅れないようにその後へ付いていった。


 二人は誰もいなかった薄暗い地下の駐車場から施設の中に入ると、建物内で迷子にならないようにと初老の男から渡された建物内の道案内機能が付いたカードを使って、荷物が置いたままになっていた部屋へと舞い戻った。昼過ぎになっていた。

 途中、就業時間であったこともあり、誰とも出会わなかった。通り道にあったラウンジの側を通ったときも、クラッシック音楽が心なしか流れていたが、大きな窓の向こう側に全く人影がなかった。昼間より明るい通路には二人の靴音だけが小気味良く聞こえていた。


 ふたりは部屋の前で一旦立ち止まると、先にホーリーが錠のかかっていないドアを開けて、部屋の中を用心深く一べつ。何も変化がないことを確認してから一足先に中に入った。

 後からイクが続くと、ホーリーは手前に見えたソファにすぐさま腰を下ろして、にこやかな表情で言った。


「すっかりお腹が減っちゃったわ。先に食事と行きましょうか」


「あのう、食事のメニューは何にしますか?」


「そうね、ハンバーガー、ピザ、ピザと続いたから順番から言ってハンバーガーで良いんじゃない。そう二個ずつね。一区切りついたから一個じゃ物足りないでしょ」


「はい」イクは正直に首を縦に振ると訊いた。「ポテトはどうします?」


「そうね、適当で良いわ」


「お酒は?」


「今はいらないわ」


「はい」


 そんなやり取りをしてイクは食料が保管してある冷蔵庫ヘ向かった。

 それから一時間も経った頃には、二人ともコップに満たしたお酒ならぬミネラルウオーターで食事を締めくくっていた。

 その後はお決まりのコースで。当たり前のようにイクがテーブルに載った食事の後片付けをさっさと済ましている間に、ホーリーが「お先に行くわね」と言うとユニットバスルームへと直行。しばらくしてバスローブ姿で出てくると、備え付けのドライヤーで、濡れた髪を乾かし始めた。

 入れ違いにイクも「それじゃあ、次行かせて貰います」と伝えるとバスルームへと入り、汗とホコリを熱湯シャワーで流し落としてから体をタオルで拭いてバスローブへと着替え、それから同じように髪を乾かしてベッドに入っていた。もちろん用心することに越したことがないとして部屋を明るくしたまま就寝していた。

 それからどれくらい時が過ぎたのか分からなかった。不意にしなやかな声が部屋内に響いた。


「起きて、イクさん」


 良く通るその声にイクはベッドに横たわったまま目を開けると、きょろきょろと辺りを見渡した。すると、ドレッサーの前で、肩の下の方まで伸びたプラチナブロンドの髪をドライヤーで乾かしながらヘアブラシで髪をとかしているホーリーの後ろ姿があった。

 これって、もしかして、もう朝ってこと!? まだ頭がぼーっとする状態でイクがそう思ったとき、


「起きたようね」振り返らずにホーリーが呟いて言ってきた。「あなたも浴びていらっしゃい。気分がすっきりするわよ」


「あ、はい」反射的に応えてイクはベッドから起き上がると、ちょうど向かい側のキャビネットの上に載ったデジタル式の置時計が午後の九時五十分を表示しているのがそれとなく目に入った。

 ――なーんだ、まだ朝じゃなかったんだ。ふーん、そうすると今夜にでも帰るのかな? 

 そう単純に考えたイクは着替えを捜して手に持つと、


「それでは失礼します」と言いながらホーリーの後ろを小走りで通りバスルームへと向かった。

 ところが、それほど焦ったわけでもなかったのに、ホーリーの真後ろまでやって来たとき、不意に足を滑らせて転びそうになっていた。

 そのとき、両手をつっかい棒にして、すんでのところで前のめりにはいつくばる不格好な姿を晒すのはどうにかこうにか防いでいたが、それでも四つん這いの格好で両膝をフロアに打ち付けていた。

 ――おっとと、危ないところよ。

 イクは思いがけず転びそうになった気まずさから舌をペロッと出してばつが悪そうに照れ笑いをすると、その様子を鏡を通してホーリーに見られたとも知らずに、何事もなかったかのように直ぐに立ち上がり、バスルームへと向かった。 

 果たして、そそっかしい娘ねとホーリーが呆れたようにクスリと笑っていた。


 そんなことがあってからおよそ二十分が経った頃、もう間もなくここを去るとあって、やってきたときと全く同じレザーコート姿になったイクは、同じく着替えてトレンチコート姿となったホーリーの相向かいのソファ席に、すました顔で腰掛けていた。

 イクのすぐ横には、持ってきた荷物をひとまとめにして詰めたボストンバッグとイクの私物のデイバッグが置いてあり。そのときホーリーはホーリーで、静かに目を閉じて背もたれに広げた手を置いてリラックスしているようだったことから、きっと、あの運転手がやって来るのを待っているんだわ、とイクは信じて疑わなかった。

 そして置時計の表示が午後の十一時になろうとした頃。ドアをトントンとノックする物音がした。

 その音に一瞬イクの目が輝いた。いよいよだわ。お迎えが来たみたい。

 続いてドアの向こう側から呼びかける声がした。


 「いらっしゃいますか!」


 その声がはからずも女性の声であったことに、予想が見事に外れたイクは思わずきょとんとした。一体どういうことよ、分かんないわ。もしかして運転手が違う人に代わったのかな?

 その間に、テーブルに置いていた黒縁のメガネを掛けたホーリーと外の人物とで、「どうぞ入って下さい。鍵は開いていますから」「はい、それでは」といった簡単なやり取りがなされると、ドアが音もなくスライドして、一人の中年女性が入って来た。白い防護服に身を包んだその姿格好と雰囲気から昨日の昼に施設内を案内してくれた、施設の製造部副部長のマーシャ・キートンに違いなく。イクは呆気にとられると、思わず女性を二度見した。えっ? 何でこの人がというのが率直な印象だった。

 女性は入ってくるなり、ホーリーの方を一べつすると、


「余程お気に召されたようですね」


 そう言って言い足した。「それでは参りましょう。お客様、私の後へ付いてきて下さい。ご案内致します」


 即座にホーリーが「ありがとう。それじゃあお願いしますわね」と返すと、「それでは」と女性は踵を返して通路の方向へ歩いて行った。

 ホーリーはしたり顔で「あのとき時間がなかった関係で、十分見て回ることができなかったでしょ。今度は時間を気にせずに見て回ることができると思ってね。お願いしたわけ」とイクに向かって伝えると、その後ろ姿を追うようにソファから腰を上げ、時をおかずに部屋を出ていった。何のことやら分からなかったが、置いてきぼりはいやよとイクも二人に遅れないように続いて部屋を出た。嘘っ!? 信じられない。なぜ、またあの薄暗いところへ入るの。訳がわかんないわと思いながら。

 その内、女性とホーリーの二人は通路を並んで歩いていた。


「新規に取り引きをご希望とか。それも個人でなくて法人として」


「ええ、いかにも。その前にそちらの品質管理を見ておこうと思いましてね。実は私自身が使う立場なものですから。実際に購入したわ、不良品であったわ、あっという間に死亡では、この先思いやられますから」


「それはごもっともで重要なことです。それでいかなる品物を見るおつもりで?」


「そうですわね……。その方はまだ決めていません。行き当たりばったりで決めようかと思っています」


「そうですか」


「ところで、少しお聞きしたいのだけど、こちらでは実際に性能テストを体験させて貰うことができるのかしら?」


「ええ。時と場合に拠りますが」


「ああ、そう」


「それはそうと、また同じメニューで宜しいですか?」


「それはちょっと。あくまで製品がどのようにして出来ていくのか見てみたいのでね」


「すると、植物と鉱石の現場は省いても……」


「ええ、もちろん構いません」


「分かりました。そういうことでしたら順番が昨日とは逆になりますが宜しいでしょうか?」


「と言いますと?」


「仕分け出荷配送の工程は何分と夜が明けた頃からが忙しくなるものでして。その前に手っ取り早く案内しようかと思いまして」


「それはあなたのお好きなようにして貰って構わないわ」


「そうですか。では私に付いて来て下さい」


 そういった会話をかわしながら歩くふたりの後ろをイクは首を傾げながら続いた。何を言っているのかさっぱり分かんないわ。

 そうするうちにエレベーターを使い、一つ上の階の、昨日窓ガラス越しから見るだけに終わった仕分けと配送と倉庫のエリアに到着。さっそく入口の扉を開けて内部に足を踏み入れると、異様に明るいところから薄暗いところへ来た関係で、当然ながら暗さに目が慣れるまで少し時間がかかった。しかし一旦目が慣れてしまうと、二階半くらいの高さがあった天井の下に広がっていた広い構内の様子が普通に分かった。

 奥の方に十数台のトラックやコンテナトレーラーがずらりと並んで止まり、そこから少し行ったところに、同じくらいの数のフォークリフトが一列に並んで止められていた。そして近くには中身が入った段ボール箱や木箱や袋が一まとめにされて透明フィルムで固定されパレットの上に載せられてあった。

 また目の前に見えた、自動的に出てくる品物を行き先別に仕分けする大がかりなラインベルトソーターの機械装置が停止した状態にあり、ベルト上には中身が入った段ボール箱やカラフルな色合いをする合繊の袋が載ったままで放置されていた。

 その傍には運搬電動車、各種台車が何台も装置に横付けされて止められていた。

 そして作業を中止しているのか、図ったように人影はなく。辺りはシーンと静まり返っていた。

 女性の説明によると、「現場にもよりますが、ここは切りの良いところで休憩をすることになっています。一度動き出すと作業は止めることができませんからね」ということだった。


「上手い具合に今休憩中のようです。休憩が終わって忙しくならない内に急いで案内します。付いて来て下さい」

 女性はそう告げると、構内を案内して回った。

 そのときホーリーは倉庫内の在庫について余程関心があったと見えて、何度も女性に質問を繰り返して説明を求めた。だがその本心は、巧妙に論点をずらして訊いたまでのことだった。

 実際のところ、それを通じてどの方面にどのような物資が配送されて行くのかを知り、それを手掛かりとして取引先を推定し、それをきっかけとして自身が知らない知識や、魔法アイテムの流行りや全体の流れといった裏側の情報を得ようとしたのだった。

 だが、このような場所でバイトをして体験した感想ぐらいしかなかったイクは、ホーリーがそのような複雑なかけ引きを行っていたとは全く知る由もなく。そのため、その間ずっと退屈でしかたがなかった。そのせいだったか知らないが、過去の嫌な思い出が思い出したくもないのに次々と蘇っていた。

 こんな広いところだと、何をどうして良いのか困るのよね。特に初めてだと。

 そう言えばあのとき、誰も仕事を教えてくれなくって。どうして良いか分からなくって周りに聞いて回っていたら、ベテランの人に口を動かす前に手を動かせと怒られるし。それで何も分かんないのに忙しく動き回って仕事をしている振りをして誤魔化していたっけ。

 見て覚えろという意味なんだと後になって分かったけれど、それにしてもどこの職場でも新入りには不親切過ぎるのよ。

 細かい作業をする派遣バイトをしていて、何度も失敗して凄く怒られたことがあって。

 あのとき、よせば良いのに、あたしったらセキカに人前で能力を見せてはいけないと言われてた事をつい忘れて常識外の能力を見せて馬鹿みたいに自慢したら、他のみんなから化け物みたいだとからかわれ、目立ってしまったのがケチのつき始めで。体が小さいにもかかわらず、以外に力仕事が向いていると、あたし一人だけ重い物を扱う男子だけのグループに放り込まれて、その日からバイトが終了するまで毎日くたくたになるまで力仕事ばかりやらされ、こき使われたんだっけ。

 いかつい男子達の中であたしだけが唯一の女子であったなんて、あんな格好悪かったのはもうこりごりよ。二度と御免だわ。

 唯一の救いはアルバイト代に上乗せがあったのと、アクの強いおじさん達と仲良く慣れたことぐらいかな。


 そうして三人が四十分近くそこで滞在していた頃。

 ふと気が付くと、一時休憩が終了したのかいつの間にか機械装置の電源が入り作動しており、品物のピッキングや積み込みや積み下ろしなどで作業員がぞろぞろと姿を現して、辺りがほどなく騒がしくなっていた。

 そのことに、このまま留まったのでは作業の邪魔になるからと三人は気を利かせると、そっとそこを切り上げ、下の階へ向かった。

 次いで製造エリアに入ると、先ほどと違い内部は比較的明るかった。中では作業員が三人には目もくれずに機械を操作したり与えられた仕事に集中していた。

 女性は昨日とは違う経路を選択して巡りながら、


「真空にした内部には基材となる品物が入っています。魔石と魔性植物から取り出した成分の混合物が気体となってそこに詰められています」


「人の魔力を用いて、もともと安定な魔石の魔力エネルギーを励起状態へともっていく工程です。ああやって融合合成反応させます」


「プラズマ方式の溶融炉です。最大百万度まで温度を上げることができます。この中で材料を溶かしたり混ぜ合わせたりします」


「アルデタイプの高分子電解炉です。チャンバー内では細かい部品の接合や切断を行っています」


「同じく放電プラズマを使った焼結装置です。ここで成形を行います」


「コーティング装置の数々です。耐熱とか耐水だとか耐衝撃とかいった色々な付加価値をつけるところです。今、ヘーマイト処理を施しているところです」


「ここでは放射線を吸収して無効化する繊維を製造しています。この技術を表の社会へ持ち込めば世紀の大発見なのでしょうが、使われている素材がまだ世の中で知られていない未知なものであることや物理法則や数学の論理が通じないノウハウが問題で残念ながらそれができません」


「目に見えない光やエネルギーの流れやその軌跡を可視化する装置です。工程上で品物の簡単な検査をするために使っています」


「魔石と魔性植物による人への空気汚染を予防する装置です。その横にあるのはそれでも汚染された場合に用いるメルロノール液です。私共のところで独自にブレンドしています。

 良い製品を造ろうとしますと、細部までこだわりませんとできません。しかしそれによって製造者が汚染されてしまいますと元も子もなくなりますので」


「メーカーや取次店から預かった品をメンテナンスしたり修理したりする作業場です」


 と言ったような丁寧な説明をしていった。

 その間ホーリーは興味深そうに耳を傾けていた。ところが、そのちょっと後ろで立って聞いていたイクにとっては何もかもがさっぱりでチンプンカンプンだった。

 それが何の問題もなく終った後、女性の執務室内で雑談をして一時間ほどの休憩を取り、いよいよホーリーが希望した品質管理と技術開発のエリアへと向かった。

 その場所は製造エリアの隣にあって、昨日女性が案内を拒んだところで、今回は特別に出入の許可が出ていた。


「こちらです、入りましょう」と女性に言われるまま、厳重に締め切られたスチール製のドアを開けて内部へ向かうと、巨大な機械設備や色々な検査装置がずらりと並んだ中で作業をする十名前後の男女のスタッフが目に入った。

 ワイシャツやフリルが付いたブラウスの上から白衣風の外衣を軽く羽織って作業をしていた男女は何も聞かされていなかったと見えて、浮かない表情や冷ややかな眼差しで三人を出迎えた。

 しかしその場で女性が事情を説明すると、彼等は何の異論も差し挟まずに、分かりましたと受け入れ。更に金縁のメガネを掛けた面長の中年男のスタッフが前に進み出て、学者風の理知的な柔らかい口調で、私はこの部署の総括を任されております者ですがと自己紹介すると、中の様子を詳しく話した。

 それによると、そこでは製品や半製品や試作品を検査したり検品をしているということで。 実際にブーメラン、ガントレット、三節棍、腕カバー、木刀、指輪といった数点の魔法アイテムが堅牢性や性能や品質をそのときテストしていた。

 そこへ加えて中年男は、ずらりと並んだ計器や装置類を指で示しては、どのような検査を行っているのか、身振り手振りを交えながら具体的に解説した。

 それに対してホーリーは、その解説の内容が余りにも常識のレベルから超越していたというか専門的過ぎたため、苦笑いを浮かべて聞いていた。イクはというと、勝手が分からなかったので、その間、分かったような分からないような表情で聞いていた。

 男は我が物顔で粗方解説をし終わると、


「ああ、そうそう。別室で、実際に魔法アイテムを使って性能テストをしておりますが御覧になりますか?」 


 そう言った男の申し入れに、ホーリーは微笑を浮かべて快く同意していた。


「はい、見せて頂けるなら」                   


「それではご案内しますので、私に付いて来て下さい」中年男はさらっと告げると、アシスタントらしい二人の若い男のスタッフを引き連れ、両側に装置機械類が並んだ通路をゆっくり歩いて行った。

 その後へ三人も続くと、通路の突き当りに見えた、上部の壁に『使用中』と赤いサインランプが点灯する通常の二倍くらいの大きさがあった扉の前で立ち止まり、扉の中央部に付いた金属製の丸いハンドルを女性のような白くてほっそりした長い手で軽く数回回す仕草をした。

 すると間もなくして、四インチぐらいの厚みがあった扉がゆっくり手前の方へ開いて広い空間が出現した。

 ぞろぞろと六名が列をなして中へと進み作業の邪魔にならない程度のところで立ち止まると、窓も扉もない四方がシルバー色の壁で包まれた密閉空間の遥か前方には、折れ曲がった太い鉄骨や木っ端微塵に破壊されたコンクリートの破片が周りに散乱しており。その付近で五名のスタッフが黙々と検証作業や片付け作業をこなしていた。その中にはパワードスーツに身を包んだ者もいて、いずれも防音ヘッドホン、フィルターメガネ、フィルターマスク、耐熱グローブをはめていた。

 また広い室内の片側には、スチール製の板や材木や人の背丈ほどもある巨大なスピーカーや大小のマネキン人形やソーラーパネルや巨大な音叉や巨大なミラーといった数々の治具が。もう片側にはレーザー光線発生装置や距離計測器や出力可変機といった試験機の類が固めて置かれていた。

 その光景にホーリーとイクは思わず目を見張った。

 ――まあ、大がかりなこと。一体何をしたのかしら。

 ――これって、何なのよ!?

 そんな二人へ、絶妙なタイミングで前にいた中年男が振り返ってくると、


「状況から見て、たった今しがた、一つの実証試験が終ったみたいです。

 今日の予定では、魔力量及びエスパー値を数値に換算して表示してくれる機能を新しく付け加えたブレスレット及びプロテクトスーツ(防護服)と短時間横になるだけで体の不調の原因の発見と将来やって来る病気の予想をしてくれる医療用ベッドマットレスと新作の魔法の杖と試作品のバルーンタイプのバースト弾の実証試験を行うことになっておりまして。

 おそらくこの状況から言って、バルーンタイプのバースト弾の試験を先にやったのだと思われます」


 そう話した男に、ホーリーは軽く頷いた。


「あゝ、なるほど。そういうことでしたか」 


 その斜め後ろにいたイクもホーリーに合わせるように首を縦に振った。


「……」


 すると男は、四、五階分くらいは優にありそうだった高い天井の辺りを指さして得意げに話した。 


「何も対策をしないままでやると、この部屋どころか建物自体も破壊される恐れがありますので、内部は結晶ブロック構造を構築しております。更に電場、磁場、結界場といった目に見えない人工場を作って魔法アイテムの威力を抑えるようになっております。ですからどのような実証試験もここでは可能になっております」


「あらっ、そうですの」


 わざと感心したように頷いたホーリーに、男はにこやかに笑うと振り返って前方を一べつ。状況を確認すると言ってきた。


「片付けが終わりましたらどうです、実際にやってみませんか? あとの試験は全然危なくありませんから」


「そうですわねぇ……」


 手を後ろで組み、思案するように首を傾け曖昧に応えたホーリーに、男は「そうですか。分かりました」と勝手に判断すると、側で付き従っていた二人の若い男のアシスタントの一人に指で指図する仕草をしながら、彼の耳元に何ごとかささやいた。

 若い男はすぐさま「はい、かしこまりました」と丁寧な返事を返すと、もう一人と共に物陰の方へ歩いていき、間もなくしてゴールドに輝くブレスレットとマリンスポーツで着用するウエットスーツに見た目がそっくりなグレー系の色目をしたプロテクトスーツ(防護服)とコンパクトに三つに折り畳まれたマットレスとメタル製の杖が載ったステンレス製のワゴン台車を二人で押して戻って来た。


「ここへ来た良い思い出になるだろうと、今思いついたことなのですが、これら四点の魔法アイテムを私を含めてあなた方三名とで試験したいと思います。

 なーに、 別に難しい事はありません。担当の指示に従って貰えばそれで良いだけのことですから実に簡単なことです」


 男はにこにこして目尻を下げると、尚も続けた。


「ではさっそく、誰がどのアイテムを担当するかを決めたいと思います。くじ引きなどはどうでしょう?」


 そう言って何かを捜すように辺りをきょろきょろと見渡した。

 そんなとき、ホーリーとイクを案内して来た中年女性がいらだった声で、そこへ横から口を挟んだ。


「ねえ、これはどういうこと!!」

 

 男が勝手に進行したことに女性が不満を爆発させて苦言を呈したのだ。しかしながら、


「言ったろう、ここへ来たから楽しんで帰って貰おうと思ってね」


 平然とした顔で女性に言い訳した男に、女性はマスク越しに不機嫌そうな表情を露骨に見せると、


「私、別にそんなこと望んでなくてよ。あなたがさっさとやって見せればそれで済む話じゃなくて」


 そう言って血走った目で男をにらんだ。その様子に、


「でもそれではつまらないだろう」


 男はさも困ったという風にぼそりと呟くと、相も変わらず顔を引きつらせて不満げな表情を見せる女性の傍へ歩いていき、声を潜めるようにして彼女の耳元に何事かぼそぼそとささやいた。

 途端にわだかまりが解けたらしく、女性はマスク越しにうんうんと頷いて、気恥ずかしそうに「分かったわ。それなら協力して上げる」と応えると、険しい表情が少しきりっとした表情へと和らいでいた。

 ようやく落ち着き払った元の様子に戻った女性に、男はほっとした表情で、その様子を見守っていたホーリーとイクの方に振り返ると、


「彼女も納得してくれたので進めたいと思います。

 ええと、くじ引きで決めると言いましたが、もっと良いものが見つかりました。あれで決めましょう。クロスボウです」


 丁寧な言葉遣いでそう言って男は色んな物品が置かれた部屋の片側の隅を指差した。指の先を辿ると弓の弦が付いた黒っぽいものがキャスターが付いた金属製の台の上にぽつんと置かれていた。


「骨とう好きのスタッフの一人が何かの役に立つだろうと思って、古物の露店市で買い求めて来た品で、作られてから百五十年くらい経っている上に、ずっと乱暴な扱われ方をしてきたのか、誰が撃とうが絶対に真っ直ぐに飛びません。実に癖が強い品で、昼休みにちょっとした遊びで使っているのです。

 あとは射的の標的ですが、そうですね、あれを使いましょうか。あの近くにある奴を」


 その言葉に良く見ると、台の近くに射撃の的が描かれた等身大の人型が数体並んで置かれてあった。

 さっそく男は付き添いの若いスタッフに指図すると、彼等はやったことがあるらしかった。手際よく準備を整え始めた。

 一人はクロスボウが載ったキャスター付きの台を押してやってくると、もう一人が的になる人型を手に持って運んで来た。そして、ものの数分をかけてその二つを約百フィートの距離を置いて並べた。

 その間、その様子を見守ったホーリーは冷ややかだった。切れ長の目元がどことなく上がっていた。相手の男の意図が何となく分かった気がしたからだった。

 あの感じじゃあ、本当にとっさに浮かんだみたいだけれど。でも、その手には乗らないわよ。

 上手いこと言って誤魔化しているけれど、恐らくこれは私達の能力を調べるつもりで仕掛けたワナね。

 深読みすれば、四つのうちの三つはドボン臭いわ。プロテクトスーツとブレスレットは魔力値を調べることができるというし、マットレスに至ってはもしかして体の隅々まで調べることができたりしてね。そういうことから言えば、唯一のピンポーンは魔法の杖だけみたい。


「それでは四人で、どのアイテムを試験するか決めるとしましょう」


 男は二人の準備が終るのを見計らうと、台の上に置かれたクロスボウと金属製の短い矢を手に取り説明した。


「ルールは至って簡単です。

 先ず公正を期すために各々二回試し撃ちを行い、それから三回ずつの本番を行ってその合計点でどのアイテムを試験するか順番を決めたいと思います。

 先ず言い出した私からやって見せます。あとは誰からでも結構です、続いてやってみて下さい。本当に意図した方向へは飛んでいきませんから」


 そう話すと、男は何度か使ったことがあるのか手慣れた様子でクロスボウに矢をつがえて、約百ヤード先の的の中心部を狙い射った。的の中心部は満点の十点で、五点迄数字が記されてあった。

 結果、矢は的には当たることは当たった。が、かすった程度で点数にはならずにどこかへ飛んでいった。


「ねっ、そうそう上手くはいきません」


 次いでホーリーもやってみた。が、遥かに逸れて良く似た結果となっていた。そのあとの女性もイクも結果は変わらなかった。


「本当は言いたくないのですが、これにはこつがいるんです。少し狙いを上斜め方向に向けて撃つと当たってくれます」


 すると今度は的の端側の七点の位置に刺さっていた。

 その結果を受けて男はにっこり微笑むと、


「どうです、いかがですか。皆さんもやってみて下さい」と全員に促した。


「そうですか、それじゃあやってみます」


 次いでホーリーもそれを真似ると、一番端の五点の位置に矢が刺さっていた。――なるほどね。そういうことだったの。

 そのあとに続いた女性とイクも、的には当てることができなかったものの、的に近い付近を矢が通過していた。

 そこまでは終始和やかな雰囲気で時間が経つのも忘れるほどだった。

 そして、いよいよ本番となった時、置き去りにしていた現場のスタッフ達も、後片付けが終了したのか射的を見物に集まり、注目が集まっていた。

 その中、クロスボウの癖を親切に教えてくれるなんて余程勝負に勝つ自信があることへの裏返しに違いないわと考えて、提案者の男が一番の強敵と見なしていたホーリーは、何でも一度手にすればこつを呑み込むのが早かったにもかかわらず、念には念を入れて男を陥れようと、クロスボウを身構え集中力を高めた男に向かって、


「あのう、すみません。ひとりが一度に三回するよりは一回ずつやるようにしませんこと。その方が状況の変化を楽しめて面白いとは思いませんか?」


 大人の色気が漂う猫撫で声でわざとらしく提案しては男の集中を邪魔した。それどころか、一旦手を止めて「どうかしましたか」と言い顔を上げた男に向かって、わざとメガネをはずして男の目を見つめては妖しく微笑むという演出までやっていた。

 研究職は概してハニートラップに弱いといわれるからとやったまでだったが、果たしてその効果たるや絶大で。ちゃっかり提案を呑ませると、案の定、つい頬がほころんだ男は古典的なトラップにころっと引っかかり、つい手元を狂わせてミスしていた。

 そのような具合いにして熱い戦いが終ったとき、既に一時間を軽くオーバーしていた。

 そして結果は、当然と言えば当然だったが、歩んできた場数が違うホーリーがトップとなっていた。

 そのあとに、なぜかイクが続いていた。責任をそれ程伴わないゲームはストレスを感じないから楽と全く緊張しなかったことと、空中に浮かんだ不安定な姿勢で目標を狙うという体験をしたのがどうやら役に立ったらしかった。

 また三位が男で、最下位は「クロスボウに触るのはこれが初めてよ。果たして前に飛ばせるかしら」と言っていた女性に決まっていた。

 そして試験する魔法アイテムを選ぶ段階となったとき、順位トップのホーリーはもちろん目をつけていた魔法の杖を。二位のイクは、残った三品の中でどれが良いかと迷った揚げ句に、ゴールド色に輝くブレスレットが一番いかしているように見えたことからブレスレットを。三位の男は、残った中から、パッと見た感じ、薄地でかなりな伸縮性がありそうなプロテクトスーツを選び。そこに至って、またもや不機嫌となった女性は男の元へつかつかと歩み寄っていくと、真っ先に男がスーツを選んだことに触れ、


「あなたは礼儀というものをわきまえていないようね。なぜそれを選んだのよ!」と、ごく親しい関係なのか言いたいことを言う奔放な物言いで文句を言った。

 対して男も同じような口調で「そう言ったって、決まったことだから」と応じると、女性は大変な剣幕で、付けていたマスクを取ると、声を張り上げて「何よそれ! この変態! どうして私が晒しものにならないといけないの。 私はあなたのモルモットじゃないのよ。私は嫌よ。絶対いや」などと、速射砲並みに言葉を繰り出してかたくなに拒否。

「そう切れなくたって良いじゃないか。たかが健康診断じゃないか」と男がなじると、「馬鹿、その手には乗らないわ。結果を見て、きっと私を笑うんでしょ。あなたの魂胆は見え透いているわ」と応戦。

「マーシャ、そういう魂胆はこれっぽっちも僕は持っていない。これはゲームなんだ。諦めてくれないか」

 癖なのか人差し指を立てて軽く振るポーズをしながら、そう言った男に、「それならあなたが受けなさいよ」と女性が切り返し。困った表情で男が、「そういってもだな、目新しい結果が出ないと思うので、つまらないかと思ってね。実をいうと、私を含めこの部署全員が三日前に健康診断をやったばかりなんだ」と言い訳をし。それに呆れたように女性が「ミロン、それだからあなたは空気が読めないっていうのよ。とにかくあなたは優柔不断過ぎよ。あの時のことをまだ根にもっているんでしょう!」と言い返すといった風に、ちょっとした口論となっていた。

 しかしながら、その近くにいた誰一人として仲裁に入る者はいなかった。いつものことなのか、それは分からなかったが、また始まったかという感じで、ただぼんやりと眺めて傍観を決め込んでいた。皆が皆、二人が自分たちより立場が上ということで、中に割って入り難いのだろうと思われ、自然に収束するのを待っているようだった。

 ところが、二人とは全くしがらみがなく、呆然と見ていてはさすがにまずいと感じていたホーリーとイクのうち、特にホーリーはどうすれば口論を止められるかを模索すると、あゝ、あの手があったわと一計を案じ行動に移していた。

 二人の会話を勘ぐれば、彼等の間には以前から何らかの確執があり、それが尾を引いているのが目に見えて明らかと言えたが、興味があることしか関心が向かない性分のホーリーにはどうでも良いことで。ちょうど隣に立っていたイクに向かってにっこりと笑いかけて無言のサインを送ると、彼女の貧相な背中を突き放すようにどんと押した。

 その途端にイクは勢い良く二人の直ぐそばまでふらふらと躍り出ていた。

 そのときはまだ依然として、


「決まったことだからしょうがないじゃないか。それをくつがえそうなんて意味が分からないよ」


「これだから嫌いよ、研究者は。融通が利かないへんこつ者が多くて」


「どうしても受け入れないと?」


「ええ、当り前よ」


「じゃあどうすれば良いんだ?」


「それはあなたが考えることよ!」


「そういったってなぁ。これは決まったことなんだ」


「本当にしつこいわねぇ、もうー」


「あゝ、もう。お前だけは言い出したら引かないんだからなぁ」


「当たり前でしょ。誰があなたの言うことなんか……」と言った風に、相も変わらず二人は口論していた。

 そのことにイクは、ホーリーさんが見かねてあたしに二人の口げんかを止めるようにと指示を出したんだわと理解すると、話の内容から考えてキートンさんが受け持つことになったマットレスが原因だから、それを解決すれば良いだけのことでどうってことないわと、少し恐縮した様子で二人の前に立つと、やや口ごもりながらもはっきりとした口調で、いまだに言い争いが続いていた間へ割って入った。


「あのう、ちょっとすみません」


 そう呼び掛けたイクに、二人はイクに気付いたのか言い争いを一旦やめると、にらみつけるような視線をちらっと向けて来た。

 その機を逃さずにイクは、「何でしたら、あたしが代わりますが」と口を切ると言った。


「あたしだったら何でも良いんです。あたしではだめでしょうか」


 そう言われて二人は、呆気にとられたように顔を見合わせると、怪訝に思ったのか再びイクの顔をのぞき込み、「まあ、あなたが?」「あんたが?」と口走るや、口々に言ってきた。


「本当にそれで良いの?」「それなら助かるが……」


「はい……」


 二人に向かってにっこりと笑って応えたイクに、「あゝそう」「ふーん」と、二人は穏やかにこっくりと頷くと、一先ずいさかいを収めた。それ以降二人は、先ほどのいさかいが嘘のように自分勝手な会話を慎んで元の理性的な対応ぶりを見せていた。

 それとともに実証試験の再開が始まり、先頭をホーリーが切った。

 彼女が試験した、バトン風の形状をした魔法の杖は、男の説明によると、「この手の品は、杖の片方の先端に付いた魔石の宝玉を換えることで色々な属性の魔法が使える仕様になっている。そこへ持ってきて新作の品は、これまでになかった画期的なすばらしい機能を付与した」ということだった。

 果たしてその機能とは、自立機能ということで。何のことはない、杖を起動させると、手を放しても放り投げても起き上がりこぼしのように倒れることなくずっと垂直に立ち続けるのだった。

 話によると、――うっかり海や湖に落とすと底まで沈んでしまって二度と見つからない。地面に横たわる杖をわざわざ屈んで取るのが煩わしい。毎朝目を覚ますと杖がどこへ行ったか探さないと何処へも行けない、と言った苦情や相談が寄せられて、それに応える形で実現したということで。

 確かに杖はどのような環境下でも垂直に立った。強制的に寝かそうとしても無駄であった。すぐさま真っ直ぐに立っていた。

 ただ、それ以外は至って普通の魔法の杖で、一つの属性の魔術が三種類使えるのだった。

 杖を使ってみたホーリーの感想は、なるほど凄い技術に違いないけれど、それで、だから何なのよといったところだった。

 確かにカートリッジ取り換えタイプは便利だけど、即座に交換できるかというとそうでもないし。慌てて交換すると上手く作動しなかったり、カートリッジを落として壊してしまうこともあるから、そこを何とかしてくれないとね。

 それにつけても研究者は、ほんと大変ね。言われるままに見ず知らずのターゲットを殺めて食べている私達と違って、何にせよ不確実な未来に結果を出さないといけないのだもの。数打てばどれかは当たると思ってやっていると言ったところかしら。

 でも世の中、何がヒットして売れるか分からないしね。こんな小手先の品でも売れれば儲けものだと考えてやっているのかしら。

 それにしてもこの頃の魔術師って、だんだんと横着になってきているみたい。何もかもを杖に頼らないといけないだなんて。

 そのようなことを考えながらも、ホーリーが現場スタッフの指導に沿ってそつなくこなしたせいもあり、実にスムーズに事が運び、何の問題も起きずに魔法の杖の実証試験が三十分程度で無事終了すると、かの女性が本来イクが行う筈だったブレスレットの試験を続いて行った。

 やる気満々で、着ていた白い防護服と頭に被っていた同色の作業帽を取り去り、フリルが付いた白いシャツとスラックスという本来の服装とウエーブがかかった赤褐色のショートヘアに彫りが深い顔立ちという素顔を晒した四十代半ばの熟年美女は、鋼の硬さぐらいまでに拳と前腕を変化させ、わずかな時間の間、パワー(瞬発力)を最大八倍まで引き上げることができる機能に魔力量値とエスパー値をデジタルで表示する機能が新しく加わった護身用のブレスレットを両手に装着し、わざとらしい笑みを振りまくと、全員が見ている前をこれ見よがしにゆっくり歩いていった。

 そして、既に後片付けが済み、何もかも無い状態となった場所に新たに設置された、高さと幅が人の倍は優にあった巨大サンドバッグや、コンクリートと鋼鉄でできた架台にしっかりと固定された、厚みが五インチばかりあるパネル製の壁やコンクリートブロックや角材がずらりと並ぶ試験装置の前に立つと、現場スタッフの合図を待った。それから「はい、始めて下さい」の号令で実証試験に臨んだ。

 彼女は一番最初に目に入ったサンドバッグに向かって行くと、ストレスの矛先をぶつけるようにスーパーヘビー級のパンチをこれでもかという風に何十発も見舞い、巨大なバッグを何度も大きく前後に揺らすと、続いて壁材に向かって行き、こぶし大の穴を幾つも開けたり、更にコンクリートブロックを叩き割ったり角材を真っ二つにしたりと、用意されたターゲットをパンチや手刀の雨あられで気持ち良さそうにことごとく破壊粉砕した。あたかも男に見せつけるように。

 それは、あっという間の出来事と言っても良く。ものの一、二分程度で終っていた。

 乱れた呼吸を整えながら、「少し体力がいるけれど、まずまずですね」と感想を述べて、満足したような笑顔で女性は試験を終えていた。

 結果、ブレスレットに新しく導入された機能は、衝撃度がかなりあったにもかかわらず正常に作動しており、想定した数値を表示していた。拠って製品は問題なし、合格と判定されていた。

 

 一方その様子を何食わぬ表情で眺めつつ、時として意識するように冷ややかな眼差しで見ていた男は、次は自分の番だとばかりにエスパー値と魔力量の値をデジタルで表示するリストバンドが新しく追加されたプロテクトスーツを手に持つと、女性が戻ってくるのと入れ替わりに歩いて行き、後片付けと新しい試験装置の設置作業が始まった現場の手前で足を止めた。

 そして、準備が整うまで待つ間に、羽織っていた白衣を脱ぎ、男女兼用のフリーサイズでアウターとしてもインナーとしても身に着けることが可能なセパレート式になったプロテクトスーツの上下をこの時はアウターとして着衣の上から着込んだ。

 動体視力と反射神経を最大二十倍まで引き上げる機能があることからマルチな用途に用いられるプロテクトスーツ(防護服)。そのスーツが体にどのような影響を及ぼすのか男は知っていると見えて、「一つ間違うと、明日になる頃には身体中が筋肉痛になるからな」と呟きながら、手足首のストレッチから柔軟体操までを、それから入念に行った。

 そのときの男の体の柔軟性は、普段鍛えているのか中々のものであった。

 その間に、五十フィート近い高さの二本のポールの間に約百フィートの一本の細いロープが渡されただけのものと、同じ高さで垂直に切り立った崖みたいな壁からなる試験装置が用意されたことを見て取ると、「こちらもスタンバイ完了だ。初めて良いかな?」と先に催促した。

 すると、少し控えめな声で担当の現場スタッフから「どうぞ始めてください」との応答があり、その途端に、部屋の片隅に置かれた巨大なスピーカーからアップテンポのテンションが上がる軽快な曲が流れて来たかと思うと、室内全体が明るい雰囲気に包まれていた。

 男は曲に合わせてリズムをとるようにこくりこくりと頷くと、行動を開始。

 急に自重が無くなったかのような身軽な動きで、足を高く上げたり、踊りながら何度も続けて回転ジャンプしたり、飛び跳ねたり、 宙返りしたり、片手逆立ちでぴょんぴょんと飛び跳ねたりと、どこで覚えたのかブレイクダンス風のパーフォーマンスをやっていった。

 それはとても中年の身体とは思えない俊敏な動きであった。

 だがそれくらいはまだ序の口の方で。続いて男は、直前に置かれた垂直の壁を重力の影響を無視するように昇り降りしたり、同じく置かれた二本のポールに渡された細いロープの上を素晴らしいバランス感覚で難なく渡っていったり、ポールやロープを器用に使って器械体操の超最高難度の技を何度も何度も面白いように披露した。

 そうして、五分程度であったが曲が止んだとき、男は得意げな顔で決めポーズをとり、にこりともしない女性に見せつけて、彼のワンマンショーといっても過言でない異次元のパーフォーマンスは終わりを告げていた。

 結果は、前者と同様にリストバンドの数値は想定した値を表示しており、製品はもちろん合格の判定を受けていた。


 その間イクは、魔法アイテムにとても興味を持っていた関係で、二人の様子を関心を持って見ていた。

 けれどもホーリーはそうでもなかった。見当違いの方向を向いてはうんうんと頷いていたり、何かを考えるように首を傾けていたりと、心ここにあらずといった表情を見せていた。

 そのことにイクは、何でも計算ずくのホーリーさんのことだもの、きっと帰りのことを考えているんだわと思っていた。


 間もなくして試験装置の後片付けが終わり、何もなくなったところへキャスターが付いた白いパイプベッドが運び込まれてくると、その上に同色のマットレスがセットされて、イクに出番が回っていた。

 あれに寝れば良いわけね?

 イクは広い室内のほぼ真ん中にぽつんと置かれたベッドに目をやると、少し緊張した面持ちでその方向へ向かった。

 そしてベッドの側までやって来ると立ち止り、ベッドの上のマットレスを一べつした。六インチ(約15センチ)ぐらいの厚みがあった、ごくありふれたマットレスのようだった。

 ふ~ん、これで病気があるかどうか調べるわけね?

 そう思った瞬間、背後から担当のスタッフの声が飛んだ。


「上着を取ってから、そこに仰向けに寝て下さい」


「はい」


 イクははっきりと通る声で応じると言われるままに従った。着ていたレザーコートを脱いでベッドのヘッドボードの部分に掛けるようにして置くと、少しドキドキしながらベッドに寝た。

 マットレスは普段寝ているのと違い超高反発の硬めで、全くと言って良いほど沈み込むことはなかった。従って何となく変な感じだった。まるでフロアに寝ているみたい……。


「では始めますが、宜しいですかな」


「あ、はい」


「力を抜いて楽にしてください。では始めます。まず初めに身体のサイズを計測させて貰います。楽に目を閉じて下さい」


「はい」


 次の瞬間、マットレス自体が急に柔らかくなったかと思うと、身体がマットレスに深く沈んで身体にぴったり張り付いて来た。イクは気付かなかったが、そのタイミングで下のマットレス全体が発光して七色の弱い光が出ていた。


「少し揺れますが心配しないで下さい」


 その言葉が放たれてから間もなくしてマットレスが元の硬さに戻ると振動。イクの身体が小刻みに上下や左右に揺れた。三十秒ほど振動が続くと、今度はマットレスが上下に動いて、イクの身体が足元からゆっくりと波打つように起伏していった。まるでマッサージ器でマッサージされているような不思議な感じで、心地良くってこのまま眠ってしまいそうだった。

 そのときイクは知る由もなかったが、体内をスキャンされていたのだった。

 しかしながら三十秒ほどでそれが終了すると、再び担当のスタッフの声がすかさず飛んだ。


「その状態で力を抜いて両手両足を上げて見て下さい」


 イクがその通りにすると、続けて言ってきた。


「下ろして貰って結構です。今度は良いというまで両方の手の指を動かして開いたり丸めたりして下さい。足の指も同じようにして下さい」


「はい」


 それからも、「鼻から空気をゆっくり深く吸い込んでゆっくり口から吐いて下さい。それを三回繰り返してください」「お腹を膨らませたりへこませたりして下さい。三回お願いします」「舌を出して下さい。そのままで五秒間維持して下さい」「横向きに寝て下さい」「うつ伏せになって寝て下さい」「元に戻ってください」といった幾つもの指示が続いた。

 医療機関で検査をされている気分だったイクは、別にどうってことなかった。その都度従った。

 そして約十五分後、実証試験は終了。担当者の「終りました。お疲れ様でした」の声にイクはベッドから起き上がると、上着のコートを羽織り、みんなが集まる場所まで戻っていた。こんなことで何もかもが分かっちゃうなんて凄い医療技術ねと感心しながら。

 そのとき、その場にいた全員がイクの検査結果に注目していた。

 マットレスは、身長から体重、体温、心拍数、呼吸数、脳波、血圧値、視力、聴力、動脈硬化度、疲労蓄積度、人体比率、体組成、肉体及び心体の老化度・進化度、既往並びに現在かかっている病気、怪我の有無、三次元で被験者のリアルな人体模型が作成できる機能や思考力や言語力も測定できたのだが、そこに加えて能力者の能力値も分かる仕組みになっており。暗殺を仕事にしている者達の能力値がいかがなものかを知るまたとない機会と見ていたのだった。その中にホーリーも相乗りする形でいた。

 かつてイク、ジス、レソーの三人の健康診断を行ったパトリシアからあの子たちは極めて普通の子よ、どこも変わったところがないわと聞いていたが、いつも探求熱心が過ぎる余り、例え身内であっても実験台にしてしまう悪い癖がつい出て、それじゃあこちらのアイテムで調べるとどうなるのかと、一度イクの身体の中を見てみたいという衝動にかられてこうなるように仕組んでいたからだった。

 ところが出た結果は、全員をがっかりさせるものとなっていた。

 それもそのはずで。魔法が使えることを現す魔力量の値は平均以下を示していたし、異能者の資質を示すエスパー値はゼロ。つまり異能力をもっていない普通の人間であることを示していたのだから。

 その上、特異体質でもなく、体質改造されてもいなかった。

 その証拠に、軟体体質でも耐毒体質でも耐熱体質でも耐冷体質でも耐電体質でも低呼吸体質でも低体温体質でもなかった。骨格や内臓が異質であることもなく、体内に不審な物質が存在するわけでもなく、寄生している生き物の兆候も見られず、体内の一部がメカ(器械)に入れ替わっているということもなかった。いわばどこもいじられていない普通の肉体をしていた。

 その中、唯一分かったことと言えば、若い頃に良く見られる兆候でそれほど心配することはないが栄養の偏りが原因となったと考えられるコレステロール値が高いことと、やや思考力が劣るということと、視力低下の様子が見られることぐらいなもので、その他はどれもこれもごく平均的な値を示していた。

 その結果を受けて、その部署の総括責任者であった男と現場のスタッフが一堂に会し、しばらくの間話し合いが持たれた。

 そのとき彼等は、結果に対してある程度の結論まで至って余裕ある表情で頬杖を付き傍観を決め込んでいたホーリーや、罰が悪そうに頬を少し紅潮させて結果のどこがおかしいのかさっぱり分からないという風に呆然と佇んでいたイクや、私には関係がないわという風に一人だけ距離を置いてキョトンとした目で時計をちらちらと見たりよそよそしくしていた女性とは対象的に、しきりに首を傾げたり、視線を宙にはわせたり、うーんと唸っていた。

 要するに、単なる健康診断の判定となったことに全員が納得いかないらしかった。

 そうして、話し合ってようやく出した結論は、『この製品にはまだ改良の余地があるから合格の判定は出せない』だった。

 そのような予想外なアクシデントもあって、時間が思ったよりも早く過ぎていた。そこを辞して、案内してくれた女性の作業部屋に立ち寄り、他愛もない話などしてしばらくゆっくりした頃には、いつの間にか朝の八時となっていた。

 その後、ホーリーとイクの二人は、女性に伝えられた通りに地下の駐車場に向かった。

 イクの親切な行いに対して少しでもお礼がしたいからと言って、帰りの手配を彼女がわざわざ交渉してくれたのだった。

 果たしてそこには本部の施設へやって来た時と全く同じ、長梯子をルーフ部分に積んだ白いワンボックスカーが一台止まっていた。

 ハンドルを握る運転手も例のひげ面の男で。男は濃紺の作業着に着替えていた。


「迷惑かけるけれど、よろしくお願いね」「どうもすみません」


 と運転席の男に口々に声を掛けながら、二人は開け放たれたドアから車内の後部座席に乗り込むと、男がすかさず訊いて来た。


「どちらまでお送りしましょう?」


 その問い掛けにホーリーが応じ、「そうねー」と宙に視線を泳がせると、ちょっと考える素振りで、


「この都市から五十マイル(約80.5キロメートル)先にある湖までお願いできるかしら。良いというところまで来たら止めてと言うから」


「はい、かしこまりました」男は間髪を入れずに返事を返すと車を発進させた。


 車は、誰も見送りがいなくてひっそりとした本部の地下駐車場を出発すると、出口へと向かった。

 それから一時間もした頃、車はやって来たのと同様に物流専用道を通り、眠らない都市ミランボンを難なく後にすると、湖がある方角に進路をとり、そこへと続いている一般道に入っていた。

 一般道の周辺は、季節の移り変わりが早過ぎるというのか、少し来ぬ間にすっかり様変わりしていた。

 穀物が収穫された後の農地が延々と続く光景や、羊や牛がゆったりと草をはむ光景はどこへいったのかもはや見られず。代わって一面が殺伐と化した荒れ地に変貌していた。

 更に道は、思いのほか混んでいた。拠って中々前に進まなかった。普段なら一時間もあれば湖まで行けるところをその倍以上かかっていた。

 そうして二時間余りが経過し、昼時となっていた。沿道に何十軒と建物がひとかたまりとなって建つ光景が出現して遠ざかっていった。

 すると、あれだけ混雑していた道がスムーズに通行できるまでになっていた。

 それから五分も経った頃。遥か前方に見えた森を過ぎた辺りが湖という地点まで来た時だった。 

 後部座席にゆったりと腰掛け、前方の風景をフロントガラス越しにぼんやりと眺めていたホーリーが、何を思ったのか突として運転席の男に優しく声を掛けた。


「ねえ、止めてくれる。この辺りで良いわ」


「もう少しで湖ですが、ここで宜しいので?」


 怪訝そうな口振りで訊いて来た男に、ホーリーはやんわりと言い訳した。


「良いの。この国とももうじきお別れだから、湖の畔まで少し歩きたいと思ってね」


「はあ、そうですか。分かりました」


 男はあっさりと引き下がると、さっそくウインカーを出してスピードを減速。言われるままに付近の沿道に車を一時止め、サイドドアをスライドさせて二人を下ろした。そして二人が下りたところを見計らって、神妙な顔でぺこりと頭を下げると、「ではお元気で、フランソワーズさま、ローズさま。色々と勉強させて頂きました」そう言い残して、車を発進させた。見る間に車は少し行った先でUターンして元来た道を戻っていき、見えなくなっていた。

 その一部始終を荷物を持ったまま呆然と見送ったイクは、あゝ、終ったという思いで、何となく気分が楽になっていた。ほっとしていた。

 そのようなところへ、


「さあ行きましょうか」


 ホーリーの落ち着き払った声が飛んだ。


「あ、はい」


 ハッと我に返って返事を返したイクに、後ろを振り返ることもなくホーリーは前を向いてさっさと歩いて行った。

 イクは、すらりとした容姿に比例して歩幅の大きなホーリーに遅れないようにと小走りで彼女の後ろへ従った。

 二人は湖に向かっていた。遥か前方に見える森の向こう辺りに湖があるはずだった。

 ちなみに、折から昼時とあって、誰一人として出会わなかった。

 そのときイクは、何も話さなかったがホーリーがなぜ中途で車を返したのか予想がついていた。――ええと、この辺りは確か見覚えがあるわ。

 果たしてホーリーとイクの二人が並ぶようにして歩いていくと、道路沿いに『レストラン・トーム』と書かれた看板がはっきりと見え、車が多数止められた駐車場の奥の方に山荘風の外観をする建物が見えた。二人がこの地へやってきたとき、初めて食事をしたレストランであった。


「イクさん、もう少しよ。あそこで休憩しましょう」ホーリーが歩きながらささやいた。


「はい」大体の意味を理解したイクは嬉しそうに応えた。あゝ、やっとこれでまともな食事にありつけそうと思うと、自然と足が前へ前へと出ていた。朝から水以外何も食べていなかったからだった。

 道路を隔てて全部で二ヶ所設けられていた駐車場は、いずれも満車となっていた。口コミでも評判の高いレストランとあっては当然といえば当然で。二人が入って行くと、予想した通りに店内は混雑していた。

 ところが運が良いというか、食事が終わった先客が一斉に店を出て行く時間の谷間に出くわしたおかげで、一切待つことなしに席に着くことができていた。

 そんな訳で、二人は来客のほとんどが頼んでいた定番の昼のランチを注文。出て来た、肉や魚介やポテトをフリットにして豪快に盛り付けて、そこにザワークラウトとトマトとヤングコーンを添えた料理と小グラスに入ったビールで、約三十分かけて食事を摂った。

 その間も店内はお客でごった返し、外で立って待つ人々もいて、どう見ても落ち着ける雰囲気でなかった。そのようなこともあって、二人は申し合わせると、早急にレストランを出て湖に向かった。

 そのとき道路を行き交う車は多少なりともあったが、沿道を行く人影は全く見掛けなかった。

 そのような人影のない沿道を歩いて行くと、目の前に針葉樹の森が現れた。道路はその奥に向かって通じていた。

 二人が尚も進んで行くと、森の内部は木々が隙間なく立ち並んで薄暗く、一足先に冬が来たかのような冷たい空気で満たされていた。

 十分足らずで難無くそこを通り抜けると、開けた場所に出た。そこの道路の脇や道路に面した空き地にセダン、バン、ステーションワゴン、ハッチバック、ワンボックスカーと色んな車種の車両が、並ぶようにして、かなりの数駐車していた。加えて、その半分くらいには人が乗っていた。

 どうやら付近は、昼間の内は観光スポットか景勝地となっているらしく。果たして、そこからおよそ五、六十フィートほど下った先に新緑色の水をたたえた湖が遥か遠くまで拡がっているのが見えた。目指す湖であった。

 歩きながらホーリーは周辺を一べつすると、他人事のように呟いた。


「これから戻ろうというのに、こう見物客がいるというのは困ったものね」


「そうですね」


 とっさに話を合わせたイクに、ホーリーはにやりと笑うと付け加えた。


「これくらい、どおってことないけれどね。まあ、見てて」


「はあ……」


 イクは少し戸惑い気味に頷くと思った。

 でもどうするんだろう、あんな巨大なモンスターが湖に現われたら、きっと大騒ぎ間違いなしでしょ。みんなびっくりして証拠写真やビデオを撮るわ。もしかしてニュースに出たりして。


 前を若い男女のカップルが、その数十フィート先を三人連れの男達が、更にその先にも数人の男女が、いずれも散歩するような足取りで歩いていた。二人は難無く全員に追いつくと追い抜いて先を急いだ。

 湖は岩だらけの沿岸が延々と広がっていて、間近に湖岸から一直線に伸びている船着き場が見え、遥か遠くの突き出た岩場の入り江には船が何そうも係留されているのが見えていた。

 二人は周りの景色や喧噪など一切目や耳に入らないという風に、脇目も振らずに湖に着水したときに利用した船着き場を目指した。

 船着き場に到着すると、昼を少し過ぎた頃合いということもあって船着き場及び周辺には人影がなかった。風もほとんど吹いておらず、波も穏やかであったにもかかわらず湖に出ている船も見掛けなかった。

 その様子を見たホーリーは無言で軽く頷くと、何事か口ずさんだ。魔法の呪文だった。

 次の瞬間、湖面より白い水蒸気のようなものが立ち昇ると、やがてもやとなって船着き場を完全に覆い隠すように見る見るうちに濃くなっていき、急な勢いで船着き場が見えなくなっていった。


「見えなくなる前に、さあ急ぎましょう、イクさん。効果はそんなに期待できないの」


 ホーリーはせかすようにイクに促すと、先に船着き場を急ぎ足で歩いていった。

 その光景を見たイクは、なるほどね、湖に霧を発生させるなんて、さすがホーリーさんだわ。こういう具合に湖に霧を発生させて辺りが見えなくなった隙にモンスターを召喚して戻るわけね、と感心しながらその後へ続いた。

 しかしながら実際のところは、霧を発生させただけでは簡単に片付く話でなかった。例え姿を上手く隠すことができたとしても必ずと言っていいほど物音が伴うからだった。

 そのためホーリーは、防御系、封印系、攻撃系と大きく分けて三系統あった結界の中から、音を立てずに姿を隠す防御系の結界を船着き場の辺りに発動させていた。

 その効果によって、二人には白いモヤ状のものがはっきり見えていた。が、周りはそうではなく。周りはモヤも二人も見えないどころか、何も変化していない湖が普通に目に映っていたのだった。


 ホーリーは船着き場の片方の端に立つと、手に持っていたミニサイズの携帯のようなものを操作した。

 その途端、湖面から白い物体が姿を現した。小型深海潜水艇であった。


「さあ、乗って。ぐずぐずしていると、ボロが出ちゃうわ。さっさと行きましょう」


 ホーリーはイクに促すと、波間に浮かぶ潜水艇へ思い切りよく跳び乗った。何のことか分からなかったがイクも従った。

 その後二人は、ハッチの蓋を手動で開けて、明り取りの丸い窓のせいで家の中とそう変わらぬ明るさがあった潜水艇内部へと下り、やって来たのと同じシート席に着きシートベルトを着用。背もたれを目一杯倒した。

 すると間もなくして、艇が急に大きく揺れたかと思うと、内部が急に暗くなり補助灯の明るさのみとなっていた。モンスターが潜水艇を呑み込んだ証だった。

 それから少しして艇の揺れが完全に収まっていた。モンスターが湖を離れ上空を飛行している証だった。

 その間に二人は心地よく眠りに落ちていた。

 その後、どのくらい経ったか分からなかったが、再び艇内が強く揺れた。

 その反動で、ほぼ同時に目を覚ました二人は、「着いたようよ」「そうみたいですね」と示し合わせて揺れが収まるのを待った。

 それから艇の外に出てみると、パトリシアが暮らす地区まで無事辿り着き、例の人工池に到着していた。

 どうやら行きと違って思った以上にスムーズにいったらしく、時刻は午後を少し回った頃のようで、眩しいくらいの太陽が雲一つない青空のまん中に見えていた。

 そのようなじっとしていても汗ばむポカポカ陽気に、直ちに二人は潜水艇を離れると、自然の流れで人工池横の広場へと向かった。そしてそこの端っこに置かれたベンチで薄着になったり私服に着替えた。

 その結果、ホーリーはグレー系のタートルネックのニットシャツと黒地のパンツを脱いで、インナーと見間違いそうなセクシーな黒のタンクトップとレギンスパンツの姿となり、その上からトレンチコートを羽織っていた。 

 一方イクはイクで、レザーコートとニットセーターと厚手のパンツを脱いで、白のニットシャツにジージャンとジーンズのパンツ姿となっていた。

 ちなみにレザーコートはイクの手から離れた瞬間に元の生き物の姿となり、一言も喋らないでどこかへ消えて見えなくなっていた。

 そのことにイクは、いつものことだからと気にも留めなかった。しょうがないわね、用事が無くなるといつもどこかへ消えちゃうんだからとして。


 着替えてベンチで一息ついたところでホーリーは、自等の携帯を取り出すと、長い間切っていた電源を入れ、『今着いたから、もう直ぐそちらに向かうわ。ホーリーより』といった伝言をパトリシアの携帯に送っていた。

 そのとき直に会話しようと思えばできたが、へたに話好きの彼女と話すと何時間たっても終わりそうにないからとして、わざとそうしなかった。 

 幾ら何でもこんなところで立ち話させられてもね。ほんと良い迷惑よ。やはり落ち着いてからでなくちゃね。

 そして涼しい顔でイクに向かって、「さあ、戻りましょうか!」と告げると、そこを出立してパトリシアの居宅の方向へ歩き始めた。

 その言葉に、もちろん異論があろう筈もなく、イクは上司であるホーリーに追従した。


 こんもりとした森や林や無人の大邸宅がひっそりと佇む景色を眺めながら人気のない道を歩いて、ひと際広い庭を持つパトリシアの四階建ての居宅に戻って来てみると、門扉が固く閉じられ、中には車も見られなかった。

 また、建物の窓という窓にはシャッターが降ろされていた。加えて入口の玄関ドア及びその他のドアにもしっかり錠がかかっていた。

 それらから言って、留守にしているようであった。そのことに、イクがいる前でホーリーは、


「おかしいわね、いないなんて。ああ見えて忙しい身分だから、買い物にでも行っているのかしら? まあ良いわ。居なければ居ないで構わないけれど……」


 そのような独り言を呟くと、「それじゃあ、行きましょうか」とイクに向かってさらりと呼び掛けてきた。


「はあ?」イクはぽかんと立ち尽くした。行くっていったって、どこへ行くんだろうと。


 その様子に気付いたのかホーリーが逆に不思議そうな表情で訊いて来た。「どうしたの、イクさん?」


「あのう」イクはもじもじしながら、たどたどしく尋ねた。「えーと、どこへ行くおつもりなんでしょうか?」


「あゝ、そのこと」ホーリーはにやにやすると事もなげに言った。「帰ってくるまで、中で待ってみようかと思ってね」


「ああ、なるほど。そういうことですか」


「それじゃあ、行きましょうか」


「はい」


 こっくりと頷いたイクに、ホーリーは奇妙な行動をとった。玄関には向かわずに建物から離れるように歩いていくと、およそ百フィートほど距離を取って立ち止まり、イクの方を振り返るや言ってきた。


「何も玄関から入るわけじゃなくってよ。屋上から入るの。フロイスが普段からやっているでしょ」


「はあ」イクは目をぱちくりさせると、ホーリーを思わず見つめた。初めて聞いたわ。そんな入り方があっただなんて知らなかったわ。


 そんなイクの表情にホーリーは苦笑いすると、


「イクさん、四階といっても五十フィートも無いし。これくらい、あなたの身体能力で何とでもなるでしょ。でもハンデがあるといけないから、あなたが持っている荷物をちょうだい」


 そう言ってイクからボストンバッグとデイバッグを受け取ると、二つを併せて片手に持ち、屋上を見据えて、手本を示すかのように一、二、三と軽く助走をつけて跳躍。ひらりと華麗に舞い上がると、あっという間に屋上を覆い隠していたフェンスの真上に到達し、そこから屋上の空きスペースへと跳び下りていった。

 その見事な跳躍に、イクは正直感心すると、今度はあたしの番ねと太陽の光で照り輝いている白亜の建物をまじまじと見つめた。

 どこから見ても、個人向けの邸宅というよりも、部屋の多さと間取りの特殊性から、元々はサナトリウムか老人ホームの建物か宗教の施設として建てられたと思われた四階建ての建物を改めて見ると、フェンスの部分まで含めて五十フィートの高さどころではないのは明らかで。その高さは、中に入るときに跳び越えた門扉の比ではなかった。はっきり言って、これだけの高さは、イクにとって未経験だった。

 あたしでも三階ぐらいまでならどうにでもなるんだと思うんだけれど、フェンスの上まで跳べるかどうかはセキカがいないと不安よ。でもここで怖じ気ついていたら、どう言われるかわかんないわ。

 そう考えると、イクは少し緊張気味に息を吸い込み、ホーリーのマネをして一、二、三と助走をつけるや否や、思い切りよく一気に跳び上がった。

 そのとき勢いを付け過ぎた分、フェンスの上でバランスを崩して前に落ちそうになっていたが何とか持ちこたえると、同じく屋上の空きスペースへ跳び下りた。あゝ、もうちょっとでへまをするところだったけれど、何とか成功したみたい。

 ほっと一安心したイクはその拍子に周りへと目が自然といった。

 跳び下りた隣にはガーデン用パラソルとその下にテーブルとイスのセットが並べて置かれてあり。その筋にプレハブハウス、その奥の方に貯水槽の巨大なタンクと空調機とソーラーパネルがずらりと並んでいた。

 だがホーリーは、イクが屋上へ上がったのを見届けると、


「それじゃあ、行くとしましょうか」 


 そう言って、屋上の景色は全然目もくれないで下へ降りる階段がある建屋へと向かった。

 イクは神妙な顔でそのあとを追った。

 建物内はいつもながら静かだった。人っ子ひとりいなかった。

 その中、二人はパトリシアが普段生活している二階へ真っ直ぐに向かうと、先ず最初にダイニングに立ち寄り、冷蔵庫を物色。中から良く冷えたジンジャエールの缶を手に取り、ちびりちびりと飲みながら、寝室、トレーニングルーム、バスルームとパトリシアの痕跡を手当たり次第に見て回った。

 そして五番目に向かったところで、ようやく手掛かりに行き当たっていた。

 そこは物置き部屋としか見えない部屋で。ひんやりとした空気が満ちていた室内には色んなガラクタや見たことのない道具や人物の彫像や大小の木箱・段ボール箱、古い家具・調度品の類が、壁伝いに設置された棚に陳列されてあるというより無造作に置かれてあったり、直にフロアへ所狭しと山積みされて放置されていた。そのような中、部屋の真ん中辺りにぽっかりと空いたスペースがあり。そこには、見るからにアンティークといった重厚感のある古めかしい長テーブルと、独特なデザインからこれも明らかに時代物と思われる革製のソファが並べて置かれていて。テーブルの中央には、普段からパトリシアが私用と業務用に使い分けている二台の携帯と可愛い絵柄のカバーが付いた携帯と、あと出所の不明な二台の携帯が並んでおり、その直ぐ横に一冊の電子ノートが置かれてあった。

 それを見た途端、ホーリーは何を思ったのか、「パティったら。ほんと、そそっかしいんだから」

 そう呟きながら、革独特の匂いが微かに香るソファの上へ浅めに腰を下ろすと、並んだ携帯の中から可愛い絵柄のカバーが付いた携帯を取り上げて電源を入れ中を確認した。そこには、少し前に人工池隣の広場から送った伝文もそのまま入っていた。

 続いて、日頃からパトリシアが外へ出かけるとき、前もって用事の内容や行先や日程や連絡先を書き記しているツールであったA4サイズの電子ノートに目をつけると、ノートを自らの近くまで引き寄せ、『活動記録』と表にタイトルが付けられたカバーを開いて電源を入れ四桁のパスワードを入力。現れたノートのデイスプレイ画面いっぱいにびっしりと几帳面な文字で走り書きされたメモをざっと眺めて、


「うーん、そういうこと……なるほどね」


 分かったという風に頷くと、ちょっと考えるように首を傾げた。

 そこには『これを見た親愛なる友人達に伝言』と題して、話し言葉でこう記されてあった。

 ――――みんなに悪いんだけれど、どうすることもできない私用ができてしまって、しばらく留守にして郷里に帰っています。

 実はみんなが出掛けてから二日後の昼過ぎ、ズードから急なメールが届いたので連絡を入れると、のっけから困っています、是非お願いしたいと頼まれ事を頼まれてしまって。それで何かと聞いたら、四年前から年に一度開催されることになった大きなイベントがあって、それに是非出て欲しいというオファーだったの。

 そのイベントは私の古い祖先にあたる人物がその中心としてかかわっているということで、毎年出てくれとオファーが来ていたんだけれど、その都度、色んな理由をつけて辞退して来たんだけれど。ところが今回に限ってズードまで動員して出てくれと言ってきたものでね。

 どうやら自警団団長の彼をしても手に負えない方面から圧力がかったみたいで、今回一度限りで構いませんからとか、既に決まったことなので断れなくってとか言って私を説得しようとしてきて、終いには、あのズードが弱り切った声でお願いします、助けてくださいと泣き落としで来たものだから、あまり気が進まなかったけれど、しょうがないかとやむを得ず引き受けることにしたの。

 そのイベントの内容というのが、何でも老若男女が派手に着飾ったり扮装して市内を行進するフェスティバルのようなものらしくって。私も当然として扮装して出て欲しいという依頼でね。

 ズードの話では、私の役回りは、私のママから数えて四代前の女当主で、名は私と同姓同名のパトリシア・ミスティークと言うの。私が成人した女だからという安易な理由で決まったみたい。

 扮装の衣装は向こうで用意してあるという話だったけれど、どうせなら本物が良いだろうと私の側から準備していくことにしたわ。

 実は、実家からこちらへ運んで貰ったクローゼットの中に古い時代の女性物の豪華な衣装が何着も入っているのを偶然見つけてね、それを順番に着て出ようかと思ってるの。

 期間はね、聞いているのは、そのイベントは前夜祭として一日、後夜祭としてもう一日を含めて、トータルで十二日間開催されるらしいの。その間、私はイベントの中心としてずっと参加し続けなければならないみたいで、ほとんど自由がないみたいなのよ。

 そういったことで済まないんだけれど、あとのことはよろしくお願い。好きにやっておいてちょうだい。パトリシア・ミスティーク。

 そしてその文章の下にも、筆跡の異なる二つの短い文章が少しスペースを開けるようにして続けて記されてあった。

 最初の文は、コー独特の滑らかな文字で、「面白そうなので二人でパトリシアさんのところへ行きます」となっていた。おそらくロウシュが一緒にいて、彼に言われて記したのであろうと思われ。――どうやら二人は任務が終了した後、こちらに立ち寄ったらしいわね。

 続いてその下には、「ホーリーへ。私もちょっとした野暮用を済ました後に見に行こうかと思っている。ところで例の件だが当てが外れた。全く収穫無しに終わったよ。そうそう、新人見習いの二人は心配いらない。無事に家まで送り届けておいたからね」といった簡潔な文章が、強くて伸び伸びとしたタッチで残されていた。


 ――向こうも収穫無しなら、また出直しみたいね。でもまあ、慌てはしないわ。(オアクルグの幹部連中は)私達に接触する前にきっとビッグパンプキンに私達のことを照会しているに違いないから、その過程でビッグパンプキンは私達がどこにいるか必ず察知している筈だもの。ともかく、やるべき事をやっているところを見せておけば文句は言って来ない筈よ。


 ホーリーはソファに座ったまま首だけ傾けて振り返ると言った。


「あなたの友人は、二人とも、既に自宅に戻っているみたいよ」


 その言葉に、呆然とした顔で後ろで見守っていたイクは慌てて返した。


「えっ、本当ですか?」


「ええ、本当よ」


「そうですか」


 二人が無事に帰ったことに、自然と嬉しさがこみ上げてきたイクは、晴れやかな表情で目を輝かせた。

 イクは自分のことのように嬉しかった。二人とも上手くやったみたいね。これで一安心よ。

 その様子を薄ら笑いを浮かべて見ながらホーリーは尚も続けた。


「イクさんもお家へ帰りたいでしょ?」


「あ、はい」


 イクは正直に応えた。そして思った。――みんな戻ったみたいだし。父さんもエリシオーネさんも元気にしているかなぁ? 今頃は父さん、何をしているのかな? まあ何でもいいけれどね。でも最近ずっと暇だったから、家でいたりして……。


「そういう私も一旦はお家へ戻ろうかと思っているの。残してきた弟子が心配でね。

 そういうわけで、これからあなたを送り届けたいのは山々なんだけれど、パティーやフロイスと違って私はあいにくとあなたのお家がどこにあるのか知らなくってね。

 その代わりと言っては何だけれど、フロイスに連絡しておいて上げるわ。彼女に任しておけば必ず送ってくれる筈よ。

 ここだけの話だけれど、彼女、いつも忙しくしていないと落ち着かないたちでね。

 余り暇過ぎてやることがないと、暇に任せて無差別殺人を普通に犯しかねないんだから。そんなことをするのは幾ら世界が広いと言っても彼女と常軌を逸した暴君ぐらいなものよ」


 ホーリーは澄み切ったエメラルドグリーンの眼差しで薄笑いを浮かべると尚も続けた。


「これは何も冗談で言ってるわけじゃないのよ。彼女の場合は本当なんだから。この私だって何度も目撃しているしね。

 イクさん、あなただって彼女の振る舞いを見て良く分かっているでしょ。

 そんな彼女だから、こき使ったって別にどうってことはないわ。却って機嫌が良かったりしてね。それまであなたのお家だと思って、ここでゆっくりしたら良いわ。

 冷蔵庫の中の物は自由に飲み食いして良いし、寝たければ好きなところで眠れば良いわ。パティと私達の間で暗黙の了解ができているの。

 あゝ、そうそう。お腹が空いたならダイニングの真向いにパントリーの小部屋があるから、あそこにストックされている物を好きなだけ食べてくれて構わないわ。あれはほとんど私達専用にパティが買ってあるものだから、遠慮はいらなくってよ。

 但しフロイスがやってきたときに分かるところで居てちょうだい。それだけは守ってね」


 ホーリーは一連の言づてをして簡単な念を押すと、ソファから立ち上がった。そしてイクに向かって穏やな微笑を向けると、「じゃあお願いね。後は頼むわね」と言い残して、悠然と部屋を歩いて出ていった。

 その隙のない一部始終にイクはなすすべがなく、呆気にとられたまま、ホーリーの後ろ姿を見送っていた。何が何やら分からぬままに全て彼女の言いなりとなっていた。

 ――そう言われてもね。待てと言われたってどれくらい待てば良いんだろう。それが分かんないんじゃあ、あたしはどうすれば良いのよ。

 一人取り残されたイクはぽかんとした顔で少しの間立ち尽くした。しかしそのうち、――まあ何とでもなるわ。あたし、ぼおっとしているのに慣れているもん。そう思い直すと行動に移した。

 イクはホーリーが先ほどまで腰掛けていた辺りに深く腰を下ろすと、テーブルの上に頬杖を突いて、色々なものであふれた周辺にぼんやりと視線をさ迷わせた。そうして、すっかり自分の世界へ没入していた。

 それからというもの、冷蔵庫から飲み物を取ってくるときとトイレに立つ以外は、ずっとその姿のままで居続けた。

 しかし何をするわけでもなく、その姿を保ち続けているうちに、心配事が何もなくなった安堵感とともにこれまで蓄積していた疲れがどっと出てきたらしく。イクは無意識に頬杖を崩すと、できた腕の中に顔を自然に埋めるようにして深い眠りに落ちていた。

 

 それからどれくらい経ったか分からなかったが、背後から「おい、起きろ。起きるんだ。来てやったぞ」乱暴な声が響いた。

 聞き覚えのあった独特な声に、一瞬にして目が覚めたイクはソファに腰掛けたまま、ハッと声が聞こえた辺りへ振り向くと、いつの間にかソファの横の方で、頭にカーキ色のキャップを被った長身の人影が同じくカーキ色のスウエット上下の姿で、イクを見下ろすように立っていた。


「ホーリーから連絡を受けてやって来たよ。お前を自宅まで送り届けてくれと頼まれてね」


 そのラフな格好をした人影は更に言い足すと、にやにやしながらイクをまじまじと見つめた。

 そのぎょろりとした鋭い眼光と七フィート近い上背と、この状況を顧みるにフロイスに違いなかった。 

 その表情から機嫌が悪くはなさそうと、イクは出かかったあくびを急いでかみ殺して「お願いします」と感謝の気持ちを小さな声で伝えると、フロイスは素っ気なく、「それじゃあ早く支度しろ。待ってやるから」

 いつもながらの乱暴な口調で言ってきた。


「はい」イクが思わず恐縮すると、フロイスは薄ら笑いを浮かべて、


「今日もあれこれと忙しくってね。急いでお前を送った後、パティの件で話をつけるためにゾーレと合わなきゃならないんだ。それが済んだら、ホーリーのところに拠って二人でパティの晴れ姿を見物しに行かなきゃならなくてな。ついでにあいつとは意見交換しなきゃならならないし。とまあ色々とあってな」


 イクに配慮したのか知らないが、優しげにそう言って続けた。


「先に言っておくが、幾らホーリーに頼まれたからってタダで引き受ける気はさらさらない。何でもかんでもタダで安請合いすると、使い勝手が良い単なる便利屋と思われるからだ。私はそこまでお人よしじゃないのでな。

 だからな、その対価としてだな。おい、つかぬことを訊くが、銘柄は何でも良い、缶で良いから、お前の家に良く冷えたビールがあるか?」


 理屈をつけて奇妙な要求ををしてきたフロイスに、イクはきょとんとすると、すぐさま話を合わせた。


「あ、はい。あります。あたしは飲みませんが、父さんがいつも自分用にとまとめて買って来て冷蔵庫にキープしてあります」


「そうか。それなら話が早い。そのビールを対価として貰おうか。そうだな、一ダースといきたいところだが、そんなに飲んだら幾ら何でもあいつらに気付かれて何言われるか分からないから、三本で手を打ってやる」


「はい、かしこまりました。それくらいならいつでもあると思いますので」


「あゝ、そうか。じゃあ、取り引きは成立だ。私は屋上で待っているからね。急いで支度しておいで」


「はい」


 屈託のない笑顔で目を輝かせて応じたイクに、フロイスは冷ややかな笑みを浮かべると、背中を向けて、さっさとそこを立ち去ろうとした。

 そんなとき、不思議と気が楽になったせいもあり、イクは妙に空腹を覚えて「あのう……」とフロイスを呼び止めると、ふと浮かんだ疑問を口に出していた。


「外は夕方ですか、それとも夜ですか?」


 部屋中にあふれた物品によって部屋の窓という窓が閉ざされていて、外の様子がさっぱり分からなかったので訊いたまでだった。

 そのようなイクの問い掛けに、フロイスは一旦足を止めると顔だけ振り返り言ってきた。


「何だ、変なこと聞くじゃねえか。ここは今は朝だ。朝と言ってももうじき昼になるけれどな。部屋にいて分からないかも知れないが、太陽が真上に来ているよ」


「えっ、本当ですか。全然分かりませんでした」


「ふん、それはあれだ、時差ぼけだ。なれると直に元に戻るさ。良くあることでそんなに気にすることはない」


「はあ」


「あゝ、お前の連れはとっくの昔に送り届けておいたからね。私の指示通りに動いたから、二人とも怪我もなく帰って行ったよ」


「本当ですか?」


「あゝ。もし帰って仕事があれば明日からでも仕事に行きたいと言っていたね」


「そうですか」


 イクはにっこり頷いた。二人とも、明日から仕事に行きたいと言うとはね。これは相当フロイスさんにこき使われたんだわ。初め二人とも、威勢の良いこと言っておいて、実際経験してみて相当こりたみたいね。この人たちと住むところが違うと分かって、元々の仕事の方がよっぽど楽と分かったのかしら?

 そう思ったとき、手のひらを返したように怖い目つきでフロイスが、


「さっさと支度して来るんだ。こっちも忙しいんだ!」


 と、ならず者が吐くようなきつい物言いでイクを怒鳴りつけると、何食わぬ顔で部屋を出て行った。

 もうそれだけで、まだ起きて間もないイクの気を引き締めるのには十分だった。

 フロイスの遠慮のないきつい物言いに、一瞬イクに緊張が走り、身体を凍り付かせていた。

 パトリシアとその仕事仲間が行った合同演習にイク、ジス、レソーの三人が顔合わせを兼ねて初参加したとき、フロイスが一番おっかなかったトラウマ体験が思い出されて反射的にそうなっていたのだった。

 ――あゝ、もう。びっくりした。

 思わずドキッと心臓が高鳴ったイクは、慌ててテーブルの上を片付けると、家から持ってきた荷物を手に持ち、もはや忘れものがないかと確認をして、帰る準備をした。

 そのとき、身体は何となくだるいような気がしたが、頭の中がすっきりして、気分が不思議と爽快で。「やっぱりあたし、丸一日眠っていたのかな」そんな思いが頭をよぎったイクは、実感が湧かなかったが、状況証拠から見て恐らくそうなんだろうと受け入れると、駆け足で屋上へ向かった。そして時を移さず、無事自宅まで送り届けて貰っていた。実に九日ぶりの帰宅だった。

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