第84話

 薄ぼんやりとした日中。本道から半マイルほど逸れた人気のない野辺の道にシルバーカラーのキャンピングトラックが一台、人目を避けるようにしてぽつんと止まる。

 未舗装の土の地面は降り積もった色とりどりの落ち葉で満ちていて、ある意味とてもきれいで。そこに車の轍の跡が見当たらないことから、しばらく誰も訪れたことがないのがうかがい知れた。

 また道の両側は幹と枝だけとなり果てた木立に雑草が伸び放題となった荒れ地、更にその向こう側には、枯れ草が生い茂る原野に人の手が入っていない森に麦が刈り取られた後の大地と、それほど珍しくもない光景が見渡す限りに広がっていた。


 トラックの外観は至ってありきたりの仕様で、三、四十分前にここへやって来てからずっと止まっていた。普通に人里離れたところまでキャンプに来ているのだろうと思われ、違和感がどこにも感じられず。辺りはひっそりと静まり返り、まるで時間が止まっているかのような様相を呈していた。

 そのような中、それに相反するように、防音対策が施されたトラックの箱型空間の中では、少し間隔を置きながら口うるさく怒鳴る年配の男の声が歯切れよく響く。


「おい、どうなってる! まだ到着しないのか。急げ、早くしろ。お前たちが行かなくちゃ何も始まらんだろ。ああ、地雷が埋まっているかもしれないから気を付けて進むんだぞ」


 室内は独特な緊張感に包まれていた。どことなく不穏な空気が漂っていた。


「どうだ回り込んだか、アラード」


「まだ撃つなよ、撃つんじゃないぞマドレーン。お前は二番手なのだからな。アラードが上から爆撃を加えて、蟻共が出てきてからお前の出番だ。それまでは待機して待つんだ」


「おい、口を酸っぱくして言うが、こちらの奴らは結界能力に秀でた者が多いと聞いている。間違っても油断して相手の罠にはまらないようにな。分かってるな」


 二十名も入ればぎゅうぎゅう詰めとなって身動きが取れなくなりそうなそれほど広くもない室内。そのほぼ中央に長方形をしたスチールテーブルが置かれてあり、テーブルの上にはカラーの航空写真地図が載っていた。そしてテーブルを囲むように座席がずらりと設置されてあり。その一角に黒のエナメルレザーのジャンパーにパンツ、同色のブーツとラフな格好をした、浅黒い顔の大男が髪がかなり薄くなった頭にワイヤレスヘッドホンを装着して腰掛け、片方の太い指に電子葉巻、もう一方には携帯無線を持ちながら、テーブルの地図を鋭い眼光で睨んでは無線先の相手にてきぱきと命令を下していた。


 男の名はザイマス・ワーウイン。人は皆、ザーウインと呼んだこの男こそ今回の騒動を引き起こして多くの人命を奪うように仕向けた張本人であった。事実、この国の人間をこれまでに老若男女問わずに百人以上殺害していた。

 その表の顔は、透明に澄んだ海と白い砂浜のビーチが周辺に広がることからリゾート地として古くから有名であったとある島の、ロッジ風の建物がずらり建ち並ぶ一角で、個人や法人に別荘を貸し出す業務を行っている不動産会社のオーナー。怪しげな者達の出入りがどれだけあろうとも、違和感をもたれないようにとそのような偽装工作を行っていた。

 しかしながらその本来の姿は、結社『ゴートゥヘム』(スラングで天国へ直行という意味)のオーナーであった。

 その仕事内容は、異能者社会にあって必要悪の一つとして認知されていた、良い意味で天国への案内人、悪く言えば地獄へ送る死神という社名の通りの復讐代行業。またの名を後始末屋、業界筋の隠語ではシュレッダーとも呼称され、いわゆる復讐を請け負っていた。

 結社は見習いを含めて五十名余りのメンバーを抱え、業界筋では、三本の指に入る大手筋で、それを男は一代で築き上げていたのだった。


 とは言え、男は突然降って湧いたようにしてそこまで来たわけではなかった。平凡ながら、ここまで至るには長い人生を歩んできていた。

 スタン連合、同盟アストラル、クロト―機構の三つの系統が統べる世界において、二人とも黒魔術の心得があった男の両親は、スタン連合支配下の武闘派で知られたさる中堅組織に幹部待遇で所属していた。

 十代の頃の男は、硬派な顔つきをした、どこにでも見られるそれほど珍しくもない悪ガキだった。普通に血の気が多くて感情が先走り直ぐに行動となって現れていた。その当時は同じような性格の者達と付き合って、五十人ほどでグループを組んで、両親から見よう見まねで習得した黒魔術の力はもとより六フィートを遥かに超える堂々とした体躯とその粗放な言動と行動力とを背景に、グループのリーダーとして感情の赴くままやりたいことを好き放題にやっていた。

 ところが運が無いというか悪いというか、あるとき大きな騒動を起こしたことが発端となって両親を巻き込んで話がややこしい方向へ進んだ。

 男がリーダーのグループは、別の同じような規模のグループとまだ子供だったにもかかわらず縄張りを巡って抗争を繰り返していたのだが、それが子供の域を超えて相手のグループからかなりの死者が出たのだった。それも一人や二人ではなく、半数以上が亡くなるという。

 結果、双方のグループの両親達の話し合いが持たれ、どちらも悪いという判断が下っていた。

 しかしながら、片方は死んでもう片方は怪我を負っただけではつり合いが取れないと言う意見が出て、結局のところ、加害者側は被害者側へそれ相当の賠償金を支払うことで決着がついたように見えたのだが、そこはそれ、大人同士のしがらみで。死んだ子供の中に、同盟アストラルに属する、とある有名な組織の大幹部の子息がいたことから、その両親がまとまりかけた話し合いにいちゃもんを付け、そのことがリーダーであった男の両親へと及んだのだった。

 二人は男の責任を取る形で属する組織の役職から辞する。すなわち組織から出て行くことになっていた。

 そこへ加えて、騒動を起こした首謀者と見なして、男を向こう一年間の間、団体付属の特務機関へ入れるという無茶な用件を提示してきたのだった。

 特務機関とは、組織間同士の争いの仲裁や調停を裏から根回して行うために、スタン連合、同盟アストラル、クロトー機構の三つの団体が協力し合って作った組織で、その当時、その過酷な任務のせいで一年間の生存率が五割を切るか切らないあたりと誰も志願する者がいないところであった。

 そこで要員確保に知恵を絞った三団体は、特務機関を更生施設と位置付けて、団体の規律を犯した重罪人とか犯罪人を一切の罪を許すからという理由を付けて、無理やりに任務に就かせているところでもあった。

 そのようなところに行けと言うのは、まるで死んで来いと言っているようなもので。両親は苦渋の決断を迫られた。だが最後は力関係の論理で、その条件を呑んでいた。

 その日の未明。男は両親と大ゲンカの末、両親に怪我を負わせて家を飛び出した。それ自体は両親が我が子の将来の身を案じてわざと仕組んだことであったが、その当時男は若過ぎたこともあり、そのようなことを考える深い思慮も余裕も持ち合わせていなかった。感情の赴くまま家を出て、途中で仲間二十数名に声をかけて大勢で郷里を後にしていた。

 そのとき男は十五歳で、これでやっと親から自立できたと爽快な気分だった。もっと自由に好き放題できると信じて疑わなかった。

 ちなみに行先はというと、持つべきものは友ということか、中の一人の親戚に人材派遣会社を手広く経営している人物の元で働いている人がいるとかで、そこへ行けば何とかなると踏んで身を寄せることにしたのだった。

 男とその仲間は、まだ世間を良く知らなかった。親からかすめ取った幾ばくかの金とカードを頼りに怖いもの知らずで意気揚々と向かった。

 仲間の親戚が働いているという人材派遣会社のシステムは登録制を採用していて書類に色々と書き込まなくてはならなかった。しかし人材会社自体は男や仲間の家族が所属していた団体であったスタン連合と競合していた同盟アストラルの支配下にあったので、二十名以上の若者が一度に同盟アストラルに移ると言うと、ある程度融通が利いた。

 着いて直ぐに面接官と優先的に面談できていた。男と仲間はそのとき何でもいいからと仕事を選ばずに高い報酬の仕事を志願した。

 その際、彼らを担当した面接官は中年の女性で、何と仲間の親戚の人だった。

 普段は受付と相談員を務めているが、心配で様子を見に来て、担当を代わって貰ったということで。彼女は男と仲間を別室に呼びつけると、彼らが書いた応募書類を見ながら、


「何の知識も無しに応募するなんて何を考えているの。中身を分かって書いてるの?」


 そう叱責して、話にならないとけんもほろろに却下した。そこへ加えて、


「そもそも君たちはここでいうところの人材派遣の意味を何も分かってはいないようね。報酬が高ければ高いほど生きて帰ってくる保証がないということなのよ。それにやる気があるとか一生懸命頑張りますとか言った真っすぐな心では無駄に命を失くすわ。他の安価な仕事にしたって、幾ら能力が秀でていても経験が全くなければ務まらないし。死にはしないけれど、油断をしていると大怪我を負ったりかたわ者になることさえあり得るのよ。だから、よく考えて応募することよ」と説教した。

 ではどうすれば良いでしょうかと尋ねると、中年女性は少し考えてから応えた。


「そうね、ここには職を紹介する場を提供する施設以外にも、職を得るための教育を行う学校も併設していてね。そこへ入って一年間みっちり学ぶことね。君たちはみんな若いのだからそれからでも遅くない筈よ」


 大人の意見を言って聞かせた女性に、男と仲間は手詰まり感も手伝いなるほどと承諾。女性に頼んで学校に入学する手続きをして貰うと、色々と養成講座があった中で、腕力に物を言わせられるとしてボディガード養成の組に中途入学していた。


 ところでボディガード養成の講座は、人の命を預かる立場から、単なる要員の育成をするのではなく現業に見合った即戦力を送り出すためと称して、ついてこれない体力の者や頭の悪い者は去れという方針を取っていた。

 そのため、仲間が次々と脱落しては、介護講座や警備員講座や動物飼育員養成講座や製菓師講座や花卉植物栽培師講座や農業講座や鉱山技師養成講座といった楽な講座に流れていき、一年が経過した頃には男を含めてたった三人しか残っていなかった。

 それから男と残った仲間は、学校を卒業するにあたって就職指導担当の指導員から言われた一言、


「資金も後ろ盾もろくにない状態でビッグになるには始めが肝心だ。ではどうするかというと、どんなに(給与や休みや労働時間といった)待遇が悪くても、最初は名が通った大所帯の組織に入ることだ。そこで少なくとも十年間は修行だと思って辛抱して働くことだ。それからは自由にしたい放題すれば良い。それがビッグになる近道だ。仮にでも待遇が良いと吹聴しているところは即戦力を募集しているので新人にはろくに何も教えてくれない。それどころか消耗品とみて扱いが荒いところもあって、長い目で見れば勧められない」を守って“幹部候補生募集”と広告を出していた、創業から五百年余り経つ構成員五百名の名門組織へ志願。まだ十代と若かったことと、辞めることを見越して一度に多量の人材を取っていたことと、学校推薦によって無事採用されていた。


 男と仲間が就職した組織は、裏世界の組織が表社会から奪い取って闇の奥に隠して所在不明とした金融商品や資財を闇の中から掘り起こしてかすめ取るというハイエナもどきの闇の採掘業を生業としていた。

 それ自体は莫大な儲けとなるため、他の組織も参入して争いが絶えず。そのため武闘派の人間を多く抱える必要があった。

 そこへ加えてその業態は、細部に渡って裏世界の組織の情報を知る必要性があったことから広範なネットワークを必要としていた。

 そのため、入って間もない新人が先ずさせられた任務はスパイ業務。怪しい人物を捜すところから始まり、目を付けたターゲットの情報収集をするために、監視と盗聴と上に報告するデータ整理業務がほとんどで、それが来る日も来る日も続いた。しかもその間給与も雀の涙で、おまけに長時間労働で、年がら年中休みも無いときていた。

 五年目になったとき、さすがにしびれを切らしたのか二人の仲間が組織を去り、男一人が残っていた。

 そして六年目がきたとき、ようやく新人に業務を委託して、いよいよ学校で学んだ技術が生かせる、人と渡り合える現業へ移っていた。

 しかしながら、まだまだ駈け出しに過ぎず。当初は先輩の雑用か助手がいいところだった。

 それから時が経ち十年目になったとき、仕事の内容が理解できて、先輩に頼らずに普通に立ち回れるようになっていた。

 休みは自由に取れるようになり勤務時間も自身の裁量でどうにでもなるようになった。手足となって働いてくれる部下も五人程度持つようになっていた。

 それでもそこは年功序列制を採用していたせいで地位は新人に毛が生えた準社員に留まっていた。正社員即ち幹部になれるのはあと十年はかかると思われた。よって給与はまだ低かった。男はそれだけが不満だった。

 さらに時が経ち十二年目がきたとき、よりよい環境を求めて男はその組織を去っていた。仕事で知り合った別の組織からヘッドハンティングを受けたのだった。

 移った先の組織は、これから勢力を拡大しようとしていた新興勢力の組織で。その資金源は、表の世界の人々がギャンブルで負けて吐き出す金だった。言うなれば、不自然に感じないイカサマを仕込んでそこから上がる資金を組織の運営に充てていた。

 男はそこに幹部として雇い入れられていた。

 その業界は古くからの老舗と新興勢力が利権を巡って覇を競い合っていた。どちらもどうにかして相手の弱みを握り支配下に置こうとしていた。

 そのためか男が就職した組織は気前が良かった。給与は歩合制で成績に応じて幾らにでもなった。

 そのとき役立ったのは、前の組織で五年間以上もの間地道にさせられた情報収集のやり方で。男は順調に出世すると、役職付きとなっていた。

 その頃、ようやく心と金と時間とに余裕ができ、当時二十三歳のエイーザ・ピンキードと所帯を持った。職場結婚だった。同時期に子供もできた。

 余りに居心地が良かったので、そこで更に十五年間働いた。その間に上級幹部まで上り詰めていた。その頃には、若い時のような肩幅の広いスポーツマンの面影はもはや見る影もなくなり、ただの恰幅の良い中年のおじさんとなり果てていた。

 もうそろそろ引き際かと見切りをつけて、辞めた後のことを考え始めたのもその頃だった。組織はオーナーとその家族と親族で主要な役職を固めていた関係で、それ以上の昇進は見込めそうもなかったからだった。

 そのとき最初に思い浮かんだのは、知り合いを頼ることと仕事の紹介所に足を運ぶこと。しかし、もはや人の下で働くのに飽き飽きしていたので、結局のところ、表の世界の人間に成りすましてビジネスを行うことに決めていた。

 そのことをオーナー側に伝えると、オーナー側は当然のことながら引き留めた。しかし男の心が変わらないのを見ると、組織の秘密を洩らさない、同じような仕事に一切関わらない、中の人間を連れて出て行かない、以上の三つの条件を呑むならばの条件で組織からの離脱を認めようとなった。男が了解したと伝えると円満に組織を離脱していたのだった。

 男は妻と相談の上、富裕層が暮らす都内の周辺に建つテナントビルを物色。その中から気に入った十五階建てのビルの一階部分の空いた空間を借りることにした。一階の並びにはビルのオーナーである不動産会社が入り、二階部分には同一オーナーが運営するヘアサロンとエステティックサロンが、その上の三階は空室で、その上の四階には警備会社とダミー会社が入りと、環境はまずまずと言って良かったからだった。

 間取りは縦長のワンルーム。入口や窓のガラスは全てマジックミラーで、外から中が見えなくなっていた。

 そこで何をするかというと、「全て私に任せておいて」と妻が言うもので任せきりにしていて、男は何も知らされてなかった。 

 十日後、内装工事が出来上がり設備の運び入れも終わったと業者から連絡が来たのでビルまで二人で見に行くと、なんと探偵事務所、それも看板には妻のファストネームを取ってピンキード探偵社となっていた。

 妻の説明では、遠い親戚が一般個人向けの金融会社、即ち消費者金融と探偵社の二つを営んでいて、そのうちの探偵社を儲からないからと整理しようとしていて、それを引き継いだということだった。

 ともかくも中へ足を踏み入れると、ワンフロアだった室内が新たな壁で四つに区切られていた。天井の蛍光灯照明はそのままで手を加えていなかったが、純白に塗装された出入口の壁の一端には、装飾品代わりに探偵業の営業許可証と調査項目と料金を列記した表が額に入ってさり気なく掛かり、三つに分割された各フロアには落ち着いた柄のカーペットが敷かれ、業務用の高級ソファセットが二組とウォーターサーバーと豪華な事務デスクやイスやキャビネットや書棚といった調度品がそれぞれ綺麗に配置されていた。

 そのとき男の妻は、仕上がり具合を見て終始ご機嫌で、ソファや事務デスクに腰掛けては一人悦に入っていた。しかし男にはどうでも良いことで、足りないものを集めにかかった。――探偵なんてものは二人でできるわけない。問題はスタッフだな。

 男には髪と瞳の色は妻に似て栗色であったが体付きは若い頃の男とそっくりの十代半ばから後半の息子が三人いた。ふたりとも多忙だったため放任主義で育てたせいか、三人とも自信家で行動力があったが、如何せん、他人から指図されるのが嫌いで、やりたいことだけをやるという性格になっていた。

 一番上の息子は既に独立して家を出て一人暮らしをしていた。といっても、一ヶ月に一度ふらりと戻ってきては三日ほど滞在して、最後は金を無心して再びどこかへ去ってしまうという意味不明な行動を繰り返していた。どこまで真実なのかそれは分からなかったが本人の供述では、世界各地を放浪して友達を作っているということだった。

 残る息子たちは悪い仲間と学校もろくに行かずに遊び呆けていた。

 そんな二人を、男は若い頃の自らを見ているようで血は争えないなと思ったが、だがこのまま放置することはできないと自身の若き頃の武勇伝は脇に置いておいて、もうそろそろ真面目に将来を考えないかと意見をした。

 それからいきさつを説明して、「遊んでいないでお前たちも手伝え、探偵の真似事をするんだ」と声をかけていた。

 すると息子たちは、少し考えてから「ついでに遊び仲間も雇うというなら手伝ってやっても良いよ」「みんなで五人いるんだ。男が三人と後は女子でも良い?」と条件を示し合わせるように出してきた。

 男はちょっと多いような気がしたが、いないよりマシだ、それに半年もすれば辞める者は辞めて半分ぐらいになるだろう、そういったことを思い浮かべると、連れてこいと言って取り引きを承諾していた。

 男が七名の若者を連れて戻り、妻に引き合わせると、妻も男と同じことを考えたのか反応は良好で。


「分かったわ。みんな素人だから、そうね明日から二日間の研修を通して探偵業とはどういうものかを学んで貰うけれど。それでも構わないかしら」 


 嫌な顔を見せずに、そう言って了解を求め、全員が首を縦に振ったところで、即採用に同意していた。


 それから四日後。探偵業のノウハウを知っていた男の妻が代表を務め、顧客との応対を担当。男は代表の補佐と調査の責任者を。その他の者は平の調査員と受付係とか運転手役といった雑用を務めると役割分担が決まり、ピンキード探偵社はいよいよ業務を開始。新しい生活がスタートを切った。

 とはいえ、事前に探偵事務所を開く告知も周りへのあいさつもしていなかった関係で、しばらくの間、まるっきり客が来ない日々が続いた。

 しかし男と妻は、そのこと自体いい機会と良い方に捉えると、探偵業務の基礎を教える過程で、まだ教えていなかった探偵道具の応用した使い方や異能力を使った尾行の仕方だとか変装術だとかの手ほどきを、息子たちとその仲間に実地演習を兼ねて分け隔てなく指導した。

 彼等は、若いだけあってゲームをしているような感覚でその全てをたちどころに覚えて吸収していき、見る間に様になっていた。

 よって、そうこうするうちに初めての仕事の依頼が来たとき、何のトラブルもなく首尾よくこなすことができていた。

 探偵事務所の顧客は、部屋を借りるにあたって想定した通りに裕福な男女がほとんどと言っても良かった。そしてその依頼内容はというと、夫や妻の浮気調査や愛人に関する捜査だった。

 男の妻は、前にいた組織では上からの命令を伝えるメッセンジャーの役割を担っていただけあって、誰に対しても物怖じしない上に愛想が良く口がうまかった。加えて人を誘導するのに長けていた。

 依頼の談話の中で、親類や友人に成りすます仕事や身代わりになる仕事やボディガードや行方不明者の捜索やアリバイ工作といった仕事や、挙句の果ては、よその探偵事務所への捜査妨害など、おおよそ探偵がやることのない仕事まで引き受けますと吹聴した。

 そんな妻のなりふり構わぬ営業努力が功を奏したのか、仕事の依頼が徐々に増えていき、一年も経った頃には経営はすっかり軌道に乗っていた。

 それから二年過ぎた頃には、ますます繁盛して、それにつれて人員が創業時の六倍となって女性スタッフと男性スタッフの比率が同程度となり、同一ビル内で空いていた二つの階のフロア全てを、スタッフの待機場所兼生活空間として、まるまる借り切って営業するようになっていた。

 そして気が付けば、その辺りでは押しも押されもせぬ有名な探偵事務所となり。かような成長著しいビジネスに男の妻はご満悦で益々仕事に励んだ。

 一方男は、若い連中が一人前となって、どのような仕事も難なくこなすようになっていくことに嬉しい反面、いざ自分自身のことになると、益々やることがなくなり、仕事が暇になっていくことに何かしら虚しく感じるようになっていた。


 一般市民になりすまして三年経ち、表の世界にすっかりなじんだ。 

 それにしたって、一生懸命働いて、色んな経験をしてきて、行き着いた先がこれか!

 ビデオや写真を撮るだけの仕事は誰にだってできる。素行調査とか、人の尻を追い掛け回すだけの仕事は、ストーカーと何ら変わりやしねえ。仮にでも戦闘に特化した武闘派魔術師であるこの俺がわざわざするような仕事ではない。このままでは人間社会の中に埋没して一生を終えるはめになってしまう。

 一体俺は何を求めているのだろう。この道は本当に俺の選んだ道なのか、この道が果たして正しいのだろうか。ずっとこの仕事をしていくのだと思うと気が滅入ってしまう。できることなら、またあの時代に返ることができればな。


 こんなはずではなかったと血沸き踊る体験をした過去を懐かしみ憧れるようになっていた男はある時を境として、昼間でも暇ができると、三年の間行くのを取り止めていた会員制の酒場へと足が自然と向いていた。そこで昔のように酒を一杯ひっかけては気晴らしをしていた。

 といっても、男が秘密の隠れ家と呼んでいたあたり、普通の酒場ではなく。深い森に囲まれた辺ぴな場所にぽつんとあったり、コンクリート打ちっぱなしの建物だったり、雑居ビルの一室であったり、物置か小さな倉庫にしか見えない目立たない外観をしていたりした。

 しかもそこは、単にアルコールを提供するだけでなく、室内に古今東西の表と裏の社会の世相を蓄積したライブラリーがあったり、電子掲示板みたいな端末からスタン連合、同盟アストラル、クロトー機構の三団体の最新の様子や数々の情報を知ることができたり、魔法ドラッグや魔道具を手に入れることができたり、AIがもてなしてくれて色んな相談を受けてくれたりと、数々のサービスが受けられるようになっていた。

 かつて男は、生活圏内にそのような場所を五、六ヶ所持っていて、情報を仕入れたりストレスを発散したりと目的別に利用していた。

 そのような中、男はとあるマンションの一室を店舗にした酒場へ足げく通った。店の看板も何もない隠れ家過ぎるところで、タングステンランプが灯るだけの薄暗い店内に五人が座れるカウンター席とその相向かいに三人用のシート席が置かれてあるだけと、極めてこじんまりしていて、まるで時間が止まっているかのような不思議な錯覚に陥る雰囲気を醸し出していた。そこでは、枯れた風貌から八十歳はとうにいっていると思われる老マスターが、にっこり笑うとえくぼが可愛いショートのボブヘアをした二十代くらいと思われる孫娘とふたりで接客していた。

 老マスターはカウンセリングの資格を持ち数々のうんちくに明るかったことから、男は気分が落ち込んだときに良く行っては、マスターに不満や悩みを打ち明けて相談に乗って貰っていた。そのことを思い出してのことだった。


 男はその酒場へ三度ほど続けて通った。その都度、大皿に品良く盛り付けられた店お勧めの日替わり料理を味わいながら、老マスターが調合した特製のカクテルをあおってはちょっとした世間の噂話に興じた。老マスターはスタン連合、同盟アストラル、クロトー機構の三団体のことについて異常に詳しかったので、そのことについても話した。しかしそれ以上のことは何も言い出せずに帰っていた。

 そうして四度目に、少し迷った挙句にようやく決心をして、どうしたものかと答えが出そうもなかった悩みをぼそぼそと打ち明けていた。

 そんな男の相談を受けて老マスターは呆れたように苦笑いをした。


「なるほど、そういうことですか。人に使われるのは嫌ときて、いっぱしの団体の一員になりたいと? それもその年齢で。それは明らかに虫が良過ぎます相談ですな」


 そう言うと、無理難題に困ったのかそのまま押し黙ってしまった。それから長い沈黙が流れ、男がやはりダメかとあきらめかけたときだった。何かを閃いたのか、しれっとした顔で穏やかに呟いた。


「そうですなあ、こういうのはどうです。結社若しくは組織を丸々買うのです」


「そんなことができるのか?」マスターの意外な答弁に男は懐疑の目で訊いた。


 大昔はいざ知らず、人を集めて結社名や組織名を名乗ったとしても異能の世界では認知されないことは男も十分に承知していた。

 結社や組織を異能の世界で認めてもらうには三つの団体のいずれかの認可が必要で、先ず団体へ書類を出して申請しなければならなかった。書類審査の上で審査が通ると団体内で登録ができて、そこで初めて結社や組織として認知されるのであった。

 ところが問題は書類審査で、これが中々厳しくて、余程のこと、他の団体から移ってきた組織であったり、団体に貢献するような有益な情報や知識をもたらせたり、団体に対して多大な寄付をしたりしない限りは受理されないのが通例であった。このことはどこの団体でも同じようなもので、一旦結社や組織の運営権を持つと中々他人に手離さない温床ともなっていた。

 それなのにそれを買うとか、そのようなことが果たしてできるものなのか? もし買えたとしても途方もない値段では?


 そんな思いで問い掛けた男に、老マスターは、


「わけはありません。といっても特別なルートを使わないといけませんが」と応じると、


「その対価ですが私にも分かりかねますが、ひょっとして安く手に入るものもあるかも知れません。物は試しです、一度会って見てはどうです。 

 知り合いにその取り引きを仲介しているブローカーがいますから紹介してあげてもかまいません。どうでしょう?」と勧めてくれた。


 男は半信半疑であったが二つ返事で承諾していた。


 その翌日、老マスターがお膳立てしてくれた、三十階建てのビル一棟がまるまるレンタルルームという、とある建物前で待ち合わせた。

 指定された時刻に待ち合わせ場所であったその建物の玄関前へ行くと、そこで待っていたのは褐色色の顔をした六十がらみの小柄な年配の男で。片方の手にブリーフケースを持ち、サラリーマン風のきちんとした身なりをして顔を隠すように帽子を深めに被っていた。年配の男は男を見上げてニコッと愛想笑いすると、「トーアン・タムです。ブローカーをやっています」と丁寧に名乗り、「中に入ってお話しましょう」とビルの中へと男を誘った。言われて男は素直に誘いに応じると、年配の男は利用慣れしているらしくエレベーターの方へさっさと時を移さずに歩いて行った。

 年配の男が向かった先は数あるレンタルルームの中でも事務用テーブルとイスしか置かれていない、特に狭くて質素な部屋で。そこで相向かいに腰掛けると、部屋の中で帽子を脱がずに年配の男が口を開いた。


「ええ改めて自己紹介させていただきますが、私、各団体が発行した会員証の売買を仲介しております、トーアン・タムというものです。こういう取り引きは、得てして後になってもめることが良くありますものでして」 


 そう言うと、男を信用させるためなのか、団体の仲介業者の証である警察手帳そっくりな身分証を男の目の前で見せ正規な業者であることを示すと、ぼそぼそと続けた。


「結社若しくは組織を買いたいそうで?」


「ええ。まあ」


「まあ正規では一筋縄にはいきませんが、私共が仲介すれば簡単とはいきませんが何とかなります。いかがな結社若しくは組織をお望みでしょうか?」


「そういわれましてもね」


「そう思いまして資料を用意してまいりました」


 年配の男は言葉を切ると、イスの側に置いていたブリーフケースからA4の用紙を閉じた薄っぺらい資料らしきものを取り出し、男の目の前のテーブルに置いて言った。


「どうぞ御覧ください。今のところ出回っているのはそんなところです」


 言われて男が資料をのぞき込むと、紙面には、結社若しくは組織の名らしき名称と国名と事業内容とアジトの有無と売却価格らしい数字が、細かく列記されてあった。

 知らなかった。こんな簡単に組織が買えるものなのか? そう思って見ていると、年配の男が愛嬌たっぷりな笑顔で言い添えた。


「さすがに現在バリバリに営業中の結社や組織を売ろうとするところはございません。しかし上手い具合に抜け道がございまして。

 通常は、結社や組織はそのオーナーが引退したり死んだり、或いは後継者がいなかった場合は解散するか自然消滅する運命にあります。

 ところがです。入会しております団体に対して遺族やその関係者が、毎年度納める会費を代わって上納している間はその限りではありません。例え活動の実態がなくっても存続できるのです。

 つまりです。そこに載っている結社や組織は全て休眠しているところでして」


「ああ、なるほど」用紙に目を落としながら、分かったような口振りで男は応じた。なんだ、そういうことか、それなら分かる。


「じっくり見てお決めください」


「そうさせて貰います」


 それから会話が途絶えた。が一、二分もしないうちに、年配の男が、


「その中でも売れ筋は、何といっても優良な縄張りを持っている組織です。その次は、高い技術力があったり、本業以外に収入源を持っていたり、高収益の不動産を持つ組織となっています。そういう案件は立ちどころに売れてしまいますので、売却価格も競争入札で自然とアップします。ここに記された額よりも高くなる場合がありますので、その辺はご了承下さい」


「その逆に、両隣に有力な組織の縄張りがあるとか、多大な負債があったり縄張りがなかったり特殊であったり辺ぴな国にある案件は物凄くお得となっています。交渉次第では値引き可能です」


「ええ、ご契約はお早めに決断された方がよろしいかと。私共以外の業者も同時に仲介していますから、今こうしているときもよそで同じ交渉が行われている可能性があります。早い者勝ちです」と言った風に熱弁を振るった。


 そんな年配の男の営業トークをさらっと聞き流しながら男は思った。――見るだけ見ればと言われてやって来たが、余程売りつけたくて仕方がないようだな。まあ良いさ、手ごろなものがあれば買ってやる。

 とは言っても男は所在地と価格の部分しか見ていなかった。――何が何でも自国でなければな。外国は言葉や人種や環境の問題があるからな。値段もそうだ。一生遊んで暮らせるくらいの額は何が何でも無理だ。出せそうにない。高価なのは論外だ。

 そのとき資料の三枚目の下の方に、零の数が他の案件に比べて一桁から二桁少なくて高級車二台分くらいの価格設定になっている案件が目に留まった。――随分と安いじゃないか。何かあるのかな。


 男は『ラーモベラ』という名の組織名を指で指すと訊いた。


「これなんかはどうだろうか?」


「はあ」


 年配の男はちょっとのぞき込むと首を振って応えた。


「お客様、お目が高いと言いたいところですが、そいつは特殊過ぎます。素人が手を出すようなものではございません。やめておいた方が無難です。事業内容が復讐代行業となっておりますでしょ。事業内容上、命の危険がいつもつきまとい、しくじると命を失います。

 それよりも、その下の方にあります『ジントマンス』はいかがでしょうか。縄張りの全域が砂漠地帯と厳しいかも知れませんが、案外化石や遺跡群が埋もれていたりと掘り出し物であったりします。

 またその下の『キムダム』も宜しいのでは。所在地が所在地だけに、かなりなへき地で人口も少ないと思われますが、その代わり好き放題に手を加えることができます。趣味として、道楽として購入されては。随分とお手ごろな価格帯となっておりますが」


「ふーん、なるほどね」

 

 男はちょっと考えて、今経営している探偵業にちょうど武力行使を足したようなものだ。抜かりなくやればそれほど難しいことはないだろう。軽い気持ちでそう考えをまとめると決断した。


「やっぱりこれにすることにしたよ」


「えっ!?」


 一瞬年配の男はぽかんとした顔で信じられないという風に首をひねった。が、直ぐに愛想笑いをすると言った。


「本当に良いので。変えるなら今ですよ。よく考えてください。後で後悔しても知りませんよ。組織の名称は申請すればいつでも変えることができますが、事業内容は変えることができませんので」


「もう決めたことだ。これにするよ」


「分かりました」


 年配の男はあっさりと受け入れると、穏やかに言った。


「それでは確認してみます」


 直ちにスーツの内ポケットから携帯を取り出して電源をオンにすると、耳元に持っていき、誰かと会話した。聞こえてくるその内容から、案件がまだ売れていないかどうか確認しているようだった。

 約一分間ほどして決着がついたのか年配の男はほっとした表情で携帯を元の場所へしまうと男に向かって笑みを見せて言った。


「大丈夫でした。まだ売れておりませんでした」


 それからブリーフケースから黒い表紙に金文字で契約書と記された冊子とインクペンを取り出すと、冊子の下の空欄に『ラーモベラ』と書き、冊子を開けて男の前に差し出して、


「ではさっそく手続きをさせていただきます。空欄にサインをお願いします。あとは私共が団体の関係機関へ提出しますから。ペンはこちらのものを使ってください。提出する書類は専用のペンで記す決まりになっておりますもので」


 分かったと男はインクペンを受け取ると、冊子の中身を確認した。七枚綴りでいずれも細かい文字が躍っていた。その中、同盟アストラルの団体名と団体の代表の名が記されているかどうか、譲り渡すという文言があるかどうか、他にも金がいるかどうか金額欄に注意を払いながら慎重に空欄へサインをしていった。

 それから五分ほどしてサインが終わると、冊子を男は年配の男へ提示して訊いた。


「これでいいだろうか?」


「では見せていただきます」


 そう応じると年配の男は冊子をぱらぱらとめくり確認をした。そして言った。


「結構です。これで契約は完了致しました」


 続いて年配の男は契約書の冊子とペンをブリーフケースにしまうのと交換にクリーム色をした一枚の紙片を取り出してテーブル上に置いた。


「私共の連絡先と口座番号と手続きの方法が書いてあります。見て貰えればはっきりわかると思いますが、私共はお互いに公平を期すために二度に渡って取り引きをするようにしております。

 世の中、あらゆるものが信用で回っているというのに、一部の中には騙される方が悪いと、とんでもない風潮がまかり通っていますものですからそうさせていただいております。

 先ずは、そちら様が総額の二十五パーセントを私共が指定した口座へ振り込みます。

そうしますと私共は認定証書と権利証書をお送りします。

 次いで残りの七十五パーセントを入金していただくと事業内容マニュアルが記された書類をお送りします。書類は事業を継続して続けていくためには欠かすことのできない重要な品で、認定証書と権利証書とセットで一つですから、そのどちらが欠けても意味を成しません。言い換えますと、全てが揃わないと全く使い道がありません。あとはそうですね……」


 そこまで説明して年配の男はまだ言い忘れたことがないかと首を捻った。そして程なくして、まるで世間話をするかのように、気さくに話し掛けて来た。


「あのうアジトはいかがでしょうか? この付近ですと、もう消滅してしまいましたが、さる中堅の組織が所有していた築年数不詳の別荘がございます。周りが森に囲まれておりまして付近に川が流れていてと閑静なところです。もう何年も人が住んでいませんので多少の改装が必要ですが。そういうわけでお安くなっております。いかがでしょう?」


「ああ、そのことなら心配無用です。今住んでいる場所をアジトにする予定です」


 安い案件だったので手数料が余り入ってこないからと、適当な建物を選んでその埋め合わせを図る気だなと思った男は抜かりなく理由をつけて造作もなく返した。


「ああ、そうでしたか」


 年配の男は不満そうな顔を一瞬だけ見せた。が、交渉相手の男が大きながたいをしてケンカが強そうな雰囲気から、気がそれほど強いタイプでなかったのかあっさり引き下がり、それ以上の駆け引きはしてこず。約五分後に商談はスピード決着していた。


 男は待ち合わせしていたビルの玄関前で年配の男と分かれると、その足でほんのりと日が暮れかかった夕方の街へ向かった。初めて来た街を散策しながら頭を整理するためと夕食が摂れそうな場所を捜すためだった。

 二時間後、男は何食わぬ顔で当のビルまで舞い戻ると、エレベーターで上の階に上がる際に見かけた私書箱のロッカーの一つを一週間の期間借りる契約をした。――利用できるものは何でも利用させてもらうさ。

 それから、探偵業が板についた周到さで、このビルの住所を送り先に指定。ビル内の私書箱に品物が届くように手はずを整えて、その場で手付金を振り込んだ。――明日か明後日には届くはず。それから残金を振り込めば完了だ。全てが片付くまで四、五日ってところか。 

 そこまでし終えると、男はすっきりした気分で帰路に着いた。


 それから三日後の夕方過ぎ。もうそろそろ来る頃かとビルに立ち寄ると、果たして私書箱に小包の箱が届いていた。

 男は胸が高鳴るのを何とか抑えつつ、小包を大事に抱きかかえるように持つと真っすぐに自宅へ戻った。

 自宅は十数年前に準大手のデベロッパーが上位中流階級向けにと、比較的なだらかな丘陵地を開発してできた土地に建物を建てて分譲販売した百十一軒の内の一軒であった。地下一階地上三階建ての三角屋根の高級住宅で、別棟に普通車を十五台ばかり格納できる大型ガレージの建物とペットと戯れることができる広い庭が付いていて、当時婚約中だった男が貯金を全てはたいても足りずに他のところから借金してようやく購入したものだった。


 時刻は夜の八時過ぎ。辺りはすっかり闇に包まれていた。屋外の外灯と玄関灯は点いていたものの、自宅の窓という窓には防犯シャッターが下りたままで、ひっそりと静まり返っていた。

 男は馬鹿みたいに広いガレージに車を入れると、その足でいつもしているように合鍵を使って建物内に入った。

 一階は広いリビングルームとそれに匹敵するくらいの広さの多目的ルームが一つとダイニングルームが二つ。あとゲストルームとバスとトイレが各三つという間取りになっていた。そして二階は妻の寝室と、ゲストルームとバスとトイレと多目的ルームが各二つとなっていた。

 男は、人の気配がなかった一階と二階のどこにも寄らずにホームエレベーターで三階へと向かった。三階には、男の寝室と書斎として使っていた多目的ルームとゲストルームにバスとトイレがそれぞれ一つ付いていた。いつものように男は書斎として使っていた部屋へと一目散に入った。

 ちなみに妻は、仕事が終わると社員と共に食事に出掛けて、社員が運転する車で戻ってくるのが毎日の日課で、いつも夜の十時か十一時にならないと戻ってこなかった。

 二人の息子は、探偵事務所の経営が軌道に乗るのに伴って、一階に与えられた自室を出て探偵事務所が入るビルで寝泊まりするようになっていた。従って今自宅には男一人しかいなかった。

 書斎は、十分上でうたた寝ができる頑丈なセンターテーブルに、同じくうたた寝ができるカウチソファに、世界各国の酒とガラスのグラスと少しばかりの書籍が入るキャビネットに、アイスクリームと氷が入る冷凍庫に、ビールと缶詰と瓶詰が入る冷蔵庫が置いてあるという、至って男部屋という感じがするものもので。

 男は部屋へ入って早々、一旦小包をテーブルの上に置き、次いでキャビネットから飲みかけの酒の瓶とグラスを取り出してテーブルの上に置くと、冷凍庫から手でつかんで持ってきた氷をグラスへと入れ、透明な液体を瓶から注いで立ったままぐいと少し飲み、それからカウチソファにゆったり腰掛けた。続いてテーブルに置かれていた小箱から電子パイプを取り出すと、口にくわえてうまそうに煙をくゆらせながら、宝箱を開けるようなわくわく感で小包の箱を開けていた。

 箱の中には小型手提げ金庫に見えなくもない小型のアタッシュケースが一個入っており、その内部に、自動車のナンバープレートを一回りくらいコンパクトにした金属製のプレートと、それと同じくらいの大きさと形をする透明な樹脂容器の額に入れられた紙片が納められてあった。

 それら二つを男は手に取って良く見てみた。すると金属プレートは組織として振舞う権利を団体が認める権利証で、透明容器に入った紙片は組織名『ラーモベラ』を団体として認証するという認定書であった。

 男は、子供が新発売のゲームやおもちゃを手にしたときのような満面の笑顔で、プレートと額を愛おしくてたまらないという風に顔にすりすりと擦り付けると、何度も独りごちた。


「嗚呼、これは夢じゃないだろうな。こんな簡単に組織の看板が丸々手に入るとはな……とうとうここまで来たか……思えば長かった……後は事業内容マニュアルを手に入れるだけだな」 


 そうと分かれば話が早いと、その翌日、男は残金を指定口座へ振り込んだ。それから三日後、荷物が果たして私書箱へ届いた。

 今度の荷物は形と大きさと感触から言って明らかに書物と分かったが思ったより軽かった。書物型をした箱の中にフラッシュメモリのような小型のデータメモリか何かが納められてあるのだろう。そう考えた男は前にやったように大事そうに小脇に抱えると自宅へ戻った。

 ところが、自室内で包んであった包装紙を開けると、意外なことに、百科辞典ぐらいの厚みのある一冊の本が現れた。


「これが事業内容マニュアルねえ?」


 表紙に何も書いていない、至って地味な本を一目見た男は思わず唸った。


「まるでグリモワール(魔導書)の実物を見ているようだな」


 グリモワールを例に挙げた男だったが、本当は彼自身も未だ一度もお目にかかったことがなかった。

 それもそのはずで。元々グリモワール(魔導書)の本来の目的は、作成者個人の知識を忘れないように書きとめておいたもので、たまたま子孫や弟子に伝えることはあっても、販売したり他人に紹介するために作ったものではなかった。

 そのため表紙が派手なものや立派な表装がなされているものや不思議な幾何学模様が描かれているのは決まって贋作作家の手によるもので。本物は至って地味で、そのほとんどが無地か、印があっても作成者本人のサインがあるくらいなものだと誰かに聞いたことがあったのだ。


 ――さあ、いよいよだな。期待で満ちた眼差しで大きなため息をつくと、男はアルミ板のような軽くて頑丈な表紙を開けた。

 第一ページ目の中央部に、カラーの挿絵で大昔の儀礼服に身を包んだ人物が描かれ、その下にガーロン・ヴィーと、その人物の名が小さく記されてあった。


「この人物が創設者なのか?」


 誰なのかさっぱり分からないなと男は首を傾げた。そして、何気なく次のページをめくった。するとその人物の年表らしき記述が現れた。


「ふーん、西暦六百五十年生まれか。そして六百七十年、二十歳のときにマンレーの戦いに従軍。その後、西暦六百八十三年にソロスの海戦へ参加か。闇の歴史の教科書に出てくる有名な戦いを経験しているのだな。

 確かマンレーの戦いと言えば、当時一万フィート以上の高さがあったと伝えられるマンレー山を挟んでスタン、アストラル、クロトーの三つの団体が覇を競って半年間戦いを繰り広げた……。あのとき団体の精鋭が激突して、マンレー山とその周辺の地形がすっかり変り果てた姿となったとかで、どの辺りで行われたのか今でも不明のままであったっけ。

 当時はその結末を見た者がいないことを良いことに、どこの団体も自分のところが勝利したと発表する事態となって、結局どこが勝利したのか分からず終いに終わったということだが。

 ソロスの海戦といえば、史上初めて海の上で呪術対戦が繰り広げられたあれか?

 それまではどんなに多くたって百人程度の規模でやっていたものが、あのときはその規模たるや数万人が一同にやりやったという……。

 あの当時、四つの大陸と九つの海を支配し、一番勢いがあるといわれたアストラルの軍勢がスタンとクロトーの連合軍に敗れたという戦いか?

 しかし連合軍は戦いに勝ったものの、戦いを見守っていた地上の味方軍がそのあおりを受けて甚大な被害を受けたことで、結局痛み分けに終わったという……。

 それからの約三百年間は団体の力が弱体化した停滞期で、混とんとした時代が続いたのだったな。そしてそのあとに三つの団体の中から、中興の祖と後に呼ばれることになる、ずば抜けた能力を有する一握りの者達が現れ、それぞれの団体の中の組織を統一。独裁体制が確立して、その後体制が二百五十年間続いたのだが、後継者問題と当時疫病が流行って権力を支えていた人物たちの間に多数の死者が出たことで体制が崩壊すると、再び群雄割拠の激動期が百年ほど訪れ、そんな時代を経て集団体制が再び見直されて現在まで至って続いているとか、そんなところか。

 西暦六百八十五年、友人であり良きライバルでもあったリヨー・ドロア、セブンティー・レイ、イアン・モレー両名と『ブイシャドウ』を結成か。

 ブイシャドウって今もアストラルの中核組織にあるが、あれのことかな?

 もしそうなら、ちょっと調べればわかることだろうが、三名とも、名のある大物臭いな。

 西暦六百八十五年、評議会委員に選任される。

 西暦六百九十年、評議会委員長に選任される。

 西暦六百九十五年、評議会理事に選任される。

 西暦七百年、評議会副理事長に選任される。

 ――団体の重要ポストを順調に歴任している。中々実力者だったわけか。

 西暦七百五年、評議会副理事長を辞任。

 ――その年に『ラーモベラ』設立か。ということは五十五歳の時に設立したわけか。俺とあんまり年が変わらない時分にねえ……。そして西暦七百四十七年死亡か。九十七まで生きたってことか……。


 挿絵に描かれた人物の年表から、壮大なドラマが思い浮かびそうで。男は何かしら興味をそそられると、ページをめくった。


 次なるページには復讐代行業という特殊な形態の組織を結成するに至った理由を、当時の時代背景から述べて当事者に代わって復讐をする理屈を正当化。単なる暗殺や殺人行為ではないことをアピールしていた。

 ――争いを好まなかったり力の弱かった者達が、有無を言わせず争いに巻き込まれて闇から闇へと葬られた時代であったということか。どうやら組織は弱肉強食の時代背景から生まれたものらしいな。

 続いて初代から歴代の組織のトップを頂点とした相関図が家系図のように細かく書き記してあった。また補足として、配下の人物の名前と性別、続柄、出生、主な役割、特徴などが詳しく述べられていた。そして最後に、当時ひんぱんに用いた魔道具の数々の目録が出ていた。それが何十ページにも渡って永遠と続いていた。

 ――血縁だけでなく有力メンバーの中から昇格して組織を継いでいるのもあるな。メンバーが百名を超える時代もあったみたいだな。

 めくっていくにつれて男は紙の手触りがツルツルしていて、紙特有の臭いがしないことに気付いた。

 ――紙は現代の通常紙でも動物の皮革でもないな。まるで一枚一枚コーティングしたようだ。今は失われてしまって存在しない技術によって、装丁されたものかもな。


 やがて相関図の記述が終わると、今度は情報の集め方、人材の集め方、信用できる人間と裏切る人間の判別の仕方、人員の配置の仕方、色々な場面に応じた対策の取り方、尾行の仕方、待ち伏せの仕方、身の隠し方、逃亡の仕方から武器の自作の仕方、薬の調合の仕方、素手による格闘技の技を図解したもの、外国の通貨の種類と交換計算法などが百数十ページに渡って事細かに列記されてあった。 

 それらを後でじっくり読むとして男はさっと目を通しながら読み進めていった。

 すると、終わりかけの元は白紙であったろう箇所に、細かい文字で何か記されてあった。


「なんだろうな?」


 男はそのページにふと目を止めた。


「比較的新しい記述みたいだな」


 軽く目を通すと、組織が休眠に至った理由が日記風にしたためてあった。

 ――どうやら、第百五代目として組織のトップを襲名した人物が五十歳で病死したあたりから組織がおかしくなったみたいだな。そのあとを引き継いだ人物が後を追うように一ヶ月後に亡くなっている。

 こんなに早く死なれてしまっては、その次は誰がなるか決めていなかったみたいだから、おそらく何かあったのだろうな。後継者を巡って仲間割れしたとか……。何でもそうだが欲が絡むと自然とそうなるものだ。

 その証拠にどうにかこうにか選ばれた後継者がその三ヶ月後に不慮の事故で亡くなっている。

 そのような経過を経て組織の中が収拾がつかないくらいに混乱したことで、愛想をつかしたメンバーが散り散りに去っていき、巡りに巡って組織の権利証が最後の後継者の遺族へ受け継がれて。そして遺族の方は組織の経営ができないからと売りに出していたってとこか。


 組織が売りに出ていた理由がおおよそ分かって、男は、ふうっとため息をついた。


「ともかく、ここまで来たのだ。頑張ってみるか」そんな言葉が男の口からぽろりと漏れ出ていた。



 時を置かずにあくる日、男は事業内容マニュアルを参考にして、どのようなことから始めれば良いのか学習。業界についてまるっきり素人であったので、それまでのやり方を真似ていた。

 ――まずアジトの件だが、アジトの場所をひんぱんに変えているな。そういうことで言えば、決まったアジトを作らない方が良いのかもな。

 ――それが一通り済めば次は人集めだ。


 男はさっそく人を集めにかかった。

 物は試しとして、かつて悪さを一緒にやった仲間や長く交流が続いていた知人たちに声をかけてみた。

 案の定、みんないい年をした中年となって昔の面影がなくなっていた。おまけに仕事を持っていたり家庭があったりと融通が利かなくなっていた。

 そんな彼らに、仕事内容は伝えずに、一緒に冒険をやってみる気がないか、命の保証ができないがと言うと、揃って今更無茶ができないからと辞退してきた。

 結局応じて来たのは三人のみだった。だが彼等に詳しく話を聞いてみると、いずれも独り身で落ちぶれてしまって仕事にもつかないでぶらぶら遊んでいるという、いわば人生の落伍者みたいな者達だった。

 彼等を期待外れで使えないと思った男は、当初やんわりと断りを入れた。ところが三人共、男に断られたら後がないと思ったのか「機会さえ与えてくれれば必ず役に立って見せる」「人生このままでは終われない、もう一花咲かせたい、例えそれで命が無くなっても未練はない」「世間を見返すためなら何でもやってやる、どんな危ないことでもやってやる」などと三人三様に果敢に自己アピールしてきた。そんな彼等の意気込みに情を向ける気はなかったが、男は「まっ、いないよりはマシかも」と昔のよしみで仲間として採用していた。

 しかし、マニュアルを参考にすると、最低でも十名は集める必要があった。それで、足りない分は外部から集めようとなった。その際、組織が上手い具合に、ブラックサイトの一つ『ネオスシテイ』に広告枠を持っていたので、それを使って人材募集の広告を出そうとなった。

 そこにきて、男は初めて大事なことに気付いた。――嗚呼、本当に俺は間抜けだな。この問題が解決しなければ先に進めない。組織の人材を集めることに気を取られて、運転資金がどれくらいいるか気に付いていなかったのだからな。

 今の俺の所持金では全然足りない。つまり一人では何もできないってことか?


 男は少し悩んだ末に一計を案じると実行に移した。

 男は財布のひもを握る妻に頼んで見ようと思っていた。

 ところが二人は、探偵業をはじめてからというもの、同じ家で暮らしながら顔を合わせたことがほとんどないのだった。

 毎日目が回る忙しさで働いて帰ってくる妻に対して、探偵業務に皆目トラブルが起きなかった関係で一日中何もしないでぶらぶらして戻ることが多かった男がそれとなく彼女に気兼ねして、男の方から会うのを避けていたというのが真相だった。

 ――顔を合わせると、益々つけあがって、でかい態度でさげすんでくるに決まっている。だがそうされても本当のことなのだから俺は返す言葉がない。はたから見ると、毎日遊んでいるようなものだからな。


 次の日の午後十一時三十分過ぎに、男は偶然を装うようにして自宅へ戻った。

 妻のいつも決まった行動パターンを薄々知っていた男は、エントランスから真っすぐに通じる、淡い色のカーペットが敷かれた広い廊下を通り、一階のリビングの方へ向かった。


「俺の予想が間違っていなければ、今頃はリビングでゆっくりくつろいでいる頃だ」


 通路には、デザインよりも実用性を重視した調度品が周りとしっくりくるように置かれていた。全て妻が選んだものだった。

 進んで行くと、天井が高くて一部が吹き抜けになっただだっ広い空間が目の前に現れた。カウンター形式になったダイニングと一続きになったリビングだった。

 男はダイニングとリビングを見たのは随分と久しぶりであった。ここへ来たのは本当に何年振りだろうかと、男は二つのテーブルを囲むようにしてロングソファとベンチソファがフロアの中央に整然と置かれたリビングの辺りを感慨深く眺めた。

 妻が雇った専門業者が三日に一度派遣されてきて掃除をやっていくとかで、そこに置かれた家具や調度品はきれいに片付いていて、大理石のフロアにはホコリ一つなかった。

 そのとき、リビングの壁の側に置かれた百インチの大型テレビの電源が入っていて、ニュースを読み上げる男性キャスターの映像と音声が室内に流れていた。

 そしてテレビから少し離れたモダンなロングソファのほぼ中央付近に、男の目論見通りに、お風呂上りなのだろう純白のタオルキャップを被った女性の頭が見えた。

 男は尚も歩いて、側まで進んで立ち止まると、年齢の割にはけっこうスリムな体型をする男の妻がすっぴんのまま薄着のガウンを羽織ってソファにゆったりと腰掛けていた。

 男の姿に気付いた妻は、おやっという顔で男を出迎えた。すぐさま感情のない冷たい視線を向けてくると、


「そんなところで突っ立っていないで、こちらへきてお座りなさいよ」


 抑揚のない落ち着いた口調で語りかけて来た。


「ああ」


 十二歳年下の妻に言われて、男はぎこちなく返すと大人しく従った。しかし妻と直接向かい合うのは何となく引け目を感じたので、はす向かいの席へ腰掛けていた。

 男の妻は、浅くちょこんと腰掛けた男に首だけを向けると訊いて来た。


「ねえ、どういう用件かしら?」


「エイーザ、ちょっと頼みがあるんだ」


「何かしら?」


「実は少し金を融通して貰おうかなと思ってな」


「ふーん、お小遣いのこと?」


「いや、違う。まとまった金だ」


「それでどの位?」


「そうだな、高級車五台分くらいかな」


「あなたはそんなに簡単に言うけれど、うちにはそんな大金はないわよ。色々と設備投資をしたし」


「分かってる。そこを何とかして欲しいと思ってな」


「それで、そんな大金、何に使うわけ?」


 見下した態度でしつこく訊いて来た妻に、男は一瞬思案した。――こいつは勘が働くからな。隠しておいても後になって分かれば余計に面倒なことになる。

 妻には内緒で事に及んだわけであったが、ここにきて正直に理由を話さずには事が解決しないことは明白だった。


「実はそのう、組織を買おうかなと思ってな」男は差し障りのない程度に応えた。


 次の瞬間、妻の眉が吊り上がり、低い怒声が飛んだ。


「何、馬鹿なことを言ってるの!」


「いや、実際買えたのだが、その代わり運転資金が少しばかり足りなくなってしまったのだ」


 身長六フィート三インチ、体重二百六十ポンドを越える大きながたいを丸めるように前に傾けると、この世で唯一頭が上がらなかった妻に男は全てを白状した。そして、いつも持ち歩いていたビジネスバッグから、例の二種類のプレートと書籍を取り出して懐疑の目を向ける妻に見せるようにテーブル上に並べた。


「証拠の品だ。信じてくれないと思って持ってきたよ。見てくれるかい」


「……」


 重苦しい空気が漂う中、それらを男の妻は腕組みをして何かを考えるようにしばらく沈黙して見ていたが、やがて手に取ると調べにかかった。

 先ず二枚のプレートに刻まれた文字を念入りに確認したり、裏返して見たりして眺めていた。

 それが終わると次に書籍に目を移し、書籍の表紙を開くと、ぱらぱらとめくった。

途中、気になったところにじっと目を止めては、描かれたイラストや記された文字を熱心にのぞき込んでいた。

 そうして十分も経った頃、ようやく納得いったらしく書籍から目を離して男に向かうと言った。


「よくできた偽物と言いたいのだけれど、偽物と言える証拠はどこにもなかったし。コピー商品かもと思ったのだけど、わざわざここまで手の込んだ品を作る必要があるのかと考えるとね。

 といって今ここで本物かどうかを確かめる術はないけれど、これら全部、思ったより軽いのよね。特に書物なんかこれだけの厚みがあるのに軽く持ち上がるなんて、尋常じゃないわ。こんな特殊な書物は何かしらのいわくがあることを証明しているようなものだし。

 それに、へたに団体と最高幹部の名を使った品を作ったら、あとでどうなるかはみんな分かってることだし。一応信じることにしたわ」


「ああ、そうか」


「そうそう、それで組織の資金源はなーに?」


「ああ、そのことか。実は非常に特殊でちょっとした請負業なんだ。ちょっと依頼者に代わって復讐をしてやる仕事だ」


「何、それ!?」


 またもや妻の眉が上がった。「あなた、正気なの。正気で言ってるの?」


「ああ。正気だ」態度ががらりと変わった妻に男は真面目な顔で応えた。


「ふん、趣味にしては大それてるわね。もしお金を融通できないと言ったら?」


「ああ、そのときはそのときで、この家を抵当に入れて借りようかと思ってる」


「随分と思い切ったことを考えたものね。ということは相当切羽詰まっているということ?」


「ああ、そうだ」


「なぜ組織を買おうという気になったわけ?」


「男のロマンていうやつかもな。ガキの頃からの夢が叶うと思ったのでつい衝動的にだな……」


「ふん、男のロマンといってもねえ……。ロマンといっても、結局は自己満足したいだけじゃないの?」


「ああ、確かにそうかもしれん」


「もういい加減に、下等な生物にへつらうのは嫌になったの? そりゃね、誰だってプライドを捨てて下手に出るのは嫌なものよ。でもね、生活のためだって思って我慢はしないとね。

 私ね、人が死ぬのを見るの、もうこりごりなの、まっぴらなの。そんな物騒なもの、早く手放せと言いたいけれど、何でも抜かりのないあなたのことだから、全ての準備ができてきていると思うからもう手遅れみたいね」


 男の妻はそう言って大きなため息を一つ付くと、ぼそりと尋ねた。


「それで私達の方へ塁が及ぶことはあるの?」


「それはまだやってみなくちゃ分からない」


「ああ、そう。あなたには平凡な暮らしは似合わないみたいね。強引で時折り無茶をするあなたが好きになって、ついて行った私が馬鹿だったみたい。結局はこのようになる運命なのかもね」


 諦めたようにそう呟くと男の妻は、しばらくの間、両目を静かに閉じて考え事をした。

 確かに妻が言った通りと言って良かった。愛想が良くて気が強くて度胸がある反面、ちょっと怖がりでビビリ性なところが男は気に入って、積極的に彼女へ何度もアタックをかけて言い寄り、遂には無理やり力づくで説き伏せて結婚にこぎつけていた。


 それから二十秒ぐらいして男の妻は結論が出たのか、閉じていた目を出し抜けに見開くと言った。


「これは提案なんだけれど、私達二人は今日限りで赤の他人となって、別々の道を歩んでいくというのはどうかしら?」


「つまり、別れると?」


「ええ、少しまだ早い気もするけれど熟年離婚すると言ってるの。あなたの方から、こちらにとばっちりがきても困るのでね。最低限の防御よ。そうしてくれたら、五台分とはいわずに、その倍の十台分のお金を融通して上げても良いわ」


「良かろう、承知した」男は何も考えずに応じた。


「物分かりが良いわね。ただし手切れ金じゃなくってよ。れっきとした貸し借りよ。期限はそう十年にして上げる。もし返せないときはこの家の権利を貰うわ。それでも構わないかしら?」


「ああ、良かろう」


 その後はお互いに冷めた表情で、視線を合わせることも話しかけることもなく時間だけが過ぎていった。ただテレビの本体から発せられる音声だけが広い室内に響いていた。

 それからどれくらい経ったか分からなかった。が、いきなり何の前振りもなしに、ぷいと横を向いて佇んでいた妻が吐き捨てるように言った。


「子供のままごと遊びじゃないのよ。自分の立場を良く考えてよ」女性特有の甲高い声が響き渡った。


「その年になって人生に迷うなんて、あなたは馬鹿よ。最低よ。もう付き合いきれないわ」


 その三日後、今の状態でも離婚しているのと何ら変わらないからとすんなり受け入れた男が家を出て離婚は成立していた。

 しかしながら、三人の息子達のこともあって完全に縁が切れた訳でなく。時折り、息子の親として目に触れないところで色々とフォローしてやっていた。


 それから十数年後。月日が経つのは早いもので、男が継承した組織は名を変えて業界内で権勢を誇るようになっていた。仕事を開始したときは十名足らずであったものが、日々増減を繰り返しながら五十名余りという人数となって、その間にメンバーの顔ぶれが、大きく分けて三度入れ代わっていた。

 一つ目は開業から現在まで至るまで残る初期のメンバーで。それを満たす者は、男と男が一番の腹心として信頼を寄せる人物の二人だけとなっていた。男の昔の仲間三名を含む、その当時に集めた者達は全員任務遂行中に死亡していた。

 二つ目は在籍が五年以上で十年未満の二期のメンバーで。それを満たしている者は男の一番上の息子と四人の女性以外にいなかった。五人は情報収集をしたりメンバーの報酬計算や顧客の管理や一般の事務処理をする内勤業務を担当していた。

 中でも特に男の息子は、開業三年目の初頭に、親父と一緒に仕事をやってみたいと言って、まだ縁がわずかに残っていた別れた妻の反対を押し切る形で男に直談判しに来て組織に転がり込んでいた。身長六フィート、体重百五十ポンドとやや小柄であったが、若いころの男そっくりなイケメンで、流行りなのかザンバラ髪にひげ面で黒いサングラスをかけて、野性味にあふれていた。やって来る直前まで、外国のサイバー犯罪機関の口座から電子マネーをかすめとるハッキング詐欺集団の片棒を担いでいたとかで、ハッキング技術やネットの情報収集に詳しかったことから、組織の内勤業務に配置して情報収集の仕事を任せておいたのが、そのまま男の息子の定位置となって運良く生き延びていた。

 そしてやはりというべきか、それ以外のメンバーとなった者達は全員死亡していた。いい加減収入を得て辞めていった者は一人もいなかった。

 死んでいった者達はいずれも、復讐という大義名分で見も知らぬ赤の他人へ鉄槌を下す快楽に魅入られてしまった結果、へたをすれば逆に反撃にあい命を落とし兼ねないことをうっかり忘れてしまったのだろうと思われた。

 そうして三つ目が在籍が五年未満の三期のメンバーで。それを満たしている者は今のメンバーのほぼ全員といっても良かった。

 そういうわけで、こちらへは男と在籍五年未満のフレッシュな十一名の戦闘員と二名の非戦闘員からなる総勢十四名が出向いて来ていた。

 在籍するメンバーの中から別の依頼の件で出ている六名と内勤者十名と怪我や病気で故障者リストに入っている十名と見習いの者達五名を除いた中から男が選抜した精鋭たちであった。

 しかも、本来ならばメンバーの中から選ばれた信頼のおけるリーダーが指揮を執るのが一般的であるのに、組織をまとめる中心人物であった男が直接指揮を執るのは異例中の異例と言えた。

 言うなれば、それだけ今回の依頼にかける意気込み量が半端でないということだった。

 ――この作戦だけは絶対に失敗は許されない。一介の雇われ兵士が、そのあくる日に王族や諸侯となるようなものだからな。


 キャンピングトラックには、年配の男の他にもう一人乗っていた。名をガーリーと言い、メンバー全員を目的地まで運ぶ任務を任せていた。今は車の運転席で、フロントガラス越しに秋枯れの景色をぼんやりと眺めている筈だった。

 赤い髪をした人工的な美人顔の女性で、外に出ているもう一人の女性と共に、「私達はふたりとも人ならざる存在、ヴァンパイアの一族である」と自称していた。男も他のメンバーも誰ひとりとして信じていなかったが。

 そんな頭のおかしい彼女達であったが、男はことのほか両人を大事に扱っていた。二人を非戦闘員として、危険な状況に首を突っ込まぬようにしていたのもそのためだった。

 というのも、二人の能力は、組織の人員や資財を運ぶ費用をタダにしてくれるので、遠くまで遠征する場合は救世主のような存在だった。

 二人が来る以前は、依頼費の中に含まれていた輸送費や交通費が大きな比重を占める依頼や海外からの依頼は採算が取れないからと受けないようにしていたのが、輸送費や交通費を気にする必要が全く無くなったことで、どこからの依頼でも応えられるようになり、そのことがやがてそれまで国内しか名が知られていなかったものが海外にも知られるようになり、あっという間に国際級の組織として広く認知されることになったのも、稼業の特殊性から長い間一ヶ所に落ち着くことができなかったものが、永住の場所として一介の島に活動の拠点を置くことができたのも、全て二人のおかげと言っても過言でなかったからであった。

 二人との出会いは遡ること四年前。

 二人は広告に出した人材募集に応募して採用面接にやって来た。

 そのとき二人供、服装こそ平凡であったがメイクが異常に派手な上に言葉遣いがなっていなかった。ぞんざいだった。どうみても世間知らずの十代始めの女子に見えたのだった。そのことから、おそらく何かの手違いでやってきたのであろうと思われ。丁重にお引き取り願おうと、普段の面接官に代わって男が直々に対応にあたっていた。男は、「ここは若い女の子が来るようなところではない、帰りなさい」と言って聞かせて返すつもりだった。

 二人は、――今すぐに信じてくれとは言わないが、自分たちはこの世界ではマギックヴァンパイアみたいな呼び方をされているヴァンパイアの一族である。しかしこの世界の人間や動物から吸血することはないので安心して欲しい。実はある事情があって人生経験を積むために、天地が逆転した逆転世界からこの世界にやって来た。この世界の引受先のお家に居候しながら、そこの人に希望を伝えると、人生経験を積みたいのなら、この世界で一週間か二週間でもいいから仕事をすれば良いと教えてくれ、親切にも仕事先を十二個捜してくれた。それで一個ずつ当たってみようとなって、こちらが一番最初の応募先だと自己紹介といきさつを口々に述べた。

 それを聞いた男は、ややもすると若い女の子には虚言癖があるからな、と適当に聞き流すと、ほんの軽い気持ちで、それで何ができるのかと一応問い掛けたのが、思いもよらないターニングポイントとなっていた。

 そのとき二人は、出し抜けに空を飛ぶことができると言ったのだった。確かに異能力者の中には空を飛行することができるものはいた。

 それならばと男は一計を案じると訊いた。「では空を飛んで重い荷物を運ぶことができるかい?」

 重量物を持って空を飛行することができる者は数えるほどしかいないことを知っていて、わざと意地悪な質問をして向こうが黙ったところで追い出す手はずだった。

 ところが以外な答えが返ってきた。「荷物の量にもよるが、人なら百人程度ぐらいなら簡単に遠くまで運べると思う」と。

 そう言われても信じることができず。男は人の代わりに外に止めてあった二台の車を使って二人に証明をして貰い、そこでようやく信じ、こんな便利な能力の持ち主なら今このチャンスを逃すと絶対によそに取られてしまうと即刻採用していた。

 それまでの組織は組織力や機動力はあったが遠征能力に欠けていた。それが一気に解消した瞬間だった。


 組織には二人のスナイパー(狙撃手)が所属していた。異例であったが、男は二人共連れてきていた。

 ターゲットがかなり巨大な組織と聞いていたので、真正面からや人海戦術では歯が立たないとみて、相手の反撃が及ばない遠方からの攻撃を中心に据えて決着をつけてしまおうと考えてのことだった。

 男がアラード、マドレーンと呼びかけて指図していたのがそうで、前者はサイコキネシスの系譜で、万能ではないけれども一つか二つの事案に特化して強い思念が何倍にもなって現実化するというエスプリ能力者。後者は透視能力者で魔導銃(通称魔ガン)の使い手であった。

 アラードの異能力、エスプリ能力を具体的に言うと、手に持って念じるだけで、なまくらの剣が名剣に、ハンドガンが大砲に、ショットガンが速射砲へと威力がアップするというものであった。

 ところがエスプリ能力は、どのような物に影響を及ぼすのか分からないために、生涯に渡って能力を持つと気付くことなく終わるか、気付かずに使って才能と錯覚してしまうかのどちらかと言う厄介な能力であった。

 後者のタイプであったアラードは、十五歳の時、先ず料理人として出発していた。

 何かのはずみで家族のために作った簡単な料理が、やがて周りの評判となり彼等の勧めでローカルな料理コンテストに応募して優勝。それをきっかけに料理の世界へ入ると、全国の料理コンテストを総なめ。輝かしい経歴とともに一時は超有名料理店の総料理長迄上り詰めめていた。

 だが、一ヶ月も持たずに挫折。首になっていた。どれほど美味な料理が作れようが味の再現性がないのは致命的なことだとして。

 そこで初めて、料理を上手く作れるのはテクニック云々と言った才能でなく、気分次第で味を自在に変えられる己の能力だと気付かされることになったのだが、時既に遅く。

 それを知って以来、大手の高級店や一流の店は無理だからと求人広告を見て小さな料理店を渡り歩く生き方を選んだ。それからというもの、一流半のアマチュアシェフというありがたくない通り名を貰って全国を回るようになっていた。

 本人が決して望んだことではなかったがそれ以外で生きる道はなく、やるほかなかったのである。

 その後、消えるようにして業界から身を引くと、行く当てもなく世界を放浪。農業関連、漁業関連、狩猟関連と職を転々とした。この能力を何か他のことに生かせないかと考えてのことだった。

 そしてついに、念じることで手に持った刃物や銃の性能や威力を向上できることを発見。最後に辿り着いたのが、人殺しという稼業であった。料理人を長くやり名シェフともてはやされたことで、完璧主義者でこだわりが人一倍強かった。その上、気難しい上にがんこでもあったので、人間関係が希薄でもできる今のこの職が天職となっていた。


 一方マドレーンは、上流の子女が通う名門の魔法師範養成学校で、戦闘技術科の上級指導員としてかつて教鞭をとっていたという異色の経歴の持ち主だった。おまけに過去に何をやらかしたのか知らないが、いつも片方の目が閉じた状態(隻眼)で、加えてクロトー機構から手配書が回っていた。早い話、お尋ね者だった。

 しかしこういうことは良くあることで、クロトー機構が支配する領域に入らぬ限りは別にどうなるものでもなく、日常の生活が普通にできるのだった。

 そういうわけで、彼女は少しプライドが高いところがあったが、常識人で記憶力がずば抜けており、この業界においては珍しく命令には従順に従った。雇う方としては扱いやすかった、ただ一つのことを除いては。

 それは彼女がお酒が大好きなところだった。酔えるものなら銘柄を選ばずに何でも呑むという無類の酒好きで、度数の低いものは水代わりに呑んでいた。

 そうはいっても、がぶがぶと浴びるほど一気に呑むタイプではなく、健康に留意してちびりちびりと少しずつ果てしなく呑むタイプで。ともかく気分が良くなればいいといった感じで、暇なときは四六時中呑んでいた。

 ちなみに、前にいたところもその前にいたところもその前の前にいたところも、みんなそのことが原因で口論となって、「それだけは絶対譲るわけにはいかないわ。私にとってアルコールは必須のエネルギーみたいなものだから」と言い放って辞めて来たという話だった。

 そんな彼女であったが、例えほろ酔い気分で夢うつつの世界に浸っていても射撃の腕前は確かで、組織の中で誰もかなう者はいなかった。

 その彼女の愛用の銃であった魔導銃は砲身が十二インチ以上、口径が三十ミリもある超大型ハンドガンで銃身にグリップが二つ付いているという現在の銃ではあり得ない外見をしていた。加えて弾丸は火薬を推進力とせずに、銃の中に仕込まれた謎の推進力で射出されるようになっていた。それもそのはずで、古代に栄えた超文明の遺物、オーパーツというやつだった。

 また魔導銃と言うだけあって契約者の彼女以外に扱えず。そこへ持ってきて、その威力たるや、「昔の話だけど、頼まれてこの銃で大気圏外を移動する軍事衛星を事故に見せかけて撃ち落としたことがあるわ。他にも潜水艦から射出された大陸弾ミサイルを破壊したこともあるわ」と言った供述から、宇宙ロケットのスピードぐらいの初速度(マッハ四十以上)で弾丸を発射することができるらしかった。

 事実、撃ち出された弾丸は目にも留まらないと言っても良いもので、弾丸の弾頭は通常の鉛や銅やそれらを被覆しただけのものでは蒸発して用をなさず。タングステンやタンタルやモリブデンといった高温に耐えられる物質を弾丸の材料にして使っていた。


 ただ狙撃(スナイピング)というもは、どれほど遠くは見えても近くは見え難いという弱点があったので、二人が後ろを取られないようにと、普段は急襲役を任せていた超人系の者を二名ずつ護衛に当たらせていた。もちろん、それぞれ兄弟と友人同士といった息がぴったり合うパートナーを抜かりなく選んで。


「あと五、六分だな? 分かった。用意ができたら連絡をくれるか」 


 年配の男は、気難しそうな顔で手に持った携帯無線をテーブルの地図の上に一旦置くと、電子葉巻をふかしてほっと一息ついた。


「ああ何と言ったって全員の息がぴったり合わないとな。ともかくこの稼業はチームワークが何よりも肝心だ!」


 会話が途切れた後も男の頭の中はその先のことで一杯だった。


 あれは二週間前のことだった。

 専用のSNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)に依頼について書き込みがあった。対応にあたった係の者がそれに応じて相談料が有料であることを伝えて了解を得ると、それから淡々と話が進展。その結果、お互いに早い段階で会いましょうとなった。それが全ての始まりだった。

 後はマニュアル通りに、日時と待ち会わせ場所と時刻を指定。当日、黒いオーバーコートを着た長髪ひげ面の、それ程背が高くない若いビジネスマン風の男がひとりで現れた。相手確認のために依頼人しか教えていなかった秘密の合言葉をメールしてきたので、その人物が依頼者であるのは疑いの余地がなかった。

 その後のやり取りは全て携帯のアプリで行われ、依頼者も請け負う側も一言も喋ることはなかった。終始無言だった。

 そのような具合いにして話し合いが持たれ、一時間ほど相手と顔を合わせずに文字によるやり取りがスムーズに続いた。その中で、依頼者であった若い男は、直接その国の名と組織名オアクルグを名指しすると、そこの幹部たちに一泡吹かしたい、それができないうちは死んでも死にきれないなどと恨みつらみを訴え、正義の鉄槌を加えて欲しいと強く求めた。

 そして話し合いが終盤となり、大体のことは分かりましたと担当者が話を締めくくり、事務的に依頼にかかる費用について数字を表示し始めたときだった。何を思ったのか突然若い男が口を開いた。


「もし直ちに受けると言っていただけるなら手付金として三百万ドル、成功報酬として三百万ドルを電子マネーで支払いましょう」


 その声は若い男にしては少し違和感がある中性的な声だった。更に男は、担当者の目の前に足を投げ出して義足と化していた両足並びに同じく義手と化していた両手を見せると、


「本来ならこの私がそうしたいのが山々なのですが、かような体ではそういうわけにいきませんので」と言って支持を訴え、そこへつけて、「ここだけの話ですが、一つ良い話をしましょう。実はこちらがつかんでいる情報なのですが、それを聞かれて利用されるかどうかはそちらの判断に委ねますが」そう言って、再び携帯の画面に以下のような長い長文を並べた。


 正直言いますと、名指しした組織があります国の実体経済の規模は、世界平均と比べてもそれほど大きくありません。従いまして、その背後で活動する組織の生活水準もそれに準じて低いというのが実情です。ところがその中にあって、その組織は、普通では考えられないことですが、本部と支部を合わせて何と総勢八千名近い人員を擁しています。まさに論外と言わざるを得ません。なぜそのように規模を大きくしてやっていけるかと言いますと、そこには納得できるからくりがありまして。

 実は、その収入源というのが、魔道具の製造販売を始め、医療分野や電子工学分野や農業分野、紡績分野と多岐に渡る分野に原材料を提供して利益を上げておるのです。

 その需要は常に引く手あまたで、国の実体経済の規模や世界の景気など全然関係がありません。

 そのような巨大な組織ですがただ一つだけ弱点があるのです。それは、武器は製造するが販売するのみで、その使い手を自前で養成してこなかったことです。

 昔からそこは事あることに一緒に共存していた組織の力を借りて問題を解決していました。なぜそのようなことができたかと言いますと、その国には組織なるものは十近くあるのですがお互いに仲が悪かったからです。それらの組織はいつも限られた利権を巡って争っていました。それを上手く利用して来たのです。

 ところがそれらはあくまでその国の国内でのこと、もしも厄介ごとが国外からやってきたのならどうなることか。たぶん今まで経験したことがなくて混乱を招くことは請け合いです。

 最後にその組織は中立を守り、三団体のいずれにも属しておりません。場合によってはそちらの都合の良い方向に収拾して貰ってもどこからも文句は出ないかと存じます。 


 しかし担当にあたった者は、軽々しく首を縦に振るものではないと慣例通りに即答を避け態度を保留した。幾ら同情の余地があろうが、幾ら金を積まれようが、幾ら旨味があろうが、現実はどこまでもシビアであって、ダメなもの、不可能なことが存在したからだった。

 例えば、三団体の最高幹部連中だとかその中核団体とかを相手にするのは命をタダで捨てにいくようなものだった。どうあがいたところで刃が立たないのは分かっていた。

 ――我々は夢の世界やゲームの世界の住人などではない。どれくらい死にかけても即座に回復する万能薬や回復魔法は持ってはいないし。ましてや、都合よく死んだり再びあの世からピンピンして舞い戻ってくるような芸当はできない。

 従って、依頼者と別れてから時を移さず持ちうる情報網を駆使してその依頼内容が確かなのか確認。念のいったことにそこへ加えて偵察要員を現地へ派遣。情報が果たして正しいのか直々に様子を探らせて、依頼を引き受ける価値があるかどうかを確認した。そうしてしかる後にようやく引き受けると伝えたのだった。


 だがその後は行動が早かった。その日のうちに首尾よく現地へ入ると、先ず相手の力を見極めるために、依頼者から提供された資料の中から支部が記された地図を参考にして片っ端から襲った。相手の不意を突いたとはいえ、もちろん全戦全勝だった。一人の負傷者も死者も出すことはなかった。

 そしてその勢いのまま、計画通りに本部がある場所を襲ったところ、そこで初めて手違いが生じた。何と本部にいたのはわずかな手勢の警備担当の者達だけで、広い敷地の建物の内部はもぬけの殻であった。

 ちなみに復讐代行業という稼業は、事態が長引けば長引くほど行動が表に出過ぎて、あくまで秘密裏に事を運ぶという意図に不利に働き失敗に終わるのが常であった。

 それ故、急いで本部の移転先を探した。もうそのときには相手がどこであろうと構っていられなかった。荒っぽいやり方と思ったが、知っているだけの組織を片っ端から襲い、本部の移転先の手掛かりを探し求めた。そのようなとき、本部の場所について情報収集に当たらせていた息子から見つかったと報告が入って、即刻取って返してこの地までやって来ていたのだった。


「何はともあれ、あともう一息だ。あっ、そうそう」


 思い出したように男は隣の座席に視線を向けると、座席のシートをひょいと持ち上げた。

 座席の下は冷蔵庫になっており、良く冷えたビールの缶が横積みになって入っていた。

 その中から缶ビールを一つ取り出し、蓋を開けて一気に半分ほど飲み干すと薄ら笑いを浮かべた。


「アラードの攻撃を受ければ軍が攻めて来たと思うだろうな」


 このままいけば、三つの団体の支配下にない空白地帯が俺達のものとなる。そうなれば俺のファミリーを中心とした……

 年配の男は夢の階段を着々と昇っていることを実感していた。再来年の春になれば晴れて七十歳になるが、今でも二十代の若者のように気持ちが若かった。

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