吸わないんですか?

奈名瀬

吸わないんですか?

 恋人とのお気に入りの距離感が私にはある。

 ぴんっと手を伸ばして、指先が触れるか触れないかの距離。

 私は、この距離感がとても気に入っていた。


 何故なら――


「けほけっほ」


 ――あんまり近いと、私は彼の煙草の煙でむせるのだ。


 私は、お気に入りの距離を空けて彼と並んで立っていた。

 けど、風向きが変わり、私を避けて漂っていた煙が、急にこちらへと流れ込んできたのだ。

 すると、私の体は鼻や喉をひっかくようにくすぐる煙を追い出そうと咳き込み始める。

 そんな私の様子を見て、彼――久瀬くぜさんは「まだ慣れないか?」と、少し寂しそうに笑った。


「慣れませんよ、こんな匂い」


 久瀬さんの口元を離れた指先の煙草に恨めしい視線を送りながら言うと、彼は「そうか」と続ける。

 そして、また口元へと煙草を添わせた。

 なんだか、その様子を見て『煙草に彼の唇を奪われた』と、感じる私は変なのかな?

 そんな、もやっとした気持ちを胸の中にくすぶらせながら私は口を開いた。


「ねぇ、久瀬さん。もっと甘い匂いのやつ吸ってくださいよ。そういうのもあるんでしょ? お菓子みたいな甘い匂いのやつ。友達が吸ってましたよ。あれなら私も多少我慢できそうです」


 私は以前女友達が吸っていた名前も知らない甘い匂いの煙草を話題に挙げた。

 あの時は甘いクリームを鼻先に押し付けられたような気にはなったけど、不思議とむせなかったんだ。

 だから、そういうのを吸ってくれれば、この距離だって……もっと縮まるかもしれない。

 そう、思ったんだけど。


「男友達?」


 私の話を聴く時、この人はどこに重点を置いているんだろう。

 久瀬さんは、全然話題と関係ない所を気にしていた。


「友達は女の子ですよ……」


 私が呆れながら答えると、久瀬さんはほっとしたような眼差しを向けて「ならいい」と、言って私の頭を撫でる。

 この人が頭を撫でたりしてくるタイミングはいつもよくわからなかった。

 今だって、別に褒められるようなことをした覚えはないのに。

 と、そんなことを考え出した時、ふと話が逸れはじめていることに気付いた。


「じゃなくて! 話逸らさないでください。煙草、もっと甘い匂いの吸ってくださいよ」


 拗ねる様にも、ねだる様にも私は声を発する。

 すると、彼は撫でる手をぴたりと止めて、ずいっと私の顔を覗き込んだ。


「あのなあ、そう言うけど甘い匂いだろうがなんだろうが体に悪いんだぞ?」


 諭すように言う彼の表情はまさしく『年上』そのものだ。

 けど。


「それがわかってるのに何で吸うんですか?」


 言ってることにはまるで説得力がない。

 私が指摘すると、久瀬さんはいきなり私の髪をくしゃくしゃと乱雑に撫で始めた。

 そして。


「悪いな。それとこれとは別なの」


 そう言って、得意げな顔で笑って見せるんだ。


「もうっ!」


 どこかにぶつけてしまいたい想いが短い声になって口からもれる。

 私はくしゃくしゃになった髪を庇うように手で覆って、彼と彼の煙草の煙から一旦逃げるために走り出した。


 ◆


 後日。私達は二人で出掛けることになった、けど。

 私が待ち合わせ場所に着くとちょうど久瀬さんが一服しようとしている所だった。


 私は別に、彼に無理に煙草をやめてほしいとは思っていない。

 体に悪いし、私自身は匂いを嗅ぐだけでむせてしまうくらい苦手だけど。

 できるだけお互いを尊重し合いたいのだ。


 だから、私は久瀬さんのすぐ傍まで歩いて行き――


「いいですよ。吸っちゃってください」


 ――そんな第一声を放った。

 そして、私はお気に入りの距離を空ける。

 けど、予想外に彼は手にしていたライターをポケットに閉まった。


「吸わないんですか?」


 戸惑いながら私が問い掛けると、久瀬さんは私との距離を詰め、煙草を胸ポケットに仕舞いながら語りかけてくる。


「だってさ、吸うと君が寄って来なくなるだろ?」


 そう、久瀬さんが言い終わる頃には、煙草の姿は見えなくなっていた。


 私は別に、無理矢理彼に煙草をやめてほしいとは思っていない。

 けど、私のために彼が煙草を吸わない時間がある。

 これは、なかなかに悪くない気分だった。

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吸わないんですか? 奈名瀬 @nanase-tomoya

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