三輪目

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 帰宅した私を出迎えた、浴衣姿に懐手の伯父の口から飛び出したのは

「おかえり」

 ではなく、

「おつとめご苦労様」

 でもなかった。

「なんじゃあキーちゃん、腎虚の難にでもうたような面相をしとるぞ」

 葛飾区の片隅にある自宅に帰った私は、まさに這うようにずるずると上り口に身体を引きずり上げ、烏帽子も脱がずにグッタリと伸びる。

 仕事を終えてタクシーを呼び戻すまではまだ良かった。霊力・体力の消費はそこそこ、リスクの高い仕事としては無難に済ませた自分を褒めてさえいた。

 さすが父の跡目を継ぐ私。にわか霊能者なんかメじゃない、プロ陰陽師だよーん…と自負していたのである。

 狩衣の襟足、首の後ろあたり。ちょうど上半身の気が外部と交流する部分に違和感を感じるまでは。

 それからしだいに首から肩、肩から腰へと伝い落ちるように身体が重くなっていき、商店街入口で降ろしてもらうつもりが、家の玄関ギリギリまで乗せていってもらうハメになったのだ。

 そんなつもりはなかったけれど、油断した隙があったのか、あの祟り神に精気をごっそり抜かれてしまっていたようだ。

 強力な負の霊力は意識下でこちらの気を摩耗させる。そして大抵そういう場合はあとからそのことに気づく。

 そう、この有様がまさにそれ。

 それにしても言うに事欠いて腎虚とは。まあ確かに東洋思想では男女関係なしに生気(精)を喪失させる行為ではあるのだけれど。言いたくはないが、私はまだ処女だぞ。

「あんたじゃ…あるまいし…祓えのあとにエッチとかそんなことするか…」

 言われた僧都はべしりと額を叩く。

「言うてもキーちゃんには彼氏とかおらんかったなぁ、わっひゃっひゃ!こりゃ失敬失敬」

 普段から女色に溺れながら、どんなに精力を発散したところで腎虚とは縁がなさそうな伯父は、髭がまだらに伸び始めた顎周りを撫ぜながら下卑た笑みを浮かべている。

 いつもならここで1発殴ってやるところだが不甲斐なくもそれができない。

「それにしてもその精気の枯れ具合…ほほん、時間差でやられたか。相当凶悪な怨霊じゃったみたいじゃのう。待っとれ、神棚のお神酒取ってきてやる」

 私は伯父が奥の部屋から持ってきた徳利に拍手を打ち、厳かに口にする。

 まろやかな液体が喉を通っていくごとに、丹田のあたりから新たな力が湧いてくるのが分かった。

 アルコールを摂って血流を増加させて活性化しているわけではない。容れ物も中身も市販のもの、どこだかの名のある器とか銘酒というわけでもない。

 神棚に供えることで神気を帯びたお神酒だからこその、この効果だ。

 私はスイスイと徳利を傾け、二本がた空にして、口を拭い立ち上がる。ふらつきもないし悪心もしない。胃袋ごとひっくり返るような嘔吐感も。陽の気はすっかり元通りに…とは言わないまでも充分に補填できたようだ。

「それにしても、キーちゃんが腰抜かすまで気力を奪われるとか初めてじゃな。どんな相手じゃったんじゃ?その、風呂敷包みに入っとるのは」

「…とんでもない誤情報。仲介のミスだ。怨霊どころか祟り神だったよ」

「祟り神ぃ?」

 私は原因であるそれを睨みつけながら祓い仕事の顛末を細大漏らさず話した。

「ほほう、もとが盗品なら、さしずめ大社か歴史あるやしろで奉られとったもんじゃろなあ。警察沙汰も面倒じゃが…あの仲介、そんなに障りの激しいものの祓えをウチみたいな零細拝み屋に気軽に依頼してくるとはなぁ。きちんと下調べしなかったんじゃろうか」

「うん。ちゃんとクレーム入れて、こっちからきつく言っとかないと。本来なら格の高い神社かお寺で封印されてないとおかしい代物だよ。今回に限った話じゃなく、こんなケースが続けば同業者にも迷惑がかかるからな。あんなレベルの相手、もしあんたのオフダが無かったら私だって歯が立たなかった。他のナマクラな拝み屋なんかなら一捻ひとひねりさ」

 そう、もし伯父の札がなかったなら…と想像するだに怖気おぞけがする。もしに殺されていたら私自身の魂もまた呪いの輪の中に取り込まれ、永久にあの人頭お手玉の一つになっていたかもしれないのだ。

 伯父は手提げ型に結んだ風呂敷を手首に引っ掛け、肩のところまで持ち上げてつらつらと眺める。

「ほぅん、持ってった中で最もつよい地蔵菩薩の札で結び封じたのか。すると負担割合は…」

「わかってるよ、7対3であんたに渡しとく、今な」

 封筒から紙幣の束を出し、指先で弾いてカウントし終えてからその通りの枚数を手渡した。

 毎回必ず7枚用意する札のうちその効力の強さに乗じて報酬を相手に支払うことにしている。これは祓い仕事を始めたときからの、私と伯父の取り決めだ。

 札の霊力の効き目に応じて七段階に分けてある。7対3ということは、取り分は私が3割で、伯父が7割になるということ。最高の支払いだ。

「うむ、確かに受け取った」

 指を舐めてから札束を数える叔父の癖。これを見てから私はお金を触ったあとには必ず手を洗うことにしている。我が家の生活費として私に毎月渡される紙幣のうち、どれかにはこの生臭な僧都の唾液がべっとり付着しているのだろう。

「それにしても疲れたよ。亮介が来る前にみそぎも兼ねてシャワー浴びとこっかな」

 首肩の関節を回して鳴らしながらバスルームに向かおうとすると、ちょいすまん、と呼び止められた。

「なに?あそうそう、頼んでた買い物はやってくれた?」

「それもそうなんじゃがの、そのな、ちっとな…」

「また余計なもんでも買ったのか?しょうがないなアンタはもー」

 珍しく言うのを躊躇っている伯父を置き去りに脱衣所の戸を引き開け、私はさっさと狩衣を脱ぎ捨てる。一応藤網細工の洗濯カゴの中に簡略に畳んでおくぐらいは、せめてもの女のたしなみだ。

「あーだから、キーちゃん、そっちはな」

「もーなんだっての、こっちは早くサッパリしたいんだって」

「Oh my gosh」

「は?なに変なこと言って…」

 我が家の風呂周りの造りは懐かしの昭和の雰囲気を漂わせるものだ。年代物の丈夫な洗濯機、木製の小棚にサトウキビのスツール、そして毛糸のような毛足の太短いバスマット。

 そのバスマットの上におかしなものがある。無いはずのもの。いや見たことはある。だがそれは家の外での話だ。

 何で我が家の脱衣所にカウボーイの履くような編みブーツがあるんだ?

「I'm too rude cute doll,so apologize to you」

 よく響く低めのテノール。その声に釣り上げられるように私は顔を上げた。

 カウボーイスタイルをした金髪碧眼の筋肉男が、そこにいた。

「……………は?」

 我が家の脱衣所にブーツのまま突っ立っているカウボーイ。そこから先は聞き取れない速さの米語を喚きながら、産毛もうもう、そばかすだらけの顔を赤らめ、血管の浮いたグローブみたいな両の掌をこちらにヒラヒラしながら申し訳程度に視線をそらしている。

 私の頭の中のCPUが感情処理を停止し、現状の把握のために最大限働く。

 カメラワーク①まさにスポーツブラに指をかけて頭の上の方に抜こうとしている私のバストアップ

 カメラワーク②困り顔でも爽やかに白い歯並びを見せている南部風のアメリカ人

 カメラワーク③以上の2人を脱衣所の天井の隅から俯瞰で。立ちこめる緊張感。

 以上の三つの視点を客観的に鑑みて、ようやく神経回路の速度が追いついてきた。

「えーと、なるほど」

 私はゆっくり息を吸い込んで、酸素を濾し取った残りを静かに肺から押し出した。

「うん、うん」

 私が頷くと、それに合わせてカウボーイも「ウン?ウン?」と首を上下させる。

「ふぅー…。ちょっと伯父様。よろしいかしら?」

 返答は?無しか。

「おいジジイ。否、クソ坊主!!」

「はいじゃっ」

 引き戸のすぐ向こうからバツの悪そうな声。ずっとそこにいたのか、おい。

「こいつはなんだ?」

「えーと、どこのどなたさんのことでぇ…」

「全身カウボーイルックのゴツメン外国人のことに決まってるだろさっさと答えろアンタのきったない持ち物ぎ殺すぞ」

「ひっ、ワシのお股の金剛杖のことは忘れてくれ!あ、あー、そのひとじゃな!うん、東電の業者さんじゃ。今度、ウチんとこもあれじゃ、エコキュートにしようかなーと思っての、それで風呂の配電の具合とか見てもらっとるんじゃ。なんてったって古いからのうこの家は」

「へぇ?さっきからこちら様、英語しか喋っておられませんが?」

「帰国子女なんじゃなー、日本語がまだ不得意らしくての。あー、えーと、名前は山本太郎さん」

 雑な言い訳に私の頚椎がコツンと鳴いて震える。

「こんな顔の濃い日本人がいるかぁ!!」

 叫ぶなり私は脱衣所を飛び出して伯父の左耳を掴んでねじりあげる。

 ちなみに、狩衣の下にはミズノのスパッツとシャツを着込んでいた。だから一部の読者の想像たくましいところ申し訳ないが、素っ裸ではなくスポーツインストラクターのような格好で、である。

「ひでででひでで、もげるもげるもげる!あ、でもお股の方でなくて良かった、ひででででで‼︎」

「なっんっだっ、てっ、こっこっにっ、外・人・が・土・足・でっ、入っ・て・き・て・る・ん・だっ?あぁ!?」

「キーちゃん落ち着くんじゃ!こういう時こそ読経して精神集中!般若心経をめ、般若心経を!!」

「どうしたんだよおじさん、そんなに騒いで」

 廊下の先から、ひょいと顔を出したのは亮介。そのいつものように人懐こい顔に刺激され、すっかり血のたぎった私の脳裏に今朝方の光景が蘇る。

 この気の置けない幼馴染と一緒にいたカウボーイハットのアメリカ人。あれは…

 バッと背後を振り返る。

 脱衣所にはもう誰もいない。こちらが騒いでいる隙に背後を通り抜けたんだ。

「あれキー坊じゃん、お帰りー。ナイスタイミング、いまおじさんの部屋とこ終わったとこだからさ、次はキー坊の部屋の方やっちまってもいいかな…ってすごい格好だね。どしたの」

 亮介には私の下着姿など保育園児の頃から見慣れたものだから、あちらもこちらも顔色を変えたりはしない。が、そこは一応のマナーで私は腕組みをして自然に胸元を隠す。

「…そうか、亮介のサークルの…」

 あからさまに仕方ないな、という私のため息と肩落としに、亮介の方が少し狼狽する。

「え何だろ、俺っちなんかがっかりされるような悪いことした?キー坊も、いくら俺っちでも勝手に部屋に入られんの嫌だろなって思って後回しにしたのがまずかったのかな?あ、手土産にはイチゴだけじゃなくておふくろ手製の杏仁豆腐もあるんだけど?」

「…いやそーゆーことじゃなくってね…いいから、こっちきて」

 困惑する亮介を居間へ引っ張っていく。

 亮介のすることに文句はない。むしろ感謝さえしている。

 あの外人も、亮介が大学で身を入れている例の国際交流サークルの関係でくっついてきたんだろう。それならしょうがない。多少の無礼もハプニングも、亮介の顔を立てて甘んじよう。こちらの常識や礼節など分からないことだらけの外国人に過剰に反応するのは、かえって失礼というものだ。

 それよりも、私が制裁するべきは…

 ひっそりこそこそ、そんな擬音を立てつつ這うようにして視界から逃走を図っている僧都のほうに私は憎しみの眼を向けた。

「どこに行くんだ、オイ!ジジイこんちくしょう!」

「はひぃっ」

 伯父は鼻水を漏らしながらカサカサと廊下を戻ってきて、私の後ろにお愛想を浮かべて正座する。

「なんであの外人が脱衣所にいるんだよ。弁明してみろ」

「それがようわからんのよ。亮介くんの国際何ちゃらサークルとかの異文化交流かと思ったんじゃが、亮介くんは修理で忙しそうじゃし経緯を訊こうにもこっちゃ英語なんか話せんからのう。ヘローとディスイズアペンパイナッポーぐらいじゃ。じゃからキーちゃんを待っとったのよ」

 と、とってつけたような言い逃れをしては、あ〜助かったと太鼓腹をなぜている。

「私だって高校英語ぐらいしか分かんないんだから!亮介に通訳を頼めば…っておい」

 私は伯父の襟ぐりを手繰り寄せた。プンと鼻をつくのはまごうかたなき芋焼酎の香り。

「て、め、え、一杯ひっかけやがったな!」

「いやんそんなご無体なぁ」

「ぶさけんな!私が働いて帰ってきたのにこれかよ⁉︎」

「じゃって不安じゃったんじゃもん寂しかったんじゃもん」

「もん、じゃない!頼りないにもほどがあるだろ‼︎」

「あのー、キー坊、ちょっといいかな」

「なに!…あゴメン亮介、なに?」

 昔はそれこそ一緒に風呂に入ったり庭にゴムプールを設置して縁台で着替えたりの付き合いをしたこともあるが、さすがに今では青年と乙女。

 半裸に近い私を慮って、照れ隠しのように頬骨の高いところを搔いている幼馴染。

 そうだ、こっちに質問すれば早かったんじゃないか。そんなことにも気が回らないとは、相当疲れが残っているらしいな。

「さっきから俺っちのサークル活動のことが話に出てくるんだけど、なんのことかな?」

「あー…いやだからさ」

 別にあのアメリカンや亮介が悪いというわけではないんだよな。ただちょっと、いやかなりキツめではあるが、他意はないのだ。タイミングが相応しくないというだけで…

「や、まー、きちんと言ってくれりゃ家の中に入れたって問題はないんだよ。亮介の活動に横槍入れたくないし。邪魔だってしたくないって思ってるよ…ただ、土足はなー…」

 ふと気付いた。廊下の板敷の上は思いのほか綺麗だ。あれだけ泥だらけのブーツなら、もう少し汚れていてもよさそうなものなのに。

「土足ってなんのこと?」

 珍しく察しの悪い幼馴染に、私もつい声が荒くなる。

「あの金髪のいかにもアメリカンな外人のことだよ。亮介の友達でしょ」

「誰のこと?」

「いや、だからさー…」なんなんだろうこの会話の噛み合わなさは。こんなこと滅多にないのにな。「アンタの隣にいる、その、やたらにカウボーイハットの似合う乗馬靴みたいなの履いてるジーンズとジャケットのカントリー系のこと」

 私はちょうど話しているところへやってきた張本人を指で指した。

 亮介がしっかりと、私の示した方、自分の体の右側を見る。

 身振り手振りで話題の中心は自分のことか?と確認するカウボーイ。私が頷くと「Hi☆」などと手を振っている。Hiじゃねっつの。

 亮介はポカンと口を開けていた。

 それから、出すべき言葉を探すようにみぞおちあたりを掻いた。

 一呼吸置いて、にっこりと私を見る。

「ゴメン、キー坊。えーとさ、話が見えないんだ」

 今度は私が一拍置く番だった。

 そして、私はキレた。

「だ、か、ら!こんだけ主張の激しいスタイルの外人がこんな日本の一般家庭に土足で踏み込んできてんのにお前は気にならないわけ?鋼鉄の平常心か!もしかして私をからかってんの⁉︎」

「うん…だから見えないんだよ」

 亮介は、つー、と人差し指を空中に伸ばした。その爪はピンポイントで金髪男の鼻先に触れんばかりだ。なのに亮介の焦点は彼を通り越して、その彼方の廊下の突き当たり、壁のあたりで結ばれている。

「さっきからキーちゃん誰と話してるの?そこにはその、外国の人…がいるのかな?」

 はた、と私は我に返った。

 そういえば脱衣所には姿見があったのに、私はその真ん前で服を脱ぎ始めていたのに、すぐ後ろにいたカウボーイこいつに気がつかなかった…

 亮介が「ここ?あ、こっち?」としきりに迷わせている指先に、金髪男はニコニコと楽しげに右手の人差し指を合わせている。

 カウボーイの後ろには居間の入口がある。そしてそこには、大きな食器棚が置かれてある。

 両親が亡くなったことで住んでいる人数は減ったのに、整理をつけるのが躊躇われるままズルズル手付かずにしてきた。だから食器の数は変わらずそのままにしてある。

 皿や茶碗、漆器に、カトラリーもろもろを収めた食器棚。なんの変哲もないガラスを嵌めた、抽斗もたくさんある戸棚だ。

 私はそれを眺めた。

 で。

 ここまでくれば賢明な読者も、こういった現象には疎いかたにもお分かりかと思うが。

 その戸棚のガラス部分には、私と、困惑している亮介と、

「静かになったのう。落ち着いたかいキーちゃん?」

 と禿頭を皮脂でテカらせながら亀のごとく首を伸び上がらせる伯父の他には、誰も映ってはいなかった。

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