第3章 鳴海医師の目

 その日の夜、丸柴まるしば刑事から理真りまに電話が掛かってきた。

 場所は理真の部屋。あのあと、新潟市内の大型スーパー内の喫茶店で休み、夕飯を食べて帰ってきたのだ。

 時計を見ると時間は午後八時。理真は例によって携帯電話をスピーカーモードにして私にも話が聞こえるようにしてから応対した。


丸姉まるねえ、何か分かったの?」

「それがね、理真……」


 丸柴刑事の口調がおかしい。何か戸惑っているような。


「ナルさんがね、これは変だって」

「ナルさんが?」


 ナルさんとは、検屍でいつもお世話になっている鳴海なるみ医師のことだ。

 新潟県には監察医制度がないため、変死体の検屍はいつも病院勤務の医師や大学法医学部教授などにお願いしている。その中でも鳴海医師は、不可能犯罪に関わっている、もしくは関わっていると思われる特別変死体の検屍を担当することが多い。その鳴海医師がどうしたというのだろうか。


「昼間に発見した首と死体を持ち込んで見てもらったんだけどね、ナルさんが言うには、首と胴体は別人のものじゃないかと」

「何ですって?」

「どうも首と胴体の切断面が合わないんじゃないかって。血液型はどちらもA型だったし、推定される年齢、性別、皮膚の色具合まで首と胴体は同じだったから、私たちはそこまで考え至らなかったんだけどね」

「切断面って言ったって、あの腐乱状態だよね」

「うん、それでも怪しいって、ナルさんが。DNA鑑定をしてみるべきだって」

「ナルさんが言うんだったら。やってみる価値はあるね」

「でしょ」


 警察や理真からの鳴海医師への信頼は厚い。その鳴海が主張することであれば、調べないわけにはいかないだろう。

 理真は携帯電話に向かって、


「まあ。同じ場所から首と胴体が発見されたからって、それが同じ人物のものだって決めつけちゃうのがそもそも危険だよね。今回は私も迂闊だったかも。で、DNA鑑定することになったのね?」

「そう、さっそく絵留えるのところに持ち込んだわ」


 丸柴刑事が絵留と呼んだ、科捜研の美島みしま絵留研究員。彼女は丸柴刑事と知り合いで、理真と私も不可能犯罪捜査に加わるようになってから親しくなった。

 丸柴刑事の声は続き、


「で、結果が出るのは数日後ね。もちろん、その間もナルさんには通常の検屍をお願いするし、捜査も続行するわ。でも、これで首と胴体が別人のものだったらナルさんに何て感謝していいかわからないわね」

「今度飲みに連れて行こうよ」

「ナルさん、下戸よ」

「じゃあ、食事でもご馳走しようか」

「ナルさん結構食べるからね。理真と二人なら、どれだけの量を揃えたらいいのか」

「何だよ、人を食いしん坊みたいに」


 いや、事実だ。


「まあ、そんなことだから、鑑定結果と、捜査上新しい手掛かりが分かったらまた連絡するわ。それじゃ、おやすみ。由宇ゆうちゃんも」


 私と理真も、おやすみなさい、と挨拶をして電話を切った。まだ寝るには早い時間だが。まして丸柴刑事は捜査があるため、これから夜遅くまで起きていることになるだろう。丸柴刑事に限らず捜査に当たる警察官は皆そうだ。鳴海医師も検屍がある。探偵ひとり(とワトソン)だけが自宅でくつろいでいていいのかと思うが、今のところ理真が動くに必要な情報は何もない。来るべき探偵捜査のために英気を養っておくという理由で許されるだろう。


「ちょっと早いけどお風呂入って寝ようか。暑い中外を歩いたんで疲れたわ」


 理真は伸びをした。同感だ。早く寝ればそれだけ冷房を付けている時間も節約できる。夏は暑い夜は早く眠り、涼しい朝に早起きして活動するのが一番効率がいい。コンクリートに囲まれて昼間の熱気が逃げ切らない町中にいるのであればなおさらだ。まあ、そういう健康的な生活を持続するのがまた難しいのではあるが。



 そう、難しいのだ。

 私と理真が目を覚ましたのは翌朝の九時近くだった。昨夜はお風呂に入って何だかんだテレビを見たり話をしたりして、床についたのは結局夜の十時過ぎであった。半日近く眠っていたということか。しかも私が目を覚ましたのも、自然と起きたというより、暑さに耐えかねてというのが原因だ。

 隣に目をやると、理真はまだ寝ている。さすがに暑いというのは眠っていても分かるのか、額には汗をかき、うんうん唸るような声も漏らしている。この暑い中で目を覚ますのを嫌忌して眠りの世界にすがりついているかのようだ。


 私はとりあえずこの籠もった空気を追い出すため、カーテンとベランダの窓を開けた。南向きの窓からはまだ陽光の直射を受ける時間ではない。それでも室内は自然の明かりで満たされ、籠もっていた生暖かい空気も排除できた。


「理真ー、起きるよ。もう朝だよ」


 私は急に室内が明るくなり眉をしかめた寝坊助に声を掛けた。寝坊助と言ったが、かく言う私もその少し前に起きただけなのだが。まだ夢の映像が瞼の裏から消えきらないのか、「シマウマにも勝てないなんて……」だとか何とかわけの分からないことを呟きながら理真はゆっくりと上体を起こして、


「……由宇、お腹空いたよ」


 朝一番の台詞がそれか。もっとも、昨夜は夕御飯を食べてから何も口にしないで寝たのだ。十二時間以上胃袋に何も入らない状態が続くというのは、食いしん坊の理真にとっては大変な事態に違いない。

 それを聞いたら私も突然空腹感を憶えた。とりあえず顔を洗ってから朝ご飯の献立を考えようと、私は洗面所へ足を向ける。

 夏場は食品が傷みやすいため、生鮮食品はすぐに使う分以外は買い控えるようにしている。冷蔵庫に何か残ってたかな、と思い出していると、電子音が響いた。これは〈着信音1〉買ってから一度も変えていない理真の携帯電話の呼び出し音だ。

 理真は枕元に置いていた携帯電話を取り上げ、ディスプレイに表示された発信者を確認してから応答した。


「もしもし」


 相変わらずの寝ぼけ顔だが、その声は普段のものとなっている。それで分かった。相手は丸柴刑事だ。

 その後の応対の様子から緊急的な用事ではないことが察せられたため、私はそのまま洗面所へ向かう足取りを再開した。



「ナルさんの検屍結果とか出たから、本部まで聞きに来るかって。もちろん行くって伝えたよ」


 納豆をかき混ぜながら理真は、朝一番(といっても九時過ぎだったが)の丸柴刑事からの電話内容を私に聞かせてくれた。

 朝食は小分けパックの納豆と目玉焼き、ベーコンとウインナーを軽く炒めたものにした。ご飯は常に冷凍して保存してあるものを電子レンジで温めたものだ。味噌汁はインスタントにさせてもらった。


「本部? 所轄の鹿瀬かのせ署じゃなくて?」


 帳場(捜査本部)が立つのであれば、首と胴体が発見された場所の管轄所轄署になるはずだが。昨日の現場なら管轄は鹿瀬署だ。


「お昼くらいに丸姉がちょうど本部に寄るから、ついでに時間取ってくれるって」


 それは助かる。帳場が立った所轄まで行くとなると、また高速道路を一時間近くかけて走ることになる。当然下道ならさらにかかる。向こうに宿を取るにも通うにも微妙な距離だ。極力近くの本部で話を聞けるほうがありがたい。


 朝食を終え、私は一旦自室に戻って身支度を調える。今日はどんな過酷な現場にも乗り込めるようデニムのパンツルックにした。上はTシャツだが、長袖の上着も持って行く。帽子も忘れない。

 部屋から出て来た理真も私と同じような格好だった。足下もスニーカーだ。今日は中野刑事らに目の保養はさせてあげられないな。

 太陽の向きから駐車場はまだ日陰になっていたため、昨日ほどの労は要せずに私と理真は車に乗り込み、県警本部を目指した。



「例のような腐乱状態だったから、正確なところは分からないけれど、死後二日から三日程度経過していると見られるわ。首、胴体、両方ともね」


 県警の捜査一課室で私と理真りまは、丸柴まるしば刑事の話を聞いている。

 部屋には私たち三人以外誰もいない。皆捜査に出払っているか、捜査本部がある鹿瀬署に詰めているためだろう。

 机の上にはアイスコーヒー。喉に流し込むと、まだ眠気が完全に抜けきらない頭にカフェインが染みていく。


「ナルさんにしては死亡推定時刻に幅を持たせたね」


 と、こちらもアイスコーヒーをすすりながら理真。


「そうね。それだけ死体の状態が悪かったのよ。続けるわね。切断面があんなだったから断定は難しいけれど、ナルさんの見立てでは、首が切られたのは死亡してからだろうと。死因は紐状のもので首を絞められたことによる窒息死と見られる。昨日、鑑識の須賀すがくんや理真も指摘した通り、腐乱で分かりにくくなってはいたけれど、その痕跡があったわ。胴体だけじゃなく首のほうからも紐の痕跡をナルさんが見つけたわ。

 だから、もしナルさんの見立て通り首と胴体が別人だったとしたら、そのどちらも絞殺のあと首を切られたということになる。首を切断した凶器は大型のナイフのようなもの。これも腐乱状態から断定は出来ないんだけど、元々の切断面は非常にきれいなものだったんじゃないかと。何度も刃を入れてグズグズになったようには見られないそうよ。実際、骨の切断面はきれいだった」

「首の切断に関しては、非常に手際がいいと」


 理真の言葉に丸柴刑事は頷いて、


「そうね。普段からこういうことをやり慣れてる人物かもね。医者とか。で、被害者の年齢は三十代から四十代の男性。頭部、胴体ともにね。昨日見た通り、頭部のほうは髪が若干茶色に染められていた。歯の治療痕があったから、阿賀町及びその周辺地域、それと新潟市内の歯科医大も当たってるわ。今のところ一致した治療痕の報告はなし。まあ、まだ昨日の今日だからね。それ以外に外傷は見あたらない。もっとも頭部のほうは野犬に食い荒らされていたから、何か傷があったとしても、それごと食いちぎられてしまっている可能性はあるわね。

 体のほうにも目立った外傷はなし。体内から毒物薬物の類は検出されなかったわ。それと食い荒らされた跡は、確かに野犬にやられたものと見て間違いないそうよ。残されていた歯形は犬のものだし、犬の体毛も数本付着してた。近隣の聞き込みから、あの辺りに野犬が住み着いてるという証言も得られたわ」

「そうか……首の切断状態から考えるに、素人の仕業じゃないっぽいね」

「うん、警察もそう見てる。それと、昨日も話した通りDNA鑑定依頼を科捜研に出したわ。結果が出るのは早くても三日か四日はかかるわね」

「その結果如何によって、捜査方針が変わる可能性があるわけね」

「そうね。首と体は同一人物なのか、それとも別人なのか」

「別人だったとしたら、もうひとり殺害された人物がいるってことになるね」

「もちろんそうね。おまけに、どちらも首を切断されている。あ、それと、死体発見現場の阿賀町には死体に当該する行方不明者の捜索願は出されていなかったわ。聞き込みでも届け出までしていないけれど最近姿を見ない人物というのも浮かんできていないわね。範囲を県下全域に広げて死体の性別年齢と該当する行方不明者を当たってる。阿賀町はお隣の福島県との県境に近いから、福島県警にも該当すると思われる行方不明者のリストアップをお願いしたわ。頭部の状態があれだから、似顔絵を作製しての聞き込みも難しいわね」


 昨日見た頭部の状態を思い出した。確かにあれでは人相の判別、似顔絵の作製は無理だろう。 丸柴刑事は続けて、


「あとは聞き込みの結果だけど、国道沿いのコンビニの店員から、ヘアカラーを買っていったお客がいたって証言が取れてるわ。一昨日のことだそうよ」

「ヘアカラー?」

「そう、しかも茶色の」

「茶色……あの生首の髪も茶色だったね。そして、一昨日というと」

「生首が発見される前日ね。理真、何か関係があると思う?」

「関係があるとしたら、そのヘアカラーで生首の髪の毛が染められたってこと? 関係があるどころか、そのヘアカラーを買っていった人物ってのが犯人になるんじゃないの?」

「そうよね。今、防犯カメラから、そのお客が写った箇所を探しているわ」

「そのお客は当然、店員の知った顔ではない」

「そうね。初めて見た顔だって言ってた。あと、サングラスを掛けてたとも」

「益々怪しいね……」

「科捜研でDNA鑑定と同時に、怪しい客が購入したヘアカラーと生首を染めたものが同一の商品かどうかの鑑定もやってもらってるわ」

「それぞれが別のものだったら、無関係?」

「かもね……さてと」丸柴刑事は壁に掛かった時計を見上げて、「現在の捜査状況はこんなところ。さし当たって理真にお願いできることはないみたいね。昨日炎天下の中呼びつけておいて何だけど。まあ、コーヒーでも飲んでゆっくりしていって」


 丸柴刑事は鞄を手に出かける様子を見せた。


「丸姉が行くんだったら私たちも出るよ。二人しかいないのに冷房入れてるのも悪いし。ましてや、私たちは警察官じゃないんだからね」


 私も、そうだね、と同意し、理真が冷房のスイッチを切ろうと壁際まで行くと、


じゅんさん、いるか?」


 言いながら捜査一課の出入り口ドアを開けて顔を見せた男性がいた。


「あ、クロさん」

「おお、理真ちゃん。久しぶりだな。由宇ゆうちゃんも一緒か。あ、丸柴刑事」


 男性は理真、私と順に視線をやり、最後に丸柴刑事の姿を確認した。その丸柴刑事は、


「クロさん、こんにちは。城島じょうしま警部は捜査に出ていますよ。ご覧の通りです」


 と両手を広げ、捜査一課は空であることをアピールした。


「ああ、そうか、昨日の首切り死体か」


 頭に手をやるクロさんこと黒崎くろさき警部。

 黒崎警部は組織犯罪対策課第一係に所属する刑事だ。要はヤクザ相手のお巡りさんだ。黒崎警部が呼んだ淳さんこと捜査一課の城島淳一じゅんいち警部とは深い付き合いで、理真や私のことも知っている。その職務上、組対(組織犯罪対策課)が理真の手を借りることはほとんどないが。


「どうかしたんですかクロさん?」丸柴刑事が訊くと、

「ああ、少し人手を借りようかと思ったんだが、そうか、一課も忙しいな」

「何かあったんですか?」

「ああ、ちょっときな臭い話でな。ロシアンマフィアが新潟に上陸したとかしていないだとかの噂があるんだよ」

「ロシアンマフィア?」

「ああ、それで龍神会りゅうじんかいとモメてるなんて話も出て来てな。水面下では一触即発状態なんじゃないかとか」

「龍神会って、地元の暴力団ですね」

「ああ、だから組対一、二係揃っての捜査だよ。龍神会のやつら捜査一課の刑事にも世話になってるやつが多いだろうから、詳しい刑事を何人か借りようと思ってたんだが。じゃ、淳さんによろしく」


 黒崎警部は私たちに手を挙げて去っていった。


「ロシアンマフィア? 何だか凄いね」


 私の言葉に、理真は冷房のスイッチを切りながら、


「そうだね。私の扱う事件とはジャンルが違うって感じだね」


 理真も丸柴刑事も、黒崎警部のことはクロさんと呼んでいる。フランクな呼び方だが、本人がそのほうがいいと言っているのだ。城島警部に比べて若いし、兄貴的な親しみを持てる人物のため、この呼び名ははまっていると思う。私もクロさんて呼んでるよ。


「クロさん、普段はあんなだけど、暴力団に対すると凄いのよ」


 丸柴刑事は笑いながら言ったが、……うーん、想像がつかない。

 私も組対の刑事は何人か見たことはあるが、誰も彼も「どっちが本職?」と思ってしまうようないかつい見た目の方たちばかりだった。ああでなければ組対の刑事は務まらないのかもしれない。温厚でいつもニコニコしているクロさんにあの猛者どもをまとめられるのかと、訝しんだくらいだ。

 そんなことを考えていた私の表情を読んだのか、理真が、


「クロさんがあんな感じになったのは、警部になってからだっていうよ。昔まだ一刑事だった頃は凄かったんだって」


 と追加情報を教えてくれた。さすが、警察のことは私よりも断然知っている。


「クロさんところも大変だけど、捜査一課も忙しいからね。じゃ、理真、由宇ちゃん、また新情報が入ったら連絡するわ」

「DNA鑑定の結果を早く知りたいね」

「そうね。じゃ、また」


 言い残して丸柴刑事は部屋を出た。


「さてと、私たちも帰ろうか」


 私はアイスコーヒーの紙コップをゴミ箱に捨てた。


「由宇、絵留えるちゃんのところ寄っていこうか」

「科捜研? 仕事の邪魔しちゃ悪いよ」

「発破かける意味で」

「やめときなって。絵留ちゃん仕事で忙しいから、多分相手してもらえないよ」

「うーん、そうだね。仕方ない、大人しく帰るとするか。いや、帰ったらまたクーラーの世話になっちゃうな。昨日みたいにどこかで涼んで帰ろう」


 さし当たって本職の作家としての仕事も抱えていない理真は暢気なものだ。この余裕を捜査一課、組対、科捜研にも分けてあげたい。

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