第6章 二つの頭部
私と理真のアパートから車でおよそ十五分ほど走った閑静な住宅街に、
現在時間は午後五時。理真が県警を出る前に理真のお母さんに電話を入れて、今日は私と二人で夕飯を食べに行くと伝えていた。理真のお母さんの料理を食べるのも久しぶりだな。
理真の実家の前の駐車スペースにはシルバーのインプレッサが停めてあるのが見える。お母さんは在宅しているようだ。時間からして、もう夕飯の準備に取りかかってくれているだろうか。
理真は空いたスペースに愛車R1を停める。
「ただいまー」
「お邪魔しまーす」
理真と私は揃って玄関に入った。
奥の方から、どうぞー、と声がした。理真のお母さんの声だ。
「こんにちは、お母さん。今日はご馳走になります」
「
居間も兼ねたダイニングキッチン。その流し台で包丁捌きを見せていた理真のお母さんと挨拶を交わした。居間は冷房が効いていて快適だ。
「理真、今日はどうしたの? 突然来るなんて電話寄越して」
「うん、あまりに暑いから。スーパーとかで涼むのもいい加減飽きたから実家の冷房のやっかいになろうと思って。私の部屋のクーラーやばいよ。この夏でもう五年分くらい動かしたかも……」
そんな理由かよ。
「理真もここに住めばいいのに。由宇ちゃんのアパートも近いんだから頻繁に会えるでしょ」
理真のお母さんは包丁の動きを止め、まな板の上の材料を鍋に入れた。
「まあ、色々あるってことで」
理真は母親の話を軽くはね除けると、フローリングの上に寝そべっている三毛猫に寄っていきそのお腹を撫でた。安堂家の飼い猫、その名もクイーン。言うまでもなく、あの偉大なレジェンド探偵エラリー・クイーンからいただいた名前だ。
三毛猫クイーン。いかにも何気ない動作から事件解決のヒントを与えてくれそうな名前だが、残念ながらこの猫が事件解決の役に立ったことは一度もない。三毛猫は理真にお腹を撫でられながらゴロゴロと喉を鳴らしている。
「そうそう、由宇ちゃん、この前の地震、大丈夫だった? 理真から何も心配なかったっては聞いてたけど」
「あ、はい。大丈夫でしたよ。ありがとうございます」
「そう、よかった。うちは大変だったのよー。コップとか割れちゃったり。
「大変って、どうせプラモデルが倒れたとかでしょ」
理真はクイーンのおやつ箱から猫用かにかまを取り出し、クイーンの頭上に掲げていた。クイーンは猫パンチを繰り出し、かにかまをものにしようと奮闘している。
宗とは、理真の弟の名前だ。確か高校二年生だったと記憶している。
「理真、先にお風呂入ってくる? 上がるころにはご飯の用意できてるから」
「うん。時間差がついて待ってるの嫌だから、由宇も一緒に入ろう」
「わかった」
私が答えると理真は立ち上がった。クイーンは手中に納めたかにかまをおいしそうに食べていた。
安堂家のお風呂は広い。
安堂家の人々が風呂好きということで、脱衣所や他のスペースを犠牲にしても広い風呂場にこだわったという話だ。肩まで湯に浸かって足を伸ばせるバスタブというのは確かに気持ちがいい。
私のアパートも規模にしては部屋のお風呂場は充実していると思っている。アパートをリフォームする時に全室追い炊き機能の付いたものに取り替えたのだ。しかし、足を伸ばしてバスタブに浸かるというのは無理だ。
「気温が高くて暑いのに、熱いお湯に入るのが気持ちいいなんて、考えたら変だね」
私は肩までお湯に浸かり、足をバスタブの縁に掛けたちょっとだらしない格好になった。
「むしろ夏こそ熱いお風呂に入らなきゃ駄目だよ。熱いお湯に浸かると、毛穴が開いてお風呂を上がった後涼しくなるんだからね」
理真は私がバスタブを使っている間、髪と体を洗っている。さらに、
「これで風呂上がりに冷たいビールでも喉に流し込めれば最高なんだけどね」
「ああー、いいねー」
今はそれが叶わぬ夢だと知っている。理真も私も事件の捜査中は禁酒と決めているからだ。
「せめて、風呂上がりのおいしいご飯を楽しみにしようよ。ちょっと覗いたけど、夕飯は冷たいそうめんだよ」
「ああー、いいねー」
先ほどと全く同じ台詞を口にしてしまった。
理真のお母さんの作るそうめんのつゆがまた美味いんだ。今度レシピを教えてもらおう。と私は居間での理真のお母さんとの話を思い出し、
「地震……あの小屋の棚も倒れてたよね」
「そうだったね」
髪の毛を洗っているため、理真は目を閉じたまま答えた。
「ねえ、何か事件の謎を解く鍵にならないかな」
「倒れた棚が? うーん、今のところ特に何も思いつかないけど……」
「理真が本部でボードに書き出した謎の中にもなかったよね」
「そうね。地震なんて自然現象だからね。何か事件に関わりがあるのか……」
「色々と動きがあったみたいに感じるけどさ、結局あの謎の中で明確に答えが出たものはひとつもないね」
「うん。首のほうが龍神会構成員の茶屋橋じゃないかっていうもの、これまた確証のない推測だけだからね」
理真はシャンプーを洗い流し、長い髪の毛を頭頂部で結って、
「由宇、チェンジ」
私と理真は場所を入れ替わり、今度は私が体と髪の毛を洗う番になった。理真はリングに上がる格闘家みたいな声を出しながらお湯に浸かった。
さっぱりして火照った体に、クーラーにより作り出された冷たい空気が心地いい。ドライヤーで髪を乾かしたら、もうあとはそうめんが出来上がるのを待つのみだ。
「お母さん、宗は?」
「帰ってきてるはずだけど。自分の部屋じゃない?」
「ひとりでクーラー一台独占しているというのか! 高校生の分際で贅沢なやつめ。由宇、懲らしめに行こう」
髪を乾かし終えた理真は腕まくりをしながら居間の出入り口に向かった。腕まくりをするといってもタンクトップなんだけどね。
理真の弟、安堂宗は実家から自転車で高校へ通っているが、たまに理真のアパートに寄ってゲームをして遊んでいったりする。あまり家でゲームをやりすぎるとお母さんがうるさいというのだ。理真の部屋によくいる私とも当然知った仲だ。
理真は階段をどたどたと上り、その後ろから私もついていく。階段を上りきった理真はノックもなしにドアノブを握って押し開けた。
「おい、お姉ちゃんが帰ってきたんだから下りてきて挨拶くらいしろよな」
理真の肩越しに覗くと、宗は机に向かって雑誌を読んでいた。宗が何も返事をしないうちに、理真がずかずかと部屋に入る。私はその後ろからゆっくりと、
「宗くん、こんにちは」
「あ、こんにちは、
宗は少し笑みを浮かべてぺこりと頭を下げ、すぐに雑誌に目を戻した。
「本読んでるだけなら居間で読めよな。冷房代がもったいないだろ。まあ、ひとりじゃなきゃできないことをやるんなら見逃してやってもいいけど……ん? もしかして私たちの階段を上がる足音を聞いて、慌てて中断した?」
「何わけの分かんないこと言ってんだよ! ――何してんだよ!」
宗はゴミ箱の蓋を開けようとした理真を制した。
「エッチな本ではないな……」
ゴミ箱を諦めた理真は宗の読んでいる雑誌を覗き込む。
「当たり前だろ! そんなもの、こんな堂々と見るかよ!」
「宗破れたり! 『堂々と見るかよ』と言う発言が出るということは、隠れてなら見ているということを自白したに等しい」
理真は床に伏せてベッドの下を覗き込む。やめろよ、と宗は椅子から飛び跳ねて再び姉を制する。
「そうか、今時は全部ネットか」
理真は起き上がって机の横に置いてあるノートパソコンに手を伸ばしたが、宗が手首を掴んで阻止した。
「何してんだよ。バカか?」
「ハードディスクの中身をチェックさせてごらん。Dドライブの二層目辺りのフォルダが怪しいとお姉ちゃんは思うんだけど」
「ふざけんなよ! 何しに来たんだよ、帰れよ」
「だから今実家に帰ってきたんだろうが!」
「そういうことじゃねえよ!」
理真の動きを制していた宗だったが、逆に理真に後ろから抱きつかれ身動きとれなくされてしまった。そのままもつれてベッドに倒れ込む。
「今だ、由宇。早くパソコンの起動を!」
「バカ! 離せ!」
もがく弟、締め付ける姉。
「はいはい、そこまで」
私は両手を向けて二人をなだめた。
「くそっ。宗、今日はこれくらいにしておいてやる。由宇に感謝しろ」
理真は弟の体を解放する。
「江嶋さん、すみません、バカな姉で」
「何だとこのやろう」
せっかく沈静化した小競り合いが再び勃発しそうだったので、私はもう一度両手を振って、もうやめやめ、と二人を落ち着かせなければならなかった。
「大体、何しに来たんだよ」
「久しぶりに姉弟の親睦を深めようと思って」
「そんなこと全く思ってねえだろ! 一秒でバレる嘘をつくな!」
「そんなことないぞ。私はいつでも宗のことをかわいく思ってるんだぞ。宗も久しぶりにお姉ちゃんを見られて嬉しいだろ。しかもお風呂上がりだぞ」
タンクトップに短パン姿の自称弟思いの姉は胸を張った。
「じゃあ、何か買ってくれ」
「姉弟の仲に金銭は必要ないだろ?」
「帰ってくれ」
「そうだ、部屋の掃除を手伝ってやろう……と思ったが、何だ、ばかに片付いてるな……男子高校生の部屋なんて、この宇宙でもっともエントロピーが増大している場所だと思ってたのに」
理真は部屋の中央で仁王立ちして見回す。
「この前の地震で大変だったから、ついでに片付けたんだよ」
あの地震は当然この安堂家も襲った。私は宗の言葉を聞いて部屋を見回した。なるほど、男子高校生の部屋というには、きれいに片付いている。
本棚が目に止まった。中身はほとんど漫画だ。理真の著書はない。まあ、理真の書く小説は女性向けの恋愛ものがほとんどだから、高校男子の宗の本棚になくても当然だが。しかし、探偵の弟なんだから、レジェンド探偵が解決した事件の小説くらいは並べておいてほしい。
壁にはアルビレックス新潟のユニフォームが飾ってある。背番号は12、サポーターの背番号だ。
本棚とは別のシェルフ棚には、たくさんのロボットが並んでいる。プラモデルは宗の趣味のひとつだ。先の地震で倒れたりしたのだろうか。私はシェルフ棚に近づいてみる。
詳しくは知らないが、ガンダムというアニメに出てくるロボットたちだろう、恐らく。何だか同じようなロボットが何体もあるぞ。
その中のひとつを見て違和感を憶えた。そのロボットの額にあるツノが折れているらしい。額から左右上方向に伸びている向かって右側のツノの長さが、左側のそれの半分くらいしかない。この手のロボットに疎い私だが、最初からこういうデザインではないだろうと思う。
「ねえ、宗くん、これ、ツノ折れてるの?」
「あ、そうです。この前の地震で床に落ちちゃったんですよ。それだけ落ち所が悪くって」
「たくさんあるね。これみんな宗くんが作ったの?」
私は棚の一段を占めたロボットたちを見回した。全部で十体以上もある。
「は、はい」
宗は少し照れたように答えた。高校生くらいなら、こういうプラモデル作ってたって普通だろう。中にはいい大人になってものめり込んでいる人もいるとか。別に照れることはない。
「ふーん……」理真も私の横に来て宗のロボット軍団を眺め回しながら、「でも、どうして同じのを何個も作るの? ここにあるの半分くらいガンダムでしょ」
「同じのなんてないよ。ガンダムでも全部違うの」
やはりガンダムだったか。
「そうなの? これとこれなんか、まったく同じじゃない」
理真は棚の中にある二体のガンダムを交互に指さした。
「全然違うだろ。そっちはガンダムマークⅡで、奥のが
宗は、何で分かんないの? とでも言いたげに説明してくれたが、ごめん、私も見分けつかない。
「アムロ、行きまーす!」
理真は突然ガンダムの一体を右手に掴んで宙を舞わせた。
「何やってんだよ!」
宗は血相を変えて取り返しにかかる。理真は宗の手をひらりとかわすと、もう一体のガンダムも残る左手に取り、二体を向かい合わせるようにして、
「ふはは。俺に敵うと思っているのか、アムロ」
芝居掛かった少し低い声。どうやら一人芝居をしているようだ。
「誰だよ!」すかさず宗の突っ込み。
「え? アムロとシャアだよ。ガンダムって、その二人が戦う話なんでしょ。それくらいお姉ちゃんも知ってるよ」
「何でアムロがマークⅡで、シャアがνガンダムに乗ってるんだよ! 滅茶苦茶だろ!」
宗は訴えかけるが、ごめん。何が変なのか分からない……
「いつもこんなことやって遊んでるんでしょ」
「……違うから。飾って見てるだけだから」
宗が反論するまでに微妙な間があったような。
「行くぞシャア!」理真は左手に持ったガンダムを飛び上がらせるように頭上に掲げた。
「そっち乗ってるのがシャアじゃなかったのか!」再び宗の突っ込み。
「あれ、そうだっけ? 見分け付かないからさ……」
理真は両手の持ったそれぞれのガンダムを見比べている。しばしの沈黙。
理真は戦いごっこを再開するでなく、二体のガンダムをもとのように棚に並べて立てた。そして、
「なにやってるんだよ!」
姉の取ろうとした行動を阻止すべく宗が椅子から立ち上がったが、理真は「ちょっとだけ」と先ほどまでとは一変した真面目な声で弟を制し、二体のガンダムの頭部を取り外してしまった。そして取り外した頭部を両手に取り、じっくりと眺める。
「みんなー、ご飯できたわよー」
階下から理真のお母さんの声がした。私は、はーい、と答え、
「ほら、二人ともご飯だよ」理真と宗を促すとドアノブに手を掛け、「……理真、行くよ」
声を掛けたが、理真はまだ二体のガンダムの頭部を見続けている。
「……見分けがつかない。まして、頭だけならなおさら……」
理真はガンダムの頭部を棚に置き、右手の人差し指を下唇に当てた。それを見た私もドアノブを握ったまま動きを止めた。宗も姉のただならぬ雰囲気を察したのか、元通りプラモデルの頭部を付け直すでもなく姉を見つめている。
「切断された頭部。地震。もうひとつの死体……由宇!」
理真は突然私に顔を向けた。
「な、何? 何か分かったの?」
「県警に行こう」
「え? 今から? お母さんの料理は?」
「それはまた今度。じゃあね、宗。お母さんの言うことよく聞くのよ」理真は部屋を出た。
「じゃ、じゃあ宗くん、またね」
「あ、はい。また来て下さい」
私も急かされるように理真のあとに続き、階段を下りて居間に入る。
「お母さん、ごめん、ご飯はまた今度」
「どうしたの理真? 事件?」
「うん、ちょっとね」
「あらそう。そうめんたくさんしたのに」
テーブルの上には、そうめんとそれに入れる色とりどりの具材が並んでいた。そうめんバイキングとでも言うべきか。ああ、おいしそう。理真、今日中に事件を解決して食べ帰ってこよう。と言いたい。
「じゃあ、またね」
「お邪魔しました」
理真と私はパジャマから洋服に着替えて
「気を付けるんだよ」
お母さんの言葉を背に受けて、私と理真は玄関を出るとR1に飛び乗った。
ハンドルは私が握った。県警に向かう間に理真は電話を掛けるようだ。ダイヤルしてスピーカーモードにし、私にも会話内容が聞こえるようにしてくれた。
「理真」
数回の呼び出し音のあとに電話に出た相手は
「ちょうど電話しようと思ってたのよ。あの首は
「やっぱり」
「理真の読み通りだったわ。クロさんが龍神会の構成員をヤミで診ていた歯医者を見つけた。茶屋橋も治療に掛かってたわ。そこのカルテの治療痕と首の歯形が一致したの。でも、どういうことなの、これは?」
「詳しい話は会って話すわ。とりあえず私と由宇は県警に向かってるんだけど」
「私も今、
「うん、じゃあ、県警で」
丸柴刑事のほうから電話を切ると、理真は背もたれに背中を付け息を吐いて、
「お風呂上がったばっかりなのに、もう汗かいちゃったね」
もう日は傾いているとはいえ、昼間の暑さは地表にこびり付くように残っている。車の冷房もやっと効いてきたばかりで、私の肌にもじっとりと汗が滲んできている。
「由宇」
「何?」
「……やっぱりそうめん少しでも食べてくればよかった」
理真の腹が鳴った。
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