第6話

 同じく一ヶ月前のこと。狭い昔の道路が十字に交差する路地の一角に五階若しくは六階建ての古い建物が連なるようにかたまって建つ一帯があった。その中の一つに、目立たなく建つこげ茶色の屋根をした五階建ての共同住宅があり。その最上階にひとりの女がひっそりと暮らしていた。


 彼女の名はパトリシア・メルキース。愛称でパティーまたはパティと呼ばれていた。彼女の本業は訳有りの医者、平たく言えば医師免許を持たない無免許医。その為に表だった医療行為ができなかった。故に生活が苦しく、副業として裏社会の雑多な仕事。例えば債権回収や臓器売買に関わる仕事をしたりしていた。だがいつもできるような仕事ではなかったため、名称だけみれば裏社会の政治・経済の利権を占有しているような立派さだが、実際のところ、零細な者同士が寄り合い所帯となって互いに仕事を融通し合い助け合って生きる互助会のような、“裏ギルド会”という組合に参加していて、そこから仕事を貰うことで、ようやく日々の生活を立てていた。


 この日も、あいにくと暇なのか一日中家に引きこもって好きな読書をしていた。そんな夜の九時を回った頃、テーブルに並べて置いていた二台の携帯のうち、私用とは違う営業用の携帯に着信が入り。いつもの見知った人からではなく、携帯に登録のない知らない人からの電話だったので、「はーい、どなた?」と出ると、威勢の良いがらがら声が受話器から聞こえてきた。


『やあ、パティーかい?』


 一度聞けば決して忘れない悪声と物言いの間から、パトリシアは相手が誰なのかほぼ見当がついていた。電話の主は忘れもしない男、ジョニー・ペンソンだった。

 その男。この辺りを縄張りとするマフィアの準構成員で、三名の子分を従え。武闘、金融、経済といった組織の三本柱の内、経済部門の担当、――金貸しや債権取り立てや仲介業を生業としながら組織に金を集めてくる係――をしていた。

 中肉中背。まだ三十代という若さなのに髪がほとんどないほど禿げていて、それを気にしてか営業マン風のカツラを被る。細い金縁のメガネと手首や首から掛けた金のアクセサリーがトレードマーク。いつも派手な高級ブランド品に身を包む。

 太くて短い眉に、いつも釣り上がった双眸。片方の眉の辺りから目の下にかけて頬に至るまで、およそ長さ六インチ(十五センチ)の深い刀傷。高い鼻。ミミズを二匹並べたような大きくて薄い唇。一見すれば怖そうな面立ちだった。

 ちなみに刀傷は最近できたもので。もっと詳しく言えば約六ヶ月前、実はパトリシアがかかわっていた。

 その日の夜遅く、「すまないが頼みたいことがある。顔を暴漢に斬りつけられて怪我をしたらしい。それで急いで来て欲しい。施術道具を持って直ぐに来てくれないか」と、どのようにして携帯番号を知ったか分からないが突然の電話があったことが、この男と知り合うきっかけだった。

 当時、久し振りの施術の依頼だったことに加えて男からの初めての仕事だったので、お得意先ができると喜んで出掛けて行ったのが大間違いのもとだった。

 とにかく急いで呼び出された高級ホテルのスイートルームへ行ってみると、話では暴漢に襲われたと言うことだったが、男の傷は赤い血筋が所々できているぐらいの擦り傷で、見ようによってはネコに引っかかれた程度の放っておいても一週間程度で治る軽いものだった。

 ところが当の男は、暴漢に襲われたという証言を曲げず、「一週間で治るのは非常にまずい。この際だ。後が残るようにしてくれ」と逆に深い傷になるように施術してくれと依頼してきたのだった。

 そのとき、部屋の中に若い女が好みそうな甘ったるい香水の香りが、頭が痛くなるほど充満していたこと。何気なく見たテーブルに飲みかけのワインと二人分のワイングラスが残っていたこと。そして忘れてはならない女の直感から女性が関係してできた怪我なのだわと思ったが、一言でも要らぬことを訊くのは相手を怒らせるだけだと、そのまま何もせずに放置していた。局所麻酔をかけて言われるまま傷を形成したとき、どうせやるなら人からなめられない顔にしてくれとのついでの要望で、垂れ下がり気味だった目尻を吊り上げるプチ整形も同時にやっていた。

 そうして施術は無事終了した。だが男は、市価より安くしたつもりだった千ドルの施術料に注文を付けた。最後の支払いの段になって、


「このことは他人に言って貰っては困る。二人だけの秘密だ。そういうことで先ず半分だけ先に渡す。残りの分はお前が約束を守っているか分かってからだ」


 そう言うと、組織への上納金の分を決まりだから引いて措くと勝手に決め、半分の額から一割を差し引いた四百ドルを交通費込みでくれただけだった。


 その後、幾度か残った施術料の半額を支払って貰おうと電話で催促を試みたがいつも男の子分のひとりにつながるだけで、当の男には連絡が取れなかった。もちろんどれほど待とうが男から一切連絡をしてこなかった。だが時として男の子分達の方が何度か接触を図ってきたことがあった。だがお金を支払うという話ではなく。どこから薬品や医療器具を仕入れているのか露骨に訊いてきたり、専門は何でどこで誰から医療の技術と知識を学んだのか訊いてきたり、「どうです、組織の専属になる気はありませんか」という風にこちらの商売があがったりな弱みにつけ込み露骨に誘いを掛けてきたりと、全てが受け入れ難い内容だった。当然として断ったのだが、まるで甘く見られて良いようにあしらわれているようだった。

 その時ほど、自分がなめられているのだとパトリシアは自分を情けなく思ったことがなかった。

 それに、“裏社会の人間とは、皆、利害で動く烏合の衆である”ということを、金が全てのこの世の世俗に忙殺され忘れかけていたところを、表社会と裏社会の狭間でいるような中途半端な人間共から、曲りなりにも本物の裏社会とコンタクトを持つ自身が気付かされようとは思ってもみなかった。あのときほど惨めだ、やりきれない、くやしいとプライドを傷付けられたことがなかった。

 自身はまだまだ裏社会のまっただ中にいるんだと自負していたパトリシアにとって、あのとき裏社会の住民を自認する者なら誰しもが当然として知っている、“裏社会とは弱肉強食の世界だ”と“裏社界の人間に善人はいない”と云った常識を前提に、初対面の人間を信用してはいけない。もし交渉するようなときは先に金の事を持ち出すこと。その際に口約束はしてはいけない。交渉には必ず記録を残すこと。第三者を交えるのが尚ベスト。これらのことを仕損じたのを悔いていた。


(それらを怠った私の負けよ。私が悪いのよ)


 一方、それを良いことに当の男は、偽造した傷を色んな場所で、「ナイフを持った暴漢数人に襲われ、そのとき撃退したときにできた傷だ」とか、「薬を盛られ女に殺されかけたときにできた傷だ」とか、「骨まで達する深い傷でもう少し手当てが遅いと手遅れのところまで行っていたんだ」とか、「どうだ、凄いだろう。極道の世界で男の勲章だ」とか、有ること無いこと言いふらして自慢しているらしく、自然と噂として耳に入ってきていた。

 パトリシアは、そういう話が自分のところまで届くくらいだから男は余程羽振りが良いのだろうと思っていた。反面、これからこのようなお金に汚い奴に関わるのは今後一切御免こうむりたいわと宣言していた。

 そんな矢先の男からの直接の電話で、しかも半年振りに掛かってきたとなると、当然として慎重になるのは当たり前のことだった。


「はい、そうですけれど。どなた様でしょう?」


 パトリシアは素っ気なく返事を返した。外から掛けているのか唾を吐くような音が聞こえてきた。


『どうだい、暇かい?』


「ええ……」


『ああ、そうかい。それは良かった』


「は?」


『いやあな、ちょいと頼まれて欲しいんだ』


「それよりあなたは誰?」


『ああ、そうだったな。俺だ、ジョニーだ。ジョニー・ペンソンだ。一度だけ会ったことがある筈だ』


「そう?」


 すげない返事をしたパトリシアに男は気にすることもなく空咳をすると、『そうそう』と口を切った。


『ちょっと前に俺の子分が世話をかけたそうじゃないか。そいつが言うには、いきなり目の前が真っ暗になったと思ったらあっという間に気を失ったって言うんだ。そいつはその後医者に運ばれて、前歯が全部やられていて、片手首骨折、両足骨折、首のねんざにむち打ち症だろう。肋骨も何本か折れていて内臓も出血しているという診断が出て。お蔭でもって今尚病院暮らしが続いている。あいつの手下も一人を除いて皆同じようなもんだ。あ、そうそう、今日はその話で電話したんじゃない。実はな、折入って頼みがあってだな……』


 瞬間。何を言っているのか実情がさっぱり見えてこなかったパトリシアは思わず、「ちょっと待って。何のお話。さっぱり分からないわ」と口を挟んだ。


『何? 知らないだと』


 いきなり男の険しい声が電話口から響いた。だが直ぐに元の静かな低い調子に戻っていた。


『とぼけて貰っては困るぜ。お前の家にいた客のことだ。ミラーグラスを掛けた黒んぼでマーシャルアーツを使う大男のことだ』


「マーシャルアーツって? ミラーグラスを掛けた黒んぼの大男って?」


『ああ、そうだ。チップはな、そいつにやられたんだ』


「ふ~ん。そう……」


 マーシャルアーツを使うというのにはピンと来なかったが、ミラーグラスで大男だと、そこまで喋って貰うと、彼女もああと直ぐに頭で理解できていた、この男が言及しているのがズードであることを。

 ズード・クレイ・アントラス。もちろん本名ではない。通り名である。以前の本名と思われる名前は、かつて殺人の罪で終身刑の判決を受け刑務所で三年ほど服役していたとき、どういう風な手段を使ったのか知らないが彼女の亡き父親に助けられ、もう二度と外へ出ることは叶わないと思っていたところが無事解放され自由の身になることができた。そしてそのとき、何も得るものがなかった過去と決別するという意味で、もう一つの偽名と共に捨てたということだった。

 その後は請われるまま彼女の父親のボディガードを務め、父親が死んだ後は、当時彼女が暮らしていた亡き母親の故郷の自宅で使用人として暮らし始め、しばらくして彼女が出て行った後もそこに居残り。今現在はアルバイト的な仕事を持ちながらボランティア活動をする毎日を送っていた。

 身長七フィート(210センチ)、体重三百ポンド(136キログラム)近い立派な体躯。特徴は、いつもミラーグラスか黒っぽいメガネを掛けていることと、衣服を脱げば、無数の切創と銃創が、それまで生きて来た証として身体中に刻まれていること。本当の年齢は不詳。しかし五十歳を回っていることは確か。特技は本職顔負けの料理の腕。

 マーシャルアーツということに関して言えば、よくよく思い返して見ると、ズードが軍に所属していた若い頃、図体のでかい者がその身体を最大限に武器として活かすことができるようにと軍隊で考案されたマクシミリアン剛術という聞き慣れない武闘術を無理やり学ばされたと聞いたことがあった。

 記憶では、丸太のように太く鍛えた四肢と全身岩のように大きな体躯と二百五十ポンド(110キログラム)を超える体重を最大限に使う武術ということで。戦うリングは、あらゆることが起こり得る戦場と想定。そのため練習は通りや建物の内外はもちろんのこと、足場の悪い崖の付近。水たまりや砂の地面や樹木・草木が生い茂るジャングルを使い行われた。そしてその基本は裸に近い体に防弾服を着用した上に手首や足首や額に防弾服に使われているケプラーやアラミド繊維でできたバンデージを巻いたり、又はそういう素材の手袋やアーマーを着けたりして全身を鋼の鎧武者のように完全強化武装した揚げ句、互いに銃・ナイフ・棍棒などの武器は持ち放題として、突進・首絞め・踏み付け・ヘッドパッド・ラリアット・跳び蹴り・パンチなどを、本気で相手を殺す気で放ち合うという肉弾・打撃系を主体とした武闘術ということで、ドーベルマン・ボクサー犬は言うに及ばず、熊やライオンやバッファローと云った野生動物とも訓練の一環として戦った。他にも良く知られた存在に、拳法やシステマやクラブ・マガなどといった格闘術が軍隊内で人気が高かったが、それらでは及びもつかないくらい破壊力を秘めた、より殺し合いという本番に近い実戦的な格闘術です、と聞いたことがあった。


『おい、分かったか?』男が確認をしてきた。


「ええ。まあね」


 そういうことなら話は早かった。そのときのことをズードから逐一聞いていたパトリシアは、あのことね。当然の報いだわ、と携帯を耳から少し遠ざけると、相手側に知られないようにニヤリと笑った。

 チップという名前を聞いても心当たりはなかったが、リーダーらしき奴は赤いシャツを着た上背が六フィート越えのデブ男だったとズードから聞いていたため、たぶんチップというのはそいつだわと思っていた。

 あのとき、あいにくとビールと飲料水が切れているのが分かり、自転車に乗って通りの商店街まで買い出しに出掛けていた。そのとき留守を見て貰っていたのが、わざわざ休暇を取ってこちらの様子を見にきてくれていたズードだった。

 彼の話では、留守番をして十五分程経った頃、急に呼び出し音が鳴り、「小包です」と声がしたので玄関ドアののぞき穴から外を覗くと何が入っているのか分からないが大きく膨らんだ白い配達袋を軽々と片方の肩に担いだ男が一人で立っていた。(後で分かったことだが袋の中には荷物のかさを大きくするためにマジック風船が詰められていた)

 しかしその男が着ていた作業服のサイズが合っていなかったことが発端で、これはおかしいと感じて周りを用心深くうかがうと下へ向かう階段の手すりの辺りから踊り場付近にかけて複数の男が潜んでいるのが見えた。

 それで暫く返事をしないでいると、外からもう一度、呼び出し音が何度も鳴り、「小包です。中に居るんでしょう!」の声が響いたと言うのだった。

 良く考えれば上手い作戦である。その前日に、「運送会社の者ですが明日お昼頃にうかがいますので是非自宅にいて下さい。大変貴重な荷物を持って行きますので」という連絡があったのだから。

 人の通りが一時途絶える時間帯。中身に風船とロープとガムテープが入る白い大きな袋。運送業者を装った男とそれ以外の複数の男達。そして彼等がそれぞれ持っていたスタンガンに拳銃にワイヤーカッターにバールと呼ばれるドアを無理やりこじ開ける道具。もうこれだけで一体何をしようとしたのかは一目瞭然だった。拉致誘拐。それしか考えられなかった。

 だが応対した相手は歴戦の強者、ズードである。そう巧くいく筈はなかった。

 彼が先ず取った行動は、狭い場所で問題を起こすのは隣近所に迷惑がかかるからまずいと考え、先に先手を打つことだった。

 彼の言葉を借りると、「おい、お前。本物の運送業者じゃねえな。そこの業者はいつも首からIDカードをぶら下げているんだ。だがお前はしてない。どうやら偽物だな。あ、それと大勢で押しかけてどうするつもりだ。出てきな。もうばれているんだぜ」とドアの外に立つ男に向かってどすの利いた声で言い、「今出て行くから下で待ってろ。そこで話をつけよう。ここは五階だ。それに通路は狭い。こんなところで争えばどうなるか分かるだろう。運が悪けりゃ下へ落ちてあの世行きだぜ」と畳みかけたと言うのだった。

 その有言が効いたのか、或いは部屋にいたのが男だったことで当てが外れて何が起こったのか分からなかったのか、その理由はどうあれ男達が物言わずに下に下りて行ったのを見届けると、彼は非常階段を利用してほぼ同時ぐらいに下で落ち合うようにして、「ちょっと面を貸して貰おうか」と裏通りの車の往来がない道路に誘導し、その付近あたりでどうせまともに応えないと思ったがどういう目的でやってきたのか訊き、見張り役か運転手役と見えた背の低い気弱そうな若い男一人を後片付け役が必要だからと打撲程度に手加減をしておいて、残りの全員を死なない程度にぼこぼこにしてやったと言うのだった。


「私を誘拐しようだなんて百年早いのよ。ざまあ見ろだわ」「けれど私だってそんなに都合良くいかなかったかもよ。何て言ったって私には友人から手に入れた心霊現象や火の玉、妖怪の類と云った超常現象の幻を昼間から見せることができるアイテムがあるのよ。きっと並の人間なら恐怖で腰を抜かすのは間違いのないことなのだから」「もっと手っ取り早くやるなら私の友人を呪文で呼び出せば良いのよ。一分もしない内に一飛びで駆けつけて来てくれるわ」「でもまあ、相手があなたで運が良かったわ。私の友人だったらもっと酷いことになっていたかもよ」


 そう言って、百年分ほどズードと二人で大笑いし、そのついでに、口が利ける状態に生かしておいたチンピラから得た証言などから、実はその計画を企んだのはこの男、ジョニーではなく再三嫌味を言ってきたこの男の一の子分でキンポーという名の男が独断で指図していたことが分かったが、そのときは、「まあ、どうでも良いことよ。きっと何れ天罰が当たるわ」と別に気にも留めずに放置しておいた。けれどその後に友人のひとりと会う機会があったとき、その手の会話をつい話の種に交わした覚えがあったことから、今日こうしてわざわざ男が恥を忍んで自分から電話をかけてきたのは、その友人がきっちり気を回して始末をつけたからだわ。そう勝手に推理してパトリシアは、気分良く尋ねていた。


「それで頼みって?」


『ああ』一呼吸おくと、男は続けた。『なーに、簡単さ。その男の力を借りたいんだ。どうせお前の何かなんだろう?』


「まあ、そういうことのような……」


 そう曖昧に応えたパトリシアは、そこまで詳しく話す筋合いがないわよ、と思っていた。


『それなら話が早い。ちょっと頼まれてくれないか』


「え? どういうこと?」


『実は、話せば長いんだが手っ取り早く言わせて貰うと、人を捜しているんだ。その条件は男女何れだって構わない。年齢も選ばない。特技を持っていればそれで良いというわけだ。その特技というのが格闘術で、空手でもボクシンングでも柔道でも何でも有りだ。但し相当な腕前でなくちゃならない。それもべらぼうにだ。

 ま、それで何をするかというとだな。とてつもなくばか広い建物内で二時間の間、武装した傭兵と追い掛けっこみたいなことをするんだそうだ。なぜそんなことをするのか知らねえがな。ともかくその間、逃げ通せるならそれで良いし、相手から武器を奪い取り反撃しても構わない。ともかく二時間の間生き延びることができれば目的を果たしたことになる仕組みらしい。

 だが問題はどうやって殺られないかなんだ。向こうは時間まで本気で殺す気で向かってくる。それに対して、こっちは規則によって丸腰でそれに対応せにゃならない決まりなのさ。

 それでだな、こうしてそのようなことができそうな人材をあたっている訳だ』

 

「それで彼にその役目をさせようと……」


『ああ。当初は組織の用心棒が二人選ばれて行ったんだ。ところが二人共失敗して死体になって戻ってきてだな』


 言い難そうにそう言い、ほんの少し押し黙った男は、やがて決心したのか脅すような口調で、『こいつは内緒だぜ。誰にも言うなよ』とささやくと続きを述べ始めた。


 それに拠ると、このようなことをするのに至るようになったきっかけは、一週間ぐらい前に、どこの情報誌であったのか知らないが、そこで見たおかしな人材募集の広告の内容を、腕試しに名を借りた一種の見世物興行(高額な賞金を餌にして参加者を募り、参加料金をせしめるやり口の商売)だと見抜いた別の組織のボスが遊び半分で配下の幹部に意見を仰いだことが発端だったこと。その後、ボスの意向を受けた幹部の指図で話がとんとん拍子で進められ、やがて命令を受けた下部組織が適当に人選をして、その場所へ人を派遣したのだが全員が死体となって戻って来たこと。それで今一度ということになり、直ぐにもう一度人選が実施され再度挑戦が図られたこと。だが結果はやはり同じだったこと。

 そこまでは対岸の火事で男の組織とは何ら関係がなく問題がなかったのだが、その事が組織のボス同士が集まり互いに自己顕示力を発露し合う場で話題となってからはそうもいかなくなった。水面下で常に競合関係にあるしがらみからか、そのとき集まった十数人のボス達の誰かがあおったのか、それは分からないが、男の組織を含む五つの組織が成り行きで当事者のボスの組織と共に、その命懸けのゲームに誰が先に生存者を出すかで競うことになった。賭けまで発案され行われた。

 それから昨日までに四度、五つの組織は組織の面目を賭けて人材を次々とそこへ送り込んだのだが何れの場合も死人となって戻ってきた。

 そして五回目に派遣する人材を見つける役目が、どういう訳か直ぐ目上の兄貴分に巡ってきた。しかも期日を切られていて、この二日以内に見つけ出してこないと、忠誠心がないと見られて兄貴分共々自分もどうなるか分からない。それで心当たりのあるところへ片っ端から連絡をしている。


 そのような話が、十分ほどで一通り終わった頃。


『上がしょうもないことに首を突っ込むからよ、こっちが酷い目に遭うことになっちまったんだ』


 男の乱暴に吐き捨てるように呟く声が聴こえた。


「ふ~ん」


 その話し振りを聞いていたパトリシアは男の憂うつそうな顔が何となく目に浮かんでくるようだった。彼女は無邪気に微笑むと、肩の辺りまで伸びたブロンドの髪を空いた一方の手でいじりながら、余裕のある声で尋ねた。


「あなたの子分はどうしてるの?」


『あいつ等か?』投げやりな声が直ぐに届いた。『ふん、あいつ等ろくなもんじゃない』


 急に男の感情が高ぶったのか大きな吐息と共に、いきなりどこかへ唾を吐く音が聞こえてきた。それと同時くらいに、車が走り去るような音も男の携帯電話の向こうから聞こえてきた。どうやら夜中にそのような場所にひとりでいて、そこから電話を掛けているようだった。

 男は面倒臭そうに続けた。


『一人は記憶力が抜群でよう。それに法律に明るいときて、何よりも度胸が据わっていてな。こいつは将来大物になるかもと思って、ずっと目を掛けてやってたんだ。それなのに、ずっと前に俺の金をせしめてどこかへとんずらをこきやがってよ。あの野郎、見つけ出したらタダじゃおかないと思ってるんだが、どこへ逃げたのやら今持って行方知れずだ。行方を追う内に、そいつの女をつきとめて問い質してもみたが、女はそいつのガキを身ごもっていてよ。もう直ぐ子供が生まれるというのに逃げるなんて考えられない、それは何かの間違いだとほざきやがるもんで、らちがあかねえんだ。それで誰かに恨みを買って、それで消されたとも考えたが、奴は人に恨まれることをしていたと聞いたことがなかったし。もはや、どこで何をしてるやらさっぱり分からねえ。

 後の二人は揃って病院で遊んでいやがる。こっちは今死ぬ思いをしているというのによ。一人はお前の知り合いにやられたまま、前よりぶくぶくと太っていやがるし。もう一人は昨日二日酔いで俺の車を運転して事故を起こしやがったんだ。俺の車が大破して使い物にならなくなったのに、そいつは腰の骨を折って動けないだけでぴんぴんしている、死ねば良かったのによう。これで良いか!?

 嗚呼、どいつもこいつもこんなときに役に立たないなんてよう。みんな、最低なクズ野郎だぜ!』


「ふ~ん」と宙を仰ぎながらパトリシアは目を輝かせた。


 たぶん行方不明になっているのは、キンポーだわ。やり口から見て、手を下したのはホーリーかしら? いいえ、彼女はタダ働きをしないたちだから違うわ。するとロウシュ? ということは、トリガちゃんが食べちゃったのかしら。


 瞬時にそのような考えを呑気に巡らせていたパトリシアだったが、直ぐに現実に目を向けると、この前のようにやりたいようにやらせないわ、今こそ仕返しのチャンスよと、


「面白いお話ありがとう。もう切るわね!」


 そう言うと、有無を言わせず携帯を切っていた。

 その時、どうせ物騒な事に巻き込むつもりなんだわ。そうはいくものですか、と心の中で叫んでいた。彼女は付近のテーブルの上に携帯を静かに置き、読み進めていた本を再び手にして、しおりを挟んでおいたところを開くと、携帯を見て時間を確認した。夜の九時四十五分だった。それから何事もなかったように本のページへ目を落とした。

 だが、一ページも読み進めない内に、再び静かになった部屋の中にドヴォルザークの名曲をロック調にアレンジしたような電子音のメロディーが鳴り響いた。携帯の着信音だった。

 はっとして目を上げたパトリシアは、テーブル上に置かれた二台の携帯のうち、着信音のメロディーの違いから先ほど置いた営業用の携帯へ手を伸ばした。同時に、誰から掛かって来たのかも着信音のメロディーの違いで見当が付いていた。


(“青バラのプレリュード?” と言うことはさっきのあいつだわ)


 直ぐに、ほんとしつこいわねと、怒りがこみ上げてきたが、ここで出ないとまた続けて掛けて来るに違いないと、携帯を通話状態にして出ると、やはり思った通りの電話の主だった。すぐさま、


『お、おい、勝手に切るんじゃねえ。このお、大馬鹿野郎』


 けたたましく乱暴に怒鳴る男の声が電話口一杯に響いた。息使いからかなり動揺しているようで、しかも慌ているようだった。

 その狼狽ぶりにパトリシアは微笑した。今、目ぼしいところはズードだけみたいねと予測できた。そういう事情で懇切丁寧に内情を話したのねと理解した。普段威張っているそうだから良い気味よと思った。


「すみませーん、セールスはもう結構です。間に合っています」


 パトリシアは、そんなこと知るものですか、と全く意に介することもなく、冷静な態度で応じた。そして、「じゃあ、これで。もう電話して来ないで下さい」と伝えると、口を閉ざして再び携帯を切ろうとした。

 そこまで言われては、普通に素直に諦めるものだが、その日の男は彼女が思った以上に追い込まれていると見えて、諦めが悪いというか、しつこかった。余程尻に火がついているらしく、男はあがきとも取れる言葉を連打した。


『おい、こらっ、ちょっと待て。待ってくれ。なあ、おい。このまま手ぶらで帰れば俺は兄貴に酷い目に遭うんだ』


 最後には、『お願いだ。俺を見捨てないでくれ。頼む。どうか俺を助けると思ってだなあ』と言葉が鳴きそうに弱々しくなって行くのが聞き取れたが、何か旨い案を思いついたのか、媚びを売るような風に言葉の調子が変わると、


『……あ、そうだ、今応じると言ってくれたらキャッシュで二千、いや三千。ええい奮発して五千ドル出そう。直ぐに口座番号をメールで送ってくれ。証拠として半額を振り込んでやる。

 それでも足りなければもっと良いことを教えてやる。二時間の間で、それをクリアすればもっと大金が手に入るんだ。どうだ聞きたくはないか! 聞いてから切っても遅く無い筈だろう』

 

「う~ん、……そうね」


 と、声の主に曖昧な返事を返しながらパトリシアは暫しそのままの位置に携帯を保つと、目を泳がせた。

 ここ四週間ほど暇な時期が続き、切り詰めた生活を送らざるを得なかったので、直接お金が貰えるものなら今からでも欲しいという気持ちが、思わず心を揺り動かしていた。

 そしてつい不本意ながら反応して訊いていた。「もしクリアしたらどれくらい貰えるわけ?」

 

『ああ。十五万だ。立派な額だろう?』


「ええ、そうね……」


 一瞬ためらったように返事をしたパトリシアは、つい昨日のこと。六ヶ月振りにひょっこりと姿を見せ、普通に日常の会話と近況報告をしただけで帰って行ったソランという通り名の青年を思い浮かべていた。

 まだ二十代そこそこの彼は現在、さる芸能事務所にマネジメントを委託しながら、歌手のコンサートや企業のパーティや各種イベントに呼ばれて技を披露するパーフォーマーをやっていた。その得意技はナイフ投げとバランスアクロバット。パーフォーマーとしての腕は超一流で、世間でかなり名が売れている存在らしく。話では、それまでもナイフ投げとアクロバットの両方ができるのは大変珍しいと仕事が途切れることがなかったのであるが、片手逆立ちの姿勢で、とんぼ返りをした後で、綱渡りしながら、泳ぎながら、空中高くジャンプしながら、或いは空中回転しながらナイフ投げをするというオリジナル技を開発してから、二ヶ月に一度は海外公演の依頼も来るようになり、今では月に七日も仕事をすれば十分に食べていけるようになったということだった。


 ズードは幾ら強くっても何の変哲もない人間だからそのような無茶は幾ら何でもさせられないわ。でも彼なら頼めるかも?

 

 そう思ったのには人知れず奥が深い理由があった。

 この借り屋で一人暮らしをするようになり丸三年経つが、それ以前は海外にある亡き母親の実家で使用人のズードと一緒に生活していた。その頃、たまたま青年の命を救ったことが青年との馴れ初めだった。

 それは、とある雲一つない晴れた日のこと。ズードが運転する車で片道四時間半かけてとある港町まで行き、用事を済ます傍ら、安くて新鮮な魚介類を買い、それ以上の寄り道をせずに戻る途中の出来事だった。

 ふもとの方に古代遺跡が点在する岩だらけの丘を縦断していたとき、突然やや大き目の地震があり地面が揺れたように感じたので、車を止めて辺りを見渡すと、走ってきた舗装もしていない街道は異常がないようだったが丘の一部の方から砂煙が上がっているのが見えたのだった。

 だがそのときは再び地震が起こるかが心配で、砂煙が上がっている理由を深く考えもせず放置して、そこで暫く待機することにした。それで十分ほど待ったが何も起こらなかった。その間に起こったことと言えば、寂れた街道なので、一台の車とすれ違ったことだけだった。

 普通ならそれから車を走らせてお終いなのだが、その日は違っていた。車を止めている間、双眼鏡で周辺を見渡していたズードが何かを発見したからだった。 それは明らかに人の手を加えられたと思われる柱のような破片だった。少し離れたところには台座のように見える平らな石まであった。それはまさに、ふもとの遺跡に見られる石材のように思われるものだった。

 そこで先ず思い浮かんだのは、長く連なるこの丘のどこの辺りかは不明だが、ふもとに残る古代遺跡より古い時代の古代人が宝物庫替わりにしていた迷宮神殿の遺跡が地下に存在する。そこには未盗掘の金銀財宝が山ほど眠っている、というこの地で代々伝えられてきた都市伝説だった。

 もし仮にでもそれであれば遺跡の第一発見者になる。それなら一応見て措かないとと、二人で相談して付近まで安全を確認しながら行って見ると、柱の破片があった場所から少し離れた地点に、大きく陥没して川の側溝のようになった場所を見つけたのだった。

 溝のようなものは深さも幅も三十フィート(9メートル)ぐらいでおよそ三百フィート(90メートル)に渡り真っ直に続いていた。両端の所々には石垣のようなものも見えていた。明らかに通路か部屋と見て間違いのないものだった。

 その傍らを歩く内、ズードがとんでもないものを見つけた。地下へ通じているらしい階段が見える深い空洞だった。先の地震で開いたらしく、ドアのような形をした石材がその付近に落ちていた。

 ここまできたら一度見るだけでもと決心して、恐る恐る入って行くと、中は暗いと思っていたのにそうではなかった。壁面に夜光塗料が塗ってあるかのようにぼんやりと辺りを見渡せることができた。中には空気があり、かび臭いかほこりっぽいのかと思っていたが通常だった。

 それで、壊れた壁や天井の残骸を避けながら人一人が立って通れた隙間を少し行くと、崩壊していなかった通路へと出た。そこでとんでもない光景を見た。それは信じ難いことだった。一体何が起こったのか訳が分からなかった。

 何と、照明というわけなのか、壁の側面と天井部に貼り付いていたガラスタイルのように見えた薄い石板が光を放って周囲を明るく照らしていたのだから。


「嗚呼、古代人がこんな技術を持っていただなんて」「どうなっているの。信じられない」「これは古代人が作ったものじゃないのかもね」「この後、宇宙人に遭遇するか宇宙船を見つけることができれば、間違いなくここは宇宙人の前線基地よ」といった話を二人でささやき合いながら(実際は、彼女一人が喋っていたが)、更に進むと通路は緩やかなスロープとなり、やがて天井が高くて広い四角い部屋へと出た。

 辺りは天井に設けられたタイル状の照明で真昼のように輝いていた。眩しく感じるほどだった。

 部屋の周囲の壁をぐるっと見渡したが、期待していたような色鮮やかな装飾や彫刻が全く見られなかった。その代わり、部屋のちょうど中央部に天井まで達する直径四フィート(1.2メートル)ぐらいの石の柱八本に囲まれて、高さ二十フィート(6メートル)ぐらいの円形階段になった台座のようなものがあった。だが台座の頂上には石材の破片が転がるのみで本来何があったのかは不明だった。 尚、円形階段は壊された跡があり、ぽっかりと所々で穴が開いていた。そのような個所が大小何十ヶ所とあった。

 そんなとき、またしてもズードが感良く奥の壁側の方で何かを発見した。人だった。その直ぐ近くには閉じた石の扉があり、その付近でうつ伏せになって倒れていた。当の青年だった。続けてズードは、青年が倒れていた地点と正反対の壁の辺りで同じようにうずくまり動かない二人の男女を見つけた。後に分かったことであったが青年の両親だった。供え物をする祭壇なのか、長方形をして表面が平らな土台石のようなものの後方に二人は倒れていた。青年の方は白の無地のシャツに黒のジャケット。下はベージュのカーゴパンツにズック靴といったごく普通の普段着の格好だったのに対して二人はオレンジ色のヘルメットにグレーの上下の作業服。足に茶のトレッキングブーツを履いた状態だった。

 そのときは扉の奥に何があるのか見てみたいと思ったが、医者の習性で三人の様子を先に診てみると、共にまだ身体が温かく脈も微かだがあったので、三人を救出する方を優先することにした。

 だが急に動かすと危険と判断して、「急いで戻って例の物を持ってきて!」とズードに、キャスター付折り畳み担架に酸素マスク、消毒剤、血止め包帯一式が装備された救急トランクを持って来るようにと指図して、その合間に三人の状態を見た。

 男の方は壁にもたれ掛かるように倒れていた。壁に酷く頭部をぶつけたらしくヘルメットを被っていたにもかかわらず壁に血が飛び散った跡が残っていた。腹部から出血。両耳、鼻孔、口から出血していた。

 女の方は仰向けに倒れていた。外観的には異常が無いようだったが、鼻は潰れており、開いたままの眼孔と口から出血が確認できた。

 青年の方はうつ伏せに倒れていた。転がったのか地面に血の跡があった。側頭部、額から出血していた。手足からも出血していて、足が折れているのか異常な方向へ向いていた。

 診たところ、先ほどの地震が原因で三人がそうなったとは言い難かったが、あれこれと深く詮索することより命を助けることがとにかく先決とみて、車で最寄りの病院へ運ぶことにした。が、まだ生きていると見なしていた三人の内、作業服姿の男女に思ったより早く死斑が出現し、車中で亡くなっているのが確認できた。

 二人が亡くなったことで一つの問題が起きた。このまま病院へ直行すれば当然として警察が事情を聞いてくることだろう。もしそうなった場合、事故だと向こうが判断するのにかなりの時間がかかる。その間、取り調べで長時間の間拘束されるのは間違いない。まだそれなら良いが、下手をして向こうが殺人事件と勝手に判断すればやっかいだ。真っ先に第一発見者の自分達を容疑者と疑うことだろう。そして終いには、犯人に仕立てるに違いない。そう考えると当初の方針を転換。残るひとりを医療設備が整った自宅まで運ぶことにしたのだった。

 とはいっても青年も危険なことに変わりはなかった。自宅まで戻るまで持つのか心配だった。


 そうして一時間余りして自宅に到着したとき、その心配していたことが現実となった。もはや青年は仮死状態にあった。いつ死んでもおかしくない危機状態だった。

 しかし思いも掛けないことが起こった。もはや助からないと思った青年が蘇生したのである。もちろん医療の技術の成果や単なる偶然で起こった奇跡などではなく。それは偶然に偶然が重なり生まれた、万が一もない奇跡と言って良いものだった。

 それというのも、その日、三匹の魔物が相棒として付き従っている男友達が、「全くの偶然に近くまで来たから立ち寄った」と自宅で待っていたことが第一の奇跡であるなら、彼が連れていた魔物達が意外と博識だったことが第二の奇跡で。神殿の遺跡とおぼしき部屋の中へ入ったときに、たまたま蹴とばしたことが縁で、庭球ぐらいの大きさで手に乗せても風船ぐらいの重さしか感じなかった黒っぽい球体を拾ってきたのが第三の奇跡で。それを魔物達が目ざとく見つけて、それを使えば、もはや臨終を迎えていた青年の命を助けることができると告げたことが第四の奇跡で。普段なら他人の生死などどうなろうと無関心なのに、そのときに限り、死者を蘇らせることができるという球体の価値より、曲がりなりにも医師として人命を助けたいという人道的感情が優先して、「是非そうして」と思わず頼んでいたことが第五の奇跡だった。

 そのとき、その球体の正体というのが、この惑星が誕生する以前の遥か過去からやって来た肉体を失った知的生命体だと球体の告白で分かり、魂が存在することは聞いて知っていたが、初めて臨床でその実体を目にした。いつも威勢が良いだけの女たらしと思っていた男が、もし青年が生き返ったら彼の心と身体のリハビリを手伝ってやると言ってくれたことで頼もしく思えたなど。あれやこれやと驚かされながら、一度死んだはずの人命を救ったのだった。


 ほどなくして死の淵から蘇ったその青年が打ち明けた話によると、自身の名前は、テオドール・レノン。現住所はかくかくしかじかで、年齢は十七。学生。

 家族構成は両親との三人家族で、両親は共にハイスクールの臨時講師をしている。今、現住所の公務員宿舎で暮らしている。

 両親のもう一つの顔はアマチュアの考古学者で、それまで多くの人々が見つけようと臨んだが今尚見つかっていない伝説の古代都市の遺構を捜し出し、発掘するのをライフワークとしている。そう言う訳で、休みになると二人はいつも決まって、古代都市が存在した場所として一番信ぴょう性が高いと言われていた例の丘に向かうのを日課としている。

 その当日もいつもの通り、朝早くから、距離にして三マイル程の丘まで、ランチ持参で自転車で出掛けていた。自分は考古学には全く興味が無いのでいつものように自宅でゆっくりくつろいでいた。

 あれは昼を回った頃か。母親の方から、「とうとう見つかったの。大発見よ、大発見!! 早くおいで。良いものを見せてあげるから。そのとき、衛生マスクとシューズカバーとデジタルカメラとレーザー測量器とバリケードテープと。あとミネラルウォ-ターを四、五本忘れずに持って来て」といった電話連絡があった。

 それで言われた荷物を急いでまとめて待合せ場所に行くと母親が一人で待っていた。

 その後は母親の後ろへ付いて行ったところ、見渡す限り平坦な砂地が広がるだけの何もない場所へと連れて行かれた。すると、そこの地面に白いシートが広げてあり、その端がペグで固定してある地点があった。その直ぐ横には自然の大きな岩の塊と土砂を山のように積んだものと、両親が自前で購入した中古の万能ミニショベルカーとそのアタッチメントが置いてあった。

 そのシートの一部をめくると横方向に向かっている深い竪穴が現れた。

 それについて、そのとき母親が説明してくれたのは、長く発掘をやってきたが余りにも手掛かりが見つからなかったので、三年前頃からそれまで調査されて来なかった地点ばかりを選んでボーリング調査していたら、一ヶ月前ぐらいにこの辺りの地下に空洞があるのを発見した。それでもう少し詳しく調べようということになって付近を掘って見ると加工された石の板にぶち当たった。それがきっかけとなって建物らしいものが地下にあることが分かった。そして今日までかかって入口と思われる場所に入り込んだ土砂と岩を取り除いていたところ、晴れて立派な入り口が現れた。――「そこまでは聞いたという記憶があるのだが、それ以後どうしたかについてはどうしても思い出せない」というのが青年の告白だった。


 何はともあれ、翌日。亡くなった青年の両親の死因は、生き返った彼の証言もあり、警察から派遣された検視官を上手く納得させることができ、不慮の事故死ということで一件落着した。無論、未知の異星人が構築したかのように見えた遺跡の存在を公表するのは、後でごたごたするからと伏せていた。また、過去に盗掘に遭ったのか、遺跡内からは財宝や遺物らしきものは全く見つからなかったこともあり、もし放置しておいて遺跡の存在が公になるのは、今はまだ得策ではないと判断して埋め戻すことにした。そしてすぐさま実行に移された。

 その翌々日。青年の両親の合同葬が、ズードが関係する葬儀屋を通してつつがなく行われた。彼の両親の親族は少ないらしく、式には数人しか来ていなかった。参列者の大半は学校の関係者とアマチュア学者仲間で占められていた。

 もちろん式を取り仕切ったのはパトリシア当人だった。おせっかいをやり出すと止まらないのが彼女の性格だった。

 式が終わるやその後の現実に目を向け、「学校を辞めたい」と言い出した青年に、「もう少しで卒業なんだから中途で辞めようとは思わないで。最後まで通うことが後々良い思い出作りになるのだから」と親身になって引き留め、卒業まで学校に通わせたのも、それまで住んでいた公務員住宅を出なくてはならなくなり、否が応でも親戚を頼る外なく落ち込んだ青年の意向を汲んで一人暮らしができるような新居を見つけるのを手伝いその費用や生活費を負担してやったのも、学校卒業後、既に上級クラスに進む気がなかった青年に就職の世話をしてやったのも彼女だった。


 当時、国内は景気が良いようで、実際のところ潤っていたのは寡占企業と機関投資家と公共企業体。官僚・政治家と手を組んだ雑誌・テレビ・ラジオ・通信といった各種情報メディア企業体、一部のそういった企業とつながりを持っていた資産家だけで、ほとんどの人々は国策として行われた情報操作によって踊らされていたといっても過言でなかった。

 それを顕著に物語っていた一例が国内の就職率の低さだった。一時離職したりすると再就職は困難を極め。例え再就職先があったとしても以前のような報酬は望めず。ほとんどの場合は安い賃金に甘んじざるを得ないか、それが嫌なら失業したまま無職でいるほかなかった。

 同じようなことが新規採用の場合にも言え。二十代で五人に一人、十代では十人に一人の採用があれば良い方だった。

 そのような訳で、学校を無事卒業したものの地元で就職先を見つけられないでいた青年の、できればショービジネスの世界にデビューしたいという密かな憧れを知ってか知らでか、「どうせなら能力が生かせる職業が良いでしょう」と機転を利かせて、業界では中堅にあたる芸能事務所に直接掛け合い、「この子、運動神経が抜群なんです。クラウン(道化)でも何でもやりますから雇って下さい。お願いします」と舌先三寸で相手を説得してくれて、彼の長年の夢が叶ったのも、彼女が尽力したからだった。


 そういった件もあって、この地へ引っ越ししてからも青年は度々訪れては、「散々世話になっておいて何もしない訳にはいきません。何か困ったことがあれば言って下さい。僕にできることなら何でもします。お金のことでも結構です。直ぐに用立てしますから」などと言って来るのであったが、その度に、屈託のない笑顔で、


「そんなこと気にしなくたって良いのよ。当然のことをしただけなんだから。私もあなたと同じような境遇でね。両親がいないの。だから見て見ぬ振りはできなかったからやったまでなのよ。

 ああ、悪いけど私は世話を焼いただけではお金は受け取らない主義なの。何か頼みたいことがあったら連絡するわ。それで返してくれれば良いわ」


 と、適当に言い訳して逃げていた。

 ところが昨日。当時は彼女自身決まった定職が無かった関係で自身の母親が生前に集めていた骨とうや書籍やアクセサリーをオークションで売ったお金で生計を立てていたにもかかわらず、その中から青年に援助を繰り返していたことが、どこからばれたのか知らないが聞きつけて知ったらしく。そのことについて、酒に酔った勢いでしつこく責められたのだった。

 その日は不意にやって来たので、「ゆっくりして行ってね」とお酒をつい成り行きで薦め過ぎたことを後から後悔しても遅かった。最後には支離滅裂に、


「元々ない命ですから、僕にできることなら何でもします」「やばい仕事、大いに結構!」などと繰り返し叫ぶものだから、邪魔臭くなって、


「はいはい、分かったわ。近い内に何か考えておくから。それなら文句ないでしょう」


 そう応えてなだめていたところ、ようやく大人しくなって戻って行ってくれたのだった。


 しかし今になって思えば、あれは青年の芝居であった気がした。最後の別れのときに、「きっとですよ」とはっきり念を押して帰ったからだった。


 確かに彼だったら、ロウシュのお墨付きもあることだし、債権回収の要員としてもってもこいかも。これまでの個人相手の方じゃなくて、集団を相手にした債権回収も夢じゃなくなるかも。あれはとにかく債権の規模が違うのよ。一度に何十万ドルという収入になるわ。

 そうは言ってもね、彼には決まった仕事があることだし、常時当てにできる訳じゃないし。それに今は回収の時期じゃないし。その辺りがネックなのよね。

 そうすると、やはりこの話に乗って、――――。


 短い時間で尚も思案を重ねていたときだった。


『おい、聞いているのか!』突然、電話の向こうから男がいらついたように叫んで来た。


「ええ、聞いているわよ」


『それでどうなんだ?』


「どおって?」無意識にパトリシアは唇を尖らせた。


 彼女は、いつまでも恩義を感じている青年の純粋な気持ちを目先のお金儲けに利用するのはいかがなものかと少し迷っていた。しかし、近い内にと言った以上何かをして貰わなければならない。だけど、これを受けると一つ間違えれば取り返しのつかないことになってしまうかも知れない。だけど、知的生命体と魂が合体して特殊能力を得た青年を評して、「こいつはやるよ」との男友達、ロウシュの推薦もあることだし、「たぶん大丈夫よ」と、プロの殺し屋で滅多に人をほめないその男の保証を唯一の信頼できる拠り所としていたのだった。


『おい。また聞いただけというんじゃないだろうな』間を措かずに男の催促が返って来た。


「そういう訳じゃなくてよ。ただね……」


『ああ、その心配か! それなら心配無用だ。この俺が保証してやる。お前の男は直ぐにやられる玉じゃねえよ。

 あの糞馬鹿力のチコを苦も無くひねっちまうんだからな。奴が言うには今まであんな強い相手とやったことがないという話でよう。おまけに奴の手下も全員ぼこぼこにしちまったろう。実は、手下と言ったってそんなに弱い訳じゃなかったんだぜ。

 チコが俺の前で一流どころを集めましたと自慢してたから良く覚えてるんだが、奴が連れていた四人はな、街のごろつき連中が年に一回全国から集まりやってるストリートファイトトーナメントとかいう大会で優勝した歴代チャンピオンだったんだ。

 そんな実戦経験が半端じゃない四人をまとめてやっちまったんだからな。その男だったら相手が特殊部隊崩れであろうと、旨くやってくれる筈だ。そして俺の兄貴の株も上がるというものよ』

 

「それは嘘じゃないでしょうね」


『ああ、嘘じゃない。それで良いか』


「分かったわ。それで先の約束はどうなってるの」


『先のって?』


「もう忘れたの」


『ああ。金か?』


「ええ、当然でしょ。約束を反故にするつもりならそれでも良いわよ。のらないから」


 直後、チッと舌打ちする音が聞こえたかと思うと、


『分かったよ。それじゃあメールで口座番号を教えろ。直ぐに入金してやる』


 面倒臭そうに喋る男の声が響いた。

 それに、良い気味だわ。小者のくせに私に恥をかかせた罰よ、とパトリシアは電話の向こう側の男に皮肉な笑みを見せると、尚も強気に決め台詞を言い放った。


「何なら満額を入れて貰いたいものだわね」


『何だと!?』たちどころに男の怒声が響くと、低い調子で吐き捨てるように続けた。『フン。足元を見やがって』


「それじゃあ、止めておく?」と、間髪入れずにパトリシアは意地悪にも訊いていた。途端に、


『いいや。悪かった。俺の負けだ』と男は諦めたように素直に負けを認めたのだった。


 そう言ったやり取りの後、手付け金として五千ドルが入金されたことを携帯の画面で確認したパトリシアは、してやったりの顔でニンマリした。だがその涼しい表情とは裏腹に、これから青年を危険に巻き込もうとしている罪悪感から、その気分は冴えなかった。

 だけど、例え思いつきであっても一度決めた以上は後へは引き下がれない。もちろんこの下衆野郎の為じゃなくて。青年が二度と恩を返すと言って来ないように彼を諭すためにこれは行うのよと、自分の行為を正当化して自分への言い訳にしていた。

 そして青年への言い訳については、――所詮、人はお金が無いという病に冒されてはどうすることもできないのよ、と今更ながらお金に執着する振りをして、わざとあくどい人間のように振舞おうかと、そのときは思っていた。


 会話が一通り終わり、最後に男が、日時と集合場所、当日の服装と足の便を伝え、念のために携帯のメールでも同じものを送ると述べ、威勢良く、『それじゃ頼んだぜ』と携帯を切ろうとしたときだった。意を決したパトリシアは穏やかに口を開いた。


「彼じゃなくてはダメかしら」


『はあ……』ほんの少し間があって男が応えて来た。『おい、今何て言った!?』


「だから代わりを立てたいと言っているのよ。今思い出したんだけど、彼はその日はたぶん忙しくて来れないと思うの」


『え?』狼狽したような不思議な声が返って来た。『待て! どういうことだ』


「だから彼は行けないから代打を立てても良いかと聞いているの」


『……おい、冗談だろう?』


「冗談じゃないわよ。本気よ」


『お前な。そりゃないぜ。その男で俺は勝ちに行くつもりだったんだぜ。それなのによ、別の奴を立てると言うのか?』


「ええ。まあね」


 パトリシアが発した素っ気ない返事に、余程男は腹に据え兼ねたのだろう、しばらく無言電話のように黙っていた。だが二十秒ほどして突然、鼻先でふんと言う声と共に、


『まあ良いだろう。その代わり、必ずそいつを連れて来てくれよな。約束したからな』


 そう念を押して来た男にパトリシアは電話口で頷いた。


「ええ、分かったわ」


 すぐさま、『それじゃあ、宜しく頼むぜ。当てにしてるんだからな』という言葉が聞こえたかと思うと通話はプツンと切れてしまっていた。

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