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そうして“彼女”――
その手にはハードカバーの本が一冊。
白紙の
噂話の進行譚。
【道路の上から見ても一面の海。けれど“根崩れ”の名前に相応しく、その抉れた崖の下には秘境めいた居住区があって。】
【調べたところきちんと郵便番号も割り振られていて、新聞どころか牛乳配達も来るらしい】
ところで。語り手として噂話を語る彼女はこの店の名前の由来を、今の所知らないし、暫定的に彼女の中での呼称――『AホールとBホール』――も、過ちである。
マスターやヤマイ、そして両手首が無いと噂されるピアニストからしてみれば、この二分化された客席の呼称は。
『舞台と客席』。
そういう風に、きちんと認識が共通していた。
無論、どちらが『舞台』で『客席』かなど、彼らには考えるまでもなく。
【時代に遅れ気味ではあるけれど、取り残されたというほどでもないこの漁村は少し不思議。曰く――】
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「星は天空に――ではなく。眼下に広がるモノである……そんなことを村人みんなが、口を揃えて言うんです」
「……どうしてでしょうね」
ハードカバーを閉じる。
自分の語りはここまでだ。噂話の蒐集が趣味だけど、自分は真相に辿り着く探偵じゃないし。喉渇いたし。
「ってもうこんな時間!?」
擬似的に森の中を再現した店内。それだけでもアリスが迷うこと請合いなのにこの店、時計が置いていない。時間の把握はまさに空。
自分とヤマイさんが座る鏡の椅子は、そろそろ藍色を通り越して星とかアクセりそうな塩梅だ。
「マスター、ご馳走様!」
「はい、今日もありがとう。680円です」
「ぬ?」
……ケーキセットが500円(良心的過ぎて高校生の自分は嬉しい)だけどもう一個タルト食べたのに。追加分が180円とはこれ如何に。
「今日も、ありがとう」
重ねて言うマスター。
「……ぬぅ」
タルトの糖分もさることながら、だいぶ甘やかされているらしい。
「はい。お駄賃だと思っておきます。精進します!」
と700円を渡してお釣りを20円貰う。
「ヤマイさんもまた今度」
「あいよ、お疲れ」
「あ、白本さん」
ドアを開けるタイミングでマスターから声がかかる。
「はいー?」
「看板ひっくり返しておいて。いってらっしゃい」
「了解しました。いってきます」
ルールその1の、ころころ変わる店の挨拶は、入退店でワンセットなのだ。
ガラスのドアから外に出ると、野薔薇のアーチが洞窟の入り口に見えるくらい外はもう暗かった。
【OPEN】の看板をひっくり返して【CLOSE】に。
アーチを抜けるまでに不安はない。
足元にはアンティークな雰囲気を壊すことなく、キャンドルライトが出口まで続く。
――まぁ。マスターは雰囲気を壊さなかったのに、かつてそれを壊したのは自分なのだ。
一見さんからそこそこランクアップした頃、日が落ちる頃には灯っているこのキャンドルが不思議で、マスターに訊いてしまったのだ。
「マスター、外に出てないですよね」
なのにどうして、と。
『本物のキャンドルじゃなくて、明暗で自動点灯する電気キャンドルだからね』
さもありなん。時は二十一世紀。
文明は発達していて、不思議の真相などはどうして味気ない。
根崩海岸の『眼下に広がる星空』の真相も、きちんと理由があるのだろう。
自分はそれを知ることはないけれど、オチはヤマイさんに任せるとして。
「――――?」
どうしてヤマイさんがオチ担当だと思った、自分。
「ま、いっか」
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