弐輪目
私の家族は壊れてしまった。
父は業界でも目立たず大人しい陰陽師だった。母は父と祓い仕事の際に縁があって結ばれた、霊能など欠片もない、またそういった業界ともなんら関わりのない一般の家庭の人だった。
…と、聞いている。
父と伯父は兄弟でこの界隈で仕事をしており、父が伯父より先に妻帯することも特に影響はなかった。
だのに突然、伯父は出家した。この場合十代の子供がよくする「いえで」ではなく「しゅっけ」、つまり仏門に入ることを意味する。
陰陽道の者と仏門の徒はもとから仲はよろしくない。
陰陽道からすれば現代日本の仏門は哲学から派生し本来の目的を見失った劣化コピーの別物。
仏門からすれば陰陽道は霊術をほしいままにして人心を惑わす神仏混淆かつ大陸の文化までチャンポンに突っ込んだ邪道。
…とまあ、お互い先入観と縄張り意識のもとで相手を遠ざけてきた(これは極端な言い方になるが)。
そこで伯父の出家である。いうなれば歌舞伎役者の家柄の者が梨園を捨てて狂言の家元に勝手に弟子入りしたようなもので、陰湿極まる確執が生まれるのは必然。これが芸能界ではなく霊能界であったのが惜しまれる。文春が真っ先に切り込んできそうなスキャンダルなんだけど。
父の実兄であり壷井家を継ぐべき長男である伯父の出家は、父をして激怒しからしめるに充分だった。以降私が中学二年生になるまで絶縁状態が続いた。
それが解かれたのは───正確にいうと「解消」されたのは、父が失踪したからである。
ある日いつものごとく拝み仕事の依頼だと言って朝に出かけた父は、ふっつりと姿を消した。それきり音信不通、生きているのか死んでいるのかも分からない。
ほどなくして母が亡くなった。心労がたたったのか、買い物に出た道の途中で倒れ、帰らぬ人となった。
勘当それ自体が意味をなくし、私も生きる目的と希望と
そして伯父は帰ってきた。物心つく頃に見送った、バイクにまたがる精悍な青年の面差しは跡形もなく影をひそめ、ジャックブラックにインチキ臭い坊主を
息つく暇もない不幸とそれに重なる奔放な親戚の来襲は、私から悩んだりふさぎ込んだりする時間を奪った。そのおかげだろうか、私はそこそこ明るくそこそこいい加減でそこそこ常識をわきまえたそれなりのペシミストな女子に成長したのだ。
そして就いたのは、資格でも身分でもない、ただ父と同じというだけの『陰陽師』という職業だった。
陰陽道に邁進する者は現代社会にそう多くはいない。居場所がないわけではない。ただ、それにより生きていくには頼りなさすぎるのだ。
個々人の生まれ持った才能の有無、地味な修行に耐える根気、広告宣伝の難しさ。「○○になるには」などと
おそらく陰陽道それ自体が創始された遥か古代には、当事者は考えもしなかったのだろう。
歴史はそれこそ聖徳太子にまでさかのぼる。古く飛鳥の時代には、陰陽博士という役職さえあった。社会制度に組み込まれ、尊敬され、荘園管理者並みの利益が手厚く保証される───いまでいうならさしずめ半世襲制の公務員的生活といったところか。
ところがこの現代である。どこの誰がまともに陰陽師に支払いをしてくれる?そもそも悪鬼や宿縁に悩まされ、それを金銭でどうにかしたいと思う者がどれだけいる?
小学生の教室で「お父さんかお母さんが陰陽師のひとー!?」と募ったところで挙手される確率は限りなくゼロに等しい。遭遇することさえ稀なハリウッドセレブ並みの存在なのである。ハイパークラスでレアなのである。いい意味でなら誇らしいのだが、敷居が高いというか難度が高い存在というか…はぁ………
たまーに夏場の怪談特集でキャーキャーとやかましいSEつきのバラエティで消費される程度の存在にまで堕とされた心霊を、本気で尊ぶ奇特な者がいるのか?という疑問もある。
いたとしても、良識がないか頭が足りないか年齢が若いかのどれかだ。私はそれが悪いと言うつもりなど毛頭ない。これはただの事実だ。
科学体系とは時代により移り変わる。かつては陰陽道は最新にして至高の科学であった。時代が下り他の検証方法が確立され、取って代わられただけのこと。
現代だって、常識は十年一昔だ。例を出してみよう。
コラーゲンが口腔摂取されたところでさして効果は増さず意味がないと検証されるまでは、テレビでもラジオでもネットでもありとあらゆるメディアで美肌効果が謳われていたではないか。あれを迷信として、嘘つき詐欺師人でなしと糾弾した人間を、私は寡聞にして知らない。
長々と述べたが、以上の例からして、陰陽道もただ冷静に感情も期待も交えず淡々と取り組むべきだと私は悟った。仏道とは異なるが、ともかくも自分の職業適性における悟りを得た。高校を卒業するずっと前のことである。
そしてそれが唯一の私の営業スタンスなのだ。
淡々と仕事を請け、淡々とこなす。
それだけだ。それで充分だし、それ以上を求めてはならない。身を慎み、己の霊能を磨く。陰陽の術を披露して、派手な注目など集めなくていい。
子供の頃から滑稽に思ってきた霊能者のフリをしたタレントや、魔法陣をふわふわ宙に浮かして戦う嘘つきファンタジーの世界に足を踏み入れないために。
欲望を抱かず、謙虚に、質素にいること。そのためにも。
淡々と仕事を請け、淡々とこなす。
先を急ぐタクシーの後部座席に座しながら、コンビニで購入したひと束108円の線香(ちゃんとバラして匣に詰めなおした)その他を入れた巾着を小脇に抱え、私は仕事帰りに伯父に電話をして、言いつけ通りにちゃんと買い出しをしたかどうかを確認しなければなと考えていた。
あの曲者のクソ生臭坊主も、何を求め何を標榜しているのかいっかな釈然としない。どこかから法事や相談事に呼び出されてはいるが、祓い仕事は私に任せっきりだ。
「下手したら私より実力あるくせに、無能なフリで怠けやがって…」
陰陽師に限らず、霊能によりなんらかの職を得ている人は、テレビに出ることはまずない。テレビに出るような「霊能者」は「タレント能者」であり、とんでもなく強力だったり実力のあったりする者ほど人前に顔を晒すことを厭う。
意外かもしれないが、身の純潔さや貞節、肉食を禁じるかどうかはさほど霊能には関与しない。全くしないわけではなく、それにより霊能が落ちる人とそうでもない人がいるというだけのことだ。あの伯父がいい見本。
こんなことをつらつらと考えていたのは、目的地に近づくほどに空模様があやしくなってきたせいだった。港区を過ぎ、品川に入ったあたりにはタクシーの窓に冷たい水滴がつき始めていた。
「こんなこと初めてですよ。いつも私ね、お客さんを乗せると濡らさない晴れ男だってんで重宝されてるんですけどね」
運転士がハンドルを操りながら「おっかしーな、おっかしーなぁ」と首を傾げている。その口調こそ愛嬌があって可笑しい。
「晴天俄かに掻き曇り、雷鳴耳を穿つ…か」
などと、余裕をこいていたら本当に稲光がした。これはまずい。
依頼主のマンションに横付けしてもらった時には、雨脚がひどくなっていた。大粒の雨に烏帽子を打たれ、小走りになりながらホールに飛び込むと、既にそこからしてうっすらと瘴気がたなびいている。
瘴気というと堅苦しいかな。ビジュアルとしてはドライアイスのスモーク、それも幼児やお年寄りなら十中八九「寒い」とか「息苦しい」というレベルのものを想像してもらえると助かる。
「
口の中で素早く九字を唱え、空中に横4本縦5本、都合9本の線を切るように置く。
と、私の服の上に薄く光るオブラートのようなものがかけられる。タイル貼りのホールに満ちて渦巻く瘴気が、私の周りだけ反発したように離れていく。
九字は最小の結界だ。短時間しかもたないが、間に合わせには使いやすい。
以上の行動をコンシェルジュ窓口の前でとっていたところ、どんな奇矯な住人に出会っても鉄面皮で通すだろうことうけあいの、表情筋の鍛え抜かれたマネキンのような受付嬢が、メイクごと顎が外れて落ちるんじゃないかという驚愕を示していた。
私はそそくさと立ち去る。きっと背後で「
心中では「私のせいじゃない」とあきらめながらインターホンで1426番を呼び出し、エレベーター前のドアを開けてもらった。
エレベーターが降りてくる。箱が開いた途端、いっそう濃密な瘴気が溢れてきた。もうこれは瘴気ではなく毒煙だ。
「これ、このまま乗ったらキッツイな…」
まず間違いなく扉の開閉に不具合が生じるだろう。それか目的階に着かない。ケーブルが切れるとまではいかないと思うが、電気系統への霊障は非常に面倒だ。
ここでお札を使うのも手段(て)だが、慈善事業じゃあるまいし、なんの義理もない建物管理会社にそこまでしてやるのはなんとなくシャクだ。おまけにこんな豪勢なマンションだ。一部屋ぐらい無料で貸してくれるなら、いくらだって祓ってやるけれども。
となると、残るは一つ。
私は白いドアに駆け込む姿で非常口の上にへばりついているピクトさんを見上げた。
これしかない。
非常口の向こうは内部構造に組み込まれた非常階段になっていた。濡れないだけ外階段よりマシか。
脚の屈伸と首回し、肩回し、軽い腿上げをしてからスタート!
くわんくわんと音を反響させながら、非常階段を駆け上っていく狩衣姿の陰陽師。なんてシュール。高校の体育祭でやったコスプレ障害物競走そのままだ。
あのときは、魔法少女のキャラで走ったのだけど。
そして、14階。颯爽とたどり着いた私は
「もと陸上部ハードルせん…選手…なめん…オボェ」
と多少えづきつつも目指す依頼主宅を探すためふらつきつつ進む。もちろんこの階は煙幕を張ったような瘴気の状態だ。ああウザい!!
はたから見たら何もない澄んだ空気の中を、平安朝っぽい私がブンブンと両腕を振り回して瘴気をかきわけながら歩くわけで。うんこれもう完全に何かの番組の収録かイっちゃってるコスプレイヤーだよねーと自嘲する。
「えーと…1426…26号室…」
見つけた。全室パレオ式の造りで、依頼主宅のドアと共用廊下の間に僅かながらのスペースが柵で仕切られている。そこに三輪車やボールがうっちゃってあるのが微笑ましい。
インターホンを押すと、出迎えてくれたのは予想通りこの家の主人ではなく主婦の方だった。この主婦というのがまた完全に怯えきった往年の昭和女優というか貴理子をテンパらせたらこんな感じというか、とにかく「貴方が霊能者ですか!?」から始まる長広舌のマシンガントークをかましてきた。
「あの!実はこの家、というか、私ども、というか、とにかく最近になって急におかしなことが起こり始めて大変なんですなんとかしてください!」
まぁこんだけ瘴気が立ちこめてたらそうもなるでしょうね。
「実は私達!呪われてましてぇ!!」
ええ、見ればわかります。それに顔色は土気色、髪の毛はパサパサ、唇は乾いてド紫。寝不足でないのなら霊障の極みおばさんですよね。
「大体のことは仲介から伺っております。最近骨董品を手に入れてから全部がおかしくなった、うまくいかなくなった、と」
「そうそうそうそうそうそうそうそうそう」
実際にはこの10倍くらいの「そう」を繋げてから依頼主主婦は「そうなんですぅ!」と頷いた。
「ではその品物が置いてある部屋へ。あとコップに水を入れて持ってきてください」
何かものすごい役目を負ったように主婦の目が輝き、頼まれたように水を持ってきて奥の方へ案内してくれる。この頃になると九字の効力が早くも切れかけて、光が薄まりなんとはなしに息苦しくなってきた。
その部屋は寝室だった。ベッドが2台、それに挟まれてナイトボードが1台。あとは部屋の壁に間接照明があるきりのシンプルなコーディネート。
「そのう、変な霊現象が始まってからもう怖くて怖くて、ここでは寝られないのでリビングに布団を敷いて寝ているんですぅ」
「こんなところでグースカ寝られたら相当のニブチンですよね」
「は?」
「いえこちらの話。…あれが、例の?」
私が指差した先にある物に、主婦は猛然と首肯する。水飲み鳥のオモチャかっての。
それはナイトボードにあった。
面をうつ伏せにしてある背の部分には、螺鈿細工が施されてある。こんな場面ではなく博物館で展示されていれば、ため息が出るほど美しい牡丹と群れ飛ぶ蝶。
ま、不特定多数の視線に触れる場所に置くのは無理だろうけど。
だって、その上にはっきりと浮かんでいるものが大問題だ。
「一応お聞きしますが、あれ、視えてます?」
「はい、もちろん。あの鏡のせいで、あれが来てから私も体調を崩すし主人は交通事故に遭うし息子の
「なんで最後ちょっと良いことを混ぜたのか分かりませんけど。…そうですか、やはり
首をすくめてきょとんとしている主婦からコップの水を受け取り、水面に向かって梵字を描いた。
「さあこれを飲んでください」
「はい…あの、飲むとどうなるんですか?」
「あなたには何も起こりません。というか、起こらないようにします」
飲む結界、と説明しても説得力がないだろう。
言われるままに飲み干して、いぶかしげに胸を撫ぜる主婦。
「どうせろくでもないものでしょうけど、この鏡の来歴をお伺いしてもよろしいですか」
「らい…れき?」
参ったな、国語能力まで冒されて…ってそれはないか。
「この鏡はどこでどうやって手に入れたのですか」
「んーっと、えーっと、主人が確か、ヤフオクで落としたって言ってたような…楽天だったような…メルカリ…?」
「いや私に尋ねられても。要するにネット経由で購入した出どころの不確かなものということですか」
「まあ一応そんなような感じでしょうか?」
とことん責任の所在があやふやだ。そんなだからこんな危険物というか事故品を買い取ってしまうのだろう。
これは、十中八九、盗品だ。私のつたない見立てでは、どこぞの神社にでも納められていたものなのだろう。抹香臭い雰囲気を感じさせない、むしろ高貴な怒気とでも呼べるような雰囲気がある。
先ほど私が指差した対象、主婦には視えていなかったものが、私には最初から視えていた。この霊視の強さが私の売りとする能力でもあるのだ。
それは姫姿。五音階の大和風の唄を口ずさみながら、ぽーんぽーんとお手玉をする重ね
衣は色も鮮やか、赤を基調にした花々の刺繍がされたものを一番上に着て、中には白の小袖、髪は黒々と背中から床へと流れるよう、眉は麻呂眉ではなく細い笹のよう、唄を奏でる口元にこぼれる象牙のような歯並びが愛らしい。10か11ぐらいだろうか。
「あの鏡に憑いているのは年若いお姫様のようですね。そこでお手玉をしています」
「お姫様がお手玉を?そんな馬鹿な、可愛らしすぎるでしょう」
「そうですか?」
5,6個空中へ器用に飛ばしているお手玉は、すべて断末魔の形相の人の生首なのだが。おぞましく地獄めいた光景が見えないからこその、とんちんかんな受け取り方だな。
〽︎冬椿に春桜、十重に八重に咲き結ぶ
あそこに
ししむらはらわた、ちぎって捨てよか 打ってつぶそか
きみは
声は確かに可愛らしく舌ったらずに澄んでいる。だからこそ、この霊の危うさが推し量れる。
大人の霊なら拝んで説いて詫びて去らせることもできよう。鳥獣の霊ならば強力な神を降ろして退散もさせられよう。しかし。
子供の怨霊ほど
そしてその人間お手玉の目がギョロっと動く。その全部が私の方をとらえていた。
あの生首たちも映像ではなく霊体、この少女の霊に支配された眷属だ。大物になれば手下となる悪霊や妖怪を従えてもいるものと聞くが、正直、祓い仕事でこんな状態の現場は初めてだ。
私は主婦を少し下がらせ、巾着から香炉を取り出して線香をすえる。
線香の煙がゆっくりと、次第に激しく溢れ出す。ありえないほどに勢いよく放射されるそれが、瘴気を浄め薄め部屋の壁をも突き抜けるように寝室をクリアにしていく。
私は正座となって両手の指で印を結び、不動明王の縛呪を唱えはじめた。
それまで注意を払わなかった少女が、ゆっくりとこちらを向く。
───こざかしや。
その声が、小さな声だというのに部屋中に響き渡った。
そして生首たちが私の方へ噛みつこうと飛んできた。
「
私の指先から白い光が伸びて分かれる。鎌首をもたげたマムシのように相手に襲いかかり、たちまち強力な光の縄は首たちを空中で巻きとった。
続いて巾着からお札の包んである懐紙を取り出す。上から2番目の札を引き抜き
「妖魔
と唱えると、たちまち白い札に描きこまれた花押から墨色の龍が雷鳴とともに抜け出てきた。頭の部分だけでも箪笥ほどもあるそれは、あぎとを開くと生首どもを噛み砕く。───有名漫画でいうところの「バツン!」という効果音付きで。
これで残るは姫姿の怨霊のみだ。しかしこいつが一番の難敵であることに変わりはない。
「な、なんですかいまの音は!?なんか雷みたいな音と光がしましたけど!」
「御大の眷属を───たぶんこれまでに取り殺された人達が使役されていたんだと思いますが───霊体ごと吹っ飛ばしました。本来ならこんな荒っぽいことはしないのですが」
「やった!じゃあこれでもう安全なんですね!」
手を叩く主婦の足元で、突き上げるような響きがあった。今度は部屋全体がマグニチュード8以上のレベルで揺れ始める。
「なななななな」
「身体を低くして伏せて!こっちが本番です」
───おのれ…
少女のまだ幼い顔が憎悪に歪んでいた。それでも思い通りにならないことに地団駄を踏んでいる程度の無邪気さで、かえって恐ろしさを倍増させる。
「いずこの姫とは存ぜぬが、そちらの眷属は退治させていただいた。これ以上の狼藉をこの
そう、この瞬間私には分かった。この相手は、怨霊などではない。
どこかで祀られ、慰められ、奉られていたもの。非業の死を遂げて怨霊となりながらも、そこから昇華した存在。───つまり祟り神だ。
菅原道真などと同格の存在。
寝室にはいまや、びょうびょうと風が巻いていた。線香を立てた香炉はギリギリ結界としての役を果たしながらコォンコォンと金属質の唸りを上げて震えている。
「いかに!返答次第ではとこしえの平穏を得られよう、どうか矛を収めてはいただけないか!」
───ぉおおおおのれぇぇぇ。
とっさに印を結んだ。ドン!と空気が弾け、私は壁際まで突き倒される。主婦の方はほうほうの体で外に逃げていったらしい。
───身分卑しき下郎風情め、この
みしみしと鉄骨さえも折らんばかりに家鳴りを起こし、姫姿の怨霊は虚空を滑るように近づいてくる。
「問答無用、か。しょーがないな大奮発だ」
私は重ねていた札の一番下のものを抜いて差し上げた。
「あのクソ坊主の本気の法力でもくらえ!!」
今度こそ本物の轟音が響いた。怨霊の生み出した振動もラップ音も停止する。
私が額にかざしたのは、菩薩像を描いた札だった。それはそれは神々しい五色の瑞雲が、札の裏側からまるでアニメのように彩り鮮やかにもくもくとたなびいて広がる。
私が手を離しても、その札は宙に浮いたままとどまった。
そして札の中からたおやかな白い女性のもののような腕がしゅるしゅると幾本も伸びて、姫姿を押し返していく。
───なんじゃ。なんじゃこれは。妾の力が打ち消される?
「これぞジジイ必殺の護符、
姫姿は札によりジリジリと後ろ、つまり鏡の方へと押され、全体像が透明になっていく。
───いやだ。やめろ。この
「おとなしくゴメンナサイできる?それならまぁ、許してあげないでもないけどね」
足元から胸元まで消失し、少女の怨霊は顔だけとなって鏡の上で喚くのみとなった。
───まだじゃ。妾はまだ祟るのじゃ。殺すのじゃ!この世の生きとし生けるものを全部、全部亡き者にしてやるのじゃぁぁぁ。
「あっそ。分かってたけどね、交渉の余地なしって」
さっきから結んでいた印をきつく組み直す。肘を開いて力を込める。念の力を。
「慈悲深き菩薩の抱擁により、眠るがいい幼き悪鬼よ。中有に迷いし霊魂、ここに封印せり!」
日本人皆殺しだか人類皆殺しだか知らないが、そんなことをされたら困る。私だって飢えてしまうではないか。
お札がくるん、と鏡に半ば巻きついた。神々しい雲のたなびきも薄れて消えていく。
さっきまで暴れていた部屋がまるで嘘みたいにピタリと動きをひそめて静かになったので、主婦がおそるおそるを体現しながらドアに姿を現す。
私は袱紗ごと鏡を差し上げ、巾着から出した経文を染め抜いた風呂敷で手提げの形に包んだ。
「これでもう大丈夫です。怨霊の依代であった鏡は封印しておきました。後はこちらでしかるべき処置を行っておきます」
「うわぁ…良かったあ……」
へたり込む主婦の鼻先で私は立て膝になり、今回のお浄め代つまり報酬について切り出す。
「あ、お祓い代ですね?えーっとどうすればいいのかしら、お気持ち、ってことですか?」
「はい。目安としては、あなたの最も親しいかたの戒名程度をお願いしております」
これは私が定めたものだ。形のない仕事だが費用もかかる。場合によっては命もかかる。今回はまさにそれだ。短時間ではあるが、タイミングを間違えたらこちらが冥界に連れ去られてしまっていただろう。
ほどなくして、主婦は分厚い封筒を持ってきて渡してくれた。こういうものが用意できる経済状態だ、すぐにも立ち直れるだろう。
玄関で見送られて、これにて一件落着。
さてさて、帰る前に一度伯父に電話をしておくか。何の気なしにスマフォを出して、液晶に表示された数字に私は愕然とした。
17:30。
エレベーターに飛び乗り外を見る。三面ガラス張りの外の景色は、とっぷりと陽の落ちた東京湾の暮色に沈んでいた。現場入りしたのは確かまだ1時半ぐらいだったのに。
やられた。祓えが早く終わったのではなく、部屋の外と内で時間の流れを狂わされていたのか。強力な霊にありがちのタイムフェイントだな。
しょうがない、のんびり帰っても亮介が来る前には家に着けるだろう。
あれ、LINEにも通知が来てる…
“キー坊、お疲れ様!親戚から苺が送られてきて、うちだけだと食べきれそうにないので、キー坊んちに行く時に持ってきます。お仕事終わったら連絡ください”
「やった!」
苺は私の大好物。ずっしりと重い札束よりも、この幼馴染が親戚からのお裾分けで持ってきてくれる福岡の大粒で甘い果実のほうが、実は何十倍も嬉しい。
今日一番の笑顔で小躍りになりながら屋外へ出ると、邪気で曇っていた空はすっかり晴れ上がり、満月と北斗星の輝きが夜を明るく照らしていた。
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