8.伊織、次第に冷静になり時計を見る
学校へと戻ってきた
階段を上がって二階。L字に折れた廊下を曲がる。慣れた足取りで進む悠とキョウ。二人に支えられるようにしながら、伊織は突き当りのドアの前に立った。扉の脇に設えられたプレートには――。
(……理事長室?)
悠はドアをノックし、返事を待たずにドアを開けながら声を掛ける。
「ハルでーす。キョウも一緒です。相原くんを連れてきましたー」
悠に引っ張られ、キョウに押されるようにして室内に入り、二人に挟まれてドアを背にして立った。正面の大きな机の奥に、若い男が腕を組んで座っている。
(理事長室の、その席にいるっていうことは……この人が、理事長……?)
そんな身分の人とこれまで直接会ったことがなかったので分からないが、「学園理事長」という名から想像する人物像よりははるかに若い。
理事長らしき男は、眉間にシワを寄せてこちらをじっと見つめ――そして苦々しげに口を開いた。
「……お前たちは……」
「待ってクスミ! 言いたいことは分かってる!」
悠が右手を上げて制する。
伊織の両脇で、悠とキョウは「気をつけ」の姿勢をとった。
「自販機を破壊したことは、反省してる」
「アスファルト粉々にしたことも反省してる」
「ごめんなさい」
揃って軽く頭を下げた二人。それを見て、クスミと呼ばれた男はますます苦い顔になったが、すぐに諦めたように大きなため息をつき。
「……よし。まあ座りなさい」
そう言って、入り口と机の間にある応接セットを視線で示すと、受話器をとって電話を掛けだす。
「カゲヤマさん? クスミです。悪いけどコーヒーを四つ持ってきてもらえませんか? いえ、急ぎません。よろしく」
柔らかい口調でそう言って電話を切ると、立ち上がり机を離れる。背が高く、スラリと足が長く、いかにもエリート然とした整った顔立ちに落ち着いた眼差し。
導かれ、伊織は室内に入って左側の一人掛けのソファに腰掛ける。向かいの長いソファに、悠とキョウ。理事長らしい若い男性は、大きな執務机の前に置かれたオットマンに腰を下ろした。
次第に冷静になってきた伊織は、室内を見渡した。ゆったりとした応接セットと大きな木製の執務机が置かれていても、まだ広さを感じさせる空間。
伊織の背後と執務机の向こうに、大きな窓。
反対側の壁には一面に本棚が据え付けられ、たくさんの本が整然と並んでいる。ざっと見て、洋書も多い。本棚は、壁の途中で途切れ、棚と棚の間にひとつ扉があった。向こう側にも一部屋あるのだろうか。
「さて、と。何から始めようか……」
先ほどの不機嫌そうな表情はすでに消え、顎に手を当ててそう言うと、クスミは伊織に正面から向き合うように体をずらした。
目が合うと、意識せず背筋が伸びる。威圧感があるわけではないが、なんとなくきちんとしなければならないような気持ちにさせられる。部屋の名前を見て漠然と「偉い人っぽい」と思ったためだけではない。彼の持っている雰囲気がそうさせるのだろう。
「まずは。
そう言って、名刺を差し出される。
言われた通りの肩書きと名前。確認するように顔を上げると、柔らかい微笑みを浮かべている楠見と目が合った。
「えっと……副理事長……先生?」
「あはは、先生は要りません。そこの二人なんか『さん』すら付けない。楠見でいいよ」
「……はあ……」
「それと、そんなに
笑顔で言われ、少しだけ背筋を緩めるが、かといってどういう態度でいたらいいのか分からない。向かいに座っている悠とキョウを見れば、完全にくつろいでいるのだが……。
(よく考えてみると、副理事長を呼び捨てにタメ口で話すこの二人って、いったいなんなんだろう……)
「突然のことでびっくりしたね。怪我はなかったかな?」
楠見は膝に肘を置き、伊織に向かって少し身を乗り出した。
「はあ」
「うん。まずは無事で良かった――何が起きたのかさっぱり分からないと思うけど、こちらもまだ状況がよく分かってないんだ。分かる範囲で説明するよ」
「はあ……ハイ」
「相原くんだね。一年七組の」
「はあ……は? いえ、違います」
「うん。……え?」
楠見が笑顔のまま固まった。キョウも目を見開いている。悠だけは何か事情が分かっている様子で、軽く肩を竦めた。
「『1-7』の相原
愕然と聞くキョウ。それを横目で見ながら、悠は肘掛に頬杖をついてため息混じりに、
「ああキョウ。それね。言おうと思ってたんだけどね、別人なんだよね……彼はうちのクラスの相原伊織くんだよ」
「えええええ?」
叫んだキョウに、楠見は腹の底から息を吐き出して、右手で額を押さえた。
「人違い……だと? キョウ! どういうことだ?」
「え! だって! ええ? 住所がだって……え、じゃ何で付け狙われてたんだ?」
「ああ、それは俺も不思議に思ったんだ」
悠が一人だけ落ち着いた様子で口を挟んだ。
「ハルお前知ってたのかよ!」
「違うよ、まさか人違いなんて、キョウがそんなミスすると思わないじゃない。七組にも『相原くん』って人がいるのかと思ったんだ。だいたいあのリストに知ってる名前が載ってたら、その時点で気づくよ」
「あれ? だって、お前と同じクラスのヤツって……言わなかったっけ?」
「それ聞かれたのはついさっきだし、同じクラスなのは相原伊織くんであって相原哲也くんではないし、そもそも俺は七組じゃないよ、五組だよ……」
「へ?」
呆けたキョウに、信じられない、というように悠は大きく肩を揺すって息をついた。
「さっき、放課後になってキョウが相原くんを監視してるのを見て、おかしいなって思ったんだけど」
「じゃあ言えよそのときー!」
「だけど、誰かにつけられてたことは確かだし。その上つけてくるのは『サイ』だし。ひとまずは片付けてからと思ってさ」
「マジかー! えぇ? 人違いー?」
絶望的な声を上げるキョウの横で、悠がゆっくり首を振る。
「ごめんね、相原くん。まさかね、こいつがこんな初歩的なミスをするとは思わなかったからね、俺も……早めに確認しておけば良かったよね、うん、俺が悪かったよ」
反対側で、楠見も肩を落とした体勢で伊織に力のない目を向ける。
「すまない。俺もおかしいなと思ったんだ、相原哲也という名前は在校生名簿になかったはずだからね。ところがキョウが『彼の住所を訪ねて本人に会った』なんて言うから、後でもう一度確認しようと思って、失念していた……俺のミスだ」
「いや、俺が一言キョウに『うちのクラスの相原くんじゃないよね』って聞けば良かったんだよ」
「違うな、俺があの時すぐに名簿を確認してさえいれば……」
「お前らやめろー!」
楠見はキョウを無視して、再び伊織に向き直る。
「ああ、ごめんね、相原くん。キョウはね、とてもいい仕事をするんだけど、たまに信じられないポカをやらかすんだよね。一応フォローしておくと、仕事人としては優秀なんだよ、だけどどうも人間として足りない部分があるよね」
「フォローになってねえよ!」
吠えるキョウに、悠がもはや哀れみと言っていいような優しい目を向ける。
「大丈夫。俺たち、そんなキョウが好きだよ」
「ぜんっぜん嬉しくねえ!」
キョウは体ごとそっぽを向いてしまった。ソファの肘掛に頬杖をついて、拗ねている。
伊織は少々かわいそうなような、申し訳ないような気持ちになって、楠見と悠を交互に見ながら申告した。
「あのぅ、相原哲也だったら、俺の従兄弟がそういう名前ですけど……同姓同名でなければですけど……」
「……え?」
今度は悠と楠見が同時に目を丸くする。キョウも、肘掛に片手を置いたままこちらを振り向く。
「ここの高校の卒業生です。こないだまで今の俺の部屋にいたんですけど、出て行って、俺が先週そこに引っ越してきて……あ、従兄弟も俺も家は神奈川で、ちょっと遠くて」
伊織を除く三人は、素早く視線を合わせる。そして、オットマンを蹴って楠見が立ち上がり、執務机に向かった。
「相原くん、哲也くんとは何歳違い?」
「六歳違いです」
「この学校にいたのは高校から? 大学へは?」
「え? ……えっと、中学は地元の公立だったと思いますけど……大学に進学はしなかったみたいです」
楠見が執務机の引き出しから、一枚の紙を取り出す。
「なんてこった……六年前の名簿なのか……?」
その時、ドアをノックする音が聞こえた。「どうぞ」という楠見の言葉を受けてドアが開き、背の高いオフィススーツ姿の女性がトレイを持って入室してくる。
「失礼いたします。コーヒーをお持ちしました」
「ああ、ありがとう」
女性にしては低めの声で、「失礼します」ともう一度言い、テーブルにコーヒーを並べ始める。ソツのない給仕。引っつめにまとめた髪に、大きな黒縁メガネ。美人だが、その顔には表情がなく、身のこなしにもまったく隙がない。正直ちょっと怖い。
「ああ、秘書の
「はい……ありがとうございます」
半分は楠見に向けて、半分は影山という女性秘書に向けて言うと、秘書は無表情に軽く会釈を返した。
「影山さん、ちょうど良かった。六年前の、高校一、二年生の学生名簿を準備してもらえまえせんか?」
「かしこまりました。すぐにお持ちします」
お辞儀をして出て行く影山を見送り、楠見は小さく息をついた。
「ヒットしないわけだ。俺の端末からは、在校生と三年前までの卒業生しか見られない。それ以前の分は閲覧制限が掛かっていて、決まった端末からでないとアクセスできないんだ。事務棟の中に一台あるから、すぐに届くよ」
そう言って楠見は紙を片手にオットマンに戻ってくる。
言葉通り、コーヒーを飲んでいるうちに影山は再び書類を手にやってきた。楠見は影山を待たせたまま、先ほど引き出しから出してきた紙と、影山が持ってきた書類を突き合わせ、息を呑む。
「いるな……『1-1』、『1-3』……と、ちょっと待って」
名簿にマーカーで印を付けて、影山に戻すと、
「影山さん、この印をつけた学生の在校時の記録を手配してください」
「かしこまりました」
影山は一礼し、理事長室を後にする。
「けど、六年前の高校一、二年の十四人が、誰も
真剣な目をし、顎に手を当てて楠見がつぶやく。
「うーん……大学に進学したら、まだいるはずだもんね」
「ああ。九割方はそのまま持ち上がりで大学に行っているはずなんだ。よほどの問題がない限りは、学校側は進学を認めるし、他大学に行く学生もそれほど多くはない……哲也くんは、高校卒業後はどうしているのかな?」
「それが……あまり会ったことがなくて、よく分からないんです……フリーターみたいなもんだって聞いてるんですけど」
楠見は訝しげに眉を寄せた。
「彼がきみの今いるアパートを出てどこに引っ越したか、聞いていないかな?」
「はい……従兄弟とはあまり交流がなかったし……」
「ふぅむ」と小さく唸って楠見は伊織の言葉に頷くと、悠とキョウに向けて。「ともかくこれで、少なくとも彼らの卒業後の進路まではすぐに分かるだろう。あとは『フルイチさん』に、現在の彼らの行方を追ってもらおうか。それで――」
気分を変えるように言って、コーヒーを一口飲み、カップを置くと改めて伊織へと視線を向ける。
「じゃあどうしてここにいる相原伊織くんがつけられていたのか――っていう話になるんだが」
「人違いなんじゃねえの?」
「あのさあ……キョウじゃないんだからさあ……」
「うるせえ」
「まあ待て待て。その前にまず、先ほどのいきさつをもう少し詳しく聞かせてくれ」
まだ拗ねているキョウは相槌を打つ程度で、主に悠が、先ほど伊織が正門を出てからここに来るまでに起きた出来事を説明する。伊織としては、整理された話を聞いて分かった部分が多少あるものの、改めて感じた疑問の方が増えていく一方だ。
まず第一に、俺を監視してたって? 金曜日の件と今日の件は繋がっている? それに、そもそも、この人たちってなんなんだろう……。驚くことの連続で頭の回転が鈍っていたが、コーヒーなど飲んで気持ちが落ち着いてみれば、何もかもすべてがおかしい。
だいたい俺はどうして今ここにいるんだ?
そんな疑問から解決するとなると――いやしかし、解決してもらわなければ眠れなくなりそうなのだが――伊織はチラリと時計を見る。午後六時を回ったところだが、この話は長くなりそうだな、と覚悟した。
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