第2話
翌日の朝、これから朝日が昇ろうかという午前六時を五分ほど回った頃。男の自宅。
玄関入口のドアを入ったところにあるやや広目の部屋に、髪を短く刈り上げ白いつなぎを着た若者が二人、三人掛けのソファに仲良く並んで腰掛けていた。その正面にはソファと同じ横幅の細長いテーブルが。その奥には同じタイプのソファが向かい合わせに置かれている。
ソファに腰掛けた二人から向かって正面にある西側に位置する窓からは、空き家になった隣家の白っぽい壁と二軒の住宅を隔てる白いフェンス(ラティス)が見え、格子状をしたフェンスには野生のバラに似た草木が地面からつるを伸ばして、緑の葉の隙間から白やピンク色をした小さな花を咲かせている。また入口の南側の窓からは、玄関先に駐車している一台の白のワンボックスカーが、その直ぐ奥の方には枝を扇状に広げ緑の葉を生い茂らせている一本のならの木とひと気のない一車線の道路が見えていた。
男、つまりダイスの住まいは、間口が狭いが奥行きが広い二階建て構造をしており、二人がくつろいでいたその部屋は、一般には顧客の応対用として使われていたが、普段はこのように従業員の待機を兼ねた休憩室としても使っていた。また、ドアを挟んだその隣には会社の事務室として使われている部屋があり、同じくソファとテーブルのセット。それに加えて事務机やパソコンやテレビや書類の入るキャビネット類が置かれていた。
更に通路でつながった奥側には二階へ通じる階段とダイニングを兼ねたリビングと洗面所があり。二階には寝室用に使っている部屋が二つと物置代わりにしている部屋が一つあった。
「おまたせ!」
明るい声が彼等の背後からしたかと思うと、耳元あたりでカットした茶色の髪をボブ風にした少女が片手に丸いトレイを持ち、ニコッと微笑みかけながら、ソファが二脚とテーブルしかない殺風景な部屋へ足を踏み入れて来た。
トレイには熱いコーヒーが入った陶器製のマグカップが四つと厚めに切った八枚のトーストが山積みになったステンレス製の皿がのっていた。
「待った?」
身長五フィート三インチ(約160センチ)あるかないか。クリクリとした可愛らしい目に低い鼻。両頬が少し赤らんで幼く見える。ダイスの一人娘のイクだった。彼女もまた揃いの白いつなぎを着ていた。
ダイスの仕事の流儀(ルール)は毎朝、従業員と軽い食事を摂り、その日の作業概要や取り組み方、対策などの打ち合わせを車中で行いながら目的地へ向うというものだった。そのため毎朝、インスタントコーヒーを人数分入れ、食パン(日によってはベーグルのときある)も同じ数だけトーストしてそれらを配膳するのが彼女、イクの役目だった。
またそれとは別に、三人が仕事場へ持って行く弁当を作るのも任されていた。但し弁当といっても手を込んだものを作るわけでもなく、彼女の父親であるダイスが長年の単身赴任の経験から編み出したアイデア通り、――予めスーパーマーケットで天然の酸化防止剤や保存剤を加えただけの何ら味付けをしていないゆでたパスタや炊いたライスや蒸しパン、同じくローストしただけの肉類、蒸しただけのじゃがいもやにんじんや豆類やほうれんそう等の野菜を真空パックしたものを購入しておき、その日の思いつきで適当にプラスチック容器にぶち込むというもの。――に従うだけだった。
あとは仕事先でケチャップやらマヨネーズやらドレッシングやらソースやら香辛料やらで独自に味付けして、そのまま食べるか電子レンジで温めて食べるといった手間暇をかけない簡単なものだった。
彼女がそのような役回りになったのは、父親であるダイスが、「幾ら景気が悪くって仕事が見つからないといったって生活が荒れては元も子もない。そういった意味で早寝早起きの習慣は夜遊びや心身症の予防になる上に健康にも良い。また、いい年頃になって料理もできないようでは後々が心配だ」と考えたからだった。一方、イクはイクで、彼女は、「毎日ぶらぶらさせて貰っている訳だし、これぐらいはしとかなくちゃね。それにこの作業と掃除と洗濯さえしておけば後は自由時間だし。案外楽勝だったりして」と安易に妥協して素直に従っていたのである。
彼女は運んで来たコーヒーと厚みが一インチ以上ある角切りの食パンをウエイトレスのような手馴れた手付きでテーブルに全て並べ終わると、にやにやする彼等を尻目にもう一度キッチンへ戻り同じようにした。二度目に運んで来たトレイにはイチゴジャム、メープルジャム、チョコレートソース、クリームチーズ、ピーナッツバター、スパイスがきいたケチャップソースが入る広口ビンの容器がのっていた。
二人の若者が、ダイスさん、いつもだったらイクが運んで来る前から座って待っているのに。今日は嫌に来るのが遅いな。何かあったのかな? と思っていたところに朝食の準備を終えたイクがさっそく彼等の向かいへ座ると、席に付いていないのはダイスだけとなった。
「久し振りのバイトができるな、イク」
朝のすがすがしい空気の中、あいさつ代わりに茶色の短髪の青年が口を開いた。ジスだった。これにニイと薄く笑った少女が小さくうんと頷くと、照れながら調子を合わせて言った。
「ええ、ほんと久し振りなのよね」屈託の無い表情で話す口元から白い歯が覗く。
「かれこれ半年振りかしら」
「昨日言ってた例のバイトの件はどうなった?」
彼が切り出した例のバイトとは朝と夕方に学童を送迎するスクールバスの添乗員の仕事のことだった。だが、ただの添乗員ではなく。巷で取り沙汰されている性犯罪者やテロリストや身代金目的の誘拐犯から子供の身を護るというもので。それ故か募集要項は男女問わず、必ず護身術の心得のある人物という話だった。
直ぐにブロンドの短い髪のもう一人の方が、俺も聞きたいという風にジスの横から身を乗り出してきた。レソーだった。
「う~ん? あれね」一瞬、彼女はためらいがちに考える振りをすると言った。
「アポして行ったら女子はあたしともう一人しかいなくって後は男ばかりだったから、これはしめたと思ったんだけどね」
聞き役に回る二人を相手ににこやかに話すイク。同い年であったジスとレソー。二人より三つ年下のイク。彼等三人はエレメンタリースクール(小学校)からの幼馴染だった。但しジスとレソーは同い年であったが会社の勤続年数はそれぞれ七年と四年で、弱干違うものとなっていた。というのも、ジスはダイスが雇われ技師として働いていた時代に、上背が既に六フィート近くあった為、年齢を誤魔化して助手として採用されており、対してレソーはダイスが今の個人会社を始めてからまもなくハイスクールを中退して入社してきたからだった。
しかしジスは勤続年数が三年長いと言っても、仕事をする動機自体は失業中の両親と年下の兄妹を養うためということもあって根は優しく。両親がそれぞれ、清掃局勤務の公務員と病院の準看護士と云った共働きで、あとは妹と祖母の五人暮らしという至って普通の、裕福では無いがそれ程貧しくもない境遇で育った優柔不断気味のレソーとは仲良く付き合っていた。
その彼等二人は彼女から体験談やたわいもない世間話を聞くのが毎日の楽しみの一つとなっていた。彼女のどこで覚えたのか歯に着せぬ話し振りは、本人が糞真面目に喋るほどに傍から見れば面白可笑しく聞こえ、聞く者を全く飽きさせないのだ。
そのときの三人の目は暗さなど微塵もない純粋そのものだった。
「面接は二人の面接官の前で全員が五列に整列して始まったんだけれど、最初に言われたことがきつくってね。この中に車の免許証を持っていない人が一人います。本来は仕事の内容を理解していないと見て即不採用とするべきですが本人はまだ若いこともあり、もし採用になったとき収得して貰うことで不問にします、と言ったのよ。そう言って、一番前でピンク色のつなぎを着ていたあたしの方をにらむもんだからみんなに諸に分かっちゃって大恥をかかされたわ。でもこっちだって言うことは言わないとと思って、そんなことは応募内容にのっていませんでしたって正直に言い返してやったの。そしたら何と言ったと思う?」
イクは低い鼻を急にぴくつかせると皮肉っぽく言い添えた。
「もし運転手に何かあった場合に臨時に運転できなきゃダメでしょうと言われたのよ。そんなの知らないわよ! あたしは運転手の募集に来たんじゃないわよって言ってやろうかと言いかけたんだけど、そのとき物凄く香水の臭いがきついおばさんだったけれど、もう一人の面接官がそんなことは当然でしょうとダメ出しして来てね。それぐらいならまだ我慢もできるけど、あとに続けた言葉がこうよ。『真実を突かれての言い訳は大変見苦しいことです。先ずは誠実にお謝りなさい。それなら聞いて差し上げましょう』ってね。
ねえねえ。悪くも無いあたしが何で謝らなくちゃいけないのよね! さっぱり意味が分からなくって、もう一回言い返してやろうと思ったけど、後ろで大勢が見ている関係もあってこんなところで一人目立ってしまうのはどうかと思ってそのままにして措いたんだけどね。
まあ、そんなことはさておき問題はそれからよ。選考の最終にお互いの技を披露し合う場面があって、みんなが格闘技の経歴やちょっとした型みたいな裏技を見せて行くんだけどさ、あたしにはそんな経歴も技術もないじゃん。それで、あたしの番になったとき、ずらりと並んだ男達から体格が良さそうでこれなら倒れたって死なないと思った十人を名指しして、あたしがどれだけ強いか実戦でお見せしますと言ったのよ。
そしたらあたしの言ってることが分かんないのか回り全体がポカンとしちゃってさ、全くらちが明かなくなっちゃったのよ。でもこっちも必死だったから、見繕った中から体重が一番重たそうな、がちなデブ男を選んで、そいつに近付いて行って突き出た腹を手で押してやったのよ。そしたらデブ男は見事にバランスを崩しておかしな格好で後ろへずずずっと下がって行ってそのまま仰向けに倒れたと思ったら口から泡を吹いて悶絶してたわ。これでみんながあたしの強さに気が付いたのか一辺に回りが緊張に包まれてしまってね。
でも、みんなプライドがあるのか全員で一辺にやって来なくって、一人ずつ向かって来たの。あのときはとてもスリリングだったのよ。あんた達にも見せて上げたかったわ」
ふ~んとジスとレソーが興味津々という風に唸ると、二人の様子を見たイクはにんまりした顔で、
「どう? 続きを聞きたい?」
二人が同時にうんと頷くと、にやりと笑い、続きを話した。
「先ず一人目はね、裸の上半身がボクサーみたいに無駄なぜい肉がない筋肉質の体をした男で、上背がそれほどないようだったけれど機敏そうだったわ。そいつがあたしに物凄い勢いでタックルを仕掛けて来たの。普通だったらあれだけ低く当たりに来られるとたぶん後ろにひっくり返ったところを地面に押さえつけられてお終いよ。
でも相手があたしよ。そんなこともあろうかと用意はしてあったわ。あたしは逃げずに瞬時にセキカから習った方法を使って体重を見かけの二十倍重くしてやったの。途端にそいつはあたしに跳ね返されて地面にはいつくばってさ。そこをあたしがすかさず上に乗っかかると、ボキッと音がしてそいつは堪らず参ったとタップを二、三回して動かなくなったわ。
二人目は二十代後半ぐらいの若いお兄さんで身長が六フィート(180センチ)以上あってがっしりしたタイプだったわ。服装は、青いジュードジャケットを着て黒い帯をしていたわ。
お兄さんは警戒しながらあたしの正面までやって来て両手を上に上げる構えを取ったかと思うと、いきなりあたしの顔をめがけてハイキックを繰り出したわ。それも手加減無しといった強烈な奴をね。でも相手が悪かったわ。さっそく蹴り出して来た足を片手で受け止めてやったら、お兄さんの足先がボキッと鳴って、お兄さんは地面に倒れ込んだ状態でもう戦意喪失よ。その間一秒もなかったわね」
恐れ入ったという風な顔をする二人に、イクは弾けるような笑みを見せながら尚も続ける。
「ええと、三人目は着ていた赤いTシャツが破けそうなくらいの筋肉隆々のボディビルダーみたいなタイプで、前の二人の失敗を見て用心したのか、あたしの正面に立たないように回り込むと、今度は体のでかさを活かしてあたしに被さるようにしてきて、あたしのつなぎの服の端を持って投げ飛ばそうとしたのよ。恐らく力には力で対抗しようとしたんだと思うわ。けど、言ったように世界一の力持ちだって象並みの二千ポンド(908キログラム)の重量は持ち上がらないでしょう? 案の定、直ぐに無理だと分かったのか今度は片足を持ち上げる作戦に切り換えて来たわ。それをあたしが許すと思う? そいつが屈んだところに広い背中が見えたから、同じく二十倍になった握力で肩の辺りをつかんで一気に力を加えたらバキバキと骨の鳴る音がしてそいつったら腰砕けになって身動きしなくなったわ。
四人目と五人目は、体付きはやせとデブとで違っていたんだけれど、二人とも白のジュードジャケットを着て黒い帯をしていて間違いなくジュードマンだったわ。なぜそうと分かったかというと、二人とも全然パンチや蹴りをやって来なくって、あたしのつなぎをつかもうとして来たからよ。そんなことをやるマーシャルアーツ(武術)ってジュード(柔道)しか無いでしょう! やせた方は足ばっかり狙っているように見えたわ。デブの方は腕をきめようとしているみたいだったわ。だけど最後は二人とも、つかみに来たところを逆につかみ返してやって放り投げてやったら地面にドサッと落ちて動かなくなったわ。
次とその次は素手じゃなくって武器を使って来たわ。一人目は頭がツルンツルンで腹がずんぐりと出た人の良さそうな感じの黒んぼうのおじさんで、首が物凄く太くって頭が肩の上に乗っかってるような感じだったわ。そのおじさんが腰の後ろに挟んであった二フィート(60センチ)ぐらいの真っ直なスティック(棒)と、長さが同じで先が曲がったスティック(棒)の二本を取り出すと、そんな雰囲気とは裏腹に人が変わったように無茶苦茶に振り回して来たのよ。あれにはこっちも参っちゃってね。武器の材質が分かんないんじゃあ下手に受け止めて怪我でもしたら大変だと思ったのよ。セキカにも武器を持っている奴には不用意に突っ掛かって行くなって言われてたしね。
それでどうしたかと言うと、先ず避けるために今度は体重を二十分の一に軽くして上に跳び上がったの。そしたら向こうはあたしを見失って慌ててポカンと動きを止めたの。そこをあたしは逃がさず上から向こうの頭を目掛けてトンボが止まるようにちょんと乗っかってやったの、もちろん体重を二十倍にしてよ。当然、あっと言う間におじさんは腰砕けになって撃沈よ。
その次に対戦したのは黒のスーツ姿の一見マジシャンみたいな男で、空中から次々と警棒やスタンガンや投げ縄状になったロープに手錠がついたのやらを出して向かって来たわ。それだけならどおってことなかったんだけど、フェイントと言う訳かしら、突然消火器みたいなもので催涙ガスを吹き掛けて来たのよ。それも煙幕を張れるぐらい大量によ。お陰で、回りで見ていた人達にも影響が及んで、みんな涙が止まらなくなり、それはそれは酷い状況になったわ。
あたしもこれには目から涙が出て来てくるし、せきまで出て来たんで、もう参ってしまって一旦退散することにしたの。それでセキカから習っていた例の走法で一挙に四分の一マイル(約400メートル)ほど距離を取り、白い煙が薄くなったときを見計って急いでまた戻ると、男のスタンガンを奪い取ってやって逆に押し付けてやったの。そしたら、そいつったら体を震わせて気を失ってしまってお終いよ。
その次にあたしと対戦することになっていた人なんだけど。これがね、怖じ気付いちゃったのか、それとも前の人のガスを相当浴びたのか知らないけれど、急にいなくなっちゃって、順番的に最後のひとりとあたしがやることになってね。
その最後のひとりはひょろっと背が高くて、黒くて長いぼさぼさの髪とひげ面から若いのか年寄りなのかさっぱり分からないような顔をしてて、相当使い込んだと思われるよれよれの黒のジュードジャケットを着てて、まさに半年か一年ぐらい山にこもって今修行場所から出て来たというような感じだったわ。
でも、その貧相な感じと違ってその強いのなんのって、あたし達以外にどこにそんな人間がいたのかと思ったくらいよ」
イクの発言に、いつものようにお気楽に聞いていた二人が、信じられないという顔で彼女を覗き込むと、ジスの方が訊き返した。
「本当なのか? イク」
「ええ、もち本当よ」
普段、彼等、三人の会話は、決まってジスがイクの話し相手になり、レソーは聞き役に徹するのが一般的だった。その理由として、――三人は幼い頃から共に遊び仲間だったこと。加えて当時はイクが彼等のボス的存在であったこと。母親譲りの勝ち気な性格のイク。複雑な家庭環境から来る責任感からなのか芯がしっかりしているジス。どちらかと言えば事なかれ主義で大人しく、人に合わせ気味な性格のレソー。仕事中心だったダイスが自由放任にして措いた結果、学校の競争原理を導入した詰め込み教育が生に合わなかったのか、それとも同年代の友人が出来難かったのか、または先生とそりが合わなかったのか、事情はどうあれ自分の意志で学校へ行かなくなったイク。置かれた生活環境のために学校へ行けなかったジス。ただ何となく学校を辞めたレソー。――などが根源と考えられたが、ともかく三人の間ではそう云った役割分担がごく自然に決まっていたのだった。
「最初、他の人達と違ってニヤッと白い歯を見せながら物凄く余裕があるように近付いて来たから、どうせはったりよと思ったんだけどね。ところがどっこい、距離が三十フィート(9メートル)ぐらいまでになったときよ、急にツンと来る臭いがしてきて息が苦しくなったと思ったら、あたしはドーンと強い力に押された感じで地面に尻餅を付いてたわ。それもあたしが通常の二十倍の重さがあったのによ。何だか嘘みたいな話でしょう!
これにはもう凄く慌てちゃって、何をして良いのか分かんなくなってね。気が付いたらそいつがほんの近くに来ていたんで、こっちは必死こいて応戦してやったわ。
そしたらその内の一発がたまたまかすったか当たったみたいで向こうは敵わないと見たのか作戦を切り換えて距離を取って来たの。それがまた絶妙な距離でね。あの後、一発でもパンチか蹴りがクリーンヒットしていれば勝負が付いていたんだけどね」
そのときだった。急にイクが話を中断すると、朝っぱらから何かあったのかしら、と外の道路の方角へ目を向け、耳を澄ました。ジスもレソーもキョトンとした表情で続いた。
遠くの方で救急車か消防車のサイレン音がしていた。だが直ぐに遠ざかって聴こえなくなっていた。
三人は顔を見合わせ軽く微笑み合うと、何もなかったかのようにイクが「ええと、どこまでいったかしら」と呑気に口を開いた。そして続きを始めた。
「あ、そうそう、あたしのパンチも蹴りも届かない距離まで下がって、そこから蹴りを中心に向かって来たわ。ところがね、変だったのよ。どう考えたって十フィート(3メートル)距離があった筈なのに、向こうの攻撃がヒットしているのかあたしの着ていたつなぎが次々と裂けてボロボロになって行くのよ。今だってあれは何だったのかさっぱり分からないわ。
けど、あたし自身はそんなこともあろうかとセキカに習った方法で体を二重に強化してあったから別にどうもなかったんだけどね。でも、このまましつこくやられ続けたら負けるかもと思って、スピードだけはきっちり負けない自信があったから、後ろに回って捕まえたらこっちのもんだと思ったわけ。それでさっそく取り掛かろうとしたときよ、前の美術館みたいな建物から茶色のダブルのスーツでビシッと決めた中年とその秘書みたいな濃紺スーツの若い男が一緒に出て来たかと思うと、あたし達の間に割り込んできて止めに入って来たわけよ。どうやらその人達は偉い人だったらしく、後で二人の面接官がペコペコしてたけどね。
まあ、そんなことはさておき、その前に遠くで警察の車がけたましくサイレンを鳴らして走っていたから気にはなっていたんだけど、どうやらこっちの方へ駆けつけて来たらしくって。あたしの方に止めに入って来たのは若い方だったけど、その人はこう言ったのよ。 ええと……『急に気分が悪くなった、涙が止まらなくなったと云う苦情が多数警察に行ったようなのです。そういうことで今日は誠に恐縮ですがこの辺りにしてお引取り願いませんか。後の事は私共がなんとかしますから。採用かどうかは後ほど必ず通知致します』からってね。
それを聞いたとき、直ぐ催涙ガスのことだとピンをきてね。それじゃあ、あたしも警察から取り調べを受けるのは間違いないことだし。そうなったら面倒だなと考えて素直にその人の言うことを聞いて、勝負付けも終わっていないまま戻って来たってわけ。
でもどういう訳か今もって採用の連絡がないのよ。全く変でしょう! あともう一週間ぐらいは待って見るつもりなんだけどね」
説明し終わったその表情はどこか悔しそうだったが、直ぐに気を取り直したのか、いたずらっ子のような笑顔を見せていた。
「あたしのことはこれぐらいにして。ねえねえ、今日の作業ってこの一日だけ?」
「さあな。心配しなくたって後で車の中で教えてくれるさ」
「ああ、そう」
ジスが無頓着に応えたことはまんざら間違いではなかった。というのもダイスは仕事の日程調整をぎりぎりまで行う為、当日になって仕事が決まるといったことがざらで。そのような場合は目的の場所へ行きすがら話すのが常であったからである。イクもそのことは重々承知していた。
そんなとき、落胆したように浮かない顔をしたイクに向かって、レソーが始めて口を挟んだ。
「社長が昨日の昼休みに作業場で何度も携帯をいじくって大声で日数の確認を取っていたから、今日一日じゃないと思うよ、あの感じじゃあ、そう三日ぐらいだろうな」
それを受けて、「本当?」と、クリクリとしたイクの茶色の目が輝いた。
「たぶん、そうじゃないかな。最近、社長は嬉しいと大声を出す癖があるんだ」
「ふ~ん」今度は二人をジロリと睨んだ。
そこへジスが口を挟んだ。「それよりイク、ダイスさんは?」
「ああ。父さんならついさっきまでヒゲを剃りながらセキカと一緒にいたわ。それから後はね……」
顔を南の窓側に向けて視線を外に移したイクが、またいつものように電気欠にならないか車の電気容量メータをチェックしているんだわ、とそこに見えた自家用車の方に目をやったとき、「ガチャ」と玄関のドアが開く音がして、直ぐに白いつなぎ姿の男が、急ぎ足で三人が待つ部屋へ入って来る。今朝はメガネを外してはいたがダイス本人だった。
その彼が、無表情のままいつものソファの定席に就くと、それに合わせるようにいつもながらの厳かな食事タイムがさっそく始まる。
四人はビンの中に入った木ベラを各々手に取ると、好みのソースやジャムやクリームを皿やパンに塗り付け一勢に食べ始める。その食べ方というのが十人十色というべきか特徴があって。ダイスとジスはパンに好きなものを塗るとダイスは三角に折り畳んでほおばり、ジスは長方形に折り畳み食べる。イクはというと、形は原型のままで口をパンの方に持って行く趣向を取り、一方、レソーはパンを千切って皿に盛り付けたジャム類、クリームをすくい取るようにして食べる。また嗜好のこだわりも色々で、ダイスは一週間の間、決めた二種類を毎日取っ換え引っ替えして食べ、ジスはその点は無頓着で毎日その日の気分で決めていた。またイクに限っては一種類を飽きるところまでそれだけをパンに塗って食べていた。そしてレソーはいつもあるだけの種類を、まるで画家がパレットに絵の具を全色並べるように全て皿に盛り付けていた。
食事の間は一切会話を交さないというのが、ダイスの会社のもう一つの流儀(ルール)であった。もちろん、その理由は会話をすることで食事の時間が長くなるのを嫌っていたからであった。彼は時間を気にする几帳面な性格で、少しでも仕事先までの時間に余裕を持たせようと考えてのことだった。そのため、この恒例となっている朝の食事タイムも、時には屋内で済まさずに現地へ行きがてら車中で済ますということも随分とやっていた。
パンを食べコーヒーを飲み干して最後に皿とコップを一まとめにするまでの間、五分少々。ダイスが最後のコーヒーに手を伸ばしたところで三人の食事タイムが終了していた。後はトイレに駆け込むか、荷物を持って外に向かうだけである。
さあ行くかと、いつものように三人が先にソファから立ち上がろうとしたとき、「そう慌てるな」と声が掛かった。丁度、今しがた食事を終えたばかりのダイスからだった。
「今日は訳あって時間がたっぷりあるんだ」
落ち着き払った彼の物言いに、いつもならそわそわしているのに今日はどうしたんだろう、と三人が不思議そうに顔を見合わせ、その中から最古参のジスが、少し間延びした声で問い返した。
「はあ。なんです?」
「少し話したいことがあるんだ。大切な話だ」
そう言って三人に再び座るように促し、小さく頷いて座り直した三人に一つ咳き払いをすると、こう話し始めた。
「先ず慌てなくて良いと言ったのは、今日の作業はその内容から時間が特殊なんだ。予定では今日の深夜ぐらいからかかると思う。なぜそうなるかと言うと、今日の作業はゴミ収集車による生ゴミの収集だからだ」
イクを除く二人がまだ意味が呑み込めないという風な顔をした。彼等二人は、ゴミの収集のような公共性の強い仕事は依頼主である役所や当局と結びつきがある特定の企業が独占していて、ダイスのような会社では間違っても仕事が回って来るようなことがないと、清掃局の現役の職員であったレソーの父親を通じて良く知っていたからだった。それでもダイスは、二人の顔を見渡し分かっている、という風に構わず続けた。
「実はこれは緊急の臨時的な仕事なんだ。ここから三、四十マイル離れた五つの区域を受け持っている清掃局の下請け企業数社の組合がどうも三日前頃からストを始めているらしいんだ。どうせ理由は、賃金を上げろとか公務員のような特権を認めろとかだろうがな。
普通ならその代わりを別の区域の清掃業者に任せるかその地区の別の企業にさせると良いんだろうが、あの業界はナワバリ意識が強いというのか閉鎖性が強いというのか、どうもそういうわけにはいかないらしいんだ。
だが、このまま放って措いたら街中ゴミだらけになってしまい後から市民の不評を買うのが必定。そう考えた役所のお偉いさんが業界とのあつれきを生じないように、内々で俺達みたいな別地区の、しかも業界とは関係のない企業へ仕事を依頼して来たというのが真相なんだ。
俺も初め募集を見つけたときにはびっくりしたさ。たぶん無理だと思ったが一か八かで応募して見たんだ。そしたら見事受注できたって訳だ。まあ、言ってみれば役人が緊急に迫られて止むに止まれず出した超法規的措置って奴だ。分かったか、二人共。
俺もこれ以上難しいことは知らんが、そういうことなんだろう。
ええと、向こうでの段取りはこういうことだ。俺達が現地へ着いたらそこで一旦休憩を取って、深夜をまわった頃、作業開始となる筈だ。依頼主の方からできるだけ人目を避けてやってくれって言われてるからだ。理由は組合を刺激したくないのと、請け負っている業者の名前を知られたくないからだろう。
なーに、作業は簡単だ。俺達は専用の車で周回して生ゴミだけを回収すれば良いだけだ。他のゴミは別の業者がやってくれる手筈だ。車は現地に用意してあるそうだ。それに車には道を知らなくたって親切に案内してくれるナビシステムが組み込んであって、回収場所を指示してくれるそうだ。俺達はそのシステムの通りに車を運転すれば良いだけなんだ。それに深夜だし車の往来も少ない筈だ。作業なんて直ぐ終わるさ。
尚、契約は六日間だ。ストの状況によってはもっと延長をしてくれるそうだ」
その場でジスとレソーが頷き、イクも二人に釣られて訳も分からずに頷くと、ダイスは意味が伝わったなと解釈していた。
「後の細々なことは車中で話すとして、今から別に聞いて貰いたいことがあるんだ。大事なことでな。こればかりは車の中で話すという訳にはいかないんでな」
そう言って一呼吸措くと、うつむき加減で聞く三人に向かい、言い聞かせる口調で口を切った。
「今日は少し堅い話をするが良く耳に入れて欲しい。ええとぶっちゃけた話、世間はまだまだ景気の回復がもう一息で、今儲かってるところはごく稀だ。大半はちょびっととかトントンだ。それ以外は倒産か破産して消えて行ってるか明日が我が身というところだ。
そんな中、利益を出そうと頑張ってるところはどこもかしこもその状況を生き抜く為に、人減らしをやったり設備や資産を売ったり、仕事調整をして儲かるものしか手を出さなかったりしている。場合によっちゃあ会社を休眠状態にしたり社員を全員解雇して一時解散しているところだってあるんだ。
……あいにくとうちはまだそこまで行ってないが、このままの状況が続けば同じようになるかも知れないと思ってる。だがうちは俺の娘を合わせても四人しか社員がいない小さな会社だ。ひとり抜けるだけでも仕事に故障が出るのが目に見えている。と云って売れる設備も資産もない。それに、こねがある訳でもなくそうそう儲かる仕事ばかりある訳でもない。おまけに仕事を選べる身分じゃないときている。残るは会社を半休眠状態にして週に二日か三日だけ働くやり方だが、それだとお前達に入る給料は雀の涙ほどになってしまう。こっちだってお得意様を失いかねなくなり続けて仕事を取れなくなる恐れがある。最終的には景気が良くなるまで一時期会社を解散することだが、これだと全員が失業してしまう。俺もそれは絶対困るんだ。
だからそんなことはできないと思ってな、考えて見たんだ。そして考え付いたんだ、俺達はやれるのにまだ手を出していない未開拓の分野があるんじゃないかとな。それが今日みたいな仕事なんだ。
お前達、無理強いするようで悪いんだが、今の事情から今後このような仕事の方にも手を広げて行こうと思ってる。そういうことでみんなの協力が欲しいんだ」
「すみません、ダイスさん」
ダイスが話をまとめるのを待っていたかのようにジスが疑問を口にした。「昨日の作業はあれでお終いなんですか? あのままじゃあ中途半端な気がして。あんな不格好なままで置いておいて良いんですか?」
昨日の作業とは、昨日、事前に請負っていた中古の九戸連棟式一部三階建て賃貸住宅の建物解体の作業を三人で行ったのだが、何らかの手違いがあったのか、その内の三棟にまだ住人が住んで居たため、仕方がないので両隣が空き家になっていた中央の二棟分だけを重機を使いきれいに解体し空き地状態にして、他は手を付けずに放置して戻って来ていたのである。
「ああ、あれのことか」ダイスがこともなげに説明した。「昨日、終ってから一応、家主の代理元に連絡を入れて事情を説明したら、あのままで放って措いてくれと云われたんだ。どうも残りは解体しないで内装だけ新しくして済ますようなことを言ってたな」
「あ、そうですか」
がっかりしたように少し顔を曇らせたジスにダイスが口元を歪めた。
「なあ、ジス。最近はこんなことばっかりなのさ。どこでも仕事の途中で値引き交渉をして来るのが当たり前だし、それがダメならサービスでやる仕事を追加依頼してくるか昨日みたいに途中で心変わりして中止を求めて来るんだ。今はどこでも始末してちょっとでも金を浮かそうとしてるんだ。元々の賃金は競争で目減りしてだな……」
尚も彼が続けようとしたとき、下を向きながらぼんやりしていたイクの口から一瞬、真面目な話に水を注すように大きなあくびが三人に分かるように洩れ出ていた。
途端に、隣に座る行儀の悪い娘をチラッと見たダイスは、困った奴め、と顔をしかめると、彼女も気まずいと判断したのか顔を上げると人懐こい目で微笑んで誤魔化そうとした。その様子を見てニヤニヤするレソーとジス。そんな彼等を尻目に大きな溜息を付いたダイスは、今さら愚痴を言ってもな、と言いかけたことを呑みこむと一息置いてから継いだ。
「話しておきたかったのはこれぐらいだ。さてと……」
彼が口走りかけた言葉をいつもの決まり文句である、「さあ行くか!」と信じた一同が互いに目で合図し合って動き出そうとしたとき、
「まだだ」と、はやる三人をダイスがたしなめると言った。「これはついでという訳ではないが、お前達にちょっと聞きたいことがある。もうちょっと付き合ってくれ」
彼の口から出た言葉は予想外なもので。何だろう、まだ何かあるのかな、と三人は顔を見合わせた。するとダイスは無造作にテーブルに片肘を付くと、ジスの方へ向かってストレートに問い質した。
「ジス、例の銃はどこだ、どこにある?」
「はあ」
「おい、とぼけるんじゃない」
「はい。でも例の銃って?」
何のことか分からないという風に重ねて首を捻るジスに向かって、ダイスは彼を鋭く見据えると言った。
「44口径のリボルバーのことだ。グリップ部分が黒でそれ以外は銅色をしていて木目のような幾何学模様がある。お前もレソーも知ってる三万ドル以上の価値がある銃だ。お前が預かっているんだろう? 全てセキカから聞いている。弾もだ」
「あああ、あれのことですか」やっと思い出したのか、ジスが口を引き結んだ。
「あれですね」
「ああそうだ。あれだ。どこにある」
「ああ、あれなら入ってた革のケースに入れて大事に保管してあります。ですが今ここには……」
そう言って途中から口ごもったジスに、もしや失くしたのかと不安を感じたダイスは、ジスの目を見て声を荒げた。
「じゃあどこだ?」
「あ、はい」急に蒼ざめたジスが歯切れの悪い口調で言った。「実は、あのう。昨日の仕事現場に置いてあるんです」
その直ぐ隣ではレソーがうつむいて戸惑った表情をしていた。二人は一刻も早くここから逃げ出したいようだった。ダイスは分けがわからず、思わず顔をしかめた。
「でもどうしてそんなところにあるんだ? ジス」
「あ、はい。解体するのは郊外のヴィラだと聞いていたのでつい、そこなら……誰もいないかと思って……置いて来てしまって」
こいつら、なぜそんなところに持って行ったんだろう、と首を傾げたダイスは昨夜、生き物から聞いた話から、さては例の危ない遊びをするつもりだったんだな、とすぐさま直感すると言った。
「セキカから聞いてるんだ。お前達二人はあの銃を使って銃弾を避ける遊びをしてるんだってな」
ダイスの探りに、同時に落ち着きを失い互いに目を見合わせたジスとレソーが、もはや隠しきれないと判断したのか突然、揃って頭を下げた。
「すみません、ダイスさん」「すみません」
「やはりそうか」
朝一番に例の生き物と話し合ってここまでは想定の範囲内だと思ったダイスは、やや険しい表情で二人を見渡した。それから、「やってしまったことは仕方がないが」と軟らかな物腰で口を開いた。
「だが、どうしてあの銃を使ったりしたんだ。高価な品だと知ってた筈なんだろう?」
そう問い掛けて今度は二人をジロリと睨んだ。
「はい、知ってました。知っていましたが……」と、先にジスがうつむいたままでぼそぼそと答えた。
「あのときは見るだけで終るつもりだったんです。ところがケースを開けて良く見ると、銃自体はそれほど古くなかったのに手入れが悪いのか表面に錆が所々見えたんです。で、これはひょっとすると、と思ってちょっとケースから取り出してみたんです。すると案の定すごいことになってました。表面の錆はもちろん銃口の中に黒いタール状のスラッジ(汚泥)みたいなのがこびりついていました。シリンダー部分も手入れをしていないのか滑らかに回らなくなっていました。トリガー部分も錆か何かで硬くておかしな音がしたんです。
僕は、銃はどんなに名品であっても弾が飛ばなければ価値が無いということは知ってましたので、このままじゃあ銃の価値がなくなると思って、レソーと手分けして銃にブラシをかけて錆を落としたり分解掃除をして見たりしたのですが、今度は本当にスムーズに動くのか心配になって。悪いと思ったのですが、おあつらえ向きに弾がたくさんあったので、つい誘惑に負けてしまって。
ですが模様がペイントされた特殊な弾は一発も使っていません。銃弾のパッケージを開けると、外側だけが模様のある弾で内の方は全部普通の何の変哲もない通常弾だったので、そっちの方だけ使ってやりましたから」
冷や汗をかきながらジスが弁解する間、レソーは全くその通りだという風に頷いていた。
一方イクは、あたしは関係ないわよという風に知らんぷりを決め込んでいた。
その中、ダイスはフンフンと軽く頷きながら、心の内は複雑だった。
骨とう品の価値がある銃は、見て楽しむのがほとんどだから別に撃てなくなっていたって構わないんだ。銃の持ち主が使っていたという指紋や証拠が残っていればそれで十分なのさ。それに弾も未使用だから価値があるのであって、バラバラにしたんじゃ価値が無くなる。
本来ならきつく注意するのが当たり前なのだろうが。だが、これから頼むことを考えればそう強く出られないしな。
そのジスが包み隠さず打ち明けた話によると、――元々、銃弾を避ける遊びは、彼等が一緒にTVを見ていたとき、たまたまやっていたSFバトルアクションで主人公の俳優が悪者達の銃撃を格好良く、しかもスリル満点に避けて最後に悪者を全員倒すというシーンがあり。それに興味を持った二人があんなのができたら良いな、とたまたま思い付いたものであったということ。
またダイスの銃を使うようになったきっかけとは、レソーと一緒にどこかに銃がないかなと話し合っている最中に偶然そこに居合わせたイクが、ダイスが秘蔵していた銃と銃弾のセットを二人の目の前に持って来たことからだということ。
そのとき二人は、彼女が持って来た銃のセットはダイスの持ち物で、昔、彼から非常に高価な品だと聞かされて知っていたこと。
しかしそのとき、ちょっとしか見せて貰ったことがなかったので好奇心から一度良く見てみようと思ったこと。
その結果、銃の表面に錆が出ていることに気が付き、他にも何かないかと思ってもっと詳しく調べて見ようとしたこと。そうすると他にも不具合や異常が見つかったこと。そしてこのままにして放っておくと価値が無くなると思い、ブラシ磨きや分解掃除や潤滑剤注入を行ったこと。
しかし銃をメンテナンスしたのは良いが、弾がスムーズに飛ぶのか心配になったこと。それで確かめてみようとなって、おあえつらえ向きに銃弾がたくさんあるのが目に入ったので、深く考えずに使ってしまったこと。
それに乗じて今まで弾丸を避ける遊びを続けていたこと。
また、銃を昨日の現場に持って行ったのは、全くの偶然ではなくて、普段から自分個人用の工具ケースに隠して持ち運んでいたからだということ。
なぜそうしていたかと言うと、表立って銃を撃つと周りから人が寄って来て面倒なことになるので、人気のない場所を捜してやろうと思い二人で適当な場所を見つけようとしていたからだということ。
ところで、なぜ向こうの現場にあるかと言うと、昨日は遊べると思って取り出したのだが、あいにくと急に邪魔が入って使うことができなくなり、ついうっかり置き忘れて来たというのであった。
「成る程な。そういうことだったのか」
ジスが話したおおよそのことは呑み込めたと思ったダイスはさっそく現実に立ち戻っていた。
「ところで銃のケースに薄いパンフレットみたいな書類が付いていなかったか?」
「あ、はい。ありました。ええと、銃の造られた年代、銃の説明、銃の設計者のカラー写真が載ったパンフレットのことですね」
「ああ、そうだ。あれは残してあるだろうな」
「あ、はい。ケースの中に大事にしまってあります」
ダイスは少し安堵した。鑑定書まで失くされたら目が当てられないからな、これなら価値が下がってもまだ何とかなるかもな、と思った。
「よし、それなら良い。直ぐにでも返せと言いたいが、今日の仕事をしくじるわけにはいかないのでな。これが終ってからでも良いから戻して貰うぞ。いいな、ジス。レソー」
これに揃って、「はい」と頷いた二人をそれくらいにしておいて、今度は全く上の空という風にぼんやりと話を聞いていたイクへと視線を向けると、
「あの銃を無断で使っていた二人も悪いがお前も言えた義理じゃない。元はと言えば、お前が持って行ったのが事の始まりだ。どうしてそんなことをしたんだ? おい!」
「ああ、あのことね……」イクは思い出そうとするように少しだんまりすると、直ぐに先程までの口下手なジスと違い、舌も滑らかに平然と答えた。
「ええと、あのとき二人がちょっと困ってるようだったから訳を聞いたら、銃がどこかにないかと言われたの。で、直ぐにキッチンの銃のことが思い浮かんで、それなら知ってるわ、キッチンにあるわとつい言ってしまったの。まあ、そこまで言うと持って来ないわけにはいかないでしょう。どうせ父さんが護身用に買ったものか貰ったもので、置き忘れているんだと思ったから、まあ構わないかと思ってね。だって、あれがそんなに高いものだと知らなかったのよ」
「ああ、そうか」
「ねえ父さん、あたしはどちらかというと親切にした側よ、ちょっと父さんに迷惑かけると思ったけどね。でもさ、あのとき、この二人が本当のことを言ってくれていれば貸すことはしなかったわ。悪いのは本当のことを言わなかったこいつ等よ。あたしは何も悪くないわ。ねえ、そうでしょう!」
「……」
そのときまで冷静に演技の表情を繰り返していたダイスの顔が演技でなく本当に強張った。
銃の価値が下がったことで気分がもやもやしていたことに加えて、自分は悪くない、と強気な態度で通してきた娘に、一瞬、とても気分屋で突如として上から目線で粗暴な言葉を吐きかけてきた彼女の母親、即ち別れた妻の面影を見たからだった。
あのとき、散々小言を言われても逆らうことはせず、いつもヘラヘラと笑ってご機嫌を取るか受け流していた。どうしてあのとき、男らしく反論できなかったのか。それが二十年近く経った今でも心の片隅に微かに残っていてトラウマとなっていた。今その感情が知らず知らずのうちに妻と生き写しの娘に向かっていた。
「イク、この二人のやったことは確かに悪い。だが俺に迷惑をかけただけだ。俺の一存でどうにでもなる。それに比べて、お前が隠れてやっていることは大勢に迷惑をかけている。分かっているのか!」
思わずダイスは、本気で声を荒げ、このあと二人だけで話し合おうとしていた話題を口にした。案の定、即座に何が何だか分からないと言う風に、きょとんとした顔で、「なーに?」と、聞き返して来た娘に、ダイスはしまったと悔やんだがもう遅かった。ジスとレソーが向かいの席で聞き耳を立てているのが目に入ったからだった。
できることなら内輪の問題は秘密にしておきたかったが、ばれるといってもこいつ等なら信用できる、と思い直すとダイスは構わず言った。
「お前、聞くところに拠ると、最近、路上強盗みたいなことをやらかしているんだってな」
「はあ?」イクは何だか分からないという風に首を捻った。「何のこと、父さん」
「しらばっくれたってダメだ。街中でノックアウト強盗をしているんだろう、お前! そうだな!」
「それって誰に聞いたの? まさかセキカからなの?」
「ああ、そうだ。その通りだ」
「そう……」少しの沈黙の後、イクがテーブルの端をぼんやりと見つめながら呟いた。「ばれちゃあしょうがないわね。そうよ。確かにやったわ」
開き直るように素直に認めたイクに、テーブルを挟んで腰掛けたジスとレソーが共に声にならない驚きの表情をした。
そのような中、父親と娘の間に気まずい空気が流れたかと思うと、
「この、この大馬鹿者め!」興奮の余り、本気でダイスが叫んでいた。「警察ざたにでもなったらどうするつもりなんだ。俺は知らんぞ。分かってるんだろうな、イク! お前は犯罪をやってるんだ。も、もうそんな危ないことはやめるんだ!」
直ぐ横で怖い顔を向けてきた父親を尻目に、イクは落ち着き払って彼の目を見つめた。そしてぽつんと言った。
「父さん、安心して。もうやっていないわ」
「本当にやめたんだろうな?」
「もちよ」
あっけらかんと応えたイクに、ほっとした表情になったダイスは、とりあえず胸を撫で下ろした。
「それじゃあ奪った金はどうしたんだ? 服の購入や遊びに使ったのか? それとも指輪や時計を買ったのか?」
「いいえ、そんなんじゃないわ」イクは首を振って即座に打ち消すと、目を伏せ言い訳ををするようにぶつぶつと呟いた。「しょうがなかったのよ。あたしも追い込まれてやったんだから」
その言動に一瞬、そう仕向けた黒幕がいるのかと耳をそばだてた三人の男達に、目を伏せたままでイクがぼそぼそとささやいた。
「黙ってようと思ったんだけどね、路上強盗とまではいかないけれど確かにノックアウト強盗みたいな恐喝はやったわよ。それは認めるわ。でもあたし自身のためにやった訳じゃないのよ。全ては父さんが悪いのよ」
「俺? なぜ俺だ。俺がどうして悪いんだ?」
さっぱり訳が分からないと首を傾げたダイスにイクは、直ぐにその場で記憶を辿りながら淡々と話を始めた。
「長い間、父さんたら銀行口座に電気代・ガス代・電話代・消費税のお金を入金し忘れてあったでしょう!
いつだったか忘れたけど、父さん達が泊りで仕事に出掛けている間だったか、昼頃ぐらいに銀行から電話があって、口座の数字がプラスからマイナスになっていますから早く入金するようにお願いしますって催促されたことがあったのよ。電話口であんまりしつこく言ってくるものだから、近々お金が入るので直ぐに入れますって言ったんだけどそれでは駄目です、期日をはっきり言って頂けないと困りますと切り返して来たものだから、腹が立っていつまでに入金すれば良いですかとつい言ってしまってね。そしたら三日以内でお願いしますって言って来たのよ。その言われた金額ってのはかなりの高額で。ええと、五万ドルだったかしら。うちの家にそんな大金がないのを知っていたから返事に困っちゃってね、またつい一回では無理なんで月々の分割でも良いですかと言ってしまったのよ。そしたら二つ返事で構いません、ですが入金が一月でもなかった場合は即刻、裁判所の手続きを取らせて貰いますからって脅しを掛けて来たってわけよ。
それで、もしそうなったらどうなりますかって聞いたら、電話の向こうはハハハと笑って、そうですねえ、今住んでいるお家だとか乗っている車を代わりに貰い受けます、それでも足りない分は親類か他の金融機関で用立てて貰うことになります、と言われたもんでね」
そのとき、う~んとダイスが唸った。
ああ、そうだった。うっかりしてた。確かにそんな専用口座を作ってあったっけ。
疑いの目を一切向けずに、なるほどと云った顔で三人は聞き入っていた。そうするのも無理からぬことで、イク本人は全く気付いていなかったが傍らで聞いている者は誰もが経験上知っていた、イクは巧妙な嘘を付くことが苦手で長々とした作り話ができないということ。彼女が体験談など長い話をするときは、きまって多少大げさな表現が入るがその全てが真実であって、一言も間違わずに記憶から文章を紡ぎ出す能力は天性の才能であったことを。
「ええと、その後は確か……」数秒間の思考で多量の記憶の断片をどうにかしてくっつけようとしていたイクが、まだその途上なのか多少ぎこちない口調だったが、「何だったかしらね。ああ、そうそう」と続きを伝え始めようとした。
「あれから銀行のコード番号と入金口座番号とうちの会社のコード番号を携帯に送信してきて、ここに御願いしますと言われて。電話が切れて。直ぐにこりゃやばいと思って。父さん達に連絡を取ろうとしたんだけど。……ええと。何度やっても全然つながらなくって。……どうしようかと思ったのよ。
それで、五万ドルに後どのくらい足りないのか確認しようと財布の中を調べてみたら十ドル札が八枚と一ドル札が十枚と小銭が少しで。一ヶ月に三千ドルまで借りられるクレジットカードが一枚で。そういえば前のアルバイトを辞めてからだいぶ経っていたことを思い出して、これじゃあ丸っきり足りないな、と思って。ちょっとセキカをつかまえて、為になるお金儲けのアドバイスをして貰おうとしたわけ。
でもセキカったら何か勘違いしていたみたいで、――人それぞれに浮き沈みはあるものだとか、全く持って人間という生き物は、意地を張って間違いを無理に合理化しようとする輩が多く揃っているらしい。だからこそ、不景気と呼ばれる強情者に居座られてしまったのだとか、何れ近い将来に議論される時代が来るかと思うが企業家は雇用を増やすことが利益を追求することより重要であることに早く気付かねばならないだとか、この世界は通常の暴力犯罪に比べ知的犯罪の方がその影響力で社会の中に大きな比重を占める割に処罰の対象となると大分緩く思える。それでは次代の抑止力にはならない。そもそも刑罰とは裁量を図るのが本来の目的なのか、それとも予後の悪行を防止するのが目的なのか、個々の案件に対してはっきりさせる必要があるだとか、訳の分からないことばっかりいつもの調子で話すものだから。これは役に立たないなと思って。
それでもう困ってしまって、時間を空けて父さんにもう一度連絡を取ってみようと思ったんだけど、いや待てよ、うちは仕事が忙しい割に車は未だ中古車のままだし、社員旅行もいつの間にかやらなくなったし、とんと全員で外へ食べに行かなくなったし、何よりも父さんがあたしの誕生日を去年も今年も忘れてたから、これはきっとうちの会社はここ二、三年、そんなに儲かっていないんだ、と思ってね、ここはあたしだけで何とかできないかと考えたわけ。
最初に思い付いたのは別のところから借りてくれば良いじゃんということだったんだけど、それをやると借りたところへまた返さなくてはならないし、それよりか五万ドルなんて大金を貸してくれる知り合いがいなかったと気が付いて諦めたってわけよ」
黙って聞いていたダイスは、――普通、銀行が催促してくる場合は会社の代表である俺に直接話を持って来る筈だ。それがイクのような話の分からない者を相手にして催促して来るとは……こりゃ、負債を抱えた零細企業を狙った新手のサギかな? 最後に裁判所や警察や弁護士を出してくるのは向こうの常套手段だからな。……いや待てよ、月払いでも良いと言ったということは銀行側から債券の回収を請負った業者かな。常識的に考えるとたぶんそれだろう。さては、危ないところから回収に回っているということか! だが銀行が、幾ら法人名義の口座だからといって残高がマイナス五万ドルになるまで放って置いたとは到底考えられない。恐らく何らかの借入金を合算した額だろう。後で確かめて見ないといけないな、と思っていた。
「次に思いついたのはね、よそから無断で拝借するということよ。つまり、手っ取り早く言うと泥棒ね。けど、あたしは今一そういうのは性に合わないのよ。だってそれをやったら盗まれたところは腹が立つし悲しくなるでしょう! あたしもやられたことがあるから十分分かってるつもりよ。
それなら金持ちだけから盗れば良いじゃんと思ったけれど、お金を持っていそうな人ほど財布の中身はカードが一杯で、現金をほとんど持ち歩いていないっていう話だったからこれも無理だと思って諦めたわ。
それで最後に思い付いたのが街の悪党から盗れば良いんだということだったのよ。だけど街の悪党といったってギャング、泥棒、かっぱらい、置き引き、路上サギ、強盗、かつあげ、たかりと色々あるでしょう。その中から比較的見つけやすいこと、あんまり人数がいないこと、お金を奪っても心が痛まないこと、絶対に相手が警察に通報しないこと、仕返しをしてこないこと、何よりも重要だったのはいつも現金を持ち歩いていることで、それらを総合して狙いを定めたのが、街をうろうろして強盗やかつあげやたかりを専門にしている街のゴミみたいな悪党だったってわけ。
ターゲットを絞ったここまでは順調だったんだけど、問題は相手はぜったい武器を持っているということよ。あたしも怪我はしたくなかったから、その対策をどうするかで悩んだわ。
そこで思いついたのは、セキカにもっと強くなれる方法を聞いてみようということだったわけ。で、思いついたら即実行よ。直ぐに、警備会社の面接で目立つようなパーフォーマンスを見せなければならないっていう話をでっちあげて、セキカに相談しに行って即席に強くなれる方法を教えて貰おうとしたってわけ。セキカは直ぐに教えてくれたわ。事前のテストもまずまずでこれならいけるなと思って、今度はどこでやるか場所の選定よ。そして真っ先に目を付けたのが、犯罪多発地帯として有名だったアールシェイピス地区よ。
あそこまでバスに乗って行ってから帽子とマスクとメガネで変装して襲って来そうな場所を歩いて見たら、見事に良いタイミングで鴨がやって来たわ。予想した通り、鎖やナイフやスタンガンや警棒で武装しながらね。
けど、そこであたしが即、手を出したらあたしが一方的に悪いことになるじゃん。だから、ここは既成事実を作っておかないとと思って、最初は怖がる振りをしてやって被害者になってから作戦決行よ。これが見事はまって面白くってね、そのあとずっと正義のヒーローになった気分よ。
アールシェイピス地区で二回やって顔が割れないうちにジーロとピエト地区へ移動してそこでそれぞれ三回やったわ。一度目のときはテンションが上がっちゃったけれど、あと慣れて来たらこんなものかな、と思ったわ。あいつ等は、にらんだ通り全財産を現金で持ち歩いていてね、あんな仕事は稼ぎが良いのか分かんないけれど大体一回で五千ドル。最高額は一万五千ドルが手に入ったわ」
一旦そこで言葉を切ったイクは、男達へニッと笑いかけた。これには、三人はただ苦笑するほかなかった。
「そんなあたしがいつも気を付けていたのは、ターゲットは五人までの集団と決めていたことよ。当たり前のことだけど、多勢に無勢では明らかにこちらが不利でしょう。ところがジーロ地区で出遭った奴等なんか初め五人だとばかり思っていたのに後から十人も隠れていたんだから。全く計算外だったわ。ピエト地区で最後に出くわした相手も結構ハラハラさせられたわ。そいつ等、あたしを待ち伏せしてたんだから。それにあんなことをしていると類が友を呼ぶというか、変な奴とも相手しなければならなかったわ。そいつは、『俺はプロのストリートファイターだ』と名乗って、あたしに挑戦して来たのよ。ま、どっちみちあたしがコテンパンにのして上げたんだけどね」
尚も得意気に話すイクに、彼女の武勇伝を聞かされる羽目になったジスとレソーの二人は、いつの間にかソファの背にゆったりと寄り掛かり、晴れやかな顔になっていた。
そのような中でダイスだけは複雑だった。五万ドルという借金がなくなったことでほっとした気持ちと娘に感謝したい反面、ただただ元気に育ってくれれば良いと思って甘やかした結果が、学校を中途で止め自由気ままな生活を送り始めたかと思うといつの間にかこのような男勝りな乱暴者に育っていたのだから。そう考えると、呆れるやら情けないやら、出て来るのは長い吐息だけだった。
「そうやってせっせと稼いでは会社の口座へ振り込んで、やっとこさ前の月に全部終らせてやったわ。
あれで分かったことは、人間、追い込まれると何でもできるということよ。でもね、終ったから言う訳じゃないんだけれど、あんなことは二度とやりたくないわね。というのも、後味が悪いというかどうも変なのよ。こんな感じは相手を殴っているときは全然思わないんだけれど、やり終った後でそいつ等をそのまま放っておいて、もし当たりが悪くって重い身体障害者になったり、まさかと思うけれど死んだりするんじゃないかとつい考えてしまうのよねえ。
また幾ら悪党だからといっても有り金全部をと取り上げるというのは、後でそいつ等はどうするんだろうと考えて心配になるのよ。えへへへ。あたしもほんと馬鹿よね、そのお金全部が赤の他人から脅し取ったか盗んだものなのにねえ……」
熱弁し終わったイクが茶目っ気たっぷりに微笑んだ。その向かいではジスとレソーが薄く笑みを返していた。けれど二人は普段のように喋り掛けたりはしなかった。今イクが話している話題はイク達親子間の問題みたいだからと、気を遣っていたからだった。
「そんなところよ、父さん。これで分かった?」
そう言って念を押してきた娘に、そうか、すまなかったな。俺も悪いことをしたとも言えないしと、どう返事を返して良いか分からなかったダイスは、わざとむっとした表情を作ると話題を変えていた。
「ところでお前。金を奪った相手に後を付けられたり、素性を知られたりということはないだろうな」
「それって?」鳩が豆鉄砲を食らったような顔でイクが父親を見た。
ダイスはそれには答えず、「お前がうちの会社の借金を埋め合わせてくれたのは感謝するが」と前置きした上で続けた。「父さんの思い過ごしだったらいいんだが……とりかえしのつかないことになっていないか心配なんだ」
それを聞いたイクが、訳がわからないという顔で、「どういうことよ? 父さん」と訊いてきた。
「いや、実はな。ちょっと思い当たることがあってな」ダイスは娘の顔にさっと目を走らせると言った。
「アールシェイピス地区という名が出て来たときから気になっていたんだが。あそこが今みたいにゴーストタウン化した原因は、一帯が放火によって大火事に見舞われたことによるんだが、その放火をした犯人というのが問題なんだ。何とその犯人達はお前がやっつけた街のゴミ共の親玉だったんだ。これがどういうことか分かるか? イク」
さあ、とイクが首を振った。「父さん、何なのよ。じらさないで教えて」
「良~く聞くんだ、イク」
もう、困った奴だ。本当に社会の状況にうといんだから、とダイスは催促した娘へ呆れたように呟きながら、一旦沈黙した。いつの間にか明るい日差しが片側の窓から部屋に射し込んでいたことに、ふと気付いたからだった。時間に敏感な彼らしく部屋の北側をちらっと見た。そこの壁には額縁のような形をしたカレンダー付きの掛け時計が掛かっていた。F4サイズぐらいの大きさのその時計は午前七時十五分を表示していた。いつもなら目的地へ向かう車の中か、もう既に到着している頃だろうな、と思いつつ視線を何もなかったように元に戻したダイスは直ぐに口を切った。
「ニュースで流れたのがずっと前のことだから既に忘れていると思うが、あそこの地区一帯に放火して逮捕された犯人というのは、総勢三百人以上の、下は九歳から最年長でも十七歳という若い少年少女達だったんだ。火事が出た周辺でいたことが目撃者の証言から分かって、それが決めてとなって逮捕されたんだが、何分と周辺の監視カメラが全部やられてしまっていてそれ以外の証拠が出なかったことや、全員が未成年だったことや、事情を知っているようだった少年少女が自殺したり行方不明になったりしたため、裁判は長引いて今尚続いているらしい。だがそいつ等がやった公算が強いと言われている。
それはなぜかと言うと、逮捕してから色々調べて見て分かったことなんだが、そいつ等の正体は、街に巣食った単なる非行少年少女の集まりじゃなくて、子供がてらに名が全国区の犯罪組織と親密な関係を築いていて。彼等の立派なエージェントとしてダーティ・ナイトメアー、ダーティ・ハンズ、ステート・オブ・イザベルといった名のグループを組んで大人顔負けに縄張りを作り、街のチンピラから場所代という名目の上納金を受け取りながらその代償として殺人や放火といった重要犯罪に関わっていたらしいことが判ったんだ。
話では、大都市一つが丸焦げになった例の大火は、依頼を請けてやった建物放火殺人がたまたま度を過ぎたものになって起こったということだ」
何年も前の事件の真相を、こうも克明に説明できるのは、事件が起こってからおよそ一ヶ月間は毎日といっていい程ラジオやテレビで繰り返し報道されていたことや、その地区にお得意先を持っていたこと等で、必然的に興味が行き、自然と目と耳に事件のあらましが焼き付いていたダイスにとって何の造作もないことだった。
そのとき同時に、テレビで見たニュースの映像。街中で少年達が朝から酒盛りやバーベキューパーティをやって派手に騒いだり、路上で寝たりしている光景。彼等が裸で抱き合っている光景。チンピラらしき男達が徒党を組んで道路の真ん中を我が物顔で歩いている光景。車が燃えている周りで踊っていたり、ダンボールや紙くずを路上の真ん中で燃やしている光景。誰ともなく大勢でケンカをしている光景。火事で黒焦げになった車や建物。殺人に使用された凶器の映像。殺されたペットの映像。少年達の隠れ家らしき建物とその内部、等が彼の脳裏に次々と映し出されていた。
それらは実際の映像もあれば、メディア側が取材を通じて作成した再現映像もあったが、実直な性格でマスメディアの信奉者であったダイスは、その全てが真実だと思っていたのだった。
話しながらダイスは、黙って聞いているイクの横顔をじっと見た。昔から娯楽番組やスポーツ番組は関心があるくせにニュースや報道番組には全く見向きもしなかった娘に、別に期待をしていたわけでなかったが、その大人しい感じから、やはりこの話は知らないようだなと、確信していた。
「まあそうだな。俺もこれ以上詳しいことは知らないんだが、最近やっと賑やかになって来たあの地区に、再び犯罪組織が自分達の息がかかったエージェントを送り込んでいるとしたら、お前に金を奪われた連中が腹いせにそんな奴等に仕返しを頼んでいるんじゃないかと思ってな。それで聞いて見たというわけだ」
「それじゃあ……」
本当に信じられないという目をして口ごもったイクに、ダイスは、ああと頷くと言った。
「もしものことだが、お前が後を付けられていたとするとえらいことだ。ひょっとしたらそいつ等がこの家を燃やしにやって来るかも知れないんだ。
しかもそいつ等の正体が子供か大人か老人か、男か女か、一人か集団なのか何も分かっていないのにだ。
それ以上にもっとやっかいなのは、うちが直接放火されるとは限らないことなんだ。頭の良い奴なら密集している建物を見て、わざと隣の家から火をつけてうちの方へ火が回るようにしてくる場合だってある。
そうなったら、どんなに警戒したってどうにもならない。向こうの狙い通りにやられてしまって、その次の日からは俺もお前も路上生活者の仲間入りをしなくちゃならないんだ」
「嘘っ! そんなぁ……」
イクはしょんぼりとうなだれた。それを見たダイスは、親馬鹿というべきか思い詰めたような表情をした娘に、優しい口調で、
「ま、俺の取り越し苦労ならそれで良いんだ。気にすることじゃない、イク。ともかく不審な人間がお前の後を付けていなかったらそれで良いんだ」と気づかいを見せたのだった。
そうして娘の顔がやや明るくなったのを見届けると、
「余り調子に乗り過ぎると必ず酷い目に遭うことだけ覚えておいて貰うとしてだな。今日まで何も起こらなかったことを考えると、おそらく俺の考え過ぎで、そんな人間がいないのかも知れない。
だが、ああいう奴等は噂をすれば影というわけで、わざとじっくり、忘れた頃にやって来る場合も考えられるんでな。気を抜くとまだまだ危ないと思うんだ。
そういうわけで、今日からしばらく留守を頼んであるセキカに、俺達が出張中にこの辺りのどこからでも火の手が上がったら直ぐに消し止めてくれと言ってあるし、うちの中に爆弾でも仕掛けに来た場合は捕えておいてくれと頼んである。これで安心だろう、イク」
「う、うん」
気が抜けたようにイクが頷いた。即座にダイスの表情が少し緩んだ。
「それでなんだが……」
そう言いかけたダイスは、それまで二人の邪魔にならないようにと黙って高みの見物を決め込んでいたジスとレソーの方に振り返った。途端に、ぼんやりと聞いていたのが気まずいと思ったのか、二人がさっと顔を上げた。ダイスは苦笑いすると、こう伝えた。
「ええと、お前達。向こうに着いたら恐らく担当者が段取りを説明してくれる筈だ。そうだな、他から来た業者との顔合わせや向こう側が指定した作業服に着替えるとかがあって、昼頃に一時解散して作業開始の時刻まで待機だ。作業開始までは車の中で仮眠を取ってだな、いつもなら深夜ぐらいから作業するらしいんだが、既に街中がゴミの山というわけで、今日だけは早目の六時か七時ぐらい頃から……」
と、そのとき、鮮やかな青色をしたクレーン付きトラックがハイブリッド車特有の小気味良いエンジン音を響かせて南側の窓枠を一杯に横切った。間を開けずに銀色をした大型貨物車が静かに通り過ぎる。
それに端を発して、次に通過したのは白の大型のヴァンだった。猛スピードで走り去る車の運転席と助手席には同じグレーの作業服を着込んだ男達が見えていた。少し距離を措いたその後ろからは、同型のヴァンとブロンズ色をした小型のセダンの車が後を追うように走って行く。その後も大小のトラック、ヴァン、乗用車、貨物車がほぼ同じ方向へ車列を組んだように走り去る。同じ窓からは、車輛の直ぐ横を並走しながら通過する二輪車もちらほや見えていたのだった。
どの車輛もエンジン音は静かだった。だが通過するのが気配で否が応でも分かる程の交通量だった。いつも交通量の疎らなこの地帯にしては群を抜いた多さだった。
だが良く見ると、車の往来のほぼ一方向だけがひんぱんに混雑しているようで。このこととその時間帯との兼ね合いから、どの車輌も仕事先へ向かうのであろう事実は火を見るより明らかで。しかもこの時間帯が通勤時間のピークであることが予想できたのだった。
急に話を切ったダイスは、その光景を目の端で捉えながら、普段は交通量が疎らなこの地域で唯一込み合う時間帯になったようだな、と何となく理解すると、今度は自身の腕時計で時刻を確認した。午前八時十分過ぎだった。
たちどころに彼の頭の中で、目的地までの行程に必要な時間計算がなされた。その結果は、まだ少し早い。今から出発すれば決められた集合時間より一時間ぐらいは早く着くだろう、だった。
だが遅れて行くことよりマシだ、と総合判断すると、
「ええ、そうだな……」
と、口ごもりながら彼は三人の方向へ視線を戻した。そこには人形のように無表情で、次の言葉を待っている三人がいた。
「まだ話すことがあるんだが、ま、車の中でも話せることだし。さあ行くか」
そう言って、にこやかに微笑んで腰を上げたダイスに、周りの三人も立ち上がった。その表情は、ようやく堅苦しい雰囲気から解放された安堵感からなのか晴れ晴れとしていた。ソファの付近に立ち尽くし、いつもながら仲が良い奴等だ、と頭をかきながら苦笑いするダイスをよそに、直ぐに彼等は、賑やかなけん騒と共にお決まりの一階と二階側のトイレの方向へ別れて行った。
その後、十分も経たぬ内に四人の男女は、猫似の動物を留守番に残して、そこを発っていた。
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