第35話

 ああいうのも有りなのかと、何となく消化不良のすっきりしない終着に終わった先の戦いから二十分ほど経った頃。

 陽光はほぼ二時の方向へ来ていた。影もそれにつれて長くなっていた。

 それまでに激しい戦いが繰り広げられた結果、あれほど綺麗に強固に整地されていた大地のあちこちが陥没したり荒れたようになっていた。加えて、先の戦いの影響で、硝煙の臭いがまだかすかに残っていた。

 その中、張り切り過ぎたのが災いして、少し早めにやって来ていた人影が、構内のほぼ中央付近で立ち尽くしていた。対戦相手が入って来るのを今か今かと待っていた。

 七フィート(約213センチ)前後の上背。ビア樽状体型をした巨体。象の鼻と足くらいありそうな太い腕と脚。明らかに規格外のこれら体格に、黒のレザー調素材でコーディネートしたマスク、ベスト、ガントレット、タイツ、ブーツを着けた姿は、今しがたどこかのプロレスの団体からやって来たヒール役のレスラーのようだった。

 四方の堅固で高い壁は広いリングと見て、わざわざそのようなコスチュームを着用していたのか、単に奇をてらってなのかその真意ははっきりと分からなかったが、とにかくそのような奇抜な出で立ちをする人影は相当な汗かきのようで、ほんの少しの間陽の光に照らされただけだったが、かすかにピンクがかった白色の肌の表面全体に玉のような汗が浮き出ていた。

 人影は、雰囲気から見てそれほど若いとは言えない男で、登録名をオベロンといった。

 

 そうこうするうちに、正面の扉からお目当ての相手がようやく姿を見せた。白いシャツに黒の蝶ネクタイを着け、下は黒色のズボン、同色のブーツを履いた中肉中背の優男で、奇妙なことにマントにステッキといった服飾品を身に着けていた。

 次の瞬間、大男は少しがっかりした風に、「ああ、まいったぜ。あれが俺の相手だとはな」とため息を漏らしていた。大男の視線の先には、余り前を見ていないようなうつむき加減で、三フィート前後の棒状のものを肩に担いで歩いてやって来る影の薄そうな小柄な男がいた。

 大男は周囲を一旦見回し、あの男が本当に自分の対戦相手なのかと荒い息を吐きながら目を凝らした。だが他には誰も出てくる気配はなく。やはりその男に違いないようだった。

 

 実はその男とは、口が悪い上に、往々にして自己中心的で疑り深く被害妄想も半端でない男、ロウシュだった。

 そのときロウシュは、自分のことで頭が一杯で、前方で待っていた相手など初めから眼中になかった。ここまでやって来る途中もずっとぶつぶつと独り言ちしながらだった。

 

「ゾーレの野郎め! よくも俺をフールで登録したことを黙っていやがったな。それも今頃言うなんてよ。連絡が来たって何のことか分からなかったじゃねえかよ、あの詐欺師野郎め!

 しかもフール・ダンプティーだと! あの野郎、俺が脳なしだと思っていやがるのか!

 そのまんま受け取れば、ガキンチョでも分る、ちんちくりんの愚か者という意味じゃねえか。ホーリーのクール・ドビュッシーって言う名はあいつの普段の通り名だから分かるが、どうして俺がフール・ダンプティーでならなきゃならんのだ。自分だけカール・サイモンとまともな名前で登録しておいてよう、なぜ俺がフール・ダンプティーなんだ! けっ、もっとマシな名が幾らでもあったのによう。ええい、ムカつくぜ。

 このまま出て行って見ろ、相手の野郎は絶対に俺を馬鹿にするに違いないんだ。ゾーレの野郎め、俺にわざと恥をかかせるつもりだな。あの野郎、どうしてくれようか!

 畜生め! 後で仕返しをしてやりたいが。ちっ、金のこともあるからな……その上、野郎にはフロイスが付いていやがるからな。俺は、あいつにだけは手も足も出なかったんだよなぁ……。

 叔父貴のBJ・シュルツの貫禄もまだ無いくせしやがってよう、俺を馬鹿にするのは百年早いんだ。

 ま、五十歩譲って我慢したとしよう。だがよ、幾ら素性がばれないようにするためとはいえ得意技を使うなというのはなあ。一見すりゃ確かにまともな理屈だが、良く考えれば内容が問題だ。よりによって俺が、性別年齢問わず何でもござれとあらゆる種類の人間に化けることができる能力を使えないんじゃあ、手足をもがれたのと一緒だ。武器だってそうだ。俺のマオちゃんを使うなっていうのはなあ。嗚呼、納得いかねえ。

 ま、それもおまけして百歩譲って許してやったとしても、俺のこの顔は何だ。ゾーレもゾーレだぜ。俺が一人でやれると言っているのに、ホーリーの申し入れを受け入れろとはよう。ホーリーのご機嫌を取る為にそう言ったんだと思うが、俺には良い迷惑だ。あいつにはパトリシアと違ってメーキャップの才能がこれっぽっちもない。散々俺の顔でああでもないこうでもないと弄んでおいて、最後にもう飽きたという風に白塗りした俺の顔に赤と黒の顔料で適当に丸を描いて終わりなんだからな。それまで俺の顔で試したメーキャップは一体何だったんだ。それをゾーレの野郎、素晴らしい出来栄えと抜かしやがってよう。

 嗚呼、嫌だ嫌だ。あのソランも頑張っているというのによう。あいつらにこの面をまともに見せられるかってんだ。さっさと適当に済ませて、ここからおさらばしないとな」

 

 そう言った文句を垂れながら、更にロウシュが近寄って行くと、威勢の良い声が前方から響いた。


「やっと来たな、お馬鹿なフールさんよ! 中々やって来ないので逃げ出したのかと思ったぜ」

 

 大男からだった。巨体と同様図太い声だった。

 

「な、何だと!?」

 

 地獄耳のように反応したロウシュが直ぐにその場で足を止めると、やはり来やがったなと、いらついた顔を上げた。

 

「おい、もういっぺん言って見ろ」

 

 そう言って声を荒げたロウシュに、大男がほんの一瞬放心したようにロウシュを眺めるや、やがてそれは失笑に変わった。そして、悪びれる様子もなく思ったことを嫌味たらしく口にした。

 

「フール・ダンプティーという登録名はお前の愛称か? それとも実の名前か?」

 

「うるせえな。何でもいいだろうがよ!」

 

 挑発してきた大男に、ロウシュは険しい表情で吐き捨てた。大男は落ち着いた雰囲気で続けた。

 

「ふん、実の名か! その顔なら当たっているな」

 

「うるせえ、うるせえ。てめえこそその格好は何だ、まるでレスラーじゃねえか! この場でレスリングの興行でも始めようと考えてるのか?」

 

「ああ、その通りだ。見世物は見世物らしくやろうと思ってな。見ている客を楽しませてやろうと、わざとこの格好をしてやって来たのよ」

 

 横柄に応じてきたロウシュに、馬鹿な奴、上手く挑発に乗ってきたな、と含み笑いをした大男は、両手を腰に当て胸を張った偉そうな態度でロウシュを見下すと尚も続けた。

 

「そう言うお前もお世辞にもまともと言えないな。何だ、その面は?」

 

「ああ、これのことか?」ふんとロウシュは大男をにらんだ。

 

「これはな、他人に押し付けられたんだ。誰が好き好んでこんな格好なんかするもんか! 俺の場合はおめえのように自分から進んでやったんじゃねえんだ」

 

「ふふん、それにしても悪い冗談だぜ、その面はよ。これからオペラ劇場で喜劇でもやりに行くつもりか? それとも、俺を笑わせて倒すつもりなのか? その面晒して恥かしくないのか? 俺なら恥かしくてとてもこの場にいられないな」

 

 ニヤニヤしながらそう言ってきた大男に、ロウシュはいらいらした表情で、肩に担いだステッキを貧乏ゆすりをするように揺り動かしながら応じた。

 

「ああ、悪かったな。てめえこそ何だ、その肉ソーセージの固まりはよ。どうせ図体だけでかくて脳みそはアリンコ並みなんだろうがよ。俺はな、てめえなんか眼中に無いんだぜ。早くそこにひざまずいて負けましたと言いやがれ。そうしたら御慈悲で命を助けてやっても良いんだぜ。おい、やるのかやらないのか、はっきりしな!」

 

「何わからぬことをぬかす。力の無い者に限ってよく吠えるというが貴様は間違いなくそれだな。本当に困ったものだな」

 

「嗚呼、うるせえ、うるせえ。てめえは口だけは一人前みたいだな。勝手にほざきやがれ。お前なんか、あっという間に家畜と同様、と殺してやらあな」

 

「ああ、そうか。ならやって見ろ、この道化め!」

 

「うるせえ、このデブマスク!」

 

「おいおい口の悪いお前、減らず口もそこまでにすることだな。俺の力を見ればいっぺんにその能天気なお頭が変わるだろうよ。お馬鹿なフール・ダンプティーさんよ」

 

「おい、こらっ。また俺の気にしてることを抜かしやがったな! よ~し、やってやろうじゃねえか、このおたんこなすめ!」

 

「ふん、直ぐに殺してやるから早くやって来な」


「何っ! 抜かしやがったな、この能無しのうすのろのデブの脂肪の足短かの間抜けゴリラめ! その言葉、てめえに直ぐに返してやらあ」

 

「ほ~う、やれるものならやってみろ」

 

 などと、二人は互いに汚い言葉で相手をののしり、悪意のこもった表情でにらみ合った。予断を許さない空気が流れ、まさに一触即発かと思われた。そうこうする間にタイムが10:00にセットされ開始時間がやって来ていた。

 にもかかわらず二人共、中々動く気配はなかった。そのことは、お互いがズブの素人ではなかったことを暗に示すものだった。

 二人は、これまでの様々な命のやりとりの実体験から照らし合わせて、へたに相手を甘く見て突っ込んだのでは必ずヤケドするとして、軽はずみな行動を思い留まっていたのである。

 具体的に言えば、どんなに騒ぎ立てていてもロウシュの頭の中は極めて冷静だった。

 こういう体つきの人間は力で押して来る単純なタイプにほぼ間違いないだろうが、偶にわざと反応が鈍い振りをしている場合がある。うかつに出て行くと向こうの思う壺だ。さて、どう行くべきかと思考を巡らせていた。

 また大男に至っては、攻めるより受ける方を巨体に似合わず得意としていたので、早くやって来いというのが率直な気持ちだった。

 そのような滞った事態が動き出したのが、どちらかといえば先に仕掛ける傾向があったロウシュの腹積もりが固まったときだった。

 

 さてと、やるか。

 

 ロウシュは、どっしりと構える大男を一べつすると、改めて周囲の状況を確かめた。そうしてから肩に担ぐようにしていたステッキを一振るいした。たちまちステッキが、マジックを見ているかのようにムチへと変わっていた。

 ムチを手にロウシュは、相手の耳元に聞こえるように一、二発地面に打ち据えた。相手にムチを意識させるためだった。

 そうして距離を測りながら、一歩、二歩と間合いを詰めていった。

 

 すると大男は、反射的に顔の前で両腕を交差させる防御の構えを取った。

 一瞬、大男の鼻息が止まった。

 腐敗臭のような酸っぱい臭いが大男の側から漂った。

 距離はまだ二十ヤード(約18メートル)以上あった。どうみてもムチが届きそうもない距離だった。

 そのとき、ロウシュが着けていたマントの風合いが、それまでのしなやかな感じからごわつく感じに変わっていた。

 それとほぼ同時に、はたとロウシュの目が輝いた。何か嫌な感じがするな。これ以上近寄れば危ないっていうことか?

 彼が着けていたマントは、もちろんただのマントではなかった。錬金術師に特化した魔法使いによって製造された正真正銘の魔法のマントで、得意技を使わずに戦うのは余りにハンデがあるからと、同僚のホーリーからここに来るとき成り行き上貰ったというか物々交換で手に入れたものだった。

 但しその魔法のマントにはそれほど高度な機能は付いていなかった。従って、空を飛んだり、姿を消したり、はたまた結界を張ったりすることはできなかった。できるのは、基本的な防音、防寒、防熱、防刃、防弾、偽装の機能ぐらいで。ただホーリー仕様であったことで、誤作動もあるにはあるが危険を知らせる機能が別に備わっていた。

 

 仕方ないかと、ロウシュはその場で小さく振りかぶると、釣竿を振るように手首のスナップを利かせ、あっという間に相手に向かってムチを振るっていた。

 フューと風を切って一直線に伸びたムチの先端部が、そこまで伸びしろがあるのかというほど見る見るゴムのように伸びて、一気に大男の元へ向かったのと、大男が大きな声で「さあ来い、道化!」と叫んだのがほぼ同時だった。

 

 結果は、やはり予想した通りになっていた。距離があった分、大男はムチの軌道を読むことができていた。

 襲って来たムチの一撃を、でかい図体の身でどうしてそのような鮮やかな動きができるのかと思うほどの余裕たっぷりな仕草で難なく避けていた。

 続けて放たれた一撃も同様だった。瞬時にかわしていた。

 そういったムチの洗礼が、目も留まらぬ早業で十数度続き、その全てが空振りに終わっていた。

 けれどもロウシュは、次々と攻撃をかわす大男を涼しい目で眺めながら、尚も続けた。

 

「ほれ、ほれっ! 踊れ、デブ野郎め」

 

 さながらその光景は、調教師がムチを振るって楽しそうにペットの動物を自在に操っているかのように見えていた。

 やがて大男は馬鹿にされていることに気付いたのか方針転換。突然避けることを止めたかと思うと、正面から受け切る手段に打って出た。ロウシュの何度も同じことを繰り返す単調な攻めに既に目が慣れていたせいなのか、見る間に左手の中にムチの端を握っていた。

 大男は昂ぶった荒い息を吐いた。

 

「良くも俺をあざ笑ってくれたな」

 

 ムチの両端を二人で持ち合う形になったことで、それまで真剣な表情で受けに回っていた大男からようやく安堵の笑みが漏れた。

 

「さあ、どうする、間抜け面をしたお兄さんよ」

 

 そう言って手に持ったムチの端を、ぐいと自分のところへ軽く引っ張った。それにつれ、ロウシュの身体がずるずると男の方へ引き寄せられた。

 確かに、外見からみて重量が優に五百ポンド(約227キログラム)を超えている大男と百五十ポンド(約68キログラム)内外の優男とでは、今引っ張り合えばどちらが勝つか、力の差は歴然としていた。

 その状況に、ロウシュは慌てるどころか全く動じなかった。まだまだ落ち着き払っていた。

 これでどうだと、勝ち誇ったように大男が更にもう一方の手も加えて、一気に引っ張り込もうとしてきたときだった。そこぞとばかりにロウシュがムチから手を離した。その辺り(いきなり手を離して尻餅をつかせること)は大男も百も承知していて、力加減を心得ていた。微動だにしなかった。

 と、何の前触れもなく、大男が握ったムチの辺りから閃光が上がった。同じところから灰色かかった煙が立ち上った。生温かい風が生じ、革や肉が焦げたような何とも言えない異臭がした。

 次の瞬間、不意を突かれた大男は凍り付いたように立ち尽くすと、声を上げる暇もなく膝から崩れ落ちていた。開始から三十数秒しか経っていなかった。

 

「大馬鹿野郎め、引っかかりやがって!」

 

 うつむき様に倒れた大男を眺めながら、ロウシュは満足げにニヤリと微笑んだ。

 

「ざまあ無いな、この能無しめ。てめえが先に地に這ったようだな」

 

 そう呟くとロウシュは苦笑した。

 一瞬の内に、ムチを握った大男の手から心臓や脳といった身体の重要部分に大電流が流れて影響を及ぼしていた。大概の者なら運動機能及び意識活動が停止し、死に至る筈だった

 こういう体型をした者は、頭が切れる上に運動神経も抜群とは考え難いと判断したロウシュの作戦勝ちといったところだった。

 

「エヘヘヘ、終わったな」

 

 直ぐ傍の地面に唾を吐いたロウシュは、もうそろそろ身支度して戻ろうかと、大男の傍らの地面に目を向けた。そこには、元の短い状態となったムチが落ちていた。

 だがそれで終りではなかった。今度はロウシュが驚く番だった。

 突如、地面に倒れた男の背中辺りから黄色い炎が上がったかと思うと、ガソリンに引火したようなスピードで男の身体全体が黄白色の炎に包まれた。大男が一気に焼き尽くされるのかと思うほどの凄まじい炎だった。

 その光景をロウシュが気付かぬ筈はなく。信じられないという顔で呆然と見ていた。

 

「何だ、何が起こったんだ?」

 

 瞬間、ロウシュは目を瞬かせた。

 目の前で起きた、燃えるということは想定になかったからである。しかも、炎の中で大男の身体がゆっくり動いていた。ただならぬ気配がそこから伝わって来ていた。

 案の定、

 

「よくもやってくれたな」ロウシュにとってあり難くない、低く図太い声が響いた。倒れた大男からだった。

 

「ちっ!」 瞬殺の予定が外れたとロウシュは舌打ちをした。「頑丈な野郎め!」

 

 見る間に大男は身体を起こすと立ち上がった。ほぼ同時に炎が消えうせ、レスラーのコスチュームから露出した男の白い皮膚が薄く紅色に染まっていた。

 その光景をロウシュは面倒臭そうな目で眺めていた。ただ見ていたわけでなかった。一旦死んで蘇ったゾンビか何かだろうかと疑っていた。

 

「またせたな」更に声が響いた。「もっと近付いて来てくれたら、一気にと思っていたのだが」

 

 と、大男は独り言を呟きながら、ロウシュの方へ振り返った。

 男のその独り言こそ、ロウシュが最初に感じた嫌な予感の正体だった。

 だがそのときのロウシュは、あいにくとそれどころでなく、全く聞く耳を持っていなかった。

 生きていやがった、それもピンピンしているみたいだな、と心の中でぼやきながら、復活した大男につけ込む余地がないかと、ひるまず考えていた。

 

 大男は黙って見つめるそんなロウシュに、尚も乱暴に語りかけた。

 

「不意打ちを仕掛けて来るとは小賢しいことをしてくれるじゃねえか。俺でなかったら、全てお前の思い通りになっていたろうな。そこのところは本当に残念だったな」

 

 威圧的な態度の大男に、そんなこと知るかという風にロウシュは口を歪めた。

 

「てめえ、ごちゃごちゃとうるせえんだよう。いい加減にしろよな」

 

 そして、にらみつけながら開き直ったように言い放った。「この単細胞野郎が! そのまんま死んだ振りをしとけば良いものを。わざわざ今度こそ殺されたいと立ち上がって来るなんてな。相当頭がいかれてるな、てめえはよう。次こそ……」

 

「黙れ、外道!」

 

 いまだ口が減らないロウシュの態度が余程気に触ったのか、大男が怒気を含んだ声で遮るや否や、片方の手を乱暴に振った。途端にその方向の地面に横走りの炎が上がった。

 大男はその情景を見もせずに悦に入った顔をした。こいつは炎術を使うのかと、それを見たロウシュは疑った。

 

「だがこの俺が本気になったからにはもう通用せん」

 

 そう断言した大男はどっしりと構えると、片方の手をロウシュの方へ突き出した。そうして、「デウス トニトラス」と詠唱すると共に手を一旦握って開くと、大男の大きな手の平の中央部分に三角形の模様が黒っぽく刻まれていた。良く見るとその部分は空洞になっているようだった。

 

 それを目にしたロウシュは直ちに、「ふん、ぼんくらめ! それくらいでこの俺が怖じ気付くと思ってんのか!」

 

 などと応じながら、前に行われた戦闘ですっかり荒れ果てた地形を横目で見据えてしっかりと頭に入れると、大男から目を逸らさずにじりじりと後退した。

 あの格好から見て、おそらくやって来るのは飛び道具で、炎の塊か何かを撃ち出す気だろう。そう考えると、この間合いではヤバいと、数多くの場数を踏んでいることもあってそう判断していたのだった。

 

「口の減らぬ奴。これを食らうが良い」

 

 距離は三十ヤード(約27メートル)ちょっとになっていた。ロウシュは不敵な笑みを浮かべて身構えた。

 その瞬間、大男はにやりと笑うと、自身の目と鼻の先に落ちていたムチに向かって、邪魔だと言わんばかりにもう一方の空いた手を振った。

 一瞬にして黄色い炎に包まれながらムチが手の届かないところに吹き飛ばされていった。

 ほんのちょっとした手間暇だったが、後願の憂いを絶つという意味で、歴戦の強者らしいやり口だった。

 それから改めて、遠慮のない一撃をロウシュに放った。

 

 果たして大男の手の平の部分から発射されたそのものは、黒っぽい煙で包まれたバスケットボール大の物体としか表現できないもので、風を切る音を勢い良く轟かせながら、黒っぽい煙の尾を長く引いて向かって来た。

 次の瞬間、物体を引き寄せるだけ引き寄せて、ひょいと間一髪のところで避けたロウシュと、目標を失って遠ざかる物体の姿があった。

 物体は矢のように一直線に飛行して最後に壁まで到達すると、火花を伴う弱々しい爆発を起こして消えていった。

 一発目が外れたと見るや、第二弾、第三弾、第四弾の攻撃が続けて行われた。だがロウシュは何れもストリートダンスをするような変則的な動きで、紙一重でかわしていた。かわしながら更に距離を取っていた。これくらいの攻撃では終わらないと見ていたからだった。

 果たして業を煮やした大男は「ふん、ちょこまかと目障りな小者め。小者は小者らしくさっさとこれで年貢を納めろ!」と叫ぶと、新たなる呪文、「デウス ファヴィラ」を詠唱。

 

 今度は黄色っぽい色をした火球が、もう片方の手の平から繰り出された。

 火球は地面や壁に着弾すると、反動で壊れて粘性のある液体が飛び跳ねるように周囲に飛び散った。

  

 これら、黒っぽい煙弾と黄色っぽい火球の二つが組み合わされて速射砲のように繰り出された大男のなりふり構わぬ連続攻撃を避けるのは、ロウシュにとっても容易でなく、道化のような化粧をしたロウシュの顔が思わず歪んでいた。

 案の定、やがて瞬く間にそのうちの一発が直撃。数発が身体をかすめていった。

 直撃した方は黒っぽい煙弾の方で、直前に魔法のマントを盾にして受けたので無事だったが、その威力は相当なものだった。

 魔法のマントの表面が、瞬時に黒から赤へと変色し、生地の一部が焼けて向こう側が見えるくらいの穴が開いた。それに加えて、その衝撃で身体が三、四十ヤードは吹き飛んだ。

 そのとき着ていた衣服の一部が焼け焦げ、おまけに息もできなくなるほどの熱風を感じたことから、黒い煙弾の正体は、高熱を帯びた気体のようなものではないかと疑っていた。

 そして、それでいくともう一つの黄色い液体でできた火球は、高温で溶けた溶岩みたいなものではないかと着弾した辺りの状況から思い当たったことにより、このまま真正面から相手にしていたのでは身が持たないとして、一層のこと一時退避することでこの窮地に追い込まれた状況をもう一度立て直そうと、「おい、逃げる気か」と大男が怒りを含んだ声で鼻息高く叫んできたことなど全く聞く耳を持たぬと言った風に身を翻すと、「馬鹿野郎め、その手にのるか」と毒づきながら一目散にその場から遠ざかっていた。

 

「奴の能力は、一方の手から高温の熱風。そしてもう片方からは溶けた溶岩を吐き出すというわけか」

 

 逃げながらロウシュは苦笑した。彼の視線の先には、そう結論付ける元となったさながらの世界が、展開していた。

 それは、見たこともない無残な光景だった。

 周辺の地面に深くえぐれたような跡や吹き飛んだ土砂でできた山が数多くできていたし、堅固な壁の一部には亀裂や崩壊してえぐれたようになっている箇所があり、壁から落下したコンクリートの塊が幾つも見られた。

 他にも、地面の一部が高熱で溶けて液状化。仄かに赤く輝いて、それら周辺からどす黒い煙やら水蒸気だろうか白い煙が、くすぶるように上がっていた。


「それにしても無茶苦茶な野郎だぜ。ちょっとぐらい手加減をしろって言うんだ」

 

 そのような恨み言を吐きながらロウシュは高温の空気に包まれたそれらの箇所を避けるように回り道をすると、まだ被害を受けていなかった方向へ回り込むように向かった。途中で何度もつまずいて転んだのも一生懸命に逃げた結果であってご愛嬌といえた。それほど背後からの攻撃は凄まじいものだった。

 

 そのとき大男は、最初いた地点からまだ離れずにいた。

 男は、多少広くても四方が逃げ場のない壁に囲まれている限り、このまま攻撃を続ければ直ぐに追い詰めることができる。そして決着も時間の問題と考えていた。

 ところがその予想に反して、時間が既に半ばを過ぎているのにもかかわらず、決着がまだ付いていなかった。

 その原因は三つほど考えられた。

 一つは、考えていたより構内が広かったこと。そのため、敵に逃げる余地を与えていた。

 二つ目は、隠れる場所があったこと。敵はその前の戦いでできた窪地や土が盛り上がったところに身を潜めて攻撃を回避する行動を取っていた。しかも一ヶ所に留まらずに頻繁に場所を変える作戦を取って来た。

 そして三つ目は、逃げ足が早い上に、いらいらするぐらいすばしっこかったことだった。

 しかもその間、敵は一度も反撃をしてこなかった。追われる側対追う側の二極化がはっきりしていた。だがそのことがここへ来て、大男には逆に不気味に映るのだった。

 あの自分勝手で短気な性格と往生際の悪さから見て、奴は引き分けに持ち込もうとは金輪際思ってはいない。隙あらばと様子を伺っていて、その時期が来れば必ず何かしらの行動を起こして来る筈だ。そのとき考えられるのは起死回生の一発逆転劇だ。例えば、がら空きである上空から何かしらの物体を降らせたり、至近距離から強力な威力を秘めた爆弾を投げつけてくることが上げられる。そんなことをされたならひとたまりもなくこの優勢な形勢が逆転してしまう可能性がある。――といった憶測を生み、焦り混じりの強い危機感を感じていた。

 また、自らの攻勢により生じた各種ガス、土煙などによって敵を見失っていたこともそれにいっそう拍車をかけていた。

 

 そこで大男は一計を案じた。それは、このままここに居座っているのは標的にされる恐れがあるからとして、自ら動くというものだった。

 じっくり時間をかけて攻めるのが普段からの大男の必勝パターンであったため大きな決断だった。これも時間という制限があったための緊急措置といえた。

 

「いい気になるなよ。逃げ切れなくしてやるからな」

 

 そう呟いて一旦攻撃の手を止めた大男は意を決したように、儀式をするような格式ばった口調で難解な言葉を詠唱した。

 

「スルガ エルトーネ ガトー。エル アモーン ネ。カムオム キングスリース リオンネス」

 

 次の瞬間、男の姿がややオレンジ色かかった光り輝く炎に包まれたかと思うと、多数の複雑な継ぎ目がある、見たことのない深紅色の鎧が、顔を除く全身を覆っていた。

 しかもその継ぎ目からは、白黄色をした炎がちろちろと燃えていた。またそのせいなのか知らないが周りの空気が揺らいでいた。

 

「炎術師として理想の、無敵の装甲だ」

 

 準備をし終わった大男は、満足げな顔つきでにやりとほほ笑むと、視線を前方へ向けた。隠れていそうな場所を一つ一つ潰していく作戦だった。

 

 大男の機動力は疾風のようにとまではいかなかったが、でかいその身体の割には中々なものだった。

 当の男が通った跡は地面が高熱でどろどろに熔解していた。両手から繰り出される煙弾も火球も勢いを増していた。

 男のやり過ぎともとれる荒業に構内は徐々に溶岩の海のような状態へと化し、周囲を囲む壁や地上の方へも被害が及んだ。

 壁の何ヶ所かは重症で、高熱や衝撃で所々焼けただれ、ひび割れて崩壊寸前になっていた。

 場外からは灰色やら黒い煙が幾つも上がっていた。それが益々増加していく傾向にあるようだった。

 それと共に、どこから現れたのか正体不明の気球或いは小型の飛行船のようなものが上空に浮かんでいるのが幾つも見えていた。煙が出ている付近を通過した後に煙が消失することから、それらは上空から消火薬剤を散布しているのかと思われた。

 もちろん二人が戦っている上空にもそれらは現れていた。全部で三つ見えたそれらは一見すると、奇怪な魚の形――全身が半透明。空の青色と溶け込むような深青色をしており、鰭が水平と垂直に二対あること以外はマンボウの姿にそっくり。――を何れもしており、機械仕掛けで空中を泳ぐように飛行していた。

 だがそれらは、見る人が見れば気球でも飛行船でもなく。実は、術者が呼び出した、魚に似た生き物だった。それらは全身から白い冷気を撒き散らしながら、優雅に空中を遊泳していたのだった。

 少し前。

 ロウシュに向けた大男の情け容赦ない攻撃が戦慄を極め、構内が焦土と化し、四方を囲む壁の一部が崩落し、場外にも被害が及びかけた頃。壁の付近に、ローブのようなゆったりとした衣服を身にまとった複数の白い人影が、目立たぬように立っていた。

 人影は周囲の状況を見回すと、祈るようにとある文言を唱えた。

 

「トリィル スコビツ シス ディアンアス。水属性の生き物、その名はグレイシャ。現れ出でて、立ち上る炎と煙を速やかに消し給え」

 

 その時より生き物が出現していたことから、何者かがこれ以上の破壊と外部への被害を防ぐ意味合いで動いたのは明らかだった。

 

 同じ頃、間一髪のタイミングで執拗な攻撃をかわしていたロウシュは、攻撃が一時止んだときを見計らって大男の真後ろに回り込むと、そのとき見つけた深さ二分の一フィート(約15センチ)前後の、ちょうど人一人がぎりぎり隠れることができそうな浅いへこみの中へ身体を、裏返した魔法のマントを頭のてっぺんから足のつま先まですっぽりと被った状態で張り付かせ、海底の砂地で周りと溶け込むようにじっとしているヒラメのように気配をすっかり消して身をひそめていた。

 そのときロウシュは、まだこれっぽっちの実力も出し切っていなかったせいもあり、「このままいくと、俺も今日で終わりかな」などと冗談を言えるほど、まだまだ余裕を持っていた。

 だがそうかといって、不意を突いて背後から襲う気は、武器を持ち合わせていなかったせいもあり、さらさらなかった。では打つ手がなくてこのまま時間が来るまでじっと待っているかと言えば、そういうつもりもさらさらなかった。

 このようにしていたのは、彼からしてみれば、ちょっとした作戦タイムといったところだった。時期が来れば決着をつけるつもりでいた。ところがその時期が問題だった。

 実のところ、この上は奥の手を出そうかと考えていた。ところがその力というのが、思い通りに使えないというか不安定そのもので、ロウシュ自身にもいつ出せるのかはっきりと分からない代物だった。従って、場合によっては不発に終わることもあるとして、そのときはそのときで、二人には悪いが約束を破ろうと決めていた。

 

 すると、その間隙を突くように、背後に重苦しい気配を知覚が感じて、危ない逃げろとささやいた。

 

「来やがったな!」

 

 ロウシュは土にまみれた顔を上げると、周囲をきょろきょろと伺った。こういう滅茶苦茶にやってくる相手にはときどきまぐれ当たりというものがある。もしもそうなったときは目も当てられないからと早めに動いたまでだった。

 にらんだ通り、立ち上る高温の土煙と白煙が入り混じった狭間から、血相を変えた大男が姿を現した。無数の怪火をまとった真紅の武具を身に着けたその姿は、炎の化身と見間違うほどだった。

 

「捜したぞ、道化」大男は身構えながら、大声で乱暴に叫んで来た。「覚悟しろ!」

 

 その身に闘気をみなぎらせた男の威圧感が、周辺の空気を揺らがせた。自然とロウシュの表情には余裕が消えていた。額に冷や汗がにじんでいた。

 

 距離は三十フィート(9メートル)もないな。こりゃヤバいぜ。このまま逃げるとやられるな。

 

 反撃に出ようにも、今の状態を考えるとどうすることもできず。絶望的な結末がロウシュの頭をかすめた。だがそうかといって、まだ諦めたわけでなかった。諦めの悪いのが彼のとりえだった。

 

 呆気にとられたように呆然とロウシュが立ち尽くす間隙を縫うように大男は更に近付いた。もはや二人の距離は十五フィート(約4.5メートル)もなかった。飛びかかろうと思えばできる距離だった。

 

「これで終わりだ」ロウシュのすぐ目の前で立ち止まった大男が、荒い息使いで宣告してきた。

 

「うるせえ、てめえ!」すかさずロウシュは叫んだ。大男の影響で、余りにも熱くてこれ以上は耐えられなかった。一刻も早くその場から離れたい気分だった。 その瞬間、

 

「ほざけ!」逆上したような大男の図太い声が返ってきた。

 

 当然として、その期を逃さず男が手を向け攻撃を仕掛けて来ると思えば、さにあらず。両方の手はなぜか腰に当てられていた。その代りに、大きく息を吸う仕草をした。口から炎でも吐いて、一気に目の前の敵を焼き殺す算段のように見えた。

 

「うるせい。これでも食らいやがれ」

 

 胸糞悪いことにうまい手がなくて前に出れず。といって後ろに下がることもそう易々とできず。もう作戦もクソもないと、その後のことなど何も考えずに、ロウシュはその場で目に留まった身に着けていた魔法のマントを、少し位は時間稼ぎになるだろうと、半ばやけくそで男に投げつけた。

 マントは傘がパッと開いたように大きく広がると、絶妙のタイミングで大男の顔辺りに勢い良く覆いかぶさっていった。

 思い掛けない出来事に、大男は一瞬ひるんだように見えた。が対応は早かった。すぐさまマントを顔から引き剥し、そのついでに両手で縦に引き裂いた。

 ほんのわずかにつけ入る隙ができた瞬間だった。

 その瞬間を突いて回れ右をしたロウシュは、焦る心の内とは裏腹に、「お助けを!」と末期の叫びを冗談半分に上げながら、後ろを見ずに必死になって逃げ出した。真っ直ぐ逃げると格好の標的になるからと、意表を突くように蛇行しながら。

 案の定、後ろから、「待て!」と勢いに乗って叫ぶ大男の声が追ってきた。しかし構わず走った。途中、余りに慌てていたこともあり靴がダメになるわ、足が空回りしてうまく走れず。終いには裸足で四つんばいになったが格好悪いといっていられなかった。獣のように四つ足で駆けていた。

 

「こりゃ酷いな」

 

 ちょっと前に見た景色より、また酷くなっているようだった。

 至る所に比較的深い溝が刻まれ、そこから高温の蒸気が上がっていた。高温で融けた地面がぬかるんだようになっているところが更に増えていた。それと共に、まだ手つかずの地点が明らかに減っていた。その中、

 

「本当に死ぬかと思ったぜ」荒い息を吐きながら、ロウシュはほっと胸を撫で下ろした。

 

 何とか絶体絶命の場面は回避できていたが、まだ危機が去ったわけではなく。逃げに転じながら、どこへ避難しようかと辺りを伺うその表情は硬くさえなかった。マントを失ったせいで、サウナに入ったかのようなうだるような暑さを感じたのも、それに拍車をかけていた。顔から流れ出た滝のような汗が空中に拡散し、もはや蝶ネクタイはしていなかった。薄汚れた白いシャツが身体にぴったりと貼り付いていた。

 

 その後ろ姿を、「このう……」と、いらいらした表情で追いながら大男は、「次はないぞ」と思っていた。態勢は明らかに、追う側が有利で、逃げる側は劣勢だった。戦闘力を増していたことで、距離は否応なく直ぐに詰まった。もはや決着は時間の問題と思われた。

 

 直ぐに葬ってやるぞ、臆病者め!

 

 一方、逃げたロウシュの方も同じ思いだった。「次はないな」と思っていた。相手を甘く見過ぎていたつけが回ったのかと反省しても後の祭りだった。

 

「最悪だぜ。今日は運が向いてないようだな」 

 

 そう呟きながら、さてこれからどうするかと、何気なく鼻の穴に小指を突っ込んでは、思案していたときだった。

 

「おやおや?」

 

 急にロウシュは、頭の中で何かが弾けたように足を止めて立ち尽くした。

 同時に、むずがゆかったのか鼻の頭を右手の指でかく仕草をすると、次に鼻を強くつまんだ。そして、とうとう来やがった、と独り笑いした。その微笑みにはとてつもない残忍さがこもっていた。

 

「何とか間に合ったようだな。さてと、これから本番と行きますか」

 

 落ち着きを取り戻したロウシュは、周りの空気を震わせながら迫りくる相手の大男のことなど、もはや関係ないという風に呟いた。

 

「発動せよ、俺の力よ!」

 

 それが合図であったらしく、信じられないことが瞬時に起こった。いつの間にか流れが変わっていて、追う者と追われる者の立ち位置が入れ替わり、不条理なことが展開されていた。

 何と、大男は地面にうつ伏せに倒れていた。しかも服装はレスラーそっくりのコスチュームに戻っていた。また大男の両足には、一旦どこかに消えたムチが何重にも絡まり、動きを完全に封じていた。その直ぐ傍ではロウシュが、倒れた大男の太い腕の一方を逆手に取って動けぬように押さえつけていた。

体格では明らかに大男に分がある筈なのに、大男が抵抗出来ぬとは奇異な光景だった。

 他にも、もはや耐えきれないところまで来ていた暑さが当初の陽気に戻っていたし、亀裂が入ったり崩壊した壁や陥没したり亀裂が入った地面はそのまま残っていたが、それ以外の、髙熱で溶けてぬかるんだようになっていた箇所はいつの間にか冷え固まり、痕跡を残すのみとなり。もうもうと立ち上っていた煙はどこかに消え去り見晴らしが良くなっており。

 そうして新たに、それまでの出来事のなれの果てというべきか、廃墟、荒れた地と言った殺伐とした世界が出現していた。

  

「何のまねだ?」

 

 目の前で起こっている現実をさっぱり呑み込めていなかった大男が最初に発した言葉だった。

 

「何のまねということはないだろう」満足げに目を細めたロウシュの返答だった。


「てめえが終わりということよ」

 

「うぅ、終わりだと……」

 

 苦しそうな荒い息を吐きながら一旦考え込んだ大男は、納得できないと言う口振りで問いただしてきた。

 

「いったい俺はなぜこんな格好でいる? そしてお前はなぜ俺をこんな風に……」

 

 何の兆しもなく突然暗転が訪れたのだから無理もない反応だった。何が言いたいのか充分に分かったロウシュはニヤついた顔で応じていた。

 

「そりゃ、てめえがしくじったってことよ。気が動転して何も覚えていないんだろうがな」

 

「俺が、か!?」

 

「ああそうだ」

 

「ううっ」

 

 大男は苦しそうなうめき声を上げ黙り込んだ。どうやら自由にならない身体を無理に動かそうとしたらしかった。

 

「馬鹿め」

 

 ロウシュは一言そう呟くと、こんな暑苦しい野郎とこれ以上付き合うのはごめんだと、早い所終わらせてしまおうとして、両手で決めていた腕をさらにねじり上げた。

 

 これは俺を焦らせてくれた礼だ。ありがたく受け取れ!

 

 次の瞬間「ううっ」と、くぐもった男の悲鳴が辺りに轟くと共に、男のぶよぶよした太い腕があらぬ方向へ曲がった。肩か肘の関節が脱臼したらしかった。

 ロウシュも人の子、それまでの酷い目に遭ったことを忘れてはいなかった。これで終わらせるつもりはなかった。次はもう一方の腕にも同じことを行うつもりだった。腕が終わったら両足をさっさと破壊して、最後に首の骨をへし折ってケリをつけてしまうつもりだった。

 

 そして大男は、今味わっている苦痛と屈辱をどれ位倍増して返してやろうかと、そのことばかり考え、その目は怒りで震えていた。

 だが問題は、こうなった理由だった。それが分からないことにはどうにもならなかった。

 例えば、自身の最強の防御であり攻撃の中核であった武装装甲が、なぜ消えていたかということだった。近付くだけでも通常なら焼死するぐらいの高熱を帯びた装甲にどのような手を施したのか大いに謎だった。

 その次に、この身体だった。目も鼻も口も耳も普通に異常はなく、思考力も全く変わりはないのに、身体の自由だけが局所麻酔をされているかのように利かないことだった。ところが痛みだけは、なぜかひしひしと伝わって来るのだから始末が悪かった。

 これらのことを考え合わせると、相手が使った手法・能力とは、

 ・時間を超越して、時間を巻き戻した。

 ・能力自体を吸収した。

 ・同じような規模でマイナス要素の力を重ね合わせて力を相殺した、のいずれかのことを行い、それから局所麻酔の注射のようなものをしてきた。―――といったことが先ず頭に浮かんだ。だがそれらは全て空想の域を出ないもので、具体性に欠けるものだった。そうして思い付いたのはトリック、つまり幻惑若しくは暗示めいた術を使ったのではないかということだった。

 そう想定すると、武装装甲が突然消えたのも急に身体に力が入らなくなったのも説明が付くのだった。

 装甲が消えたのは、この俺自身が奴の幻惑の術で装甲を解除したからに違いない。力を全く出せないのも俺が赤子並みに弱くなるという暗示を受けているせいだからだ。

 奴め、正攻法ではかなわないと見て、あらかじめ目に見えないトラップを仕掛けておいて、俺がミスを犯してはまったところにつけ込んでこんな風にしたに違いない。

 そうと分かれば話が早い。まだ対応策はある。

 ロウシュによって壊された片腕は、太い楔を打ち込まれたかのようにジンジンと痛み、少しでも動かそうものなら激痛が走った。加えてもう一方も、もう直ぐ破壊されようとしていた。

 それ以外にも両足はムチによってきつく締め付けられ、拷問を受けているのと何ら変わらないと思えるほどズキズキ痛んでしようがなかった。

 

 そういった苦しい息の下から答えを導き出した大男は最後の勝負手に出た。

 突然高笑いする声が、大男から響いた。

 そのとき、これは俺のマントを使いものにならなくしてくれた礼だとして、男のもう一方の腕も使いものにならなくしようとしていたロウシュは、いきなりの笑い声に、こいつは気でも狂ったのかと一旦手を止めると、その方向へ振り返った。

 

「おい、何だ、どうかしたのか? デブ野郎」

 

 それに応えて大男が口を開いた。

 

「よ、ようやく分かったぞ、お、お前の能力がな」

 

 苦しそうな何とも精彩のない声だった。

 

「ほ~う、何のことと思えば、そんなことか」

 

 ロウシュは落ち着き払った声で応じると、馬鹿にしたように笑った。

 

「その余裕もこれまでだ。今からお前のトリックを暴いてやる!」

 

「余り暴れんなよ。苦しむだけだぜ」

 

「し、しらじらしい奴め、その手には乗らんぞ。思い知らせてやるからな」

 

「ふん、勝手にしろ」乱暴に一蹴したロウシュのブラウンの目が不気味に輝いた。

 

 果たして男は、ロウシュの忠告をよそに、大きく息を吸ってから一心不乱に言葉を紡いだ。

 

「デウス ヘヴァンタス! 風よ、舞え! 舞って真実を見せよ!」

 

 本来であれば、その文言と共に特殊な炎が風を伴って発生。己にかけられた呪い・暗示のみならず周りの幻覚をきれいさっぱり焼き尽くす手筈だった。

 だがしかし、どういうわけか何も起こらなかった。それでも男は三度、四度と同じ文言を飽きずに、一心不乱に繰り返した。

 すると、ついに兆しが現れた。空気の流れがピタッと止まり何かが起こりそうな予兆となった。だが、そこまでだった。直ぐにどこからか心地良いそよ風が吹いたかと思うと、停滞した空気の流れが一挙に解消されていた。

 そのとき、反対に大男の側に変化が生じていた。幾度も男の巨体がピクピクとけいれんを繰り返し、その度ごとに頭を横に向け地面に横たわった大男の口から、おえっと吐く音と共に出たおう吐物が地面に溢れ、しまいに出すものが無くなったのか血へどや泡まで吐いていた。

 そのことについて、過去に幾度も同じ光景を見て来たこともあり、その全てが想定済みだったロウシュは、少し離れたところに避難して静観を決め込んでいた。

 

「自分の力で自爆して死ぬ気分はどうだ?」

 

 間もなく男はロウシュの目論見通り、自身が吐いたおう吐物の中に白目をむいた顔を突っ込んだ状態でピクリとも動かなくなった。どうやら事切れたらしく。それを裏付けるように男の様態が激変。衣服からはみ出た皮膚が急速に弾力性を失ったようになり、蜂蜜色から褐色色へと変わっていった。それにつれて、丸々と肥えた身体が、見る間に空気が抜けるようにしぼんでいき、ついには骨と皮の状態となり。最後には、着ていた衣服だけを残して、地面の肥やしとなって消え去っていた。

 それら一連の流れは、まるで早回し映像を見ているようで、まさにあっという間の出来事だった。

 

「自分の力を思う存分味わって逝きやがったな」その光景をじっと冷静に眺めていたロウシュはあくびを一つすると、冷やかに呟いた。

  

「これがトリックで本物はどこかで笑って見ているというなら、てめえは天才サギ師だぜ」

 

 そう皮肉を垂れ、済んだなとロウシュは、男が最後のあがきをした折にもはや必要ないと一足早く撤収して手に持っていたムチを、いきなり一発地面に叩きつけた。パチンと心地良い音が、しんと静まり返っていた構内に響いた。

 もしどこかで何者かが隠れているというなら、耳につくムチの音で必ずや何らかの反応を示す筈だった。

 

「念には念を入れるのが長生きのこつなんでね」ロウシュは目を細めて薄笑いを浮かべた。さて次はどいつが相手だ。隠れているなら早く出てきやがれ。


 だが取り越し苦労に終わったらしく、十数秒ほど待ったが何も起こる気配がなく。その間に、また物音一つしない状態に戻っていた。


「ふん、あの豚野郎だけか。仲間はいなかったということか。ああ、これからっていうのによう。つまらねえ」


 それならば仕方がないかと、ロウシュは鼻の下を指でこする仕草をした。それからムチを元のステッキへと戻し、再び肩に担ぐように持つと、もう片方の腕を悠然と上げる身振りをした。

 モニター前で見ているゾーレとホーリーへ、合図を送ったつもりだった。

 

 おい見てるか。俺の役目はこれでおしまいだ。あとは知らねえからな。

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