レプリカ

尾岸和奇

第1話

 かつては商業が盛んで、現在は長引く不況のため完全に寂れた一副都心。裕福な人々は中心部から周辺部へと去り、今は中間層以下の貧しい人々の溜まり場になった市街地の一つに、広い道路が周辺を格子状に区画するように四方に伸び、通りを行き交う通行人がほとんどない割に車の往来だけがひっきりなしに続く何の変哲もない区域があった。

 道路の両側は各種の金融、ローン会社及び保険代理店、法律事務所、会計事務所などの看板がずらりと掛かる高層ビル群。その他にも倉庫の建物並びに自動車販売会社のショールームや各種のテナントビルが建ち並び、一見すれば普通に華やかに見える。

 しかし目抜き通りから一旦裏通りに入ると、出入り口の扉やシャッターが閉まった雑居ビルやテナントビル群、スクラップになった車が無造作に停められた空き地、廃屋の建物、人気のない飲食店の店舗がズラリと建ち並ぶ。

 そこを離れて少し行ったところには古い大きな木造の建物や同じ形状のものがずらりと並ぶ中層アパートや住居兼用商店や集合住宅が集まった一帯があり、さらにもっと行けば、ゴミの山と雑草に覆われた広い空き地と黄緑色をしたかん木が至る所に出現したかと思うと、その合間に白いフェンスに囲まれた簡素な住宅群が二車線の道路の両側にパラパラと見えて来る。その辺りは十年前頃、中流階級向けに開発された住宅地域で、以前は投資の対象とされたこともあったが、時を経て手離す人が増えた為、今は建物の二軒に一軒の割合で人が住んでおらず。それ故なのかひっそりと静まり返り、その場景はさながら廃墟のような佇まいを見せていた。

 それらの一つに、前面が駐車場のようになったスペースがある、間口が狭いが奥行きのある二階建て住宅が五棟、ミニ開発されたかのように密集して建ち並ぶ一角があり。角地の建物から向かって二番目に、一階部分を営業所兼本社にして、日々、何とか仕事をやりくりしている、とある小さな個人会社があった。


◆◆


 夜の八時を少し回った頃。暗かった一階の部屋に明かりがつくと、それ程広くない室内の中央にブラウン系の色をした四人掛け用のソファとテーブルのセット。その奥の壁際には、45インチのテレビが据え置かれたローボードと、書類がきちんと整理されて入るガラス貼りのチェスト。また直ぐ隣にはワイドサイズのスチール製事務用デスク。その上には色分けされたファイルと書籍を挟んだ書類立て、お洒落なデジタル式の卓上時計、業務仕様のデスクトップパソコンが一台、置かれてあるのが照明に照らされ浮かび上がる。


 そこへ現れたのは黒縁のメガネを掛けたひょろっとした一人の男で、良く見ると、足元の方に美しい薄紫色の毛並をしたネコみたいな小動物が、異常に長い尻尾を空中でくゆらせながら三フィート(約90センチ)内外の距離を措いて付いて来ているのが見て取れる。

 男は茶色の髪を短く刈り揃え、部屋着だろうかグレーのスエットの上下を着ていた。赤黒く日焼けした顔の額や目尻や両頬に目立ったしわが刻まれていることから、どうみても若くは見えない。年の頃、五十前後の中年男といったところか。名をダイス・ロセと言い、この家の家主で、“ダイス商会”という個人会社を経営する社長だった。ただ、社員数はたった二人。臨時に仕事を手伝って貰う一人娘を加えても総勢四名のごく小さな会社の、だったが。

 一方、外見が長足系統のネコそっくりな小動物の方は男のペットのように見えたが、実のところ、そうではなく。レッコウセキカという名が予めにあったその生き物は、この家の同居者という表現がぴったりと合っていた。それと云うのも、この家へ居ついて以来十数年もの間、男の家族同然に一緒に暮らしていた生き物は、不思議なことに人の言葉をスラスラと話し、しかも人を遥かに凌ぐ知能を持っていたことなどから、周りの者達(男の家族と二人の社員の間だけだったが)から一目置かれる存在だったからだった。

 ただ、このことは、「私は世間に知られる訳にはいかない存在なのだ」との生き物の意向を受けて彼等の間の密かな秘密となっていた。その為、生き物の正体を知る者は、他には誰もいなかった。


 さっそく男は、パソコンが置いてあるデスクの下から事務イスを引っぱり出しそこへ腰を下ろした。するとそれを待っていたかのようにネコ似の動物が音も無く跳躍すると、パソコンの直ぐ横へ着地し、無駄な動きはしないということなのか、切れ上がった深緑色の瞳を閉じてそこから動かなくなった。

 男は目の前のデスクの上に生き物が乗ったのを確認すると、直ぐにパソコンの電源を入れて画面を立ち上げ、そうしておいてから、付属の縦置きタイプのストレージのカードスロット(縦溝)にクレジットカードを差し込んだ。彼が毎日毎日、習慣のようにやっていることだった。


「悪いな、セキカ。またいつものように頼むよ」


 そう生き物に向かって親しそうに話し掛けた。


 彼が毎日、行っていたこと。それは新規取引先の開拓だった。即ち、パソコンを使い、従来からお付き合いをさせて貰っている取引先とは別に、新しい取引先を捜していたわけである。

 個人や企業間での商取引、国や公共団体の行政サービスが普通にネットを通じて行われるネットワーク社会が普及した時代、そのこと自体は別に目新しいことではなかった。寧ろ、電話による営業とか飛び込みによる営業より簡単で、しかも効率良く取引先の新規開拓ができるというので、零細企業や個人企業ではどこでもやっていることだった。

 ちなみにそのやり方とは個人の求職と同じで、先ず法人名義の携帯端末や業務用パソコンを使って求職照会サイトへ接続して、希望に見合った求人を出している民間企業や公的企業に自社の所在地、電話番号とメール番号、社歴、業績、営業品目、会社の規模などの情報をまとめた資料を一括して送ればそれでいいだけのことで。後は向こうから連絡が来るのを待ち、応募期限から二十時間以内に返答が来なければまた別の企業にあたるというものだった。

 こう見ると、ほぼ個人の応募と変わりはなかったが、ただ一つだけ違うことがあった。それは、個人は無料なのに法人は費用が掛かるというものだった。求職照会サイトへ閲覧手数料とか会員登録料といった手数料を支払う必要があったのだ。手数料は各サイトで別個に決められていたため、人気のあるサイトはそれ相応の料金を取っていた。

 男が使っていたパソコンはもちろん業務用で、電子マネーとクレジットカードの二種類が用途に応じて使い分けできる仕様になっていたのだった。


 すると、男の求めに生き物が応じたのか、急にデスクの下の方に垂れた状態であった生き物の三フィート以上はあるのではないかと思われた長い尻尾がゆっくりと浮き上がるように動き出すと、尾の先っぽがパソコンの画面近くまで達した。

 同じ頃、パソコンの画面ではクレジットローン会社の立体コマーシャルが始まっていた。

 良くある話だが、一昔前、ネット上で法の盲点を突いた大規模なネット取引詐欺事件が起こり、二百万人を超える被害者と一千億ドルを超える被害。更に多数の死者も出して一大社会問題となったことがあった。そのため政府は、ネット犯罪を国内の混乱を招ききれない重要事項と断定。罪を犯した者については厳罰で臨むという姿勢を打ち出して、法律を直ちに改正。例え罪を犯した者が未成年であろうと通常の刑事犯罪と同等の量刑を課すことに決め、場合によっては終身刑もあり得るとしたのだった。

 それと共に政府はこれらの教訓から色々な規制を打ち出した。そのときネット犯罪の材料として使われたものに、仲介料とか接続料、共益金、協力料と云った名目の料金請求体系があったことなどから、現在ではこれらの名目で請求を行うことは法律で違法とみなし、固く禁止されていた。

 だがそこにはきっちり抜け道が用意されていた。その一つは、別の演目で代金を請求すれば良いというもので。従ってどこのサイトも、次々と接続して来る不特定多数の来訪者にショッピングを自動的にさせたり、企業から提供されたコマーシャルを流すことで強制的に販促品を買わせたり、コマーシャルを閲覧したことによる代金を請求していたのだった。


(よその企業のコマーシャルを見て金を払うなんてな。……嗚~呼。世も末だぜ)


 いつも男はこの席に座ると、サイト側はコマーシャル提供企業からも代金を受け取り、俺達からも二重に金を取り、二重、三重に儲けていやがるんだと理不尽さを感じるのだった。


 パソコンの画面の中では、ブロンドや黒やブラウン系の髪の女性が十数人、日中の海辺の砂浜に敷かれたシートの上や、そこにあつらえられたリクライニングチェアに寝そべり、日光浴としゃれ込んでいる光景が映し出されていた。彼女達は、全員がサングラスなどを掛けていたが、モデルなのかプロポーション抜群の、もの凄い美人揃いで。しかも全員が小さなビキニを着けただけかトップレス姿だった。

 その光景が三次元で立体的に見えるのだから眺めは中々上々だった。並の男なら暫く画面に釘付けになるのは間違いないといったところだろうか。どう見ても、クレジットローン会社が提供しているという面影のない、それ程すばらしい出来ばえの映像だった。

 筋書きでは、この光景が暫く続いたあと、その場所へスーツ姿のきちんとした身なりの若い男が片手に黒のスーツケースを持って現れることになっていた。そうして男は、海辺でゆったりとした気分で寝そべっている美女達に向かって、持って来たケースを開け、中から彼女達がサインした書類を出して見せるのである。

 すると途端に、頭に二本の黒い角、背中に黒い羽根を付けた全身が黒い悪魔に男が変身。同時に美女達が黒い煙と共に老女に変わっており、男が彼女等に向かって大笑いして話はお終いとなるはずだった。

 要約すると、遊びほうけてローンを支払わない者は、拠りによってローン返済の代理人となった悪魔により若さを奪い取られ、老寄りに変えられるというオチらしい。全編見ると約七分四十秒ある長編のコマーシャルだった。


 だが今夜、どこか皮肉を効かせていて十分楽しめる映像であったこのコマーシャルは、全て映し出されることはなかった。生き物の尻尾の先端がパソコン画面のほんの直ぐ近くまで近付いた途端、途中で別のコマーシャルに差し替わっていたからだった。その為、見ることができたのは三秒もなかった。次に映ったのは、豪華な室内の様子からして、たぶん場所はカジノだろうか。しかしながらこれも一秒以内で直ぐに終了した。次いで、人々の歓声の一部が画面一杯に響き渡るとまた別のコマーシャルが始まろうとしたが、今度はぷつんと途絶え、替わって現れたのはサイト名が描かれた画面だった。

 その間、男の目線は、毎日がこの繰り返しだったため、いい加減見飽きていたということか、パソコンの画面から目を逸らすようにデスクの上に向けられていた。


 ちなみに、男が生き物にやって貰っていたこと。それは、人気のあるサイトほど流されるコマーシャルの一本当たりの時間が長く、しかも数量も多い傾向にあったので、生き物の尻尾の特殊能力を借りてコマーシャルを省略して貰っていたのだった。生き物の説明によると、尻尾の先端から磁気のようなエネルギーを放出し、そのようなことができるらしかったが、男にとって待ち時間が著しく短縮できることと、コマーシャルが省かれることで閲覧代金が発生しないことが何よりも重要で、理論などはどうでも良いことだった。

 また、夜の八時という時間帯も意味を持っていた。というのも、ほとんどの企業が活動している日中は、新規の求人が出て来ることが少ない割に、サイトから流れるコマーシャル量が特に多いという傾向があったからだった。男は、新規の求人は企業の全体会議や職場のミーティングや一日の仕事が終了した午後七時を回った頃に集中して出されることを経験から知っていた。故に、こうしてその時間帯に合わせてパソコンに向かっていたのだった。


 改めて顔を上げ、画面に見入った男はうんざりした顔で、思わず溜息を一つ漏らした。


「あ~あ。こうも毎日、良いのがないんじゃな」


 遡ること三年前のことだった。その時の政府は、既に手遅れの感があったがこれまでの国営・公企業並びに大企業優遇の政策をやや転換。

 景気後退で生まれた正規・非正規の労働者の失業問題を解決するにあたり、既成法人に対する大幅な規制と、それまでの経済政策の転換並びに緩和と、雇用の追加促進政策を打ち出した。

 例えば大きなところでは、超巨大化した法人の倒産を防止するという名目と、法人の度重なる合併・吸収により市場が寡占下状態に陥り今現在自由競争が失われているとして、法人の巨大化を規制する法律を制定するとともに、既に巨大化してしまっている法人に対しては、その規模に応じて一定数の人員を雇用するように義務付けた。

 また国策としては、それまで慣例で行われていた政府の省庁が特定の企業や団体に業務委託していた事業を、難易度の余り高くないものに限って民間の業者へ広く依託する。それまで非公開で行われてきた入札を無条件に公開制にする。従業員数、百人未満の事業者に対する法人税の更なる軽減。これから起業しようと考えている個人への融資の審査の緩和と簡略化を各銀行へ指導。路上販売規制法の緩和と一部解除。

 二十歳未満の若年者を二人以上雇用すれば税の優遇措置を受けられるという青少年就労促進政策。新しい技術を共同開発することを旨とした中小法人と各種大学・研究機関の交流促進と、それに関わる助成金の給付。知名度が乏しい中小法人をピーアールするための専用広告掲示板の設置。産業発展を旨とした異業種間交流の促進。企業の販売網を拡大させることを旨とした個人・業者間の交流サイト・各種フリーマーケットの開設。流通の括性化の目的の一つとしてオークション取引の促進を図るため、新たな会場の建設と公正な立場で行われるように公営の監督署の設立。

 他方では、事業者の技量・サービスの向上を図る目的と共に、悪徳業者を締め出すことで再就労トラブルを防ごうと業種別の優良業者とブラック業者リストの公開提示。――――と云った数々の政策を打ち出したが、その中でも大量の失業者が出て問題となった全ての人材派遣事業を違法と見なして廃止とした上で、原則として紹介するだけの範囲に留め。その代わりとして政府がこれまでやって来た個人への職業斡旋の事業を全て民間の人材派遣業界へ譲渡する指針を打ち出したのだった。

 またその一方で政府は、旧の人材派遣事業者に対し、従業員数が三十人未満の零細企業への仕事の斡旋ができる認可を与えていたのだった。


「政府のやり方はどういうわけか知らんが、いつだってどこか甘いんだ。特定の業界へ利権を与え過ぎなんだよなぁー」


 そう男は、ぶつぶつと独り言ちた。「どうしてこんな世知辛い世の中になってしまったのだろうな」


 もう長いこと、パソコンの前でひとり言を言うのが日課みたいなものになっていた男から、思わず漏れた本音だった。


「どこの業者のサイトも腐ったところばかりだぜ。ちょっと油断をしていると金を取ろうと違うサイトへ誘導するんだからな。幾ら一回あたりの利用料が五ドル前後と言ったってな。ひんぱんに他のサイトを見て回ると馬鹿にならない金額になってしまうんだ。

 今のご時勢は不公平だよな。仕事を真面目にやる者より仲介する奴等の方が儲かるんだからな……」


 そういった男の愚痴に、直ぐ前のデスクに鎮座した生き物はうんともすんとも言わなかった。相変わらず石像のように同じところにじっと動かないで座っているだけだった。

 これに男は、愛想の悪いのは生き物にとっていつものことだからと、全く気にもしていなかった。


「……そうだな、あの頃は良かったよな。いつもあぶく銭が湧いて出て来たもんだ。それなのにこの頃と来たら、幾ら仕事をやっても借金だけが増えて行くのだからな。

 嗚~呼。一昔前みたいに景気が良ければなぁ。そしてもう一度、環境ビジネスが復活しないものかな。あれが一番儲かるんだが」


 男が懐かしがった頃。それは、彼が個人の会社を立ち上げた頃で、まだ好景気が続いていた時代の話だった。だが、景気が急速に落ち込む寸前の頃といった方が正しかった。世間では投資が過熱し、エネルギー・水・鉱物・燃料・金属・植物・水産などの資源への出資は言うに及ばず、マニアックなところでは亀・オウム・アロアナなどの希少動物、犬猫などの愛玩動物への投資。変わったところではリサイクル回収された貴金属やレアメタルを独占販売する権利。一つの国が一年あたりに排出する有害物質であるところの窒素酸化物NOxを請け負う権利。工場から出た水銀、鉛、ヒ素、カドミウム、PCBを含んだ工業廃水や廃棄物を処分する権利。南極・北極の氷山を売買できる権利。果ては澄んだ空気や世界の風景を売る権利。月・火星への移住権までもが投資の対象になっていた時代だった。


 そのときだった。澄んだ人の声が、それもやや低音の男の音域の声がすぐ間近から起こった。


「はっきり無いとは言い切れないが、余り期待しない方が良い。あのときお前は運に恵まれていた。だから何も知らなくても利益を得ることができたのだ。返って良く事情を知っていたならその逆になっていたかも知れない」


 生き物が初めて口を開いたのだ。背を向けたまま生き物は、不意を突かれて少しきょとんとした表情を見せた男を尻目に尚もはっきりと通る声で続けた。


「運よく得た利益を思い浮かべて、あわよくばもう一度という魂胆だろうがそう旨い話はない。淡い希望を持たぬ方が良い。お前の身のためだ」


「そうかな。俺は今度またあっても上手く儲けられると思ってるが。なーに、簡単だ。こうすれば良いんだ。それはないだろうと思ったものに最初に飛びつき、高くなったところで手放せば良いんだ。この方法で俺は、誰もがどうすれば良いか困っていた高濃度の放射能を放つ廃材を管理・処理する権利と、タダ同然と思った春の花畑の穏やかな空気、雪解けの澄んだ空気、原始の森の神聖な空気といったものを売り買いして儲けさせて貰ったんだ」


「ふむ。私はそんなに甘くないと思っているが。ま、そういう取引は必ず勝者と敗者に分かれる仕組みになっていて、常に勝者となるのは、その取引を仕切る者達だけだ。お前はそ奴等に上手く踊らされてたまたま勝者になれたに過ぎない。今一度やれば、そのとき敗者となった者が必ず同じ轍を踏むまいと先手を打ってくるのは目に見えている。そのような無稽なものに群がる者達も悪いが、それを考え付き実際にやる者達はもっと悪いと言える。そもそも良識が欠落していると言って良い。

 だいたい、害あるものを生み出しそれをたらい回ししようと考えること自体がおかしい。また自然にあるもの、実体のないものに証明書を付けてビジネスにしようと考えるのは間違っている。

 閉鎖された空間内で害あるものを右から左へ幾ら動かそうと無くなるものではない。

 身の回りの環境に値を付けて金儲けの道具に使うのは自等の身体の部分に値を付けて売り買いするのと変わらない。

 正体が不明なもの、不確かなものを平然と取引の材料とするのは初めからだまそうとする意図がみえみえだ。言うなれば、悪徳以外の何ものでもない。

 成る程、新しいことを創造し行動に移すことは良いことだろう。だが、世のためにならないとはっきりと言えるのにやるのなら、それは愚だ。

 この世に生きとし生けるものは全て、過ちを糧にして進化して行くという。だがいかにも取るに足らないというべきか、明らかに十分な配慮がなされない浅はかな思い付きや考えは別の悪い姿に生まれ変わって繰り返されるという。言うなれば、進化をもたらすのではなく愚を再びもたらすものなのだ。

 人間という生物種がそのような理に反した行動を取るのは、他の生き物が生まれたばかりの頃に種の保存のために為す兄弟間の生き残り競争や、成長してから同じ種同志間で行うなわばりの行動のようなものかと敢えてこじつけているのであるが、それにしても他の生き物より高等でありながら、あきれた行いと言わざるを得ない」


「ふ~ん……そうか」 


 分かったかのように男は首を小さく縦に振った。だが実際のところ、ありふれた犯罪を堅苦しい言葉使いで難しく説明する生き物を、またいつものことだからと、うわの空で聞いていたのだった。

 彼はやれやれといった笑みを洩らすと言った。


「悪いがこのサイトを見せてくれないか?」


 モニターの画面ではネットショッピングの長いコマーシャルが始まっていた。最初のサイトは当て外れだったのか、男が別の業者のサイトへ画面を切り換えていた。そこでは赤いブレザーを着た若い女性が携帯電話の新製品の紹介をしているところだった。

 すぐさま生き物が一旦宙に泳がせていた長い尾を再び画面の近くに持って行くとコマーシャルが途切れ、その業者のサイトの入口が現れた。男はタッチパネルを操作して目的の画面へ持って行くと、そこにのった内容の一部を拾い読みし始めた。


――――クオンツスタッフ、十名。特許技術調査官、数名。金融トレーダー・ディーラー、十五名。ファンドマネージャー 経験十年以上、五名。ビジネスコンサルタント、十名。金融商品企画販売員、金融・経営・統計・数学の学位要す、五名。企業再生及び事業再生アドバイザー、経験者を求む、三十名。債券管理回収業務、弁護士資格のある方または法律に詳しい方、二十名。不動産の管理全般、ファイナンスか不動産業務二十年以上の担当者が中に数名いること、およそ十名で十五組。秘書・広報担当、二十名。WEBプロジェクトスタッフ、三十名。ソフトウエアの技術開発業務、一クルー五人から二十名程度三組。エレクトロニクス事業企画営業、二十名。掃除・リフォーム全般、百名。ベビーシッター派遣代理店の募集、十組程度。カスタマーズサービス員、百名。コールセンタースタッフ、女性に限る、二百名。営業アシスタント、女性に限る、二百名。看護士スタッフ募集、二十名。大型貨物ドライバーのチーム募集、一組五人で総勢百二十人募集。イベンター補助要員募集、超短期二日間、五十名。


 そのうち、中で気になったのが幾つかあったのか、それらを声に出して読み上げていた。


「遺跡並びに化石発掘の作業員の募集、か? 三十名募集か? ……この募集元はたぶん民間じゃないな。区か市の外郭団体だな。だが条件として、考古学に関連した学位習得済みの担当者がひとり以上いることか! ……嗚呼、無理か」


「警察署内の食堂の調理責任者とスタッフの募集、か? 責任者も補助も若干名か? ……先ず警察OBの指名が優先だろうし。たぶん難しいだろうな」


「フィールドサービス部門部員の募集ね。採用人数は自動機械が三十名で、電気制御が四十名か? ……この手は歩合制で結構ハードなんだよなぁー」


「自動車部品製造の下請けを求む、ね」「試作品製作の下請け募集。極小の模型から実物大の航空機まであらゆる品を製作可能な業者を求む。同時に3D金型技術者も募集。……」


「レンタル車輌、物品の管理代理店の募集、か? ……うちは数字に強いのが俺だけだからな」


「インターネット広告代理店経営者及び従業員の募集。四名以上十人ぐらいで、か? ……どうせ、電話でのノルマ営業だろう」


「二十四時間営業の小売店舗の経営並びに従業員の募集、か? 資格は別になしで家族、親族、友人でも可能。各店舗五~六名か? ……フランチャイズ加盟店の募集だな。でも保証金がな……」


「海底資源採掘労働者の募集、か? 八年間単身赴任できる人、七百二十名募集。その間、海洋プラットフォーム内の建屋で生活して貰います、か? ……う~ん、一応地質調査なら実績があるんだがなぁ……。給料が年棒制で五万ドルからか? だがその間、海の真ん中で八年間生活か? これじゃあまるで無人島へ島流しに遭った罪人だな」


「石油採掘国で働く派遣労働者の総括の仕事か? 業務は主に通訳で条件は最低十ヶ国語が話せることか! ……嗚呼、厳しいな」


 ここもだめだなと、口元を歪めた男がそのサイトを終了し、また別のサイトに画面を持っていくと、突然、<格安でセール中> とうたった黄色い大文字が静止画面上に現れ、下の方にゲームソフト、音楽ソフト、アクセサリー、コスメ、映画の鑑賞券、おもちゃなどの小品の写真とその直ぐ横に定価と割引率、割引後の価格を記した数字が現れる。


「セキカ、悪い。頼む」 


 このサイトは物を買わないといけないんだ、と男が呟くまもなく、生き物の長い尾の先端が画面の間近まで伸びると、たちまち静止画面が消えサイトの入口が現れる。

 直ぐに中の内容を熱心にチェックし始める男に、生き物は再び気配を消していた。


「ふ~ん。医師募集、常勤・非常勤、科目不問、五十名。看護師募集、二百名。固定翼並びに回転翼操縦士募集、十名。同整備士募集、五名か? ……」


「林業公社臨時職員、五十名。職種は木材の伐採、最低五年間の長期を希望か? ……機械が入らない地域の仕事だろうか?」


「服飾雑貨の販売員、三十名。……こんな不景気じゃ、売れるもんじゃないからな」


「太陽電池パネルの設置並びにメンテナンス作業スタッフ募集。素人、見習いは不可。二十代から三十代までの熟練者を希望。五十名か? ……ちょっと難しいな」


「パン製造ライン業務スタッフ募集。種付け栽培から収穫・製粉・焼き成型・包装まで一貫製造。素人可、五十代までの女性に限る、三百名。……嗚~呼」


「警備員の募集、五十名。主に裁判所、役所、図書館、学校などの公共施設の夜勤の警備を担当。……こういう仕事は激務の割に受け取る金が少ないんだ」


「闘牛士見習いの募集、か? 十名の募集で希望は十代前半か……」


 さして目新しいものがなかったのか、男はそのままじっと考え込むと、急に思い出したように言った。


「セキカ、悪いんだが例の会員制のサイトを見たいんだが?」


 会員制のサイトとは――少し前、生き物が誤ってコマーシャルと共にその下のサイトも消し去ってしまったことがあり。そのとき偶然発見したもので、特定の会員しか利用できないようなその厳重なセキュリティーの様子から男が勝手に会員制のサイトと思い込んでいたところだった。


「……」


 ネコ似の生き物は静かに尾を画面へ近付けると、瞬く間に画面が黒く変わり、左上に男のクレジットカードのパスワードと口座番号と口座残高と請求額のデータ。正面部にアーチ状の形をした青、黄、赤の三色の扉が横並びで出現する。扉の周囲には鋲が、いかにも堅固に見えるように描かれてあり、其々の中央部には5×5、3×3、7×7の升目が、その隣にはグラフィックでレバーの絵柄が描かれていた。

 ――――画面の中央に並んだ三つの扉。それぞれの中には空欄になった升目がパズルゲームを思わせるように描かれてあることから、何らかの暗号をそこに組み入れ、横のレバーを押すと扉のロックが解除されるだろうと誰にでも分かる仕組みになっていた。しかし暗号が分からなければ、やり直す度に一定の金額がサイト内に飲み込まれて行くだろうということも、左上に付いた閲覧するのに必要な請求額の項目から同時に推察できることから極めて狡猾なサイトであるとも言えるものだった。


「さて、今日は残った黄色の扉の奥でも探索して見るか?」男がこともなげに呟いた。


 それもそのはず、彼とネコ似の生き物は、ついこの間、升目の数から黄色の扉より難解だと見られていた青色と赤色の扉のロックをヒントもなしに易々と攻略していたのである。

 そのとき覗き見た青色の扉の向こう側には複数のサイトが存在しており、それらのいずれもに合言葉とか隠語のような形で表したタイトルがずらりと並んでいたのであった。

 男は悪いと知りながらその幾つかの中身を覗いてみた。するとブログ若しくはメール、またはツイッターの書式で書かれた文章が現れたのだった。そしてその内容と言えば、たぶん本人と相手にしか分からないであろう暗号のような記号の羅列であったり、理解に苦しむような擬音でつづられた文章であったり、難解な数式ばかりが出て来る論文みたいなものであったり、意味不明の外国語が連なる会話文であったり、支離滅裂な内容の恋文だったり、おそらく業界用語だろう専門の単語がずらりと並んだ文章だったりで、一種独得の、ユニークというか余り見慣れないというか一風変わったものばかりが並んでいたのであった。

 男はそれらのことから、ここ(青色の扉のサイト)はおそらく、何処かの地位の高い人達や知名度のある人達、高貴な身分の人達が世間に絶対に知られたくない極秘の通信や会話を楽しむところだと考えていた。

 一方、赤色の扉の向こう側には一つだけサイトがあり、その内部は立体アートで描かれたバーチャルリアリティ(仮想現実)の世界だった。数々のモニュメントや宮殿や教会や寺院などの建造物、証券会社や銀行やローン会社や保険会社や不動産会社と云ったオフィスビル、デパートやアウトレットと云ったショッピングビル、飲食店やホテルや病院などの商業ビルの高層建築群が建ち並ぶ間に、色々な車が往来する広い道路が縦横に走っている、といったパノラマ世界が展開しており。また建物の内部といえば、何れも金庫室のような構造をしていて、中に銀行のID、口座番号などのパスワードや遺言書、家系図、写真、秘密文書と云ったデータや電子コードキーなどが保管できるようになっていた。

 これらのいきさつから男は、このサイトはおそらく世間で良く言われている脱税向けか、あくまで個人の秘密金庫のような役割を果たしているのだろうと考えていた。


 いうまでもなくさっそく生き物が作業に取り掛かった。しかし別に特別なことをする訳でもなく、先程と全く同じように尻尾をパソコンの画面に近付けただけだった。が、途端に三つの扉の内、中央の黄色い扉だけが大きく映し出されると、中の3×3の升目全てにあらゆる数字、記号、文字が重なった状態で挿入され、それらが点滅し始めるのだった。

 刹那、あっという間にパスワードが適合したのか横のレバーボタンが、「ガチャ」と効果音を発するや、「ギー」と云った音と共に扉が内側に開いた。そこには三つのサイトの名が列記されてあった。


「やったか!?」


 直ぐにこれを受けた男が、三つの中から一番上の方のサイトにチェックを入れて、内容を画面へ表示させると、そのリストから項目にリクルート(募集)とあってマンパワー(労働力)、アウトソーシング(業務委託)、と記された箇所を選択して操作を完了した。


 すると瞬時に画面が換わり、黒のバックに白字の文字で横書きのリストがずらりと表示されていく。


「会員制のサイトがどんな募集をしているのか見ものだな」そう呟き、出て来たそのリストに興味深く目を落としていた男が唸った。「なんだ、こりゃ?」


 そこで見たものは、どう見ても奇異な募集ばかりだった。


・チェーサー募集。仕事は賞金首色々。生きて捕えた場合百十パーセント、それ以外は七十五パーセント。

・チェーサー・捜査官募集。ターゲットはお尋ね者。生死にかかわらず高額報酬。

・欠員ができたため中途採用します。各二十名。

・パートナー募集。若い女性で容姿が人並み以上に限る、二名。

・パートナー募集。医療系に熟知した人材、要経歴、数名。

・プロ並びにセミプロ調理人募集。実績重視、八名。

・護身術アドバイザー、ヘルパー募集。古武術、古武道に通じた方、三名から五名。

・掃除人募集。仕事は現地にて歩合で、十名。

・エクソシスト専門学校指導講師募集。素人・見習いへ教授が丁寧にできる方。資格者希望、若干名。

・ミスティカ・マギスター募集。職種:ボーディングスクールの講師。正マギの称号要す。三名。

・鎮魂師を急募、二名。

・霊視ができる方募集。仕事内容は幽霊屋敷を見つけることです、五名。

・洗礼師募集。家柄、家系、容姿、年齢を考慮します、三名。霊媒師も同時募集、三名。

・ネゴシエーター(交渉人)募集、五人。

・某霊感探偵事務所。新規事業につきスタッフ募集、五名。

・分析・捜査スタッフ募集。仕事内容は犯罪被害者、行方不明者の身辺調査、トレースです、三名。

・店舗スタッフ募集。歴史と古武具に詳しい方、若干名

・香調合師募集、若干名。

・薬種店スタッフ募集。薬草の知識がありレシピを作れること、三名。

・美容師募集。顧客はVIPばかりです、秘密守れる方、二名。

・介護職員・栄養士募集。介護50:警護50の割合です。若い女性に限る、二十名。

・庭師募集。植木並びに花壇の手入れ。植物の習性に詳しく扱いに馴れている方、五名。

・動物飼育員募集。巨大な動物大好きな方、十名。

・倉庫内雑業。急募、二十名。

・旅行時の身辺警護。従順で物腰の柔らかい方で話し相手になって下さる人、若干名。

・ジャンバラヤへ行くルートを探しています。どなたか知りませんか?


・第467回、現代人像アート展、創造展の出品者募集。

・吟遊乙女コンテスト参加者募集。

・ネイル美人コンテスト参加者募集。

・瞳と鼻と唇美人コンテスト参加者募集。


 しかし男はこれらを見ても、高額宝くじに当選したみたいな大層な驚きをみせなかった。単に、ふ~んと感心したぐらいなものだった。

 サイトの業者にもよるが、募集欄に素人では分からない業界の専門用語ばかり使っているところもあることなどから、ここもそれなんだろう、と思ったからだった。


「俺達と世界が違う人種は暇に任せておかしな求人を思いつくもんだぜ」


 パソコンの画面を覗き込みながら、男は呟くように感想を洩らした。


「賞金首というのは債務超過で逃げた者のことをいうんだろうな。チェーサーとはそんな人間を追跡する仕事のことだな。エクソシストというのは悪魔祓いのことだが業界用語なんだろうな。悪魔イコール敵と考えて、それを追い出す仕事なのだからVIP専用の軍隊か警備の学校もしくは養成所というところで、そこの講師という訳かな?」


 そんな呑気な気持ちで見入る男であったが、このサイトが通称“ブラックホールサイト”と呼ばれ、裏社会(under world)の者達のみならずラストワールド(last world:裏社会の闇に住まうの意味)の者達にも広く利用されているサイトとは知る由もなかった。


「特別な知識がいるものか女子限定の募集が多いみたいだが?」


 そのようなサイトであったとは露知らず、尚も画面をスクロールしてリストに目を通していた男のマウスを持った指が突然止まると、彼の目が輝いた。その先にはこのような記事が載っていた。


・第15回、武闘ダンス開催につき予選出場者募集!! 賞金総額二百万ドル。

・第二回、仮面武術会開催。出場者募集、優勝賞金百五十万ドル。

 そして最後の項に通常の文字二つ分の大きさを使い目立つように、“命の保障なし。2時間の間、銃弾の中を逃げ延びた方に成功報酬$8Millionを差し上げます;参加料$1,000;見物料$10,000~”と云った書き込みが……。


「八百万ドル!? 八百万ドルか。二時間で八百万ドル!!」男は大まじめな顔で思わず叫んでいた。


「本当かな。信じられない額だぜ。八百万もあれば今の借金が直ぐに返せる。それどころか一生遊んで暮らせる。……でもな、余りに高額過ぎるだろう。何か別の目的があるのかな?」


 彼はさらにその記事を読み進んだ。


「軍の基地でやるのか? 場所はここから半日もあれば行けるところだ」そう呟いて画面から目を逸らしてイスの背に寄り掛かるとまぶたを閉じた。「どう云った業界か知らないが、とにかく金額の桁が違っているということはないだろうな」


 そうして、イスに座ったまま両腕を頭上に上げたり、背筋を伸ばしたり、頭の後ろに両腕を組んだりと、体の曲げ伸ばしを繰り返しながらさらに深く考えた。


 まっさら政府や軍がこんな募集を出す訳ないだろうし。一体誰がこんな募集を出しているんだろうな。八百万ドルとはねぇー。馬鹿にできないくらい高額だし…… しかも三人にということは総額で二千四百万という額になるから、募集をかけたのは個人じゃなくて間違いなく企業だな。それも一社じゃない。何社かがタイアップしているんだろうな。

 それでもって派手に金をばらまいて直ぐに元が取れるような業界といえば…… う~ん、考えられるのは、広告業界、メディア業界、自動車業界、IT業界、あと軍需業界ぐらいなものか。

 この中から何社かがスポンサーになっているんだろうな。

 それにしたって銃弾の中を二時間逃げるって、全く理解不能な文章だぜ。銃弾自体が業界用語か何かなのかな? だが集合場所が軍の基地ということや命の保証なしということから危険な仕事であることは間違いない筈だし……。どうも分からないな。


 男は閉じていた目を薄く開け、ぼんやりと宙を仰ぐと不意に頭をかいた。そして答えも出ないまま、何気なく視線を身動き一つせずに鎮座するネコ似の小動物へ移し、話し掛けようとしたが、まあいいさと諦め顔で再び目を閉じると、また別の考えを巡らせた。


 この文章を素直に受け止めるなら全て理屈が通じるんだよなぁ。銃弾とは兵士の軍事射撃のことだったりして。いや兵士でなくたって同じことだ。とにかく、しこたま回りから撃ってきた銃弾の雨を二時間の間、無傷で逃げ回ると大金が貰えるということだ。だけど無茶な話だな。人が蜂の巣になるのを見て楽しむつもりなのか? 不可能だから八百万ドルが貰えるといってしまえばそうなのだろうが。

 どうせ無理に決まっている、みんな助からないさ。

 ……まさかな? 実弾を使うということはないだろう。現実的でないからな。模擬戦闘だろう、これはきっと。そうに違いない。じゃないと誰も参加しようとしないさ。そう考えると、大金を気前良くぽんとはずんでくれるようなところは限られてくるな。あそこか? あそこだな。娯楽産業だろうな!!


 男がこうも熱心になるには十分な事情があった。最近に始まったことではなかったが、特にこの頃、仕事の方がさっぱりで稼業が旨く行っておらず、これ以上会社経営を続けていくのが困難な状態まで追い込まれていたからである。おまけに取引銀行、公共の融資機関からの借り入れも限度額までふくらんでおり、加えてその一部の返済日が直ぐ間近まで迫っていたこともあり、そのような焦りからか近頃では彼の頭の中は、手っ取り早く大金を手に入れる方法とか、早く借金を返す方法を見つけることでいっぱいだったのである。


 う~ん。背後には映画関係者がいるな。それも名を聞けば直ぐに分かるぐらい相当有名な監督かプロデューサーが募集を出した張本人だったりしてな。でなきゃ、現役バリバリの軍事基地で予選をしようと思いつくことも、三人に合計二千四百万ドルという大金を出せる訳もないからな。

 ……そう言えば最近の上演作品は、どこもネタ切れなのか、どれを見たって古典のリメーク版か、似かよったストーリーの恋愛物か、思いつきだけで作った何が何だか分からないものばかりだったからな。そう言う意味でこれは世間をアッと驚かす大作なんだろう!

 募集の内容だが、おそらく新しい企画で主演の俳優がこういった場面に出くわす設定になっているんだろう。が、何らかの事情で思った通りにいかないとか、斬新なアイデアがないということだったりして。いや待てよ。この手の監督やプロデューサーは、リアルな描写を好んでやりそうだからクライマックスシーンのアクションまでCG(コンピュータグラフィック)で合成するとは考えられないな。そうなら銃弾は本物でなくたってゴム弾かプラスチック弾を使ってやる筈だ。でも弾は偽物といったって当たれば痛いに決まっているからな。おそらく主演の俳優が断わって来たんだろうな。だからその代わりにできそうな人間を見つけようとしたんじゃないのかな。

 は、は~ん、この募集は主役の俳優に代わって逃げる代役、スタントマンの募集臭いな。おそらく、それだろうな。

 そういう意味で考えると、命の保証無しというのは、銃弾は偽物だが万が一頭なんかに当たると死ぬ恐れがあったり、それ以外のトラップに本物の火薬が仕込んであるから事故の責任が持てないっていう意味なんだろうな。つまり命知らずなプロのスタントマンを募集しているということだな。参加料が千ドルと馬鹿高いのは、冷かしで参加する人間を防止するためだな、おそらく。

 そうなると、基地内にでっかいオープンセットを建設しておいて、その中で一人ずつ逃げさせて審査するつもりなのか? なるほどねぇ。

 だが、どうしてこんなセキュリティーが万全な会員サイトに募集を出したんだろうな?

 もっと知られているサイトに大きく出せばいいのに。いいや、他にも出しているが、たまま俺が見たのがこのサイトだっただけかもな、そうかもな。まあ良いさ。 


 異業種の事情には全く疎かったこともあり、どのような危険なスタントでも八百万ドルの金額は高過ぎるという認識が一切起こらなかった男は、自身が間違った妄想をしていたことにも気付かぬままぼんやりと目を開けた。すると、それまでパソコンに集中していて気付かなかった写真立て風の卓上時計が、不意に目に飛び込んできた。背景に緑の樹木の写真がプリントされたその時計のデジタル数字は十一時十分を示していた。


(う~ん、もうこんな時間か?)


 やり始めて三時間近く経っていたことにようやく気付いた男は、今日はこれぐらいで切り上げるか、と踏ん切りをつけると、見ていたサイトを手際良く閉じパソコンの電源を落した。それから忘れずにスロットに差し込んでいたカードを抜き取ると、いつものことながら大きな溜息を付いた。


(あの頃みたいにいつも仕事があればな)


 目が回るほど忙しかったけれど、その分は十分稼げたし、何よりも充実感を持っていた昔の頃のことを懐かしく思い浮べていたのだった。


 あれは十年以上も前のこと。男が油の乗り切っていた三十代であった頃。

 当時、彼はフリーのエンジニアとして一人で仕事をしており、雇用契約を結んだ人材派遣会社から派遣されて、大小のクレーン、ロボットアーム、マルチリフトといった重機の運転をするスキルドライバー(技能操縦士)として活動する傍ら、機械設備の配線、配管工事、メンテナンスと云った作業も器用にこなすことができ、守備範囲の広い人間として広範囲な現場で重宝がられていた。

 そんな或る日のこと。男は、とある公共団体の施設内にて、ひとりの人物と面会していた。そのときの彼は、一仕事が終われば次が見つかるまでずっと自宅待機しオファーがあると現地まで単身で趣いて作業に就くといった浮き草のような派遣生活を送っていたことについて、この先も長く続けていけるのかと疑問を持ち、もうそろそろ腰を落ち着けてできる仕事に就きたいと考えて、企業と企業もしくは企業と技術者・専門家を引き合わせることを旨とした或る公共機関が無料で主催していたイベントに参加していたのである。

 面接会場で何々ライトとか何々ライトマンと彼の前で名乗ったその男性は、自分は世界的に有名な某企業が三社集合する巨大な工業団地の中に事務所と工場を構える企業の一経営者だと自己紹介した。――――名前がぼやけてはっきりとしないのは、男性が消息不明となって五年近く経ち、男の記憶が曖昧になって思い出せなくなっていたからだった。

 それはさておきライト某は、年齢は男と同じ三十代で、今の身分は会社の創業者であった父親の後を継いで二代目の社長に治まっているということ。会社の従業員は二十名も満たない少数精鋭であること。団地内での仕事の内容はといえば、その有名な企業の関連会社とは別に、協力会社として係わりを持つ多くの下請け企業の幹事的な役割をしていて、仕事の発注先の窓口、即ち企業から出た仕事を振り分ける作業を一手に請け負っているのだ、といった短い自己宣伝に続けて、ここへ来た目的は複数のメカが操縦できて、さらにCADシステムが使え同時に図面をみながら作業もできるマルチな才能の人材を求めてやって来たのだと説明した。

 二人の面談はほんの数分で終了したが、男が一度見に来て下さいとデモしたその時の仕事場であった大型ショッピングセンターの建設現場を、そのライト某が覗きに来て契約は即決で完了した。二人の利害が一致したのである。


 あのとき(転職した時期)は人生のふしめだったな、と男は思っていた。彼が就労契約から三日も経たぬ内に赴任した先は、広さがおよそ一万ha(100k㎡=10km×10km四方)の敷地内を、川幅三百ヤードを越える河川が蛇行するように縦断しており、対岸には小高い丘、自然の森、ゴルフコース、クレー射撃場などもあって、ともすれば工業団地に思えないところだった。

 しかし敷地の端をかすめるように片側八車線のハイウエー(幹線道路)が通り、そこから枝分かれした道路の両端にはスーパーマーケット、色々な飲食店、広いパーキング、公園などを見ることができ、また道路を特定の企業のロゴマークが入った車が何度も行き来する光景や、目立つ場所に企業名が入る看板が日常的に立てられていることなどから、改めてそこがそうだったのかと、うかがわせるのだった。

 実際、ライト某が話したように、ハイウエーから少し離れた利便が良い場所に、世界的に名が通った大企業であるIT関連の精密部品、ソーラーパネル、各種電池を製造販売している海外のメーカーA社。石油化学系プラスチック・油脂のメーカーB社。アルコール飲料、ソフトドリンク、飲料水、食品を製造販売する老舗のメーカーC社の巨大な工場建屋が互いにテリトリーを主張するように建ち、其々に隣接するようにこれらの子会社が。また付近には倉庫、輸送、販売、メンテナンス等の関連会社の建物が十数棟建ち並んでいた。そしてその周囲には大小合わせて百社近い協力企業の建屋が、砂糖菓子の周りに群がるアリンコのように大きな建物からくっつき離れずといったようにして建ち、そこから距離を措いた周辺に妻帯者社員用の一戸建て住宅が、丘の付近には独身寮とおぼしき高層アパートが何棟も隣接して建っていた。


 ちなみに現地に着いた男が先ず任された業務はというと、ライト某の会社が所有する工場の一角に個人事務所を与えられて、そこに駐在しながらライト某の会社の窓口を通して依頼があった仕事を、ライト某の会社の準社員として他の協力会社からきた社員に指示をしながら一緒に作業に当たるというものだった。いわゆる現場監督のような仕事である。初めて現場を訪れたとき、同じような境遇の者が、既に何人かいた。みんな、やる気に満ちあふれた顔をしていた。


 ところで、準社員の肩書きがあるといっても単なる形式状のことで、実際は個人の事業者そのもので、連続した休みはほとんど取れず、仕事が後ろから付いて来るというより先々で待っているといった例えが合っている忙しい日々が毎日続くのである。当然ながら、それまでやってきたように一人でするわけではないので責任感が要求された。が、仕事の進行から完成に至るまでを目の当たりにできるので一種の自己満足を感じていた。また仕事つながりで海外へ出かけることもあり、多くの経験が積めたな、と思っていた。加えて個人の事業主としての報酬が派遣時代に比べて四、五倍にアップしていたことも忘れずに思い出していた。


(確か、この頃だったな)何かを思いついたように、それまでの男のにやけた顔が急に強張った。


(そうそう、先に離婚届の書類が入った封書が送られてきて、その後に携帯メールが届いたんだっけ)


 家出したまま十日ほど帰って来なくなっていた妻からであった。男の妻は目が小さく、鼻ぺちゃで、胸もそれ程大きくなく、といった風に容姿は至って平凡であったが、彼はその当時接客業をしていた彼女の才気ある喋りと気が強そうな雰囲気がどことなく気に入って、何度断られてもくじけずアタックを繰り返し、最後は拝み倒して結婚の許可を貰ったのだった。彼は、食べ歩きと旅行が趣味でちょこっとだけ料理ができるだけとお嬢様風だった彼女と結婚してみて、こんなはずではなかったのにと後悔した。外面の清楚なイメージと違い彼女の素顔は、見えっぱりで、わがままで、人を見下す態度で。気に入らないことがあれば辺り構わず怒鳴り散らすわ、暴れるわと将に男の面前では暴君だったからである。

 しかし、そのような妻に惚れた弱みと頭ごなしに言われるとつい弱気になる癖があって、最後はいつも彼が謝ることですんなりと丸く納まっていたのだが、ある日のことだった。いつものように口げんかをして男が謝ってそこで終るはずが、どういう訳かその日は二人の間にできていた幼い子供を連れて家を出てしまっていたのだった。そんなことは今までにも四度、五度とあったからまたかと思い気にしなかったが、彼女はもうそのときは決心をしていたらしかった。


 いきなり電話があって離婚したいから書類にサインして頂だい。ついでに要らないものが出来たから引き取って頂だいと言ってきたから結婚指輪か何かかな、と思ったのが甘かった。まさか子供だったとはな。

 あのとき新しい男ができていて、そいつがこぶつきは嫌だと言ったんだ。きっとそうだ。あいつめ、だから俺に子供を押し付けやがったんだ。あのとき仕事さえ忙しくなかったら離婚なんかしてやらなかったんだが。


 男は思わず長い溜息をついた。


 あのときは本当にびっくりしたぜ。子供を置いておくからって送信してきたメールが一週間前の日付だったんだからな。仕事が忙しくってメールを見る暇がなくついうっかりしていたんだっけ。


 思い出す度に苦い思い出だった。仕事が忙し過ぎて、借りていたアパートへ帰る暇がなかった一週間の間、部屋の一室に三才になる自分の子供が放りぱなしにされてあったのだから。


 あ、そうだ、あのときだけは慌てて仕事を放って戻ったんだ。しかしなぜか元気にしていたんだっけな。傍に紫色をしたネコが一匹いて…… これが面倒を見ていてくれていたのかと思って感謝したようなしないような。


 その辺の詳しい記憶はそっくり抜け落ちていて、彼は今もってどうしたのか分からなかった。


 ええと、その後はこの家を買って、いつの間にかあいつが大きくなって、学校へ行くようになってと……。


 断片的に記憶が出てくるのに、はっきりとした中身がさっぱり思い出せなかった。一日の仕事を終えた後だったため、疲れていて思い出せないのかも? と疑って見た。


「その間、俺は何をしていたんだっけ?」男は思わず呟いていた。


 ところで一方、男にラッキーチャンスを与えてくれたライト某は、そう言った意味では明らかに恩人といえる存在であったが……。では彼にとって何も得る利益がなかったかといえば嘘で、そこには社員数が二十名に満たない企業が団地内の全下請け企業をまとめるための止むに止まれぬ複雑な事情があったのだ。

 実際、彼の会社がなぜ得意先企業全ての業務委託窓口を務めていられるのかというと、実はカラクリがあり、それには彼の父であった亡き前社長の行いが大きく関与していたのである。

 そもそも、会社の創業は彼の父親が実の弟と異母兄弟二人とで始めた小規模な工務店が始まりで、当初は水道工事・電気工事も行う内装リフォーム業を生業としていた。ところが商売を始めて四、五年もするうちになぜか経営が思わしくなくなり、転業か廃業を考えていた矢先、思わぬところから運が舞い込んできた。或る人物を介してであったが、その頃できたばかりの工業団地内で電気工事の腕を生かした仕事をして見ないかという話であった。当時、同業の企業はすでに数社入居していたが何れも規模が大きく小回りが利かないという欠点があり。休日出勤や超過労働など多少の無理が利く個人のところを捜していたのである。

 そこには超有名な企業が入居していたということもあって、仕事になるなと感じた四人はすぐさまその話にのって工務店を廃業し、それらの企業の協力会社、つまり下請けになることを選択したのである。

 ところが、張り切って参入してみたものの、蓋を開ければ、旨味のある仕事は全て既存の企業へ流れ、個人の零細企業へ回って来る仕事は、いつもどうでも良いような雑用みたいなものばかりで、半ばがっかりしたライト某の父親は一年余り経った頃、それならばと一大決心をし、思い切った策に打って出た。

 その一つは経営の多角化で、それまでの電気工事事業一本から脱却して、得意としていた水道工事・リフォーム業は言うに及ばず、工場の配管工事、重量物運搬や撤去、廃棄廃材の処理、機材備品の購買、建屋の解体、各種リース業、人材派遣、コンピューター自動制御並びにOSの開発などと営業品目を拡大しようと試みたのである。その為に彼がしたことは自ら軍団と呼んだ企業共同体の立ち上げであった。即ち、知り合いであった同業、異業種の企業を誘って団地内へ呼び込み、それができなかった企業の場合は自社の関連会社ということにして商取引に引き込むというもので。小企業特有の小回りが利く利点を利用して競争相手の企業と対等に渡り合おうとしたのである。

 また、得意先の仕事の発注部署に通っては、見積もり額の大幅見直し、納期の正確さ、あらゆる要求に応じる柔軟性などを強調した交渉や営業をする一方、これと並行して工業団地の周辺は娯楽が少ないことに着目していた彼は、先に目を付け仲間に引き込んだ余暇の過ごし方を企画したり立案するイベント企画会社から社員を一人か二人付き添わせ、商談において家族旅行、バカンス、キャンプ、ハイキング、釣り、乗馬、ゴルフなどの野外レジャーや婚活パーティ、各種のカルチャールームの紹介などの話題作りをしながら、仕事の発注責任者やその担当者に儲けを度外視した過剰なサービスやワイロ攻勢を何気なく仕掛けたのだった。この手法は、露骨な買収や裏金と違って、収賄側に悪いことをやっているという後ろめたさを無くするのかすんなりと受け入れられて、やがて競争相手であった業者から次第に仕事を奪い最後は独占して行くことになるのである。

 案の定、メーカー三社が団地内で事業を拡大させて行くにつれ、彼の父親を頂点としたグループ各社も順調に業績を伸ばして行き、十数年後には工業団地内で生き残った業者は稀有なことに彼の父親の会社とその息の掛かった傘下の会社だけとなっていた。他の企業は倒産したか団地から撤退してしまったのである。

 だが、そのような斬新なアイデアと強引なやり方でのし上がった彼の父親も、長患いで入院していた実の弟が五十後半で病死したことや異母兄弟の片方が交通事故に遭い亡くなったことなど身内に不幸が続いた後、自等も長年休みなく働き続けた疲労が一気にやって来たのか、突如として脳こうそくで倒れ、そのまま帰らぬ人となってしまったのである。六十五歳であった。男が彼と出会う一年前のことである。


 ちなみに彼、ライト某が何をやって来たかと言えば、彼は良家の放蕩子女が通う私立の大学を適当に出て異業種の企業に就職。そこで営業を三年間学んだ後、退職。その後に父親が薦めた女性と結婚。すぐさま父親の会社へ入社すると現場で経験を積みながら、父親が亡くなるまで直々に帝王学を学んでいたのである。

 ところで彼が実際に学んだその帝王学とは、――――例えば、何事も上昇志向を持ってやれ。目標を持て、といった精神論から、人を動かすには先ず金だ。金を貰って悪く言う奴はいない。次に仲間にすることだ。人は集団で行動したいものだからだ。そして最後は力ずくだ。理屈をこね回す奴にはこれが一番だ、といった経験論。与えられた仕事をもっともっと伸ばすんだ。それまではぜいたくをしたり家を新築したりするのはもってのほかだ。回りを小奇麗にし過ぎると、儲かっていると思われて税務署が目を付けて来るからほどほどにしろ。金はタダでくれてやるな。必ず見返りを要求しろ、といった昔風の教訓がほとんどで、それほど大したものでなかったが。

 しかし、彼の父親が亡くなったといっても、そうすんなりと社長に就けたわけではなかった。正社員二十人未満の零細企業であったが、そのグループ内の権力とそれまで蓄財した資産が膨大であった為、次期社長の座を巡り、既に入社していた六人の腹違いの兄弟達との間で往々にして争いが生じたのは紛れもない事実であったからである。

 だが呆気無く社長の座に付くことに成功したのである。その理由は、創業時のただ一人の生き残りで次期社長筆頭だった親族を味方に引き入れたからであった。その老人の一言で話し合いは丸く収まり、彼が社長に抜摘されたのである。

 しかし、これにはいわく付きの裏事情があって。実は計算高かった前社長が、こういうこともあろうかと自分の兄弟達の弱みを調べ上げて実の息子へ逐一教えていたからだった。加えて、その親以上に計算高かった息子が老人に対して、社長職を譲って欲しい、その代わりに相談役へ就いて貰うから、といった裏取引を持ちかけて承諾して貰っていたのである。

 これで親族間での争いは一件落着した訳であったが、もう一つの難題があった。父親が作り上げたグループ内で、きな臭い動きが目立つようになっていたことである。

 そもそも父親の代に参加企業が十四社で始めた頃は、企業体の外見は親睦会の形式を取っており。またその仕組みは至って簡単で各企業から代表(多くは社長)が会員として参加し、その中から三名の幹事が選ばれトップの幹事長と共に仕事の振り分けをするというものであった。しかしながら仕事の振り分けは幹事長であった前社長がトップダウン方式でほとんど決めていたというのが実状であった。

 このシステムは参加企業が少ない内は別に異論は出なかったが、工業団地内外で百社を超えるまでの大所帯となって行く頃には、中には著しく成長して資本力が一千万ドル、従業員も五百人規模までになった企業も十社近く含まれていたこともあって、幾ら創設者といっても彼等の企業より遥かに規模の小さな企業がいつまでもグループの中核に居座るのは如何なものか、と古い体制に不満を洩らすところもなかったとは言えず。さらに彼の父親の死後、その子が踏襲で幹事長に収まり再びトップに君臨するのは納得いかないと異論を唱えるところがかなり出たりとグループ内の足並みが乱れ始めていたのである。

 その難題に、軍団と呼んだ異業種の集まりを一蓮托生にまとめ上げていた前社長のようなカリスマ性が自分にはないと感じていた彼(ライト某)が先ずやったことは懐柔策であった。

 傘下の企業の中でも勢力の大きな企業の意向を汲み、幹事数を三人から六人へ増やして、それらの企業の代表を当てる。これまでのトップダウン方式から集団指導体制への移行をする。幹事長はそこで決定した方針に従う、といった大幅な譲歩をしたのである。

 この策で大手の企業の協力を取り付けることに成功したが、問題はそれ以外のそれほど規模が大きくなく、どこの勢力にも属さないところであった。そこで考えたのはグループから離れて貰うか、それが嫌なら外部から工程管理者が常駐するのを承認する、という条件であった。つまり監視人を措いて仕事の手抜きを防ごうとしたのである。

 これが男が採用されたあらましである。その後、ならず者の経営コンサルタントの力を多少なりとも借りて地位が安泰となったライト某と彼の会社は順風満帆に業績を伸ばして行くことになるのであるが……。


 それは男が転職してから十年余り経った頃である。景気が急激な登り坂であった頃で社会全体が活気にあふれ、その結果、金回りが良くなった人々がその浮いた金で豪華な旅行をしたり、高額な商品を買いあさったり、ギャンブルや投機につぎ込んだりと安直な浪費と金儲けにうつつを抜かしていた時代。ライト某の前に、どこからともなく金の臭いを嗅ぎ付けた悪い業者が現れたのは。


 それは或る日のことだった。共に清楚な紺のスーツを着た眼光が鋭い中年男と十代に見える二人の若いセールスマン風の男達が来訪して投資話を持ちかけてきたのである。

 中年男は穏やかな物腰で、自身はとあるヘッジファンドの営業課長をしていると名乗り、二人のセールスマン風の男達は名の知れたシンクタンクの人間で、何れも経済学修士の資格を持っていると紹介すると、「ここだけの話ですが」と内緒話をするように切り出したのが、南極大陸資源開発債券、北極地方資源開発債券、深海鉱床採掘社債、月開発債券、キャビア保険債券、といった償還期限が二十年、三十年、五十年と超長期に渡るリスクの高いデリバティブ(金融派生商品)と比較的安全な債券を組み合わせたデリバティブ債券の取引であった。そして彼等は、償還までの間に資源が採掘された場合には、現物と債券を交換できて儲けは五倍以上になると吹聴したのである。

 これに対し、ライト某が気の長い話だと一笑にすると、「ではこれならどうでしょう? まだこの話は極秘中の極秘で正式には決まってはいないのですが……」と書類を見せながら説明してきたのが時価総額三十六億ドル、某中堅老舗投資信託企業のM&A(企業買収)についてで、その内容は、名指しした企業をM&Aできれば、その企業が大株主となっている別の時価総額百三十三億ドルの非上場の企業、ひいては十六億ドルのその関連企業、十五億ドルの企業、同じく五億ドルの企業をそれぞれ芋づる式に手に入れることができるというもの。だがしかし買収するには大きな障壁があり、時価三十六億ドルの株式の少なくとも三十五から四十パーセントを押さえる必要があるのだが、その資金がどうしても工面できていない。また仮に成功できたとしても買収した企業を切り売りするには法の壁があってできないので直ぐに報酬をキャッシュでは支払えないからとの理由で見合わせになっているというものだった。

 しかしこう付け加えるのも忘れなかった。


「但し、抜け道があります。株式交換をすれば良いのです。買収した会社が保有している全株式を利用して、私共の会社と私共と友好関係にある投資会社と私共の協力者といって良い個人投資家の間で仕手戦を行い、その合間に報酬分の株式を迂回させ、市場で別の優良企業の株式に換えてお渡しします。あなた様はそれを市場で売るだけで良いのです。

 尚、キャッシュより投資がお望みというなら、私共が厳選した非上場のベンチャー企業数社の株式でお支払いするという方法もあります。これですと上場した際には投資額の三倍以上になることを保証します。

 また、あなた様の投資額に拠りますが、私共が既に買収した会社の一つをそっくりあなた様の持ち物にできる権利を譲渡することもできます」


「よそ様のファンドでは年利回りは五十パーセントぐらいが限界でしょうが、私共では百二十から百五十パーセントを保証しています。仮に私共が買収に失敗したとしても元本が保証されていて、しかも成功した暁にはこれだけの利回りがある投資は他のどこにも見当たらないと思いますが? 如何でしょう?」


 普段ならそのような甘い話に乗らないたちであったライト某であったが、三人が逐一極秘資料と記された冊子を示しながら連携会社だと言って複数の投機ファンドや超有名な某投資グループの代表の名を出したり、マニアな業界の裏話をしたりしてきたことで話に真実味があるように思えたことや、世の中では好景気に後押しされ財テクがもてはやされているという時代背景。亡くなった父親から受け継いだ資産がかなりあったこと。加えて、露骨に飲み代や高額な賄賂を頻繁に要求してくる厚顔な輩を父親の代から大勢抱かえていたこともあり、毎月の交際費が馬鹿にならないくらいに大きく膨らんでいたことなどの要因が重なり合って彼の生来の計算高い性格に火をつけると、そのとき魔がさしたというべきか軽い気持ちで投資に応じてしまっていたのである。

 ちなみにそのとき出資したのが最終的に四百万ドル。死ぬまで休み無しで働き続けた父親が残した遺産が、自等が社長に就く見返りとして六人の親族にくれてやった、亡くなった父親から相続した株を含む総額で千二百万ドルを差し引いてもあと六百万ドル現金で残っている、そして自分の代になってから増やした資産がおよそ四百万ドルはあると考えて決めた額であった。

 その一週間後、ブラウン系のジャケットとスラックスに地味なネクタイ姿のまた別の人物が、今度はひとりでやって来た。薄くなったブロンドの髪を七三に分け、メガネを掛けた六十歳ぐらいに見えたその男はいかにも老練な話し振りで、自分は著名な経済コンサルタントだと自己紹介すると、買収の経過を簡単に説明した。そして、三ヶ月に一度近況報告をしに参りますと言い残して去って行った。

 半年後、男が三度目にやって来た時、「計画ではあと一月で三十六パーセントを押さえることができます。私共もこれ以上長引かせても得ではありませんから」と、一応近況報告をしてから別の話を切り出した。


「あなた様はもう投資額の半分の利益を手にしています。ここでものは相談ですが、別の儲け話があるのです、が? 乗りませんか?」


 そう男は話すと、今度は土地取引を持ち掛けてきた。その話とは、周りに珊瑚焦が広がるだけの何の変哲も無い無人島を七千万ドルで購入して貰いたいというもの。詳しく聞くと、とある国の持ち物であるのだが、政府の苦しい財政事情から売りに出しているというのだ。

 七千万ドルという余りの高額にライト某が訝ると、男はすまして言った。


「と言っても島を直接買って頂くのではありません。もちろんオプション取引です。実際支払うプレミアム(権利行使権)料は総額の十五パーセント、千五十万ドルです。これなら手頃な価格だと思いますが。

 こう話しますと、なぜ私共が直接買わないのか不信がられるかもしれませんが、これにははっきりした理由がありまして。この取引には匿名の依頼主が居り、そちら様のたっての希望で私共ではなくて、できるだけ間に第三者を挟んで欲しいとのことで。

 その代わり御願いしたことをやって頂けるならば、向こうはこのたった一回の取引で二十パーセントのレートを付けると言っているのですが? 如何でしょう?」


 その内訳は、より完璧なカモフラージュをしたいからと彼の会社の小切手とカードで全て決算して欲しいというもの。また支払いは、直ぐに名義を移してキャッシュを動かすと怪しまれるということで取引が成立してから半月後ということだった。その代わりに掛かった全費用にレートの1.2を掛けて、さらに口止め料として五千ドルを追加払いするというもの。尚、無理というのなら販売期日が一ヶ月を切っていますので別の方に御願いするつもりでいます、とも付け加えた。

 この話に当のライト某は、売却人がその国の役人であることと最終的な引き取り手が現地の人間か政府内外の関係者であることが分かり一安心すると、こんなことをしても旨味があるということは物件に評価額以上の価値、例えば島かその周辺の海域に未発見の天然資源が無尽蔵に眠っているか、島の観光の目玉になりそうな財宝か古代遺跡でも密かに見つかったか、或いは島全体を軍事基地として打診してきているどこかの国の極秘情報でも仕入れたのか、と色々と分析してみたが、ともかく何も無いところには何もないと言うからな、旨い話には何か旨い話が眠っているんだろう、と最後に納得して考えを締めくくると、まあどうでも良いことだ、こちらは七千万ドルは出せないが千五十万ドルまでなら銀行とカード会社から借りればどうにかなる。千五十万ドルの二割、二百十万ドルが手数料になるわけか、と自等は利益の計算で頭の中がいっぱいになり、気軽な気持ちで了承していた。

 その五日後、当人と持ち主である某国の代理人と称する人物の間で正式にオプション契約が結ばれたのである。

 やがてそうこうする内に、初老の男の言った買収期日がやって来た。だが当日は何の連絡もなかった。

 その代わり、次の日の午前中。いらだちを見せ始めていた彼の元へ突然にアポがあって、例の男がやって来ずに代わりに来たのはブロンズ色の長い髪を頭上でまとめ上げ、濃い化粧と巨乳と身のこなしから一見すると水商売風に見える二十代後半の女性だった。大きくて形の良い胸が半ば顕わになった白いドレスシャツの上から黒っぽいジャケットを羽織り同色系のスカート、パンプス姿の彼女が現れると、資料を見せながらこう言い訳した。


「申し訳御座いません。計画では既に買収が完了している筈なのですが途中で私共の買い目標より価格が上がり過ぎて、それでしばらく買い控えをしていまして。またその間に当の企業にどうも感付かれたようなのです。ですが安心して下さい。直ぐにTOB(株式公開買い付け)をしますから」


 そう言うと色気のある笑みを零して続けた。


「あともう一押しのところまできているのですが、私共のTOBに対して向こうは必ずこちらの公募価格以上の価格で対抗策を取って来ます。その時の資金に余裕を持たせたいのですが?」


 暗に追加の投資を要求するものだった。これに、ここまできて後へ引き下がることはできないと、女性が猫撫で声で示した超短期金利、十日で五パーセントのレートの約束で七百万ドルをその場において融通したのである。

 最後に女性は、「明日、都合が良ければ午前中に私共の方へご連絡を下さい。それまでに資料を揃えて報告できるようにしておきますから」と伝えて去って行ったのだった。

 そして翌日、言われた通りにテレビ電話を連絡先へかけて思いがけない事実が判明した。電話が通じなくなっていたのである。そこで改めて、あれは安心させる為に言ったガセネタだったのか、と気付いてだまされたことが判ったのである。その後、不動産のオプション取引も狂言だと分かり、だまされて失った総額は二千万ドル以上にのぼったが、今さらどうにもならないことで……。


 ――――尚、後日談になるが、これら大胆な犯行を繰り返し、ライト某をまんまとだましたサギグループ一味は、その二年後、ふとしたきっかけで芋づる式に捕まることになる。

 しかし一味が全国からかき集めたおよそ三十億ドルとも云われた資金の実証は、――被害者と加害者との間で言った言わないの押し問答があったりした上に互いが核心的な所に触れると口をつむぐ行為に出たり、被害者の大半は事情があって公に出来ない資金を投資に回していたため物証が難しかったり、集めた金は全て地下に潜って行方不明となってしまっていたため回収の目途が立たないとかの理由で、十分に明らかにできずじまいで。

 最終的にだまし取られた金はお決まりの様に被害者へ戻ることはなく。資金の詳しい流れも本当の被害の実体も背景の黒幕も解明されず。全ては闇から闇へと葬られるように立ち消えて行くという不完全燃焼の成り行きで幕引きされることになった訳なのだが……。


 ともかくも、事がここまで至っては、ライト某個人の資産ではとうてい全てを捻出することができるはずもなく。その当時、父親譲りのワンマン振りで主要な仕事を一人で取り仕切っていた彼が責任を取って社長を辞任し会社を去ることを条件に会社が足りない分を肩代わりすることでこの件はようやく落着したのである。

 しかしそのことが次期社長を巡って親族間の争いを生む結果となり、やがて会社の倒産にまで至ったのは皮肉なものであった。

 あれはライト某とその家族の消息が途絶えてから一週間も経たぬ頃。傍観する立場となった得意先や他の協力会社が呆れ返るくらいに総勢二十人余りの親族同士の権力争いが激化して会社が空中分解。とうとう会社自体が機能しなくなり、周りの信用を大きく失うはめになったのである。

 こうなると小さな企業とははかないもので、直ぐに取引銀行とクレジット会社が支援を停止し貸付金を回収する方向へ回り、会社の資金繰りが悪化。三日も経たぬ内に会社は破綻してしまい、そのときのあおりを受けて男が職を失う羽目になったのである。

 ――――以上が今の便利屋的な請負の会社を彼が始めるきっかけとなったてん末であったが……。ではあれから工業団地はどうなったかと言えば、ただただ平穏無事に何もなかったように一年余りが過ぎていきなり世の中の景気が急激に冷え込んだあたりから団地内のどの企業も様子が急変。いずれの企業も経営状態が思わしくなくなり、そのためなのか経費削減やコストダウンや人員数の見直しをやり始め、その結果、大手の企業側は下請けの協力会社への仕事の発注量を減らしたり、見積額の引き下げを求めたり、或いは協力会社から来ていた派遣社員や契約社員の契約を一方的に打ち切ったりし始めたのである。またそれと並行して不採算の事業を閉鎖したり部門の合併や統合を行い業務の改善と効率化を図ると、正社員の方にも配置転換や給与カットなどの合理化の方針を打ち出したのである。以後、現在に至るまで、まだまだ景気の回復が見られないという理由でそのような状況がこの工業団地に限らず、今の男の周辺どころかあらゆる方面で続いているというのが事の背景であった。


「何でもいいさ」


 どう考えてみても思い出せないことがあることに邪魔臭くなった男が、諦め顔で背筋を伸ばしてイスから立ち上がろうとしたとき、もう既に例の生き物が下のフロアに下りて待ち構えるように佇んでいた。


(さあて、そろそろ行くか!)


 溜息と共にイスから立ち上がった男は何もなかったように歩き始めようとした。しかし足を踏み出して三歩もいかない内に足を止め、一つ大きく息を吸ってから、およそ三フィート半先を歩いて行くネコ似の生き物に、「なあ、セキカ」と呼び掛けた。


「今思い付いたんだが、お前の力で銀行や公庫に残ってる借金のデータを全部、永久的に消すことができないものかな?」


「何馬鹿なことを言っている」すぐさま冷たく言い放つ声が、悠遊と前方を行く動物から返って来る。「私に不正をせよと言うのか?」 


「ああ、それしかないと思うんだ。このまま行くと、この家からおさらばしなくてはならなくてな。お前だってそれぐらいのことは分かるだろう?」


「……」


 家が差し押えられ住めなくなることを暗に示した男の言葉に、生き物がゆっくりと立ち止まり、一瞬だけ沈黙すると振り向かずに一蹴した。


「例えできたとしても応じるつもりはない。だからいつも言っている筈だ、ダイス。この世の存在ではない私が本気を出してやれば人間の歴史を変える恐れがあると」


「ああ、分っている。いつも聞かされているからな。だが今回は違う。ちょいと口座のデータを消すだけだ。それも俺のだけで良いんだ。なあ、簡単だろう? これぐらいなら人間の歴史どころかネズミ一匹の歴史も変えないさ」


 そう言って、我ながら良い案だと得意げに後ろ手を組んだ男が、前方の生き物を眼下に見下ろすようにしてにこやかに念を押した。「なあ、やってくれないか? 頼むよ」


「お前がもしネズミであったならそうしてやったかも知れないが、あいにくとお前は人間だ、そういうことだ」


「おい、何だそりゃ? セキカ」返ってきた生き物の応えに、男は一瞬だけわけが分からいという風にぽかんとした。だが直ぐにそれとなく拒絶したのだなと理解すると無理に笑顔を作り、「なあ、セキカ」とやさしく話し掛けた。


「コンピューターなんてものは万能とは限らないんだから何かの拍子で壊れたりするのが常識だ。例え事が発覚したって、まさかお前がやったとはこれっぽっちも考えはしないさ。それに、そうなったって銀行や公庫は全く困りはしないんだ。あいつ等は旨い事帳尻を合わせる方法を知っていて、数字が合わなくなるといつだって損金として処理してるんだ。そのこと自体は法律で認められていることだから別に悪いことじゃないが、そんなことをあいつ等はしょっ中やりながら人の金で私腹を肥やしているんだ。なあ、これで分かったろう。歴史が変わるとお前が心配するほどのことじゃないと思うんだがな」


「いいや、その意味で言ったのではない」


 空中に長い尾をアンテナのように立てたまま振り返る気配も見せずに生き物は、きっぱりと静かに応じていた。

 それを見て、男は生き物の背中に目と口が付いているかと思いながら言い返した。


「じゃぁなんだ?」


「それだけで終るのであれば良いが次があると見たからだ。お前の頭でも、もし消すことが可能なら増やすことも可能と考えるであろう」


「ああ。まあ、そうだな……」男が少し迷ったように応えた。「そう考えるかもな」


「ま、そういうことだ」生き物は落ち着き払った声で続けた。


「遥か昔に私と似た者達がこの地へ何度かやって来たことがある。そしてお前が言ったような願い事を成り行きで適えてやったことがある。その後、願いを適えて貰った人間はどうしたと思う? さらに願いを適えてくれと頼んできたのだ。仕方がないので、それも適えてやるとまた次を適えろと言う。終いに当の人間が持ち出したのは決まって雲上人か時の支配者になりたいだ。お前も同じ間違いを必ずすることだろう」


 これにすぐさま、「馬鹿な」と男は一笑に付した。「俺がそこまで願いはしない。もうこれっきりにするつもりさ、本当にこれっきりだ。なあ、セキカ。信じてくれ。本当だ」


「ふん、そう言って今否定していても、またいつか必ず願うことだろう。そのようにして約束を破った事例を過去から数えて千数百例、私は知っている。先に言っておいてやるが約束が守られた事例はこれまでにたった五例だけしかない。俗欲にまみれたお前が六例目になることは先ず無かろうと思う」


「それじゃあダメなのか?」


「ああ。ダメなものはダメだ。さもなければ……」


「ああ、分かった、分かったよ」


 男はあっさりと引き下がった。そしてごくりと唾を飲みこんだ。


 こうも男が意外と素直に諦めたのは、不可能なことがあったときに生き物が決まって言う「ここから出て行く」というフレーズを口にすると予想したからだった。

 この生き物との出会いは、ほんのちょっとした勘違いから男が実の娘を危うく死なせる寸前だったところを当の生き物に救って貰ったことから始まっていた。見掛けは動物のネコと変わらなくて声質から性別はオスのようで。それが人の言葉を流暢に話すものだから、初めて見たときはどう考えても尋常なものと思えず。猫の姿をした宇宙人か宇宙人が猫の姿に化けているのか、それとも男の悪魔の化身か魔物かと解釈し。それで恐れをなして、「ここに暫く居させて欲しい」と生き物が言った要求を、つい容認してしまったことが発端となっていた。

 だが男の、「もしも宇宙人や悪魔や魔物だったらどうしよう」というような心配も、生まれてからこの方、猫の姿をしている宇宙人の話なんて聞いたこともなかったので宇宙人説は即刻無理があるとして、悪魔や魔物という説も生き物が居ついて一ケ月も経たぬ内に無駄な気苦労に終わっていた。

 それと云うのも、やがて生き物自身が、「心配しなくても良い。私は天界の住人だ」と名乗ったことだった。

 生き物のこの釈明に、男は当初、素直に信じることができなかった。ところが、悪魔や魔物なら恩を売った礼として言い出してきそうな魂の契約などの要求が、生き物が居候していた間一切なかったこと。普段の食事においても、穀類や野菜。その中でも特に悪魔や魔物が好んで食べていそうな動物の生肉や生血には一切興味がないらしく全く食べなかったこと。――その代わりとして、普通には考えられないことだったが、例えば、壊れたイス、同じく壊れた電化製品、割れたガラス・ビン類、いらなくなった古着・衣類、プラスチック容器、自動車の古タイヤ、各種の電気コードなど家庭から出たゴミを何でも食べるのである。(男は知らなかったが、他にも家庭の電気や雷・太陽光と云った自然エネルギーを普通に食べていた)

 また一緒に暮らす間に、実際に天界の住人かと伺わせるような高度な知性を生き物が持っていると分かったことや、更にこれが一番信じる要因になったことであったのだが、悪魔や魔物であるならば必ずこの世界で悪さをしそうなものなのに、この生き物ときたら、やる気がないというか何事にも無関心そうな様子で、男と会話を交わすときと食事を摂るとき以外の一日のほとんどを、木の枝につかまり眠るコアラのように目を閉じたまま動かないでいることが多かったことだった。

 毎日がただそのような繰り返しだった。だが、男に困ったことができたとき、彼が一番信頼のおける相談相手として生き物に声を掛ければ、不思議なことに動き出して気楽に応じてくれるのだった。そのことについて男は、「幾ら天界の住人といっても、タダで居候しているわけだから人間の俺に気を使っているのさ」と思っていた。

 そのような関係でかれこれ十数年が過ぎたが、その間に変わったことと言えば、生き物に対する警戒の心と畏敬の心が無くなり慣れ慣れしく話せるようになったぐらいで、男の身の回りにこれといった変化がなかった。実はその間、生き物が「私は周囲に何も影響を及ぼさない」と公言していたからだった。そのことについて男には、「天界の住人ならこちらの生活水準ぐらい上げてくれても良いのに」「これではいてもいなくても同じではないか」と云った不満もあったが、もしも(天界の住人が)いなくなった場合を考えると、その後に災いが訪れるという昔話や言い伝えがあったような気がして、「全くその通りだな。しょうがないか」とあきらめ顔で納得していた。

 従って、その時男があっさりと諦めたのはそのような理由を加味したからだった。


「そうか」と短く応えて、何事もなかったように歩き始めた生き物を、男はがっかりした嘆息と共に見送りながら、生き物つながりでちょっと気になったことを思い出していた。


(そういえば、あいつ等がいたっけ。あいつ等だったらいけるかも知れないな)


 そのとき彼の脳裏に浮かんだのはジス、レソーという名の二人の若い社員だった。

 二人は会社の仕事が半日で終わったときや急に休みになったときは決まって申し合わせたように一緒にどこかに出掛けて行くのを男は知っていた。

 そのことでいつだったか、どこへ行っているのか訊いて見たことがあったが、二人は適当にはぐらかすばかりで、真面目に答えようとはしなかった。

 それで、お金に困って空き巣やひったくりを二人がやっているのかと心配になった男は、密かに後を付けて行ったことが何度かあった。

 そうすると、二人が向かった先は、近くの人気の無い広い空き地であったり、少し行ったところにある周囲を金網フェンスで囲まれ今は誰も立ち入れなくなった廃屋が建ち並ぶところだったり、うっそうとした樹木が生い茂る森の中にあって普段は通行禁止になっている林道であったりと、その日によって場所はまちまちだったのだが、全てに共通していたのは人影が全くないということだった。

 そういう理由から、その場所で大麻の栽培でもやっているのかと疑いながら覗き見たものは、トランポリンか体操の選手が良くやるような前後に宙返りを何十回と連続で行なったり空中高く跳び上ったり、またはアニメや劇に出て来る忍者がよくやるような木から木へと飛び移ったり、素早く建物の屋根に飛び乗り屋根伝いに目も止まらぬ速さで走り抜けたり、連棟になった廃屋を軽々とハードルを跳ぶように跳び越えて行ったりと、傍目に信じられないことを軽々とやっていたのだった。

 それを最初見たとき、男が直ぐに感じたことは、二人共運動神経が凄く良いな、ということぐらいだった。だがしかし、冷静に頭の中で検証すると、空中で宙返りを連続十回以上するなんて超一流のスポーツ選手でもできない。トランポリンの器具を使わないで三十フィート以上垂直跳びができるなんて普通では考えられない。何も道具を使わないで木から木へと飛び移って行くのはどうみても不可能だ。等々と数々の疑問が湧いてきたのだった。

 またそれ以外にも、例えば、空手家が良くやるパーフォーマンスのようなもの、ブロック塀を拳で突いて破壊して行く行為や、ピアノ線などのトリック一切無しでアクション映画ばりにぴょんぴょんと跳びはねながらチャンバラやカンフーの演武を二人で見事に演じていたのを、男は見て知っていたのだった。

 そのことについて、後になってから当人達に確認したところ、「廃屋の建物や林道でやっていたのは、あれはビルからビルへ飛び移ったり、塀を飛び越えたり、壁を垂直に登ったりと目の前のあらゆる障害をパーフォーマンスを交えながら駆け抜けて行くパルクールという名のスポーツの真似事をやっていただけです。空手やカンフーやチャンバラを二人でやっていたのは、テレビで見て面白そうだからやって見たくなってやっただけです」と答えたのだった。

 そして、どうしてあのような超人的なことができるのか、と話の核心に入ったときだった。二人が揃って重い口を開いて語った話は、――ずっと前のこと。二人で生傷を見せ合いながら、怪我をしてもお金が要るから医者にもいけないし、薬も高くて買えないから自然に治るまで待つしかないとぼやいていたとき、それを聞いていたのか知らないが例の生き物が近付いてきて、みんなに内緒だと言いながら、「これを食べれば怪我がし難くなるだろう」と言って、ポテトチップみたいな白い固まりをくれたこと。それで、それを食べてみたら本当に体が頑丈になって怪我をし難くなったこと。またそれと共に不思議な能力が備わって今のようなことができるようになった。――というものだった。

 それを聞いたとき、「こいつめ、普段からこの世界に影響を及ぼすことは何もしないと言っていた筈なのに、あれは嘘だったのか」と男は生き物へ嫉妬に似た憤りを覚えた。だが、よくよく二人のことを考えて見ると、二人は揃って、将来何になりたいかの夢も持っておらず、短絡的に生きているように思え、おまけに臆病な性格から大それたことができないことは火を見るより明らかだと納得して、「あいつめ、この世界に影響を及ぼす要因には二人は箸にも棒にもひっかからないと考えて、そのようなものを与えたというわけか」と複雑な思いでそのまま受け入れていたのだった。


 目を瞬かせ記憶を辿り終えた男は、けだるそうに溜息をつくと言った。


「なあ、セキカ。この案はどうだろう! ダメかな?」


「何だ? ダイス」


 男の声で再び歩みを止めさせられた生き物は、今度は男の方に向き直り、彼を不思議そうな表情でじろっと見上げると言った。「まだあるのか」


「ああ。そうだ」冷たい感じがする落ち着いた声に男は再び目を瞬かせた。「あのな、お前。いつだったかジスとレソーの二人に、怪我防止になるからと不思議な薬のようなものをやったろう。あいつ等、それを食べて本当に頑丈な体になったみたいなんだが、それ以外にも超人的な力を身につけたらしいんだ。一体あの薬みたいなのは何だったんだ? 悪いが教えてくれないか。ああ、そうそう。今さら隠しても無駄だ。二人から確認済みだからな」


 生き物は少し首を捻り、「そうか」と受け流した。「聞いたのか?」


「ああ」


 生き物があっさりと認めたので、男はにやりと笑い掛けた。


「そうか。あれは、そう私の体から出た目ヤニと耳垢と排便だ。それらをこれも私の尿で混ぜ合わせて固めたものだ」


「え、何だって!? そんなもので超人みたいな体になれるのか?」


「私を一体誰だと思っている」


 生き物の低く澄んだ声に、一抱えぐらいしかない生き物の小さな身体が一瞬、大きくなったように思えた。


「ああ、そうか」


 生き物の正体を思い出した男は、今直ぐにでもヒューと口笛を吹きたいところだった。そう言えば、こいつはネコの姿をしてはいるが神様の端くれだったんだっけな。


「それで何をするつもりだ」


「二人にやったんだから俺も欲しいと思ってな。だめかな?」


 そう尋ねながら、男はまずかったかなと頭をかいた。我ながら大人気ないことを言ったものだと思っていたからだった。


「あれを何に使うつもりだ」


「あ、いや。ちょっとな」


 男は苦笑いを浮かべた。ほぼそのとき、新緑色の眼を生き物がちらっと光らせた。


「ダメだな。お前では」


「え、どうしてだ?」


「説明してやろう」生き物の顔が苦笑したように見えた。「あの物質は若い体組織でないと継続して体内に留め置きできないのだ。そういう意味から言うとお前は年をとり過ぎている。そして、これが最たる理由なのだが、二人は天界が所有する宝物を偶然にも使い道も分からぬまま手にしていたのだ。誰かが何かの意図を持ってこの世界へ運んできたのか、若しくはこちらの方が私は確率が高いと思うのだが、天界で何らかの不慮の事故が起こりこの世界へ全く偶然に運ばれて来たのだろうと考えられるのだが。ま、ともかく宝物の保管者を無防備な状態にしておくわけにもいかず、二人にはそのような緒事情で簡単な能力を身につけて貰うことにしたのだ。従ってあの二人は例外だ」


「それはほんとか?」男は一瞬呆気にとられた。


 だが直ぐに、こいつは家に居ついて以来十数年間、どのような目的でこの世界へやってきたかについてだって、幾ら聞いても一言も明かさない。そんな口の堅い奴が、そう易々と天界の宝物のことなど公然とばらすだろうか。いや、それは絶対ない。おそらく、話しても構わない、取る足りないことなのだろう。

 それに、あの二人が宝物を持っていることだって怪しいもんだ。どうせ大方、それは災いや病気をもたらすろくでもないもので。それをこいつがこの世界で偶然見つけて。神の端くれらしく、どうにかしなければならないとの義務が自動的に働いて確保したのは良いが、それを入れて置く物に困って。最後に身近なもので間に合わせようとして二人を選んだだけなんだろう。

 そう簡単に結論づけると言った。「あいつ等、まだそんなことも隠していたのか」


「いいや、そういうわけではない。自慢気に口外して回られては困るのでな、私が少し暗示を与えて、頭の中に浮かぶのだが言葉で表現できないようにしてあるのだ。たぶん、話そうとすると言葉が見つからずにおっくうで仕方がない筈だ」


「はあ。そういうことか」男はほんの少し考えると言った。「それじゃあな、俺の方は諦めるとしてだな。あいつ等二人のことだが、あいつ等の力を借りて追い駆けっこみたいなことをさせてみようと思うんだが。なーに、一方的に逃げるだけだ。他は何もしない。どうだろう、できそうかな?」


「その話か」男を見つめていた生き物が、ふんと鼻先でちょっと小馬鹿にしたように見えた。「先程お前が見ていた中で一番興味を示して見ていたあれのことだな」


「ああ、そうだ。どうだろう。ダメかな?」


「……」


 生き物が首を横に捻る動作をしたように見えた。それで、あの様子ではたぶん却下だろうなと、男が思ったときだった。生き物の口から返ってきた答えは意外なものだった。


「姑息な方法で楽をしようと考えるのは良くないが、まあこれぐらいのことなら良い。二人にやらせて見ても面白いだろう。この世界では不思議な技や超人的な身体能力を見せることを商売にしている職業もあるのだからな。それから言えば、二人が尋常でない能力を外で示しても、さして問題はないかと思っている」


「本当か? 良いんだな」男が聞き返した。


「ああ。無理に隠し続けるのは百害あって一利無しというからな。何れどこからかばれるのは明白だと思っていたのでな。お前が見たと言う二人の行動は私が黙認していたものだったのだ」


「そうか、良いんだな」


 確認をとった男は、あいつ等にガス抜きをさせるつもりなんだなと、理解して安堵の表情でにっこりした。


「お前だって一緒に見ていたわけだから大体は分かっていると思うが、実はあの二人に出場して貰おうと思っているのは、映画俳優の裏方、スタントマンのオーディションなんだ。

 あ、そうそう。たぶん知ってると思うがこの世界には映画といって人が別人になりきって芝居を演じる娯楽があってな、その中で演じ手の俳優の身代わりとなって、例えば高い崖やビルから飛び下りたり車や飛行機を使った演技でわざと危ない運転をして、見ている人をハラハラさせる専門の職業の人達がいるんだ。で、そんな人達をスタントマンと呼んでいるんだ。

 そのスタントマンなる仕事なんだが高収入であるが故に当然として危険が伴う。一旦事故って怪我をすると復帰するまで長く入院したり最悪の場合は一生働けない体になったり死んだりする場合もあるんだ。

 そこでだな、あいつ等にそんな危険なスタントが果たして務まるかどうか聞きたいんだ」


 生き物が無表情で軽く頷いた。男はその様子を見ながら続けた。


「俺が考えるに、予め向こうの現場に工場の建屋だとか廃墟の町のオープンセットが組んであって、そこにはもちろん本物に似せた偽物だが銃やロケットランチャーを持った大勢のチョイ役の俳優が隠れ潜んでいるという設定だ。その中へ主演の俳優の身代わりとなったスタントマンが現れて一戦交えるという筋書きのようなんだが、ただ向こうは大勢だし募集内容から云っても抵抗するより逃げ回るのがどうも本線だと思うんだ。さらに現場には地雷や時限爆弾と云ったトラップが多数仕掛けられているのは間違いない。しかもこれは迫力を出す為に本物を使っている公算が大きい。一つ間違えると大怪我間違い無しなんだ。後もう一つ付け加えると、チョイ役の俳優が持った銃に入った弾なんだが、本物の鉛の弾じゃないはずだが、そうは言ったってもまともに当たれば動けなくなるほど痛いと思うんだ。

 そういったことを考え合わせた上で二時間という長丁場を怪我もせずに旨く立ち回れるかが俺には分からなくてな。どうだろう、お前の意見を聞かせてくれないか?」


 男の問いに生き物は無言で少し眼を閉じると、やがて切り出した。


「たぶん大丈夫だろう。私が見たところ、普段から運動を職業にしている人間の運動能力・体力値は、並の平均的な人間と比べて1.1~2.5倍ぐらい優れているようだが、二人の値は能力を得る前と後とではおよそ三倍から四倍の向上が見える。要するに、それだけ他の誰よりも瞬発性・持続性に優れているということだ。従って、対人に関してはそういうことで問題はない。

 あとは、爆弾といったトラップのことだが。私が与えた物質はお前も粗方見て知るように同時に身体の強化もする。仮に高い建物の上から転落しても、壁に叩き付けられたとしても怪我一つ負わないだろう。従って、トラップの爆発に巻き込まれ吹き飛ばされたとしても軽いかすり傷ぐらいの程度で済む筈だ。

 これだけ言っても更に用心をしたいというなら、ここに取っておきの案があるが。どうする」


「ああ、もちろん聞く。教えてくれ。念には念を入れないと心配なんだ。なにせ、あそこの業界は、どこが良いんだか知らないが、映画のことしか頭にない気違いじみた中毒者か、超有名になって一財産築くのだけが目的だけの野心家のいずれかが集ってできているわけなんだが。その中でも一番偉いプロデューサーとナンバー2であるディレクター(監督)という人種は、力関係を背景として、いつも周りから敬う目で見られていることを当たり前のように思っていて、揃いも揃って金と権力と女と名誉に目がない貪欲で横柄な人間ばかりでな。そんな奴等が考えることと言ったら自分達が納得できる映画を作ることで。自分達が素晴らしいと思うものは万人も素晴らしいと感じると勘違いしていやがるんだ。そのため自分達が思い描いた理想の映像を創る為に、余程の大スターでない限りは主演の俳優連中に無理な注文をしてくるんだ。何しろ人によっては、自然現象だろうと常識であろうと思い通りにならなければ普通に腹を立てる者もいるぐらいだからな。そんな奴等だから周りのスタッフに無理難題を押し付けるのはごく当たり前だ。

 そういう訳でな、スタントという仕事は俳優の代役ということで危険と隣り合わせの割に低く見られがちだから、奴等の気性から考えて、トラップから銃弾まで、ひょっとして偽物なんか使わずに全部本物で行こうということになるんじゃないかと思ってな。それで確認して見たわけだ」


 真剣な眼差しを生き物に落としていた男の両方の手はそのとき前にあり、その片方は空気をつかむような仕草を繰り返していた。


「そうか、分かった」と生き物は口を開いた。「その方法とは、私の体毛の先端から出ている油をあの二人の身体に塗ることだ。そうすれば一時的であるが大気を弾くことができるようになる。そのことは外部からの衝撃をその反発力で緩衝、吸収するのみでなく逆に斥力に変えて放出することも可能になる。この方法は既にお前の娘で試してあるから問題なしだ」


「……えっ、なんであいつが!?」


 生き物のその物言いに、あ然となった男が、一瞬顔をしかめた。

 生き物が最後に言及した言葉が気になったからだった。それというのも、彼にはイクと言う名の大きくなった一人娘がいたが二人の社員とちょうど同じ年格好だったのだ。

 かつて会社が繁盛していた頃は、男はどんな補助的な役回りであっても無いよりマシだと、その頃家でぶらぶらしていたその娘を現場に連れて行き有無を言わせず仕事を手伝わせていたのだが、景気が悪くなってからというもの、アシスタント的な仕事に賃金は支払えないとのクライアント側(顧客側)の要請で急に連れて行けなくなり。それ以後、また元のように家で留守番をさせながら本人の勝手気ままにさせているのだった。

 だがしかし当の本人も無職のままぶらぶらしているのが後ろめたいのか、アルバイトに行くとか企業の面接を受けて来ると言って家を開けていることがほとんどだった。

 そうはいっても世間は不景気でそう簡単に仕事を見つけられるはずもなく。男もこれを十分承知しており、毎日どこで何をしているのかさっぱり見当が付いていなかったが、娘には小さいときからセキカが付いてくれているからおかしいことにはならないだろう、とたかをくくっていつも見て見ぬ振りをしていたのだった。


「どういうことだ、セキカ!」


 そう言って目を白黒させた男に、生き物がほんの少し彼を見つめ、「聞きたいか」と問い返してきた。

 うんと素直に男は頷いた。「教えてくれ」


 生き物が分かったと口を切った。


「そう、あれはいつ頃であったか、急に強くなりたい、テレビの中でスーパーヒーローが悪役の超人と繰り広げるような立ち回りが実際にできないかと聞いて来たことがあった。私が何故そのようなことを聞いて来るのかと尋ねると、あいつはすこぶる時間給が良かったのでと、とある警備会社の臨時のアルバイト募集に応募したのだが、そこでは実技面接というのがあって面接官の前で一人一人他人より優れている特技をアピールしなければいけないと言うのだ。だから普通にやったのでは先ず採用はしてくれない、あっと驚くことを見せないといけないと言って好き勝手に自等の考えを並べ立ててきたが、全てを要約すれば、相手側のいかなる防御も一撃で突破できて、更にいかなる攻撃も未然に防ぐ方法がないかというものであった。あのときは本当に虫の良い要求だと思ったのだが、どうしてもとあいつが懇願するもので幾つかの方法を上げてやったら、一番手っ取り早いからといってこの手法を選んだのだ。

 そのイクのたっての希望で試しに手足に塗布してみたところ、非常に興味深い結果がでた。

 ここから十マイル(16キロメートル)程行ったところに廃工場が集まった区域があったであろう。そう、かつて耐熱窯でタイル・レンガ類を製造していた工場や、塔や橋梁や建築用の骨組みを造っていた鉄工所が何棟も建ち並び、その回りを城壁のような鉄条網と高い石塀が取り囲んでいるところだ。

 あそこへ通じる一本道は、確か途中で何重にもフェンスで閉鎖され普段から人影が無いことから大きな音を出そうが気にせずに効果を十二分に調べられると思い当たり、イクを連れ出掛けたのだ。

 すると、あいつめ、現地に着くやさっそく壊れかけた建物に向かって行き、拳の一撃一撃で建物を支えていた木の支柱を真っ二つに粉砕して行くわ、さらには周囲の石壁を次々と貫通して行ったが当の本人は至って痛くも痒くもないという風に平然としていた。足の蹴りも同様だった。そこまではこちらの思惑通りに順調に運んだのだが、あれはどうしても調子に乗り過ぎるきらいがある。

 あのときもそうだった。なーに、軽い程度の怪我だった。手足の皮膚がめくれたりミミズばれになっただけの単なるかすり傷であったのだが、あいつめ、流れ落ちる自分の血を見ただけで熱くなりよって、思い切り死ぬ死ぬと泣きわめくものだから、この私もなだめるのに苦労した。

 原因は、この私の油の防護膜にも限界があったということだ。汗や唾液では容易に落ちないと踏んでいたのだが耐久性が劣っていたらしい。力を集中的に込めて強烈な一撃を連続的に見舞うと、膜の活性が失われ効果が著しく低下するのだ。あのときは一際巨大にそびえて頑丈そうだった、周囲二百フィート(60メートル)、高さ四百五十フィート(135メートル)の鉄と石材で造られた煙突の一つへ一直線に向かって行き、拳と蹴りを連続に見舞うこと五十発を越えたあたりか、煙突の基礎土台が見えたところで事が起こった。

 だがそれまでは全く異常が見られなかったところから、補助的に用いれば十分に威力を発揮することが確かめられ大いに役立ってくれた」


「はあ?」男は呆れた。娘の頼みをいいことに、それを実験台に使った生き物も信じられなかったが、幾ら就職の為だといって、化け物染みた力を得たいと考えた娘は更に信じられなかったのだ。


「ふ~ん。あいつめ、ろくでもないことを考え付いたもんだ」


 そう呟いた男に、「続きを聞きたいか」と生き物が尋ねてきた。男は、「ああ」と小さく頷いた。


「それなら話してやろう」相変わらず堅苦しい言い方で生き物が続けた。


「そのことがあった翌日に、あれは上機嫌で外出したのだ。それも背中に大きなリュックを背負ってな。それで私は、おそらく例の目的の所在地へ向うのだろうと考え、あれを尾行して行くことにした。あれはむら気が多いたちだから、途中でついふらふらとなって、騒動を引き起こすとも限らないから満を期したのだ」


「なるほどな。それで……」


「先ずあれが向った先はここから半マイルほど行ったところにあるバス停だ」


「屋根付きで、人が寝ないようにベンチの代わりにコンクリートでできた樽状のイスが五つ置いてある。確か横に小さな公園があったな。あそこか?」


「ああ、そうだ。そこで暫く待って、最初に来たバスは見合わせ、次にやって来た車体が青いバスに乗り込んだのだ」


「そうか、ふ~ん」市外へ向かうバスだな、と男は直感した。「それで」


「およそ一時間ぐらい乗ったか、降りた先はアールシェイピスという名のバスターミナルだった」


「ふ~む。アールシェイピス地区ねえ。ここから三十マイル(およそ50キロメートル)行った……。あの物騒な」


 そんな場所でアルバイト先があるなんてと、いやな予感が彼の脳裏を駆け巡った。

 そもそもアールシェイピスという地区は、ほんの一昔前までは隣接するディオーム、ジーロ、ピエト地区と合わせてこの周辺区域の都心であったところで、各種音楽・芸能・スポーツ全般、政治・時事・報道ニュース、各種趣味・娯楽、宗教、ファッションなどの流行、オークション、テレビショッピング等に特化した情報を伝えるテレビ・ラジオ・雑誌の民間事業者が大中小零細合わせて延べ三百二十数社が軒を連ね、情報発信の拠点として国内で知られた存在だった。

 また、狭い道路が複雑に入り組んだ市街には独特な形状をした寺院、教会、モスク、神殿、会館の建築物や開発の乱発でできた細長い高層ビル群や派手なデザインの広告塔ビルがしこたま建ち、そのテナントに経理・観光・建築といった実務、映画・ファッション・芸能といった芸術を教える各種学校や飲食施設や服飾雑貨の店や遊技場やスポーツジムや各種事業所が入居し、また地面の下に劇場やホテルや大規模な地下駐車場が設けられていたことなどから、そこで暮らす人々や働く人達のみならず、遠くからでも足を運ぶ人々がたえず行き交い常時にぎわいを見せていた。学生や観光客やショッピングを楽しむ人々の間では、その辺り一帯は一番治安が良い都会だと評判であった地区であった。ちなみに、男の会社が得意先を多く持ちお世話になっていた地区でもあった。 

 ところが三年前のこと。アールシェイピス地区の一角から不審火(――――後日。火の回りが早過ぎること、不自然に複数の箇所からほぼ同時に出火していること、火災になる前に爆発があったとする複数の目撃者の発言等から、何者かによる付け火と判断した警察や消防当局は、――占い専門のTVチャンネルで、もうすぐ世紀末が訪れるとうっかり喋ってしまった前世は神官の生まれ代わりと称していた高名な占い師。他の宗教は偽善で悪だといった過激な演説で有名だった宗教指導者とその主張を熱狂的に信じていた信者。表の顔は大使館の外交官であったが実際は破壊活動を専門とする工作員だと判明した人物。仲間を殺されたことを逆恨みして世界中を混乱に陥れると宣言していた過激派テロリストのメンバー等を容疑者としてリストアップしたのだが、なにぶん全て焼けてしまっていて決定的な証拠をつかむことができなかったせいで、結局のところ、容疑者を特定できず。原因の究明にはまだ相当な時間を要すと考えられたのだが、中央から早急に結論を出すように迫られたのかそれとも体面を保つ為なのか、その付近でたむろしていた少年達の火遊びとゴミの自然発火が同時に起こったのが原因であると、至って平凡ともとれる判断を下すと、問題を無難に片付けてしまっていた)が上がるや、またたくまに隣接した他の三つの地区を巻き込み、発生元のアールシェイピス地区を中心に死者・行方不明者六千人、負傷者一万人余り。四つの地区を合わせた面積のおよそ一割が全焼、三割が半焼もしくは一部損焼する大火災が発生して区域一帯の都市機能がほぼ壊滅して以来、様子が一変した。

 火災で被害を受けた企業の相次ぐ倒産や焼け野原や廃墟と化した地区の復興が中々進まないことに業を煮やした企業の移転が次々続くと同時に雇用が著しく減り、周辺は以前のような賑やかな人波が途絶えて人口の空洞化が進んで行き、その入れ替わりかどうか分からないが、焼け残ったり入居者がいなくなったビルや建物にごろつき、不法滞在外国人、やくざ者、住所不定者、不良少年少女と云った社会のはみ出し者というか、曰く付きの人間が多く住みつくようになると、地区はすっかり様変わりして犯罪の溜まり場的な場所と化していたのである。


 あそこの周辺は、……確か政府が打ち出した振興政策の特例のお陰で、空き地や通りを車やテントや簡易の組み立てハウスで不法占拠した不良外国人やヤクザ者が露店を出して賑わっているところだ。確か多国籍の料理の屋台がずらりと並ぶので有名なところでもあったな。

 だが一旦、裏通りや地下道なんかに一人で行くと窃盗や恐喝に遭う危ないところなんだ。それに、あそこで行方不明になったら二度と見つからないというし。殺人事件だって報道されないだけで、実際毎日どこかで起こっていると聞くしな。 そのとき男が持っていたアールシェイピスという地区の印象だった。


 しかし思い直したように、以前はほんとうに良いところだったんだけどな、と過去の街の印象を頭の中で振り返った時、だしぬけに生き物の声が響いた。


「賑わいを見せていた市中に下り立つと、直ぐにあれは人目を避けるようにしてトイレへ向かったのだ」


「何だ、そりゃ?」男は呆れたような顔を生き物に向けると、「お前なあ……どこまで尾行する気だ。誰だって我慢できなくなったらトイレに駆け込むさ。長い間、バスに乗っていたんだからな。あいつにだってな……」


そう言って娘を変に擁護した男に、「良く聞け、先がある」と彼の声を遮る生き物の言葉が短く響いた。


「中で着替えていたのだ。出て来た姿は頭に深く黒いキャップを被り、顔は黒メガネに白マスク。両手には白手袋を着け背中に背負っていたリュックは肩から下げるカバンに代わっていた」


 生き物の言葉から、面接に行くだけなのに、どうしてそんな手の込んだ変装をする必要があるんだ、と不思議に思った男は矢継ぎ早に尋ねた。


「何でそんな変装を?」


「後で分かる」


「そうか」


「その姿で時折キョロキョロと後ろを振り返る挙動不審の行動を取りながら、人通りの少ない方角へ歩いて行き、やがて尖塔のような形をした高層建築物群に行き当たるとその谷間の道を一直線に抜けて行き、人影が全くない場所まで来ると一旦振り返り、辺りを見渡していたかと思うと、何を思ったのかそこから見えた地下へ通じる建屋を目指して、そのまま下へ向かう階段を下り始めたのだ」


 話を聞きながら、男は渋い表情で立ち尽くしていた。


「その途中、あれは階段の踊り場に立ち止まると、一インチほどの厚みがある紙幣の束らしきものをカバンから取り出し、一枚ずつ数える振りをしながら下り始めたのだ。

 そして下り立った地下の広い構内を、人捜しをしているかのようにジロジロ見ながら一回りし、誰もいない連絡路を歩き始めたときだった。いきなり茶褐色色の服装をした五人の若い男達が靴音を立てながら走ってくると、赤と青と紫の髪をした三人組が回り込むようにしてあれの前に立ち、残りの黄色と黒髪の男が後ろに立ちはだかったのだ。

 だが全てがあれの筋書き通りのようだった。というのも、あれが階段で紙幣を見せて数える振りをしたのは、何者かが階段の下辺りに潜んでいるのを知っていて誘ったらしいのだ。あの行動は誰が見ても不自然だったのでな。

 まあそんなことはどうでも良い。そのうち、あれと後ろにいた黒髪の男が二、三回言葉を交したと思うと、中身はどうみても柔な遊び人だったその男達はあれの敵ではなかった。一瞬で勝負が決していた」


「やはりな。そういうことか」男は呆れて深いため息をついた。わざわざ遠くまで出掛けて行き、そこで変装をして適当にうろついたという話の筋から大体のことは予想していたが、まさか本当に街のチンピラ相手に力を試すとは開いた口が塞がらなかった。


「それでどうなったんだ、セキカ」


 生き物がその後の尻拭いをしてくれたのだろうと、男は見当がついていたが思わず訊いていた。


「即座に五人は、直接拳を当てた訳でなかったのだがコンクリート床に背方向から倒れて頭を打ち卒倒した。あれはそやつ等が動かなくなったのを確認すると、手付きはややもたもたしていたものの、お前の工具箱にあった結束バンド(インシュロックタイ)と同じ物を使い五人をしっかり縛り上げ、口にもそれで猿ぐつわをした」


「ふ~ん。それで」


「そうしておいてから、五人の中でも小柄な黄色の髪をした男の髪を引っぱったり体をつねったりして目を覚まさせると、『お金は持ってないの? 出さないと今度はこれくらいじゃ済まないから』『判った。出すよ、出せば良いんだろう』『他の奴も持ってるの?』『ああ』とか話してから男の服をまさぐって紙幣の束を取り出し、縛り上げていた者達からも同じようにして金品を奪うと、肩に掛けていたカバンに全て放り込み通路の奥へ小走りで走って去って行った」


「何だと!」


 ――路上強盗? ノックアウト強盗?


 思わず浮かんだ答えに、どういうことだと唖然とした男は首を捻り、顔を歪めた。彼の足元が怒りのせいで震えていた。


「それは本当か?」男は声を荒らげた。


「ああ、確かだ。間違いない。その日はそれ一回きりで終ったが、私が知る限り日を空けてもう一度同じ地区で同様なことをやると、別の地区へ移動して三度やった」


「そうすると、会社のアルバイト面接があるからと言ったのは……」


「無論、嘘だろう」


「……あいつめ」


 生き物の冷静な受け答えに興奮気味にそう口にすると男は大きなため息をついた。

 金に困ってやったのだろうが、相手が幾ら街の不良でも、そいつ等から金を奪い取ればれっきとした犯罪だ。そんな考えが脳裏に駆け巡っていた。男は宙をにらんで、「あの馬鹿。何を考えているんだ」とぶつぶつ呟くと、棒立ちのまま落ち着かない様子で表情を硬くし、目の前の生き物を見た。


「そういうことだったのか。いつもならあいつは月末には決まって金欠になって俺のところへアルバイトの相談に来るんだが、この半年ぐらいはちっとも来なかったんだ。たぶんそれでか……。

 それをお前は黙って見ていただけだったのか。どうして二度目からあいつを止めてくれなかったんだ! なあセキカ」


 ほとんど茫然自失といった表情でその声は震えていた。そのような男に生き物は、メノウのような冷たい眼を男の訴えかけるような視線に一瞬合わせると、


「まあ、そう言うな」と、なだめるように言って理由を口にし始めた。


「私はお前以上にあれの性格を知り尽くしているつもりだ。あれは確かに少々意地が悪くて嘘も付く。それに陰険だ。また口と要領が良くない点で損をしている。が、長所も持ち併せている。あれは根が良い人間だ。また意志が強くて曲がったことが嫌いで正直で素直で親切で面倒見が良くて。そのようなあれが仮にでも魔が差したとは考えられない。この私が保証しよう。イクはお前が考えているような悪人ではない」


「だが、あいつは……」


「ああ、分かっている。お前の一本気な気質は十分分かっているつもりだ。だがあれとて善悪の区別がつかぬ子供ではないはずだ。私はそれ以後あれの行動を見て来たが、まだ俗悪物に成り下がった感はなかった。寧ろ満足したような表情だった。私には何か目標か目的があってやっているかのように思えたのだ」


「馬鹿言え! 強盗の目的は金を奪うことだけだ。それ以外には何もない。あいつはただ金を手にして喜んでいたんだ。お前がどうかばおうとやっぱり強盗は強盗だ。犯罪だ。あいつは、人の目が届いてないと思って、好い気になってれっきとした犯罪をやってるんだ。

 セキカ。もしあいつがお前の知らないところでまだやっていたとしたらどうなると思う。ひょっとして人殺しをして金を奪っているかも知れないんだぞ。もしそうだったらどうするつもりだ」


「なあダイスよ」それまで男の言い分を受け流していた生き物が、男の声をかき消すようにいつもの調子でささやいた。


「その点は安心しろ。私の眼を盗んでそのようなことができると思われない。それより、あれに金品を奪われた者達はその後、どうなったか分かるか。どうやら全員が警察に目を付けられていたたちの悪いごろつきだったらしく、全て後ろ手錠をされて連れて行かれたのだ。

 これらのいきさつから見て、そやつ等は被害者などではない。寧ろ加害者側であったということだ。

 お前の言葉を返すようで悪いが、もしあれがそのようなきっかけを警察に与えていなければそやつ等はどうしていたと思う? 誰もが怖がって見て見ぬ振りをし、警察ははっきりした証拠がないため捕えることもできず、終いにそ奴等は調子に乗って卑劣な暴力や恐喝行為のみならず人殺しにまで手を染めていたかも知れない。いや、とうに人殺しを済ませていて、尚も続けていたかも知れないのだ。それをあれが区切りを付けさせたと考えてはどうだろうか?」


「馬鹿な。そんなのは体裁のいい屁理屈じゃないか!」


「まあそう言うな。良く聞いてくれ。私が言いたいのは、所詮、物事はそれぞれの比べる視点でそれがどうにでも変わるということなのだ。

 お前もこれぐらいは知っていると思うが、この世には絶対的な悪もなければ正義も存在しない。そう、何が正しく何が正しくないという表現は悪にも正義にも当てはまらないのだ。

 だがしかし強引にでも悪と正義の違いを説こうとした場合、この世界で言うところの論理的思考法で辿ることは無理なことで通常では経験則思考法が使われる。それから見たとしよう。

 一つ、自己の利益の追求のためだけに行ったものは正義でないということだ。悪の範ちゅうに入るだろう。

 二つ目は、経験的に正当な真実がないにもかかわらず無理やり押し付けたものは正義ではないということだ。

 三つ目は必ずしも多数が正義でないということだ。尚、多数でなくとも一部に片寄るものも正義とはいわない。だが丁度良い配分とは難しいものだ。例えば通常の二倍働き二倍の報酬を受け取る権利を持った者がいたとしよう。彼がごく普通にそれを受け取れば悪も正義も存在しない。貰って当然だからだ。だがその半分以上を無かったものとして他に公平に分け与えたとしよう。そこに正義が生まれる。これは正義が数から質に代わった結果なのだが……」


「分かった、分かった、もう良い」


 生き物の話はまだ続きがあるようだったが、いい加減嫌になった男は話を途中で遮った。

 彼自身の正義とは、誰から見ても正しいこと。または正しいと思ったことを行うことだったが、如何せん、持論を持ち出して生き物と議論をやったところで初めから勝てないことが明らかだったので、これ以上話を長引かせても得策でないと判断したためだった。

 

「明日、久し振りにあいつにも手伝って貰う仕事がある。そのとき確認して見るが、それで良いだろう? セキカ。そこで俺が正しいかお前が正しかったか判断しようじゃないか」


 話の腰を折られてきょとんとする生き物に、落着きを取り戻してそう念を押した男は、「じゃあ決まりだな」と顔をドアの方向へ向けたときだった。下の方から呟きのような声がした。


「その仕事内容は銃弾を避けることだと言ったな?」


 生き物が話題を代えて話し掛けていたのだった。しかし、明日の仕事のことを考えていた男は上の空で応じていた。


「ああ、そうだがそれがどうかしたのか?」


「同じではないが良く似た事例ならあの二人は既に経験している」


 生き物の口から出た意外な言葉に、男はちょっと驚いた声を漏らすと、視線を下に向け再び生き物を覗き込んだ。「えっ、何だって」


「お前は二人の行動を何度か盗み見たと言ったな」


「ああ。言った」男は応えた。


「あの二人の後を付けて行ったそのとき、目玉くらいの鉄の玉で二人がキャッチボールをしているのを見たことがなかったか?」


「いや、知らないな。近くで見たわけじゃないがそんなことをやって遊んでいるのは見たことがなかったな」


「それでは銃声は?」


「それも知らないな」


「そうか、分かった。全く知らないようだな」と生き物は残念そうに言うと、すぐさま不思議そうな顔をした男に、 


「二人がそのような遊びをしている現場にたまたま居合わせなかったからと思うが、ま、そういうことだ。

 尚、先に言って措くが私が勧めたわけではない。二人が言い出したのだ。きっかけは、或るとき、二人が揃ってテレビを見ていたときだ。そのとき出ていた俳優が瞬敏に銃弾を避ける演技をしたのを、二人が、あれは実際にできるのか聞いて来たことがあったのでな、私がつい、やろうと思えばできると答えたのが始まりなのだ。

 そのような話の成り行きで、それができるようになるためには、最初に小さな物体の軌道をしっかり捉えながらとっさの判断で動く物体をつかむ必要があると説いて、かなり重みのある目玉くらいの大きさの球体を十個ほど準備する必要があると言ってやったのだ。すると二人はかなり本気だったらしくその日の内に品物を持ってきたので教えない訳にいかなくなってな。手でつかむちょっとした工夫を教えてやったのだ。どうせ暇に任せての思いつきのことだから直ぐ飽きるだろうと考えてな。ところがそう思っていたのが裏目に出て、数日後、できるようになったからとさらにその上を聞いてきたものだから、次は本来の目的である銃から撃ち出された弾をつかむ練習をさせたという次第だ。つかむことができるなら避けることも同じようにできるようになるというのが理屈でな」


「ふ~ん」と男は無表情の顔で頷いた。これは益々使えるという確信を抱いた半面、練習に使った銃をどのようにして手に入れたのかを考えると億劫になったからだった。

 それはなぜかというと、二人で金を出し合って買ったというのなら、先ず銃の登録証明と三人の身元保証人。所有者の住所と勤め先、あとは勤め先の代表者の署名と登録料が要る筈で。きっとこっちにも一度は相談して来る筈だと思ったがそれがなかったことから正規なルートで購入したとは思われず。それよりもちょっとした遊びのために最低千ドルはする銃を購入したかの疑問の方が強かった。

 そう言った理由でたぶん購入はしていない筈だから、友人から借りたのかとも考えたが、二人にそんな親しい友人がいたとはこれっぽっちも聞いたことがなかったし。偶然拾ったということはほとんど現実味の無いことに思えたし。それらを考え合わせて見出した答えは、二人の家族が前持って持っていたのを無断で持ち出し使ったか、自分の知らないところで娘と同様なことをして悪い連中から奪い取ったか、或いはそれ以外の人々のものを盗んで手に入れたかのどれかということだった。


「そうか」男はほんの少し考えたかと思うと言った。「ところでその銃は誰の持ち物だったんだ?」


「イクだ。あれが確か、良いものがあると言って家から持ってきたのだ」


「あいつか。なるほどな」


 生き物の一言で思っていたことが見事覆されほっとしたが、またもや娘が関わっていたことに、男は内心で怒りをかみ殺した。路上強盗は相手から金品だけを奪い取るだけでなく、ついでに銃やナイフみたいな物も戦利品として取っていても別におかしくなかったからだった。


「じゃあ銃は今どこにある?」


「ジスが保管している筈だ」


「それなら弾はどうした? 銃は全弾装填したって六発程度だし直ぐに使い切ってしまった筈。予備の弾も持ってきたのか?」


「それはどうか分からないが、弾もあれが、銃が入ったケースと別に専用の金属の箱で、16×5で一包みになったのが三つ、総数で二百四十発持って来ていた」


「……何でまたあいつが。二人に頼まれたのか?」


「いいや。たまたまそこに居合わせ、何か思い当たったのかポンと手を叩いて良い物があると言って家に戻って持って来たのだ」


「そうか」


 ほんの少し、男は無言で立ち尽くした。

 そのとき、強盗したついでに弾もかっ払って来たのかという思いと共に、銃のケース、弾が入った金属の箱という手掛かりから男にはもう一つの気掛かりが頭をよぎっていたのだった。

 まさか、あいつめ。あれを持って来たんじゃないだろうな。


 彼はひょっとしたらと疑心暗鬼で尋ねてみた。


「ちょっと聞くが、そのとき練習に使った銃というのは銃身が長目のリボルバーで、弾の装填数が五発で。全体が銅色に輝いていて、鮮やかな幾何学模様のデザインが彫り込んである奴じゃなかったのか?

 あ、そうそうグリップの部分だけは確か黒だったみたいな。それに弾にも特徴があって、一つ一つに赤いペイントで虫みたいな絵が描いていなかったか?」


 そう言うと男は複雑な笑みを見せた。まさかな。でもな……。

 

 拳銃の色がシルバーや真ちゅう色や黒っぽいものならどこにでもあるが銅色というのは比較的珍しいし、更に全体に幾何学模様が描かれてあるのはもっと珍しい。弾も絵柄入りのものは滅多にない。二人が使った銃と弾丸というのがこれらに適合していなければ良いのだが、と男は思っていた。


 今から三年と少し前。丁度、景気の先行きがおかしくなりかけた頃。一時期であるが仕事の報酬を物品で支払うというバーター取引(物々交換)が流行ったことがあった。それまで文房具や陶器やイスやテーブルと云った日用雑貨、人形やおもちゃや本と云った娯楽品、果ては自然の中にタダで落ちている流木や石に至るまで幅広く、投資の対象というより趣味の領域で高い価格を設定して取引をしていた好事家・マニア・コレクターといった人達の間に、投資の失敗や突然資金繰りが悪化したことによる窮状から急にそれらを所有することに興醒めた人達が出始めると、彼等はそれまで収集していた物品を金品に変えたり労働の代金として世間一般へ放出し始めたのである。

 一方、これに対し交換する側は、当時はまだ世の中全体にマネーゲームの余韻が色濃く残り現金への執着が薄かったことや彼等が手放した中にはかなりの掘り出し物も多々あった為、ごく普通にビジネスとして成り立つと考えて容認していたのである。

 そういった訳で、男も御多分に漏れず、重機を使い三人がかりで十二日間かけて古い建物を解体する作業を行った代金、およそ一万四千ドルを、さる有名なギャングが愛用していたとされる拳銃と銃弾一式に交換して受け取っていたのである。


 そういった男の心配をよそに、生き物の応えは彼を失望させるものだった。


「そう言えば色目と柄はその通りだ。弾丸にも赤い色で昆虫のムカデのような絵柄が描かれてあったな」


 そう聞いたとき、急にげっそりとなった男の視線は知らず知らずの間にぼんやりと部屋の一点を彷徨っていた。

 銃と銃弾は美術品なのだから、要するに未使用であってこそ価値があるんだ。それを普通に使ってはなあー。イクの奴、キッチンの食器棚の奥に隠してあったのをやっぱり知っていたんだな。あのお調子者め……。なぜ持って行ったんだ。

 くそー。あの二人も同罪だ。あの銃は高価な品だと知っていたくせに、それを使うなんてな……。今売ればもっとする筈なのに。これで一万四千ドルが消えたな。嗚呼、終わったな。


 三人の男女の顔を思い浮かべながら呆然と男が立ち尽くしていたとき、不意に下方から冷静な声が響いた。


「どうかしたのか?」


 慌てて視線を戻すと、五フィートほどの先に正面を向いてこちらを見つめている薄紫色をしたネコがいた。そしてその表情はどことなく無表情だった。


「いや別に。何でもない。それだったらいいんだ」


 我に返った男はぐっと言葉を呑み込むと、小さく頷いて応えた。

 しかし、その内心は呆れ果ててものが言えないと云った心境だった。だがもうそろそろこのくらいで終わりにしないといつまで経っても終わらないと、もやもやとしたそのような感情を心にしまうと、


「さてと……」


 そう切り出した男は、肩が凝っていたかのように首を左右に曲げたり回す仕草をした。そしてそのついでにデスクの上の置き時計の文字盤をチラ見して、いつもなら十一時で切り上げるのだが今夜は予定より三十分以上長く留まっていたことを確認した。男は明日のこともあるからなと自分に言い聞かせると、生き物の方へメガネの奥の落ちくぼんだ目を向けた。


「今日はこれぐらいにして。さあいこうか」


 力のない声でそう言って生き物を促すと揃って部屋を後にした。二人が出て行った後、誰もいなくなった部屋は、ほどなくして灯りが落ちていた。

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