第80話

 凹凸のあるレンガ壁に四方を囲まれた比較的ゆったりとした室内。ところどころに半透明なガラス製の間仕切りが配置されて、プライベートスペースが確保されている。

 天井から降り注ぐ明るいカクテル光線が昼間かと見間違える印象で、奥の壁際の席にいたホーリーとイクを照らしていた。

 黒と赤を組み合わせたシックなデザインの椅子とテーブル。テーブルの上には乳白色のカップに入った飲みかけの熱い飲み物が二つ載っていた。

 ショパンのゆるやかな調べがバックグラウンドミュージックとなって、静かに店内に流れる。すぐ傍の壁に、さり気なく掛かった木製の時計が七時半過ぎを指していた。

 二人がいたのは、名も知らぬ湖の畔から歩いて十分ぐらいの場所にあったトームという名の山荘風の外観をするおしゃれな大衆レストランで、先ほど二種類のパンとフルーツと野菜のサラダ、ベーコンと卵焼き、チーズ、あとヨーグルトという朝食を揃って食べ終えたところだった。

 イクは薄ベージュ色のニットセーターの上からブラウン系のミドルのレザーコートを羽織り、下はベージュ色のパンツに黒の革靴と、平均的な十代の女の子のよそ行きの服装をしていた。

 対してホーリーは普段は掛けないメガネを掛け、グレー系のタートルネックのニットシャツの上から地味なベージュ色のトレンチコート、黒地のパンツ、ブーツと、いかにも旅行慣れしているといった垢ぬけた姿をしていた。

 またどちらも持ち物はデイパックにショルダーバッグと軽装で。「長旅で、お腹空いたでしょ。ちょっと食べていかない?」といったホーリーの提案で立ち寄っていたのだった。


 全部で五十席ぐらいあった店内には、レストランの上の階が宿泊所になっていた関係で、早朝からでも客がいた。 

 窓際の席には、若いアベックが二組と中年のアベックが、テーブルを挟んで携帯をいじりながら談笑していた。

 中央の大人数専用のテーブル席では十五人ぐらいの男達が、わいわいがやがやとにぎやかに雑談をしていた。テーブル上には肉や魚や生ハムやウインナーといった考えられないボリュームの料理が載った皿と、様々な形をする酒の容器と琥珀色や赤紫色の液体で満たされた大小のチューリップグラスがずらりと並んでいた。

 早朝から大量の料理とアルコールを手当たり次第に注文しているらしいことなどから、彼等は何やらお祝いをしている者たちの集まりと思われ。その中の二人がフィッシングベストを、一人が魚の絵柄がプリントされたキャップを被っていたことから、おそらく釣り客なのかと思われた。

 すぐ横のテーブル席では、大人数であることから、おそらく旅行客と思われる熟年女性のグループが、携帯を触りなどしながら仲良く食事をしていた。

 他にも、二人の筋の壁際の席では、何やらいわくがありそうな着飾った中年女とスーツ姿の若い男が、注文した料理を待つ間、熱心に話し込んでいた。

 さらにその奥の席では、きちんとした身なりの年配の老夫婦が、仲良くワインを食中酒にしながら、フォークとナイフを使って最前二人が食べた品と全く同じものを食べていた。

 一見して、みんな自分たちの話に夢中で、身なりから旅行者に見える二人のことを何も気に留めてはいないようだった。

 

 およそ十四時間前。パトリシアの自宅に一同が集合した後、「じゃあ、お先に行くからね」とフロイスがそう言い残すと、ジスとレソーを引き連れて先に旅立っていった。

 三人を見送った後、イクとホーリーも、さっそく行動に移すと、パトリシアが運転する車に乗せてもらって例の廃墟と化した建物群が建つ方向へと向かった。

 そのときイクは、「私たちは一介の旅行者という設定だからそのつもりでね。あ、そうそう、たぶん向こうはこちらより寒いはずよ。だから向こうに着いたときに着替えなくちゃならないと思うからその用意をして普段着でいらっしゃい」と予め言われていたため、服装は、白のニットシャツの上からジージャン、下はジーンズのパンツ、ズック靴と私服であったが、生まれて初めての海外とあって、その張り切りようは尋常でなく、伸びていた髪の毛をきれいに切り揃え、目にアイライン、唇に真っ赤なルージュ、両頬にチークなども入れて、思い切りおしゃれに決めていた。

 対してホーリーはメイクも薄くファンデーションを塗布したぐらい。ルージュも透明なリップという按配で、いつものホーリーだった。ほぼすっぴんに近かった。それでも人間離れした若さ溢れる美貌を振りまいており。その美しさを目立たなくする為なのだろうか、さらさらできれいなプラチナゴールドの髪を地味にポニーテイル風にまとめると、ダサく感じる黒縁の丸メガネを掛けていた。

 

 しばらくの間、三人が乗った車が暗闇の夜道を進むと、突然、前方の方角に黄色っぽい灯りが点々と見えた。道端に設置されたソーラーライトの灯りで、灯りに沿って行くと、小高い丘のようになった杜が見え、灯りはその頂上へと続いているようだった。

 それから間もなくして、やがて車は杜の頂上へ向かっていると思われる石段が見えたあたりでちょうど止まり、そこからは果たして歩きとなっていた。

 道を知っているパトリシアを先頭に二人が続いて、手すりの付いた石段を昇り、人の手が明らかに加わった林道を進んでいくと、やがて開けた広場へと出、その先にはコンクリートで回りが囲われた人工池みたいなものがあるのが月明りで見えていた。 

 広場の中央にはコンクリートと石を組み合わせてできたモニュメントのようなものが見え、その端っこにはベンチらしきものがあるのが、外灯代わりに置かれたソーラーライトに照らされて見えていた。

 三人は広場のモニュメントの付近までやって来ると、そこで立ち止り、さっそくパトリシアが、視線を人工池の方向に向けながら口を切った。


「どう? こんなので良いかしら?」

 

「ええ、十分よ」すかさずホーリーが返事を返すと、踵を返して池の方向へゆっくり歩いて行き、岸の辺りで立ち止まった。


 一体何をする気なのだろうとパトリシアとイクが息を潜めて見ていると、幾ばくもしないうちに、夜空に大型旅客機ぐらいの大きさはありそうで、翼みたいなものを持つ黒っぽい物体が出現。 

 次の瞬間、バシャンと大きな水音がして、水が人工池から勢いよくあふれ、多量の水しぶきが宙に舞い、間もなくして静寂が再び戻っていた。物体が人工池に着水した所業だった。

 パトリシアとイクは一体何事が起ったのかと恐る恐る近付いて行くと、それに気づいたのかホーリーが振り返るや、にっこり笑って事情を説明した。


「ちょっと魔物を召喚したの。シルペスタと言って、シルペスタはね、空中なら超音速、水中なら亜音速で移動することができるのよ。長距離を飛んだり海底を移動したりするときは重宝しているわけなんだけれど、たった一つ泣き所があって。この魔物には脚がなくって、陸地へ上がることができないの。それでこのような場所をわざわざ探してもらったわけ」


 彼女のその言葉に、改めてその黒っぽい物体を見ると、頭が鋭く尖ったエイのような姿をして、しかも体全体が古代魚のように硬い甲羅で覆われていた。


 ようやく事情が分かったパトリシアとイクだったが、直ぐに揃ってぽかんと口を開けて目の前の化け物を見上げた。


(これに乗っていくわけ? 嘘でしょう? まさかね)


 それを敏感に察したのかホーリーは冷ややかな笑みを浮かべると言った。


「馬鹿ねぇ、二人とも。何を想像しているの。漫画や物語じゃあるまいし、頭の上とか背中に乗ったりは幾ら何でもしないわよ。そんなことをしたら直ぐに振り落とされちゃうもの。もちろん魔物の口の中に直接入ることもNGよ。そんなことをしたら、さすがに体内で消化されちゃうわ。それでどうしているかというとね、あれを使っているの」


 そう言うとホーリーは水面を指さした。二人が同時に彼女が指した方向に目をやると、月の仄かな明かりに照らされて、魔物の傍らに白っぽい救命具のようなずんぐりむっくりしたものが、夜空に限りなく近い水面に顔を出しているのが見えていた。

 しかしそれはよく見ると、落花生の殻のような変な形状をした上部に手すりみたいなものと出入りするためなのか蓋のようなものが付いていることから、特殊な水陸両用車か潜水艇のような乗り物であることが何となく分かった。


「あれは小型クラスの深海潜水艇よ。あれに乗り込むと魔物が自動的に水と共に飲み込んでくれて、途中にある食べることとは別の役目をしている空洞に行き着く仕組みになっているの」


 自慢げにそう話すと、ホーリーは岸から一息にジャンプして潜水艇に乗り移り、イクを手招きした。イクは、はいと小さく応えると、それに従うようにして、同じく乗り移った。

 ホーリーはイクが乗り移ったのを見届けると、艇上部に付いたハッチを手動で開け、先にイクを下へ降ろし、次いで自らがその後へ従った。もちろん、律儀な彼女らしく、パトリシアに向かって軽く手を振り「じゃあ、行ってくるわね」と別れのあいさつをし忘れてはいなかった。

 潜水艇の内部は、やはりというかそれほど広いとは言えず。飛行機の操縦かんのようなものや、外を直接見るための窓やモニターとともに、どのように使うのかさっぱり分からない装置や計器類が所狭しと並んでいた。

 そしてその中央の空間には、飛行機の座席そっくりなシート席が横に二列、縦に三列、整然と並んでいた。


「それじゃあ席に着きましょうか」とホーリーは言うなり、一番前の操縦かんがある席には目もくれないで、そのすぐ後ろの座席に腰を下ろすとシートベルトを着用した。イクもそれに倣い、その隣の席に腰を下ろすと、同じようにした。それを目の端で確認して、ホーリーは背もたれを一杯まで倒すと言った。


「到着するまで、そう……四時間ぐらいあるかしら。それまでの間、休憩しましょう。私達の仕事は、二日、三日は徹夜することもザラだから、眠れるときに眠っておくことも仕事みたいなものなのよ。計算では、着いたら向こうはたぶん午後の十時頃じゃないかしら」


 そこまで話すと、手慣れた様子で、たちまち目を閉じて速やかに寝入ってしまっていた。   

 そのような実に鮮やかな就寝に、ホーリーさんて、すごーい。何て寝付きが良いんだろうとイクは感心しながら、ホーリーの真似をして眠ろうとした。

 そんなとき、潜水艇が動き出したようで、小刻みに揺れた。それからものの数秒もしない間に、艇の揺れが治まっていた。どうやらどこかに到着したと思われ、座席の横に付いた艇窓から覗くと外は真っ暗だった。

 ホーリーさんが言った通りなら、魔物の中に飲み込まれてしまったのかしら?


 今一実感がなく、呑気にイクがそう思ったとき、ほんの一瞬であったが、座席に押し付けられたような感覚を覚え、その後に元の普通の状態へと戻っていた。


「この分じゃ、いよいよ出発したみたいね」


 イクは呟くと、隣の席に目を落とした。大きくて形のきれいな胸の下あたりに、ちょうど手を組んで、ぐっすり眠っているホーリーが見えた。その容姿は絹のような銀色の髪としわ一つない透き通るような白い肌と相まって、まさに生きたろう人形のようだった。


「ホーリーさんて、何て素敵なんだろう」


 見た目の容姿と色気のある大人の雰囲気から、自分より四つか五つぐらい年上のお姉さんだろうと思っていたイクは、思わずそのような感想を漏らすと、それほど大きくもない胸の下で同じように手を組んで、静かに目を閉じ自身に言い聞かせた。


「あたしも眠らなくちゃあね」


 そうは言っても、期待と不安が交錯するストレスから、意識すればするほど、中々、思うように熟睡できず。結局イクは、半分眠った状態でうつらうつらしていた。

 それからどのくらい経ったのか分からなかった。突然何かにぶつかったような軽い振動があった。その勢いで、はっと目が覚めたイクはとっさに辺りを見渡した。一体何があったのよ!

 一番に目がいったのは隣の席のホーリーで。彼女は依然としてすやすやと眠っていた。次いで艇の壁に取り付けられた環状の窓へといくと、窓の外は相変わらず真っ暗のままだった。だがそのうち、潜水艇が動き出しているような気配を感じて、もしかしてとポーチから携帯を取り出して時間を見ると、午前七時十五分を表示していた。

 確か全員が集まったのが午前零時前だったから、あれから七時間ちょっと経っているわ。そうすると到着したわけ? 

 イクは急いで背もたれを元に戻すと、シートベルトを解除。次いで身をややよじって隣に呼びかけてみた。


「あのうホーリーさん、着いたみたいです。起きて下さい」


 しかし反応はなかった。良く眠っているようだった。

 それならばと、イクは二度三度と、はっきり通る声で繰り返し呼びかけた。


「ホーリーさん、ホーリーさん。起きてください」


 しかしホーリーには聞こえていないみたいで、息をしているかどうかはっきりしないくらいの深い呼吸をゆっくりとしたリズムで刻みながら、一向に目覚める気配はなかった。

 さて、どうしようかとイクは、穏やかに眠るホーリーの顔を眺めながら、しばらく考えた。そうして、この際だからゆすってでも無理やり起こそうかと考えた。そのとき、召喚の剣、銀の燭台の力によって召喚した魔物に乗りうつったホーリーが魔物を意のままに操ってここまでやって来たとは夢にも思っていなかった。

 しかし実行に移すにあたって、ある疑念が頭をもたげた。

 いや、ちょっと待って。もしホーリーさんが見た目に似合わず寝起きが悪かったら。そこへそんなことしたら……。ひょっとして、あたし、殺されちゃうかも。

 イクの懸念はまっさら見当違いとは言えなかった。

 パトリシアからの要請で参加した、この前の合同演習にて、フロイス、ロウシュ、コーの三人と対峙したイクは、同じく参加したジス、レソーと共に、それまで怖いもの知らずできていた鼻っ柱を見事と言って良いくらいへし折られていた。そのとき嫌というほど力の差に歴然として、世の中は広い、上には上がいるものだと思い知らされていた。

 そのときホーリーとは直接手合わせはしなかったものの、彼女が披露した魔法の知識量や酷い目にあった三人に対する凛とした対応の仕方などから、彼らに匹敵する能力の持ち主であると、信じて疑わなかった。

 そのような背景もあって、ここは慎重にいかないとね。もしここでしくじったら、八つ当たりされて目も当てられないわ。そうならないためにも、ここは自重して何もしないでそっとしておいて、自然に目が覚めるのを待つのが得策だわ。でも後で、どうして起こさなかったのと叱られるかもね。いや、そんな場合は、合わせるように同じ時間に起きれば良いのよ、そうすれば叱られることもないわ、とイクは少し考えて決断。再びシートベルトをして背もたれを倒し、何もなかったかのように目を閉じていた。

 そうしてみると不思議なもので、イクは晴れ晴れとした気持ちになっていた。また目的の場所へ到着したという安堵感から、それまで良く眠れなかったことが嘘のように、十秒も経たないうちに意識が遠のいて爆睡していた。


 刹那。「イクさん、イクさん、起きて。もう朝よ」さり気なく呼びかける声が聞こえた。その声にイクは体中に電流が走ったかのような反応でパッと目を見開くと、目の前にメガネを掛けたホーリーが着替えて立っていた。


「すみません」イクは起き抜けに目をぱちくりさせると、慌てて起き上がり応えた。


「寝坊してしまって」


 あえて言い訳をしなかったイクに、ホーリーはニコッと笑って、


「あなたに謝られてもね。それにしても、あなたってかなり寝相が悪いみたいね。もしシートベルトをしていなかったら下に落ちていたかもね。おまけに意味不明な寝言も言って、まるで子供ね」


 そこまで言うと、すぐさま普段の物静かな表情になり、


「とりあえず、ここから出ましょう。ああ、そうそう。外は寒いと思うから着替えて来てね。私は先に行ってるから」


 そう素っ気なく告げると、さっさと出口へ向かう梯子のほうへ向かい、梯子を昇っていった。

 ひとり取り残された形となったイクは、ほっとした表情で、急いで着替えた。


 一方、イクが着替えている間に、梯子を伝って外へと出たホーリーは、湖面にぽつんと浮かんだ潜水艇上から周辺を見渡した。天候は薄曇り。風はなかった。深草色をする湖上は見事なまでに霧がかかり、見渡す限り見通しは悪かった。そして、さすがに早朝とあって、冷え込んでいて肌寒かった。

 その様子にホーリーは納得したように軽く頷いた。

 魔物の能力は突出していて、理論上、最短ルートをとれば、ロケット並みに一時間以内に楽々とこの地へ到着しているはずだった。

 ところが残念なことに魔物が目的地へ向かうのに普通に利用するのが、実に単純に上空から肉眼を使っての目視と空の星の位置関係から方角を割り出すことぐらいで、航空機のようにジャイロ、レーザー、レーダーといったセンサーや人工衛星を利用するわけでも、大陸や島の地形と位置関係を道しるべの参考にしているわけでもなかった。またフロイスのように大陸間に位置情報ネットワークを構築しているわけでもなかった。

 そのため、相当な大回りになったり、行き過ぎて引き返したりと必要以上に時間のロスが起こるのが避けられなかった。

 従って、そのことを経験から知っていたホーリーは、到着の時間設定を倍の時間に見積もって余裕をもたせていた。

 ところが今回は、目標の国の位置を誤ったり、着水する湖の発見に手間取ったりと色々な要因が重なり、予定時間よりさらに遅くなっていた。

 そのようなこともあって、必要以上に時間を弄したことで、ホーリーは疲労困ぱいとなって、つい寝込んでしまっていたのだった。

 しかし、自身が寝坊したことをイクの前でおくびにも出さなかった。


 ホーリーは薄手の防寒手袋をはめた手で上着の内ポケットからメタル色をした携帯を取り出すと、携帯のアプリを活用して時間を見た。現地の時間は朝の五時五十分だった。次に周辺の地図を検索し、今いる地点の大体の住所を調べ上げた。そして満足そうに呟いた。


「まずまずね。計画通りだわ」


 それからパトリシアに連絡を入れ、ジョークを交えて三分近く話すと、次に協力者だとビッグパンプキンから伝えられていた人物に連絡を入れた。しかし少し待っても反応がなかったことから、「困ったわねえ」そう一言呟くと伝言めいた言葉を残し、今度は付近でゆっくりできそうな場所を検索した。その際、湖の畔から歩いて十五分内外の近場にあること、早朝に開いていること、大き過ぎず小さ過ぎないこと、落ち着く雰囲気であること、食事ができること、できれば宿泊が可能であること、値段がリーズナブルであること、旅行者の推薦があり評価が高いこと、カードが使えることと条件が揃っていたところが、このレストランであった。


「あたし、海外へ来たのは生まれて初めてなんです。もうどう言ったら良いか分からないくらい興奮しています。ホーリーさんは海外はもう何度も来て慣れっこなんですか?」


 ホーリーに気に入られようといつもの人懐っこい笑顔を彼女に向けたイクは、舌足らずなかわいらしい物言いで尋ねた。


「まあね」テーブルの上のカップに目を落としながらホーリーは事もなげに応えた。


「プライベートのときもお仕事の時もあるし。パティーのお家を訪れるのも海外だしね」


「ああ、そうでしたね。あのう、ところでこの後どこへ行くんです? もし差し支えがなかったら……」


「ああ、そのこと。まだはっきりと決めてないわ。これは仕事だから、最終的には目的地へ向かわなければならないんだけれど、その前にやっておきたいことをやらなくてはと思ってね。何て言ったって、普段は訪れる機会なんてないこの国にせっかく来たのだからね」


「それは一体何なんです?」


 はにかんだ笑みを見せて尋ねたイクに、ホーリーはうふっと笑うと朗らかに告げる。


「観光よ。わざわざここまで来て、仕事だけして帰るんじゃつまらないでしょ。少しくらい羽目を外して楽しんだって罰は当たらないと思ってね」


「それもそうですね」


 二人はお互いに直接話したのは今回が初めてであった。が、同性ということもあって自然と打ち解け合っていた。おまけに、着いてからは、お互いに話したいことがたくさんあり、話題にことかかなかった。


「それはそうと、一つ聞いても良い?」


 さっそく思い出したように話題を変えたホーリーに、イクはニコッと笑って応えた。


「はい、何でも」


「それじゃあ聞くけど、あのセキカといったかしら。あの猫ちゃんは今頃はどうしているのかしら? 確かパティーの自宅まで付いて来ていたようだったけれど、あれから姿を見なくなったのでどうしたのかと思ってね」


「ああ、そのことですか」イクはニヤニヤすると涼しい顔で応えた。


「セキカなら、今ここに来ています」


「えっ!?」瞬間、ホーリーはちょっと驚いたようにイクへ視線を向けると訊いた。


「どういうこと?」


「あのですね」イクは笑って着ていたブラウン系の上着をこれ見よがしにホーリーへ見せつけると言った。


「今あたしが着ている、このレザーコートがそうなんです。セキカはぺちゃんこになって自由に形と色を変えることができるんです。ときには帽子やバッグだって変わることができますし」


「ふーん、そう」


 この魔物もロウシュのトリガと同じで何でもありってことなの、と好奇の目を向けたホーリーに、イクは構わず続ける。


「セキカが言うには、セキカが暮らす世界では、ごく普通のことなんだそうです。セキカは、将来のことに不安を感じたセキカの子孫が遥か昔の祖先の知恵と力を借りようとなって誕生したんだと言ってました」


「ふ~ん」


 ということは、あの魔物は人工生命体? ホーリーの脳裏に何となくそのような単語が浮かんで消えていった。


「すると、この話、全て聞かれているってこと?」


「いいえ、安心してください。それはないと思います。あたしの勘なんですが、セキカは寝ていて何も聞こえていないと思います。セキカは一旦寝るとあたし等の想像を超えるくらいぐっすり眠るらしいんです。その間、どんなに音を立てて起こそうとしたってうんともすんとも言いません。眠ったままなんです。

 ずっと前のことなんですけれど、半年ぐらい見かけなかったことがあって、どこか遠くまで行って道に迷って帰ってこられないのかなと思っていたときです。突然現れたもんで、どこへ行ってたのと訊いたんです。すると何と言ったと思います。あたしの家の中で寝ていたと言ったんです。そんな馬鹿でも分かるバレバレな言い訳に呆れるや阿呆らしいやらで、良く半年も寝られたものねと皮肉を言ってやったんです。するとセキカは何と言ったと思います。澄ました顔で、お前と私とでは時間を感じる感覚にズレがある。お前が一日を二十四時間と感じるとき、私は一日を一秒と感じるようにな、と訳が分からないことを言ったもんで、適当にああそう、分かったと返事しておいたんですけど、そんなこんなで……。それに例え嘘寝をしていたってあたし等には分からない別なことを考えているみたいで、全然耳に入っていません。セキカったら、この世界の全てに何も興味を持っていないみたいですから」


「それって、つまり無関心ということかしら?」


「ええ、そういうことみたいです。その証拠に、セキカのことを、どんなにぼろくそに言ったって、セキカはへっちゃらみたいで、何も言い返して来ません。それでもって、いつも逃げるようにどこかへ消えてしまうんです」


「ふーん」ホーリーは笑いをかみ殺してこくりと頷いた。なるほど、言い返すだけ馬鹿馬鹿しいと判断しているわけなのね。つまり相手にしていないってことかしら。ふふん、相手のボデイランゲージをこうも勘違いしてるなんて、ちょっと変わった子ね。


 そんな風にホーリーが思っているとは露知らず、イクは得意げに続ける。


「そんなセキですが、起きているときなら、こちらから話しかけると、必ず何か答えてくれます。けど頑固で融通が利かないというか、もう何て言ったら良いか分からない難しい理屈を述べるだけで、ほとんど助けになってませんが」


「ふ~ん。それ、信じていいの?」


「信じるとか信じないとかそんな話じゃないんです。その証拠があたしやあたしの家族やあたしの友人たちです。もし少しでもあたしやあたしの家族や友人のことをセキカが考えてくれていたら、今頃はみんな何一つ不自由のない天国みたいな生活をして、毎日遊びまくってます。こんなところにいやしません」


「ふーん、そう」自らの境遇をクソ真面目に吐露したイクに、ホーリーはクスリと笑うと言った。


「じゃあ、眠っているときコンタクトをとりたいときにはどうすれば良いの?」


「ええと……」


 ほんのしばらく考えてイクは首を小さく横に振ると応えた。「それはできないというか、ただ目覚めるのを待つしかないみたいです」


「そう。それは困ったわねえ」


「その代わりと言っては何ですが、うまい方法がありまして。実はですねえ、あたしの父さんが話してくれたことなんですけど、あたしが眠ると、代わってセキカが目覚めて起きてくることが良くあるらしいんです。それも、こんな風にセキカが変身しているときに限って、あろうことか、あたしに乗り移ってくるんだそうです」


「ふ~ん、おもしろい現象ね。そんな芸当ができるの」


「はい。あと、もっととっておきの方法もあります。それをやると、あたしが眠らなくたってセキカが自由にあたしに乗り移ることができます。それにつけて、あたしは体中に力がみなぎって、何でもできそうな気がしてくるんです。そして実際にできるようになるんです。けど、たった一つだけ気になることがあって。首から下が物凄く毛深くなっちゃうんです。それだけが嫌なところなんですけれど」


 最後に余計なことを挟んだイクに、ホーリーは眉をひそめて「ああ、そう」と返すと素っ気なく言った。


「ところで猫ちゃんの能力ってそれ以外に何があるの? 本人が聞いていたら悪いんだけれど」


 そう尋ねてホーリーは、すかさず「もし言い辛いのなら別に言わなくても良いけれど」と言ってイクの反応を見た。


 するとイクは、急に話題を変えたホーリーに一瞬きょとんとしたが、すぐに何でもないという風に口を切った


「別に言い辛くなんかありません。話します。セキカの能力としては、空を飛ぶことができます。あれは空を飛ぶと言うより空を足で駆けるといった表現が、ぴったりあてはまっているかも知れません。また、あんな姿をしていますが水の中もへっちゃらです。あとはカミナリに打たれても平気です。ピンピンしています。あたしが証人ですから間違いありません。それどころか、変わってると言うか自分から進んでカミナリに打たれに行くんです。もうわけが分かりません。

 あとは自分の排泄物から薬みたいのを作ることができます。

 ええと他には、尻尾の先が光って明かり代わりにできます。また、信じられないくらい伸ばすことができて物をつかんだりすることもできます。耳は立てると目の代わりになって、ものを見ることができます。ひげは変形させて、レッコー様式という武器になります」


「ふーん、そのレッコー様式って、なーに?」 


「ああ、そのことですか。ええとですね、向こうの世界で認知されているセキカオリジナルの武器のモデルをそう言うんだと言ってました。

 あたしも一度見せて貰ったことがありますが、色はそう、そこに掛かっている鏡の色そっくりでした。長さは確かあたしの身長の二倍くらいあったような気がします。太さはあたしの腕ぐらいあって、両端が木の棒をカッターナイフで削って尖らしたような格好をする棒みたいなものでした」


 身振り手振りを交えながら、頭をフル回転させて一生懸命に応えようとするイク。

 そんなイクに、ホーリーは複雑な思いだった。

 ここまでのところはパティーと一緒で、この娘は見るからに人が好さそうだけど……。

 確かに人の良いのは結構なことよ。けれど、私達の世界はそんなに甘くないのよ。

 パティーの場合は、どんな目に遭ってもへこたれずにずる賢く立ち回る芯の強さがあったけれど。さてこの子は果たして大丈夫かしらねえ。だまされたり裏切られたりしなければ良いのだけれど……。


「あのう……」


 そのような思いでいたホーリーに向かって、イクの声が遠慮がちに響いた。


「ホーリーさん。あたしも尋ねて構いませんか?」


 急に黙ってしまったホーリーに、何を言って良いか分からなくなったイクが、苦し紛れに自分から話を振ってきたのだった。その声にホーリーはすかさず反応すると言った。


「ええ、何でも聞いてちょうだい。応えられるものなら何でも応えてあげるわ」


「ではお聞きします。あたしたちは、これからどこへ向かうんですか?」


「ああ、そのことね。ここからおよそ五十マイルいったところにある、ミランボンという都市よ。

 この国で二番目か三番目に大きい都市でね、その昔といっても今から百年ぐらい前のことだけど、この国に大統領制があった時代に大統領の一声で人工的に建設された都市で、特別に選ばれた市民のみが居住を許されていてね。そのため当時は警備が厳重で、一般人は入ることも、その都市の存在すら知らされていなかったの。

 ところが時代が変わって大統領制が廃止されてからというもの、広く公開されるようになって、今では一般人も自由に住むことができるようになっている上に、都市全体が歴史の遺物として観光の名所となっているの」


「なるほど……」


 それからホーリーは、これからの予定を語った。イクは淡々と聞いていた。

 温調が効いた室内は、居心地がすこぶる良かった。イクは、このままでずっと居たいと思ったぐらいだった。しかしながら、そういうわけにもいかない事情ができていた。

 その間にレストランは、平日にもかかわらず、だんだんと混んできて、全席がいつの間にか埋まっていた。加えて、尚も客足が増えそうな雰囲気となっていたのだった。

 その様子に、二人も当然ながら空気を読むと、ホーリーが壁の時計を見ながら「さて、そろそろ出ましょうか」の一言が発端となって、揃って席を立った。

 無論、会計は年長者のホーリーがカードで済ませ、それほど時間をかけずに二人は仲良くレストランを出ていた。


 外に出ると、人気店らしく、駐車場には車両が既に十数台止まっていた。更に別の車両が三台、一つながりとなって駐車場へ入っていくのが見えた。その状況を見ながら、朝の八時半頃に二人はレストランを後にすると、徒歩で遥か先にある都市を目指した。

 詰まるところ、「せっかく異国へ来たというのに、直ぐに乗り物で移動するなんて、何だか味気ない気がしない? ここは歩いて行きましょう。異国の空気を吸いながら周りの景色を見て回るのが旅の楽しみ方というものなのだから」といったホーリーの提案に、イクがそんなものかなと押し切られた格好でそうなっていた。


 普通に考えると、五十マイル(約80.5キロメートル)という距離は女のやわな歩きでは相当長いと言えた。しかしながら、二人が少し本気を出すだけで、そうとは言えないものとなっていた。

 ホーリーとイクの二人が並んで風を切って歩いていくと、頻繁に通過していく車両と共に、何の変哲もない緑の木立、人家なのだろうか固まってひっそりと建つ建物群、広い敷地内にぽつんと建つ学校らしい建築物、各種の郊外型レストランやスーパーマーケット、派手に目立つ看板を掲げたモーテル、さまざまな草花が生い茂る荒野、チェーン店のコーヒーショップ、充電スタンドなどの景色が、次から次へと繰り返されてはあっという間に二人の視界から遠ざかっていった。

 そのような景色が、やがて途絶えたとき、今度は穀物が収穫された後の農地が延々と続く単調な風景一辺倒となっていた。そこで他に見られるものと言えば、羊や牛がゆったりと草をはむ光景や円筒状をした穀物サイロやD型の屋根が特徴的な倉庫の建物ぐらいなものだった。

 そのような中を尚も行くと、はるか遠方に高層の建物群の塊が忽然と姿を現した。目指す都市と思われ。近づくにつれて、普通にコンクリートの壁が、周辺に張り巡らされているのが見えた。そしてその直前のスペースには、色んなカラーをしたバスが何十台と縦列駐車していて、その辺り付近に、観光客と思われる大勢の人々がたむろしていた。一般人や警察の車両も見えた。


 ちなみに道は都市へ出入りするらしい門へと続いていた。門と言っても、テーマパークやイベントホールの入口とそれほど変わらなかった。車両が通過する専用の入口と人が通る専用の入口に分かれていて。人が通る入口は低層の建物の一階部分をぶち抜いた簡素な構造をしていて、屋根の部分に、「ようこそ、ミランボンの都へ」と記された大きな看板が掲げてあった。

 もちろん二人は、大勢の人々が列を作っていた最期尾に並んだ。いつの間にか昼になっていた。相変わらず空は、今にも泣き出しそうな薄曇りだった。

 それから十五分間ほど我慢強く待って、受付の前までようやく辿り着くと、そこで入場料を支払い、入場料と引き換えに二種類の小冊子を受け取った。都市のマップとパンフレットで、マップには名所の建物のカラー写真とともに道筋がイラストで描かれていた。またパンフレットの方には、都市の歴史と概要が年代別に整理されて記されていた。


 中に入るや、空港か駅のターミナルにやって来たような広い空間が現れた。そこを大勢の旅行客に混じって直進して抜けると、途端に広い道路が縦横に走り、そこを各種車両がひっきりなしに行きかい。その沿道には人口庭園や遊歩道を伴った現代風の中高層の建物群が林立する。そこへ加えてモノレールや歩く歩道も見えるなど、これこそ都会といった壮大な景観が目の前に出現。ここまでやって来るまで見てきた田舎の風景と打って変わってのその光景に、ホーリーとイクの二人は、他の旅行客共々、ほんのしばらくの間、呆然と立ち尽くした。

 しかし瞬く間に二人は、他の旅行客同様、我に返ると、世界標準で『無料』と大きく表示された看板が立つ地点付近に停まっていた数台のバスのうちの一台に、行き先も調べないまま乗り込んだ。人の流れに一先ず任せることにしたのだった。

 するとバスは、モノレールの駅やホテルやタワーマンションが集まる場所や土産物店街や飲食店街。他には図書館、公園、教会といった公共の施設の付近で自動的に停車した。偶然に二人が乗ったバスは、約一時間をかけて最寄りの地点に停車しながら一周して元の地点に戻ってくる、世間でいうところの周回バスで。

 それをバスの中で気付いたホーリーは、それを理解した上で今日の落ち着き先を決めようと考えて実行した。しばらくして二人はホテルらしい外観をした建物が直前に過ぎた辺りの停留所で下車すると、目指す建物へと向かった。


 そのようにして二人が見つけたホテルは六十階建ての高層ビルで。いかにもホテルといった立派なエントランスを除いて、タワーマンションそっくりの外観をしていた。後で分かったことであったが、同じ規模のビルが通りを挟んで六棟ばかり建っていた。

 中に入ると、かなり流行っていると見えて、手荷物を持った十名くらいの男女がフロントカウンターの前に並んで立っていた。二人も同じくその後へ続いた。

 その五分後、二人にあてがわれたのは、窓から都市を望める四十五階の五号室。ベッドが二台、並べて置かれているだけの部屋だった。

 ともかくも落ち着き先を決めたことで、二人はただちに外出すると、通りを歩いた。

 通りには、腕を組んだカップルや若者のグループや荷物を持っていたり子供を連れた男女が普通に往来していた。その中をしばらく歩いて見つけた大手チェーン店のカフェに入った。

 午後の二時過ぎという時間帯も手伝って、他には客が誰もいなかったカフェはジャズのリズミカルな音色が流れ、やや薄暗かったこともあり、独特の雰囲気に包まれていた。そこでミーディアムサイズのハンバーガー一個とミックスジュースという同じメニューを注文してやや遅めの昼食を摂った。

 そのとき、そのついでにホーリーは、この日の予定を立てようと考えて、マップとパンフレットを目を皿のようにして見比べた。


 マップには、都市全体の交通網とおおよその距離と所要時間がそれぞれ記されてあった。追補として特に有名な場所はセレクトして、より詳しく説明がなされていた。

 一方、やや厚みがあったパンフレットの冒頭には、歴代の大統領夫妻とその家族並びにその側近達の顔写真と彼等が暮らした立派な屋敷の写真とともに、大統領がこの都市を造ったあらましと、都市が辿ってきた歴史と、都市に存在する全ての観光名所の場所の概要が述べられていた。

 それによると、そもそも都市が建設されるきっかけとなったのは、今から百余年前に、当時の大統領が、湖の畔にあった大統領の別宅とそれほど遠くない地理にあった国有地の広大な原野を土地改良することで農地化し、不毛の土地の有効利用を図るとともに、そうやって生まれた農地を広く農民に分け与えて、そこから入ってくる税収を国家財政の糧とするという旨の公共工事を発案したことによっていたこと。無論、その案はどこからも異論が出ずに広く受け入れられ、何の障害もなく採択されたこと。ところがそこには裏があり、実際は自身の権力の保身を図る目的のためにやったことで、そのことは一部の利害関係者しか知らず、当然ながら国民は置き去りにされていたこと。

 そのとき都市建設の工事は、「生産した穀物の流通拠点を政府が計画して造るのだ」といったもっともらしい理由をつけて、原野の土地改良を行う事業の付録として取り扱われたこと。だが途中でメインとなると、建物の建設やインフラ整備に当時の国家予算の半分以上が一年半ばかりで費やされたこと。

 そうして出来上がった建物や農地や整備した土地を、大統領の一族を始め、彼を支持する重臣並びに彼に忠誠を誓う幹部連中に惜しげもなく分け与えたり、豪華な調度品や備品を付けた上で無償で住まわせたりしたこと。

 そのあとを継いだ大統領は、それまで六割から七割がた終わっていた工事をさらに推し進めながら、神経質で疑い深い性格で人の意見に流されやすい性格であったこともあり、都市の中に秘密の収容所を造り、自身に仇すると思われた者達や耳の痛い本当のことを言った者達を老若男女問わずに見せしめとして次々と強制的に幽閉して、闇から闇へと葬ったのを手始めに、万が一に備えて地下に自身専用の避難通路を造らせ、それに加えて側近の意見に惑わされて地下都市まで建設したこと。

 そしてその後を引き継いだ大統領の時代には、絶対権力が不動のものとなっていたこともあり、自身の側近と支持者へのご機嫌取りは一段落させて、それに替えて、自身と彼の奥方の趣向に合わせたものに都市を造り変えようと都市の私物化を進めたこと。早い話、都市の存在意義が変わっていったこと。

 またそれと並行して、錬金術とか魔法とかいった自らの力が及ばない神秘的なものに傾倒すると、摩訶不可思議な術を使う者達を全世界から広く集め、ついにはその者達の意見を聞いて政をするようになったこと。

 それが、その後を継いだ息子(最後の大統領)の治世となると、権力が大統領に集中し過ぎて完全な独裁状態となっていたこともあり、わがまま、ぜいたく三昧のし放題で。また都市に限っては、金に糸目をつけずに都市をいじくりまわし、”自身にとってのこの世の楽園”に都市を造り変えようと企てたのを手始めに、実際のところ、事は成就しなかったが、横柄にも神にでもなったつもりで、この世を自分の思い通りになる世界に造り変えようと本気で考えて、自らと父親の代から集めた怪しげな者達を使ってこの世を支配しようと試みたこと。

 ――そのような内容が、より分かりやすく理解して貰うためなのか、昔話的形式の記述で、しかも複数の外国語で記載されてあった。それを読んだホーリーは感心した様子で、メガネの奥のエメラルドグリーンの瞳を輝かせて小さく頷くと、


「ほんと、権力を手にしたものがゆくゆく辿る顛末かしら。ま、私達には関係ないことだけれど。

 それにしても、さすが観光都市というだけのことはあるわね。都市一つを丸々リゾート施設にしてしまうなんて、こんなことを誰が考え付いたのかしらねえ。中々大胆じゃない」


 そう感想を漏らして、相向かいに腰掛けたイクに向かって、出し抜けに訊いてきた。


「あなたも見る?」


「あ、はい」


 イクは調子の良い返事をして受け取るとパンフレットを眺めた。しかし、よその国の歴史や政治経済のことはどうでもいいことで、全く興味がないといって良かったので、熱心に目を通す振りをしばらく続けた。

 その間ホーリーは軽く腕組みをすると、テーブルの上をぼんやりと眺めていた。

 さてと、どこまで行きますか?


 それからほどなくして、二人はカフェを出ると、最寄りの駅からモノレールに乗り、途中から地下へ向かう線に乗り換えて、眠らない地下都市へと向かった。

 その日はあと半日も時間がなかったのをホーリーが考慮して、手っ取り早くいける観光名所をマップで調べた結果だった。

 地下都市はかなり深い場所にあった。広い空間が複数の通路で迷路のようにつながったもので、昼間のように明るく、地上よりも人通りが多く感じられた。通りの両側が商店街となっているところもあって、ある意味、大都市の地下にある地下街とよく似ていた。また、巨大な地下宮殿や地下ドームや地下の広い空間を利用したコンサートホールのようなものや地下水が豪快に流れ落ちる滝や地下水を利用したサウナ・スパなどの施設が見られ。そこへ加えて、カジノや大人も楽しめる遊園地や音楽ショー・演劇・マジックショー・スケートショー・サーカス・プロレスといった各種イベントも随時開催されて楽しめるということで。つまり、お金さえあれば飽きることがないようになっていた。


 その日二人は、「一通り巡ろうとすれば、どう考えてもひと月かふた月ぐらいは軽くかかりそうね」「そうみたいですね」などと話しながら、地下通路をかなりな時間ぶらぶらと歩きまわると、可能な限り地下都市を見て回った。

 そして気が付けば、沿道のそこかしこに設置された街頭時計(夜が来ない地下都市において、唯一の時間を知る拠り所となっていた)が、知らぬ間に午後の八時過ぎを表示していた。それに気付いてからというもの、二人は示し合わせると地上へ戻るモノレールの駅を探しながら散策することに目的を切り替えていた。


 そんな風にして、とある建物の前にやって来たときだった。少し前を行っていたホーリーがちょっと立ち止まり、不思議な顔をして当の建物の中の様子をうかがう仕草をした。

 ビルのエントランスのような殺風景な、至って何でもない正面出入口で、普通に透明なガラス製の大型自動扉が見え、その内部の片側にはイスが並べて置かれ待合室のようになった空間があり、数人の大人の男女がそこに腰掛けていた。

 あと目につくものと言えば、人がいる方の突き当りの壁に大画面のディスプレイが設置されてあり、何らかの映像が放映されているのが見えているくらいで、建物が何に使われているのかを示す看板も表示も何もなかった。

 しかしホーリーは、「こんなところにもあるのね」と独り言を呟くと、イクに向かって、「ちょっと待っていて」と伝えて、ひとりで中へと向かって歩いていった。

 そしてしばらくの後、自動扉が開いて悠然と出てくると、「入りましょう」と手招きした。イクはわけも分からないまま「はい」と返事をするとホーリーの後ろへ従った。

 後ろに付いていくと、数人の男女がちょうど座っている(本当は全員が居眠りをしていた)イス席の横に、死角となって外から見えない受付カウンターが見え。そこにスーツ姿の女性が二人座っていた。


「ねえ、何だと思った?」ホーリーはにやりと笑いながらイクに訊くと、


「ここはね、秘密クラブと言えば大げさ何だけれど、まあそんなものかしらねえ。まあぶっちゃけて言えば、会員制のカラオケクラブなの。素人が大勢の人の前で自慢の歌を披露するあれよ。コアな趣味人に人気があるの。私が行きつけにしてるお店と全く同じチラシが目にかかったものだから興味半分で覗いてみたら、同じグループに加盟しているんだということで入ることに決めたのだけど、あなたは初めて?」


 そうまたしても問いかけてきた。イクははっきりとした口調で正直に答えた。


「はい。初めてです」


「そう」ホーリーは笑顔でこくりと頷くと言った。「まさかと思ったけれど、この国にも同じ趣味を持った同朋がいることに驚いたわ。カラオケの楽しさを分かっている人で他人の歌を真面目に聞くことができる人のみ入場してほしいと、わざと看板を掲げないで営業しているみたいなの。

 一応ね、ここのシステムのことも訊いてみたんだけど、ほとんど変わらないみたい。

 実はね、この場所で夕食にしようかと思っているの」


 熱っぽく語ったホーリーのその言葉に、彼女の目的が何であれ、イクは何の依存もなかった。そう言えば、いずれどこかで夕飯を食べなくちゃあいけないしね、と素直に理解して頷いていた。


 受付のすぐ横に見えた、濃ブロンズ色をしていて内部がみえない構造になっていた自動扉を通ると、もうそこは別次元の世界だった。

 照明の明かりを通りに比べて若干絞ってあり、清楚な白で統一された空間と相まって、どちらかと言えば落ち着ける雰囲気を作り上げていた。

 また奥行きが思った以上に広く、天井も見上げるくらい高かった。他にも天井は、手が込んだことにアーチ状をしていた。

 そこでは、どこから集まってきたのか大勢の男女が仲良くテーブル席に腰掛けていて、ほぼ満員と言って良かった。しかもマナーが非常に良くて、大声を出したり立ち上がって騒いでいる者は一人もいなかった。


 入るとすぐに、にぎやかな音楽と共に、案外上手と言っても良い男性の歌声が耳に入ってきた。見れば、奥側にあった一段高くなったステージの上に立った一人の中年男が、スポットライトを浴びながら歌っていた。

 二人は壁伝いに歩いて、団体席、小団体席、カップル席、個人席とあったテーブル席の内、イスのシートが二つ横にくっついた方でない方のカップル席まで向かうと相向かいに腰掛けた。ホールの規模と受付で貰った席番号、550と551から考えて、ざっと六百人は入っているとみて間違いなかった。

 しばらくして歌声が途絶え伴奏が終わったかと思うと、ほぼ満員のテーブル席から拍手が起こっていた。


 テーブルの上には予めに携帯そっくりなモバイル端末が置かれていて、そこからオーダーを出す仕組みになっていた。


「凄く流行っていますね」


「元々はフロイスの紹介でここを知ったわけなんだけれど、私の方がはまってしまってね。

 普段は弟子を連れて良く来るのよ。ここで歌おうかという人達は、昔バンドを組んでいてヴォーカルをやっていたとか、音大の声楽科を出ているとか、カラオケボックスに通って鍛え上げた強者ばかりで、みんな只者じゃないの。だから、いつ来たって素晴らしい歌声を聞けたりしてね」


 などと二人がぼそぼそと話しながらモバイルを手に取り料理をオーダーすると、十分ほどして、たくさん並んだテーブル席の中を縫うように、若い男の店員ができるだけ音を立てないようにして、その日一番の豪華な食事と飲み物を運んできた。豪華なと言ってもファストフードをデラックスにしたようなものであったが。

 ちなみに料理には、フォークやナイフは落としたりすると大きな音がするので付属していなかった。その分、手を拭くために紙ナプキンが用意されていて、全ての料理が手軽に素手で食べることができるようになっているのだった。

 二人はワンプレートに盛られた料理を手を使って味わいながら、直ぐにひそひそ話に興じていた。


「ただ単に食事をするところならどこにでもあるわ。ところがここでは、そこに余興が付いてくるのよ。それもプロ顔負けのね。それがタダというのはお得感があると思わない?

 よそなら別にサービス料が付いてくるんじゃないかしら」


 もっともらしい理由付けをするホーリー。そんな彼女に、イクはそんなものかなと思っていた。

 そんなとき、ステージの方向をしきりに意識するように見ていたホーリーが振り向くと、にっこり微笑んで、


「それじゃあ、行ってくるわね」


 そう言って速やかに席を立ち、こちらに来るときに通った道筋を戻るようにして行ってしまった。

 ステージの袖にあった、歌う順番が記された電光掲示板をホーリーがのぞき込んでいたとは露程も知らなかったイクは、どういうことか分からずにキョトンとした表情で彼女を見送っていた。あのホーリーさんが落ち着きがなかったということはトイレかな? それも大きな方の……。

 そう勝手に思い込むと、イクは一旦止めていた手を動かして、ケチャップと粒マスタードがたっぷりかかるウインナーが真ん中に挟まったロールパンを口に運んだ。まあ何でもいいや。


 それから少し経った頃、それまでの楽曲とは全く趣きの違う、物静かなアコースティックのBGMが流れてくると、ゆったりして伸びの良い低音から始まって、やがて高音の透き通った若い女性の歌声がホール内に響いた。

 途端に、その歌声にすっかり魅せられてしまったのか、それまで残っていた幾ばくかのざわめきが客席からかき消えると、水を打ったように静まり返った。

 そのとき、純白のワンピースを着た黒髪のうら若き女性が、ステージ上でスポットライトを浴びながら歌っていた。

 その光景を、くりくりとしたつぶらな茶色の目で見たイクは感心すると見とれた。

 それにしても前で歌っている女の人、凄いわね。リアルに心を持っていかれそう。道理で、お客さんどころか店員さんまでもが金縛りにあったかのように手や足を止めてステージを真剣に見つめてるわ。まるで全員が催眠にかかっているみたい。身動き一つしてないわ。でも、あの声、どこかで聞いた覚えが?

 イクは少し考えて心の中で分かったと頷いた。あっ、そうそう。あの声はホーリーさんだわ。きっとそうよ。確かみんなでフロイスさんの別荘で合同合宿したときに一度聞いたことがあるから間違いないわ。

 あの姿は、おそらく目立たないようにするための変装ね。きっとそうよ。目に仮面舞踏会にしていくみたいなマスクをしているもの。それから考えると黒い髪の毛も服装も合点がいくわ。

 ということは、それじゃあ行って来るわねと言ったのはこのことだったの。ちっとも知らなかったわ。

 イクは、ステージの上で静かに独唱する女性を好奇な目で眺めていたかと思うと、心の中で更に呟いた。

 これがホーリーさんの本気と実力!? 凄すぎるわ。

 イクは鼻高だった。自分のことのようにうれしかった。


 そうこうする間に、いつの間にか歌が終わっていて、女性が客席に向かってお辞儀をしていた。次の瞬間、先ほどまでの静寂が嘘のように、割れんばかりの拍手が鳴り響いていた。そのとき、一呼吸おいて一緒に拍手していたイクは自分のことのように喜んだ。

 それはそうでしょう。何て言ったって美しいホーリーさんだもの。パート先でよくいるガラの悪いおばさんの声じゃ様にならないわ。

 イクは得意満面だった。


 拍手の余韻がホール内で覚めぬ内に、次の演者がステージに姿を現すと、少しの準備期間をおいて、やがて伴奏を伴い、プロ歌手に負けずとも劣らない美声を響かせ始めた。再び客席が静かに歌声に聞き入り、辺りが静けさに包まれていた。

 そのような中を、衣装を元の服に着替え、ダサいメガネを掛けて、髪も元のポニーテイルへ戻したホーリーが、うれしそうに顔をほころばせていそいそと戻ってきた。そして、笑顔で出迎えたイクの前で開口一番に、


「久しぶりに大勢の人達の前で歌ったから変に緊張しちゃってね」


 照れ隠しの微笑を漏らして、早口で言い訳になっていない言い訳をして席に着くと、直ちにテーブルの自分の席に載っていたワイングラスを手に取るや、中に並々と入っていた赤紫色をした液体を三度に分けておいしそうに全部飲み干した。

 続いて、呆気に取られるイクをよそに、楽しそうに立て続けに話した。


「ここの感じが不思議と教会のチャペルそっくりだったので、それに合えばと思って宗教色の濃い楽曲を選んで歌ってみたのだけどね。後で係の人に訊いてみたら、私のにらんだ通りだったわ。その昔、ここは教会のチャペルだったそうよ。それを改装してこのように使っていると言ってたわ」


 それからホーリーは、プレートの手前に載った、タルタルソースがかかった白身魚とフレンチサラダとチーズを挟んだライ麦パンのサンドイッチに向かうと、しとやかに口に入れ。次いでその隣に盛られた付け合わせのレモンペッパーソルト味のポテトフライの一つを手に取ると、既に食べ終わっていたイクが見ている前で口に放り込んでいた。

 そこへ気を利かしたイクが、空になったグラスへ、ノンアルコールとラベルに記された濃いグリーン色をしたワインボトルから赤紫色の液体を注ぐと、ホーリーは「ありがとう」と一言言って、グラスを手に取り、おいしそうにぐいと喉に流し込んだ。

 かなりお腹が空いていたらしく、それからホーリーは食事に没頭すると、およそ十五分ほどでプレートの上の料理を全て平らげていた。続いて紙ナプキンで口を押える仕草をして、口元についた汚れを拭い、余裕の表情で他の客と同じようにステージの方へ目をやった。そのうち、歌声に聞き入ってしまったと見えて、いつの間にか彼女から笑顔が消えて真面目な顔つきとなっていた。

 ところでイクはカラオケにそれほど興味があるわけでもなかった。しかしながら、きょろきょろして一人だけ周囲から浮いてしまうのはどうかとして、ホーリーに倣ってステージに視線を向けていた。


 相変わらずステージ上では、フォーマルウエアに身を包んだ客がしーんと静まり返った客席の前で歌を披露していた。みんな一曲だけ十八番を歌い終わると次の客と交代するという行為を繰り返していた。


 それにしてもここの集まりの歌い手のレベルは想像以上と言って良いみたい。

 一人として音程を外していないし、自分勝手な歌い方もしていないようだしね。

 ホーリーさんには劣るけど、みんな音程が正確で、声量があり、リズム感があり、表現が豊かと、歌唱力が人並み以上だわ。

 そのようなことを思いながらステージ上の歌い手の歌声をイクが聴いていたとき、ちょうど七人目ぐらいに歌った男性の歌い手は完璧なほどの歌唱力で、プロの歌手より上手いのではないかと感じられた。それから言って、ホーリーが熱心に耳を傾けるのも何となく分かる気がした。


 しばらくの間、ホーリーとイクは時間を忘れてカラオケ鑑賞に夢中になっていた。「それじゃあ、ぼちぼちおいとましましょうか」と、ここへ立ち寄るきっかけを作ったホーリーが頃合いとみて口を開くまでは。

 もちろんイクは反対する理由は見当たらず。素直に「はい」と返していた。


 そういうことで、口裏を合わせた二人が、そろそろ席を立とうとしていたとき、地味なブラウン系のスーツにクジャク柄のネクタイ、ティアドロップタイプのメガネを掛けてと、ちょっとおしゃれに決めた初老の男がゆっくり近付いてくると、二人のテーブル席の傍まで来て立ち止まった。

 一種独得な雰囲気をもったその人物に、二人が何気なくその方向へ振り向くと、白い口ひげを生やしたその男は小さく頭を下げて、内緒話をするような小さめな声で言った。


「ちょっと、失礼しますよ。一応この店のオーナーという立場にある者ですが、実は少々お頼みしたいことがあってここへ参ったという次第です」


「というと」傍から、メガネを同じく掛けたホーリーが不思議そうに問い掛けると、初老の男は愛想笑いを浮かべながら続けた。


「ええ、このようなことは滅多にないことなのですが、あなた様の歌声が余りにも素晴らしかったらしく、歌い方のお手本としてぜひ参考にしたいからもう一度聞いてみたいだとか、ストレートにあの美人の神秘的な天使の歌声をもう一度聞かせて欲しいとか、おっしゃられて私共のところへリクエストを寄こしてきたお客様が多くおりまして。それでうかがったわけなのですが。

 あなた様は、ジャンルは計りかねますが、あの歌い方から見て、何かしらのプロの歌手でいらっしゃることは疑いのないことと見受けられます。

 それ故、えらくご苦労をかけることは重々承知しておりますが、そこを何とかしてもう一度歌っていただきたいと思いまして。もちろんタダとは申しません。多少のことはさせていただこうかと思っております。例えば、こちらでの食事代のみならず歌うために費やした諸々の料金はいただきません。そこへ加えてサービスとして当社特性のワインとこの辺りで使えるクーポン券をつけさせていただきますが、いかがでしょうか?」 

 

 そう言った男の頼みに、もうかなり遅くなっていることもあって、メガネの奥からホーリーは少し迷った表情を見せた。しかし、それなりの立場の人物が言ってきたことに、お世辞と分かっていてもうれしくないはずはなく。直ぐに温和な顔つきになると、イクが見守る中で丁重に、


「じゃあそうね。私で良ければ、お言葉に甘えて歌わせて貰うとしようかしら」と了承していた。


「そうですか。安心致しました」そう答えた男の顔に安堵の笑顔が言うまでもなく広がっていた。


 突然の申し入れを受け入れたホーリーは、その後再びステージに立つと、オーナーの意向に沿う形で、世界中で広く歌われ、愛されているスタンダードなバラード曲を選曲して美声を披露した。そのメリハリの効いた伸びやかな彼女の歌声は再び客席を魅了して、歌が終わった後には万雷の拍手が起こっていた。


 その時を境にして、ぶっきらぼうな対応をしてくるときがしばしばあったのが無くなり、愛想良くしてくれるようになっていた。

 それからというもの、イクはほっとした気分だった。


 そのようなこともあって二人がホテルまで戻ってきたときには深夜一時を過ぎていた。あの後、予定より四十五分遅れで店を出、地上へ向かうモノレールの駅を探しながら歩いたのだが、寄り道を一切しなかったにもかかわらず、初めての場所ということもあり、思ったよりも時間がかかっていたのだった。


 その日、午前七時にホテルを出ると、食事を摂るために昨日入ったカフェに向かった。朝の冷え込みが残る往来は、たくさんの人でごった返していた。誰しも吐く息は白く、みんな暖かい服装をしていた。

 五分ほど歩くとカフェはすぐ見つかった。その店内は、おそらくこれが普段の光景なのだろう、コート姿やスーツ姿やダウンジャケット姿の客で比較的混んでいた。

 しかしどの客も食事が終わると、急ぐのかゆっくりすることなしに出ていくので、特に待つことなしにすんなりと中に入ることができていた。二人は空いた席に着くと、次々と忙しそうに入れ替わる男女を横目で見ながら、余裕の表情で、ハムチーズトーストとホットコーヒーの朝食を済ませた。そしてその間に当日の予定を決定していた。そうは言っても、全てはホーリーの独断であったが。

 ホーリーは都市マップの裏面にあった、かわいらしいイラストと写真とともに、小さ目な文字で記された旅の案内の項目を熱心にのぞき込んでいたかと思うと、何かを思いついたように携帯でどこかに連絡を入れ確認を取っていた。それが済むと、直ちに「(カフェを)出ましょう」と優しくイクに促した。イクは何も分からずに首を縦に振った。

 二人が歩いて向かった先は、例の都市の近辺をぐるっと回る無料バスの停留所で。五分も待っているとバスが現れ、迷うことなく二人は他の客とともに乗り込んでいた。

 その折、イクはぼそっと尋ねた。


「あのう、どこへ行くんですか?」


「ちょっと遠出の旅行をしてみようかと思ってね」ホーリーは平然と笑って応えた。


「そうなんですか」


 こんなことをしていて良いのだろうかと、ふと思ったイクだったが、まあ良いかと直ぐに妥協すると、それ以上聞くことはしなかった。


 ものの十五分も乗ると、バスは昨日二人がバスに乗った地点までやって来ていた。そこで二人は降りると、先に立って歩いていくホーリーの後へイクが付いていく形で、広い交差点を右に曲がり、そこから少し歩いた。するとロータリーのようになった場所が見えて来たかと思うと、辺りには、何十台というタクシーとともにかなりな数の大型バスが、ひしめき合うように横並び或いは縦並びに止まっていた。

 複数のバス路線の始発と終着を兼ねた停留所、いわゆるバスターミナルで。実際において、バスの停留所の前では、大勢の男女が携帯を手にバスの到着を待っていた。併せて、客を乗せたバスがちょうど走り出して行く光景があった。

 それらを横目に、二人は一列に並ぶように停まった数台のバスの方へ向かった。すると既にバスの車内には多くの客が乗っていた。二人はその中の一番客の入りが少なそうに見えた最後尾のバスに乗り込んだ。バスには、二列になった座席が左右に十一、最後列に五つの座席があったが、そのおよそ七割がたが埋まっており。そこに腰掛けた客が自国語でワイワイガヤガヤとやっていた。それで分かったようなものであったが、車内の客は、五、六人から十人までの男女のグループと、男女のカップルと、イクとホーリーのような同性同志のカップルとでほぼ占められていた。また肌の色が違う客も、別に若干混じっていた。

 二人は空いていた席に並んで腰掛けると、機嫌がすこぶる良さそうだったホーリーに向かってイクが真っ先に浮かんだ疑問を明るく尋ねた。


「あのう、私達はこれからどこへ行くんですか?」


「ああ、そのことね」


 ホーリーは目を細めると、そこで初めて事情を具体的に説明した。 

 カフェで食事をしながら地上の名所を見て回るのに何か便利な方法がないかと探していたら、マップの裏に、都内の主要な名所を一日かけて巡る日帰りのバスツアーの案内とそれを取り扱っている現地の旅行代理店の連絡先が出ていたので、そこにアポを取ってみたこと。すると、うまい具合に空きが見つかったこと。そういうわけで料金の前払いをして、こうして参加したと。


「なるほど、そういうことでしたか」イクは愛想良く頷いた。ホーリーさんたら、まだ観光を続けるつもりなのかしら?


 バスの車内で運転手から配られたツアースケジュールが記された一枚の紙片によると、二人を含むツアー客を乗せた大型バスが同じ会社のバス三台と共に車列を組んで先ず向かったのは、歴代の大統領の別宅の建物らしかった。

 約一時間ほども走ると、高層ビル群が軒並み建つ都会の風景は跡形もなく消え去り、代わって、きれいに区画整理された、いかにも高級住宅地という閑静な街並みにやって来ていた。どの住宅もお金持ちの屋敷と言っても過言でない大豪邸で、天然の大理石が外壁に使われていた。広い敷地の周囲を高い塀で囲ってあった。バスは、その中でもひと際高くて立派な塀で囲まれた敷地内へ徐行しながら入っていくと、入口手前に見えた警備員の詰所らしい付近で一旦停止し、中の係員から許可証のような札を受け取り、再び発進した。

 それからバスは、直ぐ突き当りに見えた、巨大なコンクリートブロックの障害物を避けるようにほぼ直角に右折。さらに再び左折して本筋に戻ると、遥か遠方、およそ千フィートぐらい離れた地点に、その斬新さから明らかに超一級の建築家が設計したに違いないと思われる博物館そっくりなモダンな建築物が現れた。その立派な外観から、紛れもない大統領の別宅の建物かと思われた。

 バスは入ってすぐ手前の、既に十数台のバスと車両が止まっていた広い駐車場の中で、先を走っていた三台のバスが横並びに駐車する、すぐ隣の空いた空地に停まった。

 そのとき既に三台のバスから乗客が全員降りて待っており。最後のバスからホーリーとイクを含む一団が降りきると、それを待っていたかのように、定年でリタイアして久しい感じがする老齢の男が四人現れた。

 いずれも、良く目立つ深緑色のキャップに同色のジャンパーを羽織り、首から身分証明証と一個から三個の携帯をぶら下げ、手には資料のようなものを丸めて持っていた。

 現地のガイドで、四人共、目立つ格好をしていなければ、どこにでもいる印象が薄いおじいさんといったところだった。

 彼等はごく簡単な自己紹介もほどほどに、バスごとのグループをそれぞれ先導していった。

 その際、一度に全員がかち合って他の客の迷惑にならないようにと、それぞれ別の道順で周辺を案内していた。

 ちなみにホーリーとイクのグループを請け負った男は、中肉中背、声が良く通るのとやや速足気味にさっさと歩いていく特徴を持っていた。また、台本に沿って淡々と説明していくだけで、それほどユーモアのセンスは持ち合わせていないらしかった。


 ガイドの男は正面の建物の直前までやって来ると、詰めかけている人々の集団を一目見て、


「正面に見える建物は、代々の大統領が家族と共に住み、大統領府にいる側近へ指令を出したという建物です。そして今現在は革命記念館として保存されています。ですが見ての通り、今混んでいるみたいなので後に回したいと思います。

 邸内は、ただ今改装中のため公開を一時中止しております。その代わりといって良いかもしれませんが、地下にある、放送スタジオやダンスホールやバーやジムやプールや射撃場などの施設を見ることができます。お金に糸目をつけないで建設されたもので、それはそれは豪華です。見学しても損はしません」


 そう伝えると、建物へは向かわずに、その並びに建っていた別の建物の方向へ向かった。グループは言われるまま、一塊となってその後へ続いた。

 彼等が向かった先の建物は、別邸と同じくらいの規模があり、比較的新しく、倉庫のようなややざっくりとした外観をしていた。どうやら展示会場となっているらしく、内部はがらんとしていて、既に五百人を超える客が入って、人だかりができていた。

 そのような中を一行が入っていくと、中央部に、金銀宝石がちりばめられた装飾品や、工芸品や黄金でできた各種器や、大統領の肖像画や、勲章の数々や、派手な色や形をした銃や、豪華な装飾が施されたナイフなどが大きな透明ガラスケースの中に入れられて展示されていた。

 また壁伝いには、古い武具の類や、巨大なもので数トン、小さなものでも数十キロはありそうなクリスタル(水晶)、アメジスト(紫水晶)、ブルークリスタル(青水晶)、マラカイト(孔雀石)、カルサイト(方解石)、スーパーセブン、メノウ、トパーズ(黄玉)、トルマリン(電気石)、アパタイト(燐灰石)、アンバー(コハク)、隕石といった鉱石が、同じくガラスのケースの中に収められて展示されていた。

 そしてその延長線上には、精霊や天使や幻想的な世界を描いた絵画が、五十点ほど並べられて展示してあった。

 ガイドの男が言うことには、展示されている装飾品や工芸品や器は、大統領が外国の要人や支援者から送られたもので。また勲章は国から大統領へ贈与されたもので。銃やナイフは大統領が好きで、特別に注文して造らせたり、コレクションしたものである。そして古い武具は、古代から中世にかけて我が国において、実際の戦闘で使われていたもので。鉱石に関しては、我が国で産出される代表的な品で。絵画は、大統領夫人がコレクションしたり描いたものということだった。

 男が話している間、目の前でペチャクチャ楽しく喋っていたり記念写真を撮るのに夢中になっていたりと話を聞いていない者も少なからずいた。だが、毎度のことで慣れているのかガイドの男は全く気にする素振りも見せずに説明し終えると、「次は庭園を見て貰おうかと思っています。付いて来て下さい」と言って、さっさと建物を出て次の見どころへ移動した。

 ガイドの男が向かった庭園は、大統領の別宅の建物の裏手にあった。

 一般に権力者が暮らす家屋敷の庭園と言えば、派手な色の草花で彩られた花壇や、鮮やかな緑が生える生垣や、豪華な噴水などをセットにした見栄えが良い庭園を思い浮かべがちであるが、その庭園はガイドの男が特別に案内するだけあって一風変わっていた。

 何もない広い空間に、地面が陥没してできたような巨大な窪地ができていて、そのちょうど中央付近に、あたかも地面からにょきと出てきたか、それとも空から降って来たかのような不思議な印象を受けるピラミッド状をした石造りの構築物が建っていた。

 しかもその高さは、相当深い地面の下から大統領邸の高さくらいまであったことなどから、かなりあるらしく。しかも上部が平らになっていた。

 他にも、窪地の向こう側には、車二台が十分通れるくらいの野道が、半ば黄色に彩られた木立ちに囲まれるようにして走り、その延長線上にモスグリーン色をした広大な原野が広がっていた。

 ガイドの男の説明では、原野が見えているところまでが本来の庭園で。道を通って行くと、当時有名だったプロレーサーとプロゴルファーに依頼して設計させた大統領専用のサーキット場とゴルフコースがあり、周回コースやテニスコートや池やバンカーもそれなりに造られている。だが三年ほど前に古くなったクラブ施設の改装工事に取り掛かったところ、付近の地面下から身元不明の人骨が多量に出てきた。それ以来工事は中止されたまま、サーキット場もゴルフコースも使用禁止となっているので、あのような荒れ放題の状態になっている。

 ちなみに、あのピラミッドの形をした石の建築物は一夜で突然現れたと言われている。だがしかし、それを目撃した者がいないのではっきりしたことは分かっていない。中に入ることができて、通路には色鮮やかに着色されたレリーフと楔形文字が見られる。それから考えて、紀元前五千年以上前のものかと考えられている。

 また中央部は天井が高い広い空間となっていて、平坦な地面には、意味不明の装飾文字と数字のようなものが表面に描かれた石の塔のようなものが建っていて、火を使った跡が見られる。そこに加えて、その周りを魔法陣みたいな不思議な模様が覆っていることから何らかの宗教儀式が行われていたらしい。

 そう話す間もなく、ほとんどの客が、視線の先に見えたその遺物に携帯を一斉に向けると写真を撮っていた。


 それから間もなくして、一行はガイドの男の引率の元、目の前のピラミッドへ向かった。既に他のツアー客が同じ方向をぞろぞろと歩いて行列を作っていたので、その後ろに付くと、どことなく真新しく見えた鉄骨がむき出しになったスケルトンタイプのエレベーターに乗って、かなり深そうに見えた下の地面へ降りた。

 すると視線の先に、堂々とそびえるピラミッドの入り口が見えた。入口は人の背丈の二倍くらいはあった。その側面も同じくらいの幅があり、見学コースとなっているためなのか、通路の両側に据え置きタイプの照明装置を交互に置くことで、人工的に内部を明るくしてあった。

 そしてお決まりのように、通路の両側に誘導用のロープが張られており、直接壁に触れたり、指定された方向以外に進めないようになっていた。

 そのような中を一列から二列に並んで奥の方へ進んでいくと、やがて両側の壁に色鮮やかなレリーフが現れた。

 と、前方の方から注意する男の声が飛んだ。「立ち止まらないでください!」「内部の写真撮影は原則として禁止です!」

 声の響きから見て、別のガイドが自身のツアー客をたしなめているのだろうと思われた。


 尚も奥へ進むと、急に視界が開け、何本もの石の柱で支えられたドーム状の広い空間が現れた。その中央辺りに、尖った先端部が天井付近まで達している石塔がガイドの男が説明した通りにぽつんと建っており、それを取り囲むように幾何学的な円模様が地面に直接描かれていた。そして模様の外側をロープフェンスで囲んで、そこから中へ入れなくしていた。


「見ての通りです」


 ガイドの男はフェンスの手前で立ち止まると、ちょっと振り返り、


「数年前までは、人の頭部や腕や足や胴をかたどった彫像が石の台座の上に並べられてあの円の模様の下に置かれてあったそうです」


 そこまで説明して男は時間を気にするように腕時計をちらっと見て補足した。


「このピラミッドは、不思議なことにどこからも石棺や副葬品がいまだに見つかっておりません。また壁に描かれたレリーフにもそれらしい形跡は見つかっておりません。そのことからこのピラミッドは王族の墓ではないと考えられております。

 それでは何であるかと言えば、今現在も調査中なので詳しいことは言えませんが、分かっていることは火を使った跡があることと動物の骨が発見されていることから、このピラミッドはどうやら神聖な場所で、何らかの儀式が執り行われていたと考えられております」 


 そこまで話して、こくりと一斉に頷く男女を男は見ながら、「次行きます。外へ出ます」と言うなり、踵を返して出口の方へ向かってさっさと歩いていった。


 その後、数分かけて外へ出ると、ピラミッドの前には人だかりができていた。よく見れば、数珠つなぎとなった男女が、ピラミッドの頂上まで続いている急な石段を上から伸びた鎖につかまりながら登っている光景があった。そのことから、男の考えが良く分かった気がした。次はあそこを登るわけね。

 予期した通り、ガイドの男は人だかりの前まで来て立ち止まり、振り返ると、


「頂上部は見晴らしが良いくらいで、それ以外見るべきものはありません。それにそんなに広いとは言えません。一度に百人程度しか滞在することができません。ま、この建築物を造った古代人の気持ちになれるくらいです。それでも良いと言う方だけお願いします。

 心臓に持病を持つ方、足腰に不安を抱かえる方、高いところが苦手という方、上に登って降りてくるだけでどんなに早くても三十分程度はかかりますからトイレが近い方はご遠慮なさった方が良ろしいかと思います。

 あと、このツアーには生命保険の類はついておりません。万が一事故が起こっても保証し兼ねます。よくよく考えてから参加することをお勧めします。

 あ、そうそう。せっかちな方、自己中心的な方は事故が起こる確率が高いように見受けられます。良くそのところを考えてご判断願います」


 ガイドの男は声高にそう言った。だが、物好きというか、肝が据わっているというか、一行からは誰ひとりとして辞退しようかと言い出す者はいなかった。その結果に、男はあてが外れたように一旦顔を歪めたが、直ぐに思い直したのか元の穏やかな顔に戻ると、落ち着き払った声で、


「一列に並んで私の後ろへ付いてきて下さい。くれぐれも気を付けてください。登るときもそうですが降りる時が一番気が緩んで一番危ないんです」


 そう伝えると一行を先導していった。


 ピラミッドの石の階段を登るにあたり、石段に隣接するように、途中の五ヶ所に手すりが付いたバルコニー状の休憩場所が安全対策として設けられていた関係で、誰一人として落伍者は出ずに済んでいた。

 そして頂上部は、やはりというかガイドの男の言った通り、下に落ちることがないようにと、四角い外側を囲むように金網のフェンスが張り巡らされていたぐらいで何もなかった。

 けれど、頂上に立ったのが余程うれしかったのか、ツアー客の誰もが明るい声を響かせながら、何でもない景色の写真を撮ったり、景色をバックに自撮りに興じたりと、にぎやかに記念撮影を楽しんでいた。

 そんな彼等をホーリーは、意味不明の笑みを浮かべては冷めた目で眺めていた。

 その隣でいたイクもホーリーに倣い、にこやかに微笑んでいた。だがホーリーと一緒で、楽しいかと言われればそうでもなかった。


 ピラミッドの見学が無事終了すると、次に連れていかれたのは、それまで回った地点から少し離れた、ちょうど駐車場の相向かいに建つ、集会所のような白っぽい連棟式建物の一角で。時刻が正午を過ぎていたことと、建物周辺から食べ物の匂いがしていたところから、大人数が一度に食事ができる大衆レストランか何かであるに違いなかった。

 果たしてガイドの男は建物の扉の直前で立ち止まると、後へ付いてきたホーリーとイクを含む一同に向かって振り返り、


「私の仕事はここまでで終了です。あと時間までこの中でお食事をお楽しみ下さい。食事が終了した暁には再びバスのところまでお戻りください。次の観光が待っておりますので」


 ほっとした表情でそう丁寧に伝えて、そこから立ち去っていった。取り残された一同が、男に言われた通りに扉を開けてぞろぞろと建物の中に入っていくと、比較的明るくて広い室内は会議室のように簡素なテーブルとイスが整然と並べられていて、大勢の男女がそこへ腰掛けて食事の真っ最中だった。

 見れば、奥の方のテーブル上に料理が大盛りになった大皿と、スープと煮込み料理が入った大鍋と、乳白色と焦げ茶色と赤と赤紫とオレンジと無色透明の液体がそれぞれ入るピッチャーがずらりと並ぶドリンクバーが設けられていた。そうして、そこに立った男女が手に持ったトングで自身のプレートの上の小皿に料理を盛り付け、次いで、並々と入ったピッチャーから好みの液体を紙コップに注いでいた。好きな料理を好きなだけ選べる、いわゆるセルフサービス方式だった。

 料理は、普段食べ慣れているスタンダードな料理から、この国の伝統的なカモとじゃがいもとラムを使った料理が用意されていた。もちろん、地元のローカルな郷土料理なのか、すっぱい臭いがするとか、見た目の色が炭のようにどす黒いとか、良く煮込まれていて食材に何を使っているのか不明のものもあった。

 また飲み物は、液体の見た目の色と感じから見て、ミルクとコーヒーとトマトジュースとワインジュースとオレンジジュースとミネラルウォーターだと思われた。


 他のツアー客と一緒にホーリーとイクは、先客でにぎわっていた何種類もの料理が載ったテーブルへ即座に向かうと、見よう見まねで同じように料理を取り、次いで紙コップへ液体を入れ。それが済むと、空いたテーブル席を探して、少し遅めの昼食を食べに掛かった。

 その折り、ホーリーがうっすらと笑うとささやいた。


「ねえ、どうかしら? 昼食はこのツアーの目玉商品でね、実は七十分間食べ放題なのよ。といっても私は余り食べられないんだけれどね。私個人としてはちょっと損した気分なのよ」


「ふーん、そうなんですか」それまで見聞きするだけで食べたことがなかった物珍しい料理が並んでいたこともあり、両隣がやっているやり方に、はからずも影響されて、そのときかなりな量の料理を小皿に盛り付けていたイクは返答に困って、とっさに調子を合わせると、


「それじゃあ、あたしが何とか帳尻を合わせてみます」そう言い切り茶目っ気たっぷりにニコッと微笑んだ。

 一方ホーリーは、そう口走ったイクの顔をのぞき込んでにやにやと笑うと、安心したように言った。


「そう。それじゃあ任せるとするわね」


「はい」イクは明るく返事をした。しかし心中はちょっと複雑だった。

 ああ、言っちゃった。でしゃばっちゃったみたい。相手への第一印象って始めが肝心だから、せっかく猫をかぶって調子を合わせていたのに。これで印象が悪くなるかもね。

 細かいことに気を使ったイクだったが、不思議なもので、二人の間で息がぴったり合った瞬間だった。


 飲み物にワインやウイスキーやウオッカといったアルコール類がついていなかった関係で、粛々と和やかな雰囲気で食事が進み、ふと気が付くと出発時間にあと十五分という時刻になっていた。 

 ホーリーとイクの二人は急いでトイレを済ませて、他のツアー客と共にバスへと戻ると、定刻の午後二時に、一号車のバスから駐車場を出発。一番最後に二人が乗るバスが先に出たバスを追いかける形で駐車場を出ていた。

 車内は至って静かだった。

 出発したての頃に、あちらこちらから私語や笑いが起こっていたのが嘘のように車内はシーンと静まり返り、寝息だけが聞こえていた。まるで、ひどく疲れてぐったりしているというような雰囲気だった。

 つい良い気になってお腹いっぱい食べ過ぎたか、前日の疲れがどっと出たといったところだった。もちろんホーリーとイクも、ご多分に漏れず、その中にいた。二人はもっぱら目を閉じて一息入れていた。

 パンフレットによると、次の目的地は革命博物館となっていた。


 しばらく何も起こらない穏やかな時間がゆっくりと流れた。その間にバスは、閑静な住宅地帯を過ぎ、再び高層の建物がちらほらと見える辺りに差し掛かっていた。それとともに交通量も明らかに増えていた。多くの車が行きかうようになっていた。

 そんなとき、不意に運転手の声が響いた。


「ええ、左側に見えます、あの天を衝くような尖塔が見えますお城のような建物は、前の副大統領の自宅です。今現在は人権博物館となっております」


 バスには前もってガイドが添乗していなかった関係で、運転手がその代わりを務めていたのだった。

 事実、運転手が示した遠目の方向に、中世の大聖堂のような壮大な建築物が見えた。


「ええ、そこから少し離れたところに見えます、あの高い高層ビルは。かつて大統領の側近の家族が暮らしていたところです。ワンフロア―を一家族で占有し、それはそれは優雅な暮らし向きだったそうです。今はワンフロア―を分割して、何家族もの一般市民が暮らしております」


 そのときの乗客の反応はというと、ドン引きしたように冷ややかだった。余りパッとしないものだった。けれども運転手は、バス会社のマニュアルに従ってなのか、お構いなしに次々と通りすがりの名所を説明していた。

 だがそのうち説明する場所がなくなってきたのか、運転手の声が先細りになると、遂には絶えた。  

 それからどのくらい経ったのか分からなかったが、再び運転手が、


「お疲れさまでした。斜め正面に見えます、大学病院そっくりの、あの白い建物が、目的地であります革命博物館です」


 そう告げたあたりで、前方を走っていた三号車の背後を、バスははっきりと捕らえていた。

 それから五分ほどすると、バスは速度を緩め、停車していた三号車のバスの後ろへぴったり付いた。そして三号車が動き出すのを待った。

 目指す建物には、人の背丈の三倍ほどもある黒っぽい鋳物製のフェンスが厳重に張り巡らされており。バスはフェンスが途切れた辺りに見えた、建物への出入り口らしい場所の前で一台一台停止すると、そこで無表情に立っていた、濃紺色のジャンパーに同色のキャップを被った警備員らしい男から許可証のような札を受け取り、再び発進。次々と中へ入っていた。

 中には、大国の大使公邸にも引けを取らない横長の建物が威厳を放って鎮座していた。

 ホーリーとイクを乗せたバスは入って直ぐに見えた、既に三十台近いバスとその三倍以上の普通車が停まっている広場で停まった。

 後から別のツアーバスが一台、また一台と入ってくると、入れ替わりに五台のバスが次々と出て行った。


 見学する場所が革命博物館一ヶ所ということで、今回はガイドは付いていなかった。しかし、きちんと根回しがされていて、出発前の時間になると振動で知らせてくれるリストバンドが人数分配られていた。

 一号車から四号車のバスから降りた総勢二百名は一まとまりとなって建物のエントランスの方向へ歩いて向かうと、エントランスは建物の中央部、石の階段を五段ばかり上がったところにあった。建物から突き出るように、十台の大型車が一列に停められるくらい広いポーチが伸びており、その両側には大理石の列柱がずらりと立ち並び、その空いた空間には半裸の男女の彫像が見られと、さながら近代建築に古代の神殿を足したような外観をしていた。


 エントランスまで到着したとき、そこには全く人影が見られなかった。たぶん中にいるからなのだろうと思われ。よって、案外すんなりと全員が一度に中に入ることができていた。

 中に入って直ぐに、博物館をアピールしたり案内するスタンド看板が目に付きやすいところに設置されており、『現在この建物は革命博物館となっているが、以前は外国から国家元首やそれに準ずる人物を招いたときに食事や宿泊の接待を行う迎賓館として使われていた』といった趣旨の一節が記されてあった。また、『大統領及びその側近が私的目的で遊興や宿泊に使っていた』とも記されていた。

 その説明を実証するかのように、室内は大型家具店のショールームにいるくらい広く、天井も見上げるくらい高くて。加えて全体が、黄金色と銀色と青色と乳白色をうまく組み合わせてコーデイネートされて、まるでイスラムのモスクの中にいるかのような豪華絢爛の趣があった。

 そして博物館とうたっているだけあって、普段あまり目にしない品がそこにあった。

 先ず、迷彩柄やブラックやシルバー色やブルー色をした真新しい車が、内部が分かるようにとドアやボンネットが開けられた状態でずらりと陳列されていた。その数、百台以上あると思われ、新車の展示会場のような様相を呈していた。

 但し、いずれの車両も、タイヤが異常に大きかったり異様な形をしていたり、タイヤ数が四個でなかったり、キャタピラ仕様だったり、機関銃やロケット砲や小型ミサイルやペリスコープが付いていたり、車高が異常に高かったり、ロボットやUFOや昆虫のような奇抜な形状をしていたりと、普通に公道を走っている市販車とは明らかに異なっていて、市井の金持ちや車のマニアがコレクションするような車種とは趣向を異にしていた。

 傍に置かれたスタンド看板には『大統領が個人的にコレクションした、世界各国で軍需用に試作された乗用車並びに、メーカーに特注して造らせた最新技術を組み込んだ自家用車』となっていた。

 次いで、その隣の区画には、水晶やメノウやトパーズといった天然石から造られた、置物や器やアクセサリーなどがガラスケースに収められて展示されていた。

 スタンド看板には『我が国伝統の技術を駆使して作られた工芸品である』となっていた。

 更にその隣には、野良着のような質素なものから、実用的な制服の数々、目が覚めるような純白やら半透明色やら色鮮やかな原色使いの高価な生地に金糸銀糸をふんだんに使ったもの、同じく細かい刺しゅうを施したもの、同じく緻密で艶やかな模様が描かれたものと、女性のさまざまな豪華な衣装が展示されてあった。

 『我が国の女性の職業別・身分別に分類した伝統的な衣装』とだけスタンド看板に明記されてあった。


 そして一番端の区画には、百科事典と同じくらいの厚みがあるグリモアールと称する書物、魔法の鏡と称する古めかしい鏡、金・銀・銅・真ちゅう製・ガラス製と様々な材質でできたタリスマン(護符)、異形の生物のはく製、魔法の粉と称する粉末が入る茶色の薬瓶、パワーストーンの数々、細かい文字や記号が彫りこまれた粘土板・石板・銅板の類、儀式用ローブとその小物、マント類、魔法の杖の類、グラム・フルンティング・ティルヴィング・ダーインスレイヴ・デュランダル・エクスカリバーといった魔法剣のレプリカ。呪いの人形と称される泥や木や布でできた人形・アンティーク人形、聖水やポーションを入れる容器の数々、奇妙な顔立ちをする仮面の類、年代物の鐘・時計・十字架・ナイフ・銃・クロスボウなどが透明なガラスのケースに収められて展示されていた。

 スタンド看板によると『神秘学に傾倒した大統領夫妻がコレクションした品』となっていた。

 次いで二階へと上がると、中はショッピングエリアと娯楽場になっていた。軽食を提供する店舗やお菓子、アクセサリーといった土産物を売る店舗が軒を連ね、そこを過ぎると各種ゲーム機やスロットマシン、ルーレット、ポーカーテーブルなどが置かれたミニカジノがあってと、入場者を飽きさせないような仕組みになっていた。

 そしてパンフレットによると、三階は一部屋だけが多目的ホールとして解放されており。時間を忘れてのんびりできるようにとベンチソファとテーブルとピアノ、愛煙家が気兼ねなくタバコを吸えるようにとスモーキングスタンド、喉が渇けばインスタントコーヒーやココアやホットミルクが飲めるようにと自動販売機が置かれてと、一休みするための休憩所となっているということだった。


 ホーリーとイクの二人は一階と二階の展示物を一通り見て回ったあと、余った時間を調整するために三階へと向かった。エレベーターを降りて右側奥に見えた自動ドアを通って中に入ると、室内は比較的広く。片方の壁に向かうように漆黒色をしたグランドピアノが一台置かれ、その背後には観客席なのかイスやベンチソファやコーナーソファが整然と並べて置かれていた。そして四隅と壁側には、普通にテーブルとイスのセットとベンチソファが並べられていて、人々はまんべんなく腰掛けていた。その数、三百名はいると思われ。タバコをふかしていたり、缶の飲み物を少しずつ口にしながら単なる世間話やら座談会のようなやりとりをしていた。また、そこかしこで笑い声がしていた。

 そのような中、二人はさらりと室内を一べつすると、唯一空いていた、ピアノ演奏専用の席と四台の自動販売機が横に並べて置かれていたトイレ近くのコーナー席と喫煙専用席に隣接したテーブル席から、迷うことなくトイレに近い方の背もたれの付いていないベンチソファを選択。斜めに向かい合うように腰掛け、時間が来るのを静かに待つことにした。


 そのときホーリーは席に着くや否や、素人目で見てもわかる不思議な行動をした。ざわざわしていた辺りに一度目をやったかと思うと、力なく被りを振り、がっかりしたような表情でため息をついて腕組みをした。そうして、考え事をするかのように目を閉じてしまった。

 その様子に、もちろんイクは敏感に反応した。何かあったのかしら? 誰かと待ち合わせでもしていたとか、それとも他の理由があってとか?

 だがしかし、そんなことでわざわざでしゃばって理由を尋ねるのもなんだからと、ここは見なかったことにしようと、無難に目を背けて知らんぷりを決め込んでいた。

 そのとき、うまい具合に左手斜め方向に窓があったので、ぼんやりとのぞき込んだ。

 縦長の大きな窓からは建物裏の様子がうかがえた。

 建物から広い道路が真っすぐに一本通っていて、途中で寸断されていた。その辺りを境にして、見渡す限り、がれきと枯草に覆われた何もない世界が広がっていた。まるで目に付くものが何も見当たらないアフリカの大地の写真を見ているような感じだった。

 イクは知らなかったが、その謎を解く鍵が部屋の中にあった。

 インテリアとして壁に何気なく掛かったB1サイズの写真パネル数枚と、ピアノが置かれた地点と喫煙所が設けられた一角のちょうど傍にあって、パーテーション代わりとして、ちょっとしたプライベート空間を作るのに役立っていた、大きな案内看板だった。

 写真パネルには、かつて博物館の延長上にあった建物と施設の様子を写したカラー写真が引き延ばされて貼られていた。

 きれいに区画された地帯に高層の建物がそびえ立ち、その側面を鉄道と広い道路が走り、道路に沿うように多量の水をたたえた幅の広い堀とコンクリートの堤防が見て取れ、堀にかかった鋼鉄の橋を車両が行き来していた。

 また建物の背後には広い駐車場。それに隣接するように八角形と楕円形をした巨大なスタジアムが見えていた。

 そして道路を隔てるようにして、シンプルな外観をする工場の施設と倉庫、電波塔、学校の建物とグラウンドとか体育館とか言った付属の施設、タウンマンションの建物、そのずっと奥には飛行場とその管制塔と、表面的には普通の都市の一角を写したものと何ら変わらなかった。

 案内看板には、大きく引き伸ばされた当時の新聞の記事とともに、革命のいきさつを詳しく説明した内容が物語風に記されていた。

 その内容とは、こういうことだった。

 当時その一帯には、才能が秀でた女性を国の成長に役立てるという目的で、専門の教育機関とそのキャリアーを生かすための公営企業並びに国の機関の建物が隣接して建てられていた。

 例えば、女子だけの小学校、中学校、高校、大学、高等専門学校、士官学校といった教育機関や、卒業後の進路というべき政府直轄の研究所、病院、テレビ局。あとサーカス団、歌劇団、オーケストラ、芸能事務所といった娯楽関係など。それに準じるように動物園、水族館、植物園、クアハウス、体育館といった娯楽施設も併設されていた。もちろんスタッフ並びにその関係者も全て女性で占めれていた。

 そのような関係で、地域の女性の比率は九割を超え、別名、女の園とも呼ばれていた。

 そして革命の発端は、ここの女性達が深く関係していた。

 ちなみに女性達は、政府が無償で職業訓練を施して、女性の地位を上げるとともに幸せな人生を送られるようにするとか吹聴して、政府に召し上げられる形で強制的に連れていかれたわけであったのだが、実際の目的は、大統領やその側近や支持者の慰みものとして奉仕させるためであったり、政略結婚の相手として取り扱われていたのだった。

 その証拠に、容姿が素晴らしく良い子は芸術方面か放送関係か大統領の秘書になるコースか、決められた相手と強制結婚するコースへ。それ以外の、そうでもなかった子は技能を身に着けさせてエンジニアや職人や教師や指導員や軍人になるコースへ方向分けされて、最後は上記と同様、決められた相手と強制結婚と、人生が決まる仕組みになっていた。

 女性の両親達は、そのような封建時代の社会の仕組みと何ら変わらないことが現代になっても普通に行われていたのを薄々感付いていたものの、政府の方針にはやむを得ないかと半ばあきらめていた。

 しかし、一度政府の目に留まり連れていかれたら最後、二度と娘と会えないことが唯一の不満で。あるとき、そのような境遇の親達が集い、娘に会わせて欲しいとデモを行ったことが、事の起こりとなっていた。結局、そのときの要求は拒否されて終わったが、それに端を発して、その頃全国各地で広く見られた、医療費の大幅アップに対する患者の家族が抗議してのデモ、不当な裁判判決をもとにした暴動、地方政府が一斉に行った特産物への物品課税に対する生産者のデモ、失業者及び無職の学生達による雇用対策の拡充を政府に求めるデモ、水道・電気・ガスといった公共料金やコーヒー・チョコレート・砂糖・アルコール・塩といったし好品の値上げに抗議するデモ、倒産やデフォルトによる企業の給料未払いに抗議する労働者のストライキやデモ、不景気による治安の悪化やそれを取り締まる側のあからさまな汚職に抗議するデモや暴動と相重なって、政府への不信感が次々と湧き出し、遂には、その頃頻発していた凶悪犯罪の対応に当たっていた警察官までもが待遇の改善を求めてストライキやデモを行うなど、世の中はもはや収拾がつかないものになっていた。

 そこへ加えて、大統領の身内が思わず漏らした失言問題で、過去に犯した殺人事件と人身売買が明るみに出るというスキャンダルが持ち上がり。それを打ち消すのに躍起になったところへ、今度は現職閣僚の汚職や職権乱用といった不正が出てくるなど、政権に激震が走り、更に追い打ちをかけるように大統領へも飛び火して、大統領夫妻とその一族が世間からかけ離れた立派な邸宅に住みぜいたくし放題な暮らしをしているとか、一般庶民では到底手が届かない高価な宝石類や貴金属や趣味の品といったものを多数所有しているとかいった都合の悪い事実や、果ては大統領がごく近い側近と内々の会話をする模様を映した動画とその時の差別発言、


「お前たちの言い訳を聞いていると、こちらがめまいがする。もっと冷酷になれ。この世に悪魔がいても神がいないことを肝に銘じて事にあたれ。十人殺るのも十万人殺るのも一緒と考えろ」


「こんなことになったのは、みんな、お前たちのせいだからな。お前たちがあいつら(デモ隊)をのさぼらせてきたからこうなったのだ。みんな捕らえて(闇から闇へ葬って)おればこんなことにならなかった。どいつもこいつも(警察も軍も)馬鹿が多くて困る。私に迷惑をかけ寄って、どいつもこいつも……」


「もう全く。誰がお前たちの主人なのかわかっているのか。この私だろうが。お前たちは誰によって生かされていると思っているのだ。この私だろうが。この私の声が天の声だ。お前たちは私の命令を聞いて黙って従っておればそれで良いのだ。国民のことを気に掛ける必要はない。私が常に正義であって、あいつらは永遠に取るに足らない畜生以下の存在なのだからな」


「あいつらの取り柄は、息をすることと仕事をすることと税金を納めることと、あと私に従うことだけだ。それ以外に何の取り柄があるというのだ。それなのに私に逆らい、デモなど繰り広げやがって。あいつらはこの国の役立たずだ、人間の屑だ、虫けらだ」


「特察(秘密警察)を使って速やかに(デモを)鎮めろ。みんな、ひっ捕まえて(刑務所へ)放り込んでやればいい。ついでに参加した者達の身元を突き止めて家族も同じようにしてやれ。特にデモを指揮した奴は長期間拘束しろ。容疑など何とでもできるだろう」


「例え女・子供でも容赦するな。痛めつけてやれ。抵抗する奴は息の根を止めてもかまわん。国民の半分くらいは減らしてもかまわないという姿勢でやらせろ」や、それまで歴代の大統領が犯した虐殺の秘密文書やら長く秘密にしてきた収容所の存在の問題やら、ありとあらゆる都合の悪い案件が次から次へとリークされて露見し、とうとう大統領に退陣を促す暴動へと発展して行った。

 それが全国的な規模まで拡大すると、それまで大統領の忠実な下僕だった裁判所が時代の流れを敏感に読んでか、次々と大統領側に不利な判断を下していき。それが契機となって、軍と議会と一部の閣僚が反旗を翻すと民衆側について大統領の責任を追及。最後は軍が動きクーデターとなって大統領とその一派を追い詰めることに成功。後は大統領を軟禁して全ての権力を取り上げる段階まで事が成就した。

 しかし当然ながらそれを良しとしなかった大統領は、運よく大統領官邸から脱出することに成功すると、本拠地と言っても良かったこの都市に追われるように逃げ込み、そこから全国放送で国民と軍と警察に指令を出し、『クーデターは失敗に終わった。自分に従うように』と説得を試みたのだった。

 一方、革命軍は大統領が潜んでいそうな場所をしらみつぶしに探した。しかしながら都市が案外広かった関係で、容易に潜伏先を突き止められずにいた。一日、二日、三日と、刻々と時が経過して行き、このままでは革命が本当に失敗に終わるのかと思われた。

 そんなとき、やがて疑いの目を向けたのが、通称、女の園とやゆされて、普段から男性の出入りがとりわけ厳重な管理下に置かれていた地域一帯であった。革命軍はその一帯を包囲すると、大統領とその一派をあぶり出しに掛かった。そこに住む住民(といってもほとんど全員が女性で占められていたが)に対して全ての土地・建物から無条件で立ち退くように求めたのだった。

 その要請に住民側は断固として拒否すると、武器を手に革命軍と対峙。臨戦態勢を敷いた。そのことによって、大統領とその一派が潜伏しているらしいと確信した革命軍は、事態が差し迫って時間に余裕がなかった関係で、有無を言わすに攻勢に出た。

 ところで元々一帯は、女性ばかりが主に暮らすこともあり、周囲と隔てるように堀を巡らせて、至る所に監視カメラと監視所があり、道路や鉄道や上下水道や通信網といったインフラもすこぶる整っていた。また建物は要塞並みの堅固な建設設計がなされていた。

 そこへ加えて、どの学校にも武器の取り扱いの講習と国伝統の武術の科目があったり、軍の施設が付属していたため企業の行事に短期の軍事訓練が組み込まれていたり、定期的に格闘技の大会も開かれていたりと共同体感覚で士気が高く。また、武器弾薬が至る所に蓄えられており。

 そのようなところを攻略しようというのであるから、相手が幾らほとんど女性で占められていたとはいえ、戦闘はし烈を極めた。

 地域一帯が市街戦のような様相を呈して、建物は破壊し尽くされて廃墟と化し、インフラはどこもかしこもがれきと化し、その果てに多数の死者と負傷者が出た。

 そして一ヶ月余り経ったとき、徹底抗戦を唱え続けていた司令本部が革命軍の手で陥落して、内戦はひとまず終戦に至った。

 地上戦ではまずまず善戦したもの、制空権を抑えられていたことや外部からの支援がなかったのがその答えだった。

 そのとき、そこで暮らしていたほぼ十万に及ぶ女性の尊い命がはかなくも失われた。

 ときに、一帯が完全制圧された日のその未明、一機の所属不明の大型ジェット旅客機が湖畔近くの森に墜落。大爆発炎上して乗っていた乗員・乗客もろとも全員が死亡した。飛行しているのを見たという目撃者が誰一人としていなかったことと、後に回収したブラックボックスから得た飛行記録から、離陸して間もなく何らかのトラブルが発生して墜落。旅客機に燃料が満タンに積み込まれていたので、そこまで爆発炎上したものと考えられた。

 そのとき、乗客や載せていた荷物が広い範囲にバラバラになって散在するとともに、黒焦げに焼けて炭化していたため、乗っていた人物の身元を調べるのが困難を極めた。

 そのような中、現場でかろうじて採取できた肉片に付いていた毛髪のDNA鑑定からその人物は大統領の親族の一人と認定されたのが決め手となって、おそらく乗っていたのは大統領夫妻とその一族及び大統領に近い者達だろうと推定されたが、その前に、飛行機の貨物室から、大統領夫妻が愛飲した銘柄のワインの瓶と衣服が詰め込まれていたと思われるジュラルミン製の特注スーツケースと金とプラチナの延べ棒が多量に発見されていたことで確証に変わった。

 そこに至って、百余年に渡って続いた大統領制は終止符を打つこととなった。旅客機が墜落してから一週間後のことだった。けれども、まだ終わりとはいかなかった。

 ありがたくない戦闘の置きみやげというべきか、爆薬や地雷が一帯の至る所に仕掛けられて残っていたからだった。

 また残党が地下に潜んでいるとも考えられたこともあり、最後の仕上げとして、空から地上のありとあらゆるものが再び焼き尽くされ破壊し尽くされると、遂には、がれきしか残らないところまで更地化された。そして現在に至っている。――そのような、ほんの数年前に起こったリアルな現実が、看板の記事を見ながら説明を読み進めると分かる仕組みになっていた。


 しかしながら、自分達のことに夢中で気が付いていないのか、それともこの場所と直接関連性があるとは思えないそのようなものが部屋にあることに単純に気が付いていないのか、看板の前に立ち止まって見ている者は誰一人としておらず。私話に花を咲かせているか、熱心に携帯をいじっているか、退屈そうにぼんやりしているか、じっと目を閉じているかのどちらかであった。

 イクは三番目のほうだった。まあ気付いたとしても興味を持てずに無視していたろうが。

 隣でホーリーが静かに目を閉じて沈黙してくれたことで、ようやく緊張が解けて素の顔を出したイクは、ホーリーに気付かれないように声を出さずに大きなあくびをひとつすると、次いで周りをぼんやり眺めて思った。

 ああ、このままじゃあ、ほんと退屈よ。セキカはどういう了見かしらないけれど、さっぱり目を覚ます兆しがないし。何か凄いことが起こらないかな。

 

 そんな風に、ぼうっとしていたところに、気品のあるピアノの音色がゆったりと響いた。

 誰にでも一度は聞いたことがあるクラッシックの名曲、パッヘルベルのカノンだった。

 曲自体はそれほど難解というわけではなかったが、聴いていると不思議と耳が釘付けになりそうなことから奏者は中々の腕前と思われ。イクはふーんと何気なくピアノが置かれた方向へ目をやった。

 すると、サービスカウンターにいた女性のスタッフと全く同じ服装をした、ウエーブヘアの女性がピアノを演奏していた。後ろ姿で顔は分からなかったものの、すらりとした体形と何となくういういしい雰囲気から、かなり若いのだろうと思われた。

 時間になると余興的に演奏をしに来るのか、それとも誰一人としてピアノを演奏しないのを気を利かした博物館側がスタッフを差し向けたかのどちらかで。とりとめもない話に興じていていた人々が、次第に話をやめてピアノの音色に魅入られたように聞き入っていた。携帯をいじっていたり退屈そうにしていた人々までもが聞き耳を立てて聞き入っていた。

 イクも同じだった。ピアノを演奏する女性の方に目を向けると、神妙に聞き入っていた。

  女性が奏でるピアノは、居眠りしている者達の邪魔にならない程度に、心地の良い音色を響かせた。間もなくカノンが終わると、G線上のアリア、エリーゼのために、乙女の祈り、ラ・カンパネラと続き。それとともにざわざわしていた室内が一気に静まり返ると、いつの間にか女性の独演会の場となっていた。


 そのように時間をつぶしている間に、あっという間に自由行動の時間が終わりを告げると、ホーリーとイクはバスへ戻った。

 ホーリーとイク達ツアー客を乗せたバスは、定刻に革命博物館を発つと、途中、乗客のトイレ休憩の要請により、二回最寄りの地点に約十分間立ち寄った以外はどこにも立ち寄らずに午後の七時頃に出発地点のバスターミナルまで戻っていた。

 そこで一同は解散。ホーリーとイクは、丸一日、ほぼ一緒に行動した男女に別れを告げると、途中で大勢の客で賑わっていた大衆レストランの一軒に立ち寄り、サフラン風味のピラフと温かいクリームシチューで夕食を済ませて九時過ぎにはホテルへ戻っていた。


 次の朝七時に二人はホテルをチェックアウトすると、ミランボンの都を後にして、鉄道とバスを乗り継ぎながら、約十時間ほど移動した。

 向かう行き先は全てホーリーに任せっきりであったためか、イクは東に向かっているのか西に向かっているのか、それとも南なのか北なのかさっぱり分からなかった。

 ただ、ほとんど休憩しないで長時間移動していたことなどから、相当遠くまで来ていることだけは分かっているつもりだった。

 移動中、どういう理由があったのか分からなかったが、ホーリーは徐々に口数が少なくなると、思いつめたような深く沈んだ顔になっていった。

 その兆候を敏感に感じ取っていたイクは、普段彼女は物分かりが良くて優しくて気が付く一方、ときとして人が変わったように興味を全く示さなくなったり冷淡になったり切れやすくなったりと、気分の上下が激しくて何かと気難しい面があったのを見聞きして知っていたこともあり、変に八つ当たりされてもと自分から話し掛けることをためらって、そのまま静観していた。

 だがそれにも関わらず魔がさしたと言うか、根が正直で嘘をついたり隠し事をするのが苦手であったイクは、ちょっとした弾みに思わずうっかりミスをすると、つい口が滑り、


「あのう、どこへ行くんです?」と思ったことを訊いてしまっていた。


 瞬間、イクはしまったと後悔し、どぎまぎした。頭が真っ白になり、ああどうしよう、これは切れられるかもと覚悟した。

 ところが不思議なことにそうならずに、ホーリーは無反応だった。全く口を開こうとしなかった。どうやら心は別の方向へ向いていると見えて、浮かない顔でずっと窓の外の景色をぼんやりと眺めていた。

 そのとき生きた心地がしなかったイクは、ホーリーの気紛れに救われた格好になって、一先ずほっと胸を撫で下ろすと、虚ろな目で太い息を目一杯吐いていた。

 ところで見知らぬ土地で忙しく立ち回っていると、時間が不思議にも経っているもので。そのときもご多分に漏れず、ふと気付いたときには日が暮れようとしていた。加えて、相当な田舎までやって来ていたらしく、それまでの平坦な地形が余すことなく影を潜め、人の手がほとんど入っていないと思われる、起伏に富んだ自然が普通に姿を現していた。時折り登場する道路も、そのほとんどが舗装されていない土の道路に変わっていた。


 夜の帳が下りて不気味にひっそりと静まり返ったバス停の前で、二人は六、七人の親子かそれとも夫婦かと思われる、そう若くはない男女の乗客と共に乗ってきたバスを降りると、ポツンポツンと見える街灯の仄かな灯りを頼りに、黄色い明かりがちらちら輝く方向へ一緒に向かった。

 既に夜の七時をとうに過ぎていて、周辺の景色がほとんど分からなくなっていた。そこに加えて、氷点下まで冷え込んで辺りに霜が降りていた。顔に凍てつくような冷たい空気が容赦なく吹き付けて来る。

 思わずイクは首をすくめるとコートのポケットに手を入れ思った。ここが目的地?凄く辺ぴなところみたいだけど。

 かなりな山奥へやって来ていることを感覚的に理解していた。そこへ、隣で背筋をピンと伸ばして堂々と歩いていたホーリーが、


「私の記憶が間違っていなければハプンスと呼ばれている地区よ」


 軽い調子でさり気なくそう言うと、あっけらかんと続けた。


「今日はここに泊まることにしたから」


「はあ」イクは控えめに返事を返すと思った。なるほどね、ホーリーさんが移動中に携帯でどこかに連絡を入れていたのはこういうことだったわけね。


 そんなやり取りをした二人は、ゆるやかに蛇行するように伸びていた、それほど道幅の広くない道路をゆっくりした足取りで歩きながら、ホーリーが予約したというホテルを暗がりの中で探した。

 しばらくの間、一台の車の往来もなく、誰一人として会わなかった。建物の影も形もなかった。

 しかし歩いて十分も経った頃、最初に見えた黄色い明かりが間近に見て取れるところまでやってくると、道路の周辺に複数の人家らしい建物が出現し、つい先ほどまで二人の前方を歩いていたり、後ろを歩いていた男女が暗闇の中に消えて見えなくなっていた。夜の八時近いという時間帯などから、おそらく家路に着いたのだろうと思われた。

 そして、いつの間にか二人きりになっていた。それでも平然とした顔で先へと進んで行くと、暗がりの方向から、鼻に付く食べ物の臭いやら、犬の鳴き声が聞こえてきた。

 それからまた少し経ったとき、不意にホーリーが再び口を開いた。


「あそこみたいね」


「……」


 言われて、イクは前方に目をやった。やや細長い建物が道路に面して建っているのが、建物自体から漏れていた明かりで分かった。窓の数からパッと見た感じ、十階ぐらいありそうな感じだった。

 尚も近付いて行くと、テナントビルの玄関口とそれほど変わらないガラス張りの玄関口に、淡い明かりが点いていて、その傍にホテル名が記された立て看板がはっきりと見て取れた。

 今日はここで泊まるわけね? 異国まで来て泊まるところがないなんて最低だもんね。

 イクは十分納得いっていた。気持ちが何となく楽になっていた。


 あくる日。二人はホテル内で簡単な朝食を済ませた後、ホテルをチェックアウトすると、石畳が普通に見られた通りをあてもなく歩いた。

 早朝ということもあり、昨夜と変わらないくらいに冷え込んでいて、吐く息が白かった。白い霜が辺り一面に降りたまま残っていた。

 昨夜は分からなかったが、ホテルは全面タイル貼りのグレーっぽい外観をしていて周辺の建物からかなり離れた地点にぽつんと建っていた。いわゆる一軒家だった。

 ホテルが建っていた側は、ガードレールを隔てて小高い崖となっており、その辺り付近からベンガラ色の屋根の低層から中層の建物がびっしりと軒を連ねるように建ち並んでいるのが望め、実に壮観な眺めとなっていた。

 一方、その反対側は、同じくガードレールを隔てて険しい斜面が上に向かってずっと続いており。斜面には草木が一本も生えておらず、薄茶色の岩肌が露出していた。

 また前方は幾層にも連なる山々が間近まで迫って見える。――などと、周辺の様子がはっきりと見て取れた。

 そしてその日は何か知ら車の往来が多いようだった。長い渋滞ができていた。人も同じで、自由な服装をした男女が沿道にあふれていた。しかもその様子はハイキングやピクニックとは何かしら異なっていた。車も人も進行方向は皆一緒で、少し行ったところに見えた、折り返すようにして斜面側を昇っていく緩やかな坂道の方向へ向かっていた。

 その光景に、理由が分からないのかホーリーは「一体何があったのかしらねえ」と首を傾げて一旦立ち尽くした。が、直ぐに決心したのか彼らの流れに添う形で歩いて行った。イクもその後に続いた。

 かなり長いと感じた舗装のしていない土の坂を昇り切った先には折り返すようにしてまた長い土の坂があった。その坂を何とか昇り切ると、また折り返す形で長い坂が現れた。草木が一本も生えていなかった坂の両側には、相当な数の比較的新しい墓石が、整然と並んで見えていた。いずれも斜面を削り取り、きれいな階段上に整地されたところに据え付けられていた。そのような光景が七、八度続いた。

 右や左へと坂が連続して続くごとに、一緒に歩を進める人々の口数がだんだんと少なくなっていくのが分かった。が、ホーリーとイクはこれくらい何でもなかった。余裕の表情で歩いていった。

 そこへ持ってきてホーリーはかつてここへ来たことがあるらしく、途中周辺をどこか懐かしそうな表情で眺めては笑みを浮かべながら、


「すっかり様変わりしているわねえ。こんなところに墓地なんかあったかしら。一帯が薄暗い森だった気がするんだけれど……。ほんと、時が経つのは早いものね」「あら、まあ。まだ残ってるわ。ここは昔と変わらないみたい」などと呟いていた。その都度イクはにっこり笑って相槌を打つと話を合わせていた。


 そのような具合いにして、ようやく頂上らしき場所へ到着すると、何かの遺構なのだろうか、長く伸びた石積みがあちらこちらに見え、一旦そこで休憩を取る者達で賑わっていた。またそれに輪をかけて、頂上を目指した全ての車両の進行がそこで通行止めとなっているらしく、頂上の広場のようになった場所や整地されたままで墓石がまだ設置されてない空き地や或いは道路沿いに、隙間がないくらい車が止められてあった。

 二人は目の前の大勢の一団に合わせると、一先ず立ち止まり、つかの間の休憩をとった。

 その辺りからは薄霧のかかった対岸の山々やベンガラ色の屋根や針葉樹の森や猫の額ほどの農地が一望でき、予想した通りのかなりな山間部に来ていることが分かった。

 また、上り坂とは全く作りが一緒で、曲がりくねりながら下っている坂には、蟻の行列のごとく人が長い列を作っていた。その延長線上に見えた小高い丘のおよそ中腹あたりに、一際目立つ建築物が悠然と佇んでいた。

 その外観はかなり古そうであった。

 休憩中にホーリーが、私の記憶が正しければと断りを入れて話してくれたのには、あの天然の石壁に囲まれた建築物は、見てくれは要塞か何かに見えるけれど、れっきとした宗教施設で、その中でお城のような風格がある立派な建物は大聖堂で、貴族の館に見える建物は修道院で、塔のような尖った屋根を持つ一際高い建物はチャペル(礼拝堂)だということで。それが冗談でも何でもないことを示すように、その後へ「平日だというのに、あのありさまだと、巡礼ごっこでもしているかしらねえ」

 そんな言葉をホーリーはもれなく漏らした。

 事実ホーリーの話は、あながち間違いではなかった。

 ホーリーの話を更に補足すると、大聖堂と修道院とチャペルが建っていた辺りは、時系列的に見ると、その昔、古代人が天然の石壁を利用して造った神殿があったところだった。それが時代を経て、一帯を治めていた領主の城と館が建つところとなり。さらに時代が下って、曲りなりにも国が統一されると、他国からの侵入を防ぐ要所となって要塞の趣を強くしていき。やがて国家間同士の争いが落ち着いた頃には、建築物は宗教施設へ取って代わっていたのだった。そのため建築物は、古代の神殿と城と貴族の館と要塞が一つに合わさっていると言っても良いものだった。


 二人が他の人々と一緒に坂を下ると、沿道沿いの広い空き地は人・人・人であふれていた。

 ライ麦の地ビールや地ウイスキーを格安で量り売りする店や、ダウンジャケットや毛皮の帽子や革靴・革ベルトといった皮革製品を卸値で売る店や、国内で採れた天然鉱石を加工して作ったイヤリングや指輪や髪飾りや首飾りといった小物のアクセサリーを売る店や、鹿や野鳥やウサギといったジビエを燻製にしたものを売る店や、魚介類・肉を揚げたり焼いたりしたものを売る店や、自家焙煎のコーヒーやミルクやヨーグルト飲料を売る店、自家製の菓子パンを売る店、ポップコーンやポテトフライやカップラーメンやポトフやホットドッグやピザパンといったファストフードを売る店、リサイクルマート、占い師のテントが軒を連ねるように出て賑わっていた。

 また、そこから少し離れた道路の周辺にも、人が黒山のように群がっていた。良く見ると、道路の真ん中で二手に分かれた大勢の男女が、船の錨に付いている鎖ぐらいの太さで、二千フィートぐらいの長さがありそうな鎖を綱に見立てて、鎖に結びつけた細いロープを引く綱引き競争を行っていた。

 参加しているのは子供から老人までバラエティーに富み、叫んだり大声を出したりして活気に満ちていた。その人数たるや数千人はいた。

 そこへ持ってきて、沿道ではそれに匹敵するくらいの人数の見物客が、一丸となって綱引きをしている引き手に向かって黄色い声援を送って熱狂していた。その中には風貌や肌の色が違う外国人の姿もかなり混じっていた。


「何かのお祭りかしら?」


 しばらくの間、その光景を二人はぼんやりと眺めていた。しかし一向に勝敗がつく気配はなく。そのことに理解に苦しんだのか、やがて意を決したようにホーリーは、近くで見つけた警官そっくりな服装をした三十代くらいの男に話し掛けて訊いていた。

 そのとき男は、いかにも若い二人を他所から来た見物客とみたらしく、手短であったがちょっと立ち止まって快く教えてくれた。

 それによると、参加しているのはこの付近に住む住民達で、鎖引きは食事を摂りながら勝負がつくまで行われる。ルールは簡単。地区ごとに右左に分かれて鎖を引き合い、約一キロ先に設けられた自分達のゴール地点まで辿り着いた方が勝ちとなる。負けた地区の住民は向こう一年間の寺院と墓地とその周辺の掃除当番と、次の年の祭りの進行役を務めなければならない決まりになっている。今日はその祭りの初日で一番盛り上がっている、というものだった。

 ゴールが一キロ先という、どう考えてみても気の遠くなるような綱引きに、そりゃ中々決着がつかないはずだわ、ほんと途方もなく馬鹿馬鹿しいお祭りもあるものね、と感心するやら呆れるやらで、変に同意した二人は、どうもありがとうございましたと男に礼を述べるとその場を去り、対岸の不思議と人気がないよう見えた寺院の方へ足を向けていた。


 緩やかに蛇行しながら昇りとなっていた石畳の路を五分ほど歩いていくと、チェスのナイトの駒に何となく見えなくもなかった人の三倍は優にありそうな彫像が左右に置かれている巨大な石の門が現れた。石の門といっても石を積み上げてできたものだったが、見張り台のような施設も付属していて、かなりな頑丈な造りをしていた。それをくぐり、直ぐ左に見えた門の一部と化していた小部屋の中にいた教会の事務職員と考えられた女性に、寄付金という名目の入場料をこの国の紙幣で支払い中に入ると、全面が石畳に覆われた広々とする敷地の奥に寺院の大伽藍が見えた。いずれの建物も建てられてから長い年月が経っていると思われる古い建築物で、思いのほか地味な風情をしていた。

 二人が入っていったとき、辺りは下の道路とは打って変わって、ひっそりと静寂に包まれていた。訪れている人は思いのほか少なかった。

 その中、ホーリーは正面横に見えた、どちらかと言えば重厚な感じがしたチャペル(礼拝堂)へと向かった。その後へイクがいそいそと付いて行くと、中に入った直後に、入口の扉の代わりというところか巨大な箱状のプランターが中央部にでんと据え置かれ、その中には幹が太い植物が幾本も植え付けられていて、その周囲には赤や白やピンクといった色とりどりの花が咲いているのに行き当たった。いわゆる観葉木というもので。二人はそれを避けるように迂回して中へと進んだ。すると、ひんやりとした空気で満たされていた広くてがらんとした室内に真っ赤なカーぺットが敷かれてあるのが真っ先に目に留まり、その先の一段高くなったところには時代物の演壇がぽつんと置かれてあった。更にその背後の壁には、どこか安っぽく見える木の十字架が一つ飾ってあった。

 そこには、二人に背を向けるように立つ人影が二つ、三つ見えるのみで、どちらかと言えば寂しげな趣があった室内と相まって殺風景と言って良く。ホーリーはその光景を一べつするや、


「懐かしいわね。朝と夕べに、ここでお祈りを奉げさせられたのよねえ」と独り言を呟いた。


 それからイクに向かって、むっつりした顔で「さあ出ましょう」と促すと、踵を返してさっさと出口に向かって歩いていった。イクはホーリーの言葉に素直に従うと後へ付いて行った。

 次に二人は、そのちょうどその隣に建っていた、寺院の中核と言っても良い大聖堂を目指した。

 大聖堂の中へ入ると、内部の広さと豪華さは並外れていてチャペルの比でなかった。

 先ず広さはチャペルの数倍あった。それを裏付けるかのように、緩やかなアーチ状をした天井部を堂内で支えていた巨大な柱が何十本も林立していた。

 豪華さについて言えば、例えば、壁の随所に見られる縦長の窓には彩り鮮やかな色ガラスがはめてあって、そこから入ってくる光が黄金色をする天井や壁に反射して神秘的な空間を創り出していた。そこへ加えて高い天井から放射状に垂れ下がる木の枝状のものにイルミネーションが無数に点灯して薄暗い室内をきらびやかな幻想的な世界へといざなっていた。

 ところで大聖堂は、すっかり観光化されていると見えて、教会の関係者並びに信者が行き来する空間や公開していないところには、手すりが付いた柵が設けられていたり、通行禁止のロープが張られていて一般見学者は入ることができないようになっていた。

 ホーリーは大聖堂でも同じように無表情で周囲を見渡してからそこから立ち去っていた。ごく短時間で外へと出ていた。

 そんなホーリーの度重なる不可解な行動に、何かを探しているのかなとイクは思ったが、機嫌が余り良くなさそうな雰囲気のホーリーに向かって、もし訊いて突き刺すような冷たい視線を向けてこられてもと、結局のところ、何も訊かずじまいで終わっていた。――ほんと、あれはマジで心臓に悪いのよねえ。

 続いて大聖堂の建物からやや離れた地点に見えた、修道士と修道女が生活する修道院の建物へと向かった。互いに寄り添うように建っていた修道院の二棟の建物は、しかしながら一般公開はされていないらしく、通用門がかたく閉ざされていた。

 ホーリーはその場でほんのしばらく首を傾げて何かを考えているようだった。が、直ぐに何かを思いついたらしく、急に元来た道を引き返し、見る間に寺院の入口にあった受付案内事務所へ辿り着き、その中にいたブレザー姿の若い女性の事務員を見つけると、少し困ったような顔つきで「あのう」と呼び掛けた。

 途端に、二人いた中のひとりが、「いかがされましたか?」と不思議そうな顔で訊いてきた。ホーリーはすかさず言った。


「あのう、寺院へ寄付をしたいのですが、どうすればよろしいでしょう? それほど大きなお金でないのですが、こちらへ寄付を頼まれましてね」


「ああ、それでしたら、ここではなくって別棟の教会の事務局で受け付けております」


 丁寧な返事が当の女性から返ってきた。


「そうですか、ありがとう。実はそのことなのですけれど」


 そう言ってホーリーは再び困った顔で、カボチャの人形をあしらったカバーがしてあった携帯を取り出して決済する振りをすると言った。


「この国の通貨でなくてはいけないのかしら、国際通貨のコンチネンタルドルではダメなのかしら? 実は私達はこの国は初めてなものですからどうして良いか分からなくって」


「いいえ、別にそのようなことはないと思いますが、一応向こうでお聞きになられると良ろしいかと思います」


「ああ。そうですか」ホーリーは素直に同意すると言った。


「ところで妙なことを伺いますが、近くでにぎやかなお祭りをやられているみたいですが?」


「ええ」


「こちらとは関係がないので? 向こうは熱気で溢れているようですけれど、こちらは 余りにもひっそりしていたもので……」


「ああ、そのことですか。直接は関係ありません。あれは大統領の悪政によって犠牲になられた方々の供養を兼ねて行っているものですから」


「というと?」


「ええ、そうですね。時代の背景でしょうか。国中の寺院が大統領を支持する側に回っていたといういきさつがありまして」


「そうですか」ホーリーは納得したようにこくりと頷くと言った。


「ところであれは勝負が付くものなので? しばらくの間見ていたのですけれど、ほとんど動きが見られなかったような……」


「ああ、あれのことですね。それはそうかも知れません。今日は初日ですから、どちらかが手を抜かない限りはまず無理でしょうね。ところが夜が近付くにつれてがらりと変わってそうでもなくなるんです。日中の疲れで次第に息が合わなくなったり、地面が凍って滑りやすくなったりして優劣が出てきます。あとそれに、例え勝負がつかなくても三日目ぐらいになりますと、不思議と態勢がほぼ決まって、誰の目から見てもどちらかが負けているのがはっきり分かりますから、その場合、諦め良く抵抗をやめる決まりになっていて勝負が付くんです」


「ふーん、なるほどね」


「それが終わると、いよいよお祭りのクライマックスです。歴代の大統領夫妻とその側近を形どった大きな出し物が出て、大勢で革命の歌や鎮魂の歌を歌いながら練り歩くのです。そのときに限って地元以外の方々も参加自由となって、地元の郷土料理やビールやウイスキーやらが全部タダで振舞われます。

 さらに夕方になりますと、もっと圧巻で。全ての出し物が、大勢の人々によって広場に引き出され、そこで時代物の剣や斧を使ってズタズタに切り裂かれ、破壊されて、山積みにされて、火がつけられて。最後は燃え盛る出し物の周りで、もう二度とこの国に悪い政治家が現れませんようにと願いつつ、勝利の歌や神に感謝の讃美歌を全員で大声で歌い、全ての出し物が燃え尽きて灰になるまで踊るのです。

 その頃には広場がもう黒山のひとだかりで、それは何と言って良いか分かりませんが、気分がスーッとして、ちょっとしたイライラや悩み事や辛いことはいっぺんに吹き飛びます。初めてこちらに来られたということでしたら、もし時間に余裕があれば、是非一度体験されたらよろしいかと思います」


 寄付をするという行為に感謝したのだろうか、祭りの広報でもないのに女性はサービス精神旺盛に熱弁をふるった。


「なるほどね、そういうことでしたか……」


 ホーリーは真剣な眼差しで頷いていた。

 一方、イクはそんな二人のやり取りを見聞きしながら呆然と立ち尽くしていた。ホーリーの言っている意味がさっぱり分からなかった。彼女が何をしようとしているのかさっぱり見当がつかなかった。

 すると、会話が途切れたタイミングで、話し相手だった女性が何を思ったのか隣にいた同僚の女性と何事かを話して振り返り、にこやかに言ってきた。


「もし良かったら事務所まで案内して差し上げても構いませんが?」


「そうしていただけると助かりますわ」ホーリーは一も二もなく受け入れていた。


 さっそく二人は案内役を買って出てくれた女性の後ろへ付いていくと、「少し見つけ難いかなと思いまして」そう話しながら彼女は修道院の方角へ向かった。


 しばらく歩いて修道院の建物の横を通り抜け、森がすぐ近くまで迫った辺りにそれらしい白っぽい建物がぽつんと建っていた。

 ベンガラ色の屋根を持った、テラスハウスそっくりな比較的新しい三階建ての大きな建物で。どうみても上流から中流階級の市民が暮らす邸宅にしか見えなかった。おまけに何の建物なのか示す看板も表札もなかった。確かに女性の言った通りといって良いものだった。

 事務員の女性はひっそりと佇む建物の玄関のドアの前に立つと、三回ドアを軽くノックした。そうしてドアの向こう側へ呼びかけた。「シスター、来ていただきました」

 次の瞬間、ドアが静かに開いて、黒を基調にした修道女の制服を着た中年の女性が姿を現わした。予め連絡がいってあったらしく、中年の女性は、ホーリーとイクに向かうと、「寄付をしていただけるそうで?」と笑顔で感謝してきた。


「はい」ホーリーはにっこり笑うと、はっきりとした口調で応えた。「ほんのわずかですが」


 二人のやり取りに役割を終えたと思ったのか、事務員の女性は、そのときほっとした表情で中年の女性に向かって、「シスター、後はお願いします」


 そう丁寧にあいさつをして元の勤務場所へと戻っていった。

 女性が立ち去った後、シスターと呼ばれた中年の女性が、「どうぞ中へ」と二人を建物の中へ招き入れた。

 見た感じ、室内はかなり広々としていて、壁側には書籍や資料がぎっしり詰まった書棚が並び、その中央付近には、向かい合わせになった事務デスクが二列並ベられていて、修道士と修道女の制服を着た若い男女が三十名ほど、パソコンと書類が置かれたデスクに礼儀正しく腰掛けて事務作業をおこなっていた。

 部屋は水を打ったように静かで、何となく張り詰めた空気が漂っていた。

 中年の女性は彼等の後ろをゆっくり歩いていくと、二人もその後へ続いた。

 若い男女が作業していたちょうどその隣に、四角いテーブルを取り囲むようにソファーが配置されたブースがあり。そこに修道女の制服を着た六十歳くらいの年配の女性が二人並んで品良く腰掛けていた。

 三人が差し掛かると笑顔で出迎えた。「どうぞ、お座りください」「遠慮は入りません」


 そう言われてホーリーとイクが二人の相向かいに、案内してきた中年女性が向かって右側に腰掛けると、その直後に、いれたてのコーヒーを人数分と、ミニサイズの生クリームたっぷりのクロアッサンとブルーベリーのパイと普通のドーナツとチョコがかかったドーナツを山盛りに盛り付けた木製のコンポート皿を、別の若い修道女二人が運んで来てテーブルの上に置いた。


「あいにくと主教のエイブ・プラントスは、今年の春に入信した新人のガイダンスの真っ最中なものですから、私、准主教のマーサ・セロンが代わって対応させていただきます」


 年配の女性の内、メガネを掛けた方が切り出した。そして、ちらっと顔を横にそむける仕草をした。その方向に、低いパーテーションを挟んで、少し離れた地点にテーブル席が見え。そこに腰掛けた、どこか威厳のある修道士姿の男が、新入りなのだろうか、同じく腰掛けた真新しい修道士と修道女の制服を身に着けた若い男女数名に向かって、もの静かな口調で話をしていた。


「ところで教会へ寄付をしていただけると?」


「ええ、ささやかな額ですが。私ではなくって私の祖母のたっての希望で、頼まれてきまして」ホーリーは再び例の携帯を取り出すと、テーブルに置き言った。「コンチネンタルドルで一万ドルほどですが」


「それはそれはどうもありがとうございます」女性が丁寧に礼を言うと、にっこり微笑んだ。


「ただ祖母が申すには、向こうに行ったら訊いてきて欲しいことがある。それが叶えられないと死んでも死にきれないというものですから」


「その訊いてきて欲しいこととは何ですか?」


「あのう、それはですねえ、今から六十年くらい前のことらしいのです」


「ほーう」


「申し遅れましたが、祖母は、今はもう見る影もなくなっていましたが、かつてチャペルの横にあった孤児院の出なのです」


「ほーう、そうですか。で、何を訊きたいと言うので?」


「ええ。実は祖母には三つ上のお姉さんがいたそうで、二人とも孤児院に入所していたらしいのです。確か祖母が九つでお姉さんが十一のときに入って約二年半いたと聞いています。

 やがて祖母は素晴らしい人に巡り合えて、養女として迎えたいからと院を卒業していくことになるのですが、お姉さんの方は、院が課していた仕事に連れ出されたのを最後に、二度と院に戻ってくることがなかった。その理由を訊いても、良い人に貰われて遠くへ行ったと説明するだけで、それ以上のことは教えて貰えなかったというのです。

 その当時は祖母は幼かったこともあり、大人の言うことは絶対に訊くほかなく。そのまま六十余年が過ぎ、いざ死期が迫る年代になった時、どういう巡り合わせか知りませんが、この私がこの地へ赴くことを知って、ふと思い出したらしいのです」


「ふーん、なるほど。孤児院で起こった出来事ですか」


「はい。分かりますでしょうか?」


「随分と昔のことですからねぇ。今生きている人を見つけるのも難しいですからね」


「はい、それは十分承知しています」


「それで、お婆様のお名前は何と言われるので?」


「はい。アウグスティ・ローウェルと言います」


「お姉さまは?」


「ホーリー・ローウエルです」


「なるほどねぇ。その他に訊いていることはございませんか? 例えば当時の院長の名前だとか……」


「あ、そう言えば、そう……当時の院長さんの名がペトロで副院長さんがベトレイム、それから教育主任がセイヤ―とか言っていた気がします」


 話している女性の隣ではもう一人の方がホーリーの話をメモ用紙に走り書きで書き留めていた。


「そうですか。それ以外には?」


「そうですね、当時の時代背景なのでしょうか、男女関係なく、普段は囚人みたいに番号が付いた地味な服を着せられて頭を短く刈っていたみたいです。あと物凄く躾が厳しくて、ちょっと気に入らないと食事抜きは当たり前で、すぐにムチが飛んできて生傷が絶えなかったとも言っていました」


「今から六十年前と言えば、今と違い、戒律を厳格に守ることが何よりも尊いと信じられていた時代でしたからねえ。孤児院の子供達にもかなり厳しい躾を課したことが考えられます。

 一応できる限りのことをしてみましょう。でも、話が分かる人はたぶんいないかと思います。生きていればみんな百歳前後か越えていると思われますから。それに、例え記録が残っていたとしても、余り良い結果が出てくるとは思えません。それでもよろしいでしょうか?」


「はい、それで結構です。構いません。例え結果が最悪であろうと、祖母には私が何とか良いように持っていくつもりでいますから」


「そうですか」


「何といっても古い話ですからね。元々無理な注文と分かっています。よろしくお願いします。そう急ぎませんので。

 実は私達、別の要件でこちらを訪れておりましてね。

 あ、そうそう申し遅れました。私はフランソワーズ・ローウェルと言いまして、ロイヤルパンプキン貿易商会という名の小さな雑貨輸入販売の会社を営んでいます。隣は知り合いから頼まれて、仕事を手伝って貰っているローザ・サブマリンと言います」


 ホーリーの紹介に、自分のことだと話の流れから気が付いたイクはにっこり笑って応じた。


「私達がはるばるこの地までやって来たのには、実はある事情がありまして。

 ついでですからちょっとお伺いしたいのですが、ソニア・グランデという会社か団体名をご存じありませんかしら。

 古い歴史を持つ工芸工房みたいで、主に聖職者向けの小物類からろうそく立て、祭服、十字架、演壇、あとキリスト像から聖母像、魔よけの像といった色んな彫像を製造直販売している業者で、実際教会に納入した実績もあるとネットの社名紹介の欄に記されてあったものですから、もしかして知っておられるのかと思いましてね。

 実はそこへたまたま総額十五万ドル余りの高価な工芸品を発注したのですが、急に音信が途絶えて品物が届かなかったものですから。

 それで、心配になってわざわざ様子を見にやってきたわけなのですが。ところが、表示してあった住所に行って見ても、移転したのかもぬけの殻、携帯もつながらないときてましてね。それで、この辺りだろうと大体の見当をつけて国内を探し回っている最中で」


「それは大変なことで。でもそういう工芸工房は聞いたことがありませし、私共のところとはたぶん取り引きはしていないのではないかと思います」


「そうですか。ここにはあと一週間は滞在する予定にしていたのですが、そうすると早めに切り上げなくてはならないですね。困りましたね」


「……」


 年配の女性は少し眉を寄せて首を傾げると急に押し黙った。同僚の女性達も仕草は違ったが同じく追随した。すっかり沈黙してしまった女性達に、ホーリーは視線を逸らすと知らんぷりをした。あくまで率直な答えを待っているというように。

 室内はほっこりと温かく、ぱちぱちと暖炉でマキがはぜる音が聞こえていた。

 そのまま十秒くらい経ったときだった。おもむろに当の女性が、


「ではこういうことに致しましょう」と重い口を開いた。


「明日の午後三時にこちらへ来ていただけませんでしょうか。それまでに何とか答えを用意しておきますわ」


「ふーん、そうですか」ホーリーは深く頷くと言った。「では、よろしくお願いします。そのとき併せて寄付も致しますので」


「こちらこそよろしくお願いします」


 ようやく話し合いがひと段落して、頃合いとみたのか、安堵の表情で三人の修道女の女性が、次々とテーブル上に置かれたコーヒーカップへ手を伸ばした。

 ホーリーと年配の女性の会話を静観していて、すっかり影が薄くなっていたイクも彼女等に続き、カップを手に取るや、ぐいと飲んだ。それほど熱くもなく、おまけにミルクと砂糖がたっぷり入っていて飲みやすかった。

 食器がかすかに擦れ合う音が響く。修道女の女性達三人は、カップとソーサーを上品に手に持ち、コーヒーを何度かに分けながら静かにすするように飲んでいた。

 そのような中、ホーリーだけは例外で、一切何も手を付けなかった。

 四人がコーヒーを飲みなら小休憩している間、静かに目を閉じてじっとしていた、何かを考えているかのように。

 二、三分ほど経ち、修道女の三人とイクががたわいもない言葉を一言か二言、交わしたり、山盛りになったお菓子にも手を付けてと、和やかな雰囲気でほっと一息ついていた頃、矢庭にホーリーがテーブルを挟んで相向かいに腰掛ける女性に向かって、


「ところで下の道路はお祭りで賑やかですわね」と、何かしら気になることがあるのか、祭りのことをここでも話題に取り挙げた。


 話し掛けられた女性は驚く素振りも見せずにホーリーの方へゆっくり視線を向けると、落ち着き払った声で応じた。


「ああ、あのことですか。楽しまれて行かれたらよろしいかと思います」


「聞くところによると、できてから比較的日が浅いお祭りのようですが?」


「ええ、今回で五回目にあたります。催し物がそれぞれ違いますが、同じようなお祭りが全国各地で同時期に行われています」


「ふ~ん、そうですか」


 翌日、ホーリーとイクの二人は約束の時間通りに建物へ足を運んだ。すると、昨日と全く同じ中年女性が笑顔で「ようこそいらしゃいました」と言って出迎えると、建物内から三階へと二人を案内した。

 エレベーターを使い階上に上がる。そこはまるで一流ホテルのようだった。照明は高級感あふれる間接照明で、壁は落ち着いた雰囲気のダマスク柄模様、通路にはペイズリー柄のふかふかふわふわの高級カーペットが敷かれ、通路に沿って部屋がずらりと並んでいた。

 その中から女性は真っすぐに突き当りの部屋へと向かった。その部屋は一風変わっていて、ドア横の壁に室内を見る為用になのか透明な窓ガラスが一枚はまっていて、中の様子を覗き見ることができるようになっていた。

 中へ足を踏み入れると、室内は淡いオーク色で統一されており、窓は他になかった。また、片隅に電子ピアノが一台とその反対側の角側に丸テーブルとイスのセットが形ばかりに置かれてあり。あと、百名ぐらいは余裕で入れる広さがあった。教会の建物内にピアノが置かれていたこと、多人数を収容できるスペースを持っていたこと、内部を公開していることなどからどうやら楽器の練習か、讃美歌や聖歌の練習をする場所らしかった。


「すみません。この部屋しか空きがありませんでしたので」女性はすまなそうな表情で言い訳をすると「ここでお待ちください。直ぐに来ますから」と言い残し立ち去った。


 残された二人はテーブル席に適当に腰掛けて待った。すると、三分ほど経った頃にドアがゆっくりと開いて修道士の服装をした人物が二人入ってきた。

 一人は、グレーの髪を短く刈り揃えた初老の男で、銀縁のメガネを掛けた顔は蒼白で、両頬には深いほうれい線が刻まれ、唇は薄くて大きからず小さからず――と、いかにも気難しそうな雰囲気を漂わせていた。

 そしてもう一人の方は、若く見える割に格闘技のインストラクターばりのいかつい顔と体躯をする男で、誰もが見上げるぐらいの上背があった。

 二人はホーリーとイクが腰掛けたテーブル席の傍までやって来ると立ち止まり、腕を後ろに回して直立の姿勢を取るや否や、


「実は教会が犯した触れられたくない過去をこれからお話しますので、わざわざこの部屋にして貰いました。そういうわけですから、今からお話しすることは他言無用でお願いします」


 初老の男が興味深げな様子で二人をじろじろ見ると、それまでの無愛想な表情を崩して口を切った。


「あ、そうそう申し遅れました。私、教会の公文書の保管をする業務を担当させていただいております、主任のダットン・グリエールと申します。隣は私の手伝いをしてくれている者でダイヤンと言います」


 名を挙げられた男は、途端にいかつい顔から想像もつかない優しい笑顔を見せた。


「え、教会所有の知的財産は教会の外に出せない決まりになっておりまして。それでわざわざこちらの方へ足を運んでいただいた次第です。また持ち出すこともコピーすることも写真に撮ることも禁止されておりまして。それで原本を記憶するという方法でこちらに参上致しました」


 そこまで初老の男は言うと、イスに座ったホーリーに向かって柔らかく問い掛けた。


「お婆様のお姉さんは生きていると思われますか?」


 余りにも出し抜けな質問にホーリーは毅然として、


「それは分かりません。しかし祖母がまだ存命ですから、まだ生きていてもおかしくないと思っています」


「そうですか。結論から申し上げますと、残念ながらお婆様のお姉さんは亡くなっておられました。十三才時に死亡したとする記録が残っています。記録では病死となっておりました」


「それはおかしいですわね。そのようなことは決してありません」ホーリーがすかさず反論した。「祖母の話では、出て行ったその日はとても元気で病気の兆しなんてなかったと訊いていますが」


「記録にはお婆様のお姉さん以外にも同じ年代の子供が五名載っていました。いずれもお婆様のお姉さんと同じ病死となっておりました。

 それから言えるのは仕事先で何らかの事故に巻き込まれたのではないかということです。それどころか、毎年度、全く同じ記録が残っているのが確認できました。 

 当時の資料を調べてみて分かったことなのですが、その当時、孤児院の経営母体であった教会は、かなり財政状態が悪かったみたいらしいのです。

 当然ながら、孤児院にもかなりなしわ寄せがきていたのは間違いありません。

 そこへ持ってきて、ときの政府がやれ人道主義だと口では良いことを言って、他国からの孤児も積極的に受け入れる政策を一方的に決定しておりましたから、余計に孤児院の経営が苦しかったと考えられます。

 そこで孤児院の執行部が打ち出したのが、誰でも考える、孤児院に収容した子供達にでもできる仕事をあっせんすることでした。

 そうはいっても、十歳前後の子供にできる仕事など高が知れています。単純労働を長時間課したり、掃除とかベビーシッターとか洗濯補助といった雑用を課したり、歌や楽器やダンスを仕込んで披露したり、そんな程度です。あと高額な収入が得られるものとして考えられるのは、ロリコン趣味の金持ちへの接待か或いは売春か、人体実験の検体か、宗教に携わる者として許されることではありませんが人身売買です。

 何分と推測の域を出ませんが、たぶん高額な収入につられて孤児院側が子供達をこれらのどれかに送り込んでいたのでしょう。

 その証拠なのか知りませんが、記録が載っていた用紙はコピー用紙で、原本はどこかにあったのだと思われます。

 そのコピー用紙は、不思議なことにどこにでもある用紙ではなくて、用紙の下の方に目立たない文字で某製薬会社の社名が記されておりました。

 買収されて今はもうなくなってしまいましたが、当時はかなり有名だったバイオベンチャー企業で、そのことは何らかのきな臭いものを感じました。

 でもそれ以上のことは残念ながら分かりませんした。ただ言えることは、孤児院の理事とその長は教会が選ぶ決まりになっておりましたから、教会も孤児院側もぐるになって、子供達が亡くなった事情を知っていながら闇に葬った可能性があるということです。

 私が知り得たのはこれぐらいです。よろしいでしょうか。答えになっていますでしょうか?」


「……」


 ほんの少しの沈黙のあと、ホーリーは落胆したような大きなため息を付くと言った。


「その答えではねえ……。困りましたわねぇ。祖母がまだ若かった当時は治安がものすごく悪かったこともあって、作業に行く途中に誰かにさらわれてどこかに売られたのではないか、それとも戻ってこれない重大な事故に巻き込まれたのではと疑っていて、どうなったか真実を知るまでは気が気ではない、死ぬに死にきれないというものですから私が代わってきたわけなのですが……」


 そこまで言ってホーリーは、何かを考えるように、ちょっと首を傾げると続けた。


「今となってはとうに過ぎ去った大昔の出来事ですが、何もなかったことにすることはできませんので、こういうことに致しますわ、祖母は納得してくれるか分かりませんが。そう……一緒に作業へ出かけた同年代の子が高熱を出したことで、重症の伝染病と疑われて、全員が隔離された。それが思ったより長引き、お姉さんが晴れて無事戻ってきたときには祖母は既に孤児院を出ていた。

 入れ違いに残ったお姉さんはやがて年頃となって自立すると孤児院を出て、それから普通に結婚してごく普通の家庭を持ち、普通の人生を送って、つい最近亡くなったとでも言って安心させてあげますわ、信じて貰えるか分かりませんが」


「ところで、続いて私共の要件のことなのですが?」


「ええ、分かっています。寄付のことですね。早速手続きをさせていただきます」


「いいや、その前にやることがあります」


「やることとは? 一体何のことでしょう?」


 ホーリーは掛けたメガネの奥から懐疑な目を向けると、それに釣られるように初老の男は意味深長な笑みを浮かべて、


「話は変わりますが、思うに私共がこの寺院に潜んでいると見込みを付けて、寄付を撒き餌にして探り当てようとしたのでしょうが大したものです。そのような昔の話をどこで仕入れたのか知りませんが、どこまでが真実でどこからが想像なのか今でもさっぱり見当がつきません。ビッグパンプキンゆかりの方々がこちらにお出でとはね。これが運命と言うものでしょうか」


 そこまで言ってメタル色をした携帯を懐から取り出すと、丸テーブル上に置かれたホーリーの携帯に近付けた。

 次の瞬間、電源が入っていないにもかかわらず、ホーリーの携帯のパネルに黄色いカボチャ頭と三角帽子を被った魔女のかわいらしいイラストが映し出されると同時に初老の男が差し出した携帯にも金と銀色の二種類からなるパズルリング(知恵の輪)のイラストが出現した。

 継いで男はホーリーの携帯のパネルの画像をちらりと見ると言った。


「私の記憶が間違っていなければ、画像から考えてビッブパンプキンと協力関係にある方々のようですね」


「ええ、そうよ」ホーリーはイラストの意味を知っていたのか即答すると、不敵に笑い言い足した。


「実はビッブパンプキンに頼まれ事をして来たの。ところが、この国の地理にあまり詳しくないからビッグパンプキンと提携関係にあるそちらの組織に力を借りようとしたのだけれど、全然それらしいのに巡り会えなくって。それであなた達が潜んでいそうなところを、ちょっと無理があるかと思ったけれど、あちこちしらみつぶしに見て回っていたの。そしたらそちらへ辿り着いたというわけ」


「そうですか。それはこちらにしても何よりも好都合です」そう言って初老の男は一旦取り出した携帯を速やかに懐にしまうと、ほくそ笑んだ。ホーリーはわけが分からなかったのか、初老の男を凝視すると叫んだ。


「えっ、どういうことかしら?」


「実は私共もあなた方に頼みたいことがありまして」男は丁寧に応えた。「あのビッブパンプキンがざわざわ指名して派遣してくるからにはあなた方の能力を向こうがそれだけかっているということ。どうかついでと言っては何ですが私共にご協力願いたいのですが?」


「そう言われてもねえ……」


 困ったように首を傾げたホーリーに、急に初老の男は手を前で組んだ控えめな態度をすると、


「そちらの要件は何でしょうか? それによっては協力するかどうかが自然に決まってきますもので」


「そういうのなら、お聞きしたいのだけれど?」


「はい、何でしょう?」


「その前にあなたの身分を聞いておかないとね。上手い具合いにだまされて全て喋った後で分かりませんとなっては困りますものね」


「はい、それはごもっともです。ところで、その前に一つ修正させていただきますと、ソニア・グランデという名称はビッグパンプキンに登録している名で、一部の幹部以外には誰も分かりません。賢者の後継者という意味のオアクラグが私共の本来の組織名です」


「あらっ、そう」


「それと私の身分ですが、こちらの支部の支部長を任されております」


「するとここでは一番お偉いのね」


「いいえ、そういうわけではありません。私の上には年長の相談役がまだ二人おりますので」


「ふーん、なるほど」


「これでよろしいかな」


「はい分かりましたわ」ホーリーは笑みを浮かべると言った。「私達の目的は、あなた達が被害を受けたという者達、デイライトゴーストと言ったかしら。そいつらの正体を突き止めて抹殺することなの。どうもビッグパンプキンも手こずっているみたいで、私達に出番が回ってきたというわけ。確か一度、この国に現れたわよね」


「デイライトゴースト、デイライトゴースト、はて昼間の幽霊ねえ……」


 初老の男は口の中で言葉を繰り返すと、数秒間、細い目を閉じて考える仕草をし、そして言った。

 

「聞いたことがあるような、ないような、はっきりいって私共には詳しいことは分かりかねます」

 

 そのような男の釈然としない受け答えに、途端にホーリーが、人が変わったような冷たい視線で男を一瞬見据えると感情を表に出さずに異を唱えた。


「それはおかしくなくって!? 支部長ともあろうものが自分達の仲間が犠牲になったのに知らないなんて」


「はい、確かに」男は静かな物腰で応えた。「しかし知らないものは知らないと言うほかありません。私共は本部と情報は共有しますが、支部同士では中々そうなっておりませんもので。おそらく本部長に会って貰えれば分かるはずです」


「なるほどお互いに独立しているというわけね。それで、本部長はどこにいるわけ?」


「もちろん本部でいるわけなのですが、あいにくと本部の場所は秘密になっていて教えられません。そういうことで案内役がお連れします」


「ふーん。それで思い出したのだけど、ここにある携帯で一度本部へ連絡を差し上げたの。でも音信不通でつながらなくってね。それはどうしてか分かる? 向こうが連絡し忘れているのかしら?」


「あ、はい。実はそれが本題なのです」初老の男は急に眉間にしわをよせると、深刻そうな顔つきで続けた。「おそらくそのときには本部に応対する者がいなかったと思われます」


「それって?」


「お恥ずかしい次第なのですが不意を突いた襲撃を受けて壊滅してしまいました。どこの組織なのか分かりませんが、私共に何か強い恨みがあるのか、それとも勢力拡大に私共が邪魔とみたのでしょう」


「ふーん、それは尋常ではないですわねえ」


「ええ」


「それにしても頭である本部が壊滅したっていうのに良く支部が普通に存在しているものねえ」


「ああ、そのことですか。運が良かったのです。古くなった本部の機能を新しい本部に移転した際に襲撃を受けたものですから。そのとき旧本部は、人員が手薄であったことも影響しました」


「そう。すると本部はまだ大丈夫ということなのね」


「はい。その代わりと言っては何ですが本部の襲撃に失敗した敵は、今現在、支部を捜しだしては手当たり次第に襲撃して本部の位置を突き止めようと躍起になっています。それで連携の範囲内でビッグパンプキンの応援を仰ごうと幹部会で相談がまとまり、一両日中にビッブパンプキンへ連絡を入れる手はずになっておりました。それが、今日、上手い具合いにあなた方に巡り合えた次第です」


「そう。ところでそちらは大丈夫なの? 随分と余裕があるようだけど」


「ああ、そのことですか。幾ら敵でもここは突き止めることができませんので。なぜなら、この寺院の中には、その数は定かではありませんが、私共以外の組織の人間がここを隠れ家にしておりますから」


「それはどういうことですの?」


 どうも分からないと言う風に首を傾げたホーリーに、男は得意げに説明を加えた。


「不思議なものでお互いに意識し合いますと、自分達の正体がばれないかと気になって、お互いに必要以上に干渉できなくなるのです」


「なるほどね、そういうこと」分かったとホリーは頷くと言った。「他の組織が一緒に混ざることで、あなた方の存在がピンポイントで分からなくなっているわけなのね」


「ええ、そういうことになりますか」


 そう言って苦笑いを浮かべた男に、呆れたようにホーリーは肩をすくめると言った。


「あなたの話だと、どうやっても本部の方へ向かわないといけないみたいね」


「ええ、そういうことになりますか」


「そう。仕方がないわね。その前にもう二つ三つほど訊いておきたいのだけど」


「はい、他にも何かあれば」


「そうね、先ず一つ目は、この国にはあなた方みたいな組織がどれくらいあって実際に国を牛耳っているのはどこの組織なのかお訊きしたいわ。あ、それと、あなた方の組織がどこまで被害が及んでいるかも訊きたいわ。これぐらいならあなたにでもすぐに応えられるでしょ。こう言っては何だけれど、この国のことについては何も知らなくってね。このまま行くと、血生臭いことに足を突っ込まないといけないみたいだし。少しでも色んな情報をインプットしておかないと動き難いかと思ってね」


 このままでは相手の良いようにされると感じたのか、開き直ったぞんだいな口調でそう言い放ったホーリーに、初老の男はメガネの奥からブルーの瞳を見開くと、この国で暗躍する組織の数と自分たちの組織の立ち位置と置かれた状況を語っていった。


 そのような二人のやり取りをイクは息を呑んで眺めていた。いつもながら何を話しているのかさっぱり分からなかったが、ただただホーリーの雄弁さに目を丸くして感心していた。一体どうなってんの? こんなの、あたしには到底同じマネはできそうにないわ。

 かけ引きをすることにかけては、ホーリーは天才肌レベルであったことも知らずに脱帽していた。

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