第26話

 そのときダイスは、ぼおっとしていた。目の焦点が合っていなかった。

 彼は腕を組み、何かを考え込むように身じろぎもしないでぼんやりとイスに腰掛けていた。

 直ぐ目の前には昨夜の夕げに準備したテーブルがあり、向かい側に娘のイクが、両隣にはジスとレソーがそれぞれ席に就いていた。

 午前十一時。朝と昼を兼ねた食事を普通に摂っているところだった。

 ダイスの前には、一かたまりのパンがほとんど手を付けられていないままで皿に載っていた。パンの皿の横には、インスタントコーヒーが入った取っ手付きのカップが置かれていた。いつものようにイクが入れたものだった。

 パンはでき合いの品でなく。昨夜、夕食ができる間際に、ふと明日の朝のことを思い立ち、イクとレソーに再び言いつけて車から取って来させたパンベーカリーを使って焼いたものだった。

 パンベーカリーは、パン生地を投入するだけで、スイッチ一つで指定時間までに発酵から焼き上げまでを自動的にこなしてくれる中々優れもので。長期出張などで、出来立てのものを安く食べたいときに良く使っていた品だった。

 

 テーブルのほぼ中央に、ピーナッツバター、チョコクリーム、ハチミツバターがそれぞれ入るチューブボトルが並べ置かれており、各人が好きな方を、出来立てのパンに絞り出して食べるようになっていた。

 イクとジスは、その中からチョコクリームを選択すると、パンに多量に塗り付けるようにして一心不乱に食べてはコーヒーで喉に流し込んでいた。一方、レソーはと云うと、彼は相変わらずマイペースで、パンを小さく千切っては皿に取り分けた三種類のジャムに付けて食べ、時折りコーヒーで口を潤すという品良い仕草を繰り返していた。

 

 ちなみにダイスがそのような様子でいた理由は、昨夜の料理の味付けを娘の要請通りに若い者向きのスパイスが効いた激辛な味にし過ぎたことが悪かったのか今朝胃がもたれて食欲がなかったせいもあったが、それよりも実は、昨夜から今日の未明にかけて決めたことを思い返していたのだった。

 もちろん、その時話題になったのは、昨夜三人の兵士が残していった封書の中に入っていた一枚の書き付けのことだった。

 書き付けの文面の内容をそのまま鵜呑みにした場合、――賞金が出る三名を決めるにあたって、残った十名で勝ち抜き戦を行うという意味合いだった。しかも勝ち抜くには、対戦後にどちらか一方が立ち上がれない状態になっていないとダメということらしく。加えてあらゆる武器の使用が可能になっていた。そのことは、負けた場合は失神どころの話では当然済む筈はなく、重症、死亡の線まであるという意味に解釈できたのだった。

 更には一日で三人に絞るため、その日に二度の対戦を行うというのだった。そのことは、実に簡単なやり方に違いなかったが、ダイスにはとても受け入れられるものでなかった。一度は奇跡で勝ち残ったとしても二度の偶然は起こらないだろうと思っていたからである。しかし一つの救いは一日二度対戦という強行軍であった故、二度目は代役を立てても構わないという緩やかな規則になっていたことだった。


 話し合いは、食事が終わり、全ての後片付けが済んだ午後の十時に同じ部屋で行われた。そのとき、封を開けたポテトチップス、チョコレートクッキーなどのスナック類がテーブルの上に無造作に広げられ、和気あいあいとした雰囲気で始まった。終わったのは、日付が変わった深夜の零時過ぎだった。

 

 こんな夢みたいな話、乗るんじゃなかった。旨い話には裏があるとはこのことか。何で武器を使い放題の何でも有りなんだ。これじゃあ殺し合いとまるで一緒じゃないか。なんてこった!

 総額二千四百万ドルを十人に山分けして、二百四十万ドルずつくれれば良いのに。こっちはそれで満足なのに。何でまた三人に絞る必要があるんだ。


 そのときそう云った心境だったダイスにとって、明日も出るかどうかの判断は正直いって迷うところだった。喉から手が出るほど金は欲しかったが、確実に死の危険が伴う場所に三人をやるわけにはいかないと、良心のかしゃくに苛まれていたからだった。

 しかしながら、三人の方は出る気満々だった。そのときの彼等の自信にあふれた言動は、腕には相当な自信があると考えられ、死ぬかも知れないということに余りに無頓着だった。何らかの秘策みたいな凄い力を、それぞれが生き物から手に入れていたに違いなかった。

 

 だがそうはいっても、とダイスの胸の内は複雑だった。自身のこれまでの人生経験と自身の倫理観が、辞退すべきと何度も頭の中でささやいていたからだった。

 従って、およそ一時間近くは、出るべきか出ないべきかの押し問答のような会話で、話はまとまらなかった。それで、最後に行き着いた先は、困ったときはいつでも相談している、あの生き物の意見も聞いてみようというものだった。

 結果、生き物から返ってきた応えは、「まず心配いらない。それ相応の対応策を講じさえすれば、三人の力ならたぶんやれると思う」だった。

 そしてその対応策とは、「他の九人の立場に立つとしよう。その場合、第一戦に全力を出して来るとは到底考え難い。大概は最終の方に重きを置き、最初の対戦は手の内を隠して来る可能性が高い。それでだ、そこを突いてレソーかジスを出す。そして勝ち残った最終戦は、私がイクと出よう」といった、生き物から言わせれば、確実に勝ちに行く作戦というものだった。

 そう言われては、幾ら難色を示していたダイスでも首を横に振るわけにはいかなかった。結局のところ、生き物が賛同したこともあり、出場することに決めたのだった。


 それでも、「でもな、そうはいってもな。俺としてはだなぁ……」というところだった。出場することになった娘のイクのことが、やはり気がかりだった。どことなく抜けていて度々無茶な行動をするアホな娘でも血を分けた愛すべき身内であることに違いなく。もう大人と言って良くても、やはり子を親が思う気持ちに変わりがなかった。


「……嗚呼」


 知らず知らずのうちに、溜息がダイスの口から漏れ出ていたときだった。はっきりとした明るい声が、向かい側から聞こえた。


「父さん、食べないの?」


 その声に、はっとして我に返ると、一旦食べるのを止め、心配そうに見つめているイクがいた。


「いや、ちょっとな」ダイスはぼそぼそと呟いた。


「どうしたの? 元気ないわよ」


「いや、何でもない」


「もうー、しっかりしてよ、父さん!」


 そう呆れたように言い終わると、イクは安心した様子で再び食べ始めた。

 ダイスは、半分ほどになったパンにイクが能天気にかぶりつく光景を眺めながら、自らも皿に載ったパンを手に取り、適当に千切ると、何も付けずにゆっくりと口に運んだ。そうして、じっくり味をかみしめた。ところが、出来立てでそのまま食べても十分美味しい筈であったのに、そのときは美味しいと感じなかった。

 両隣では、ジスとレソーが普通に食事を摂っていた。二人とも、全く気負っているようには見えなかった。ジスはややがつがつと、レソーは相変わらずのんびりそのものだった。


(全く動じないんだからな)


 緊張感がほとんどない三人を一べつしたダイスは、これが若いということかと呆れるばかりだった。三人の人生経験が浅いがゆえんの所為だった。若いということは、何事も物怖じせずに思い切り良く行動に移すことができるという長所があり、そこには倫理観も糞もなかった。若い頃は自分もそうだった。仕事も遊びもがむしゃらにやったものだった。ダイスは、今それが正直羨ましかった。

 

 暫くの間、ダイスは味のしなかったパンを無造作に口に放り込んでは、まだ温かったコーヒーで喉に流し込む作業を繰り返した。

 その間にイクとジスはほぼ同時に食べ終わっていて、少し遅れてレソーが続いていた。三人は食べ終わると、さっそく後片付けに取り掛かった。手慣れたもので、直ぐにトレイの上に食器が固めて置かれていた。

 それが済むと、リラックスした雰囲気で、内容のない普段の会話をいつものようにぞんざいな口調で始めるや、そのうち小さな子供のようなはしゃぎようで楽しく喋るお喋りと変わり、やがてはちょっとした座談会のようなものに発展していた。

 一方、ダイスは普段の数倍の時間をかけてようやく食事を終えると、何とはなしに入ってくる彼等の賑やかな会話を、最後に残ったコーヒーを飲みながら聞き流した。

 そのとき彼等が話した話題とは、成り行き的にごく当たり前のことであったが、今日の対戦についてどんな風なことをやるつもりなのかで。


「ねえ、どうすんの、レソー? たぶん相手は物凄く強いわよ。対策なんか考えてるわけ?」


「ああ。何とかな。とにかく時間まで立っていたら良いんだろう。それならどうにかなるさ。ま、相手によりけりだけど、大体はその間気絶して貰おうかと考えているんだ」


「じゃあジス、あんたはどう? 出ることはできんの? 昨日の傷じゃあ無理じゃないの」


「馬鹿言え、もう治ったさ。レソーの気が変わったら、いつでも俺が出てやるさ」


「ほんと? いやに頑張るじゃん」


 といった具合に、口が立つイクがその中心となっており。二人の若者は、完全に手玉に取られていた。

 だが十二、三分も経った頃には話のネタもどうやら出尽くしたみたいで、ひと時の談笑は消えていた。

 そんなときだった。目の前にいる父親が、元気がなさそうで気になったのか、イクが目をクリクリと見開いて、ダイスの顔を不意に覗き込むと、訊いていた。


「ねえねえ、父さん。どうしたの。元気ないわよ」


「いや、別に。何でもない」ダイスは無表情でそう応じた。


「あ、そうかしら」イクがにっこり笑って言った。「お金が手に入ったときのことを考えてたんでしょう!」


「いやそうじゃない」


「もうー誤魔化しちゃって。そりゃね、父さん。浮かない顔も分かるわよ。せっかく賞金が手に入ったって、そのほとんどが借金を返すのに消えちゃうんだものね」


 そう言って、「ね、ズバリでしょう!」と念を押してきたイクに、ダイスは歯切れの悪い口振りで、適当な返事をした。

 

「まあな」


 三人には八百万ドルの賞金が貰えると伝えてはおらず。その十分の一の八十万ドルが貰えると言っていたので、イクがそう考えるのも無理のないことだった。

 

「でもさ、仕方ないんじゃないの。それがこの社会の仕組みなんだから」イクが、気取った言い回しでぽつりと呟いた。


「……」


 勉強嫌いで無学な娘が、およそ考え付かぬ難しい表現だった。ダイスは思わずニヤッと笑った。

 そんなとき、

 

「社長、今日は僕も頑張りますので、その代わりに例のこと、御願いします!」


 間延びした男の声が飛んだ。今度は横からで、レソーからだった。


「ああ」ダイスは小さく頷いた。念を押してくるくらいだから、たぶんあの口約束のことかと思ってのことだった。

 イクを除く三人の間では、八十万ドルのうちの三十万がダイスとイクに渡り、残りの五十万をジスとレソーとで山分けするという取り決めができていた。


「ありがとうございます、社長」


 明るい調子で返事を返したレソーに、何を思ったのかイクが首だけをひょいと動かして、彼をじろりと見据えると言った。


「そう言ったってね、あんたはいつも頼りないんだから。負けてあたしの出番をなくしたら分かってるでしょうね? 罰としてお仕置きを受けて貰うから」


「おいおい」レソーが少し驚いたように言い返した。「そんなこと聞いてないぞ!」


「ふんだ」イクは口を尖らせると、嫌味たらしく続けた。「あんたはいつだって誰かが尻を叩かないと本気でやらないじゃない。あたし知ってるのよ。いつも調子のいいことばかり言って、いつもどこかでサボってるんだから」


「おいおい、俺がいつサボったっていうんだ? 俺はいつも真面目だぜ。証拠があるなら出して見ろよ」


「ふんだ、あんたは卑怯者よ、そう言っていつも開き直るんだから。あんたのその手に乗る気はないわ。男だったら請けなさいよ。それとも弱気の虫がそうさせないのかしら?」


「おい、判らないことを言うなよな。それにどうして俺が負けたら罰を受けないとダメなんだ?」


「そんなの簡単じゃない。後ろにあたしが控えてるからよ。あたしにはセキカが付いているのよ。天地がひっくり返ったって負けっこないじゃん。あんたはそこまでのつなぎなのよ。そのつなぎが威張るんじゃないわよ!」


 そうまくしたてたイクに、レソーは、まいったなあというような浮かない顔で一瞬天を仰いで嘆息すると、諦めたように訊いた。


「嗚呼もう分かったよ。それでどんな罰を受ければいいんだ?」


「罰といったって、罰金を取ったりげんこつで殴ったりしないから安心して。ほんのたわいもないことよ。昔、小さい頃にやってた遊びのまね事よ」


「……小さい頃やってた遊びって? 何だそれは?」


 そう言いながら、昔のことを少し思い出したのか続けた。


「おいおい、目隠しして裸で連れ回される罰は嫌だぞ。面白い芸を見せるっていう罰も嫌だぞ。昔からお前は変な罰を思いつくのは天才だったからな」


「ええ、分ってるわよ。あたしだって既に大人よ。そこまでするつもりはないわ」


「まさか、お前と付き合えっていうのも御免だぜ!」


 途端に、それまで黙ってやり取りを聞いていたダイスが、きょとんとした顔になった。その横では、ジスの口元が思わずほころんでいた。

 だがその一方、イクの表情が一変。不気味な微笑を漏らすと、すかさずレソーへ冷たい視線を投げかけ、きつい調子でこう言い返した。


「馬~鹿、何であんたと付き合わないといけないのよ。そんな罰なんて、死んでも頼まないわよ」


「じゃあ、なんだよう?」


「それはねえ……」イクが意地悪な笑みを浮かべた。「――よ」


 ダイスはその様子を、空になった皿とカップを片付けながら、知らん顔で聞き流していた。

 イクの言い分も一理あるかも、と思ったからだった。というのも、レソーは意外と堅実派で、手に入れた金の全額を預金に回すと公言していた。しかも安定志向の持ち主で。将来の夢と訊かれて、「いい年齢になったら好きな娘と結婚し、小さくても良いから持ち家に住み、一人か二人の子供を得て、幸せな家庭を築くんだ」と答えてはばからぬ、ごく一般的な考えを持った若者だった。

 得てしてこういうタイプの人間は、それ程責任感が強いわけでなく。直ぐ諦めてしまう傾向があった。そう云ったわけで、レソーに罰ゲームをちらつかせてやる気を出させるイクのやり方はあながち間違っていないとダイスは見ていたのだった。

 その隣では、やれやれという風にジスが頭をゆっくりとかきながら、同じように見守っていた。ただ彼の場合、その顔から笑みが消えていた。自分にできるだけとばっちりが及ばぬように警戒して、無関心を装っていたのだった。

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