7.伊織、驚愕の連続に見舞われる
白いものが粉々になって頭上に降ってくるのが、スローモーションのように見えた。
(ガラス――?)
思考を停止した頭の片隅に、そんな言葉が浮かぶ。降りかかる凶器に足が竦み、体を庇うことさえ忘れ
同時に足を止め、
(――が、街灯……? ……が、倒れたっ?)
「あっぶねえなぁ……」
呆然と立ち竦む伊織の横で、キョウが特に緊張感のない声でそうつぶやく。悠も低い声を出す。
「やる気満々だね。……相手になるか」
「しょうがねえな」
「キョウ、ここで止める。相原くんをよろしく。いざとなったら『タイマ』を使え」
「分かった――相原、来い!」
後ろに向き直って大きく跳躍する悠。同時に、キョウが伊織の腕を引っ張って走り出した。
(って! ええっ? 委員長いま、ものすごいジャンプしましたよね?)
悠の向こうに、二人の男。金曜日の男たちに似た風体。スーツを着込み、顔を隠すようにサングラスをしている。
足がもつれそうになるのを必死に動かしながら、角を曲がろうとする瞬間に。伊織は、さらに信じられない光景を目の当たりにした。
悠と男たちの間、道端にあった自動販売機がゆっくりと持ち上がり、悠のほうへと移動し始めたかと思うと。爆発でも起きたかのような大きな音を立てて、それが弾けたのだ。
「は……はああ?」
「いいから早く来い!」
キョウに引っ張られて――むしろ引きずられるようにして、細道を走る。
「あ、ああああの、あの」
舌を噛みそうになりながら、状況を確認しようと、
「あの、いったい何が……」
「後で説明してやるから、とりあえず走れ」
「ええええっと、いいい委員長は……」
「ハルは大丈夫だ。相手の男たちの心配してやれ」
それきり、伊織は口をきくこともままならなくなり、キョウに引っ張られながら足を動かすことに集中する。体育の授業の百メートル走じゃない。ゴールが見えない。全速力でこんなに走ったのは初めて――いや、金曜日が初めてで、たかだか三日後の今日で二度目だ。どうなっているんだ?
何度目かの角に差し掛かったところで、キョウが唐突に足を止めた。背中にぶつかりそうになり、危うく伊織も立ち止まる。
「……まだいやがったか……」
剣呑そうにつぶやくキョウの前方に、先ほどと同じような格好の、しかし別の二人組みが立ちふさがっていた。
「こっちだ!」
また手首を引っ張られ、二人組みのいる前方を避けて小道に入る。追いかけてくる気配を背後に感じた。さらに二、三度角を曲がると五十メートルほど前方に壁が見え、伊織はハッとなる。また、袋小路だ。
が、キョウは怯むことなく壁に向かって走り、突き当たりに達すると伊織を壁のほうに押しやって後ろに向き直った。
「相原、壁に背中くっつけて、絶対に動くなよ。――すぐに済ませるから」
言いながら数歩、来た道を戻って伊織から距離を取る。
たとえ動けと言われたところで、動けない。もう限界だ。金曜日も散々走り回ったが、電柱が倒れたり自販機が爆発したりはしなかった。いったい何が起こっているのかさっぱり分からない。頭の中が混乱して目の前の状況を把握することすらできない。
追ってきた二人が、角を曲がって姿を現した。伊織とキョウがすでに逃げる姿勢をとっていないのを見て、言葉もなく歩を緩める。男たちが何かを言いかけたように見えた、その瞬間だった。
伊織は、驚愕に目を見開いた。
伊織に背を向けているキョウの右手に、長い細身の刀が握られていたのだ。
(え、……なんで、どこから)
悠とキョウに肩を叩かれてから今までのことを、めまぐるしく思い出す。彼はそんなものを持っていただろうか。いや、なかった。どうして? いったいどこから取り出した?
背後で大混乱を来たす伊織には構わず、キョウは刀を持った右手を上げ、地面と水平に、男たちに見せ付けるように刀を前に出す。
「神剣『タイマ』だ」
静かな声で、キョウが言う。
「『タイマ』だと……」
男の一人が、動揺したような声を上げた。
「知ってんなら話が早い」
キョウの口調は低く、冷ややかだった。
「引くなら見逃してやる。やるなら――あんたたちの能力を斬る」
「ちっ」と男の一人が舌打ちをした瞬間、キョウの掲げている刀の前で何かが小さく光り、弾けるような鋭い音が鳴った。
「やんのかよ……」キョウはため息をつく。「言っとくけど、てめえらじゃ相手になんねえよ?」
言った直後、キョウと男たちの間にある路面のアスファルトが音を立てて持ち上がった。めりめりと、ゆっくり両脇の塀の高さまで持ち上がったそれはキョウの身に襲いかかろうとするかに見えたが、次の瞬間に砕け散る。粉々になった
その石礫の壁をキョウが、金曜日に見せたのと同じ驚くべき跳躍力で飛び越え、バラバラと落ちる石礫と一緒に男の一人に斬りかかった。
左の男を袈裟懸けに斬り下げながら着地したキョウは、一旦腰を落とし、そのままもう一人に刃を向ける。斬られた男は膝を折って地面に崩れた。
「まだやる?」
中腰の体勢で、キョウはもう一人へと鋭い視線を向ける。
男は一歩、後ずさった。そして路上に倒れた連れを一瞥し、慎重な口調で。
「……我々は、彼と話がしたいだけだ」
「だったらさせてやるよ」
キョウは今にも斬りかかりそうな体勢で刃を男に向けたまま、視線で背後の伊織を示す。
「さっさと済ませな」
「今ここでは駄目だ。ほかの者に聞かれるわけには」
「なんの話だ」
「言えない。彼の身を、一時預かりたい」
「……んなもん」不快げに、キョウは眉根を寄せる。「そうですか、じゃあどうぞって言えるかっ」
キョウが刀を振り上げる。男へと刃を向けたその体勢で。
「見逃してやるから一旦退け」
「くっ」と男が悔しそうに喉を鳴らすのが聞こえた。そして、男は片手をキョウへと向かって持ち上げる。
次の瞬間。キョウが素早く刀を水平にかざす。その刃の前で、先ほどと同じようにパリっという小さな音が鳴った。
キョウの刀が、見えない何かを受け止めたようにほんの一瞬動きを止めて。小さく舌打ちをするや、キョウはそのまま力で押し切るようにして、刀を横薙ぎに払う。男は後ろに弾かれたように吹っ飛び、地面に横たわった。
(…………?)
一連の出来事を目を逸らす間もなく呆然と見守った伊織は、震える膝を保つことができなくなり、壁に背をもたれたままズルズルと地面に崩れていた。
汗が目に入り、痛みに目をしばたたかせる。滲んだ視界で、ぼんやりと、数十メートル先に立つキョウがこちらを振り返るのが見えた。
「相原、無事か?」
そんな言葉を投げかけてくる。
(無事……?)
あぁ、怪我がないっていう意味なら……そう頭の片隅で思ったが、返事ができない。声が出ない。
「キョウ!」
小さく足音がして、角から悠が姿を現した。曲がり角で足を止めて、あたりの惨状を確認するように周囲を見回す悠。
「やっぱり、まだ他にもいたのか……こっちも派手にやったね」
二、三メートルにわたってアスファルトの剥がれた道路と、倒れている二人の男。
「引かないから、斬っちまった」
キョウが軽く肩を竦めた。
「まあ、仕方ない。とりあえず学校に戻って、クスミに――」
そう言いかけたところで、悠は突き当たりでしゃがみ込んで震えている伊織に気づいたようだ。
「相原くん、大丈夫?」
駆け寄ってくる悠の後に、キョウが続く。悠はしゃがんで伊織と目の高さを合わせた。キョウは後方、少し離れたところからこちらを見ている。その手には、さっき男たちを斬ったはずの刀が、ない。
「えぇっと、びっくりしたよね……怪我はないね?」
頷いて見せようとしたが、ガクガクと震えているようにしか見えなかったかもしれない。
「ごめんね、ちゃんと説明するから。とりあえず……立てる?」
「た、た、た……」
ダメだ――言葉が出ない。そんな伊織の様子に、悠は小さくため息をついて、キョウと目を合わせる。
「しょうがないね、タクシー拾って戻ろうか」
「お前、相原連れて先戻れば? 俺はここに残ろうか? こいつら目ぇ覚ましたらさ、なんか聞けるかも」
「いや――人が来る前に離れたほうがいいだろう。相原くんもこんなんだし……相原くん、まだ少し付き合える? すぐそこの大通りでタクシー拾うから、学校に戻って会って欲しい人がいるんだ。まあ、このまま帰るのも落ち着かないだろうし……」
そう言って、伊織のカバンを拾い上げ、左脇から手を回して立ち上がらせようとする。
「キョウ、そっち頼むよ」
「……ああ」
キョウは少しためらいがちに歩み寄ってくると、悠の反対側から支え、二人して伊織を立たせた。
「腰が抜けた」というのは、この状態のことを言うのだろうか。伊織はかなり情けない気分になっていたが、自力で立ち上がることができず、両側から担がれている状態になる。せめてどうにか足を動かそうとするが、震えて前に出すのがやっとのことで、ほとんど引きずられる形になった。
倒れている男の横を通り過ぎる瞬間、新たな緊張が喉元までこみ上げてきた伊織だったが、悠が察したように、
「相原くん、大丈夫、ちょっと気を失ってるだけだから……それも後で説明するからね」
優しく言われ、恐る恐る倒れている男たちを横目で見る。
一見して、男たちは息をしているのかいないのかよく分からない。斬られたと思ったが、血は出ていなかった。なんだったんだろう……見間違いか、目の錯覚か……それでなければ……?
悠の言葉通り、路地を二つほど曲がるとすぐに大通りに出た。キョウがタクシーを待って、ガードレールに手を置き車道に身を乗り出す。その足元に呆然としゃがみ込んでいる伊織の肩を支えながら、悠は一件電話を済ませた。
それはたった今、伊織の身に起きた出来事を説明しているようでいて、けれどその内容は伊織の頭にはさっぱり入ってこなかった。
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