第64話

 大空は白い雲がパラパラと棚引く以外はどこまでも薄青色一色に澄み渡り、下の大地は周辺にそれ程高い障害物が無いためなのか遥か遠くまで見渡せる。その果てには地平線がくっきりと見えていた。

 その中にあって大地を左右に二分するかのように一直線に伸びる幹線道路を、一台の白い中型セダンの車が、太陽を背にして猛スピードで地平線へ向かって走行していた。

 車には、どことなく晴れやかな表情をするパトリシアがハンドルを握り、行き交う車が一切ないことで自然とアクセルを踏み込んでしまうのかデジタル様式の速度メーターが毎時百二十マイル(毎時193キロメーター)の数値を行ったり来たりしている。


「ほんと、以前は決まって混み合うところだったのに……。今日は平日の火曜日だからなのかしら」


 全開にした両側の窓から流れ込んでくる生温かい風が、のんびりとした物言いで呟く彼女のショートのブロンドヘアーを心地よくなびかせていた。

 ボタンダウンの白いシャツにデニムのパンツと云った、至って若作り的な格好。メガネは掛けておらず。お洒落といえば茜色のルージュを引いた唇と両方の耳にしたドロップタイプのイヤリングと金色をした腕輪タイプの時計ぐらいなもので。ゾーレと会うために、その待ち合わせ場所である彼の自宅へ向かって車を走らせて、来るのは実に五年振りという行程を辿っていた。

 まあ色々あったけれど、それにしてもまさかこうなるとはね――。巡り巡ってというけれど――。


 ダイスの自宅で義理の妹と初対面してから、三日が過ぎようとしていた。

 その間にさまざまなことがあった。

 ダイスの自宅に一泊した次の日の朝、笑顔で二人に別れを告げて出発。昼過ぎに待ち合わせ場所であったピエト地区のコンベンションセンターへと到着。センターの駐車場に車を止めようと中に入ると、その日は日曜日ということもあり、センターは老若男女でたいへん賑わっていた。そして予想通りに、広い駐車場も混雑していて、ほぼ八割強が埋まっていた。その中、空いていた中央寄りのスペースに何とか車を止め、いつも行っているように居場所を知らせる目印を車に付けて、時間にまだ余裕があったのでコンベンションセンターの会場で開かれている催しを見に行った。それから一時間ほどして戻ってくると、まだ待ち人はやって来てはいなかった。それで車内で待つことに決め、目を閉じてうつらうつらしていると、夕方の四時を回った頃になって、ようやくフロイスが姿を現わした。

 彼女は車の後部座席へさっそく乗り込んできたかと思うと、珍しくパトリシアのお株を奪うように先に話を切り出した。


「もうあの件は終わったよ。ほとんど観光とリゾートでもっている国に物騒な事件が立て続けに起こったのでは相当客足が退くという理由で、もうそろそろ良いんじゃないかとズードの野郎から言われてね。だからお前はもう戻る必要はない。私は後始末をするために戻らなければならないが。

 ちょっと騒ぎが大きくなり過ぎた手前、落としどころをどうするかでみんなで話し合い中でね。

 そうだなー、来週までには何とか片が付くだろうよ」


 そう話す間に、パトリシアの新居に通じている道路の上空にさしかかっていた。時間にして一分も掛かっていないにもかかわらずである。

 そのときパトリシアは、余りに段取りの良さにどう言って良いか分からず。結局のところ、「そう、分かったわ」と同意していた。

 するとフロイスはパトリシアが乗った車を人気のない道路のど真ん中に置き去りにして 一人だけ車から降りると、どこかに去っていった。

 それを呆然と見送ったパトリシアは、当初の予定では一番の信頼を寄せるフロイスを連れてダイス宅を訪れるつもりだったが、諦めざるを得ず。仕方なく車中から、これから戻るからと伝えて、真っ直ぐに自宅へ向かって車を走らせた。

 それから十分も走った頃、自宅の道路前でモノクロのバンダナを頭に巻いた一人の男が立って待っていた。シンだった。

 シンは満面の笑顔で上体を前に深く折り曲げるお辞儀と言われるあいさつをして出迎えると、元気な声で呼び掛けてきた。


「姐さん、お帰りなさい」


 前もって携帯で電話して、「うまくいったわよ、シン」と伝えたとき、「姐さん、ありがとうございます」と何度も繰り返しながら、人目もはばからず号泣した男とは雲泥の差だった。


「シン、ただいま」


 パトリシアはシンの手前で車を停止させてそう応じると、立ち話も何だからと車を発進させて建物の敷地内へと入った。それから車を駐車スペースに止め、久しぶりの帰還にゆっくりしたいと思い、ショルダーバッグ一つを持って広々とした玄関の通路を通って一番奥の食堂へ直行。まだ午後の四時過ぎということで夕食の時間までかなりな時間があったので、それまでの間、研修に出した三人のことや互いの近況を話題にしてシンと談笑しながらコーヒーブレークとしゃれ込んだ。

 それから三時間ほども経った頃には夕食も湯浴も済んで、年相応の落ち着いた雰囲気のナイトウエアへ着替えると、無駄に広い空間の片隅にセミダブルベッドと一人掛け用のソファとわずかな調度品が置いてあるだけの見るからに殺風景な二階の寝室にこもっていた。そこでソファに深々と腰を下ろすと、時間的にもう良い頃かと、もう一人の候補であったホーリーに連絡をとった。

 ところがそんなに都合良くいかないもので。彼女は運悪く留守だった。その代わりに出たのはユーリ、ユーニ姉妹の片方の方で。「ただ今本人は不在にしています、十日ぐらいすると戻ると言っていました」と可愛らしい声が返って来た。

 フロイスとホーリーの二人に上手く振られる形となり、パトリシアはちょっと失望した。

 ほんと、ついてないわねえ。

 そのようなとき、直ぐに切るのは、ごく普通の一般対応であったが、そこは話好きなパトリシアのこと、それでは終わらなかった。

 二人の声を久しく聞いていなかったこともあり、「二人とも、元気している?」と愛想良く話しかけると、それからというもの、時間を忘れてとりとめもないやり取りをわいわいがやがやとして、幼い姉妹から返ってくる反応をニコニコ顔でしばしの間楽しんだ。そうして話のネタが全部出尽くした頃、陽気に「お嬢さん達、ホーリーによろしくね」と言って、ようやく携帯を切った。そして五分程ほっと一息ついた。

 その間に気を取り直そうと、ああそうそうと思い出したように、一緒に写した女性の写真を見るために携帯を操作した。ところがである、どう操作しても不思議なことに何も写っていなかった。

 変ね、携帯の故障かしらと試しに同じ携帯で自撮りをしてみた。すると今度ははっきりと撮れていた。そのことからもしやと、女性との会話を録音した音声を再生してみた。しかしやはり何も録れていなかった。

 そこでハタと思い当たったが既に後の祭りだった。しくじったわ、あの娘の影響ね。

 それで仕方なく、記憶にあるだけの情報を忘れないうちにとレポート用紙に書き記した。またその間に次の人選にあたり、あのゾーレなら例え彼が知らなくたって情報通の彼なら何とかしてくれるだろうと思いつき、物は試しと今度はゾーレ宅に連絡を入れた。

 そのとき彼は自ら経営する会社から戻ってきて本宅の方にいた。掛けたとき、かなりなアルコールが入っているらしく、すこぶる機嫌が良かった。問い掛けもしないのに、ちょっとしたジョークを交えながら今現在の様子を自ら喋って来たリ、景気のいい話を言って来た。

 ところが義理の妹のことを口に出した途端、人が変わったようになると、怒号のような大声で、


『三日と言わず、一週間でも十日でも、一月でもいいから、好きなだけ、そのダイスという男のもとに居て貰え、居て貰うんだ。良いか、逃すんじゃないぞ。かかった費用は幾らでもこの俺が持つ。だからお前は絶対引き留めるんだ。分かったな、パトリシア! 絶対にだぞ。

 それがダメというのならまた訪れるように仕向けるんだ。その場合、半年後とか一年後ではダメだ。三日後、一週間後、十日後と短いスパンで訪れるように約束させるんだ。良いな!』と、意味不明のことを言って来た。


 そのときすっかり不意を突かれたパトリシアは全然意味が分からず、唖然とすると、とっさに、「どうしてそんなことをしなくちゃならないの?」と問い返していた。しかしゾーレはやや高揚した声でそれを無視するように、


『パトリシア、良いな、直ぐに連絡を入れるんだ。そして何とか理由を付けてお前の妹を引き留めるんだ。分かったな。それができたら必ず連絡をくれ。上手くいかなかった場合はお前の話はなかったことにする」


 そう念を押すと、一方的に電話を切った。

 そのときパトリシアは、いつもならじっくり話を聞くタイプのゾーレの余りにも変容振りに、さっぱり理由が飲み込めず。目を丸くして、ほんと失礼しちゃうわね、何言っているのと一瞬驚き呆れた。が、女性との約束の期日を明日までと自ら設定した手前、無下に反故にするわけにもいかず。その手で携帯を操作すると連絡を入れた。途端に、


『はい、ダイスですがパトリシアさんですか?』


 中年男の穏やかな声が届いた。パトリシアは愛想良く丁寧に応じていた。


「はい、私です、パトリシアです。ダイスさん、こんな時間に突然電話してごめんなさいね。 エリシオーネさんはまだいらっしゃるかしら」


『はい、おられます』


「そうですか」まだ帰っていなかったことに、パトリシアはほっと胸を撫でおろすと、ああそうそうと尋ねた。


「それでどうでした、私が送った品は?」


『はい、運送業者から荷物を受け取りまして直ぐに中を開けてみると、言われた通り、ステンレス製の指輪とブレスレットとアンクルチェーンが一個ずつ入っていまして。妹さんが試しに身に着けて目を開けられたのですが、別に何も起こりませんでした。それで外へ出掛けても異常ないかと確かめもしてみたのですが、全く何も無くって。 凄い効き目です。

 今、横に妹さんが立っていまして、はっきりと妹さんの目を見ることができます。妹さんはあなたと同じきれいなブルーの瞳をしていらっしゃいます』


「ああ、そうですか」それを聞いてパトリシアは、やっと共通点が見つかったとほっと一安心した。そして言った。「それじゃあすみませんが、代わって貰えないでしょうか。聞きたいことがあるの」


『はい、それでは』


 そう言った男の声に代わって、澄み渡った若い女性の明るい声が響いた。


『はい、代わりました。私です、エリシオーネです』


 パトリシアは応えてきた女性に、


「あのう、エリシオーネさん。ごめんなさいね、様子を訊くのが遅くなって。それで例の品を着けて見た感じはどう?」


 女性に贈ったアクセサリーの品が呪いのアイテムであると明かさずに、どんな具合か訊いた。


『そうですねえ……』


 女性はほんのしばらく考えると応えた。


『別に何も変わりません。ただ普通に目を見開いて外に出掛けても、出会う人達に何も影響が見られないところを見ると、効果があるようです』


「あら、そう。それは良かったわ」


 パトリシアは思わず目を細めると、さすがホーリーね、見立ては完璧だったようねと彼女に内心感謝しながら、

 

「ところでエリシオーネさん、明日は都へ戻られるのよねえ」と切り出して、 


「ごめんなさい、実はあいにくと会わせたい人物に急用ができちゃってねえ」と苦しい言い訳をした。そうして、


「エリシオーネさん、もうしばらくそこに滞在することはできないかしら。その代わりと言ってなんだけれど、私がじっこんにしている友人達とダイスさんの娘さんとそのお友達に会わせようかと思ってね。

 なぜそのようなことをするかと言うとね、あなたを私の妹と認めているからよ。そしてそれと同時に私があなたと一緒にいくのをためらっている理由の一端を見せて上げたいと思ってのことなの。私の友人達はね、一度会えば分かると思うけれど、みんな見るからに一癖も二癖もあって、最初はとっつきにくいかも知れないけれど、人となりは素晴らしくって。嘘はつかないし、お金に意地汚くないし、博識だし、情にもろいし、それに何といっても頼りになるし。みんな信用がおける人達よ。

 ところが全員一度に揃うということが皆目無くって、バラバラに会うことになると思うの。それで、その間悪いんだけれど、ダイスさんのところへ当分居て貰いたくってね。何なら隣が空き家みたいだったけれど、管理会社に話をつけるからそこに住んでも構わないわよ。ええ、お金のことなら心配しないでいいわよ。全て姉のこの私が面倒を見るつもりよ。今はお金回りが良くってね、あなたの十人や二十人ぐらいはどうにでもなるわ。それに確かあなた、都に戻っても、向こうですることは勉学に励むことぐらいだという意味のことを言ってたわよねえ。それなら、今は遠くに居ながら学習できるシステムもけっこう発達しているから、こちらに居てもできないかと思ってね。ねえ、どうかしら?」


 このような理由付けで、果たして滞在を引き伸ばせるかは分からなかったが、とりあえずパトリシアは段取り通りに切り出した。

 すると女性は、落ち着いた冷静な声で『なるほど、そういうことですか』と応じてくると、少し考えるように、しばらくの間沈黙した。そして言ってきた。


『会って一日や二日そこらで、そこまでに私を信用していただいて、本当にうれしく思っています。そして、はっきりいって戸惑っています』


 思わず女性が漏らした本音に、パトリシアは「ふん、馬鹿ねぇ」と一笑に付すと言い添えた。


「私達は父親が同じ姉妹なんだし、遠慮なんかいらなくてよ」


『そう言っていただくと、私、何と言って良いか分かりません。けれど……』


「ねえ、何か問題でもあるの?」


『いえ。ただ私を補佐してくれているお目付け役の者達の了解を貰う必要があるのですが、その了解さえ得られればここに幾ら居ても問題はないと思っています。

 実は正直言いまして、私も居られるものなら居たいと思っておりました』


「それは良かったわ。で、了解を得るのにどのくらい掛かるの?」


『少しお待ちください。そう時間は取らせません。じきに分かると思います』


「ああ、本当!」


 女性の想定外の要領の良さに、パトリシアはにんまりした。話の流れで訊いてみたが、こうもすんなりと行くとはある意味驚きだった。


「分かったわ。待つわ」


 息を深く吸い込んでそう応じると、その間、足を組み替えたり、視線を宙に泳がせたり、傍に置いたペットボトルに口を付けたりして気を紛らわせながら、今か今かと耳を澄ませて待った。

 そのようにして三分ほど経った頃、女性からようやく返事が届いた。


『おまたせしました、何とか説得ができました。三日に一度は連絡を入れること。月初めと重要な行事や会議があるときには必ず都に戻ることを条件に了解を得ました』


 その言葉を聞いてパトリシアは「ほんとう!」と喜びの声を上げると、安堵の笑みを浮かべて、「ありがとう、無理をきいてくれて」と肩の荷が下りた気分で感謝の言葉を伸べた。

 すると、控えめな口調で女性から返事が返っていた。


『いいえ、そんなことはありません。ここへ滞在できるきっかけを作っていただいて、私こそ感謝しています』


「ありがとう、そう言ってくれて。それじゃあダイスさんに代わってくれる」


『あ、はい』


 女性が応えたかと思うと、再びダイスの声が携帯口に響いた。『はい、代わりました』


 パトリシアは代わったダイスに、預かった三人の近況のことや女性がさらに滞在することになった件について簡単に話をすると、「じゃあ切ります。何かあった場合はまた連絡を下さい。ではお休みなさい」と伝えて携帯を切った。


「これで用件が済んだわ。何とか上手くいったみたい。あと残るはゾーレだけね」


 ほっとしてパトリシアはさっそくゾーレと連絡を取ろうと、携帯の画面に目を落とした。だがそのとき、携帯の細かい文字や数字がなぜかぼやけて良く見えなくなっていた。

 変ね、疲れているのかしらと思い至り、何気なく視線を逸らしてみると、その先にあったチェストの上に載った目覚まし時計がふと目に止まった。

 時間が経つのが早いもので、アナログ式の目覚まし時計の黒い長針と短針が、垂直に重なり合って別れようとしているのが、そのときぼんやりと見て取れた。


「えっ! もうこんな時間?」


 自宅にいるときはいつも寝床に就いている時間帯になっていたことに、パトリシアははっと驚くと、あいつが待っているわ、早く連絡を取らないとと、いつの間にか見え難くなっていた双眸を何度も何度も瞬かせて、携帯を何とか操作しようと試みた。しかしどういうわけか指が思うように動かせず。それに加えて、どうしたことか意識が知らず知らずのうちに遠のいていた。


 それから何があったのかさっぱり記憶がなかった。が、目が覚めると見覚えのあるベッドの上に寝ていて、おまけにいつの間にか朝となっていた。

 灯りを消し忘れていた状況から見て、どうやら自力でベッドまでたどり着き、そのまま倒れ込んで眠ったらしかった。

 チェストの上の置き時計を見ると午前八時半を指していた。しばらく留守にすることで目覚ましをかけていなかったことや、シンに起こしてくれと伝えていなかったことでその時間帯まで寝たらしく。また八時間以上も眠っていたことについては、それまでたまっていた疲労が、自宅へ戻って気持ちが安らいだことで一気に気が緩みそうなったらしかった。


「もうこんな時間?」


 パトリシアはきょとんとした表情でベッドから起き上がると、とりあえずゾーレの携帯に、上手くいった趣旨の連絡をメールで入れた。

 その際、つい眠ってしまい連絡が遅れたことを記さずに、説得にかなりな時間がかかってしまい、連絡するのが朝になってしまったと言い訳していた。

 するとしばらくして、一階の食堂でシンと一緒に遅めの食事を摂っていたときに、そうとは知らないゾーレから返事が返って来た。

 でかした、よくやったと、お褒めの言葉と共に、さっそく今から来てくれと言いたいところだが、そちらの都合もあるだろうから、午後過ぎに俺の自宅で落ち合い義理の妹の今後の処遇について話し合うというのはどうだろう。そのとき妹の資料と例の貰ったという日記帳も忘れずに持参するように。そういった趣旨のことがゾーレらしい理屈っぽい遠回しの言い回しで記されていた。

 そのメール文を受け取ったとき、パトリシアは向こうの都合通りに動かされているように思えて、不満げに口を尖らせた。確かに頼んだのは私からだけど、理由も話してくれずに私をこき使うなんてどういうことよ。私はあなたにとって忠実な召使いじゃないのよ。

 それでも、人が良いというべきか気が多いというべきかその辺りはわからなかったが、ずっと尾を引かないところがパトリシアの優れた点で。そのようなわだかまりもいつものごとく、「そう言えばゾーレのお家を訪れるのは実に五年ぶりになるかしら。あれ以来どうなったか、一度見てみたいものだわ。確かフロイスが同居しているという話だし」と興味の方へ意識が飛ぶと、直ぐにきれいさっぱり消し飛んでいた。そうして安易にイエスと応じて同意していた。

 以上が事のてん末だった。


「ゾーレったら時間にうるさいのよねえ。自分はそうでもないくせに」


 ふふんと呟いてにんまりすると、パトリシアはちらっと上空に目をやった。

 さわやかな青空だった。自然と笑みがこぼれた。


 その内、緩やかに上っていた路が下りになって来ると、それまでの何もない原野に変化の兆しが見られた。両側には点々と森林が広がり、その側付近に町並みのような建物群が見え、それに併せるかのように車線が片側一車線から三車線に増え、車の往来も頻繁になって来ていた。


「もうそろそろの筈なんだけれど……」


 そう呟いた頃、道路の両側付近に、其々が一マイルから長いもので三マイルぐらいありそうな細長い銀白色の建物が、何棟も連なって建っているのが見えて来る。


「こんな建物なんてなかった筈なのに……」


 パトリシアはちょっと小首を傾げた。一体何なのかしら。

 彼女はそれらが何であるかは知らなかったが、出現した建物群は、各自治体が雇用を増やす目的と食料の一定供給を図る目的の為に実験的に行っている事業施設で、最近では良く見られるようになった光景だった。

 建屋の中では各種の農作物や養鶏・養豚・養殖などの生産事業が行われており、所々に窓が見える建屋は人工太陽光で都市向けの高級野菜・果物・花卉を栽培している農場で、窓が無く所々飼料槽と思われる塔が見える建屋は養鶏場か養豚場か魚介類の陸上養殖場だった。


 確か五年前は、この辺りは一面何も無い不毛地帯だったのに、とパトリシアがすっかり変わった景色に戸惑っていると、突然、見覚えのある<ネオレスタン入口1マイル先>と記された表示板が立て続けに三枚、目の前に現れては過ぎ去って行った。


 ネオレスタン。元々は海岸部に建設されたテラノヴァという都市と共に未来都市のモデルとして、辺境の地に人工的に開発された新しい都市で、現在の人口は七万弱。

 住民の大半は裕福な年金生活者、資産家、会社の経営者、大企業の重役、学校の教授、芸能スポーツ関係者、高級公務員が占める。

 当初は中産階級の別宅用にあつらえた一部を除き、年金生活者と労働者階級向けに造成されたが、インフラがことのほか整備されていること、都市が独自に防犯警備隊を持つことで治安が良く犯罪発生率が極端に少ないこと、一年を通じて気候がほぼ一定でしかも季節風の通り道でないこと。そして何よりも、治安を維持する為と称して出入りを許可制にして、不審者や特定の人種・民族の人達を規制していたことで、最近では中産階級のみならず上流階級の人々までもが移り住み、周りの不景気など一切無縁と云ったところだった。


「やっと見えたわ。長いこと来なかったら様変わりしたものね」


 そう言い終わらない間に、片側の何もない方角に、見るからに巨大でド派手な原色カラーを施された建築物の一部が姿を見せる。それらは一見して山形の食パンとハンバーガーと房のバナナとコーヒーカップの形をしたへんてこりんな建物とペンシル状をした細長い塔で。さる有名な芸術家がデザインしたという清掃事業所と発電所と上下水道所と各種倉庫が一体化したものだった


 パトリシアはブレーキを踏むと、毎時二十マイルから二十五マイル(32キロから40キロメートル)まで速度を弛め、見えて来た分岐点から右折した。が、しかし交通量が多かったせいか前の車輌がつかえていて中々前に進めず。ようやく十五分ぐらい経った頃にカーブになった出口の道路を通過した。


「……」


 そこから先は、つい今しがた見えた近未来的というべきか理解不能というべきか、ともかく目立つ姿をして整然とそびえる建物の真横あたりを通過し、次々と現れた信号に従って、上下行きの車で混み合っている大通りへと出た。そしてそこでも渋滞に巻き込まれ二十分ほど時間を浪費すると、ようやく都市部への出入口であろう車輌の出入りをチェックしているゲート施設付近までやって来た。

 しかし車はゲートへは向かわなかった。直前に見えた脇道へ入っていた。途端に路は狭くなり通行量もいつの間にか疎らになっていた。

 そのような道路を暫く進むと、両側に人工林が広がり、その片側の木々の隙間から、ゆったりとスペースを取ったいかにもお屋敷と感じられる立派な建物が各々堂々と建ち並んでいる光景がチラチラと見えて来る。要するに車は都市の外周を巡る道路を進んでいたのである。


 実は、彼女が向かった先はネオレスタンの都市ではなく、都市の周辺部に建設された建物群だった。

 そこはその昔、都市を建設することに携わった人々が仮住まいとしたところで。後になって、壊すのは能が無いと利用法を考え、大きな建物は老人ホームや都市を管理・メンテナンスする職員の寮やビジネスホテルやトランクルーム(個人・法人用の貸し倉庫)に、一戸建ての建物はそのまま個人の住宅や賃貸住宅や別荘やレストランやカフェやその他諸々の店舗として使われるようになっていた。


 尚も行くと、それまで見えていた綺麗に刈り込まれた緑の芝生と整然と並んだ木々の風景が途絶え、代わって自然に生えたと思われる草木と雑木が周りに生い茂る林道へとやって来る。それとほぼ同時に白やアイボリー色や茶系色をしたコッテージ風、ペンション風山小屋風の建物があちらこちらに見えて来る。

 それらに目もくれないで、幾度か車は枝分かれした路を曲がり、周辺に建物らしきものが見られなくなる代わりに、とうもろこし、トマト、ウリ、カラーピーマンといった野菜類やキウイ、マンゴー、レモン、オレンジといった果樹類の色で満たされた壮麗な風景が見えて来る。目印としていた大学の研究機関付属の試験農園で。そこも後にしてしばらく行くと、敷地内にヤシの木々が比較的密集して生える、コッテージ風の一軒家の庭先にいつしか到着していた。


「やっと着いたわ……」


 パトリシアは安堵の大きな深呼吸を一つして、見覚えのある建物の駐車スペースにさっそく車を乗り入れた。時刻は既に午後の三時を回っていた。

 建物はひっそりと静まり返り、人影は見られなかった。それも道理で。近くまでやって来た時、あともう少しで到着するとか、今どこどこでいるからなどと連絡を入れるのが通常のマナーであったが、パトリシアはわざと意地悪してそうしていなかったからだった。


 ここまでやって来るのに一度も連絡を入れなかったから、ゾーレ怒っているかしら、でも仮にそうであってもざまあ見ろだわ、とパトリシアは苦笑いした。


「まあ、良いわ。わざわざ来てやったんだから」


 そううそぶくと、止めた車の中から、さっそく目の前の庭の景色をさらっと眺めた。

 そこには、高さ二十数フィートはあろうかと思われるココヤシ、アブラヤシ、ナツメヤシなど数種類のヤシの木が、建物を囲むように其々種に特有な形状の葉を広げ、敷地内に群生していた。その中にはサッカーボールのような大きな実を二つ三つ、或いはどんぐりのような小さな茶色い実を沢山ならしているものもあった。

 それらの木々は全て、ネオレスタンの街路に植え付けられた木々が枯れた場合の予備として工事業者が一まとめにして放置していたのがそのまま大きくなったものだった。

 芝生は手入れがされていると見えて、適度に短く刈り揃えられていた。

 ほかには、建物の玄関口まで続いている幅十フィートばかりのコンクリート舗装の小道の両側に、紫、黄色、赤色と色鮮やかな花が咲くプランターが、何気なくずらりと並べて置かれていた。

 そういった中、目新しいものと言えば、庭先に自身の自宅の屋上にあるものと同型のガーデンテーブルとチェアとパラソルのセットが置かれていたことぐらいで。そのことはフロイスが同居していることを暗に示していた。


「あれからそれほど変わってないわね。わりときれいにしているみたい」


 次に、目の前から百フィートばかり行った先の、すっかり周りの風景に溶け込んだモスグリーン色をする二階建ての建物を、パトリシアは悪意のある目で見据えた。

 それというのも、その建物は今でも思い出すたびに腹が煮えくり返る出来事があったところだったからだった。

 あの日のことを忘れるものですか。

 パトリシアは憮然として口を引き結ぶと、その脳裏に昔の記憶が一瞬よみがえった。

 あれは忘れもしない五年以上も前の土砂降りの雨の日。

 日付と曜日は全く記憶がなかったが、その日はそれまで経験したことのない酷い悪天候で、日中というのに暗い闇が夜のように広がり、風こそそれほどでもなかったものの、雷もひっきりなしに鳴っていた。後で分かったことだが、気象予報士の見解によると、何らかの異変が突発的に天に起こったことにより未曽有の異常気象が生じていたということだった。

 そのような中、午前の九時か十時頃、ある重要な密談が建物の一階で開かれた。出席者はロザリオの実行部隊のメンバーでリーダーのザンガー、副リーダーのフロイス、古の魔導士であるところのサイレレ、プロの魔術師を自認するホーリー、三匹の魔物を相棒に持つ能力者のロウシュ、暗殺機関ブラッディメア(血塗られた悪霊)の最後の生き残りであったコーと、シュルツの関係者の中で唯一の生残者で彼等のネゴシエーターを務めていたゾーレとパトリシアの計八名。

 そのうち、ザンガーとサイレレの二人については、ゾーレがかかわっていた関係でパトリシアは面識はなく。そのとき初めて顔を合わせ互いに自己紹介し合った。

 ザンガーという人物は、ゾーレと同じ背格好、同じ年恰好をした中年男で、生気のない目つきをしていて死人のように顔色が悪く。どちらかと言えばとっつきにくい雰囲気をしていた。

 一方サイレレという人物は、一目見てその背の高さに驚かされた。六フィート四インチの背丈があるフロイスと比べても後一フィートは高いのではないかと思われた。

 若いのか年老いているのかさっぱり見当がつかない風貌をして眼光が鋭いのが印象的で。フロイスと親し気に会話を交わしていたところを見ると二人は仲が良いらしかった。


 ともかくも全員が揃ったところで幹事役のゾーレが発した「さあ始めようか」の一声で、合い向かいに置かれた長いソファのシートに各四名ずつが男女別に分かれて腰を下ろし、間にテーブル等を置かずに、ざっくばらんに座談する形で話し合いが行われた。

 その際の議題というか演目は、一つ間違えれば世界を敵に回すことになり兼ねない大それた謀略の是非とそのやり方及び収拾について。

 平たく言えば、メンバー六名を集めさせた張本人で雇用主でもあったゾーレの叔父のB・J・シュルツ、彼の協力者で血がつながる妹でもあったゾーレの母親やパトリシアの父親や、その他諸々の支援者達が殺された件と六名が謀略にはまり命を落とし掛けた件に、どう落とし前をつけるかについて。

 当然のごとく、話し合いの内容はやられたらやり返すというのは妥当な線だとして報復することを前提としており、その滑り出しは各自の状況報告から始まって、ターゲットの選別、戦況分析、それにかかわる簡単な討論へと進んでいった。そのとき色んな意見が口々に飛び出した。が、言い争いになることはなく、ある意味、火の消えたような淡々とした雰囲気で終始進み、そのまま穏やかに終結するのではと見られた。

 ところが、中盤から終盤へと話がさしかかり、具体的にどう始末をつけるべきかに話題が及んだとき、パトリシアが不意に口を挟んだことで、ほんのわずかであったがこじれた。

 ターゲットはそう簡単に殺れるものではない。大抵は隠れて命令だけを下すから居場所を突き止めるだけでも一苦労な上に、そのような苦労をして突き止めたとしても警戒が厳重な故にまたまた苦労することになりかねない。即ち二重三重の手間となる。従って、ターゲットを殺ることにこしたことはないが、それができなければターゲットが困るような嫌がらせをしてやればそれで十分な成果となる、といった大勢の意見に異論を唱えて、命令を下した張本人を何としても捜し出して落とし前をつけるべきよと主張したのだった。

 無差別な大量虐殺を暗に匂わせていた計略に、曲がりなりにも医学を学んだ者として、人道的な意味合いから言って、多くの罪なき人達が犠牲になるのに耐えきれずにそう言ったまでで。

 だが結局のところ、パトリシアの提案は、他の者達から「相手を選んでいる場合じゃない。とことんやるべきだ」「やられたらやられた分だけお返しするようじゃこの世界で生き残れないわ」「一度舐められたら俺達はお終いだ」「私たちはゲームの戦争をしに行くわけじゃないの。ルールのない戦争をしに行くの」などと言われて押し切られる形となって、聞き入れられることはなかった。

 加えてあのフロイスまでもが、「お前の言っていることは十分筋が通っていてよく分かる。だがね、それはあくまで理想論だ」と言って来た。

 その時点で、一人だけ仲間外れにされて傷ついた感じがしていたのに、更に追い打ちをかけるようにゾーレが言い放った、「パトリシア。相も変わらず、お前はおめでたい奴だな。現実はそう甘くない」が追い打ちとなって無力さを感じ、いつもならその場の空気を読んで軽く言い返してからちょっと言い訳をして素直に引き下がるところを、そのときに限って虫の居所が悪いというか 気分がもやもやしてというか、理由不明の怒りが無性にこみ上げてきて、つい意固地になってしまい、「ごめん。私はもう無理」と自分でも意味不明のことを口走って席を立った。

 それから背中越しに聞こえた「おい、どこへ行くんだ」といったゾーレの呼び掛けにも、「気分がすぐれないの。悪いけど帰らせて貰うわ」と、その場で思いついた言い訳を口にすると足の赴くまま部屋を出ていた。

 外は相変わらず暗く、雨が滝のように降っていた。雷も鳴って空に稲光がしていた。あのときほどみじめなことはなかった。いたたまれなかった。早く逃げ出したい気分だった。そのこともあり、勢いで後先も考えずに降りしきる雨の中に出て乗って来た車に乗り込むと、行き先も決めずに乱暴に車を走らせた。

 そのとき運がなかったというべきか、途中でワイパーの一つが大粒の雨の勢いに負けてねじ曲がってしまい用をなさなくなり、前方が全く見えなくなってしまった。

 その結果、横を走っていた大型トラックと思しき車両と接触。ぶつかったはずみにハンドルを取られた。その際に慌てて急ブレーキを踏んでハンドルをしっかり握ったのはかろうじて覚えていたが、そのあとの記憶はどうなったのか分からなくなっていた。

 そうして気付いたときには、車はガードレールにぶつかって止まっていた。しかも車の向きが進行方向と逆向きとなって。道路にあふれた雨水によってタイヤがスリップして車体が一回転してそうなったらしく。

 だがそのときはそうなった理由を考える余裕もなく。しまった事故ったと思い、とっさにハザードランプを点滅させると、雨が降り止むまでこのままじっとしていた方が無難かと考えて、シートに身を預けてぐったりとしていたら自然と眠っていたところまで覚えていた。


「近付いてくる車のライトが何度も目に入って、あのときはほんと、生きた心地がしなかったわ。衝突されて死ぬかと思ったわ」


 その当時はまだ世間知らずで純粋であったこともあり、その日以降パトリシアはゾーレへの連絡も付き合いもあり得ないことだとして絶ったのだった。

 それ故、あのあと作戦は成功を収めたらしいと確信したのは、しばらく経って直接実行した張本人で親友のフロイスがふらっと目の前に現れ、六人全員が無事でいると知らされてからだった。しかしながら活動を急きょ停止して身を隠す必要に迫られたと聞かされたときには、何かの手違いでターゲットをやり損ね、その埋め合わせとしてかなり大規模な報復を別に行ったと予想。結果として報復の報復を恐れての行動とほぼ見ていた。

 そのことについて、フロイス当人に直接尋ねれば手っ取り早かったが、話し合いを途中で放棄して逃げ出した手前、どうなったのか訊くのは何だか後ろめたく思えて、話を振らないようにして避けていた。本人に訊かなくても、被害の実態がいずれ公になるだろうと考えてのことだった。

 だが意に反して、被害を受けた側に余程都合の悪いことでもあったのか、いつまで経ってもそうならず。知らぬ間に事件そのもの自体が無かったかのように隠ぺいされた格好になっていた。そのことから、極めて多くの人命が失われたのは、どうやら疑いのない事実かと疑ったのだった。

 ところが時の流れとは恐ろしいもので、五年の歳月の間にパトリシアはどっぷりと世俗にまみれ、会ったこともない赤の他人に同情する余地などどこか彼方にきれいさっぱり吹き飛んでしまっていた。もはやそのようなことはどうでも良いこととなって興味が失せていた。

 起こってしまったことは仕方がない。所詮、この世は悪い奴ほど長生きして天寿を全うするものよ。運命論者的な思考の持ち主で決してなかったものの、それがパトリシアの現在の心境で答えと言えた。

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