第50話

 その日、ダイス達一行が帰途についたときには、既に夕方の六時を回っていた。

 途中、二件のスーパーマーケットに立ち寄って買い物をした影響で、いつの間にか時間が過ぎ、気が付くとそうなっていた。


 レソーはドライブインに立ち寄ったときにようやく目を覚ました。十二分に寝ただけあって、その表情はすっかり晴れやかとなっていた。

 昼を食べながら、レソー当人に意向を訊くと、「みんながそれでいいというのなら、僕はそれで構わない」と返事が返って来た。その時点で全員の考えが一致した。

 およそ一時間、ドライブインでのんびりと休憩してそこを出発。帰りの車中は、レソーが雑談に加わったこともあり、さらに和やかな雰囲気となっていた。


 もはやその頃には、ダイスの頭から迷いとか不安とかいった感情はすっかり消え去り、つまるところ、今運転するこの車と同じで、いずれ最後は行き着くところへ辿りつくだけだ。そういった開き直りの気持ちになっていた。そうして意図した通り、着くべくして自宅へ戻っていた。

 やがて、いつものように自宅前に車を止め、玄関の鍵を開けて中に入ると、内部はしんと静まり返っていた。誰も訪れた形跡はなく、変わっているところは何もなかった。

 だがダイスは、世の中は物騒だからと一応念を入れることにして、全ての部屋に一旦明かりをつけると、いつも仕事先へ行くまでの待機場所として使っている部屋に、三人と共に直行。そこに置かれたソファセットに腰を下ろすや、空気を読んだイクが気を利かしてキッチンから運んで来たコーラを飲みながら十分ほど一息入れた。

 それからいよいよ段取りに取り掛かり、二十分ほどで全員で書類にサインをして手続きを終えると、早ければ早いほど良いだろうということになって、その日のうちに指定された住所の私書箱に書類の入る封書を手はず通りに送ったのだった。


 すると、それが功を奏したのか、早くも翌日の夕方頃に小さな小包がバイク便で届いた。中を開けると、一通の手紙と一台の携帯が入っていた。

 携帯は電気通信事業者が不明の特殊なもので、指紋認証式になっており、限られた相手方のみにかかる限定方式が採用されていた。

 ちなみに手紙には、簡単なお礼の言葉と携帯の使い方が記されており。その使い方<携帯を使用する場合は電源を入れ通話ボタンを押して下さい。自動的に私のところへつながります>に従い、その通りにすると、自動的に通話モードに代わり、若い女性が素っ気ない口調で出た。


「はい、どなた?」


「はい、先日書類を送った者です」


 さっそくダイスは電話口に出た女性に簡単なあいさつをすると、内輪の話もほどほどに一番の重要事項であった金銭に関する話を、ワラにもすがりたい心境で切り出した。

 それが済むと、一息つく間もなく、今度は女性が付帯条件を提示して来た。ダイスは全てをのむ形で受け入れていた。そのとき、お互いに異議を唱えなかったせいもあり、話し合いはスムーズに進み、ほんの十五分くらいで終了していた。


 それから二週間後――――。

 ジスとレソーとイクの三人は、期待に胸をときめかせて、とある地方空港のターミナル内にいた。これがダイスの言う経営の多角化というものかと思っていた。

 ちょうど三日前に女性から連絡が入り、飛行機を利用してここまで来て待つように言われてそこにいたのだった。

 これらは、ダイスが打ち合わせをした中で、時間が出来たら彼等と直接会ってみたいとの女性の要望によっていた。一方ダイスはというと、これまた女性からの要望で、そのとき別の場所へ出張していた。

 広いターミナル内は、地方空港ということもあり、人の姿はまばらだった。平日の午前中であったこともそれに輪をかけていた。そのような中、三人は打ち合わせ通りに髪の毛の一部をヘアカラースプレーで緑に染めて、指定された窓口のフライト時刻表の前で立って待っていた。また、滞在期間は二週間ぐらいという話で、それに準じた手荷物を持っていた。


 すると、約束の時間より三十分も早い時間帯に、濃グリーンのサングラスを掛けた、スレンダーな美人が近寄って来ると、丁寧な物越しで、「おはよう皆さん、来てくれてありがとう」と声を掛けてきた。

 次の瞬間、髪はブロンドのショートヘアー。色白の顔は少し化粧が濃い目。服装は白いシャツにジーンズ、黒のパンプスと、見るからに若い姿格好から、年齢は二十代中頃と考えられた見知らぬ女性を、全員が一体誰だろうと訝った。すると当の女性は、三人の心を読んだかのようにニコッと微笑んで、優しく言い添えた。


「この姿じゃあ、たぶん分からないでしょうね。それは無理もないわ」


「……」


 女性に全く見覚えがなかった三人は、ぎこちなく愛想笑いを浮かべた。すると女性は、ウエーブがかかるブロンドの髪に軽く手を触れると、こんせつていねいに説明して来た。


「ねえ、あなた達。覚えているかしら、真っ赤な髪をして派手な衣装をまとった女性を。それが私。つまり、あなた達の目の前にいるのがそれよ。

 実は、あのときの真っ赤な髪はかつらだったの。おしゃれをして付けていたのだけど、地毛はこの通りブロンドなのよ」


 三人はなるほどと頷くと、爽やかな笑顔で応えた。

 それから間もなくして、女性が運転して来たシルバーホワイトのセダンが空港の駐車場を後にしていた。もちろん、その後部座席に三人を乗せて。

 

 その後、車は直ぐに市街地を抜けると、遠くに深い森が見える山手の方角を目指して進路を取っていた。 

 空は見事に済み渡り、少し汗ばむくらいのぽかぽか陽気だった。女性が話してくれたのには、新しく買った自宅を目指しているとのことだった。

 道すがらの周辺は、ほとんど起伏のないなだらかな平地が続き、豊かな自然が一面に広がっていた。また、これと言って目立つような人工構造物も見えなかった。

 やがて十分ほど過ぎると、地方都市らしく家並みが完全に途絶え、人を全く見かけなくなり。また対抗車とすれ違うこともなくなり。そしていつしか信号機のない一本道を走っていた。それと共に、道路もいつの間にかセンターラインが消えていた。

 しかし舗装はきっちりされており、道路沿いにはガードレールもしっかり設置されていた。

 そのまましばらく行くと、女性が運転するセダンは、色鮮やかな緑が進路を妨げるように迫る、いかにも田舎道といった道路を進んでいた。

 そのような人里離れた場所に自宅があるとすれば、第二の自宅、即ち別荘があるのだろうと考えられた。それを裏付けるように、行く手の方向に、暗くて険しそうな森や、細い木々が密生した林や、川まで流れている光景が漠然と見えていた。

  もうその頃には、空港で待っていたときのちょっとした旅行気分は三人から完全に吹き飛び、どの顔も沈んだようになっていた。

 その理由として、山奥に向かっている車に、一体どこへ連れていかれるのだろうという不安感もその一つだったが、最も大きな理由は女性がぽろりと漏らした一言だった。

 その発端は、車が走り出して間もなく、不意に女性が、後部座席の三人に向かって話し掛けてきたことによっていた。

 そのとき彼女は、自分のことはまだ詳しく話していないからとして、「名は、パトリシア・メルキース。年令は、見た目相応と言いたいが結構いい年をしている。家族はいない、独身。職業は、債権回収の仕事と、医学知識と医療技術を生かした専門的な仕事を主にしている」と、自らの自己紹介を始めた。

 そして最後に言い放った「他に何か訊きたいことがあれば訊いて。応えることができるものなら何でも応えるわ」にイクが思わず反応。女性に、


「あのうお姉さん、では一つ訊いても良いですか」と尋ねたことが引き金となっていた。


 空港で待つ間の雑談で、三人でどんなに話し合っても分からなかったことを、人見知りするたちの男二人に気を利かせて訊こうとしたのだった。すると、


「はい何か?」直ぐに返事が運転席から返って来た。イクはためらいがちな口振りで尋ねた。


「あのうですね、私達はどんな仕事をするのですか?」


 イクを初めジスもレソーも仕事内容をはっきりと理解していなかった。

 ダイスが電話口で話していたのを盗み聞きしたところでは、普段隠している力を、世の為人の為に用立てるのが仕事ということだった。これだけでは、三人には何のことやらさっぱり分からなかった。

 その疑問に対して、片手ハンドルで運転しながら女性は、「ああ、そのこと」と素っ気なく応じた。


「私は仕事柄敵が多いみたいで、いつも命を狙われているの。それでなのだけど、あなた達に私の身辺を護る役目を担って貰いたいの。それがまず手始めのお仕事よ」


「ああ、そうですか」


 神妙な口振りでそう返事をしたイクはぎこちない笑みを浮かべると、つぶらな瞳で隣の二人の顔を見た。これで良いかと確認を取るためだった。すると二人は、困ったという渋い表情を浮かべた。

 女性の物言いから、仕事はどうやら彼女のボディガードらしかった。しかも命を狙って来る相手というのが、ストリートギャングの比ではないのはどうみても明らかで。おそらく三人がまだ見たことの無いマフィアの連中か、レソーが戦ったような物騒な人間を指しているように思われ。自分達にそのような任務が、果たして務まるのかと疑心暗鬼に陥ったのだった。

 従って、もうここまで来たからにはどうでもなれ、と覚悟を決めざるを得なくなっていた三人は、やがて揃って申し合わせたかのようにうつむき、取ってつけたように眠っている振りをして、自然とだんまりを決め込んでいた。


 その後しばらくの間、誰一人として鼻を鳴らすことも笑うことも溜息をつくこともしなかった。車中は静寂に包まれていた。

 そのような中、落胆したように弱々しかったイクの返事が気になったのか、不意に女性が気を遣うように、大人しい三人に優しく声を掛けてきた。


「何も煮て食おうと言うんじゃなくてよ。だから安心して、リラックスしてちょうだい」


「はあ」ため息のようなか細い声で三人は応えた。女性の気配りに、誰もがそう言われてもという思いだった。


 どんどん進んで行くと、先刻まで一本道だった道路の道幅が広くなると共に再びセンターラインが現れ、片側二車線の通常道へと変わっていた。そのことは、その先には何かあることをうかがわせていた。

 そうして、それまで平たんだった道路がゆったりとカーブを描いて緩やかな登り坂となったとき、女性が屈託のない口調で言ってきた。


「もう直ぐよ。きっと驚くわ」


 女性のその言葉にうながされるように、顔を上げて車の窓からぼんやりと外を眺めた三人の視線に、意味不明の高い壁が飛び込んで来た。壁は道路の進路をふさぐようにそびえ立っていた。

 すると車は、その壁のちょうど隙間を通り抜けるようにして壁の内部に入っていった。

 次の瞬間、緑一色だったそれまでの視界が突然開けると、別荘地とは似ても似つかぬ光景がそこにあった。これは何と三人は目をぱちくりさせた。声にならないため息が三人から漏れた。

 前方に、白黒の写真を見ているかのような、くすんだ色をした建物群が連なるようにして、整然と建ち並ぶ光景が見えていた。

 だが、まだそれだけでは何であるかははっきりと分からなかった。けれども徐々に近付いて行くと、空からあふれた光に照らされて、街並みが廃墟と化して広がっているのが見えていた。


「うふふふ」 思わず息を呑んだ三人に、運転席から女性が薄く笑うと言ってきた。


「見ての通りのゴーストタウンよ。そう、七年くらい前からあそこには誰も住んでいないわ。あの場所の付近に優良物件が見つかって、一週間前に引っ越して来たの。私のおうちはあそこの近くにあるの」


 そう言って言葉を切ると、ふと思い出したように再び口を開いた。


「……少しドライブしましょうか」


 そう提案してきた女性に、三人は黙ってその申し入れを受け入れた。

 その間にも四人が乗るセダンは緩やかな坂を下ると、その方向を目指す。

 そうして、ものの二分もしない内に、街の中心部らしきところを、車は徐行しながら進んでいた。


 広い通りの両側には、四、五階建ての低層コンドミニアム風の建物がひっそりと連なって建っていた。それが一マイルぐらいに渡って延々と続いていた。

 三人が暮らしている地区も人が住んでいない空き家が多いところだったが、これだけ大規模な空き家を見るのは、これが初めてのことで、三人にとって興味深いものとなっていた。

 居並ぶ建物は全てコンクリートがむき出しになった状態で、扉も窓もなく、その内部はいずれも真っ暗だった。しばしば目につくのは、名前も分からぬ雑草群と粗大ゴミのかたまりくらいなもので、辺りには人の気配は全くなく。生き物も見られなかった。もちろん生活臭も皆目しなかった。

 加えて道路も荒れ果てていた。アスファルトは隆起したり、ひび割れたり、舗装があちこちで一部剥がれて下の地面がのぞいていた。岩石やコンクリートブロックの破片が路上の所々に転がっていた。その一部は焼けたのか黒焦げになっていた。

 また、点々と見えた信号機は、いずれも壊れているのか機能していなかった。

 他にも、至る所にぺしゃんこになっていたり、打ち捨てられていたり、焼けて骨組みだけとなった車の残骸があった。道路に隣接するように生えていたと思われる大小の木々が焼けて黒炭となっていた。

 それ以外にも、柱や橋の橋脚のような形をする巨大構築物が並んで立つ光景が、途中何度も見られた。どれも焼けた跡のように黒ずんでいた。

 そしてやはり、誰もいなかった。ひっそりと静まり返り、何ものも微動だにしないそこは、まるで時間が止まっているかのようで、どうみても廃墟となった街並みそのものだった。


 どう考えても自然にそうなったと思えない惨状に、談笑する気にもなれず、三人が押し黙ったまま静かにしていると、女性は片手でハンドルを切って、道路の通行を妨げるように置かれたコンクリート製の壁を避けて右へと曲がった。それから前方に見えた鉄柵や有刺鉄線でできたバリケードを次々と避けながら走った。

 そして、行く手の方角に一面焼野原になったようなところが見えたとき、急に思い出したように女性は訊いてきた。


「ここはどこか知っている?」


「いいえ」


「そう。階段の石組みが半分焦げたようになって残っているところがずっと続いているのが見えるでしょ。焼けてしまって今はあの通り何も残っていないみたいだけれど、少し前には、とてつもなく巨大で豪華な施設が建っていたそうよ。

 私も自宅を購入することになってから調べたので、それほど詳しくは言えないのだけれど、写真で見る限り、高さ千フィートの奇抜な宇宙船、若しくは人工衛星の姿を模したような建物だったみたいね。

 その施設はね、実はええと、レリゴアズエルアナウイズミラーイールエグザミエル何とかと言ったかしら。とにかく呪文のような非常に長ったらしい名前を持った、誰も知らないような神様を崇める新興宗教の団体が教団本部にしていたところだったらしいの。

 つまりこの辺りは、宗教団体が支配していたところで、住んでいたのは信者と信者の家族だったらしいのよ。しかもよ、最盛期には人口が十二万もあったというから、その宗教団体の規模というか力が生半可でなかったみたいね。

 ところがどこでもあることなのだけど、何でも急激に勢力を伸ばすと、そこには何らかの問題があり得るというか、闇の部分が大きく働いている場合がほとんどと言って良いのだけど、その宗教団体も例外でなかったみたいで。

 とうとう警察の捜査が、違法な資金集めと法外なブラックなお金を闇洗浄していた疑いで、教団の本部に入ったの。だけど教団は、千人規模の私設の軍隊を豊富な資金で所有していて、警察に対して徹底抗戦に出たみたいなの。

 そうなると互いににらみ合いよ。二、三日間こう着状態が続いて、とうとう警察がしびれを切らして軍に介入を要請して、最後は共同して街を制圧しにかかってね。

 そのときのことを、あなた達も少しくらい耳にしたか目にしたことがあるのじゃないかしら。私はあいにくとそのときは、情報が一切届かない辺ぴな地で用事をしていて知らなかったのだけれど、国内のみならず海外のメディアにも連日大きく取り上げられて、テレビやネットで実況中継までされていたって話だし。

 まあ結局、軍が本腰を入れて介入したことで、大勢の死傷者を出しながらも事態は収拾に向かったらしいけれど、教祖とその親族、及び幹部連中が、何かやばい事情があったらしく、捕まりたくない一心から悪企みをして、街中に火をつけて回ったようなの。そのとき教団は軍隊並みの弾薬や爆薬、燃料を密かに所持していたらしく、火事と一緒に爆発も至る所で起って、それはもう物凄いことになって、大勢の人が巻き添えになって亡くなったという話よ。

 そんなことがあって、最終的に火を付けた首謀者連中はとうとう逮捕されず仕舞いで、ついには消息不明ということでケリがついたみたい。

 後はお決まりのように教団は解散・消滅。わずかに生き残った信者は散り散りになってどこかへ去っていったそうよ。

 ちなみに生き残った幹部の信者の証言によるとね、本部内の秘密の部屋で色々な生体実験や拷問、禁断の儀式が行われていたらしくって。その証言に基づいて警察が検証すると、この街のはずれにあったゴミ焼却炉の灰から数えきれないくらいの人骨片が出てきたそうよ。

 まだそれだけなら、亡くなった人を焼却炉で焼いただけだと言い逃れできるけど、信者が更に白状して、人間を試験台にして倫理に反することを行った証拠の資料が出て来たり、一度に数千万単位の人間を殺せる生物化学兵器のタンクが地下から見つかったのはどうにも良くなかったみたいで、それが火をつけた原因に大いに関係しているという結論で落ち着いたみたい」


 女性の話を三人は、窓の外をぼんやり眺めながら聞いていた。

 その間にセダンは焼野原となっていた地点を後にすると、元来た道筋ではない道路を走っていた。進行方向が逆であることや、速度をやや上げていたことなどから、どうやら引き返しているらしく。 

 果たして廃墟と化した街並みが途絶えると、うっそうと草木が生い茂り、森のようになった向こう側に三角屋根を持つ、二階建てから三階建てらしい別の家並みが数棟、パラパラと垣間見えてきた。どの家々も大きくて立派な外観から、いかにも豪邸といった感があった。

 女性が運転するセダンは、どうやらそこへ向かっているらしかった。

 やがて三分もしないうちに、セダンはそれまで走っていた道路を右折し、道幅五十フィートぐらいの道路に侵入。周囲に十フィート以上ありそうな高いフェンスと有刺鉄線を厳重に張り巡らせた広い敷地内に、中世の豪族の邸宅をうかがわせるゴージャスな造りをする建物が両側に悠然と建ち並ぶ周辺を進んでいた。状況からみて、その付近に女性の自宅があるのは明らかだった。

 そんなとき。


「なぜこのような建物が、何棟も燃えずに残っているのか不思議でしょ」


 唐突に女性が、にこにこしながら口を開いた。三人は消え入りそうな小さな声で、「はい」と遠慮がちに頷くと、女性は屈託のない笑顔でさらりと続けた。


「実はね、この辺りが全て無人となった後、これらの広い土地は債権者となった各種金融機関の持ち物に一時なっていたの。だけど、その当時は景気がすこぶる良くって、何であろうと作れば即売れる時代だったから、しばらくして、ある大手の投資グループが、事故物件ということで上手くやって全部の土地を手に入れて、初めの計画ではリサーチパーク(研究学園都市)か高級別荘地として、投資目的の個人や企業に売り出そうとしたらしいわ。そうして、まずモデルハウスとして目の前に見える豪華な建物が造られたというわけ。

 つまりね、種明かしすると、今見えている建物は全て新しく建てられた物件なのよ。

 ところがモデルハウスが完成したところで、折からの景気の後退によって投資グループの資金繰りが悪化したのか、計画が中途でとん挫したらしくって、正式に販売する予定にしていた建物は全く建設されずに終わったらしいの」


 そこまで話すと話題を変えて、どのようないきさつでこれから行こうとしている建物を収得したかについて説明をし始めた。だがそのような話は、三人にとってはどうでも良いことで。その間彼等は大人しくじっと耳を傾ける振りをしながら、ぼんやりと外の景色を眺めては、頭の中でそれぞれ妄想を膨らませていた。


 こりゃ、どれも豪邸だぜ。半端でない大きさだ。フェンスの長さから言っても、敷地は三エーカー以上ありそうだしな。しかも、豪邸だけあってセキュリティーも万全のようだ。何種類かの有刺鉄線で敷地周りを取り囲み、色んな所に監視カメラが付いている。

 建てられてから四、五年くらい経つんじゃないかと言っていたけれど、まだまだ新品のようにきれいだし。もし買うとしたら高いんだろうな。


 ここに建っているのはみんなモデルハウスということ? 道理で外観がみんな違うのね。

 フェンスが高くって外灯だけが見えるだけで、中の様子がさっぱり分からないわ。中はどうなっているのかしら。

 誰も会わないし、車も止まっていないし。無人かしら。

 こんなところに雇われたら、さすがに仕事がきつそう。


 窓という窓、入り口という入り口が防犯シャッターで締め切られている。出入り口の門もしっかりと施錠されている。この分じゃあ、人は住んでいなさそうだな。

 それにしてもみんなでかいな。この分じゃ、どの家も部屋数は十以上あるな。庭も広そうだし。こんなところには一生かかっても住めそうにないな。


 そんなとき、ある地点までやって来ると、セダンは急に速度を緩め、無人の歩道にウインカーを出したかと思うと、そこを直角に曲がって止まった。すると、


「さあ着いたわよ。ここがそうよ」


 女性の声が穏やかに響いた。三人が振り向くと、車の前方に、それまで見えていた三角屋根の建物でない、どちらかと言えば最前見たコンドミニアム風の建物に近い、箱型風の外観をした建物がフェンス越しに見えていた。その見た目は白っぽく、窓の位置関係から見て四階建てのようだった。


「どう、分かり易いでしょ。一軒だけ違うのよ」


 女性がそう話す間もなく、正面に見えた、防犯機器が両側に付いた門の扉が自動的に左右へ開くと、車はゆっくりと中に進んでいった。入ったちょうど真向かいには、おそらく工事資材と思われる色々な形をする大小のコンクリートブロック。多数の木材、鉄柱・鉄骨の束。山積みにされたコンパネ・レンガ・砂利などが雑然と放置されていた。車はそれらを避けるようにして、見る間に建物の前で停止した。


「ここがそうよ」


 女性の一言で、さっそく三人は外に出ようと横を振り向いた。その瞬間、三人は言葉が出なかった。その方向をぼんやりと眺めていた。

 確かに、建物が建つ敷地は、三人が想像していた通り、途方もなく広かった。だが、それにしても、である。見る限り、そこは一面荒れ放題と言っても過言でなかった。

 一応、周辺には洋芝が植え付けられていたようだった。が、手入れが長い期間されてこなかったと見えて、伸び放題となっていた。おまけに、大きく育った名も知らぬ草木が、至る所にうっそうとおい茂っていた。まさにジャングルといって良いほどの様相を呈していた。

 すると出し抜けに、


「長いこと放置されてあったせいで、手付かずでね」


 三人の後ろから、分かっているという風に、女性が声を掛けてきた。三人が振り返ると、サングラスを外した女性が、外の眩しい陽の光にブルーの瞳を瞬かせながら、


「それより、先に中を案内するから付いて来て。荷物は残しておいて構わないから。後で取りにくれば良いわ」


 とそつなく告げて踵を返した。そして、照り付ける日差しを背中に浴びながら、建物の一端に見えた玄関口の方向へ、さっそうと歩いていった。無論、三人に異論があるはずもなく。深く考えずに、その後へ従った。

 それから五分もしない内に、建物に施されていたあらゆる防犯設備が、女性のてきぱきした所作で解除されていった。

 そうして、改めて姿を現した建物は、世間でいうところの低層オフィスビルと何ら変わらない外観をしていた。

 それ故、人が住む住宅にしてはやや違和感があった。が、それ以外に特別変わった点は見られなかった。


 やがて女性は、全てのロックが外れたことを手に持った携帯の画面で確認すると、スチール製の頑丈なドアを開けて中へ入っていった。三人も女性に導かれるように続いた。

 四人が足を踏み入れた先は、個人の住宅にしては天井が高くて横幅の広い通路になっていた。足元には、どこかが改装中なのか、工事に使われる養生シートが敷かれてあった。

 そこを真っ直ぐに進むと、片側の壁にドアが一つ見えた。それを開けると、とても明るい空間が現れた。二階と三階部分をぶち抜いて天井を高くし、自然光をより取り入れる仕組みを導入した部屋だった。しかもその広さは尋常でなく、フットサルができるぐらいの広さがあった。

 どうやらそこが修理中もしくは改装中の場所だったのか、部屋の隅の方に束になった建材やラップされたロール紙やセメント袋が、白いシートで大部分が覆い隠されてはいたが、こんもりと山のように積んだ状態で放置されてあるのが見え。その傍らには接着剤や溶剤や塗料が入るペール缶が幾つも並べて置かれていた。

 そのとき女性は、簡単に部屋の周囲を見渡しただけで「たぶんホールかリビングとして使う目的で設計されたものでしょうね」と他人事のようにうそぶくと、三人に「先は長いから次行きましょう」と言って、せかせかした足取りで歩いて行った。三人は黙ってその後に続いた。

 それから間もなくして、先の広い部屋に隣接する二つの小部屋とパウダールームとレストルームを見回り、再び通路へ引き返して少し行くと、また片側にドアが見えて、それを開けると、今度は一転して真っ暗な空間が現れた。明かりをつけると、室内には、大きなプールと特大のジャグジーバスが、水が入っていない状態で放置されていた。他にも、サウナの一種なのだろうか、石組みの小部屋とレストルームがあった。

 もう一度通路に戻り、突き当たりまで進みそこを直角に曲がると、機械室とパウダールームとレストルームと、比較的広いダイニングルームと二室の小部屋が両側に並ぶようにあった。

 小部屋の一つは、中に段ボール箱が積まれていた。物置に使っているということだった。


 一階部分はそこまでで終わりで、次は二階ということになったとき、


「この建物にはエレベーターが三基標準装備されているんだけれど、今は調整中で使えないから階段で行きましょう」


 女性はそう告げると、同じく工事用の養生シートが敷かれた階段を上っていった。三人も言われるまま追随した。

 階段を上り二階へ着くと、同じ広さの部屋が全部で六室とダイニングルームとバスルームがあった

 そして三階は、中規模クラスのホールが一室と小型のものが二室とレストルームがあった。その中の一部屋に、大型の脚立が一脚、立て掛けて放置され。そのすぐ傍には、工具箱と電気ケーブルのリールと皮手袋が、かためて置かれていた。また、縦に二つ積まれた段ボールの箱が三、四つ並べてあった。

 まだはっきりと決めていないが、一応多目的ルームかリビングとして使う予定だということだった。

 そして四階に上がり、片隅にペンキやシンナーの缶や刷毛・ローラーが入った深いトレイや壁紙のシート類がまとめて置かれてあった通路を進むと、両側に同じような仕様の部屋がずらりと並ぶ光景が直ぐに見えてきた。数えると、部屋数は全部で十五室あった。ちょっとしたホテルができそうな部屋数だった。

 「まだ中は立て込んでいてね」と女性は言い訳すると、中を見せること無しに素通りして屋上へと向かった。三人は余り深く考えずに、女性の後ろに付いて行った。

 屋上には、業務用室外機と貯水槽の巨大なタンクがそれぞれ二基ずつと、ソーラーパネルが建物の一方の端から並んで置かれていた。そしてソーラーパネルの続きに、プレハブハウスと一緒に、日光浴でもするのだろう、ガーデンパラソルとテーブルのセットが一揃い置かれていた。

 やがて全ての場所を見終えると、四人はダイニングルームがあった二階へ一旦引き返して、遅めの昼食を取った。

 女性があらかじめ用意していたと思われる、冷凍食品を温めただけの簡単なものだったが、あっという間に無くなっていた。

 二十分ほどで全員が食べ終わり、協力して後片付けをしていたとき、突然部屋のどこからか音楽が聴こえて来た。

 聞き覚えのある曲だったのか、直ちに女性が携帯を取り出して画面をチェックする素振りを見せると、三人に、


「ちょっと待ってて。すぐに戻るから」


 そう言い残すと、にこにこしながら足早にどこかへ去っていった。

 一方、残された三人は、それまで張り詰めていた緊張の糸がようやくぷつんと切れ、互いに顔を見合わせると、安堵の色で溜息と笑みと吐息とをそれぞれ漏らした。そうして待っている間、嗚呼疲れたと言う表情で首を回したり腕を伸ばしたり、澄ました顔でトイレに立ったり、ぼんやりと辺りを見て回ったり。或いは、謎の多い女性のことや、これからのことについて、のんびりと語り合ったりと、それぞれ自由にやって時間を潰していた。

 すると、十五分ほどして女性は悠然と戻って来た。彼女はにこやかな顔で、


「引っ越しの手伝いをしに来てくれている知り合いから連絡があってね。税関で怪しいと止められちゃっていた品物が、今日ようやく許可が出たらしくって、引き取りに行ってたらしいの。ちょうど私達と入れ違いになったみたい」


 と言い訳をすると、何を思ったのか「場所を変えましょうか」


 そう一言伝えて、三人を引き連れ再び四階へ戻り、当初見て回っただけの部屋の一室の前まで来ると、そこに立ちどまり、「ここでやりましょうか」と中に招き入れた。

 言われるまま三人は先に入ると、奥の方に小窓が一つ見られるだけの室内は、イスとテーブルが置いてあるだけで他には何もなかった。 

 そのようなところで女性は、「適当に腰掛けて」と言うと、それに応じて、テーブルの片側に並んで腰掛けた三人を前にして、「殺風景でしょ。引っ越して間もないから何もないのよ」と屈託のない笑顔で切り出し、「今日これから、あなた達にやって貰うことについて話すわけなのだけど」と、三人をここへ呼んだ理由について、話の所々にユーモアを交えながら語っていった。

 それによると、約一週間前のこと。購入したてのこの建物の中を、建物の管理者で引き渡しの担当者でもあった人物と見て回ったところ、長い間放置されていた影響か、建物内に修理を要する箇所が幾つも見つかった。  

 それで、その人物の知り合いを紹介して貰って修理を頼んだところ、十名程度の人手を都合してくれるものと思っていたのに、どこで話が行き違いになったのか知らないが、一度に百名を越す人員がやって来た。

 大勢で一斉にかかることは、確かに早く片付くので有り難いことではあった。だがその反面、心配なことが幾つか頭をよぎった。できることなら誰にも知られずに隠しておきたかったこの場所を大勢の人達に知られてしまったことが一つ。ここでの作業の様子が大勢の人達によって変に捻じ曲げられて、根の葉もない噂が広まらないかが二つ。工事の知識が無い故、適当に任せて、目の届かないところで手抜き工事をされないかが三つ。後一つは、わざと全員が時間をかけて作業し、法外な手間賃を最後に要求して来ることだった。

 そこで思いついたのが、こちらから工事期間を指定して、その間の人件費のみの見積もりを提出して貰うこと。

 そのときは、不動産管財人から債権の保持管理を委託されただけだからそう費用はかけられないと嘘をついて、三日間の見積もりを要求した。

 次にしたことは、是非修理して欲しいところを優先的に指定すること。

 そのときは、作業に重機が必要であるところ、人手を掛けなければできないところ、壊れ方の激しいところ、雨漏りがあるところ、カビの発生が見られるところ。壁のひび割れやタイルの剥がれがあるところ、手の届かない部分などを重点的に修理して欲しいと伝えた。

 最後に、人が住むとは思わせない偽装をした。

 その為に、庭の手入れはどうでも良い。時間がなければ放っておいて構わないと伝えた。案の定、三日後、きっちり手付かずでそのまま放置されていた。

 後片付けはこちらでやるからと、三日の間、目一杯仕事に専念して欲しいと伝えた。

 もちろん、以上のことは口約束で行うのではなく、きっちり契約書にまとめて全員のサインを貰っておくのも忘れなかった、等。


 そうして最後に、ブルーの瞳で三人に優しく微笑みかけると、


「このように、何もかも相手任せにしないでできたのは、ひとえに今手伝いに来てくれているシンとあなた達がいるおかげなのよ」 と感謝の言葉を述べた。

 

 しかし三人は、一体何のことやら分からず。おかげと言われてもと、きょとんとした眼差しを向けた。 

 すると女性が、更に言い足した。


「そういう訳だから、あなた達に残った作業を手伝って貰いたいの。例えばこちらにやってきたとき見た庭なんて酷かったでしょ。あれなんかもそうよ。お願いね」


 途端に事情を理解した三人は、「あ、はい」と迷うことなく応えた。「やらせて貰います」 


 自分達を呼んだ本当の理由はそういうことだったのかと、ようやくほっと胸を撫で下ろしていた。 なーんだ、ボディガードじゃないんだ。どうなることかと思ったらそんなことか、それなら楽勝だ。

 建物の内部をわざわざ案内して回るという、普通なら自慢するときぐらいにしかやらないことを女性がしたので、何となくおかしいと薄々感じていたが、それも同時に解決していた。

 全部の部屋をあたしたちに案内したのは、迷わないようにするためで、後で中を片付けさせる気ね。


 揃って三人が同意したことに、女性は薄ら笑いを浮かべると、


「では、さっそく取り掛かって貰うんだけど」と切り出して、腕時計に視線を落とした。「そうねえ……」


 もう直ぐ午後の二時になろうとしていた。

 そんなとき、突然ドアをノックする音がして、「よろしいですか」と外から呼び掛けて来る男の声がした。

 三人が声のした方へ振り向くと、女性が素っ気ない返事を返した。


「はい、どうぞ。入って良いわよ」


 するとドアがゆっくりと開いて、片方の手にトレイを持った若い男が姿を現した。

 男は、二十代後半から三十代ぐらい。中背やせ型で、浅黒い顔に無精ひげを生やし、黒縁のメガネ。頭に白いタオルをターバンのように巻き、ベージュの作業服の上着にブルーのジーンズ・運動シューズという出で立ちは、いかにもプロの職人といった格好だった。

 男は四人のテーブルの傍までやってくると、持ってきたトレイをそこに置き、改まった口調で女性に告げた。


「冷たいものをお持ちしました」


 トレイの上には銀色をしたコーヒーポットと紙コップがそれぞれ載っていた。


「ありがとう、シン。気を遣わせてしまって」三人の前で、女性が丁寧に礼を言った。


「悪いわね。今からそちらの方へ向かおうと思っていたのよ」


「はあ、それはどうも」


 男は女性の傍に立つと、にこやかに応じた。メガネの奥の黒い目が、自然と線のように細くなった。

 耳を傾けていた三人は直ぐに直感した。この男の人が、女性が話していた知り合いだと。


「どう、はかどってる?」


 不意に女性はそう尋ねながら、紙コップを、テーブルに置かれたトレイの上で手際良く人数分並べ、ポットから茶色の液体を順番に注いでいった。


「ええ、何とか」男は、もみ手をしながら応えた。


「ああ、そう」


 頷いた女性は、今度は三人の方向に顔を向けると、「喉が渇いたでしょう。飲んでちょうだい」と紙コップに入った飲み物を薦めた。

 飲み物からは変な臭いは漂って来なかった。が、焦げたバターのような変な色をしていた。

 三人は、見慣れない異様なその飲み物にちゅうちょして手を付けないでいると、すかさず女性から声が飛んだ。


「大丈夫よ、安心して。毒ではないわ」


 女性はそう言うと、三人の目の前で先に手を伸ばして紙コップを取り、一気にぐいと半分ほど空け、はあと一息ついて言ってきた。


「麦とトウモロコシから作ったお茶というものよ。ここにいる彼の手作りでね、彼の母国では普通に健康茶として飲まれているそうよ。良く冷えていておいしいわよ」


 落ち着いた女性の言葉に、三人は恐る恐るコップを手に取ると、口に含み飲み込んだ。たちまち顔をしかめていた。

 その様子を、目を細めて眺めていた女性はすぐさま、


「焦がしたコーヒー豆に冷たいお水をかけて飲んでいるみたいな苦い味がしたでしょ。 

 ま、最初は誰だってまずく感じるわ。けど、慣れるに従って、これがしつこくなくってあっさりしているものだから、やみつきになるのよ」


 そう言うと、三人が目を白黒させるのとは対照的に、再び紙コップを口に持っていき、何もなかったように中身を空にして、元のトレイに戻した。

 そこでようやく喉の渇きが癒えたのか、女性は口も滑らかに再び話し出した。

 先ず、ちょうど良いタイミングでやって来た男に向かって、三人の一人一人を名指ししながら、名前と顔を簡単に紹介した。それが済むと、今度は男を三人に紹介しにかかった。


「彼とは十年来のつき合いで、普段は私の実家の方にいるの。身分は、使用人というより居候みたいな存在ね。

 名はシンと言うの。名と言うより呼び名なんだけれどね。本当の名前は私達の間では言わぬが花なの。といっても、彼は凶悪指名手配犯でもなければどこかのスパイでもなくてよ。彼によると理由は至って単純で、両親や兄弟に居場所を秘密にしておきたいからそうしているんだそうよ。

 年齢に関しては私もはっきり覚えていないの。もしどうしても興味があれば、直接彼本人から訊いてくれれば良いわ。確か、私と一つ離れているくらいだったと思うわ」


「すいません、姐さん!」それまで何も言わずに聞いていた男が初めて口を挟んだ。


「そこだけは、あっしが聞いてる話と少し違うような。確か五つばかり離れていると聞いてますが」


「一体誰からそんなことを聞いたの?」


「はい、先生からです」


「あの先生がそう言ったの?」


「はい」


「先生ったらお喋りなんだから。シン、もうそのことは、なかった事にして忘れなさい」


「はい」


 二人の間で、即席コントのような会話が繰り広げられたところで、女性は「ええと、どこまで言ったかしら」と、何食わぬ顔で話を戻すと言った。


「見た目通りに中々の働き者でね。手先が器用で、大工仕事からペンキ塗り、電気工事、重機の運転と何でもこなせるのよ。おまけに料理の腕も大したものでね。それで手伝いに来て貰っている訳なのだけど、こう見えて、れっきとした大学の工学部を出ていてよ。

 ところが、それを本職にしていないところが世の中の面白いところで。

 彼もまた私と同じで、医大も出ていないし、医師国家試験も受けたことがないけれど、一般の医師並みの医学知識と技量の持ち主なの。つまり、世間で言うところの無免許医なの。

 なぜそんなことが起こり得るかというと、実は二人共、もう引退してしまって、ただの老人になっているけれど、現役時代は高名だった医師の弟子にあたるからなの。

 その人も正式な医師の教育を受けていなかったけれど、長くやっている間に本物の医師からその実力を公然と認められるようになって、終いには尊敬さえされるようになって、本物の医師が研修を受けに来たり、弟子となりに来たりしていたの。その中で私はその先生の最後から二番目にあたり、そして彼がその最後の弟子という訳。

 私も彼も、例え正式な医師教育を受けていなくても、医師免許を持っていなくても、人並みの医療知識と技術があるのなら、それは立派な医者だと言うその人の意志を引き継いでいるの」


 そのような話が終わると、「尋ねたいことがあれば何でも訊いてくれる。私に応えられるものなら、できるだけ応えて上げるから」と三人の質問を受け付けた。すると直ちに、三人の中からイクが手を上げると、軽いノリで素朴な疑問を口にした。


「あのう、お姉さんはこんな広いお家に、お一人で住むおつもりなんですか、それとも他に住む人がいるとか。家族とか友人とか、恋人とかと住む……」


「残念だけど、そんなのはいないわ。ここにいるシンだって用事が済めば直ぐに帰ってしまうしね」


 女性は苦笑いすると、あっっさり否定した。「なぜそんなことを?」


「いいえ、あんまり荷物が少なかったので、本当に一人で住むつもりなのかな、とちょっと思ったので」


 ぼそぼそと応えたイクに、その瞬間、ジスとレソーはイクをじろりとにらんだ。何馬鹿な質問をするんだと言う目で。だがイクはそれに気づかぬ様子で、まっすぐな目をして尚も訊いた。


「あのう、おひとりで寂しくありませんか?」 


「ああ、そのこと」女性はブルーの瞳を瞬かせると応えた。「私もこのような広いお家に一人で住むのは初めてだから、正直言って寂しくないと言えば嘘になるわ。

 でもまあ、そうなった場合は、親しくしている友人を呼ぶつもりよ。また、このシンのように、呼べば直ぐに駆けつけてくれる知り合いが指の数ぐらいいるしね」


「そうですか。それじゃあ泥棒がやって来たことは?」


「それはまだないわね。でもやって来たところで、このお家はこう見えてセキュリティーがしっかりしているから大丈夫よ」


「じゃあ、ついでにお聞きしたいんですけど、この辺りは夜になると真っ暗になりますよね」


「ええ」


「夜は怖くありませんか?」


「怖くはないわね」


「本当ですか。一人でいると心細くなって、トイレに行くのが怖くなったり、幽霊を見たりしませんか?」


「ないわね」


「なぜ?」


「なぜと言われてもね」何かを考えるように女性は首を傾げると、しばらくして応えた。


「それはね、私って両親にある事情があって、小さい頃から一人でいる時間が長かったの。その内いつの間にか一人でいるのに慣れてしまっていて、一緒に怖いのもどこかへいっちゃってしまっていたわ。

 それに本物の幽霊はまだ見た経験は無いし。また出てきたところで、別に驚かないと思うけどね。私の知り合いにゴーストハンターのようなことができる人がいるから、その人に頼めば喜んでひっ捕まえてくれるからね」


「そうですか。ありがとうございました」


「いいえ」


 誰から見てもお馬鹿なイクの質問に、しかしながら女性はユーモアを交えて淡々と応えていき、一貫の終わりにしていた。二人の会話を聞いていたジスとレソーは、この女の人は素晴らしく頭の回転の速い人みたいだ、といった印象で受け止めていた。


「さて、あなた達。これから二つのグループに分かれて作業して貰う訳なのだけど」


 もうそろそろ終わる頃合いと見たのか、女性は話題を変えた。三人は改めて真面目な面持ちで、女性の顔をのぞき込んだ。

 けれども女性は、何を思ったのか、そこで言葉を切ると、不意に首だけを傍に立つ男の方に向けるや、早口で男に喋りかけた。


「あ、そうそう、シン。ついでということで思い出したわ。例のクーラーボックスをここへ持って来てくれない。

 どうせ直に、この子達にエスコートして貰わないといけないし。私達がかかわっているビジネスについて一応話しておこうと思うの。

 それに、向こうへ持って行く前に、私も中身について一通り目を通しておきたいのでね」


「するっていと、今日配達するんで?」 


「ええ、もちろんそのつもりよ」


 そう続けると、二人は、三人が呆気に取られるのも構わず、小声で何事か話し始めた。


「一刻も早く持っていってやらないとね。向こうは首を長くして待っている筈よ。何しろ予定より丸一日半遅れているわけだし、この遅れはきっちり取り返さないとね」


「でもそれは姐さんのせいじゃありませんよ。いつもなら、すんなり行ったものを、向こうのやぶ医者が書類作成で不手際をしたからああなっただけでして。姐さんは悪くありません」


「そうは言っても、遅れたのは確かだし。結局は私達が責任を取らなくちゃいけないのよ」


「まあそれは、そうですが」


「ま、しょうがないんじゃない。こっちから無理を言って頼んだのだから。とにかく、例のものを早く持って来て」


「姐さんがそう言うのなら」


「ええと、場所は、この建屋の一階の奥の方にダイニングがあったでしょ。その横に小部屋が二つ並んであって、その中の段ボール箱が積んである部屋にある筈だから」


「はい、かしこまりました」


 三人にはさっぱり分からない会話を二人は一分余りすると、やがて話がついたのか男の方があっさり承諾して頷き、「それじゃあ行ってきます」と一言残して、足早に部屋から出ていった。


 男がいなくなった後、女性は口を開くと、先ず男の口癖について釈明をした。


「シンは私をああいう風に呼ぶけれど、私はヤクザの幹部をやっているわけじゃないのよ。その点は分かってちょうだいね。

 あんな風に呼ぶようになったきっかけは、話せば長くなるんだけど、あれは十年くらい前だったかしら。世界中を放浪途中に金品を盗まれて行き倒れていたシンを私の知り合いが助けたことから始まっているの。

 どうやらそのとき、知り合いの顔を見てヤクザ者と早とちりしたらしくって、私と会ったときには、既にあんな変な風な呼び方をするようになっていてね。

 それがどういうわけかずっと修正されずに続いて、今は親しみを込めて呼んでくるものだから、無下に呼ぶなと言い辛っくってね、そのまま放ってあるの」


 それから、先ほど言おうとしたらしい言葉を述べた。


「私はもう直ぐいなくなるから、その間シンに作業のことを良く訊いてやっておいてちょうだい。彼にも言っておくから」


 そこまで女性は三人に告げると、時間を気にする素振りで腕時計をチラチラと見て、やがて立ち上がり、ドアの方向へ視線を向けた。すると、ほんの十数秒遅れで突然ドアがやや乱暴に開いて、釣った魚を保管するためのクーラーボックスを肩に下げた男が駆け込んで来た。どうやら四階までの行程を普通に歩いて来たわけではないらしく、息が弾んでいた。


「遅くなってすみません。準備する物を忘れて来てしまったのを途中で思い出して、もう一度取りに行っていたものですから遅くなってしまいました」


 入って来るそうそう、男はそう言い訳をすると、急いで下げてきた中型サイズのクーラーボックスをテーブルの中央に置き、もう一方の手に持っていたと思われる上蓋が付いた小型のペール缶を、その傍らに同じく置いた。

 女性は薄く笑ったのみで、何も言わずにペール缶の蓋を取ると、透明な液体が入るスプレー容器とビニール包みを中から取り出してテーブル上に並べ、それから缶の内部に残っていたビニールの袋を手際良く広げてセットしていった。

 そこまでの準備を終えると、今度はビニール包みの封を切り、中から一揃いになった品を取り出して、身に着けて行った。

 見る間に女性は、幼児のよだれかけのような形状をする簡易エプロンをマジックテープで首の辺りで留め、口元には鼻全体まで覆う白い医療用マスク。両手には手術用のゴム手袋を装着していた。

 そして、横に立った男が、その間に同じような格好をして、手に持ったスプレーを辺りに噴霧するのを見届けると、呆然とする三人に向かって「気にしないで、ただの消毒液よ」と伝え、自身はクーラーボックスへと手を伸ばした。

 クーラーボックスは二重蓋になっていて、内部にはクッション材を兼ねた保冷材のブロックが敷き詰められており。女性はブロックを速やかに取り去ると、そこに現れた二重になったビニール袋の口を開け、手のひらサイズぐらいの大きさで、中身が半分凍ったように硬くなっていた真空パックの袋を手に取った。

 そして、それを鋭い眼差しでちらっと眺めると、蓋の上に並べた保冷材の上に、大事そうに置き。それからまた別の袋を取り出すと、同様のことを表情一つ変えないでした。その作業をクーラーボックスの中が空になるまで、手を休めずに次から次へと繰り返した。三分もしない内に、中身が保冷材の上に山のようになって載っていた。

 三人が見ている前で、それら一連の作業を女性は速やかにやり終えると、マスク越しにほっとした表情のようなものをようやく浮かべて、横に立つ男に話し掛けた。


「シン、確かあなたが処置したメンシュ(人間)だと言ってたわよね」


「はい、その通りで。運ばれてきた直後は、まだ生温かったのを、あっしが脳死と判断して、直に処置しました」


「身元は大丈夫なのでしょうね」


「はい、もちろんです。ズード兄貴が持ち込んだもので、世の中から消えたって問題ない奴だと聞いています」


「ステル(死亡)したメンシュは一体何をやっていたの?」


「IT関連の仕事だそうです。兄貴が言うには、プロクラッカー集団を率いていたボスだったそうです」


「プロクラッカーって?」


「金で頼まれて他人の携帯やコンピュータに侵入しては、色んな悪さをする野郎達のことです」


「そう。じゃあ年齢は?」


「その方はあっしも知りません。でも、兄貴の話じゃあ十五、六だろうということです」


「そう。それにしても、どれも成人と変わらない大きさがあるのだけれど。既に立派な体格をしていたという訳ね」


「あ、はい」


「それじゃあ死因は?」


「はい、側頭部と顔面を撃たれたことによる脳機能喪失です。胸部から腹部にかけて、刃物による刺し傷が幾つもありましたから、めった刺しにされて虫の息になったところを銃で止めを刺されたかと」


「ふ~ん、若いのにねえ……。そういうわけだったの。どおりで足りない部分が結構あると思ったら、そういう理由があったの」


「ええ。兄貴の話じゃあ、たぶん仲間割れで殺られたのだろうということでした。

 この頃の若い連中は、どいつもこいつも生意気で、自分よりも年上の人間を平気で顎で使いますからね。しかも自己中で、がめついときていますから、更にたちが悪い。

 運ばれてきたとき、裸にむかれた状態で金目のものは何も付けていませんでしたから、たぶんその線で殺られたのでしょう」


「ふ~ん、末路は哀れなものね。ありがとう、シン。大体分かったわ」


 そのように二人が内輪で話し合っている間中、話す二人の格好と目の前の状況から、何が起こっているのか大体察しがついていたジスとイクとレソーの三人は、やや青ざめた表情で二人を眺めていた。

 そんな彼等に、しばらくして男との会話を終えた女性が、保冷材の上に載った物体を指差して、軽い調子で話し掛けて来た。


「あなた達、これが何だかわかる?」


 その呼び掛けに、三人の中で一番体格が大きく、年長者で、社会経験が長かったジスが、前みたいな格好悪いところは見せられないと、二人よりも先に応えた。


「はい、もしかして人の身体の一部分かと……」


 だがその表情はかなり緊張していると見えて、ガチガチにこわばっていた。

 すると女性は一も二もなく、「ええ、ご名答よ」と目を細めて応じると、三人の顔をじっくりとのぞき込んだ。それからおもむろに横に視線を落とし、山のようになった物体に目を留めると、何を思ったかその中から一番上に載った、暗赤色をしたこぶしぐらいの大きさをした肉塊が中に見えるビニールパックを取り上げ、「一応生ものなので、温度管理に注意して厳正に取り扱わなくちゃあいけなくってね」と言いつつ、


「それじゃあ、これはどこの部位か分かる人、いるかしら?」と訊いて来た。


「……」


 しかし三人共、気味が悪いと思ったことぐらいで、さっぱり心当たりはなかった。

 誰一人として口を開かず、しばらく黙っていると、やがて女性が、分かったと代わりに応えた。


「これは腎臓よ。ソラマメの形をしているでしょう。人間の体には全部で二つ有るの。雑菌が入ると台無しになるから開ける訳にはいけないけれどね」


 そう言って女性は手に持ったパックを、こわれ物を扱うようにクーラーボックスに戻すと、また別のパックを取り、また同じことを訊いた。

 当然ながら誰も答えられず。代わりに女性が応えた。


「これは肺よ。若いのにかなりのヘビースモーカーだったみたい。黒から灰色かかった色素がパラパラと沈着しているでしょ」


 それから女性は手に取った品を一つずつ三人の目の前に晒すと、


「この赤いパックには骨髄液のサンプルが入っているわ。これは白血病などの血液疾患の治療や再生医療の分野で広く使われているの」「これは皮膚よ。再生医療や医薬品製造に使われるわ」「腱よ。白っぽいでしょ。再生医療並びに移植目的に使われるのよ」「靭帯よ。使用目的は腱と同じよ」「脊髄よ。移植に使われるの」「手と足の骨よ。歯科医療並びに移植目的に使われるの」「肝臓よ。脂肪肝気味な肝臓よ」「もう一方の腎臓よ」


 と言った具合に、それぞれに簡単な説明を冷静な物言いで加えてクーラーボックスへ戻していった。

 その様子を三人は、息を呑みながら呆然と眺めていた。いきなり至近距離から人の臓器を色々と見せられたショックの余り、頭の中がいずれも真っ白になり、反射的に身体が恐怖反応を示していた。


 だが女性は、三人の不自然な兆候を気にも留めずに作業を継続。やがて終了すると、クーラーボックスの蓋を閉じ、男と一緒に後片付けに取り掛かった。

 使用済みの消耗品をペール缶内にセットしたビニール袋の中へ放り込み、再び消毒スプレーを周辺へ噴霧した。また、テーブルの上を用意していたペーパーウエスで拭いた。

 一連の作業を手際良く行うと、最後にペール缶へ全ての備品を入れ、蓋を閉めた。


 それが済むと女性は、「ねえ、ちょっと」と男に声を掛けて、一言二言、ぼそぼそとささやいた。すると男は頭を垂れて、はいと短く返事をすると、再びいなくなった。

 それを三人は、まだ他に何かあるのかと、呆気に取られて見つめていた。

 だがしかし、三人の取り越し苦労に終わったらしく。まもなく女性は、ほっと一息ついて三人に向かうと、気を遣うようにこう話し掛けて来た。


「いきなりだったから、驚いたのなら謝るわ。でもね、これは絶対避けて通れないことなの。だから敢えてこのような趣向であなた達に見せたわけよ。

 あ、それと悪いんだけれど、この荷物を持ってこれから出掛けなくちゃならない用事があってね。余りのんびりとしていられないの。

 それでなんだけれど、シンに頼んで、今作業服を取りに行って貰っているわ。それに着替えて、後は彼の言うことを良く聞いて作業にあたってちょうだい。

 あ、そうそう。あなた達の荷物は玄関先に置いておくから後から取りに来て。あ、それと、泊まる部屋なんだけれど、横の部屋を適当に使ってちょうだい。自由に任せるわ」


 そこまで告げると、女性は急に口調を、冷やかなあっさりした言い方に変えて疑問を漏らした。


「見たところ、あなた達、余り人の死体を見たことは無いようね」


 的を射た女性の質問に、三人は揃って小さく首を縦に振った。

 ほんのしばらく気まずい沈黙が流れ、やがて女性は、がっかりしたように、トーンが下がった声で応じた。「ああ、そう。分かったわ」


 そして再び口を開いた。


「実は、私達は臓器売買と言う、正規のルートで治療が受けられない患者を救うためのビジネスをやっているの。

 巷では細胞融合とか遺伝子の組み換えとかで、臓器の再生が実用化に向けて行われてはいるけれど、まだまだ発展途上でね。今でも生身の人間の臓器を直接使い回しする方が遥かに安全で効率的なの。

 車中で私のボディガードを頼みたいと言ったのは、このビジネスをやっていると、傍から邪魔をしてくる輩が多くって、酷いときは命をとろうとやって来るからなのよ」


 そう言うと、女性は眉間に険しいシワを寄せ、三人をじろりと覗き込んできた。

 その瞬間三人は、先ほどまでとは明らかに異なる女性の冷たい視線に、誰もが思わず息を呑んだ。

 そんな三人を見下ろすように、女性は軽く腕を組むと、尚も続けた。


「臓器の価格は、半年に一度か年に一度、専門のシンジケートが、目安となる相場価格を取り決めていて、それを参考にして価格が決まる仕組みになっているの。例えば腎臓なら二万から五万、肝臓なら三万から十万、肺なら二万から十五万、手足の骨なら五千から二万といったぐあいに、状態の良好度によって大体の価格帯を想定していてね。

 通常ならそれを参考にして価格が決まるんだけど、ところが相場価格自体があくまで参考の価格で、実際の取引では需要と供給のバランスから見て、その価格帯の五割増しから十五割り増しぐらいが事実上の価格ってところなのよ。

 私はね、医学を金儲けの手段と普通に考えている経営陣がいる製薬メーカーや大病院、臓器専門のバイヤーには決してまけてやらないことにしているの。いつも資料に沿った価格の十割から十五割増しの定価販売よ。しかし得意先に拠っては稀だけれど、医学は人命を救うものだと馬鹿正直に堅く信じて疑わないところもあるのよ。一言で言えば世間からずれた偏屈、大馬鹿者っていうところかしら。 

 そういうところに限って私の助けを求めて来る頻度が高くって、おまけに患者に貧困層が多くて施設もぼろっちかったりしてね。

 そりゃ私も初め、そんなところとは余りかかわりを持ちたくなかったんだけどね、一応恩を売ることも必要かなって思って二、三度タダみたいな値段で分けて上げたのが運の尽きで、それから売れ残った商品で賞味期限のあるものを安く卸していたら、有り難くない話なんだけれど、いつの間にかしがらみとなって私の上得意になってしまっていてね。

 どうもその辺りが同業の人達にとっては気に入らなかったみたいで。恨みを買うことになってしまって。あとはお決まり通りに嫌がらせや営業妨害をしてきたり、命を狙ってきたりで。これまでも何度となくちょっかいを出して来た奴等を地獄へ送ってやったのだけど、それでも」


 女性が話していたちょうどそのとき、部屋のドアがさっと開いたかと思うと、なれなれしい男の声がした。


「姐さん、お待たせ致しました。これで良いんですよねぇ」


 一瞬女性は言いかけた言葉を呑み込むと、その方向へ振り返った。

 そこには、片方の手に黄色いスーパーストアの手さげ袋を持った彼の男、シンがニコッと笑みを浮かべて立っていた。

 すぐさま、にんまりして「ええ」と返した女性に、男は、今度は息の乱れも無くゆっくり中へ入って来ると、作業着が入ると思われる手さげ袋を、テーブルの上に置いた。

 すると女性は何を思ったのか、男へ向かって不意に声を掛けた。


「シン、明日の昼頃には戻って来れる筈だから、それまでこの子達の面倒をお願いね。くれぐれも粗相のないように」


「はい、任せて下さい」と、男は即座に応えた。


 それを三人は漠然と眺めていた。

 屈託なく話す女性の横顔は、男を相当信頼していることを思わせ。対する男のあくまで控え目な態度は、女性とは従属関係にあることをうかがわせた。


 それから女性は、男が入って来たのと入れ違いに、クーラーボックスを手に持つと、


「それじゃあ頼んだわよ、シン。行って来るわね」


 そう男に伝えて、三人の方に振り返り、ニコッと微笑んで「じゃあね」と言うと、部屋から出て行った。男は出て行く彼女の背中に「お気をつけて、姐さん」と声を掛けて送り出していた。


 あっという間に女性がいなくなり、一人残された男は、それまで女性がいた地点に立ち、「よろしく」と一言あいさつして来た。そうして、これから何をするかについて、簡単な打ち合わせを始めた。

 前もって三人の正体を女性から聞かされていたのか、割とへりくだった口調だった。

 三人はそれまでの緊張が一気に緩み、何とはなしにほっと息をついていた。

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