第15話

 白い建物の最上階にある部屋に備え付けられていた一目で豪華と分かる応接セットに三人の男女が腰掛けていた。内二人は男で、共に上着を脱いでネクタイを取った白いシャツにズボン姿。女性は絹のように光沢のある白いドレスシャツにスカート姿で。おのおのが人ふたりが楽に座れるぐらい横幅がある肘掛け付きのイスにゆったりと腰掛けていた。

 会社の事務所から持って来た簡単な夕食をちょうど終えた頃で、テーブルの上には大型のワインボトルの形状をした深緑色の瓶とショットグラスが三個。それぞれの容器には半分より少な目の琥珀色の液体が入っていた。

 彼等は日常会話を楽しみながら就寝前の飲酒タイムに入り始めたところだった。

 横長の窓から見えていた、遥か遠くの山々が夕陽で朱色に染まり、もうそろそろ夜の帳が降りようとしていた。


「それにしても良い部屋があたったものだな」


 グレイの髪をオールバック風に整えた男が、手にしたショットグラスの液体を一旦高い鼻で香りを嗅ぐようにしてから、少しずつ味を確かめるようにして飲み干すと微笑んだ。


「本当ね、ここはどうやら来賓の待合室か会議室みたいだわ。見晴らしも最高だし」


 男のちょうど真向かいの席に腰掛けた銀色の髪の女性が品よく笑った。


「えへへへ。どうだ、うまいもんだろう」


 男の右隣。窓を望む方向の席で足を組んで腰掛けた茶髪の男が上機嫌で笑った。その様子を見て、ショットグラスへ手を伸ばしていた女性が目を細めた。やはりね―― 

 二人は、見るからに立派なこの部屋を結果的に割り当てられたのは全くの偶然であるとは思っていなかった。この茶髪の男が結果としてやったものだろうと確信していた。

 実はこの男、基地の入り口で応対してきた係の兵士の横柄な態度が気に食わなかったのか、当人に向って、ちょっとからかい気味に嫌がらせをしていた。

 兵士が手にした備品と通行パスを、簡単な説明をして手渡そうとしたとき、パスの番号が部屋の番号と同じであったことも知らずに、番号が気に入らないから別のにしてくれと難癖をつけて代えさせていた。それを五回ほど繰り返してようやく受け取っていた。そのことが、この部屋が宿泊施設へとあてがわれるきっかけになっていた。

 目の前の欲望に心を奪われると意味をなさないが、そうでなければ相手の運を奪うついでに自身へ幸運の女神を呼び込むという特殊能力が男にあることを二人は知っていた。従って、その力を使ったのだろうと見なしていた。そして男はそれを安易に認めた形になっていた。 

 三人はゾーレ・ハイドマン、ホーリー・ローウェル、ロウシュ・イーデン・ハートといった。無論ここでの彼等は便宜上偽名を使っていた。ゾーレはカール・サイモン、ホーリーはクール・ドビュッシー、ロウシュはフール・ダンプティーとなっていた。

 ちなみにホーリーとロウシュは自身の偽名の名を知らなかった。偽名を考えたり募集手続き等の事務雑用はいつもゾーレの役目であって、彼等二人にとってどうでも良いことだったからだった。

 彼等三人がこの基地へとやって来たのは午後六時を回った頃。その時点で駐車場内は大勢の人々と車であふれ返り駐車もままならないほど混雑していた。故に、やや遅めといえる到着だった。

 だがそこにいたほとんどは、大会の趣旨を記した紙片を一目見て、諦めて帰る者達で占められていた。

 ――出場を希望する者のみ基地内の宿泊施設へ行かれたし。但しそれ以外は速やかに戻られたし。尚、午後七時に門を閉め切ります。その時点で居残っている関係者は全て参加希望者と判断して明日の大会に出場して頂く。――そういう風な趣旨の記事が紙片の注意書きの欄に出ていたので、みんな我先にと急いでいたのだった。 

 彼等のどの顔も、感情を抑える為に醜く歪んでいるか、怒りで目が吊り今にでも当り散らしそうな怖い雰囲気だった。平常心を保っている者や笑っている者は一人として見られなかった。おまけに彼等は、帰り時の車の運転がきまって荒っぽかった。急発進、急バックは当たり前のことで、よそから来た者達と車に乗ったまま互いに口げんかするなどのトラブルが頻繁に発生していた。

 それも仕方がないことだった。大会のルールを見たこれらの者達は、かような高額な賞金をちらつかせての人集めは明らかに計画的な新手の詐欺だと見なして到底受け入れられるものではなかった。直ぐに謝罪しろ、金を返せ、交通費を保証しろ、迷惑料を払えと要求したいのはやまやまだった。だが、そこはそれ、場所自体が何が起ころうとも外部に情報が漏れ出ることのない閉鎖領域であるところの陸軍基地であったことや軍隊がそこに絡んでいるらしいことで無闇に抗議をしたり暴れても直ぐに反撃されて鎮圧されるのが火を見るより明らかであったから、結局のところ、彼等は泣き寝入りすることを選んで大人しく引き下がっていたのだった。

 しかもその数、ざっとみても五千人を優に超えていた。

 そのような中、三人は何食わぬ顔で、かような者達の人混みを縫って白い建物に入り、直接この部屋へと辿り着いていた。

 そしてその室内は、三人が満足するだけあって豪華で趣があった。

 それもそのはずで。彼等が腰掛けていた応接セットのイスやテーブルは、形状が一種独特なロココ調。壁紙とフロアのカーペットは伝統的なシンメトリーの花柄模様。横長の大きな窓には全自動開閉式の遮光ブラインド。照明はスタンドライトや壁を照らす間接照明が用いられ、やや薄暗い感があったが落ち着いた雰囲気を醸し出していた。また、壁際に置かれた家具や調度品類もしかり。周りと調和するように整然と配置されていた。

 例えば、壁には写実派の絵画がそれとなく自然に掛かり、重厚な感じのする木製のチェストの上には、背に翼・両方の手に武具を持った聖ラファエルと聖ミカエルのブロンズ像が対になってさりげなく置かれ、ガラスのキャビネットの棚には、深みのある質感を持つアンティークな壺や時代物に見えて真新しい置時計の他、各種のレリーフ・メダルやガラスの器や小品のブロンズ像などが普通に飾られていた。

 誰しもがゆったりと落ち着けるように、わざと古めかしくしたような部屋。いかにも来客用向けにあつらえたというような感じを受けても不思議でない部屋だった。


「それにしても相当な人だかりだったわね」女性が笑顔で話題をかえた。「まるでお祭り騒ぎのようだったわ」


「ああ。お蔭でこっちは誰にも怪しまれずに辿りつけたわけだが」


 女性を見ながら表情を緩めたゾーレがリラックスした口調で応じた。すぐさま隣から、


「だが、あれだけいたのが一時間もしない内に一気に減ってしまうんだからな。ま、ルールがあれじゃあ、誰だって諦めたくなるか!」 にやにやしながら茶髪の男がそこへ言い添えた。「そう六、七十台ってところかな。俺達を含め命知らずが、まだそれだけ残っていたがな」


 部屋に入ってから直ぐに全員で、隠しカメラ、盗聴器の類の有無を調べた後、誰に言われるともなく、「偵察をしてくる」と言い残すと独りで外へ様子を見に出掛けていた男から発せられた余談話に、ふたりが成る程と頷いた。

 ちなみに男は、これより少し前にも以下のような偵察結果を、軍隊で支給されている携帯保存食を夕食代わりにして二人と仲良く摂りながら話していた。


 周辺の至る所で監視カメラや追尾機能が付いたロボット監視システムが作動しているのが見受けられた。

 また、ヘルメット姿に銃という通常兵の他にも、重武装をした特殊部隊兵や軍用車両・消防車両・運搬車両からなる工兵部隊がいた。彼等はいずれも、遠巻きにして監視しているか、迷彩偽装をして隠れ潜んでいた。

 その人数は五名から六名ぐらいの単位が平均的で、場合によっては総勢二十名ぐらいの規模の部隊もいた。

 応募者の顔ぶれも一通り見た。どの顔も不審な面構えをしていた。男も女もいた。年齢も色々だった。

 だがその中で、一目みて物騒と感じる人間は残念ながら見つけることができなかった。


 ロザリオのメンバー六人の中で諜報をある意味専門にしていた男にとって、そのようなことぐらいは造作もないことだった。男は二人の満足そうな顔を見て、更に陽気にぞんざいな物言いで続けた。


「他にも向こうでちょいと小耳に挟んだんだが、諦めて帰った野郎達はみんな、だまされた、基地に寄付をしに来たようなものだとほざいていやがったぜ。ま、あの内容じゃあ、誰が考えても基地の資金集めとしか思えないものな。

 あ、そうそう。これはちょっと毛色が違うが、あの募集をコンピューターの仮想ゲームと取り違えて来た馬鹿も数組いたぜ。いずれもゲームだと思っていたのにがっかりだと呟いていたので直ぐにピンときたんだ。揃って頭が良さそうなのに身体がやわでメガネを掛けていて、そのどの顔も長い間光を浴びたことがないような色白で目立っていてよう。わざわざ高い参加料を払ってまでこんなところまでやって来るくらいだから、あれは恐らく大金を目当てに来たプロのゲーマーだろうな。

 後は、ここが軍の基地だと忘れて暴れた大馬鹿も見たな。そんな奴は大抵一緒に来ていた物分かりの良い仲間からぼこられていたっけ」


 そこまで話すと、男は自分で空になった自身のショットグラスへ琥珀色の液体を半分程注ぎ、二度に分けてぐいとやった。

 そのとき男に併せるかのように女性も、グラスに残った液体を心地良さそうに喉の奥へ流し込んでいた。

 二人が美味しそうに飲む光景をゾーレは参ったなという風に眺めた。そしてため息をついた。

 実は今、全員で飲んでいる酒は、彼、ゾーレにとって特殊な品だった。 

 いつの間にかゾーレは、今日の昼のことをぼんやり思い出していた。


 あれは、午後の二時に集合場所であった自社の営業本社を兼ねた事務所で落ち合い、食料と水と食器と衣類が入る荷物を持ち、さあ出発となったときだった。部屋の奥の方でロウシュがまだ何かごそごそとやっていた。何をしているのかと思ったら奴が突然、「良いウイスキーがあるな。これも持っていって良いだろう? ゾーレ」と叫んできた。あいつめ、酒が荷物の中に含まれていなかったことが不満だったらしく、キャビネットの中を物色していたのだ。

 そのとき、遊びで行くわけじゃないのだからそんなものはいらないだろう、それでもというのならビールにしたらどうだと言ってやろうとした。が、良識のあるホーリーまでもが、「まあ良いんじゃない」と賛同し、「ゾーレ、持って行きましょうよ」と確認をとってきたものだからどうしようもできなかった。「ああ、好きにしろ」と応じていた。あのときウイスキーと聞いたので現物を見ずに了承したのが間違いの元だった。

 果たしてあいつ、ロウシュが手にして持ってきたのは世にも珍しい貴重なブランデーだった。

 キャビネットの下の方に目立たぬように飾って置いていたのだが、あざとく見つけ出したようだった。

 その酒は、聞いた話によると、この世で十本しか作られなかった原酒の一本ということだった。しかもその味と香りは、今では現存しないものというふれこみだった。

 それもその筈で。その酒を製造した人物はこれも六人のメンバーの一人で、何十万年前という遥か昔に存在した超文明国家の一つで生きたサイレレという仮りの名の男であったからである。

 彼が生きた時代、彼本人は現代版大魔導師に相当する称号を得た人物であったらしく、国家直属の神官庁内で、二百人余りの神官、三百人余りの巫女を監督する立場にあったらしかった。

 なぜ、らしいというと、国家の王位継承を巡り争いが起こったとき、自等がかかわった一派が結局のところ敗け組となった関係で、敗者の弁は余り威張れるものではないとして、余りペラペラと過去のでき事や自身の家柄・経歴を吐露するのは良しとしなかったためだった。そのとき名前も全く語ろうとしなかった為、便宜上の名前でサイレレと名付けられたのだった。ちなみにサイレレという名の由来は、彼が見出され、この世に復活した区域の地名、サイレレ渓谷からきていた。

 ともかくも五年と少し前にロザリオとしての活動が休止になったとき、彼は生まれ故郷である文明国家がかつて存在したというが今は砂漠が広がっているだけの殺伐とした地帯へ、どういう風の吹き回しか戻り、そこで隠れ里のようなものを作ると、暫くして気心の知れた仲間を集め農場を経営し始めていた。

 農場の経営は仲間の意見を取り入れ、畑で採れた野菜や飼育した動物を直接販売することはせずに、 加工品にして契約販売とか予約販売で売るというもので。運営開始と同時にかなり需要があったと見え、まずまず旨くいっているという話だった。

 ある日のこと、同居していたフロイスが、元々親しい間柄であった彼の近況を気まぐれに見に行ったところ、たまたまビールの仕込み現場に出くわしたというのである。何でも、農場経営と並行して数々の新事業にも取り組んでいるということで、これもその一貫だと説明を受けたという話だった。

 そのときの彼女の説明によると、着くなり手が足りていないようだったので手を貸してやった。すると、できたてのビールが入る二十リットルのポリ容器一個とブランデー酒一本を、手伝ってくれた礼だと言ってくれたというのだった。

 その後、ビールの方は三日も経たぬ内に二人の腹の中に納まっていた。だが残ったブランデーの方に限っては、彼女にとってはそれほど興味がなかったみたいで。案外軽い調子で、これはお前にやるよと言われ、タダで貰った形で手に入れていた。

 そういういきさつからすると、タダで手に入れたものだから惜しいという概念はない筈だった。が、特別な品だと考えた場合の本音は、このタイミングで開けたことは惜しい気がした。でもそれなら開ける時期はいつだと自問自答すれば、はっきりいって親しい者達が一度に集うときか、大切な記念日か、伝統的な習慣やしきたりで祝う日ぐらいしか思い浮かばず。そうなると今が妥当な線なのかと思ったりしてみたりと、いつものように運命主義的な穏やかな方向に妥協する形へ傾いていっていた。


 明日、久し振りに危険な賭けをするというのに、今は飲んで楽しむことで揃ってご機嫌のようだった二人の様子が、彼の虚ろな目にぼんやりと映っていたちょうどそのとき、横から呼び掛ける声がした。


「おい、どうした。飲まないのか?」


 その声にゾーレははっと目を見開いた。ほんの数秒に過ぎなかったが、片手にグラスを持ち考え込んでいるような自身を隣の席のロウシュが、何ぼんやりしているんだと怪訝に思い、ちょっと声を掛けて来たらしかった。


「いや、もちろん飲むさ」


 そう短く返事を返したゾーレは、何もなかったように止めていた手を動かし、手酌で自等の空のグラスへ琥珀色の液体を注いだ。それからついでとばかりに女性のほとんど空になったグラスにも注いでやった。そうしてその三分の一ほどを、ありがとうと女性からの心地良い感謝の言葉を耳にしながら、一気に飲んだ。

 飲むにつれて味や風味の印象が微妙に変化するのが、遥か遠い昔に飲まれた酒の特徴なのだろうか、樹木の蜜のような野性味あふれる甘い香りが口一杯に広がると瞬時に鼻を突き抜け、同時に濃厚でいてそれほどしつこくないかろやかな刺激が喉を駆け抜けていった飲み始め頃に感じた印象とは違う、焼きたてのアップルパイの香りをかなり濃くしたような芳醇な香りが口中に広がり、直後に快感が喉を過ぎていった。

 

 気が付くと、すっかり日が暮れて窓の外が真っ暗になっていた。空には月も星も見えていなかった。その中でたった一ヶ所、真正面に見えていた小高い山の付近の背景が人工的な照明で青白く輝いていた。

 その頃には女性と茶髪の男の飲むペースが、飲み始めの頃より自然と上がっていた。美味しいものを食べているときには口数が少なくなるの例え通り、飲むことに意識を集中させて会話をしなくなっていた。

 男は別にこれといった変化はなかったが、女性の雪のように白い顔が仄かにピンク色に色付いていた。

 女性はしとやかに、ときとして、「はぁ……」「あぁ」「はぁ~っ」といった色っぽい感嘆のため息をつきながら。茶髪の男は、「ああ、旨めえ」「最高だぜ」「たまらないぜ」といった驚きの声を発しながら。一方ゾーレは心配げな表情で、二人に引きずられるように黙々と飲み続けていた。

 ゾーレがなぜそんな風にしていたかというと、目の前の二人の酒癖の悪さにあった。

 両人とも、普段から何事においてもずけずけ言うタイプであっただけに、悪酔いすると手が付けられなくなることを経験的に良く知っていたのだ。

 それでなるべく程よいところでお開きにする機会を伺っていた。それと並行して、少しでも飲むペースを遅らせようと二人に話し掛けてみた、どうせそんなに真面目に聞かないだろうと思っていたが。だがとにかくそうすることによって時間調整をし、余り悪酔いせぬ付近で、明日のこともあるから今夜はこれぐらいにしておけと最後に言いくるめて二人の飲酒を止め、寝るように仕向けるつもりだった。そうして収拾をつけた後は、自身も横になろうと考えていた。

 そしてその話題として選んだのは、先のロウシュによる偵察報告の後、三人で話し合った内容であった、本物と気付かれない為の偽装工作について、もしその工作がばれた場合の対処法について、緊急時のときの連絡法について、逃亡法についてに関してふと気付いた疑問と、飲んでいた酒の出所についてだった。ちなみに、席に就いてから真っ先に話題へと上った、自宅で待機して貰うという形で残してきたもう一人の協力者の女性並びにパトリシア達との連携についての詳しい話は既に十分話し尽くされていたので初めから度外視していた。

 そのような中、後半に述べた今飲んでいる酒の出所についての話題に、二人は共にたいへん興味を持ったらしく。弱ったな、とゾーレが話の中途で舌打ちしても、もう既に遅しだった。

 二人はそれぞれ、


「ふ~ん、そうだったの。道理で飲んだことのない味のリキュールだと思ったわ。それにしても血をなめるみたいに癖になる味ね。……彼の身分・地位からしてお酒造りを向こうでしたことはない筈だから、たぶん見よう見まねで造ったんじゃないかと思うんだけれど。でもそれにしても過去にこれほど美味しいお酒が飲まれていただなんてまだ信じられないわ。……それじゃあ今夜、快く行くまで堪能させて貰おうかしら」


「なるほどそういうことか。サイレレが造ったとはねえ。奴め、中々器用じゃないか。そうと分かれば残すことはできないな。全部飲んでしまわないともったいないぜ」


 といった反応を顔を見合わせて示し、それからずっと脇目も振らずに飲み続けたのだった。

 果たして飲み始めて二時間も経った頃、アルコールの瓶は既にテーブル上で横になっていた。時折りゾーレは幾分か飲むペースを下げていたので、まだ理性は残っているつもりだった。が、女性は完全にできあがっていた。広いおでこを中心に顔全体がピンク色だった。細く見開かれた切れ長の眼が怖いぐらい据わっていた。テーブルに頬杖を付きながら、時折り、人前では滅多にみせたことが無いあくびすら漏らしていた。

 一方、茶髪の男の表情はまだ変わりはなく余裕があるようだった。だがしかし、でしゃばりといって良いぐらい雄弁になっていた。


 事の起こりは、突如として茶髪の男の口がより軽くなり、大きな声を響かせてお下劣なジョークを次から次へと飛ばすわ、更にはその合間に自身の自慢話をし始め、いつの間にか我が物顔で場を仕切っていたことから生じた。

 そのとき深酔いし過ぎて人が変わったように無愛想、感情的になっていた女性には目の前で威勢良く喋る男が、低俗、高慢ちき、横柄、威張っていると映っていたらしく、一応冷ややかな目でみたりブスっとしたり眉をひそめたり適当な生返事をしたりしてそれを聞き流していた。が、独りよがりな発言が男からちょくちょく出始めた頃から雰囲気ががらりと変わっていった。

 それはこういう風なやりとりからだった。


「あんなものは俺がいれば楽勝よ。屁でもないぜ。任して措きなって」


「ああ、そう」


「明日は俺が仕切ってやるからな。ふふん、この俺が全部相手してやるみたいなもんだよなあ」


「ああ、そうね」


「まあ期待しておきなって。お前にも男に迫られる楽しさを教えてやるからよ」


「あ、そう。それはご愁傷さま。それで私には、敵に襲われるスリルを味合わせてくれるというのね?」


「だがよ、お前ならそんな相手は屁でもないんだろう?」


「良く言うわね。あんたがリーダーみたいな口振りね?」


「ふん、その代わりにお前には弾の一発も当てさせないと約束するぜ。この俺が本気を出せば、例え撃てたところで暴発して終わりだ」


「ああ、そう」 


「エヘへへ。これで決まりだな」


「それじゃあ、あんたの明日の作戦は? まさか私に協力させておいて一番で逃げ出すんじゃないでしょうね」


「仕方ねえだろうがよ。俺の能力はそうしないと出て来てくれないんだからな」


「ふ~ん、明日が楽しみだわ。あんたはドブネズミかコソ泥みたいにコソコソと辺りをキョロキョロと動き回るんだものね」


「おい、何を言いやがる! この俺がコソコソだと!? おい、てめえ!」


「何よ、昔、コソ泥をしていた人間が言う台詞じゃないわよ!」


「昔は昔だ。それにあれは生きる為にやってただけだ。それの何が悪い!」


「ふん、私はね、困らない奴から盗むのは何とも思わないけれど、弱い人間から盗むのは許せないたちなの。私の両親がそれで酷い目にあったからね」


「それはお前の言う通りだ。俺だって昔、良く似たことがあったからこそ後悔してきっぱり足を洗ったんだ」


「さて、それはどうかしら? 小さい頃から染み付いた性悪は一生直らないというしね」


「何だと! 俺の気にしてることを蒸し返しやがって! おい、てめえ……」


「何よ、この―」


 場の空気は余り良いとはいえなかった。

 それでその間、ゾーレは視線をできるだけ二人に合わせないようにして、わざと酔い潰れている振りをした。自身に害が及ぶのを避けるためと、酒席の場でどちらか一方の肩を持つことは火中に栗を拾いに行くようなものだと自覚していたからだった。

 そのとき、お互いに口だけの言い争いで、立ち上がるところまでいくことはなかった。が、両人ともその心中は穏やかである筈はなかった。

 けれども、幾ら酔いが回っているとはいえ二人には分別があることだし暴力ざたには進展しないことははっきりしていた。二人はそんな愚かじゃない。

 だから、いずれにせよここまでは良くあることだからそう深刻なことにはならないだろう、とゾーレは高をくくっていた。だが自然に話が途切れるどころか、そのてん末は彼の予想外の方向へ進んでいった。


「どうせ、女に騙され続けて来たものだから紅一点の私に八つ当たりしてるんでしょうけどね、それは御門違いよ」


「ふん、誰がてめえに八つ当たりなんかするかよ! 俺はな、てめえのそのひねくれた性分が気にいらねえんだよ」


「ふふん、その分じゃあ騙された数は二桁で収まらないみたいね。三桁かしら?それとも大台の四桁かしら」


「煩せえな。はなから誰にも相手にされないてめえよりマシだぜ。昔は高嶺の花ともてはやされた頃もあったという話だが、年をとって本性が毒花とばれてから男日照りか? 可哀そうな奴だな、てめえはよ!」 


「あんまり年上のお姉さんをからかうのはよくなくてよ!」


 幾らアルコールの力で口が良く回るようになったとはいえ、やはり弁は女性に分があったこともあり、次第に言葉に詰まった茶髪の男がふてくされて開き直ったように吐いた、言ってはならぬ捨て台詞、「長い間、男を知らなかった野郎が何を言いやがる」に、普段なら機知に富んだ言葉で軽く言い返すところを、この夜に限って余程腹の虫の居所が悪かったのだろう、我慢ならないと言う風に女性が珍しく逆上して、


「ねえゾーレ。明日こいつと一緒に出るのは私は絶対嫌よ。私を馬鹿にした奴とはね……」


 と、へそを曲げたのだ。そのとき、両者の間がギクシャクしない筈はなかった。女性の言い方が余程気に障ったのか、元々短気だった茶髪の男が売り言葉に買い言葉で、


「おい、言ってくれやがったな。ならお前ひとりで出るがいい。俺は出ないからな」


 と言い返したのだった。これに対しゾーレは、「もうそれくらいにしておけ、二人共!」と口を挟んでいた。 


 但しそうは言ったものの、大人しく二人が聞き入れるとは考えていなかった。このような場合、あくまで酒癖の悪さがそうさせているわけであって、両人共本心で言っていることではないのだから、酔いが覚め正気に戻ればお互いに直ぐ仲直りすると考えるのはこの二人に限っては甘い思い込みであると知っていたことに加えて、特にホーリーは蛇のように執念深い上に直ぐ根に持つタイプで、出ないと言った男をここでなだめてみたところで関係が旨く行く筈はなく、余計に後で話をこじらせるだけだ。二人の関係を修復する術はとにかく時間を措くことしかないと思っていたからだった。


 果たして二人はにらみ合ったままこの要請を却下すると、間を措かずに女性が険しい表情で茶髪の男に向って応じていた。


「ええ、結構よ。あんたの力を借りなくたって旨くやって見せるわよ」


 そのとき、場の空気は最悪といっても良かった。

 やれやれとゾーレは困惑気味の顔で頭をかいた。そのような中、女性がゾーレの方を向くと言ってきた。


「そういうことだから良いでしょう? ゾーレ。 こうなったのも、あのしれ者が先に侮辱したことを言ったからよ。私は何も悪くないわ。なーに、心配はいらないわ。明日きっと旨くやって見せるから」


 隣で面白くないと顔を背けてだんまりを決め込んでいる男をよそに、そう強く念を押してきた女性にゾーレはゆっくり頷くほかなかった。


「ああ、分かった」


 その言葉を確認するや否や、何かを考えるように少し間を措いた女性は、「……じゃあ私はあそこの部屋を使わせて貰うから、あなた達はここで寝て頂だい」と穏やかな口調で告げてイスから立ち上がると、無防備に背を向けて、「また明日会いましょう」と言いながら歩いて行った。

 その後ろ姿をゾーレは何気なく目で追っていた。

 そこには、光沢のある白いシャツに黒っぽい膝上丈のスカート。脚には黒のストッキング、同色のローヒールのパンプス。一見するとスタイル抜群の女性秘書と見間違える女性が、大人の女の色気を醸し出しながら、ファッションモデルのように気取って歩いて行く姿が映っていた。だが、酔っているため何となくぎこちない足の運び方だった。

 その中でも、スカートの下から覗いていた引き締まった魅力的な脚と、ポニーテイルにした美しい銀の髪と、その髪の間からチラッと見えていたほんのりピンク色に染まり、ついうっとりしそうになる甘美なうなじに自然と目が流れていた。

 もうあとこれで気性がどうにかなれば何も言うことがないのだが、というのが、彼がいつも抱いている彼女に対する真実の気持ちだった。


 ところで彼女が向かったのは、それまで腰掛けていた席から歩いて二十歩も行かない目と鼻の先にある続きの別の部屋だった。

 その部屋は控え用の一室らしく。窓はなかったが、やや狭い室内の中央には凡庸タイプのベンチソファとテーブルのセットが一つ置かれ、周囲にトイレ・バスから洗濯乾燥機・姿見の鏡が付いたドレッサー。各種収納家具・冷蔵庫・コンパクトなキッチン・電子オーブンまでが備え付けられていた。

 実は、三人が部屋に入って直ぐに盗聴器・監視カメラの類がないか捜索した折、今夜泊まる話題となり、この部屋が女性専用に前もって決まっていた。彼女はそこへ向かったのだ。

 すぐさま、ドアを乱暴に開ける音とバタンと強く閉める音が立て続けに響いた。ほんの少し遅れて内側からガチャリとドアの鍵が閉まる音がした。


 酔いが回ったぼんやりとした目でゾーレは別室へ引き揚げた女性をそのように見送ると、隣の席に腰掛けた茶髪の男と自然の流れで顔を見合せた。そのときの男は、横幅のある座席へ片手をついて上体をやや斜めに倒した楽な姿勢を取りながら、体裁が悪いのか哀愁の漂う顔でヘラヘラとにやついていた。ゾーレもにんまりとした笑みを浮かべてみせた。

 だがその内心は複雑だった。

 なるほどホーリーには頑固で強情な面が確かにあるが、年の功というべきか自分の立ち位置を良く心得ている。責任感も強い。それなのにこいつときたら……。直ぐにふてくされて開き直り、子供のようにダダをこねるのはどうもいただけない。もしホーリーもやめたとなって、二人揃って空中分解して、金が手に入らなければ後で後悔するのはお前なのに。……本当に分からない奴だ。

 そのとき、気心が知れた男には正直いってがっかりしたゾーレだったが、女性が請けてくれたことで内心はほっとしていた。


 その後、時間にして十分から十五分の間、お互いに顔も合わせないし一言も喋らない状態が続いた。なぜそのようなことが続いたのかというと、お互いに決まりが悪くて何を喋ればいいか言葉が思い付かなかったのではなく、もっとたわいのないことだった。

 つまり、アルコールの催眠作用による眠気によって思考回路が旨く回らなくなっていたことと、高嶺の花で紅一点だった女性がいなくなったことで喋る気がおきなくなっていたというのがその理由だった。

 その間に茶髪の男は、靴を履いた両足をテーブルの上に乗せ上体を折り曲げた窮屈な姿勢で頭を垂れると、いつの間にか動かなくなっていた。どうやら寝たらしかった。

 どこでもどんな格好でも何の苦も無く器用に眠れる男に、まだ眠っていなかったゾーレはやれやれと、にこやかに微笑んだ。好い気なもんだ。こんなふうにして明日になれば何もかも忘れて覚えていないのだからな。

 だが、男が寝たのを見届けてから数分が過ぎた頃、そんなゾーレにも、いよいよ睡魔が襲ってきた。彼自身はそれが分かるのか重くなった身体をゆっくり動かし立ち上がると、テーブル上のグラスと転がったままになっていた瓶を片付け、その代わりに事務所から持ってきた目覚まし時計を、いつも設定時間より早く起きるように体内時計がセットされるようになっていたが、念のために朝の六時半にセットした。それから眠い目でちょっと周りを見渡して、おぼつかない足取りで壁際の方へ歩いて行った。窓にブラインドを下すと共に部屋の照明を落として眠りやすくするためだった。

 それが終わると彼は一息つく間もなくよろよろと力尽き、イスまで戻ることもできぬまま下のカーペットに倒れ込むように仰向けになった。それからしばらく経って彼も寝息をたてながら動かなくなっていた。

 そのときテーブル上に置いたデジタル式の目覚まし時計が十時四十分を示していた。

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