第48話

 平穏に時間は流れて、空が白み始めた午前五時半を回った頃。

 はあはあと息を弾ませて、肩まであった赤い髪を振り乱しながら、各建物に通じている舗装された歩道を、パトリシアは小走りで駆けていた。

 相変わらず全身を赤ずくめの派手な服装で着飾り、手にしているものといったら薄手のピンクのショルダーバッグが一つ。それ以外何も持っていなかった。

 ツカツカとヒールの靴音が、早朝のややひんやりする空気の中にやかましく反響する。

 途中、フェンスに囲まれただだっ広い空き地が、周辺に幾つも見えた。が、それらには目もくれなかった。目指すところは、ただ一つ。車の置き場になっていた大きな広場だった。

 今大人数で部屋を出たところだとの魔物の連絡を参考にした上で、たぶんここへは車を使って来ているはず。そうすると、きっとあそこしかないわ、と思ってのことだった。駐車場の場所は、昨日基地の敷地内をうろついて頭の中に入っていたので、何も問題なかった。

 その間、警備の兵士はなぜか一人も見掛けなかった。朝早いからか、どこかに隠れて見張っているのか、それとも監視カメラで見ているからいないのかのどれかだと思っていた。昨夜、ゾーレがイベントの主催者という者達と取引をして、姿を現さなかったとは夢にも思っていなかった。

 ちなみに、彼女の直ぐ前方を一匹の小型犬が駆けていた。周りから見れば、ペットと朝の散歩をしていて、急に走り出したペットを追い掛けているちょっと変わった女性といったところだった。


 十分ばかり、パトリシアはそのように駆けていた。メイクでやや赤っぽく仕上げた両頬から、汗が滝のように流れ落ちていた。手からも汗が滴り落ちていた。しかし、急いでいたので、そのままにしていた。

 既に昨夜、意識不明状態にあった青年を、魔物に頼んで自身のアパートへ送り届けて貰っていたので、いつからでも基地から逃げ出して構わなかったのだが、そのとき彼女には、ある人物とコンタクトを取らなければならないという目標というか目的ができていた。

 もっとはっきり言えば、魔物に掘り出し物があるとそそのかされたことも一因であったが、自身の将来を考えたとき、手足となって働いてくれる人材がいた方が何においても都合が良いからという下心もあり、目を付けた若者達の後を追っているところだった。


「ああ、間に合うかしら?」


 もはやパトリシアには脇目を振る余裕もなかった。わざわざ自分のペースに合わせるように先導してくれている小犬の魔物に感謝しながら、その後をひたすら追うことで何とかして追いつこうとしていた。


 実のところ、名も知らぬ者達が宿泊している建物の部屋まで、直接会いに行こうとしたのがまずかった。こうなるのだったら、基地の正門のところで待ち伏せしているべきだったわ、と後悔したところで、既に遅かった。

 生まれてからこの方見たこともなかった大金が突如手に入ったことで興奮が治まらず、昨夜余り眠れなかったものの、午前五時にそつなく起床。基地の正門が開くのが午前六時前後と前もって調べて分かっていたので、約一時間の余裕を見ると、警備の兵士の姿が見えないのを確認して部屋を飛び出した。その直前、連携するゾーレと連絡を取るのを忘れるという小さなミスを唯一犯したものの、我ながら完璧のできと思っていた。

 そのとき、囮役という任務も無事に終え、おまけに賞金もありがたくちょうだいしたことで、もうこれ以上部屋に留まる理由もなく。却ってぐずぐずしていると我が身に危険が及ぶ恐れが多々あった。といって不意に外に出た場合も同様と言えた。よって、万全の対策を怠らなかった。

 身に着けていたセクシーな下着を除く、ウイッグからメガネ、ワンピースドレス、エロチックなレース柄のストッキング、ハイヒール、着飾っていたネックレス、指輪に至るまでの変装用の品全てを一度取り去り、明け方前に戻って来た小猿の魔物に「いつもの通りにガーディアンモードでお願い」と依頼して、それらを取り込んで全く同じものに姿を変えて貰った。そして、それらを再び着込んだのだった。

 従って今の彼女は、魔物の力によって普通でなかった。例え、至近距離から銃撃されようが、砲弾が直撃しようが、びくともしないよろいで武装した身体となっていた。

 だがたった一つだけ、困ったことがあった。パトリシア自身が能力者でなかったことだった。

 ロウシュ、ソランのような能力者なら、距離がかなりあろうと、目的の建物までほんの僅かな時間で行け、余裕で会うことができたのだったが、何の力も持たない普通人であるところのパトリシアでは、そう易々といく筈もなかった。

 おまけに、若いときと違って三十代も半ばを過ぎると、息切れがしてそう長く駆けることができず。少し駆けては一休みするというパターンをずっと繰り返すこととなっていた。

 そうして目的の建物の部屋まで到達したときは、残念ながら一足違いで行き違いとなったらしく、中はもう既にもぬけの殻となっていた。


 よってパトリシアは、ミスを取り返そうとして、一心不乱に駆けた。

 すると視線の先に、車両らしきものが疎らに止まっている、がらんとした広場が見えてきた。同時に、ゆっくりと遠ざかる人影らしきものも見えてきた。しかも人影は一組で、他には何も見掛けなかった。


「きっとあれよ。やっと追いついたわ」


 パトリシアは目を輝かせた。わざわざ魔物が先頭に立って道案内してくれているので間違いなかった。

 人影は三つ。これから帰るのだろう、全員が背中を向けて、横に並んで歩いていた。その両手か肩には大きな旅行バッグのようなものが見えていた。

 瞬時にパトリシアは、止めてある車の方へ歩いていっているのね、と判断。息を切らしながら、あともう少しだわと、後を追おうとした。けれども、どうやら体力の限界らしく、身体が反応しなかった。

 仕方なくパトリシアは一旦呼吸を整えるために立ち止まると、荒い息をつきながら、何とか気付いてちょうだい、と精一杯の声で呼び掛けた。


「待って。待って下さい」


 距離的に見て、まだ百数十ヤードは優に離れていた。加えて口から出て来たのは、いつもの張りのある元気な声ではなく、疲れ果てたときや風邪をひいたときに出る、かすれた低い声で、どう見ても向こうまで届きそうにもなかった。けれでも、他にやることはないからと、今度は口元に手を当てて、もう一度繰り返した。


「ねえちょっと。待って下さい」


 すると、願いがどうやら届いたのか、相手は急に歩みを止めると、振り返って来た。

 何とか気付いてくれたみたいね、とパトリシアはほっと胸を撫で下ろすと、そこでようやく肩からぶら下げたショルダーバッグを開け、中からエンジ色をしたハンドタオルを取り出して汗を拭った。ああ、なんとかなったみたい。あとは作戦通りやるだけよ。

 パトリシアは犬の魔物を後ろに従えると、息を整えながらゆっくりと歩いていった。


 近付いて行くと、向こうはわざわざ立ち止まって待っていてくれていた。

 ふと見れば三人だと思ったのは、実は四人で。もう一人は、がっしりした若い男の肩に、荷物のように担がれていた。ぐったりとして全く動く気配がないこと、運搬の仕方から見て、どうやら眠っているらしかった。

 その状況から言って、肩に担がれていたのは、遥か遠くまで吹き飛ばされた若者以外考えられなかった。

 あれだけ酷い目に遭って気絶するぐらいで済むなんて、大したものだわ。普通なら有り得ないことだもの。やはりトリガちゃんが言っていた通り、凄いお宝なんだわ。これはひょっとしたら化けるかも。


 パトリシアはブルーの双眸を見開き、内心微笑みながら、対話ができる距離までやって来ると、彼等はこれといって特徴のない顔に、どこにでもいそうなありふれた服装をしていた。

 そんな彼等は、お互いに顔を見合わせると、不思議な物をみるような目つきで、パトリシアをのぞき込んで来た。対してパトリシアは、にこやかに笑みを作ると、ややマシになった声で一声かけた。


「おはようございます」


 見ず知らずの者に突拍子もなくあいさつされたことに、愛想笑いで彼等全員が応えて来ると、その中から一番の年長者と考えられた、黒縁のメガネを掛けた中年男が、丁寧な物言いで返して来た。


「おはようございます」


 ざっと三人を一べつしたところ、男はどこか落ち込んだような暗い顔をしていた。一方、両隣に立っていた若い男女は、若者らしいけろっとした顔をしていた。この様子じゃ家族でやって来たわけね。そうパトリシアは結論づけると、間髪を入れずに言った。


「そろそろ暑くなって来ましたわね。この分だと今日も良いお天気のようですわね」


 いつの間にか陽が射し、辺りは徐々に明るくなりつつあった。

 男はパトリシアに魅入られたように、メガネの奥で目をパチクリさせると、少し間をおいて気が抜けたような弱々しい声で返して来た。


「ええ、そのようですね」


 さっそくパトリシアはわざと同情するように切り出した。


「昨日の試合を拝見させて頂きました。そこの肩に担がれている彼がそうなのですか? 本当に残念でした。

 けれど、一対一の対決の場合、勝敗を分けるのは運と偶然がほとんどと言いますから、今回はその両方がなかったということでしょう。ですので、負けたからと言って決して落ち込むことではありません。お気を落とさずに」


 すると男は力なく笑うと、応えて来た。


「すみません、お気を使って貰って。ええ、見ての通りです。どこも怪我はしていないみたいなのですが、朝になったのに起きないのです。昨夜寝るときまで元気に喋っていたのにです。たぶん疲れがぶり返したんだろうと思いまして。仕方がないので、こうして車まで運ぼうかとしていたのです」


「ああ、そうでしたか」


「ところで、何かご用で?」


「あ、すみません、あいさつが遅れました。わたくし、パテシア・メルキースと言います。ミステリア・プランズという名の、小さいですがコンサルティング関連の会社を個人でやっています」


 パトリシアは男に尚も笑みを投げかけると、ようやく普通に戻ったいつものやや早口の口調で、偽名と架空の会社名を計画通り告げ、尋ねた。


「で、あなた様は、失礼ですがどういう素性の方で? ええ、どういう組織とか、団体とか、会社とかに勤務されているか、ですわ」


「あ、はい」男は分かったと小さく頷くと言った。「そのことですが、私は小さな会社を経営しています」


「そうですか」パトリシアは話を合わせると、次の質問に進んだ。「ではどのような業種で?」


「あ、はい……」返事に困ったかのように、男は一旦口ごもると、やがて抑揚のない声で、ぼそぼそと話し出した。


「え、これといって専門的な仕事をやっているわけではありませんので、業種といわれても、はっきりしたものはありません。私のような小さな会社は仕事を選んでいられませんのでね。強いて言えばサービス業みたいなものでしょうか。色々とやっています。

 例えば、建築構造物や工業プラントの解体・岩盤掘削・地下探査・塗装・運送・産業廃棄物のリサイクル及び処分・清掃・雑用・樹木伐採を請負ってやっています。他にも、水路掘り・井戸掘り・道作りの補助・遺跡の発掘の手伝いに残留放射線の測定に地雷の撤去もやっています。まあ、頼まれてできるものなら何でもやるということです」


「はあ、そうですか」


 パトリシアは適当に頷いた。幾らなんでも、今出会った見ず知らずの者に、本当のことを正直に言って来るとはさすがに思えなかったからだった。

 表の顔はそうかも知れないけれど、実際は違うでしょ。まあ、そう言う私だって言えた義理じゃないけれど、とパトリシアは忘れずに目の端で周りに目を配ると、魔物から「我等と良く似た大きさをしている」と聞いていた生き物がどこにいるのか探した。いたいた、いたわ。あれがそうなのね。

 三人の後方あたり、ちょうど紅一点の若い子の足の間に隠れるようにして、薄紫色の毛並をした生き物が横を向いてちょこんと座っているのが見えていた。

 トリガちゃんと同類の魔物とここでお目にかかれるなんて、世界は広いようで狭いわね。教えて貰わなかったら、単に少し変わった毛並をするネコとしてしか見えないから普通にスルーしていたところよ。

 そうと分かれば話がしやすいと、パトリシアは昨夜考えたセールストークを速やかに繰り出した。


「わたし共のコンサルタントという業務は、主に個人並びに中小法人を対象としまして、お仕事の斡旋、仲介、人材の研修・派遣、経営のマネジメントなど、幅広く提供させて頂いておるのですが、それらと併せて裏の社会福祉業。具体的に言えば、法律で裁けない悪人を非合法なやり方で葬り去る、いわば社会に貢献する仕事も同時にやっておりましてね。今現在、人手が少々手薄気味で、新人の募集並びに発掘にも力を入れていますの。

 もうここまで言うと、お分かりだと思いますが、是非わたし共の会社に登録して頂けないかと思いまして、このようにあいさつを兼ねてスカウトしに伺いましたの。どうでしょう?」


「はあ?」


 最初三人は突然のことに驚いたのかポカンとした表情をしていたが、やがて話が終わる頃には戸惑った風に変わっていた。

 けれどもパトリシアは意に介さず、尚も続けた。


「今登録して頂けるなら、特典として一人当たり一万ドルの契約料を支払います。もし至急に資金がお入り用なら二十万ドルまでなら無利子で融資させて頂きます。

 また能力に限界を感じて登録にちゅうちょされるのであれば、その辺りは心配要りません。アフターケアも用意してあります。登録して頂けると、能力アップ間違いなしの研修を無料でお受けできます。 

 このイベントで賞金を手にしたわたし共が保障するのですから、信用して頂けるかと思っています」


 そこまで話すと、パトリシアは手にしていたショルダーバッグを開け、中から薄黄色かかったペラペラの書類を取り出し、一番しっかりしていると見られた、目の前の年長の男に手渡した。そして言い添えた。


「それが契約書類ですわ。どうぞお改めください」


「はあ」


 男は促されるまま応じると、手渡された書類をゆっくりめくり、中身を確かめた。

 といっても書類とは形ばかりで、表紙の部分に難しそうな構文が黒のインクで記されているだけで、一続きになった他の紙面は白紙のページがずっと続いていた。

 見たこともない一風変わった書面に、当然ながら男は首を捻ると訊いて来た。


「これは?」


「はい、契約書類ですわ」パトリシアはにっこり笑うと、こともなげに応えた。


「わたし共のところではこういう様式の書類を通常採用していますの」


 そう伝えると、登録に際しては、本人の名前の記入と利き腕側の手形が必要であること。手形の押印の仕方としては、白紙になったところに三十秒間ほど手の平を載せておくと、何も付けなくても手形が自動的に紙に謄写される仕組みになっている。

 尚、今すぐに契約してくれるなら名前の記入と手形の押印だけで良いが、のちほどという場合はそれに加えて年齢と住所と携帯番号を追加して欲しい等と、まだ何が何だか分からない風な表情で立ち尽くす男に、こと細かに説明し、「どうします?」と手際良く尋ねた。


 それに対し、男はほんの暫くぽかんとしていたかと思うと、急に両隣をチラッと見回して、分かったと言う風に小さく頷くと、困ったような重い口調で返事を返して来た。


「あのう、そう言われてもですね。すぐにはですね……」


「はい、それはごもっともです」


 パトリシアはすんなりと受け入れた。余りしつこく勧めて、何かあるのではないと疑われても困るとその点は心得ていた。

 結論から言うと、書類にはしっかり仕掛けがなされていた。もう七年も八年も前のある日のこと、魔法アイテムのバザールにホーリーが出掛けた折、どういう理由であったか忘れたが、もののついでとばかりに購入して来て貰った品で。書類に登録の押印をした者が、書類が置かれた位置から半径二十フィート内にいるとき、絶対に逆らうことができなくなる呪いが掛かっていたのだった。


「突然このようにプリゼンされても戸惑うのは当たり前のことですから、無理強いは致しません。

 わたしとしては、今ここでも少し時間をおいてからでも、どちらでも構わないと思っています。

 でも、他にも声を掛けているところがありましてね、そこが応じて欠員が埋まると、誠に申し訳ないのですが、こちらから断ることもあろうかと思いますので、その点はご容赦ください」


「はあ」


「では、良い知らせを待っています」


 パトリシアはニコッと微笑んで、わざと思い出したように「ああ、そうそう」と呟くと、


「書面を良く読んでからサインして一週間以内にここへ送って頂けると、直ぐにお返事差し上げますわ」


 そう言って、あらかじめ用意していた連絡先を書いた紙片を手渡し、チラッと足元を見た。そこには、いつの間にかちょこんと座り込んでこちらを見上げている小犬がいた。これで良いんでしょ、と彼女は小犬に向かってウインクをした。


 それからただちに、曖昧な笑みを返してきた三人の男女に簡単な別れ際のあいさつをすると、パトリシアは意気揚々とそこを立ち去った。途中で犬の魔物が変身した車に乗り、出来るだけ早くこの基地を離れる予定にしていた。


「ここまで来て追っ手に出会うなんて、まっぴらごめんだもの」


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