第49話

 突然現れ、話すだけ話して風のように去っていった、奇抜な服装をした不思議な女性を、しばらく呆気にとられてぼんやり見送ったダイス、ジス、イクの三人は、やがて我に返ったように、お互いの顔を見合わせた。そして何とはなしに次々口を開いた。


「一体何だったんだろうな」「さあ?」「本当。夢みたい」


 だが、そのとき起こっていたのは、紛れもない事実だった。

 現にしばらくして、女性が歩いて行った方向に白い車体がこつ然と姿を現したかと思うと、基地の正門に向かって一目散に走り去ったのが分かったこと。またダイスの手の上に、例の書類がきっちり載っていたからだった。

 けれどもそのとき、ダイスの頭の中では、こんなところでぼんやりしていると朝の通勤ラッシュに巻き込まれてしまう。早く帰らなければとの考えが先行していた関係で、やや険しい表情でふっと息を吐くと、女性が手渡した書類を検討することもなしに、無造作に丸めてジャケットの脇ポケットに放り込み、一旦地面に置いた荷物を再び両方の手に持つや、何事も無かったかのように、「行くぞ」と両隣の二人へ素っ気なく声を掛けて、車が置いてある方向を向いてさっさと歩いていった。

 一方、声を掛けられた二人は顔を再び見合わせると、その後へ呑気に従った。


 やがて一行は前もって止めてあった白いワンボックスの車の直前まで到着すると、足早に乗り込み、基地を後にしていた。もちろん、例の生き物も一緒に。

 帰りの行程は、朝早いこともあって、道路の道筋には人っ子一人いなかった。またやって来る途中で道路を遮るように下りていた遮断棒はどこも上がっているばかりか、監視人のひとりも立っておらず。加えて基地から通じる道路間に見られた監視舎にいる筈の駐在員の姿も全く見当たらなかった。それ故なのか車は誰にも止められることなしにスムーズに進んで行った。


「ふぅー、この分で行くと交通停滞に巻き込まれずに済みそうだな」


 ハンドルを握りながら、ダイスは安堵した表情で呟くと、横の座席をちらっと見た。そこには下半身をシートベルトで、上半身を荷造り用のベルトでしっかりと固定されたレソーが、まるで赤子のような素直な顔でスースーと深い寝息を立てながら眠っていた。後部座席で鎮座する生き物の話では、「初めて目一杯力を使った反動が来たのだろう。心配することではない」ということだった。

 ちなみにイクとジスは、やはり来た時と同様、後ろの座席に腰を下していた。


 やがて車は基地の敷地内にある最後の検問所を過ぎ、片側が切り立って崖になった坂道に差し掛かると、順調に坂を下って行った。


「恐ろしいくらい順調ですね。誰にも会いませんね」


 後部座席の窓から外をのぞき込んでいたジスが話し掛けて来た。視線は前方を見たままで、ダイスは口だけを動かすと、適当に応えた。


「ああ」


 およそ小一時間も走った頃。

 もうその頃になると、いつの間にか眩しい太陽が顔を出し、黒っぽく見えていた道が濃グレイ色に変わり、道の両端に生える樹木も本来の色がはっきりと分かるようになっていた。

 更にしばらく進むと基地の出口を示す看板が車の前方上に現れ、一瞬にして後方へ去って行った。

 ここまで来ればあと一息だ。


 やがて見えて来たのは、彼等がやって来た時には見られなかった景色。壮大な規模の倉庫群と大型の運搬車輌、山積みされたコンテナ、全長三、四千フィートはありそうな細長い駅舎の建物、名の知れた銀行や企業の広告塔、看板。住居らしい大小の白い建物、用途不明の高層建築物。おそらくどれも基地との関連性が深いと思われる構造物と車輌、街並みと思われた。それらが一度に視界に入っていた。

 当然、突如現れた見慣れない光景に、後部座席からジスが疑問を呈して来た。


「ダイスさん、来た道と違うんじゃ。まさか、道に迷ったのでは?」


「いいや。早く帰れるように別の道を通るんだ」


「なーんだ、そうなんですか」


「ああ」


 こちらへやって来るとき、一方向だけ混んでいたのを憶えていたので、わざわざ市街へ入るのを避けて、迂回するルートをわざわざ取ったまでのことだった。

 見る間に車は、これらの光景の手前に現れた、大型車輌が頻繁に往来している公道とおぼしき片側三車線の道路へ向かって行くと、信号の変わり際に要領良く右折して三車線の一つに侵入。そこを時速六十~六十五マイル(時速百キロ平均)の速度で流れに乗って進んで行く。

 すると道路は、直ぐ側を通っていた高速鉄道の線路とほぼ並行に走るようになり、見るからに二つの路線は遥か地平線の向こうまで果てしなく続く様相を見せ始める。

 そこまで来るとダイスもジスもイクも見覚えのある景色だった。後は流れに任せて進んで行くだけで良かった。そうなると、見知らぬ場所に来ている緊張感から口が重かった三人から、ほっとした吐息と共に軽い話の一つ二つも洩れて来るもので。案の定、イクがシラッとした顔で口を開いた。


「父さん、朝はどこで食べるつもり?」


「まだ、わからんよ」前方の車両に注意を払いながら、ダイスは普段の調子で適当に応えた。


「もうちょっと待つんだ、イク。途中、ドライブスルーにでも立ち寄ってやるから」


「分かった」


 たちまちうれしそうな笑い声が、後部座席のイクから起こった。だがダイスはうわの空だった。沈んだ表情で運転に集中していた。


 その後しばらくの間、混んだり空いたりを繰り返した後に、車の流れがようやく落ち着き、比較的スムーズな流れとなったとき、ダイスは特に理由もなく後部座席の二人をルームミラーで確認した。

 するとジスは、半開きにした窓から外をぼんやりと眺めていた。一方イクは、退屈そうにあくびをしていた。ちょうど二人に挟まれるようにして、目を閉じた薄紫色の生き物が、ちょこんと座席に鎮座していた。


 ダイスは、ほっと溜息をついた。何も変わりはないようだな。

 だが直ぐに、今にも泣き出しそうな元の沈痛な表情に戻ると、心の中でとりとめもなく嘆いていた。


 嗚呼、世の中はなんて不公平なんだろうな。金なんて、あるところには腐るくらい集まって行くくせに、無いところはとことんまで無くなって行くんだからな。嗚呼、運があれば、つきがあればなぁ。

 そもそも運、つきというものは、人それぞれだが、あるときと無いときの波があって当然の筈だ。それなのに俺の場合ときたら、ここ数年間、いつだって運にもつきにも見離されてばかりいるように思えて仕方がない。嗚呼、今回もそうだ。本当に俺には運もつきもないようだ。一体全体、どうなっているんだろうな。ここまでついていないとはな。

 嗚呼、こうなれば、この先どうすれば良いのだろうな。また一から出直しか。それとも……。


 そのような思いが、身の不幸を幾ら嘆こうとも事態は変わらないと分かっていながらこみ上げて来て、自然と胸が締め付けられていた。

 そんなときだった。それまで車の横の窓から景色を眺めていたジスが不意に訊いて来た。


「あのうダイスさん。あの女の人の話、どうするつもりですか?」


「さあな」ダイスは適当に応えた。「まだ考え中だ」


「そうですか。で、どうするつもりですか」


「ううん」


 もう一度同じことを繰り返して訊いて来たジスに、ダイスは思わず口ごもると、つい一時間ほど前に女性と交わした話の記憶を辿った。


「そういやあぁ、登録するだけで確か一万ドルの契約料が貰えるんだったな」


「ええ」


「だが話が余りにうま過ぎる。新手の詐欺じゃないか」


「僕も初めそう思いました。けど、何もない僕達から何を取ろうというのか考えてみると、取るものが何もないんじゃないかと思って」


「ま、確かにそれはそうだろうがな。だが詐欺じゃないとしてもだなぁ。じゃあ、あれは何だったんだろうな」


「そこまでは僕も……」


「どうせ誰でもいいから声を掛けて見て、食いついてくる相手をだまそうという魂胆でやって来たのさ。そうに決まってる」


「そうでしょうか」


「ああ」


 何のことはない、これまで幾度も旨い話にのってはだまされ続けて来たせいで、この手の話はきっと作り話だろうとして、自然と信じることがダイスはできなくなっていた。あのときも、会ってそうそういきなり契約を迫って来るなんて、どうせろくな話ではないだろうと見なして、いい加減に聞き流していただけで、金の話が出てきたところ以外、ほとんど耳に入っていなかった。

 また書類もしかり。こういうものは人をだますための小道具に過ぎないと決めつけ、おおむね大したものと思っていなかった。よって車に乗る際、書類の内容をはっきり確認もせずに、「文字が細かくて見辛いんだ。悪いが代わりに見ておいてくれないか」と、生き物にもっともらしい理由をつけて、適当に丸投げしていたのだった。


 ああ、そうだった。あの例の書類はセキカに預けていたんだっけ。

 ダイスはジスとのやり取りを一旦中断すると、女性の化けの皮を剥いでくれるだろうと、そこまで深く考えたわけではなかったが、後部座席に座る例の生き物に直接声を掛けた。


「セキカ、その書類について何か分かったことがあったら教えてくれないか?」


「ああ分かった」


 低いがはっきりとした生き物の声が、車内に淡々と響いた。


「ひとまず読んでみようと思う」


 ところがなぜかその後へ、娘のイクのおおらかな声が続いた。


「父さん、この書類、とても良い香りがするのよ。そうね、まるでカスタードクリームのような香りかな」


 どうやら今、書類はイクの手に渡っているようだった。あほな奴め、とダイスは思わず苦笑いをした。

 おい、子どもじゃないんだから舐めるんじゃないぞ、と言ってやりたかった。


 しかしながら、そのような邪魔が入ったことなどどこ吹く風というように生き物は、


「その前に言っておくが、これは雇用契約書だ。といっても、寧ろ覚書、念書のようなものだが」


 そう口を切ると、いつもながらの堅苦しい雰囲気で語っていった。


「雇用契約。一つ、依頼には異議を唱えません。一つ、業務上知り得た秘密は了解無く一切公開、漏洩、利用しません。一つ、業務中の怪我や死亡事故には一切賠償を請求しません。一つ、理由無く無断休怠、怠惰行為は致しません。補則として健康に気をつけます。上司の指示命令に服従します。秘密を洩らしません。みだりに逃亡しません。酒や麻薬を取りながら仕事をしません。一生懸命に仕事に励みます。時間を厳守します。不潔にしません」


「就業時間、休憩時間、休暇の有無、賃金の決定並びにその計算方法、昇給はこれに従う。…… これに定める期間は契約の解約はできない」


「あ、そう」またそこへイクが口を挟んだ。ダイスが後部座席をルームミラーで確認すると、思った通りイクが書類を両手に持って熱心に眺めており。どうやら生き物は、書類を一切見ずに空で読み上げているらしかった。


 そのイクが、何を思ったか生き物に問い掛けた。「ねえ、セキカ」


「何だ、イク」生き物が応じると、首を傾げて素朴な疑問を口にした。


「どうしてこんなに読み難くしているのかしらねえ。文字が普通じゃないわ。一つ一つがおどったような形をしてるわ」


「ああ、文字が装飾化されていることか」


「ええ、そうとも言うわね」


 イクはそつのない切り返しをいつもながらすると、


「もっと見やすくすれば、あたしだって読めるのに。文章が相手に伝わらなかったら意味がないのにねえ」


 そんな不満を、口を尖らせて漏らした。対して生き物は穏やかな調子で、「そのことか」と応じると言った。


「イク、お前が正しい。その通りだ。

 この世界の歴史を紐解くと、文字の発生は、自然界の物体とその数量を言語の補助として表すためであったのが最初とされ、それが時を経て、自然界の事象を現すため、仲間同士で連絡し合うため、更には言語の痕跡を残すためと進化していき、それにつれて数を増やしていったと見る説が有力らしい。

 また、そうして出来上がった文字が形を変えていったのは、祭祀に使うために威厳をもたせるため、見た目を美しく見せるため、文字によって性別・身分・年齢等を明らかにするため、ただ単に意味もなくそうした、と諸説が見て取れるらしい。

 そのことから言えば、イクが述べた万人がはっきりと理解できるようなものになるとは、意図が異なる為、程遠いものと言わざるを得ない。そして……」


 そこまで聞いたところで、イクが音を上げたように、やんわりと遮った。


「もう分かったわ、セキカ。ありがとう」


 すると生き物は、何もなかったように口を閉ざした。

 ダイスは二人のやり取りをそれとなく聞くに及んで、内心同じ思いだった。長々と生き物の難しい話を聞かされると思うと、娘の迅速な対応は的確な判断だと見ていた。

 ところがイクもさるもの、そこで終わらなかった。「セキカ、もう一つ訊いて良い?」と話題を変えて仕切り直しをしていた。


「何だ」


「ねえセキカ。この文字って、じっと見ていたら目がチカチカするんだけど。何かあるの?」


「お前もこれの違和感に気がついたのか?」


「え、何よ、それって」


「それなら話が早い、イク。この書類にはどうやらからくりがあるようなのだ。おそらくこのままサインをすれば、何れは先方の言いなりに動く人形にされてしまう可能性がある」


「え、嘘っ! 本当? それって奴隷みたいなこと!」


「大丈夫だ、イク。何も恐れることはない。私が少し細工をすれば効果を無くすることができる」


「本当?」


「ああ。こうすれば良いだけだ。見ているがいい」


 次の瞬間、生き物の長い尻尾がどこからともなく空中に浮きあがって来ると、尖った先端がイク目掛けて近付く。


「ねえ、ちょっと待って。一体何する気?」


「見ていれば分かる。直ぐに済む」


「と言われたって!」


「これからお前が手にしたその書類に、ごく小さな炎が上がる。だが大丈夫だ、熱くない。見る間に消える。その間、しっかり持っておいて欲しい」


「ふん、じゃあ」


 分かったとイクは大人しく従うと、「服に燃え移らないんでしょうね」とネコ似の生き物に尋ねながら、それまで見やすくするためにやや斜めに立てていた書類を膝の上へ置いた。「これで良い?」

 それを、ジスも顔には出さなかったが興味津々という風に、覗き込んでいた。

 その光景に、生き物は「ああ、問題ない」と応えると、書類のちょうど五インチぐらいの上空で、生き物の尻尾の先が止まった。

 その瞬間、書類が静かに発火。一インチぐらいの高さの青白い炎が書類表面に上がると、あっという間に消えていた。


「これで済んだ。もはや目が痛くない筈だ」


「本当?」口を半開きにしてその光景を眺めていたイクの表情が、一瞬だけ明るく変わった。「それじゃあ確かめて見るわね」


 彼女は直ちに書面の文字に視線を移すと、何度も目を瞬かせ、確かめにかかった。


「本当みたい。目がちっとも痛くないわ。でもこんな仕掛けをしているなんて、あの女の人はかなりの悪だったということ?」


 首を捻ってそう問い掛けたイクに、生き物が即応した。だがそのとき、返して来た答えは意外なものだった。


「いや、そうとも言い切れない。なぜなら書類の内容は、時間を守るようにだとか、無断欠勤はいけないだとか、仕事に精を出すようにだとか、上司に服従しなさいだとか、酒や麻薬を摂りながら仕事をしてはいけないといった就業規則、業務上知り得た秘密は洩らしてはならないとかいった秘密厳守、不潔でいてはいけないといった健康への配慮がしたためてあり、至って普通だったからだ。

 寧ろ、向こうから見てお前達が信用できないからそうしたと解釈した方が理に適っていると思われる」


「何よそれ? それじゃあ、あたし達が問題有りってこと?」イクは思わず口を尖らせると言った。「もう失礼しちゃうわね」


「まあ、向こう側に沿って考えればそうなるのだろう」


「ふん、信じられない。どうしてそうなるのよ!」


 イクの歯に衣を着せぬ物言いに、車内の男達が自然と苦笑いするのもおかまいなしに、呆れたという風な声が、賑やかに響いた。

 だが直に、当のイクは、むすっとすると、


「でもさ、こんなことをしたって、あたしたちが応じなければ意味がないんだし。結局何にもならないのよねぇ」


 そう自分なりの正論を吐き、運転席のダイスに向かって尋ねて来た。「ねえ、父さん。この契約、どうするの?」


「どうするといったって……」


 余りに不意だったこともあり、ダイスは一旦口ごもると、適当に返した。


「その話は帰ってからしよう。それまでにはレソーも目が覚めていることだし。その方が、都合が良いだろう」


「あ、そうだ」


 あけすけなイクの声が響き、また彼女が、唐突に別の話題をもちかけて来た。

 

「父さん、これから帰ってどうするの?」


「どうするって?」


「仕事の話よ。来る途中、言ってたでしょう。仕事を幾つかキャンセルして来たって」


「ああ、そのことか」


 それは、ダイスが三人を安心させるために、思わずついた嘘だった。実際のところ、仕事は何もなかったというのが真相だった。もし向こうへ行かなかったら、会社を一週間ほど休業する予定にしていた。

 だがダイスは、そのことをおくびにも出さずに応えた。


「まあ、そういうことだから、うちに帰っても、そう簡単に仕事は見つからないと思ってくれ、ジス。だが、どうにかするさ。食っていかなくちゃならないからな」


「はい」と、ジスの控えめな声が、イクの隣から響いた。


「そうだ、イク。仕事捜しはお前にも手伝って貰うからな」


「はいはい。何でも手伝うわよ、父さん。その代わりアルバイト代は時給でお願いしま~す。今までみたいに一日幾らは嫌よ。だって父さんの一日は長いんだもの」


「ああ、分かった」


 そこへ、ジスが遠慮がちに口を挟んだ。


「あのう」


「何だ?」


「実は、給料アップの件なんですが、やっぱりあれはダメなんでしょうか?」 


「…… そう言われてもな」ダイスは一瞬黙り込むと、表情を曇らせて素っ気なく言い返した。「あれは確か賞金が手に入ったときの話だった筈だろう?」


「分かってます。しかし僕にも事情があるんです」 ジスは憂うつそうな顔になると、ぼそぼそと言い難そうに言った。


「実は今年から弟と双子の妹、合わせて三人が揃って学校へ行くことになっていて、授業料と食費はタダなのでそれは良いとして、学校へ着て行く制服や学用品を買うのにお金が要るんです。今まではお古を貰ったりして何とかやりくりしてきたのですが、今年はとうとうくれるところがなくなってしまって。それで、個人のバザーを幾つか回ってみたんですけど、どこもこれはというのがなくって。

 まだそれぐらいだったら、僕も蓄えからどうにかできたかと思うんですけど、両親が。

 あれはついこのあいだのことです。僕の両親が悪い奴等に騙されて、生活費やら貯金やら丸ごと盗られてしまって。それだけならまだマシだったんですけど、そいつ等に旨く言いくるめられてよそから借り入れたお金もすっかりやられてしまったようなんです。両親はそれを隠していたんですけど、つい二日前に、うちに金融会社から催促が来て分かったんです。ダイスさん、どうにかなりませんか?」


「いきなりそう言われてもな。それで一体、どのくらいだ、幾らやられたんだ!」


「全部で三万ドルぐらいです。僕に迷惑がかかると思ってなのか分かりませんが両親がはっきり答えないので、正確には分からないんですけど。ほとんどがよそから借りたお金みたいです。これくらいの額になると、僕もどうにもできなくって……」


「そうか」


 ダイスは、ああ困ったもんだと絶句した。実のところ、自分のところも火の車だった。金融機関からの借入金と未回収で回収不能となった売掛金と貸付金は多々あれど、現金は手許にほとんど無い状態といって良かった。


「悪いがジス。うちもギリギリでやりくりしているんだ。すまんが、どこかで借りるという訳にはいかんのか? なあ」


 何となく煮え切らない態度で応じていた。辛い状況はこの俺も一緒だと、たまったものを吐き出すように本音を言ってやりたかった。


 するとジスが暗い表情で、「他といっても……」と少しの間天を仰ぐと、


「うちの親類はというと、みんな、お金と縁が遠い人達ばかりですし、両親はずっと失業中なので信用が無くってどこも貸してくれなくて。後はダイスさんしか頼れるところはないと思って、それで訊いてみたんです……」


「そうは言ってもな、うちも蓄えがなあ…… 」


 前方を見つめたまま、歯切れの悪い口振りでダイスは苦しい言い訳をした。


「何とかしてやりたいが、直ぐにはそんな大金はなあ……」


「やはりダメですか」ジスは思いつめた表情でため息をついた。


「いや、ダメとは言わんが」ダイスは慌てて取り繕った。


「しかし三万ドルは大金だからな」


「やはり、そうなんですか」


 そう言うと、がっかりしたようにジスは一旦うつむいた。だが、直ぐに顔を上げると、意を決したように言って来た。


「ダイスさん。ぶっちゃけて言いにくいんですが、僕、会社を辞めさせて貰おうかと思っているんです。このままじゃあ、今の給料ではとてもやっていけそうにないので」


 その口調には多少戸惑い感が見られたが、一貫してぶれていなかった。明らかに本心のようだった。

 すぐさま、それまでゆったりとリアシートに身を預けながら、でしゃばらずに聞き役に徹していたイクが、信じられないと目を丸くすると、身を乗り出してジスに問い質した。


「本当に辞めるつもり?」


「ああ。だってしょうがないだろう」 やけくそ気味な声がジスから漏れた。


「それ、本気で言ってんの?」


「ああ」


「あたしは辞めないほうが良いと思うけどなぁ。辞めたって仕事は直ぐに見つからないと思うし」


「それは俺も分かってるさ。けどよう、俺が借金の肩代わりをしないと誰が返すっていうんだ。元々両親には返す当てが何もないんだからな。このままじゃあ借金で夜逃げするしかないんだ。そうなると今住んでいる地区から離れなくちゃならないし。弟や妹も学校にやれなくなるんだ。この辛い気持ち、お前にだって分かるだろう?」


「それは……」


 真面目なジスの言葉に、イクはバツが悪そうに一瞬口ごもると、何とはなしに目を伏せた。正論過ぎて、返す言葉が見つからなかったのだ。

 会話が突然途切れ、どことなくきまずい雰囲気が二人に流れた。

 一方、運転席側からその状況を察したダイスは、すぐさまジス当人に、慰留の言葉を掛けようとした。こんなところでそんなことを言わないでくれ。そのような重要なことは帰ってゆっくり話し合おうとでも言って、その場を丸く収めるつもりだった。

 ところが先に、イクが一呼吸措くと口を切っていた。ダイスは言うのを止めると、はらはらしながらそれを見守った。イクは一転して、話題を変えて喋っていた。


「そうはいったってねえ、あんたって、うち以外で仕事をしたことがなかったわよね。もちろん当然だけど、他の会社に面接行ったこともないわよねえ」


「ああ。それがどうかしたか」


「それがどういうことか分かってんの?」


「はあ?」


「ほんと、世間知らずなんだから。良く聞きなさいよ」


 イクは呆れたように、語気を強めてそう言うと、不思議そうに首を傾げたジスに、実際はいるはずもなかったジスのお姉さんが彼に喋っているような、上から目線の口調で話していった。


「どんな仕事に就くにしたって今の景気じゃあまともな給料を出してくれるところはどうみたって期待できないわ。このあたしが一番良く知っているもの。おまけにあたし等みたいな年代が、一番就職先が無いんだってテレビやネットでも言ってたしね」


「それくらいは俺だって知ってるさ」


「馬ー鹿。話はこれからよ。あたしの経験から言うとね、今は仕事を見つけたって即採用というところはどこも無くってさ、必ず面接が付き物なのよ。

 その面接だけど、どこへ行っても一人か二人の採用に何十人何百人って来てるのよ。ほんで、採用する側はその中から誰も取らないときだってあるのだから。例え採ったところで即戦力限定だったりで、見習いや素人は絶対採ってくれなかったりするのよ。

 あたしね、飲食系でね、アルバイトで誰にだってできる簡単なお仕事って載ってあったから面接に行ったんだけど、出て来たマネージャーみたいなのが、どことなく冷たい感じがするいけ好かない中年男で。そいつが表と裏の顔を使い分けて言うには、初めは簡単な作業をやって貰うが馴れて来たら接客、レジから厨房まで全部をローテーションでやって貰うって言う訳よ。まあそれくらいは覚悟してたわよ。でもね、十年以上の経験者は別だが見習いは素人同然だから通常の出勤時間より一時間半早く来て掃除から始めて貰って、店を閉めた後も後片付けをしてから帰って貰うって言うのよ。それも無給奉仕でよ! アルバイトには見習いも経験者もない筈よね。そう思うでしょう! おまけに半年間は、給料は半分くらいだと言うのよ。そいつの格好ときたら、金ぴかの高級腕時計をして、おまけに頭のてっぺんからつま先まで高級ブランドに身を包んでいたくせによ。酷くケチ臭かったわ。あれはたぶんヤクザね。

 ねえ、嘘みたいな話でしょう! 好い加減にしてよって言いたいわ。どこへ面接に行ってもこんな感じなのばっかりで、募集に書いてあることと言うことが全然違うんだから。おまけにどこへ行ったって、最初にこっちの足元を見て、替えは幾らでもいるから嫌なら直ぐに帰ってくれて良いと付け加えるんだから。

 ほんと頭に来ちゃうでしょう!」


 イクの歯に衣着せぬ物言いに、自然とジスの暗い表情が緩んだ。だがイクは至ってまじめな顔で続ける。


「超有名な大型小売店の販売員の募集に、親友のカコと一緒に示し合わせて行ったことがあってね。頻繁にテレビや雑誌に人気の有名歌手を使ったコマーシャルをうって成り上がって来た、社員の平均年齢が二十代と若いところよ。

 面接会場になっていた本社ビルの一階に行くと、それはもう広くって、一度に千人が入れるくらいでね、そこにぎっしりと人があふれていたわ。

 何が始まるのかと待っていると、会場に設置されてた巨大なスクリーン画面から一人の中年男が現れて、自己紹介の挨拶から始まって、自身のことや会社の自慢話をやり始めたの。

 どうやらその中年男はそこの会社の偉い人だったみたいで、それまで騒動しかった会場がいっぺんに静まり返ったと思うと神妙に話を聞き出したの。あたし等も真似して聞いていたんだけど、どこまで話すのよというくらい話が長くってさ、一時間ぐらいまでは我慢して聞いていたんだけれど、もうそれ以上は耐えられなくなって、あたし等ではこの会社は無理と判断して、とうとう途中で逃げ出したわ。

 そのあと分かったことだけど、あたし等の判断は間違っていなかったわ。結局どれだけ採用されたと思う? 千人もいたのに何とたったの五人よ。あとの九百九十五人は何だったかという話よ。あたしの考えでは、あれは面接なんて関係なくって、最初から仕組まれたデキレースで、既に採用する人が決まっていたんじゃないかと思ってるの。他の人達はその人達のダシに使われたんじゃないかとね。

 それで、その日の内に今度はカコが捜したところに面接のコンタクトを取って行ったの。つまり、一日に二つの面接のはしごをした訳。

 スタッフ全員が素人のできたてほやほやのお店で働きませんか。家族的な雰囲気なところです。募集職種は店長候補並びにホールスタッフとキャッチコピーがなっていた飲食系の会社で、面接場所になっていた営業中のお店の一室へ行くと、そこにいたのはたったの三名で、これは脈があると思ったんだけどね。

 しばらくして面接官として出て来たのは、店の店長を取り仕切るエリアマネージャーだという肩書の、あたし等よりちょい上ぐらいの色メガネを掛けたイケメンの若いお兄さんで。

 そいつはきっと経営者の息子かその親族のいずれかだと思うんだけれど、あたし等を色眼鏡でじろっと見てきたかと思うと、生意気な態度で威張って尋ねてきたのよ。

 その中身というのが、ありきたりの志望した動機から年齢、前にどんな職種に就いていたか、どんな趣味を持ってるか、希望職種とかで。そんなことを一人一人に訊いて回って、それが一巡すると、その後が酷くって。もう最低よ。

 あたしとカコが大人しくしていることを良いことに、延々と上から目線で、最低でも学校は出ておいたほうが良いとか、あんた等にはやる気が見えないとか、採用しても会社にプラスになる要素が無いだとか、人が傷つくことばかり言いたい放題言っておいてから、最後に、残念ですがこの仕事に向いていないから別の仕事を捜して下さいと言うのよ。

 そのとき三十代、五十代くらいかな? 地味な紺のスーツでびしっと決めたおばさんとおじさんも一緒に面接を受けに来ていたんだけど、その人達にも頭が痛くなるくらいの陰険な話し方で、職場の上司が十歳以上年下であっても上手に付き合うことができますかとか、給料は前の半分以下になりますが宜しいでしょうか、休みがシフト性になりますがと言って辞退するように持ち掛けていたわ。

 結局、残るように言って採用されたのは、そいつと同じ年格好のツンデレのお姉さんと趣味が合ったノリの良いお兄さんだったわ。

 結論から言うと、今は売り手市場じゃなくて買い手市場っていうことよ。それに加えて、世の中は理不尽にできているってことよ。つまり、幾ら努力しても報われないことが多いってことよ。

 といって、諦めてしまえば、何にもならないでしょ。

 その後あたし等は、余りに悔しいので、金輪際あの店に行かないと決めて、あれから一度も行ってないんだけどね」


 イクはそこまであっけらかんと喋ると、ほっと息をつき、更に続けた。


「待遇が良くて楽な仕事って広告に出ていたので、本当かどうか確かめに行ってみたら全然違っていたこともあるわ。この前なんかがそうで、どことは言えないけれど、むちゃくちゃ広い工場へ面接に行ったときなんか、腹の出た係りのおじさんが何を作っているのか偉そうに喋ってくるんだけど、元が聞いたこともない専門的な話ばかりで全く意味が分からないし。即決で採用されて連れて行かれたのが、流れ作業で機械が製品を作って行くのを不良品がないか監視するだけの仕事で。担当の正社員が言うには不良品を一つでも見逃すと後から罰金を給料から差し引くっていうものだから、もう必死でやったんだけど、気が遠くなるほど時間が長く感じるし、耳がおかしくなるくらい機械音がうるさかったし、おまけに部屋に窓が無くって閉じ込められている気分になって終いにやりきれなくなってね。

 機械がやっている仕事を、立ってただ見てるだけの仕事って、マジで疲れるわよ、特に夜勤でやるとね。どう言ったら良いのか分からないけれど、終ったあと頭の中がからっぽになったような気分で一日が過ぎるのよ。終いに今日は何曜日、何日だったかさっぱり分からなくなって、頭もぼーとして来るし、物忘れなんかしょっちゅうで、ポテトチップスを食べていて舌をかむわ、コーヒーやコーラの味がちっとも分からなくなるわ、運動不足で太って来るわで、結局二週間やってみて、こりゃ向いてないわと思って辞めたんだけどさ。

 あ、そうそう。給料が変に高い仕事を捜すと、どこへ行ってもノルマ制になっていて、サギまがいなことをやらされるのよ。

 あたしが面接に行った先の会社の社長は、薬指に大きなサファイアの指輪をして十本の爪全部に小粒のダイヤが付いた黒いマニュキアをした二十代か三十代の髪の長い女の人で、芸能人が着るような派手な服を着ていたわ。そこでは女の人は女王様みたいな存在みたいで、あたしが行ったときなんか、自分より遥かに年上の男の社員を馬鹿、アホ、役立たずと、歯ぎしりしたくなるくらいのかん高い声で何人も怒鳴りつけていたわ。あたしはその一人の男の社員から、電話で商品を売るアルバイトの説明を受けてやらされそうになったんだけど。

 その商品を売る方法というのはね、予め通販資料を送り付けてあるお家に会社から電話して品物を販売するというもので、電話口でおまけをつけますからとか、あなただけ値引きしますからとか、今日は特売日ですと言うのは当たり前で、ツイッターやメールをして相手と仲良くなってから旨いこと売り付けたりもしなさいって教えられたわ。また電話をする相手もタイプ別に分けてあって、普段から滅多に外に出ないお年寄りや親と同居してる十代の男女や部屋の中で引きこもって仕事をするコンピュータ関連だとか病院勤務の人達、後は夜中に仕事をしている人達がお客だと言ってたわ。

 そのとき、あたしの場合は十代の男女担当ということになっていて、販売するものといったら美容クリーム、化粧品、薬用育毛剤、香水などで、みんな目玉が飛び出るくらい高くってね、こんなもの買う人がいるのかなと思ったわよ。あたしなら先ず買わないと思うわ。

 それなのに、そいつったら、責任を持って商品をアピールして貰うために実際に商品を幾つか買って貰うと言ってきてさ。

 そうしてよ、売り慣れて来たら次は色んなアクセサリーだとか会員権だとかも売って貰うと言ってきたものだから、もうドン引きしちゃってね。もし売れなければどうなりますか、と聞いたら、いきなり怖い顔になって、売るんだ、必ず売れ、どんなことをしても売るんだ、でないとお前は給料泥棒だ、犯罪者だ、そうなりたくなかったらお前がノルマ分を買えって怒鳴ってきたのよ。後はお決まりのように、これだけ売れば給料がこれだけ貰える、売上一番になれば御ほうびとして金のメダルと海外旅行が貰えるとか虫のいいことばっかり言って、あたしにしつこくやらそうとしたのよ。もう魂胆はみえみえよ。よっぽど女社長が恐かったのかしらねえ。たぶんそのとき怒られたことを、あたしにしっぺ返ししたんだと思うわ。まあそんなことがあって嫌になって、あたしは無理です、できませんと言って断ってそのまま帰ろうとしたんだけど、急にあたしを二、三人の社員が帰らせないぞと取り囲んで来てね。でもあいにくと相手が悪かったわ。軽くこつんと拳を見舞ってやったらお終いよ。みんな、口から泡を吹いて悶絶よ」


 いつの間にか、生き生きと話すイクから笑みが零れていた。そんなイクを、ジスは呆れたという顔で眺めていた。だが彼女の話はまだ終わる気配はなく。


「だますってことで今思い出したんだけどさ、ずっと前に社長が外国人という会社に、短期の契約労働という形で、食品の加工補助をしに行ったことがあってね。

 そこは野菜や果物をすり潰したり、小さく刻んでから煮たり混ぜ合わせてドレッシングだとかソースだとかジュースの元を作って、別の大きな会社に納める仕事をしている堅い会社と聞いていたんだけどね。指定された場所へ行って見ると、そこは広い空き地に二階建てのプレハブ倉庫が数個連なって建っているだけと、極めて殺風景なところだったわ。建物の中では頭に白い帽子、口にマスク、両手にゴム手、足には長靴を履いた人達が数人、忙しそうに作業をしていてね、直ぐにあたしも一緒に行った人達も同じ格好になって作業よ。

 最初にやらされたのは、駐車場に使ってるという広場に連れて行かれて、そこに山盛りに盛られた巨大な見たこともない野菜を、炎天下の下で、みんなと手分けしてナタみたいな大きなナイフを使って小さく刻んではバケツに入れて、近くの水を溜めた大きな水槽へドサッと放り込む単純な仕事だったわ。

 その野菜とはね、見たら誰だってびっくりすると思うけど、一つ一つが百キロから三百キロぐらいあるお化けスイカみたいなもので、色は赤紫とか黄色とか緑とか色々あってね。そうそう、縞模様があるのもあったわ。名前はとうとう教えてくれなかったけど、何でも未来の野菜とだけ言ってたわ。

 その直ぐ横では、別の人達がそこに駐車したトラックの荷台に載って半分腐ったり潰れて形の変わった野菜や果物をバケツに入れて別の水槽へぶちまけていたわ。

 そこでまるまる三日、同じことをやらされて次に連れて行かれたのは建物内の作業で。そこにはあたしの背丈くらいあるステンレス製の大鍋が十個ぐらいと、潰す機械とスライスする機械と袋詰めする機械一台ずつとがローラコンベヤに囲まれて置いてあって、水の入った特大の水槽がそこから離れて五台並べて置いてあったわ。

 そこでの作業は、コンベヤから流されてきた、こま微塵にされた野菜が入ったバケツを全部の鍋にぶちまけてから、木の棒を突っ込んで混ぜながら野菜をドロドロになるまで煮て、最後に船のスクリューみたいな道具を使ってペースト状にすることで。その後の仕事はベテランの役目だったわ。

 その作業はのんびりやってできるものじゃないし、煮炊きするから蒸し暑いし、忙しく動き回るから喉がカラカラになるし、今までで一番きついなと思ったわ。

 でもさ、時間があっという間に過ぎるし、休み時間はみんなと楽しく話せるし、一応終った後で満足感があるし、今までで一番居心地が良いなと思ったわ。しかしそう思ったのもその時だけで、あとでもう興醒めよ。

 それは休み時間のことだったわ。一番の古株の人と話が合っちゃって、内緒の話だよと教えてくれたんだけど、そこの社長というのが物凄いやり手で、正社員は社長の家族だけで後はみんなパートかあたし達みたいな期間労働者しか雇わないっていうのよ。さらに使う水だって工業用水じゃなくって地下水かタンクに溜めた雨水を使っているというのよ。もっと徹底しているのは仕入れしてくる野菜や果物で、どれも家畜の餌に使うとか肥料にすると言ってタダで貰って来るっていうのよ。まあ腐りかけたものはそれで分かったけど、巨大な野菜は理由が分からなくってそれとなく聞いてみたのよ。そしたらね、大変なことが分かっちゃったの。何と仕入先は有名な殺虫剤メーカーの研究所というのよ。それで、食べると昆虫みたいに死ぬのかってみんなで盛り上がったんだけど、ベテランのパートの人から、うちの得意先のメーカーの商品を買わなければそれで済むことよ、おまけにこういうことは儲かっている会社ならどこでもやっていることよ、の二言で一件落着よ。あたしも伸ばすところは違うわねと納得したけど、やっぱりどうしても悪いことをやっているような気がしてしっくりいかなかったから聞いてみたのよ。そしたら古株の人が言うには、自分は確かに社長一族がせこくやっているのは知っているけど、年も年だし辞めたら次の仕事がないのが分かっているから黙っているんだと言ってたわ。そう言われちゃあ、あたしも立つ瀬がなくって、何も言えずに引き下がったんだけどさ。

 でもさ、分からなければ何をしても良いのかと後から思っていたたまれなくなってね、一層のこと得意先にばらしてやろうかと考えたけど、ばらしてみんなに迷惑が掛かっても困るからできなくってさ。そうこうする内に、あたしの仕事ぶりが気に入ったのか責任を持たせようとしてきたから嫌になって、結局、あたしだけ契約を三日残して辞めたって訳よ」


 そこまで話してイクは、したり顔でようやく言葉を切ると、


「あたしの体験談はまだまだ旨く行った方なのよ。実際はこんなものじゃないわ。仕事を探すだけでも大変なんだけど、面接まで行くのはもっと大変なんだから」


 そう言って、くりくりした目をジスに向けた。だがジスの視線はあらぬ方向を向いていたことに、


「ねえ、聞いてんの!」 


 イクはムスッとすると、ジスの顔をのぞき込んだ。次の瞬間、虚ろな目でジスが大きな溜息をつくと、邪魔臭そうに口を開いた。


「ああ、聞いてるさ」


「ああ、そう」


 イクは小さく頷くと、「どこまで話したっけ? あっ、そうそう……」と、再び続きを話し始めた。


「あのね、どんな会社でも採用は直ぐにしてくれなくって、どこでも先ず履歴書か職歴を書いて提出してくれっていわれるのよ。うちぐらいの小さな会社であってもよ。 つまり、みんなの書類を見比べて良いのだけ面接して、そこからさらに採用する人を絞るって訳。たぶん、あんたは初めの段階でほとんどアウトね。例えまぐれで面接に辿り着けたってよ、どの地区に住んでいるのかとか、持ち家に住んでいるのかとか、家族のこととか、借金があるかどうかとか、言い難いことばかり聞いてくる場合もあるのよ。それに普通に答えると絶対どこも雇ってくれないわ、例え嘘を付いて誤魔化したって向こうは直ぐにつっ込みを入れて来て、簡単にばれちゃうしね」


「ああ。それぐらい俺だって分かってるさ」


「じゃあ、どうして辞めるって言うのよ。あたしは、うちでいた方が一番良いと思うけどなぁ」


 するとジスが、真剣な表情で吐き捨てた。


「俺はまとまった金が必要なんだ。ここでいたってどうにもならないだろうがよう!」


 決意の表れなのか、ジスの口元がきりっと引き締まっていた。イクは訊いた。


「でもさ、直ぐに行く当てがあるの?」


「それは……」


「無いんでしょ! あたしならじっくりと良いところを探すけどな」


「馬~鹿。待っていられないのさ。金が至急に入り用なんだ。それに、行くところならもうとっくに考えてある!」


「え?」イクの顔から余裕が消えた。「どこへ行くつもりよ、つもりなのよ?」


「どこへも行かないさ。フリーで動くんだ」


「何それ?」


「まだ分からないのか。用心棒さ、ストリートギャング団の。あいつ等だったら、まとまった金を出して俺を雇ってくれると考えたのさ」


「はあ!?」イクは思わず絶句した。


「それで、一度売り込みに行ってみようかと思っているんだ。あいつ等の目の前で俺の実力を見せつけてやればきっと雇うんじゃないかと思ってな。

 だが、うちの地区を含めてその周辺に勢力を持っているグループと言えば、ガンシエンは喋ってる言葉が分からない上に、第一肌の色が違うから諦めてと、レコンキスタとカイシャは盗品の売買と大麻の製造販売が資金源で金回りが良いんだが、団員の家族が仕事を手伝わされたり、中毒になると聞いているからな。レイジーカルテルは違った意味で人種差別が酷いって聞くし……。残りはシエロ・ジャンクションとオーデンスとスパイダー・ネットワークなんだが、ネットワークに入るにはタトゥーを入れないといけない上に、あそこは強盗団か窃盗団の印象が強いからな。今のところ、シエロかオーデンスにしようかと考えているんだ」


「あの二つのグループだったら、このあたしもちょっとぐらいなら知ってるわ。二つとも表向きはフリーマーケットでペットや古着や雑貨を販売したり、露店で食べ物を売っていたり、自転車やバイクで荷物を配達する運送業をしていたりと、まともなことをしているようだけど、裏では恐喝、車上荒し、車の窃盗、空き巣、押し売り、ペットの誘拐と、お金になることなら何でもする危なっかしいグループなんでしょ! それにどっちもバックに本物のマフィアが付いているって噂があるところじゃない」


「ああ。だが旨いことに、あの二つのグループは新興勢力で、他のグループと縄張り争いが絶えないと聞いているんだ」


「あんた、なに寝ぼけたことを言ってんのよ。気がおかしくなったんじゃないの。あいつ等は集団でしか行動出来ないろくでなしの集まりじゃない。それに、どっちに味方したって、あんたは悪党の片棒を担ぐことになるのよ。それでも良いの」


「ああ。だからってどうしろっていうんだ。俺にはどう考えても、もうこれしかないんだ」


 沈んだ顔でジスは吐き捨てた。


「あんた馬鹿よ、あんなクズ共の用心棒をしてやるなんて。考え直しなさいよ。まだ良い考えがある筈よ」


 イクは反論するように言った。ジスはため息をつくと、いたたまれないという風に目を伏せた。


「でもよう……」


「それならあの女の人の話に乗って契約したら? その方がマシかもね」


 落ち込んでいるように見えたジスにイクが不意に切り出した。ジスは何も応えずに、うつむいたまま黙りこんだ。イクは、ほんと意気地がないんだからと、「あんた、怖いの?」とけしかけた。


 するとジスは、少し間を措いて、首を軽く振ると、言い訳するように応えた。

 

「そういう訳じゃないが……」


「じゃあ何よ、ほんと頼りないわね」イクはつんとすると言った。


「何ならあたしが付合って上げても良いわよ。ついでにレソーも仲間に入れちゃえばどう? みんなで参加すれば怖くないって言うでしょ」


「……」


「どう、面白い案でしょ?」


 ジスとイクの二人が、お互いに知ったかぶりをして始まった話題が変な方向に盛り上ったときだった。出し抜けに運転席側から、低い調子で怒声が響いた。


「イク、馬鹿な話は止めるんだ。ジスもジスだ。お前もあんな不良達の仲間に入ろうなんて、もってのほかだ」


 狭い車内故に自然と耳に入って来る二人の会話が気になり、とうとういたたまれなくなったダイスが、こんなときに全く迷惑な話だと、切り出したもので。さらに機嫌が悪そうなぶつぶつ口調が響いた。


「二人とも、何を考えているんだ。しょうもないことを言いやがって。もっとマシな話をしろよな」


「でも父さん!」父親のその言葉にカチンときたのか、イクがすぐさま反論してきた。


「あの女の人は良い人かも知れないってセキカが言ってるの。それとも父さんだったらジスを助けてやることができるっていうの?」


 思わずダイスは言葉に詰まり、口をあんぐりさせた。


「それは、それはなあ……」


「ほらっ、やっぱり無理なんでしょ」


「だがな、いきなりお金をチラつかせてくる者なんて、ろくなもんじゃないのは確かなんだ。分かるな、イク」


「それならジスはどうなるのよ。このままじゃあ、借金苦でジスどころかジスの家族までが大不幸になるのは見え見えなのよ」


「イクよ、もう少し落ち着いて考えるんだ。ここでは何だから、うちに帰って話し合おう。そうすれば、良い解決案がきっと浮かぶ筈だ。そんなに急ぐ必要なんかない」


「そんなの、勝手な理屈でしょ。それじゃあ、どうすればジスを何とかしてやれるのよ。ねえ父さん、今応えてよ」


「それはだな……」


 口を尖らせ、むすっとして言い放った娘に、ダイスは困ったなと再び口ごもった。

 そういったって、俺だって辛いんだ。こっちも火の車なんだ。

 もうじき中小企業融資公社から借りた短期融資の借入金、三万ドルの一括返済が迫っている。早くあれをどうにかしないといけないんだ。

 頭の中では、やり場のない憤りがこみ上げていた。どうすれば良い。どうすれば丸く収めることができる。

 イクの成功談をヒントにして、一層のこと、四人で強盗団を結成するという笑えない冗談を抜きにすると、一番手っ取り早い方法は、一度会社を整理してしまって、借金を全部チャラにして、もう一度別の地で初めからやり直すことだった。それで自分達はどうにかなるのであったが、ジスやレソーの場合はそうはいかなかった。二人とも解雇することになるからだった。

 ジスが辞めたいというのなら、会社を解散する口実が、確かにできる。だが問題は、ジスを助けてやれないことだ。

 普段からジスは自身のプライベートな話をほとんどしてこなかったので、彼の家族のことはほとんど知らなかった。だが、ジス個人とは家族同然というぐらいの付き合いで、情が移っていた。心情的に見捨てることはできなかった。


 少しの間、「う~ん、そうだな」とダイスは考える振りをすると、


「セキカ、お前ならどう思う?」とネコ似の生き物に声を掛けていた。


 はっきりとした返事が出せずに、とうとう根負けした形で、最後の手段として、こいつなら良い案をきっと出してくれるだろうと思ってのことだった。

 すると、それまでジスとイクの二人の狭間に鎮座したまま、目を閉じ身動き一つしなかった生き物が、緑の眼をパッと見開くと、良く通る声で口を開いた。


「この場合、ダイスが言ったことは至極当然のことで、私が口を挟むようなことではないのだが、私個人として言わせて貰うとすれば、今回ばかりはイクの意見も捨てたものではない」


 生き物のその回答に、それまで途方に暮れていたジスの表情がいっぺんに明るくなり。その隣では、つい勢いで言ってしまった感があったアイデアが思いがけずに認められたことに、イクはぽかんとした表情を浮かべていた。一方、別の対応を生き物に期待していたダイスに至っては、思わぬところに話が及んだことに、なぜそうなるんだと、首を傾げていた。

 そのような中、淡々と生き物の声が車内に響いた。

 

「そう言えるのは、あの人間の女の足元に、私よりちょうど一回り小さな動物がいたことに拠っている。私個人のことで済まないが、あ奴はトリガと言って、私の古くからの知り合いなのだ。

 そのときあ奴と久しぶりに会話を交わしたのだが、その中であ奴が話したのには、あの人間は信じるに足る者ということだった」


「ふ~ん。な~んだ、セキカの知り合いだったの」


 生き物の話が終わるや否や、イクの賑やかな言葉が続き、次いでダイスの声が飛んだ。


「すると、契約しても大丈夫なんだな」


「ああ」


 次の瞬間、生き物を挟んでジスとイクが顔を見合わせると、お互いに「よかったわね、ジス」「ああ」と言い合って微笑んだ。

 一方ダイスはというと、


「信じて良いんだな、セキカ」


 ほっとした表情でそう念を押すと、さっそく頭の中で計算をした。

 俺を含めて三人で契約すれば合計三万ドルが手に入る。それをジスに用立てれば、どうにか助けてやることができる。そして俺は、緊急を要するところだけの融資をして貰えれば、当分会社をたたまずに済む。


「よし、分かった。向こうの申し入れを受けるとするか。それで良いんだろう?」


 その言葉がダイスの口から飛び出すや、イクとジスのうれしそうな声が車内に響いた。


「ほんと!父さん」「ダイスさん、すみません」


「ああ」


 そのとき前方の景色を見つめたまま考えごとをしていたダイスは、無表情で適当に応えた。

 見れば、澄んだ青空の下、相変わらず車の往来が、片側三車線の幹線道路でひっきりなしに続いていた。

 普段ならこの道路は時速六十マイル前後で走ることができるのだったが、今日は時間帯もあるのか混んでいたため、スピードメーターの数値はそれより十マイル遅い時速五十マイルをずっと示していた。

 五分ほど走って、ドライブインの標識が見えたのに気付いて、ダイスは車に付いたデジタルの時計で時刻を確認した。午前十一時を二十分ばかり過ぎていた。

 少し早いが、あそこに立ち寄るか。そう思い至ると、手元に残ったおおよその全財産を頭の中で数えた。この分だと余裕で何とかなりそうだな。

 そんなことをメガネの奥から目を細めて呟いていた頃、後部座席のジスとイクの二人は、またもやたわいもない話題で盛り上がっていた。

 事の起こりは、例の女性の要請を受けることにダイスが同意したとき、ジスがイクへ発した一言から始まっていた。それはこういう風なことだった。


「すまなかったな、イク」


「どういたしましてと言いたいけれど、結局セキカの一言で決まったわけなんだから本当の功労者はあたしじゃないわ」


「だがお前が話題にしてくれなかったら何も始まらなかったのだからな」


「ああ、そのこと。あれくらいは当然の事よ。あたしはあんたに、あんなろくでなしのギャング団に入って欲しくなかったからよ。だから、ああ言ったまでなのよ」


「本当か、それはありがとうよ。俺も本当は嫌だったんだ。これであんなやつ等にペコペコせずに済むよ」


「でもどうしてあんな奴等が周りに多いのかしら。うちの辺りはほとんど見掛けることはないんだけど、二ブロックぐらい行ったところからちょくちょく見掛けるわ。あの生意気な態度で五、六人が横に広がって歩いて行くのを見ていると、いっぺんごつんといわせてやりたくなるんだけど、何分とそこら辺のチンピラと違って、いつも表通りを歩いているからそういうわけにもいかなくってね。…… 警察はなぜあんな奴等を放っておくのかしらねえ?」


「あれは放っておいてるんじゃない。あいつ等の方が、何と言ったら良いか、悪知恵が回るのさ。あいつ等は警察無線を盗聴して旨く立ち回っているんだ。あと警官だって家族があるからさ。たぶん、あいつ等の嫌がらせが怖くて中々手が出せないんだろうな。

 景気が悪けりゃ何でも商売になるもんだなと感心するけど、噂じゃあ、警察が普段から無線で使う隠語を分かりやすく書いた雑誌や警官の一人一人を探偵のように尾行して住所や家族を調べ上げた名簿を売る闇の業者があるって話で、そこから警察の情報を手に入れてるらしいんだ」


「良く知ってるわね」


「ああ。俺だってあいつ等にはみくびられたくなかったんでね。これ位の下調べはしてあったのさ」


「ふ~ん。警察ってほんと頼りないわね。もっと信じて良いかと思ったのにね」


「馬~鹿。あそこは信じるところじゃない。気をつけるところさ! あいつ等はきちんとした格好をしていなかったら直ぐに犯罪者という目で見てきやがるんだ。おまけに自分達に逆らう奴は許せないらしい」


「……」


「あれは一年ぐらい前のことだ。ええと、夏頃だったかな。広い通りの歩道側を、考え事をしながら下を向いて歩いていたんだ。その時、急に横道から白いスポーツカーが急ハンドルを切りながらやって来て俺とぶつかったんだ。あのときは俺も考え事をしていたため気付くのが遅れたんだが、向こうからやって来た車だって相当なスピードを出していた筈なんだ。

 だがぶつかった瞬間、俺が見事に宙を飛んで数ヤード先の道路に転がっていて、作業服が破れた程度で怪我一つしなかったんだが、そのとき散歩がてらにそれを見ていた、おそらく年金生活者じゃないかなぁ、品の良いおせっかいなおばさんがいて、警察に通報したんだ。

 普段ならそんなとき、危ないじゃないか、気を付けろと言ってそのまま立ち去るんだが、そのときは人だかりがいつの間にかできていて、そうもいかなくなっていて。

 やがてそこへ五分もしない内に、サイレンを鳴らしながら大型バンの車両で乗り付けて来た若い男と中年の二人連れだったか、交通課の警官が曲者で。そいつ等といったら、たまたま汚い作業服を着ていた俺を上から下までじろじろ見やがって、向こうの良い分だけ聞くと、俺が怪我一つしていなかったことに疑問を持ちやがって、おかしい、お前はわざとぶつかったんだろう、終いにはプロの当たり屋なんだろうと決め付けて、その場で一時間、俺とみっちり押し問答だ。

 車を運転していた奴は、近くのカジノで勤務しているという高級スーツでびしっと決めた若い銀縁メガネの男で、突然飛び出して来たのでそれを避けようと急ハンドルを切ったらそうなった、一方的に俺がわざと当たりに来たからぶつかったんだと、そいつ等に嘘の言い訳をして、その後何もなくて無事解放さ。

 それに比べて俺の方は、ぶつかった時、近くには目撃者も数人いたらしいんだが、みんなその辺にたむろする浮浪者みたいな人達で、そいつ等はその人達も俺とグルと見て、その人達の証言を全く信じず、俺を犯罪者扱いさ。俺は勝手にぶつかって来た車を避けただけなのにだぜ。

 ぶつかって来たその男は、余程車が大事だったのか嫌味ったらしく俺がぶつかった辺りに傷がないかじっくり触ったりしてから、まるで俺が悪いと言うような目で見やがってよう、誤りもせずにさっさと行ってしまったんだぜ。そのとき初めて、それまで警察を信用していた俺はつくづく馬鹿だと思い知らされたよ。

 その後、そこではらちが開かないということで俺は警察に連れて行かれて尋問されたんだ

 警察では、年は、学生か働いているのかそれとも無職なのか、住んでいるところは、親はいるのか、親の仕事は、という具合に根ほり葉ほりしつこく訊いて来て、俺がちょっとでも黙っていると、早く本当のことを言わなければお前の人生どころかお前の家族を無茶苦茶にしてやろうかと言われたな。あの時ほど、警察を憎んだことはなかったぜ。

 結局、見ていた浮浪者の方も罪を認めなかったようで、証拠不十分ということになって釈放されたんだが、釈放された文句が今でも腹が立つんだ。もうやるな、今度やったら絶対に捕まえてやるからなって言ったんだぞ。あれ以来警察なんか信じないことにしたよ」


「ふ~ん」


 その手の話が好きだという風に、イクが目を輝かせた。


「こんなのはまだ序の口さ。まだまだあるぞ。ついこの前、仕事の帰りのことだ。自転車に乗って通りを走っていたら警官に呼び止められて、即職質だ。それが俺の乗っていた自転車がぼろっち過ぎたのか、それとも俺が汚い格好をしていたのか知らないが、うちに着くまでに合計十回もやられたんだ。

 後で分かったことなんだが、近くでコンビニ強盗があって、駆け付けた警官がミスしたらしくって犯人を取り逃がしたらしいんだ。それで警官が大勢で応援に駆け付けていたらしいんだ。だがあのときの警官の態度ときたら相当腹が立つものだったぜ。俺をさげすむ目でみて、人を人とも思わない態度で声を掛けて来ては諸に犯罪者扱いさ。そうだな……にらみながら俺の自転車は盗んだものだろうと難癖をつけてきたり、突然そのまま動くなと言ってドラッグや危ないものを持っているか身体検査してきたり、視線を合わせただけで生意気だというように特殊警棒で頭や背中を軽く殴ってきたり、偶然を装ってわざと足をかけて来て倒されたりもしたな。あのときは、こいつ等には本当に人間の血が通っているかと思ったぜ。

 それによ、俺が犯人じゃないと分かったって、あの態度のでかさといったら謝るどころか手間を掛けさせやがってと逆に捨て台詞を吐いて行った奴もいたのだからな。あれは、自分を何様と思っているのか知らないが、いかにも身分が違うと云った風な態度だったな。

 最後あたりになると、無線で連絡を取りながら俺の後を付けて来て、俺んちを確認して戻って行ったんだぞ。あのときは、そこまでしなくてもいいじゃないかと思ったよ。

 あれ以来、俺は警察は大嫌いさ!」


「ふ~ん。あたしも職質には良く遭うわ。ちょっとぶらぶらしてたら直ぐに声を掛けられるのよ。でもさ、あたしだって好きでぶらぶらしてる訳じゃないのよ。父さんに頼らず、いっぱしの職についてやろうと就活をしているときに限って運が悪いのか、いつだって警官が寄ってきて職質するのよ。そんなときはきまって会社の面接に落ちたときで、格好悪くて言えないからあたしが黙っていると、あいつ等ときたら、いつもあたしを取り囲み、あたしが全然悪くないのに無愛想な顔で、ここで何をしてるんだとか、誰を待っているんだとか、どこから来たんだとか、年はいくつだとか、どこに住んでいるんだとか、本当の国はどこなんだとかをうるさく聞いて来てね。あたしが正直に言っても全然信じてくれなくって、その辺でぶらぶらしている不良か家出人のように見るのよ。中にはストリートガールに間違われたこともあったわ。

 そんなときは全然らちが空かないんで、決ってあいつ等の目を盗んで逃げることにしてるんだけどね。…… ほんと、良い気なものよ。

 あいつ等は公務員として身分が保障されている上に、給料も一日中ぶらぶらしていたって決った時期にきっちり政府から貰えるから良いけれど、こっちは明日のことも分からない上にまともな仕事に就けないからまともにお金も入ってこないっていうのにねえ…… ぺちぺちと生きているあたし等の身になんなさいよと言いたいわよ」


 口を尖らせて、そう不満を漏らしたイクに、ジスがニヤッと笑う。


「何なら、あいつ等を見返してやるっていうのはどうだ?」


「え、どうするの?」 イクはきょとんとすると、訊き返した。「まさか、警察章や銃を盗んで困らせてやるとか?」


「お前は馬鹿か?」すぐさまジスが呆れたように声を荒げた。「そんな泥棒染みた真似をしたってしょうがないだろうが」


「じゃあ、やっぱり殺すの?」


「馬~鹿。何でそこまでする必要があるんだ」


「それじゃあどうするのよ?」


「ああ、ちょっと懲らしめてやれば良いのさ。例えば、ちかんとかドラッグ所持とか駐車違反だとかをでっち上げて罪を被せてやるんだ」


「へえ~、そんなことをやるの?」


「ああそうさ。無実な人にいつもやっていることを自分達もされたらどう思うか、我が身になって考えろっていうことさ。あいつ等は人の弱みに付け込んで威張り散らすのが仕事と勘違いしてるんだ。それを思い知らせてやるのさ」


「ふ~ん」


「どうだ、おもしろいだろう。昨日まで弱い者虐めをして好い気になっていた者が、次の日に犯罪者になって同僚から虐めを受けるんだ」


「ふ~ん」


「ともかく俺は、間違っていたって謝らない警官の面子をつぶしてやりたいのさ」


 そんな風に二人が夢中になっていると、車が急に速度を緩め、右折した。

 すぐさま前方に、大小の車両が整然と並んで止まった広い駐車場とドライブインの建物が見えていた。

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